手のひらの音符
藤岡陽子(著)
/新潮文庫
作品情報
デザイナーの水樹は、自社が服飾業から撤退することを知らされる。45歳独身、何より愛してきた仕事なのに……。途方に暮れる水樹のもとに中高の同級生・憲吾から、恩師の入院を知らせる電話が。お見舞いへと帰省する最中、懐かしい記憶が甦る。幼馴染の三兄弟、とりわけ、思い合っていた信也のこと。〈あの頃〉が、水樹に新たな力を与えてくれる――。人生に迷うすべての人に贈る物語!
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この作品のレビュー
平均 4.1 (176件のレビュー)
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あなたは、『実はね。廃業が決まったのよ、うちの会社』と突然言われたらどうするでしょうか?
帝国データバンクの調査によると、2022年度の倒産件数は6799件と、前年度より14.9%も増加したようです…。2020年春に突如この国を襲ったコロナ禍以降、そんなコロナを原因とした倒産も増えているようです。また、そもそもの世の中の流れの中で『安い物を作ろうとしても、中国をはじめとする海外の工場に生産を委託している大手企業の値段にはとうてい及ばない』といった影響により事業が続けられなくなることもあるのだと思います。
また、会社自体は永続するものの『業績が芳しくないこと』を理由として、『自前の工場や店舗を売却』することで『資金繰り』をし、なんとか事業を継続するという場合もあるでしょう。今の時代、事業を永続させること自体なかなかに難しい時代になっているのだと思います。
しかし、会社は『資金繰り』により持ち直す未来があったとしても、切り捨てられた事業に携わっていた人たちはどうなるのでしょうか。切り捨てられた事業に人生をかけて生きてきた人たちはどうすればいいのでしょうか。
さてここに、『自社が服飾業界から撤退する』という話を聞いた一人の『服飾デザイナー』を描いた物語があります。『貧しい人たちはいつだって小さな箱の中でひしめきながら暮らしている』という幼き時代の先の今を生きる主人公を描くこの作品。そんな主人公が『これまで私は、誰も好きになれなかったんじゃない』と、一つの思いに気づく様を見るこの作品。そしてそれは、さまざまな起点に満ちた過去の先の今を生きる主人公の熱い想いを感じる物語です。
『こんな感じかな』と、『光沢のある白い布を、柔らかなトレンチコートのフォルムに変えていく』のは『服飾メーカー』で『デザイナーの仕事』をする主人公の瀬尾水樹(せお みずき)。そんなところに『同僚の藤川麻里子が顔を出』すと、『部長が呼んでますよ…社長と専務が来てるんですって。それで部長が呼ばれて、瀬尾さんも一緒にって』と伝言を伝えます。『社長に呼び出されるなんて何事だろう。大きな発注ミスでもしただろうか』と不安な面持ちで部長の元へと向かいます。そして、赴いた先で『うちの会社が…撤退、ですか?』と『社長の顔を見つめながら、言葉を繰り返』すことになった水樹は、『自社が服飾業界から撤退するという話』に衝撃を受けます。『入社何年目だったかな?』と社長に訊かれ、『今年で十六年目になります。二十九歳の時に中途で採用してもらいました』と返す水樹に、『この数年間の業績が芳しくない』と語る社長は、最後に何も残らなくなる前に『服飾業からいったん手を引こうと考えている』ことを伝えると、『カジュアロウ社から引き抜くような形で来てもらったのに、こんなことになってしまって申し訳ないと思っている』と謝罪の言葉を述べます。『ひと通りの話が終わり』『涙が溢れ』てきた水樹。そんな水樹は数日後、篠田昌美に連絡を取ります。『以前勤めていたカジュアロウ社の同期で』、『「会社をやめる」と打ち明けた時は泣いて止めてくれた』昌美。そして、十五年ぶりに昌美と再会した水樹は『実はね。廃業が決まったのよ、うちの会社』、『やめなきゃよかったのかな…』と胸の内を語ります。『服のマクドナルドを作る』と宣言した当時の『カジュアロウ社の社長』。『安価で、大量に売る』という『社の経営方針』は『時代に合』い、『会社の知名度は全国区』へと高まりましたが『水樹は二十九歳の時に、この会社をやめ』ました。