
Serendipity ~偶発的な出会い~ vol.9 道具としての知恵

わたしたち日本人の多くは、都市化された非常に便利で快適、安全な生活に慣れています。それ自体人間が目指してきたひとつの文明の型であり、悪いものではありません。 とはいえ、それは何かを買い、享受できる立場でいられる限り。お金もモノも持たず、わたしたちはどんな生き方、人生の旅の仕方が可能なのでしょうか。
エベレストにもう一度反対からも登りたい
3月末から、エベレストに登りにいきます。23歳で七大陸最高峰の最後に登って以来、10年ぶりですね。あのとき、頂上に到達すると、僕と反対側のルートから登ってくる人たちが見えました。それまで一ヶ月半かけて、苦しかったり楽しかったり、いろいろな経験をしながら頂上に立ったわけですが、同じような経験ができるルートが反対側にもあるんだ、と思ったときに「いつかもう一度」という気持ちが芽生えました。そして今回、10年ぶりというタイミングで登ることになったんです。前回はチベット側でしたが、今回は南のネパール側から登ります。登山中に経験したことをつぶさに記録して、写真を撮り、両側から見たエベレストの姿を提示するというのが今回の一番の目的です。
昔から旅が好きで、いつも自分が見たいと思った世界へと歩き続けてきましたが、ぼくは登山家でも冒険家でもありません。山も旅の延長上にあるんです。命をかけた冒険なんて進んでやりたいとは思わない。エベレスト登山は当然リスクがゼロにはならないので、無理だと思えば引き返します。だから「挑戦」ではなく、ぼくのなかではあくまで「旅」なんです。
本当に危なかったのは、『最後の冒険家』にも書きましたが、熱気球による太平洋横断に出たとき。予想外の悪天候に見舞われて燃料が足りなくなり、太平洋の真ん中に着水しました。「今までぼくは、どんな危険な状況に遭遇しても(もうだめだ)と思ったことは一度もない。そう思ったときが死んでしまうときだと考えていたからだ。しかし、このときばかりは(もうだめかもしれない)と真剣に考えた」(『最後の冒険家』)。そのときは、どうやってそこを抜け出すかをぐるぐる考えていましたけれど、行動は妙に落ち着いていましたね。
何も持たない裸に近い状態で歩き続けるほうがシンプルでぼくには合っている

自然と近いところで暮らしている人たちは、生きるための知恵を持っていて、そうした知恵に惹かれ続けてきました。近代的な装備を駆使すれば月にも深海にも行ける時代ですが、『全ての装備を知恵に置き換えること』という自分の本のタイトル通り、何も持たない裸に近い状態で歩き続けるほうが旅のスタイルとしてはぼくに合っている。
芸術(art)という言葉の語源は、ラテン語の“ars/アルス”にあります。それは「技術」という意味がありますから、昔は病気を治す医術こそが芸術でしたし、星々の位置によって自分の進むべき道を導き出す「スターナビゲーション」という伝統的な航海術もまた、最高の芸術だと思うんです。簡単に身につけられるものじゃないけれど、その背後にある、人々の暮らしや世界観に触れ、自分にとっての新しい世界と出会いたい。芸術は、この世の中に隠された新しいレイヤーへと自分を連れ出してくれるもの。“電車を乗り過ごすほど読書に熱中し、慌てて駅に降り立って空を見上げたら、世界が違って見えた”、というような、本読みの誰もが経験するあのような感覚と通じるものだと思うんです。
自分と山、自分と世界との関係を撮りたい
今回のエベレストでの撮影でも、そうした世界の別の面に目を向けたいと思っています。エベレストと聞くと、極地であり、冒険の対象として考えることが多いと思うんですが、周辺にはシェルパ族が暮らしていて、彼らのなかでも登山のサポートをする人々は、仕事をする場所としてエベレストを捉えている。世界最高峰として多くの人を惹きつけてきたエベレストの別の側面をしっかり提示するものを作りたいですね。“いかにも”な写真はこれまで数多く撮られてきましたが、そうした「エベレストらしさ」から離れて、登りながら自分と山、自分と世界との関係を撮りたいと思います。
石川直樹さんの紙で味わう一冊
『幻のアフリカ』 / ミシェル・レリス(著)/ 平凡社

出版社が頑張りすぎた本だと思います(笑)。普通この厚さなら上下巻で出しますよ。果敢な挑戦に敬意を表してこの本をぜひ紹介したい。フランスの学者たちが調査という目的でアフリカを旅した時、記録係として同行させた詩人ミシェル・レリスが書いた本です。普通の記録ではなく、性的な妄想など、私的な事柄を含めて書いていて、当時のフランスで物議を起こしました。
Profile
石川 直樹(いしかわなおき) 写真家

1977年東京生まれ。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。00年、北極から南極まで人力踏破する「POLE TO POLE」に参加。01年、当時の世界最年少で七大陸最高峰登頂を達成。11年、『CORONA』(青土社)により土門拳賞を受賞。その他、主な著書に『すべての装備を知恵に置き換えること』『いまを生きているという冒険』、写真集に『VERNACULAR』『ARCHIPELAGO』など多数。






