この作品のレビュー
平均 4.0 (3件のレビュー)
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このレビューはネタバレを含みます
・伊吹廼舎塾蔵板の平田篤胤「鬼神新論」を、数少ない和本の1冊として、私は持つてゐる。もちろん読むためではない。篤胤本は和本としては圧倒的に安いから買つたまで、これで読まうなどとは考へもしない。それでも巻頭ぐらゐは見てみるもので、序文から本文の初めあたりまでは読んでみた。しかし、その序文が尾張の鈴木朖によるものだと知つたのは吉田麻子「平田篤胤 交響する死者・生者・神々」(平凡社新書)を読んだ時だつた。迂闊なんてものではない。第四丁裏に大きく尾張の鈴木朗と書いてある。名が異体字でないにしても、こんなのを見落とすなどといふのはありえない。と同時に、なぜ鈴木朖かと思ふ。朖は今なら国語学者と言ふべき人であらう。篤胤とはタイプが違ふ。篤胤は「ある偏ったイメージをもってずいぶんと批判的にかたられてきた」(12頁)人である。時にファナティック、もつとはつきり言へば狂信的国粋主義者と評されてきた。宣長に比して悪し様に言はれることの多い人であつた。そんな人間と鈴木朖がどこでつながるのか。先の序文によれば、「朖は、篤胤の語る神に共感したわけである。」(44頁)。正直なところ、この短い記述だけで篤胤のイメージがずいぶん変はるのではないかとさへ思ふ。「鬼神新論」が篤胤の出発点であればこそ、鈴木朖との交感が、篤胤が本質的に狂信者ではないと示してゐるかの如くである。「篤胤のとらえる天地には、善悪どちらにも転びうるさまざまな傾向を備えた神がたくさんいて、それぞれがいろいろな役割を負っている。その霊位に包み込まれるようにして、いまこの瞬間にも人の世は存在し動いてゐる。神たちは、人間の善悪の行動に直接反応して幸福や禍を下すわけではない。もっとずっと多様で不思議な存在なのである。」(38頁)儒仏等への批判の中からかういふ考へが出てきた。それに朖は共感したのである。それも、序文を読むかぎりでは、ベタほめと言つても良いほどのほめ方をしてゐる。篤胤はそんな人であるらしい。
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・本書はファナティックではない篤胤像を提示しようとする試みの書である。政治的に行動しただけの人ではない、といふのもをかしな言ひ方だが、篤胤である。「少なくとも篤胤は、人間を、そのいとなみを、間違いなく愛している。名も無き庶民を、人間が生きることを、まるごと肯定している。にもかかわらず、 中心としているのは人間ではない。」(246頁)つまり、「生きている人間を中心としないヒューマニズム」(247頁)である。なぜさうなのか。「生きて いる人間だけを大切にするのでは、真の意味で人間を大切にすることができない」(246頁)からである。ここで幽冥界が出てくる。「八百万の神々とそこら中にある亡くなった人たちの魂」(同前)の属する世界である。「八百万の神々・死者(先祖)・生者、この三つの繋がりこそが、世界全体を構成し、人間が生きることの基軸となっている--篤胤の実感はこれに尽きる」(122頁)のださうである。例の生田万を篤胤は高く評価したらしい。「民衆(これはムスビノカミから与えられた尊い魂でもある)を飢えさせる為政者を許しておけなかった生田万」(230頁)は篤胤のこの実感に合つてゐたのであらう。そして幕末、 篤胤に影響された人々が維新に参画し、明治政府でもその影響力を保つ。篤胤本人とは無縁の場所で、つまみ食ひされた篤胤の思想が政治と行動の中で広がつていつた。これが篤胤の悲劇であつたらうか。本書によつて篤胤が見直され、ヒューマニストとして注目されることがあるかどうか。ただし、さうでなかつたがゆゑに、今でも篤胤本が安く買へるのではあるが……。投稿日:2016.08.21
平田篤胤の入門書。伝記的事実を時系列に沿って解説する中で、ロシアに対する危機意識からの国学研究、主著『霊能真柱』の内容の解説、平田国学に於ける倫理、平田国学と弟子のネットワークといった最新研究成果を、…私のような平田篤胤についてほとんど無知と言っていい人間に対しても、手堅く、わかりやすくまとめてくれる良著となっている。「皇国史観の元祖」という戦後の和辻哲郎や丸山眞男のような通説的な平田篤胤の理解を行っている人には、そんな通説には止まらないポテンシャルを持った思想家・宗教家としての平田篤胤の姿に触れるべく、是非読んで欲しい一冊となっている。
