この作品のレビュー
平均 3.6 (43件のレビュー)
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『腕を摑むときの強すぎる力加減、寝転がっていたときに髪を踏まれた私が、痛い、と言ったら、一瞬だけ、大げさだと反論するような目をした。
あのときから、きっと、私の小さな世界は壊れ始めていた。』
“パー…トナーや恋人からの暴力に悩んでいませんか。一人で悩まずお近くの相談窓口に相談を。” 政府広報が優しく問いかけかるその言葉。DV (ドメスティック・バイオレンス)という言葉がこの国で認知されるようになって久しい昨今。直近の統計では1年間に8万件にものぼる被害が把握され、年々増加傾向にあるという深刻な事態に警鐘が鳴らされています。好きで一緒になったはずの二人、そんな二人の関係は何をきっかけに崩れ始めるのでしょうか。また、一旦崩れてしまった小さな世界が再び元どおりになることはあるのでしょうか。そして、その先にもう一度恋をする未来はくるのでしょうか。これは、そんな壊れた世界からの再生を目指す一人の女性の物語です。
『私は、何度も蛍との約束を破ってしまったけど、海へ行きませんか、という誘いにだけは、こたえることができた』というのは主人公の川本麻由。『彼とは相談室で出会った』という麻由はその時のことを振り返ります。『治療には一番効果があると言われたグループセラピー』に耐えられず途中で抜け出した麻由に『もう、終わりましたか?』という声。『なんだか自分には場違いな気がして』という男性は『もし良かったら、ちょっとお茶でも飲みに行きませんか』と続けます。『突然、そんなことを言われ、私はびっくりして、言葉を失った』という麻由に『俺のこと、もう忘れましたよね』という男性。『二ヶ月くらい前に、俺がエレベーターの前でうずくまってて、そこを助けてもらって』という男性の言葉に『ようやく相槌を打ったものの、まだ記憶は曖昧だった』麻由。『せめて君の名前を』と言う男性に『反射的に表情が凍り付いてしまった』麻由。『とりあえずこっちの名前を伝えておくから。俺は、植村蛍といいます』と続けた男性に麻由は『こんなふうに自由に選ばせてくれる誘い方は、やっぱりこういうところに通っている者同士だからかな』と感じます。『この二週間で、なにか変わったことはあった?』といういつもの加藤先生のカウンセリングを受けた麻由。『例の彼は、夢に出てきたりする?』、『…出てきてないと思います』というカウンセリングも終わり帰宅する麻由に蘇る記憶。『風邪薬36錠と吐き気止め18錠、鎮痛剤12錠、抗生物質6錠をビールで一気飲みして救急車で運ばれた夜』。『今でも色つきの悪夢のように思い出せる』という『普段は意識していないけれど大切なたくさんのことを粉々にする作業』を経験したICUでの措置。心に深い傷を負った麻由の前に現れた植村蛍という男性との関わりを通して、傷ついた麻由の世界が少しずつ動き始めます。
DV被害を受けた女性のその後を描いたこの作品は全編に渡って非常に重々しい雰囲気が一貫しています。島本さんらしいと言えばそうなのかもしれませんが、取り上げているDVという題材がその重さに輪をかけます。『買い物カゴをいったん足下に置いて深く息を吐くと、カゴを掛けていた左腕に赤い跡が浮かび上がっていることに気付いた』という麻由。スーパーに行けば誰もが経験する何のことはない日常風景の一コマです。しかし『数分後には跡形もなく消えるはずの跡なのに、突然、もう一生消えなかったらどうしよう、と根拠のない不安に駆られて、身動きが取れなくなった』と強く反応してしまう麻由は『次第に動悸が速くなってきて、頭皮がじっとりと熱を帯びてきたような気がした』と、DVで受けた影響から抜け出せない心の内が描かれます。また『気がつくと私は片手に携帯電話を握りしめていた』と一番身近にある道具。『暗闇にふっとディスプレイの明かりが灯る』、という何気ない瞬間にも関わらず『別れたときに番号もアドレスもぜんぶ変えたけれど、いつかあの番号が追ってくるような気が』ずっとするという恐怖が頭から離れません。そして『私は、大声で泣き出しそうになるのをなんとか堪え』る麻由。そんな麻由は定期的に通うカウンセリングでも『加藤先生と話し終えた後はいつも、ほんの少しの間、我に返る』、とその効果を認めますが『けれどその効果は、薬と同等にあっけない。数日間で消えてしまい、私はふたたび穴に戻っていく』と『穴に戻る』という表現を用いて未だ日のあたる場所に生きられない麻由の心理状態が描かれます。その治療期間は長期にわたり、簡単には治癒しないともされるDVによる被害。そのDVに正面から向き合うこの作品は全編に渡って陰鬱な雰囲気が漂っており、我々読者はそれに”耐える”精神力が要求されます。しかし、その一方で安易で分かりやすい展開にしなかった島本さんの選択により、とても納得感のある読後に繋がっているとも思いました。
一方で蛍との出会いがそんな麻由の心を少しずつ動かしていきます。『キスしてほしいと、思ったのだ。』という麻由。『だけどそんなことを言ったら、正確な意味で心臓が止まってしまう気がしたから、結局、黙っていた』と二人の関係を前に進めることを躊躇する麻由。二人で海岸を歩くシーンで『こちらに差し出された手の指を二本だけ握った』麻由は『絡めたというにはあまりに頼りなくて、強風に外れそうな互いの指先だけが、彼を、そして私を拒絶してはいないことの唯一の証明だった』というなんとも危うげな心の内が描写されていきます。そんな麻由は『まだ出会って少ししか経ってないのに、蛍の残像をこんなにも懐かしく感じる。そして私は、懐かしい、が、安心、という言葉に置き換えられることに気付く』、と少しずつ蛍に心を開いていきます。しかし、そんな単純に心の内が変わっていくことはありません。『この体の時間はいつになったら動き出すのか』と苦悩する麻由。『空気に触れた傷口がかすかにひりひりして、だけどまだぜんぜん繋がらない。切れたままの感覚を捕まえる方法が分からない』と容易に塞がるものでもありません。そんな麻由の心の描写に島本さんはこんな表現を登場させます。『蛍。本当は今この瞬間に、混乱している私を置いて、去っていってほしい。そうすれば私はされたことを客観的に自覚することもなく、変わる必要もなく、手放す時機を逸して腐っていくものを抱きながらいつまでも閉じこもっていられる。』こんな風に考えてしまう麻由。そして、そんな麻由を作り上げたDVというものの恐ろしさ、悍ましさ、そして冷たさを改めて感じさせる強烈なまでの表現だと思いました。
『ふくらんだ月はじっと夜空に座り込んだまま、追いかけてくる。闇に飛び込んで、闇から逃げて、また闇に戻っていくようだった』という麻由の心の内。そんな麻由というDV被害を受けた女性が歩む人生の一場面を切り取ったこの作品。「波打ち際の蛍」という作品名に込められた蛍という存在。闇に包まれた麻由の心の内をほのかに照らす蛍が導く未来を感じさせるこの作品。とても丁寧に、とても繊細に、そしてとても透明な表現で綴られた作品だからこそ感じる人の心の脆さに触れた、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2020.08.01
読んだのが随分前だから細かい内容とかは忘れているけど、まあよくある恋愛話。
でも島本理生の描く文章が美しすぎて読めた。
さとるくんがめっちゃ好きでした。ああいう男に私は弱い。
蛍も落ち着いた大人って感…じで好みだった。
揺蕩うような読了感を得られました。続きを読む投稿日:2024.03.13
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