バルセローナにて
堀田善衞(著)
/集英社文庫
作品情報
スペインを旅し、住まうこと20数年。人間がこの地にしるした歴史を冷徹に見据え、自らの魂の遍歴を語る連作小説集。幼い子供が歌う赤旗の歌、ムッソリーニの失業対策によりフランコ側で闘った老人の話等、今なお残るスペイン内戦の影を見つめた『バルセローナにて』。アラゴン、カスティーリア両王国の王位継承者、狂女王と呼ばれたフアナの数奇な運命を辿る『グラナダにて』他一編。
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商品情報
- シリーズ
- バルセローナにて
- 著者
- 堀田善衞
- 出版社
- 集英社
- 掲載誌・レーベル
- 集英社文庫
- 書籍発売日
- 1994.10.01
- Reader Store発売日
- 2015.04.03
- ファイルサイズ
- 0.2MB
- ページ数
- 256ページ
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この作品のレビュー
平均 4.3 (3件のレビュー)
-
『――なんという天気だろう。 と、思わず私が声に出して言っていた。』-『アンドリン村にて』
「ABC殺人事件」を読んでいたら思いがけず堀田善衛に出会ってしまったので、積んであった一冊を手に取る。一九…九四年出版の文庫本。すっと、まさにそんな表現が適切な印象で、堀田の文章がこちらの懐に入って来る。当然の事ながら推理小説の翻訳文とは全く異なる類の、心象風景を立ち上げる力のある文章。スペインに老後の人生を置きに来た著者の心情がしみじみと伝わってくる文章、と言い換えても良い。
何気ない日常に静かに佇む奇跡のような事象を書き記すことのできる作家というのが確かにいる。堀田善衛はそんな作家の一人だろう。だが、この作家の凄みはそんな視力の良さだけにある訳ではない。むしろ小さな気付きを接ぎ穂として広がる西欧文明の基礎を形造る歴史への思い、そして歴史上の出来事の分析、思考への彷徨こそがこの作家の真髄と言えるであろう。そしてその真骨頂とも言えるのが「グラナダにて」と題された一章である。
『あるときの祭りの夜に、突然大停電が襲って来て、私が暗い坂道を上っていると、暗闇のなかで、一人の女が、手にした蠟燭の光りで、自分の顔を茫と照らし出していた。闇にほとんど顔だけの女が立っていた。娼婦であった。私は何がなしフアナ・ラ・ロカ、狂女王フアナのことを思い浮べた。それがこの作を書くきっかけとなった。アルハンブラ宮殿の右に落ちて行く、大きな火の玉のような夕陽を眺めながら、夫フィリップの霊柩と肩を並べながら、ソッポの方角を見ているフアナの彫像のととを考えていた』―『グラナダにて』
アルハンブラ宮殿を間近に見ることの出来る一軒家に暮らしている作家が、村の祭りで見掛けた女性の顔から初代スペイン国王カルロス一世(神聖ローマ皇帝カール五世)の実母への思いを巡らし、その人生を振り返る。しかしその淡々とも言える文章から伝わってくるのは、五百年や千年くらい時間が隔たっていたとしても人間なんて所詮こんなものである、という冷静な(諦観とは敢えて言いたくはない)視線だ。それは自身の戦争体験と大いに関係のある人生観、人間観とも思われるけれど、それを他人の人生に託して語る作家の文章に、どこまでも、熱のようなものはない。だがしかし、熱はないがそれを読むものは不思議な圧を感じてしまうような筆致。例えて言うなら、銃弾が貫通した時に直ぐには痛みを感じないような感覚、あるいは、鋭利な刃物でさっと切られた直後の視覚と痛覚の乖離。一瞬にして身体は防衛本能に基づいてアドレナリンを巡らせているので、直ぐに痛みには襲われないが、時間の経過と共にそれが収まると如何に大きな衝撃を自身が受けていたのかを痛みをもって思い知らされる。堀田善衛を読むこととはそんな感覚の読書だ。
