
原田マハが語る“知られざるゴッホの真実”とは?幻冬舎大学×Reader Storeコラボイベントレポートを特別公開!

新刊『ゴッホのあしあと』の刊行を記念して行われた、特別講義には約100人が来場。キュレーターとしても活躍し、作品の執筆にあたり取材を重ねた原田さんによる、知られざるゴッホの人間像や、ゴッホを描いた小説『たゆたえども沈まず』の創作秘話、またフランスなど取材先で撮影された貴重な写真をまじえながらの“生解説”など、盛りだくさんな講座となりました。今回、エンタメステーションではその講座の一部を特別公開! 作家・原田マハが迫る、知られざるゴッホの真実とは?
常に私の人生を突き動かす、運命の画家
私とゴッホの出会いは、意外と最近といったほうがいいのかもしれません。ゴッホという画家は子どものころから意識していましたし、もちろん知っていました。私は幼いころからアートが大好きで、アートと共に人生を歩んできたといっても過言ではないと思います。父が美術全集のセールスマンをしていたということもあって、子どものころから家には美術全集が山のように積んであるという環境で育ったんです。
10才の時に、父の単身赴任先である岡山の倉敷にある大原美術館に連れていかれて、そこで衝撃の出会いをしたんです。でも、その相手はゴッホではなくて、ピカソ。もうあまりにも下手すぎて、ものすごくびっくりしたんです。当時ちょっと絵が描ける子どもだったので、「こんな下手な人の作品が美術館に展示されるなら、将来私の絵もきっと展示してもらえる!」と思って、ピカソをライバル視していたというとんでもない子どもでした。

ということで、ピカソは、早々とライバル視して追いかけていたんですけれども、一方ゴッホはどうかというと、ちょっと怖い感じがしていたんです。うまいとか下手とかを越えて、情念が溢れすぎていて怖い感じがした。いたずらに近づいてはいけない画家だなと思って遠ざけていたんですね。それから、やたら日本人がゴッホゴッホというので、逆に反発してあえて遠ざけてきてしまったところもあったかもしれません。
けれどそんなゴッホと結局はがっぷり四つに組んで物語を作ることになりました。その結果生まれたのが『たゆたえども沈まず』という作品でした。
実はゴッホのことを書くつもりではなく書き始めた小説なんです
『たゆたえども沈まず』も、実はゴッホのことを書くつもりではなく書き始めた小説なんです。構想が浮かんだのは5、6年前のことだったんですが、最初はこの物語の登場人物の一人である“林忠正”という伝説の画商に注目していたんです。
その前後もアートの小説を書き続けてきたんですが、キュレーターをしていた時の専門が1870年から1920年ぐらいまでの間のモダンアート、世界の美術史が大きく動いた時代です。非常にスタープレイヤーが多くて、日本人にもなじみのある画家がパリを中心に活躍した時代だったんです。その時に、アートマーケットはどのように動いたんだろう? どんな画商がいて、どんなふうに作品が世界中に散らばっていくことになったのか? ということを調べていくうちに、一人の日本人画商の存在に気がつきました。それが、林忠正です。
彼は1870年代に活躍した実在の画商なんですが、彼のことを調べていくうちに、どうやらゴッホ兄弟が、同じ時期にパリにいたということがわかってきて、これはちょっと面白い話になりそうだぞ、とお話の“種”を見つけて。そこから大きく話が発展して、入り口は林忠正で書き始めたのに、終わってみると出口はゴッホだったという非常に不思議な展開の物語になりました。

