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入不二基義 / ちくま学芸文庫 (11件のレビュー)
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corpus
私の好みとしては本書の第6章がすこぶる良かった。デイヴィドソンについての本を最近読んだばかりのせいかもしれない。 ただ解説者の野矢茂樹さんが言っている通り、分岐の可能性もあったと思う。つまり、理解不…能なものが一つであることはできなくてゼロ個以上のどこかであるとも考えられる。物質を分割しても一種類の素粒子とは限らないように。 私は私がいなくても世界は存在していて、むしろ私が、いるのが邪魔だと思っていたこともあった。最近はどちらかというと、私なしではこの世界が存在しなくなるという方向に向かっていた。反復していくという発想はなくもなかったが、元気づけられたことは確かだ。 永井均さんがネッカーキューブが二通りに見えるが、こっちのほうが見やすいと言っていたのを思い出す。実在論か相対主義もそれと似ているように思えた。続きを読む
投稿日:2022.03.13
schopenhauer
哲学者入不二基義氏のデビュー作でありながら入手困難の状態が続いていた幻の名作が、ちくま学芸文庫に殿堂入りして帰ってきた。春秋社版を読み損ねていたわれわれファンにとっては待望の文庫化である。 「あらゆ…る真理は相対的である」という相対主義の考え方を、相対主義自身に適用するとどうなるか。相対主義もまた相対的にのみ真であるということになってしまい、自己論駁に陥るのではないか。 ここで「枠組み」という概念が重要になってくる。「Sは枠組みXにおいては真であり、枠組みYにおいては偽である」という主張が成り立つためには、枠組みXでも枠組みYでもない、両者を俯瞰する枠組みZが必要であろう。しかしその枠組みZが絶対的であるということは相対主義に反する。一方で枠組みZもまた相対的であるとするならば、落差は反復され枠組みは完結しない。 かくして相対化の徹底によって枠組みは無限に更新され蒸発する。だがそのような枠組みを超越した観点が一つだけ残る。それは「私たち」である。いかなる枠組みもそれが枠組みとして認知される以上は、それを認知する「私たち」がいなければならない。枠組みの外延を国境線に例えるならば、「私たち」の外延は無限に後退する地平線になぞらえることができる。 そのような「私たち」にも、しかし外部が存在する可能性を入不二は指摘する。それはもはや地平線から離れた宇宙のような最果ての地、「ない」よりもっと「ない」こと、「私たち」の未出現(BEFORE WE ACCEPT)である。――無をあくまでも存在の否定形としてとらえた自由論者サルトルが、外部によって形成される「われわれ」を主張したのに対し、無限に拡張する「私たち」を提唱する入不二が、その後運命論を語り始めることになるのは興味深い。 次著『時間は実在するか』(講談社現代新書)と並んで、日本哲学界の独創的古典として残るべき名著である。読者を選ぶメタフィジカルな哲学書ではあるが決して難解ではなく、読破に自信のない読者には野矢茂樹氏による素晴らしい解説からまず読むことをお薦めしたい。続きを読む
投稿日:2019.07.09
rainygreen
相対主義を究極まで純化した「極北」には何があるのか、著者が徹底的な掘り下げを行なった過程を論じた一冊。 極めて抽象的な思索が巡らされますが、哲学には全くの門外漢である自分にも決してわかりづらいという…ことはありませんでした。 繰り返される「無限後退」といった循環的なイメージが、自分の持っている相対主義のイメージと重ねやすかったからかもしれません。 かと言って、ありきたりな議論がされているだけかというとそうではなくって、後ろの方まで読み進めた後、前の方の章を読み返してみると議論の浅さが感じられる。 つまり、少しずつ丁寧な論証を積み重ねていく中で「極北」に近づいていっていることを実感できるのです。 実在論やクオリア論、アキレスと亀のパラドクスといった論題にも触れることができるし、読んでいる間は知的な刺激を受けてなかなか楽しかった。 その一方で、何度も読み返して自らの知的思索を深めていきたいかというと… あくまで刹那的に楽しめればいいや、と思ってしまう自分はやっぱり哲学には向いてないようです。続きを読む
