評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ―
岩橋邦枝(著)
/新潮社
作品情報
夏目漱石の指導を受け二十一歳でデビュー。生涯にわたり現役作家でありつづけ、九十九歳にしてなお傑作『森』をものした野上彌生子。中勘助への秘めた初恋の想い。野上豊一郎との勉強仲間のような夫婦生活。六十八歳になってから恋文を交わしあった田辺元。死の瞬間までアムビシアスでありたいと願った彌生子の本格的評伝。
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商品情報
- シリーズ
- 評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ―
- 著者
- 岩橋邦枝
- 出版社
- 新潮社
- 書籍発売日
- 2011.09.30
- Reader Store発売日
- 2012.03.16
- ファイルサイズ
- 1MB
- ページ数
- 218ページ
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この作品のレビュー
平均 4.0 (2件のレビュー)
-
中盤以降グイグイ読まされた。おもしろい。
晩年執筆の長編小説の高い完成度に惜しみない賛美を送る一方で、キャリア初期の作品の未熟さを指摘したり、彼女の人格的欠陥/無配慮などを指弾するなど、細部にわたるま…での緻密な考察がすばらしい。
絶賛一辺倒の退屈な伝記などより数百倍は刺激的だ。続きを読む投稿日:2011.11.13
私は岩橋邦枝という作家をまったく知らずにいたが、縁があって佐賀の「草茫々通信」をいくつか読み、佐賀にゆかりのあるこの作家の名を知った。やっと名前をおぼえた作家が急逝したことを新聞記事で知ったのは1ヵ月…ほど前。
この『評伝 野上彌生子』に興味をもって、以前いちど借りてきたことがあったが、そのときは結局しばらく積んでいたあと、読まないままで返してしまった。
私は野上彌生子の名前だけはしっかりおぼえているが、作品はひとつも読んだことがない。むかし母が新聞に投稿した「野上弥生子に励まされ」という小文があったのと、母の本棚にあった『秀吉と利休』の背表紙が記憶にあってのことだ。あれはいつのものだったかと探してみると、野上が亡くなった1985年、母がいまの私と同い年のときのことだった(そして私は高校1年だった)。
野上彌生子は大分の出身で、あの甘い醤油などをつくっているフンドーキンは彌生子の弟の会社だったのかと、1年ほど前、大分で地元スーパーを何軒かうろうろしたことがある私は、そんなところに気を引かれた。著者の岩橋が、彌生子をくさしているようで、そこがこういう良さなのだろうと書いてあるところもおもしろかった。
たとえばこんなところだ。
▼私が時には反撥もおぼえながらこれまで見てきた、彌生子の持ち前の強気な自己肯定と神経の粗らさ、それが老年の彼女の長所になり、魅力にもなっている。傑作『森』に見るエネルギーの逞しさや精神の若々しさは、弱気で神経質でいちいち思い煩ったり、自信喪失や自己嫌悪に陥ったりするような性向ではとても無理である。野上彌生子は、あらゆる意味で強靱な女性である。(p.200)
あるいは、こんなところ。
▼彌生子は、戦前の長篇第一作『真知子』の頃から、日本でブルジョアを描くことのできる数少ない作家の一人である。彼女は、貧乏暮しが普通であった同時代の作家たちと生活圏がちがい、ブルジョア階級の友人知人が多く、彼らの生態に通暁していた。それに加えて彌生子自身の上流志向が、『迷路』の世界に生かされて成功している。多津枝という支配層の富裕な家庭の娘の造型も秀逸で、作者の好みと自信が生み出した人物である。(p.110)
野上彌生子は、富裕と自由に恵まれて育った。そんなところは、中条(宮本)百合子に似ていると著者は書く。「明治30年代に、九州の小さな町から東京へ娘を出して進学させるような、財力と進取の気性のもつ親は稀れであった。彌生子の上京は、百合子の米国留学にあたる」(p.176)と。
他の女性作家とは距離をおいていた彌生子は、百合子とは文学について長時間話し込み、自分と同じく「インテレクチュアル」な百合子を認めて、交遊した。