ゴッホが画家として活躍したのは非常に短くて、わずか10年
なぜ日本人はこれほどゴッホが好きなのか? そもそもゴッホとは何者なのか? 小説を書き始めるタイミングで、ゴッホのリサーチに乗り出すことにしました。4年前に大掛かりな取材を始めて、ゴッホのあしあとをたどっていくうちに、だんだんと深みにはまっていったということを先に白状しておきます(笑)
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年に生まれて37歳で亡くなりました。夭折の画家といってもいいかもしれません。彼は画家として活躍したのは非常に短くて、わずか10年。私たちがゴッホと言ってピンとくる「ひまわり」や「夜のカフェテラス」なんかの作品は、ほとんど彼の最晩年に描かれたものなんです。いわゆるゴッホらしいゴッホの絵というのは、たった24カ月の間に描かれた。そういうことからも、彼が何かドラマを秘めた画家だということがわかるかと思います。
何が原因したのかはわかっていませんが、7月27日にピストル自殺を図ります。ゴッホがどんな状態で自死に至ったかということを、いろいろと想像を巡らせながら、『たゆたえども沈まず』のラストシーンを書くにあたって、取材を重ねました。私なりの結論と想像を物語に書かせていただきましたが、真相はいまだにわかっていません。他殺説も出ているくらいなので、本当に自殺をしたかもはっきりとはわかっていません。最後は、「このまま死ねたらいいのにな」と言って弟・テオの胸の中で亡くなったといわれています。

「夜のカフェテラス」のモデルとなったフランス・アルルのカフェ。撮影:原田マハ
1886年、パリには日本人初のグローバルビジネスマン・林忠正がいた
もう一人、重要な人物。林忠正は実在の人物で、1875年にパリ万博の通訳として行ってから、パリに大ジャポニズムブームが起こる立役者となって、浮世絵など日本の美術品を売りさばいていくんですね。彼は、大変巧みなビジネスマンで、日本人初のグローバルビジネスマンと言ってもいいと思います。当時、パリには数えるほどしか日本人はいなかった。その中で、フランス語を巧みに操り、侍のように、一人、パリを舞台にアートマーケットの中に闘いに行ったという人なんです。
そして、私が目をつけたのは、1886年。1886年、フィンセント、テオ、そして林忠正。この三人は同じパリの空の下にいたんです。これは事実なんです。私は小説を作るときに、どこに起点を置くかというのを考えて、つぶさに歴史の境目というものを見ていくんですが、この1886年という年に、ぴたりと三人がパリの空の下にいたということを知ったときに、「できた!」と思ったんですね。「これで小説を書けるわ!」と

それで、この1886年というのを起点にして、小説を書き始めようということになりました。この三人が、同じ空の下にいたという、ただ一つの奇跡的な事実。これだけをたよりに私は小説を書き始めました。実は、ゴッホ兄弟と林忠正との間に交流があったかどうかというのは、文献で突き止めることはできませんでした。ただ、当時、林忠正は日本美術の画商で、テオもやはり画商をしていて、フィンセントも日本の浮世絵を愛していたわけですから、接点は必ずあったと思うんです。ただ、それは文献には残っていないし、交流もなかったということになっている。そこは、小説家の出番ということで、私はこの三人の間に友情が芽生えたと、そういうフィクションとして書かせていただきました。
ゴッホの最後の4年間を、自分の小説の中で追いかけてみようと思ったのは、一重にゴッホ兄弟に寄り添いたかったから、そして、あの傑作『星月夜』が生まれる瞬間に立ち会いたかったからなんです。
私は、ゴッホのあしあとをたどってみようと、旅に出ることにしました。
※特別講座「原田マハが迫る!新たなゴッホの人間像とは⁉」より
ゴッホが数々の名作を生みだした“最後の四年間”、そして謎につつまれた壮絶な最期。原田さんの徹底した取材に基づいた講義に引き込まれ、あっという間の2時間でした。原田さんの創作の元ともなった傑作『星月夜』はニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵されています。
原田さんが、ゴッホのあしあとをたどる旅を元に綴った『ゴッホのあしあと』、またゴッホ兄弟の絆と真実を描いた小説『たゆたえども沈まず』、あわせてぜひお楽しみください。
取材・文・撮影/エンタメステーション編集部
原田マハ(はらだ・まは)

1962年東京都生まれ。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史学科卒業。馬里邑美術館、伊藤忠商事を経て、森ビル森美術館設立準備室在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館に勤務。2005年「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー大賞を受賞、デビュー。2012年「楽園のカンヴァス」で山本周五郎賞、R・40本屋さん大賞、2017年「リーチ先生」で新田次郎賞を受賞。


























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