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ミステリー短編小説の限界と可能性を知る(満願)

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今回は『満願』(米澤 穂信 著)を取り上げます。

ミステリー短編小説の限界と可能性を知る

満願(新潮文庫)

人を殺め、静かに刑期を終えた妻の本当の動機とは――。 驚愕の結末で唸らせる表題作はじめ、交番勤務の警官や 在外ビジネスマン、フリーライターなど、切実に生きる 人々が遭遇する6つの奇妙な事件。入念に磨き上げられた 流麗な文章と精緻なロジック。「日常の謎」の名手が描く、 王道的ミステリの新たな傑作誕生!

■人が殺人を犯す理由


神仏への願掛けが晴れて叶う。これを満願成就といい、大変おめでたいこととされています。米澤穂信氏の書いた短編『満願』もこの意味を暗示しています。舞台は司法試験受験生がとある貸しアパートに引越したところから始まりますが、その後はたいした波乱もなく、終幕に向けて物語は粛々と進みます。しかし、この小さな短編が収められた単行本は、山本周五郎賞や国内の主だったミステリー文芸賞を総なめにしています。その理由はどこにあるのでしょうか。


種明かしをおそれずに書きますが、本編でいう「満願」の主とは、おそらくは、物語の主人公である鵜川妙子のことです。鵜川は貸しアパートの女主人です。はじめての借り手であり、のちに弁護士となる司法受験生、藤井という男を可愛がり、たいそう面倒を見てあげる甲斐甲斐しい女です。食事の世話をし、藤井が家賃を滞納しそうになればへそくりを貸し与え、合格祈願のダルマを買い与えたりと、まるでわが子に接する母のような態度です。その恩義を思い出に、晴れて弁護士として独り立ちした藤井が、独立後はじめて受け持った刑事事件の被告人が、鵜川妙子なのです。容疑は殺人。


……と、ここまではよくある展開です。小説愛好家が集まる投稿サイトでも、似たような物語はゴロゴロしています。本編の佳作たる所以は、鵜川妙子が殺人を犯した理由に見出すことができます。借金取りからの不当な要求に抵抗して罪を犯したであろうことは容易に推測できます。しかし、殺人現場に残されたダルマ……そう、藤井のために合格の願掛けとして買ったダルマです。そのダルマにべっとりとついた被害者の血痕は、通常では考えられない不自然な状態を示していました。それが、このミステリーを解く鍵となり、殺人の動機を読者に種明かししてくれるのです。

「なるほど、人が誰かを殺す理由には、そういうことも、たしかにあるのかもしれない」

そんな感想をあなたが抱いたのだとすれば、まんまと作者の術中にはまったということです。もちろん、私もまんまとはめられた1人です。


■満願成就の謎はどこに隠れている?


結論からいえば、本編はピリリと胡椒の利いた佳作であること、疑いようもありません。しかしながら、松本清張の『Dの複合』や『点と線』のようなミステリー史に残るような傑作にはまだ遠くおよばないといえるでしょう。その理由は次のとおりです。

たとえば漫画の場合、作画が雑だといかにストーリーが面白くても印象が悪くなることは、熱心な漫画ファンならよくご存知のことでしょう。反対に、作者の強い個性が表れた表現や、傷ひとつない流麗な作画の場合、内容に不満があってもついつい見逃してしまう、ということがよくあります。それほどに、漫画においては作画の比重が大きいわけです。


ところが、小説にそのパターンはほぼありません。作画とは、小説では文体(という名の文章力)にあたるものです。すぐれた文体の小説はたくさんありますが、では、それらの作品が、プロットの辻褄や構成の巧拙の点で見逃せないマイナスポイントを持っていた場合、「この小説は内容はいまひとつだが、文体が良いので佳作である」という一般的な評価を受けるかというと、まずありえません。


逆のパターンは少なからずあります。多少文章表現が粗くても、中身がよければその印象のマイナスを補ってしまうという現象です。有名なノンフィクションライターがお試し的に書いた小説にそのような例をみることがあります。表現は専業小説家には遠く及ばないものの、ストーリーテリングの技量が抜きん出ており、最後まで一気に読ませてしまう、そんな小説です。たとえば沢木耕太郎の作品には、そういう小説がいくつかあります。


では、『満願』はどちらのパターンかといえば、残念ながら前者です。米澤氏のものする文章は流れるような滑らかさで知られています。その実直でまっすぐな美文は、氏が高く評価されている理由のひとつといえます。


しかし、本編に限っては、本のタイトルに採用し、またオーラスで「鵜川妙子は五年の服役の果てに、満願成就を迎えられたのだろうか」と余韻を見せてまで主題との関わりを暗示した「満願」というキーワードは、その内実がまったく明らかにされていないのです。これは、ミステリー小説としては、読者に対してやや不誠実な態度ではないかという印象を持ちました。


冒頭で述べたように、「満願」の主である鵜川妙子は、いったいどんな願いをその胸に抱いていたのか。藤井の司法試験合格?そんなつまらない願いがプロットを最後まで引っ張る鍵であるはずはありません。鵜川家に伝わる家宝(掛け軸)にヒントがあることは私も解読できましたが、明快な答えは見つけられませんでした。「そんな曖昧さがあるのもミステリーの醍醐味だ」といわれればそれまでかもしれませんが……。


ミステリー小説は、通常の小説よりもプロットの構成と事実の正確性の点で読者からきびしいチェックを受けます。それが短編ともなれば、たった一つの誤謬や破綻や曖昧さが、作品の価値を決定的に下げてしまうこともあるのです。


■一粒で二度おいしい作品です


もっとも、ここで私が思い出すのは「小説とは小人の説に過ぎない」という小林秀雄の言葉です。日本の文芸評論を確立した碩学の言葉からは、「小説にあまり多くを求めてはいけない」というゆるやかな達観がうかがえます。小説を読むなら、まゆをひそめてあら探しをするのではなく、娯楽として鷹揚に楽しむ心の余裕が肝要だということでしょう。そのような態度でページをめくるとき、『満願』は、読者にきわめて上質な時間を提供してくれることは間違いありません。


『満願』のなかには、表題作のほかに「夜警」「死人宿」「柘榴」「万灯」「関守」という5つの短編が収められています。いずれも甲乙つけがたい佳作揃いです。特に、異国の地で奔走する商社マンを主人公に展開する「万灯」は紛うことなき傑作です。限られた紙幅であるからこそ浮かび上がる心地よい余情をたたえており、読了後、胸の深いところから湧き上がる感動を抑えることができません。


総じて『満願』は、「短編ミステリーを書くことのむずかしさ」と「短編ミステリーでしかつむぐことのできない魅力」を味わえる、一粒で二度おいしい作品だと評することができます。(たくたく)

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