【感想】歴史のIF

本郷和人 / 扶桑社BOOKS新書
(9件のレビュー)

総合評価:

平均 3.6
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ブクログレビュー

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  • 近藤真弓

    近藤真弓

    歴史にifはないというけれど。
    歴史好きにとっては、ifを考えることほど面白いことはない。
    と、考えていくと今のこの現状は、偶然画重なった結果?なわけで。
    そう考えると楽しい!

    投稿日:2023.09.27

  • かおるひめ

    かおるひめ

    歴史学者がその視点から考え、想定する、歴史のIF(もしも)。
    A、鎌倉時代のIF(もしも)  B、室町時代のIF(もしも)
    C、戦国時代のIF(もしも)  D、関ヶ原の戦いのIF(もしも)

    日本史、特に武士の時代での転換期に、こうなっていたら?
    歴史学者が時代背景を解き明かしながら考察するIF(もしも)。
    鎌倉時代は、石橋山、比企、元寇、後二条天皇。
    室町時代は、足利尊氏と後醍醐天皇、足利義満、畠山持国。
    戦国時代は、「あの人」たちの生死、織田信忠、豊臣秀頼。
    関ケ原では、島津家、上杉家、毛利輝元。家康と三成も。
    IF(もしも)があったらこうなっていたのでは?の結論の前に、
    時代背景や人物、事情等を解き明かしていくのが面白い。
    天皇と朝廷の存在意義や京都と鎌倉の関係。
    何故、南北朝時代が57年間も続いたのか?
    京と地方の違いが戦国大名、戦国時代に繋がること等、
    分かり易く丁寧な語り口で紐解いてゆく。
    なるほど、IF(もしも)があっても時代の流れには逆らえないのか。
    でも、関ケ原で島津や毛利がIF(もしも)で動いていたら、
    流れが変わっていたかもしれない。
    む~、応仁の乱の東軍と西軍については、
    その視点に驚かされてしまった。義満が一因とは、刮目。
    一族、親族、親子や兄弟の諍いが戦乱を生み出している感も。
    後継者問題と家を継続するための、政権のシステムの構築の大事さ。
    カリスマの後継はIF(もしも)があっても大変なのね。
    生死がIF(もしも)に繋がる場合も多そうな・・・。
    早く生まれていたら・・・早く死んだら・・・長生きしたら・・・。
    取り敢えず健康は大事だなぁ、なんて思ってしまいました。
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    投稿日:2022.11.02

  • cinejazz0906

    cinejazz0906

    「歴史にIF(もしも)はない、と考えることは意味の無いことか?」 些細な出来事や時の権力者の思考と行動を分析し 「もしあの時、こうだったら、後の歴史はどう変わったか」を想定した、興味深々の日本史への招待本です。 「鎌倉時代のIF」の章は、大河ドラマ<鎌倉殿の13人>の視聴に大へん参考になり、歴史の推移とIFが楽しめます。「石橋山で梶原景時が〝源頼朝を見つけたぞ!〟と叫んでいたら?」「頼朝の挙兵は〝平家vs源氏〟ではなく在地領主らの独立戦争だった?」「〝元寇〟は、鎌倉幕府の武士たちの非礼が原因?」などなど。続きを読む

    投稿日:2022.04.16

  • lonelyrunner

    lonelyrunner

    このレビューはネタバレを含みます

    主に武士の時代の歴史での「もしも」。
    話自体も面白かったが、歴史的事実として知らなかったこともあり興味深かった。
    なにより、幕府の成立などは歴史的背景から起こっており、もし誰か違う人が台頭していても、成立時期等は違うかもしれないが、ある程度同じような経過をたどったのではないかとの考察は興味深かった。

    レビューの続きを読む

    投稿日:2021.11.26

  • yasz

    yasz

    人は毎日、何らかの決断をして生きていると思いますが、正解があると考えられている判断と違って、決断は他の選択肢も十分にあった可能性があると私は思っています。

    そんな私にとって、数年前から本が出版されるたびに興味深く読んできたこの本の著者である本郷氏が数ヶ月前(2020.111)に書かれた本です。おそらく年末辺りに読んだ本ですが、レビューを書き忘れていました。