彌生子は実に勉強家であった。天分に富んだ作家というよりは、努力と勉強によって書いてきた人であり、自分の人生をつくってきた人なのだった。その一端は、同郷の野上豊一郎を伴侶に選んだことにも見てとれる。
▼彼女が、自分の教師になってくれてそのうえ漱石の愛弟子という冠をつけた豊一郎を、伴侶に選んだ気持はわかる。それにしても、彼女が生まれ育った時代を考えると、勉強をつづけるために自分で決めた結婚にみる彼女の意志と選択眼には感服させられる。(p.37)
夫の豊一郎もまた、知的成長を願って勉強に励む彌生子のために、世間並みの主婦を求めることなく、野上家には常に女中さんが2人いたという。何より驚くのは、「彌生子は、三児の母でありながらおむつを一度も洗ったことがなかった」(p.38)というところだ。3人きょうだいの私は、父が3人分のおむつを洗っていたという話を思い浮かべずにいられない。
母は新聞への投稿に、「三人の子供を育てながら、息の長い作家活動を続けた女性に、何かを教わり、励まされたい」という思いで『秀吉と利休』を読みはじめていたと書いていた。母には、野上彌生子がどんなふうに見えていたのだろうと思う。
野上彌生子は、金銭的な意味でも、肉体的な意味でも、生活苦を経験したことがない、「恵まれた」作家だった。「物を書いてお金を取らうなんて考へたことはない」(p.24)という発言もあるそうだ。
戦時中に、多くの作家が食っていくために国策に協力し、妥協していったなかで、彌生子はそうしたことがなく、戦後は、いわゆる戦犯作家でない彌生子のもとに執筆依頼が絶えなかったという。
▼彌生子が時流に靡かず節を曲げずに、戦争否定を貫き日本ファシズムに対して批判をつづけた勁さと英知を認めたうえで、彼女の反戦が、孤立のおそれも生計の心配もなく疎開先では《自然への没入と乱読》に遁避できる、という特権的な境遇にガードされていた事実を、けっして見落としてはならない。(p.89)
その彌生子が、戦中の疎開日記をまとめて出版した『山荘記』のことを、著者はこう書いている。ここも彌生子をくさして、それが強みだと述べる。疎開先の北軽井沢の山荘で、彌生子は敗戦を迎えた。
▼戦火も飢えも傍観して読書三昧の山荘独居で、東京で本土決戦がいわれている時期に《孤独と静寂が愉しみ》などとしるした疎開日記を、まだ戦争の傷や生活難がつづいている戦後八年目に増補した改訂版を出版するとは、顧慮を欠いている。言いかえれば、右顧左眄しない図太さだ。それが彼女の強みであって、揺るがず迷わず悠々と年月をかけて『迷路』のような大きな仕事を成し遂げることができたのであろう。(pp.89-90)
著者によれば、終生、抜きがたい特権意識や差別観のあったという彌生子は、庭の境に有刺鉄線を張って孫の遊び友だちと犬の出入りを封じたりするおばあちゃんでもあった。作者のそういう点を知ってしまうと作品を読んでみようという気持ちがしぼむこともあるのだが、それでも彌生子作品を語る著者の評を読んでいると、『秀吉と利休』や『森』を読んでみたくなる。
茶聖とあがめられる利休ではなく、堺の一商人として、あの時代を生きた人として、生活者利休の姿、矛盾も複雑もかかえたその人間臭さを彌生子は書こうとし、著者は、「その意図を実作で十全にはたした力量は卓越している」(p.155)と記している。あるいは、『森』について、「作品の出来ばえに圧倒される。この豊かなみずみずしい傑作を、百歳近い人が書いたのか、と私は『森』を読みかえすたびに讃嘆を新たにする」(p.190)と書く。
彌生子が師とあおいだ漱石は、弟子の鈴木三重吉にあてた手紙に《間違つたら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれまいと思ふ》(p.21)と書いているのだそうだ。子どもの頃の母が文芸方面で身を立てたいというと、親は猛反対し、とくに父親(私にとっては祖父)は「小説家なんて神経衰弱になって自殺するもんや」とまで言ったらしい。
この祖父の言に今の私は笑ってしまうけれど、漱石がそんなことを書いていることを知ると、文学や小説を書いていこうという人間の見られ方は、ずいぶん今とは違ったのかもしれへんなーと思った。
(7/3了)続きを読む投稿日:2014.07.03
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