投稿日:2019.01.06
sango
「なんかよくわからんが凄い」これがこの本の印象で、論理的に思考展開するという行為の凄まじさを実感する本である。 そういう意味ではまさに「私たち」の存在が無限の反復の中に存在するという本書の主張の延長線…上にある感想となってしまった。 「私たち」という絶対的な存在が立ち現れるという事をイメージする為には、その背後に無限の論理的反復による宇宙が存在し、その無限に生まれては消える反復こそ「私たち」という絶対的な存在の源になっているのではないか、という風に咀嚼してみた。 私は本書が文庫化されていて本当に良かったと思う。それは解説がついてるからだ。解説が良い本はそれだけで読むに値すると思う。続きを読む
投稿日:2016.01.11
澤田拓也
『相対主義の極北』というタイトルに惹かれて購入。 「地平線と国境線」と「足の裏の影」の話から入る。ここに相対主義の枠組みと実在の関係と、相対主義の無限後退と実在の関係を想像するべきなのだろうか。 …著者は本書の考察を「円錐形」になぞらえる。絶対的な真理や正しさはなく、枠組みや観点に依存するという相対主義は非常に広い。カントの物自体に対する哲学的枠組み、プロタゴラスの人間尺度説、人間原理、ルイス・キャロルの亀とアキレスのパラドクス、などは円錐のたとえにおいて、これは円錐の底面に相当する。ただし、その論考を煮詰めるとすべての相対主義の議論は核心とも言うべき一点に縮減される。これが円錐の頂点に当たる。さらにはこの一点において実在論の極限に接近するというのが図式的な理解だ。そして、それこそが相対主義の極北というべき地点である。 相対主義は、内在化、複数化、断絶性、再帰性、相対性と絶対性の反転、非-知の次元、という六つのエレメントを持つという。それぞれの説明はあるが、わかったようなわからないような気分になる。 本書の中で自分がもっとも心動かされたのは、第八章のクオリアの議論だ。単に自分の関心ごとに近かっただけのことなのかもしれない。この本の中で意識論が議論されているとは思わなかったので、若干不意を衝かれた形になった。「客観的・科学的な記述は、私たちが体験しているクオリアを捉えることができないし、さらに、私たちの認識能力は、異者のクオリアへは決して届かない。したがって、客観的・科学的な記述は、最も近い私たちのクオリアにも、最も遠い異者のクオリアにも及ばないのである」という。トーマス・ネーゲルの「コウモリにとって、コウモリであるということがどういうことであるのか」というハードプロブレムは、クオリアの問題としては消えさるというものだ。クオリアは、クオリアとは別の何ものか(something)になるか、単なる無(nothing)になってしまうほかないという。このような形で哲学的な論点でクオリアが扱われうるというのは新鮮であり、哲学的思考の可能性を示しているとも思える。 最後に本書は、 「「私たち」は限界をもたないが有限である。相対主義の極北とは、「私たち」と「私たち」の未出現との間の、最高度の断絶性がきわだつ地点である」 という結論に至るが、自分自身が極北に至ったのかは、はなはだ疑問である。ただ、こういうことを考えるのも必要なことなのかも。 あとがきにて、 「平易で分かりやすくて「おもしろい」のではなく、単純なはずなのに難しくて、頭が変になりそうだけれど、それが「おもしろい」でなくては意味がない。「哲学」なのだから」 という著者の言葉がこの本の意義を表していると思う。決して難しい言葉で書かれていないが、その内容はおそらくは深い。決して誰にもお薦めする本ではないが、良い本だと思う。 扱っているテーマから古典なのかと思ったら比較的最近の本ということ。まだ、こういう本が日本人によって書かれ、出版され、文庫化されるのかと少しうれしく思った。続きを読む
投稿日:2015.10.19
羊毛
「みんなちがって、みんないい」に対する違和感を明晰に言葉にしてくれる。明晰な分だけめまいがするような本です。まだ本旨は呑み込めてないけれど、のちのち効いてきそうです。
投稿日:2014.02.02
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