『「極限までコストを抑え、かつ大量に売れるもの」を作り続けることに疲弊し』たというその理由。話題は変わり、『そういえばあの彼には会いに行ったの?…たしか同じ団地に住んでた…』と話を切り出された水樹は、『忘れちゃったよ、そんな昔のこと』と昌美の視線を逸らします。場面は変わり、ベットから起き出せない水樹は、夢の中で森嶋信也の夢を見ます。『屈託のない笑顔を見せている』信也の姿を見て、『あの事故が起こる前の信也だ』と思う水樹。そんな時携帯電話が鳴ります。『瀬尾水樹さんですか?ぼく堂林といいます』とかかってきた電話の主は『向日東高校、三年一組で一緒だった堂林憲吾です』と名乗ると、『一組の担任をしていた上田遠子先生が体を悪くして入院』、『回復する可能性は無いにひとし』いことを伝えます。それに『お見舞いに行く、絶対に』と答えた水樹に『あと一人で一組全員に連絡が回る』、『信也…森嶋信也が今どこにいるか、瀬尾なら知ってるかと思って』と続ける憲吾。『不意打ちのようにその名前を聞かされて』『頭から一瞬血の気が引』いた水樹は、声を出すことができなくなります。そんな水樹が、森嶋信也と共に生きたあの時代を振り返りつつ、失業宣告の先の今を生きていく物語が描かれていきます。
“45歳、独身、もうすぐ無職。人生の岐路に立ったとき、〈もう一度会いたい人〉を思い出した ー。〈あの頃〉が、水樹に新たな力を与えてくれる ー。人生に迷うすべての人に贈る物語!”と内容紹介にうたわれるこの作品。章題のつかない21の章から構成される長編であり、藤岡陽子さんの作品としてはブクログで最もレビュー数の多い人気作でもあります。
そんな物語の舞台は大きく二つに分けられます。一つは『服飾メーカー』で『デザイナーの仕事』をする45歳の今を生きる水樹です。物語では一見順風満帆な人生を送る水樹が『自社が服飾業界から撤退するという話』によって、職を失うという現実に晒されるところから始まります。”45歳、独身、もうすぐ無職”と内容紹介に端的に整理される状況に置かれた主人公の水樹。物語はそこにキーとなる二つの事柄を提示します。一つは上記で触れた物語の冒頭に登場する森嶋信也という幼馴染の存在であり、もう一つは水樹の今を支える『デザイナーの仕事』です。では、まずは後者について見てみたいと思います。この作品は”お仕事小説”という位置づけの作品ではありませんが、服飾業界が置かれた現状を転職を決意した水樹の思いの中に垣間見せてもくれます。
・『服のマクドナルドをつくる』という『社の方針のもとで働いてきた』水樹は、『自分たちが提供したものが大ヒット』する中に『ものすごい快感』を覚えます。しかし、『同等の品質で、さらに安価なものが出回ったなら…』という思いの先に『この会社にいる限り自分は、一生コストを第一優先に服を作らなければいけない』という思いに苛まれます。
『服のマクドナルド』とは、とても分かりやすい表現だと思います。それは、『マクドナルド』の成功を服飾業界でなぞっていくことを意味するのだと思いますが、主人公の水樹は、その考えが『自分には合わなかった』という中に転職を決意します。そして、転職した先は、そんな会社とは全く異なる価値観の中にあるメーカーでした。
・『戦後から受け継がれてきた技術を使って、工場の職人たちと顔を合わせながら丁寧な服作りができる場所』で『お客さんの記憶に残る一枚を作ってきたという自負はある』という今を生きる水樹。『服を着てくれた人の幸せな時間を何倍にも膨らます服作りを目指してきた』という自分の考えに合う今を生きています。
しかし、そんな水樹の前にもたらされたのは、『服飾業界から撤退する』という社の方針でした。そんな中にこんな思いを抱く水樹。
『誰かのために、誰かのとっておきの時間のために服を作ることを諦めるしかないのだろうか』。
私は服飾業界のことは全く存じ上げませんが、『服のマクドナルド』に相当するであろうメーカー、そしてその対局にあるであろうメーカーのイメージはどことなくわかります。そのいずれもがこの世には必要だとも思いますし、そのいずれに働く人たちにもそれぞれの目指すところがあり、そこには正解、間違いといったものはないと思います。しかし、主人公・水樹と同じような悩みの中に生きる人たちは間違いなくいるのだと思います。物語では、そこに登場人物のこんな言葉の提示によって、一つの動きが見えてきます。