『それがスペインなのであり、それこそが世界なのだろう……。そうではないかね? 何故お互いに殺し合う必要があるか。いったいイデオロギーとかというものは、そんなにも御大層なものなのかね? おれは言うまでもなく、大して教育のある人間ではなかった。しかしスペインの戦場と、特にサラゴーサで、おれはすべてを見てしまった、と思った。共和主義者が飛行機から撒いたビラの一枚に、「今日スペインで起っていることは、明日は世界で起るだろう」と書いてあって、これにアドルフ・ヒトラーとサインがしてあった。ヒトラーの言ったことのなかで、おそらくこれだけは正しかっただろうよ』―『バルセローナにて』
最初の章(アンドリン村にて)は、ヨーロッパ大陸に残るケルト民族の残した古代の痕跡を滞在する村の風習に見て取りつつ、重層的に近代のスペイン内戦の残した爪痕を人々の人生の上に見出していく一節である。続く章(グラナダにて)では十五世紀末にイスラム教徒から領土を取り戻しアルハンブラ宮殿に眠るカスティーリア女王イザベルとアラゴン王フェルナンド夫婦の中世の治世を端緒に、追放されたイスラム教徒とユダヤ教徒の受けた境遇の違いなどに極めて現代的な視点からの感想などを吐露しながら、徐々に本題であるイザベルの子であるフアナ女王の人生を辿る旅へと読者を導いてゆく。その中で、一人の人間の抱える多面的な人格や、物事を単純に見極めることが如何に難しいかを説きながら、権力に阿[おもね]る人々の普遍性にちくりと釘を差してもみせる。そして最後の章(バルセローナにて)では、街角で出会った二人の老人の対比に、スペイン内戦の彼我を重ねながら、歴史が如何に個人の記憶や選択を有無を言わせず絡め取ってしまうかを、何でもないない出来事を綴っているかのような筆致で記している。察するに、世界を、日本を、そして作家自身を巻き込んだ大戦への感慨がそこには滲んでいるのだろうけれど、作家の視点はどちらか一方に加担するものでは、当然のことながら、ない。そして、その巻き込まれてしまった出来事というのが、何々が起きたからこうなった式の単純な因果関係に矮小化して記載する歴史の教科書のような考え方で整理され得るものではなく、遡れば遡っただけ様々な過去の出来事が輻輳し絡み合っているのだということを作家は静かに、市井に人々の生活の中に見て取るのだ。
『一見無造作な語り口にだまされてはいけない。身辺雑記風、紀行文風、「私」という人物の行動と感慨、そしていろいろなスペイン人のスケッチと彼らの語り、それらが自在に切り替わり、入り交じる。この本の三篇は、かつて書きとめておいた素材にもとづき、「スペイン、あるいは暗い沈黙」「スペイン、あるいは光と影」という大まかな主題を共有させながら、それぞれの狙うところをはっきりと違えていった連作短篇小説なのである』―『解説/清水徹』
清水徹による解説を読んで、背筋に寒いものが走ったような感覚を覚えなかったと言えば、嘘になる。まさに、清水が警告しているような読みを自分はしていなかったか。堀田が描くスペインの風景、そして其処に棲まう人々の語る話を、そのままの出来事として受け止めていなかったか。清水が指摘するようにこれが「連作短篇小説」と言うなら、登場人物たちでさえ、堀田が創作した人々であっても可笑しくはない。いや、むしろそう考えないでいることが不自然なほどに都合よく堀田の語りたいことを託せる人物が多く登場しているではないか。ふむ、身体に受けた太刀筋は思ったよりも深く、そして随分と出血してしまっているようである。続きを読む投稿日:2023.11.23
・スペインの光と陰。理解しようにも結局は理解が及ばないスペインを覆う内戦の意識・無意識下の記憶。
・青春の入口で暗い陰を落として来ていたその内戦の記憶が突然終わりを告げた。そんなお話し。投稿日:2018.04.02
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