    以下は気になったポイントです。

    ・なぜ源頼朝が関東という土地で地盤を強化できたのか、朝廷や平家から忘れ去られた関東で、自分たちの所領を一生懸命治める有力な武士たち(=在地領主)は、自分たちの土地を守ってくれるリーダーのような存在を探していた。彼らが頼朝と出会い、彼をリーダとして仰ぐことで鎌倉幕府の成立へと尽力した(p34)彼らは元は平家一門であったが、平家本流や朝廷との縁が切れてしまえば、権威ある立場ではなくなる。だから彼らが自分の土地を持つと「平」という姓を名乗らず、その土地の名前を自分の「苗字」として名乗った(p36)

    ・源平の戦いは、在地領主にとっては朝廷からの支配から逃れ、自分たちの土地を守るための独立戦争であった。源頼朝に味方して戦うというよりは、自分たちの存在意義を認めtもらうために戦っていた(p36)

    ・御家人は主人のために命懸けで戦場に出て戦い、奉公し、その代わりに御恩(御家人たちが所有している土地の所有権を守る)を受け取ることができた(p44)鎌倉幕府の成立は今では1185年だと教えている、源頼朝が鎌倉殿として全国に守護を置き、各地の荘園に地頭を置く権利を朝廷から認められた年である(p46)

    ・もし頼朝が石橋山で戦死していたら、その代わりの尊い人の元に馳せ参じていただろう、候補としては、のちに室町幕府を開いた足利氏、上野国で有力だった新田氏、常陸国の佐竹氏などが考えられる(p49)歴史というものは、上に立つ人間が変わっても、時代の流れはあまり大きく変わらない可能性が高い(p50)

    ・吾妻鏡は頼家に問題があったようい書かれているが、吾妻鏡の書き方こそが鎌倉幕府の正史としては間違っている。もっとも吾妻鏡は、源氏の将軍家を滅した北条家が自分たちに正当性があることを歴史的に証明するために遺した書物であるが(p56)

    ・自分の息子を自分の父に殺されるなんて現代感覚ではダメージを受けるだろうが、当時は身分の高い女性は自分で子育てもせず、母乳も与えない。北条政子もそうであったので、頼家が殺されても、仕方ないと思っていた可能性もある(p63)

    ・本来ならば戦争はリーダーが現地へ行って、指揮をするのが当たり前である。明治時代、日清戦争が怒った時は最高統帥である明治天皇が広島まで行って大本営を築いた。従っって、鎌倉幕府も文永の役の時には、北条時宗自身が鎌倉から北九州へ駆けつけるのが筋である。もしくは北条一門の身内を司令官として送り込むべき。これは、モンゴルが攻めてきた時の事態を何も考えていなかったということである(p83)

    ・元寇の後、モンゴル帝国は徐々に衰退していくが、その大きな要因になったのがペストの感染であった。欧州で大流行したペストの病原菌が中国大陸に持ち込まれ中国でも大流行し、モンゴル帝国は倒れた(p92)

    ・後二条天皇が生き続け、後醍醐天皇が皇位を継がなければ、朝廷と幕府の関係はもっと穏やかに推移していた。日本の天皇と武士政権のあり方を大きく方向づけた「後二条天皇の早逝」こそが鎌倉時代以降の歴史に大きな影響を与えた出来事と言える(p107)

    ・後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏は、鎌倉を攻めるために京都を出発するがその前に「自分を征夷大将軍に任命してほしい」とお願いした、この時代、武士との間に主従関係を結ぶには、征夷大将軍になるのが一番確実な方法であったから。源実朝が亡くなって4代目の藤原頼経以降の鎌倉幕府は、ほぼ形だけの存在であったが、将軍という土地という保証する権威の存在は必要であった(p113)

    ・室町幕府成立も、鎌倉幕府成立と同様に考えると、尊氏がリーダーとして活躍した、幕府の憲法ともいうべき「建武式目」が制定された1336年ではないか(p127)

