
「同じ文字を重ねること」に情熱を傾けた青春小説(君の膵臓をたべたい)
主人公が病院で拾ってしまった1冊の文庫本。タイトルには「共病文庫」。それは本ではなく、クラスメイトである山内桜良が自分の思いを書きとめるための日記帳であった。そしてそこには彼女が膵臓を病み、余命幾ばくも無いことが綴られていた。秘密を知ってしまった主人公と桜良、スクールカースト内でせめぎあうティーンエイジャーたちの交流を軸に、主人公である少年を主体として、ひと夏の不思議な旅の物語が綴られていく・・・と、言ったところが概要なのだが・・・。
例えば、膵臓の悪い人間は誰でも知るはずの「断糖肉食」という言葉を、当の病人であるはずの女子高校生は、なぜやすやすと乗り越え、よりにもよって焼肉屋(まぁ、女子高生の好むのは脂肪分の少ない部位=内臓ではあるけれど)と、スイーツショップへ足を運ぶのか?
村田沙耶香描くところの「コンビニ人間」たち、ほどではないにせよ、なぜ登場人物たちは、これほどまでに「長音符(=「-」)」を交え、会話を交わすのか?それが会話のリアルさ、へのこだわり、だとするならば、評者が生まれてこのかた、現実には聞いたことのない「うきゃ」「きししし」などの(マンガ的)話し方をするのか?
或は、「都会」とは隔たった街(設定上は恐らく中国地方の何処か)に暮らすはずの登場人物の、誰ひとりとして、方言を話すことは無い(その辺りは恐らく著者も好きであるに違いない村上春樹以降の小説にも見られる、最近ではごく普通の現象ではあるけれど)、にもかかわらず、主人公は方言に並々ならぬ関心を抱いているのはなぜなのか?などなど、つっこみどころ満載で、そんな重箱の隅のようなことばかりにスタックしながら、読み進んでいったのだが・・・不覚にも物語の最終盤、落涙を禁じ得なかったのはなぜだろう?いわゆる「難病もの」の類に入るかもしれない、決して朗々とした物語ではない。にもかかわらず、読後に爽やかさを感じてしまうのは、恐らくそのクライマックスのもたらす浄化作用、なのかもしれない。
昨年、2016年の本屋大賞第二位に選出され、その効果あってかどうか?ベストセラーの上位にもランクイン、現在(2017年2月9日)、都内の公立図書館では、予約待ちが100人、というところも珍しくない。それほどこの小説は、「いま」をキャッチしている、ということは確かだ。「つっこみどころ」は前述したように多々あり、粗削り、と言う印象はいなめないものの、しっかりと編み上げられたタペストリーのような物語の構成はとてもしっかりしており、クライマックスめがけた計算もきっちりと働いている。(本のタイトルや、最終盤に至るまで明かされない、見方によっては読者を混乱させもする主人公の実名も、同様の計算が施されたものであろう。)目ざとい映画プロデューサーが、小栗旬、北川景子主演にて映画化しようとしている、というのもうなずける。ストーリーテラーとしての著者の力量には、疑いを挟む余地はまったくない。むしろ、「処女作」であることを考えれば、著者の膂力には積極的に期待を寄せたいところだ。
この小説を、著者は果たしてどのような意図をもってつづったのか?その辺りは評論家諸氏におまかせするとして、(評者のような)詮索好きの読み手にとって、気になるのは、著者=住野よる氏(男性、ということになっている)の実像。何しろ「大阪在住」ということ以外、不明。ネット情報も、ほぼその程度しか求めることのできない、まったく謎の作家なのだ。ならば、ということで、この小説を、ある種の私小説(物語自体はまったくのフィクションであることはあきらかだが)として読み解くと、おぼろげながら、著者の肖像は浮かんでくる。少なくとも、地方都市において、高校時代を過ごしていたこと。本を読むことが好きであること。読んだことのある作家は、志賀直哉、太宰治、村上春樹、彼らにいささか傾倒してもいる。映画は恐らくハリウッドのクラシックものを、監督や出演者にこだわることもさほどないまま、「いいなぁ」という程度に愛していること。本と同じぐらい、マンガにも素晴らしさを見出せること。それは登場人物たちのダイアローグの中に見てとれる。マンガ作者の創作能力にも恐らく一目置いているに違いなく、そらんじることもできる「台詞」=「ネーム」もあると思われる。
作者の「肖像」についてうかがい知れるのはその程度なのだが、それにもまして興味深いのは、登場人物のひとつの台詞(?)、フレーズの中に、同じ文字を重ねることへの、著者のこだわりである。例えば、「うふふ」という笑いを示すフレーズにある「ふ」の文字は、2つもあれば、十分「笑っている」ということがわかるはずだ。そのひとつひとつ、著者は長さを変えている。多いと17文字、さらには25文字。作中、もっとも多く重ねられている文字に至っては、100文字(きっかり)にもなる(この場合、フレーズ内には他の音も少し混じるが)。恐らく100人の読者がいたら、100人とも、読み飛ばしてしまう、その文字を、何故重ねているのか?恐らくそこには、著者の明確な意図、乃至計算が反映されているものと思われる。著者は、読者に対し、明らかに、「文字分の長さで読んで欲しい」「文字をひとつひとつ、ちゃんと追って欲しい」と望んでいる。逆に言えば、その100文字もあるクライマックスの文字列を、納得させるために、手を換え品を換え、文字を重ねる部分を設けた、のかもしれない。そして、その孤独とも思える「情熱」と「計算」は、物語の流れを構成する要素として、見事に機能している、と、クライマックスにおいて「不覚にも」泣いてしまった読者のひとりである評者は考えざるを得ない。いったいその100文字とは何なのか?興味を持たれた方は是非、書店において、本書を手に取って、確かめて欲しい。
処女作には、その作家(の才能)の、すべてが露わになるという。その一方で、また「若書き」という、いわばその後の飛躍を踏まえ、助走期間の拙さを表す言葉もある。著者の書き手としての未来はどうなるのか?これからどれほど精緻な、美しく壮大な、タペストリーを編み上げてくれるものか?それは、著者の今後の創作活動いかん、彼が何処を目指すのか?ということにもよるのだろうが、第二作、三作は既に世に出ているらしい。それに手を伸ばす勇気を評者はまだ用意できない。いま少し、本作読後の熱を冷ましてからにしよう。それからでも、遅くはあるまい。(カロ)