ただ、一点、素人の私が気になった点として、平田篤胤の『伊吹於呂志』に見られる部落差別の問題について、本書では触れられていないことがある。
問題の箇所について、管見の限りで最も古いところでは、羽仁五郎『日本における近代思想の前提』に収録されている「国学の限界」(初出1936年)にて言及されている。
"……封建主義が人民の一部に対し「賤民」というようなことを云い、神祇道(←86頁87頁→)ではこのいわゆる「賤民」を弟子とすべからずなどといっていた(篤胤、伊吹於呂志)”
(羽仁五郎『日本における近代思想の前提』岩波書店、1949年1月20日第1刷発行、86-87頁より引用。)
次に古いところでは日本毛沢東派のマルクス主義者だった寺尾五郎の1973年の書籍である。寺尾は、日本毛沢東派マルクス主義国学論の中で次のように論じている。
“ 尊王の主張は、まず神道や国学(契沖、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤など)によってなされたが、「神ながらの道」という神秘的、宗教的、情念的な神道の尊王論などには、なんの人民性も革新性もなく、ただの反動的復古主義でしかない。国学は、その歴史主義、自然主義のゆえに清新な反儒仏的な性格をもち、商人階級の感情の反映もあり、息苦しい道学的なしめつけへの抵抗としてヒューマンな要素もふくみはしたが、その尚古主義のゆえに、解放性も革新性ももたなかった。それは国粋的で主情的な尊王観をふりまいただけである。本居宣長には、百姓一揆にたいする同情的な発言もあるが、「東照神(家康)、御祖命の天照大御神の大御心を御心として天下を鎮め給へる」(『臣道』)といって、家康を尊王家に仕立てあげて賛美し、平田篤胤なども「東照大神宮の御恩」(『古道大意』)に感謝しているのであるから、「徳川幕府乃至封建制の再承認』(羽仁五郎『日本における近代思想の前提』)が国学の尊王論なのである。宣長は、「そもそも道といふ物は、上に行ひ玉ひて、下へは上より敷き施し給ふものにこそあれ」(『うひ山ふみ』)と幕藩体制支配を正当化している。
だから一口に尊王思想といっても、そのすべてが当時における反幕・反封建の革新思想であったとはいえないのである。尊王思想それ自体は、なんの進歩性ももっていない。どの階級と結びつき、どの階級の立場で尊王を唱えるかによって、保守反動の尊王ともなれば、進歩革新の尊王ともなったのである。
たとえば、同じ国学者でも平田篤胤は、神祇道では「賤民」(部落民)を弟子とすべからず(『伊吹於呂志』)と封建支配者の立場にたち、身分差別を合理化する尊王論であった。反対に、その弟子であり、一時は篤胤が「わが後をつぐもの」と嘱望していた生田万は、篤胤と別れ、大塩につづいて「窮民を救ふ」ために蜂起して死んだが、その尊王論は「窮民」の立場にたつ革新的な開放の尊王論であったのである。
だから同じ国学でも、大家、流祖として著名な国学者と、下層の国学の徒では、思想的、政治的立場がまったく異なることさえある。上層の国学者は、民衆の解放運動に無関心ないし反発的なのにたいし、在野下層のい(←114頁115頁→)わゆる草莽の国学者のなかには、百姓一揆に殉じた者もあれば、討幕闘争に殪れた者も多い。”
(寺尾五郎『革命家吉田松陰――草莽崛起と共和制への展望』徳間書店、1973年3月10日発行、114-115頁より引用)
といった具合に、「神祇道では「賤民」(部落民)を弟子とすべからず(『伊吹於呂志』)と封建支配者の立場にたち、身分差別を合理化する尊王論であった」と平田国学の性格をまとめている。
また、新しいところでは、前田勉先生の論文「平田篤胤の講説――『伊吹於呂志』を中心に」(2014年、こちらはインターネットでもciniiよりアクセス可能。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005423654)には、『伊吹於呂志』の羽仁五郎と寺尾五郎が言及したのと同じ箇所について以下のように述べられている。
“……法華経の行者として日蓮が「旃陀羅が子」であると呼称したことにたいして、篤胤は次のようにいう。