『京都の織物産業を生かす手立てはないだろうか』
そんな起点の先に、
『安い物を作ろうとしても、中国をはじめとする海外の工場に生産を委託している大手企業の値段にはとうてい及ばない。それならば、もの作りという視点で評価される商品を』
そんな問いへの答えを模索し始める水樹の物語。今のこの国の一つの側面を見るこの視点は、間違いなくこの作品の読みどころの一つだと思います。
次に、前者として挙げた森嶋信也という幼馴染について見ていきたいと思います。『同じ団地に
』育った水樹と信也。その関係性は小学生だった時代を振り返る水樹の物語の中に少しづつ明らかになっていきます。物語は一見、初恋の人のその後を描く甘美な物語に感じられなくもありません。しかし、そこに描かれる幼き日の信也の姿、『あの事故が起こる前』という信也に起こる出来事の全容を見せていく物語は読者を陰惨な思いの中に連れていくものでもあります。
そんな物語は水樹および水樹が暮らしていた1980年代の団地で暮らす人々の様子を赤裸々に描き出していきます。
『自分は知らなかった…これまで登校拒否になっていったクラスメイトの何人かの顔と名前を思い出した。あの時、気づこうとはしなかった。学校に来なくなったことを、彼らの弱さのせいにした』。
といったいじめのある学校の日常は今も大きな社会問題であることに変わりはありません。この作品では水樹の高校時代が描かれる中にそんな日常も描かれていきます。しかし、この作品で描かれる陰惨な現実はそれだけではありません。それこそが、1980年代にはまだ名前がつけられていなかった、もしくはいじめのようには一般社会には表立って語られることのなかった事ごとです。
『本来ならば母親は何よりも一番に子供のことを考えるべきだと思う』。
そんな言葉の先に垣間見える育児放棄の現実。
『父親がいない』
そんな言葉の先に垣間見えるシングルマザーの子育ての厳しさ。そして、
『発達障害という言葉が聞かれるようになり、それはひょっとしたら自分自身のことではないかと思った』。
今の時代だからこそ、定義された言葉によって説明できもする事ごとがこの作品では数多描かれていきます。1980年代という時代には、社会の中に埋没し、福祉の力さえも及ばなかったそれらの事ごと。そこに、自分たちの力でなんとかする他ない日々の暮らしの中で直向きに生きていく人たちの姿が描かれていきます。平坦ではない人生を決して諦めないで、それでも前へ前へと進んでいくその思いの先に続いていく物語。この作品には上記したような陰惨な現実に向き合う登場人物たちの姿が描かれています。そして、そんな中でも希望を捨てず真摯に生きていく水樹たちの姿がそんな物語に灯を灯し続けます。これこそがこの作品の何よりもの読み味です。そんな物語の先に森嶋信也の姿を追い続ける水樹が物語の最後に見る景色。真摯に直向きに生きてきた水樹が掴むその結末にとてもあたたかい思いに包まれるのを感じました。
『指先で丁寧に音符をつまみ上げると、信也は自分の手のひらの上に音符を乗せた』。
「手のひらの音符」という書名が読者の誰も予想できないであろう場面にふっと浮かび上がる驚きを見るこの作品。そこには、1980年代の高校生活の中に、今に繋がるさまざまな起点を見る主人公・水樹の物語が描かれていました。『服飾デザイナー』として服を作り上げていく真摯な水樹の姿に心打たれるこの作品。そんな水樹がいつまでも思い続ける存在の大きさを感じるこの作品。
藤岡陽子さんという作家さんの優しさを感じる素晴らしい作品でした。続きを読む投稿日:2023.07.22
団地に住む兄弟たち、水樹と徹、正浩と信也と悠人。その描き方が昭和の懐かしい感じだなぁと思いながら読み進む。それぞれの人生は決して楽では無く、辛く厳しく悩みも多かったのだろう、それでも頑張って生き抜いて…きた主人公たちの成長に心を打たれ感動した。
こんなに純粋な気持ちで人と接することが無かったなあとか、いろいろなことに対して一途な気持ちが大事だとか。自分の人生も振り返って考えたくなるような気持ちになった。続きを読む投稿日:2024.04.05
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