    ・頼朝が富士川の戦いに勝利して京都に行こうとした時、三浦・千葉・上総という在地領主は反対した、敵(=朝廷と繋がりを持つ源氏:佐竹氏、足利氏、新田氏、小笠原氏)を討って勝ち残る必要があるとのが理由である(p130)頼朝は、鎌倉幕府内でも自分に刃向かわずに味方した源氏の一文を一般の御家人よりも上に置いた。足利氏は特別な存在であった(p131)

    ・南北朝時代は、お互いが正面から戦うことがあれば、南朝はどうやっても勝つことができないが57年も続いた理由がある、それは足利幕府内で、軍事を担う兄の尊氏と、政治を担う弟の直義の間で争いが起こっていたから、尊氏は天皇・朝廷の権力を取り込もうとしたが、直義は朝廷とは別に政権を確立したかった(p149)

    ・応仁の乱(1467-1478)は足利義政の後継問題との味方が強いが、当時の人々は「畠山一家の乱」と呼んでいた、つまり発端を作ったのが「畠山持国」である。畠山家は、細川家・斯波家と並んで、三管領(=行政のトップ)と呼ばれている。(p165)

    ・応仁の乱の東軍は、細川家と細川の与党(赤松、京極などで足利義満と仲が良い)、西軍は主力部隊(山名、大内、土岐)は足利義満時代に冷遇されたという共通点がある(p172)

    ・京都室町の足利将軍家の他に、関東の鎌倉には、第二の将軍ともいうべき「関東公方」がいた、これは「鎌倉公方」とも呼ばれる。これを継ぐことができるのは、足利氏の血を引いている人だけである。関東公方は、京都の将軍家から、関東地方と東北地方を任せられるような形で、広大な地域を治めていた(p176)京都は「京都」鎌倉は「鄙(ひな)」と呼ばれていた。都に分類されるのは、中部地方、近畿地方、四国地方である。関東、東北、九州は鄙(ひな)である(p177)

    ・応仁の乱では都の大名ばかりが応仁の乱に巻き込まれたのか、室町時代には都の地域には、一国一人の守護大名が置かれていた。室町時代には、守護大名は「京都に常駐」することを求められ、自分の領地は代官に治めさせるのが一般的であった。特例で常駐を免除されていたのが、今川(駿府)と大内(周防・長門)今川は関東公方を、大内は博多(堺に次ぐ大きな港を持つ商業都市)を治めるため(p178)応仁の乱に参加した「都」の守護大名の大半は戦国大名になることを失敗した(p181)

    ・天下人となった秀吉は、丹羽長秀に感謝を伝えるため柴田勝家がかつで居城にしていた福井県あたりに100万石を超える領地を与えているが、長秀が亡くなった途端、世継ぎの長重には、加賀国の小松の城主(12万石)にした、蒲生氏郷は92万石であったが、世継ぎの秀行には宇都宮18万石(当初は2万石にしようとした)にした(p201)

    ・関ヶ原の戦いは、毛利輝元が大阪城を立てことで自分の首を絞めている、立花宗茂という戦上手がいて、毛利の大軍は無傷、堅牢な大阪城には豊臣秀頼がいるので、秀吉に取り立ててもらった大名たちは躊躇しただろう(p302)

    2021年3月20日作成
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    投稿日:2021.03.20

  • masazumi

    masazumi

    こういった歴史のIFは読み物として楽しいが、それを歴史学者が書いたことに意味があると思う。
    作家が書くと、単なる想像なので色々と膨らませて書けるので、読み物としては面白い一方トンデモ本になりがち。それが学者が書くと説得力が違う。
    世間の評価と、歴史学での評価の違いもあり、そういった違いを考えながら読むのも楽しい。歴史小説やドラマが好きな人も、学者の話は難しいと敬遠していた人にも楽しめるし、本書をきっかけにドラマとは違う文献に基づいた歴史のIFを楽しんだ上で、より深く歴史に親しめるとよい。ドラマはドラマとして史実を読み解くのも楽しいもの。その入り口には最適。
    続きを読む

    投稿日:2021.01.31

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