彼の家の説に、空海も、親鸞も弟子ぢやと云ふが、夫は不浄ながらも、平人のこと故に、どうでものことだが、日蓮を弟子にしたは相済まぬ。この僧は、安房の国の小湊の穢多の子で、穢れたる者の限りなるを、弟子にしたは何事だ。穢多の子なる証拠は、日蓮自身に書遺したる物がある。仏法はもと乞食なれば、穢多でも非人でも、さして違ひも有まいが、仮初にも。神祇道の家ぢやと云ひながら、そんな不浄の限りの者と、師弟に成て済ませうか。(巻上、一三二頁)
篤胤の講説のなかでの〈語り手〉の〈受け手〉への同一化は、〈受け手〉の差別感情をそのまま肯定、というよりは、むしろそれを助長し、後に述べるような、「皇国の人」であるという所属意識の尊貴性をもとに、被差別民を攻撃・差別する「無学の人」のルサンチマンを代弁することを意味していた点を看過してはならない。"
(前田勉「平田篤胤の講説――『伊吹於呂志』を中心に」『日本文化論叢』 (22)、2014年3月30日、43-44頁より引用)
もしも私の見落としならば著者に対して申し訳ないのだけれども、一読した限りではその点について著者が何らかの見解を示した部分がなかったように思えた。
私がこう述べるのは決して著者に対してケチを付けたいからではない。著者は『玉襷』を解釈して以下のように述べている。
“ 日本神話の創世記において、日本の国土がイザナギ・イザナミという夫婦神によって生み出されたことは、誰しもが知ることである。篤胤はここに、まったく独自の、新しい解釈を加えている。神によって国土が生み出されたことの本当の意味が、実は人間の住む場所をあらかじめ用意することにあった、という点である。住む場所がなければ、その後に生まれてくる人間が育たない。人民をはぐくみ増やすためにこそ、神はまず国土を生んだのである。”
(本書108頁より引用)
“ このような「人民」の側に主軸をおくような神話解釈は、本居宣長をはじめとして、これまで誰一人、したことのないものであった。
イザナギ・イザナミの二神は、ムスビノカミの御心を自分のものとし、国土を生成した後、ただちに青人草を生み殖し、さらに青人草が蕃えひろがり栄えるための色々なものを生成した。たとえば、イザナギ・イザナミが風・火・金・水・土の神たちをはじめとし、数々の神たちを生み成し、また日の神・月の神を生んだのも、その実、言ってみれば、青人草のためであったと言っても過言ではない。(『玉襷』一之巻)
国土にひきつづいて、人類のはじめである青人草を生んだのはイザナギとイザナミであった。そういう意味で、イザナギとイザナミはすべての人の先祖(オヤ)なのである。しかも、愛おしい子供たち(青人草)のために、その苗床として国土が生成されたばかり(←109頁110頁→)ではなく、風・火・金・水・土のような自然をつかさどるたくさんの神々でさえも、すべての青人草が健やかに成長し、殖え、広がり、栄えていくために生み出されてきたのであった。
そしてさらに驚くべきことには、日の神(アマテラス)と月の神(スサノオ)さえも、究極的には青人草のために生まれてきたといってもいい、と篤胤はいうのである。
ここで特に強調しておかねばならないのは、この議論には、天皇、そしてその上に続くアマテラスが、人の価値の上にはいない、ということだ。“日の神(アマテラス)をふくめ、すべての神々は青人草のために生まれた”ということは、価値の中心は、あくまでも、われわれ民の生命にあるということである。天皇については後述するが、ようするに、天皇もアマテラスも、人民(篤胤はここに“おおみたから”というルビを振っている)が生命を捧げ服従すべき対象ではないし、絶対の権威をもって人民に臨むものではない。むしろ人民の生命や生活を豊かに育むためにこそアマテラスや天皇が存在するのである。”
(本書109-110頁より引用)
私自身は、平田篤胤と平田派国学者が神道の中で大国主命の神格を明らかにし、伊勢に対する出雲の優位を確立したことを、日本思想史上の革命だと認識している。そして、本書の白眉である上記引用部にて、著者吉田氏が唱える、篤胤の『玉襷』は人民(青人草)のための日本神話解釈であるという説にも、正直なところ目を開かれた。だからこそ人民内部の矛盾として、『伊吹於呂志』にて江戸の民衆に対して部落差別言説を行っていたこれまでの篤胤像と、日本神話を人民的に解釈していた篤胤像を接合する手がかりが欲しかったのである。
私は本書を、通説的な篤胤像を刷新するに良い本だったと感じたので、著者が次に出す本で上記の疑問に答えてくれることを切に望む。続きを読む投稿日:2021.01.01
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