
藤田和日郎の「二色だんご」いろいろ
藤田和日郎の「二色だんご」いろいろ
現在、週刊少年サンデーで『双亡亭壊すべし』を連載中の藤田和日郎氏。もしも“ソウルフード”ならぬ“ソウルストーリー”というものがあるとすれば、自分はまず氏の作品を挙げるでしょう。
大正時代より、東京・沼半井町に傲然とそびえ立つ奇怪な屋敷、名を「双亡亭」。
立ち入った先で闇と出会ってしまったら、もはや己は己でなくなるだろう。
遺恨を辿る者達はその門戸へと導かれ、集い、挑む。
おぞましき屋敷を破壊する為に・・・!!
それにしても、ことあるごとに自分は「フジタフジタ」云っている気がします(ここのコラムでも言及していない方が少ないような…)。藤田氏の漫画を知らない人からしたら「?」という感じかもしれません。なので、ここらで少しばかり藤田漫画の全体像について語ってみようかと思います。
藤田氏は、以前インタビューで自身を「おだんご屋」、作品を「おだんご」と表現しています(『ジャンプSQ』直撃インタビューによる。現在オフィシャルサイトの記事は閲覧不可ですが、非公式と思われる“魚拓”はこちら→その1・その2)。あまり高尚ぶった作品ではなく身近な作品を描くよ、という意味でしょう。
氏の「おだんご」の魅力は多岐にわたりますが、今回は自分が勝手に「藤田だんご店」の看板メニューだと思っている「二色だんご」に主眼を置くとします。
「二色だんご」とは、つまり異なる2つの要素の併置や対比を指します。物語の作法としては基本的なツールかもしれませんが、藤田氏のそれは名物に相応しく練り上げられた感があります。それらを参照することで、藤田漫画の魅力と藤田氏自身の考えを、多少なりと伺い知ることができるんじゃないでしょうか。
「陰」と「陽」
まず挙げたいのは看板中の看板メニュー、「陰」と「陽」の「二色だんご」です。
直ちに思い当たるのは、妖(バケモノ)や我欲に狂った人間など陰の属性を持つ者と、陽の属性を持った主人公たちの対決でしょう。藤田氏が「陰」を描く筆致は底知れぬ恐怖を伴い、「陽」へのそれは、まさに太陽の輝きを帯びるようです。
『うしおととら』や『からくりサーカス』を始め、「連絡船奇譚」「夜に散歩しないかね」(以上2作『夜の歌』所収)など、ほぼ全ての藤田漫画が該当すると思います。
しかし、闇を抱えているのは敵だけではありません。
先日の“バディもの”漫画のコラムでも触れたとおり、氏の連載作品はどれも潜在的“バディもの”だと思いますが、対になるよう配置された主人公たちの間にも、「陰」と「陽」の対比は見られます。『うしおととら』のとらと潮が分かりやすい例ですが、『からくりサーカス』のしろがねと加藤鳴海(かとう・なるみ)、『双亡亭壊すべし』の柘植紅(つげ・くれない)と凧葉務(たこは・つとむ)なども同様の構図と云えそうです。周囲から孤立し感情を殺している「陰」の者と、他者に共感し気持ちが素直に行動に繋がる「陽」の者による“バディ”とでも云えるでしょうか。
さらに、「獣の槍」で妖化した潮や、自動人形に対する悪魔(デモン)になる決意を固めた鳴海などは、1個の人物の中で「陰」と「陽」が入り混じっているとも考えられます。
こうした人物たちの属性を踏まえれば、「陰」は必ずしも悪ではないということになります。「陰」と「陽」が混じり合い変転し、善なる陰、悪なる陽すら有り得るとする描き方は、安易な勧善懲悪に収まらない深みを漫画に与えています。ここに、藤田漫画の魅力の一つの源泉があると云えるでしょう。
「無骨」と「優美」
次なる「二色だんご」は、「無骨」と「優美」です。荒々しいばかりと思われそうな藤田漫画ですが、絶妙なバランスで繊細な美しさが同居しています。
藤田漫画の特色の1つとして、作者自身の中国拳法の修行経験を活かしたアクション描写が挙がるのは確かです。『からくりサーカス』や「掌の歌」(『夜の歌』所収)では、藤田氏が習っていたという形意拳が直に取り入れられていますし、「夜に散歩しないかね」では古流柔術の動きをいかにもそれらしく描写しています。それらは勢いのあるペン画や、時には割り箸や指自体にインクを付けて極太の線を描くという方法で表され、読者に大きなインパクトを与えます。
が、ただ激しいだけが持ち味ではないのです。『銀河鉄道999』のメーテルがお好きらしい藤田氏は、女性キャラクターを総じて凜然としつつも可憐な存在として描きますし、男性にしても全員がラフなわけでなく、ギィ・クリストフ・レッシュ(『からくりサーカス』)のような優男にも、しっかりと魂を込めています。
人物に限らず、ヴィクトリア朝イギリスを舞台にしたり(『黒博物館』シリーズ)、大正浪漫を薫らせたり(「夜に散歩しないかね」)、『ローマの休日』風な展開を試みたり(『からくりサーカス』)と、作品全体にもエレガントな情緒を与えようとする意志がうかがえます。『うしおととら』で萩原朔太郎に影響を受けたという自作の詩を用い、『月光条例』では宮沢賢治に物語のキーを担わせたのも、同様の意向によるものでしょう。
この「二色だんご」によって、戦いの激しさにロマンティックな美学が重ね合わされた独特な雰囲気が生まれています。やはりこの雰囲気も、大きな魅力と云わねばなりますまい。
「超常」と「科学」
さらに、妖(バケモノ)や錬金術、法力や気功、あるいは虚構の現実化といった「超常」的な要素を主軸として扱いつつ、一方で「科学」にも目配りされているという、そんな「二色だんご」にも注目したいところです。
歴代の連載作品においては、たびたび科学者や軍人、技術者、官僚などが登場し、「超常」的事象を分析したり、対策を講じたりしています。印象的なのは『うしおととら』で「獣の槍」を分析しようとするハマー機関の科学者たちでしょうか。
あくまで脇役であるため、決定的な働きをすることはあまりありません。しかし、「超常」的な力を持つ主人公たちと完全には対立せず、最終的には協力する存在として描かれているところには注目すべきでしょう。
最終決戦で科学者たちの装置が一助となったり(『うしおととら』)、戦闘機に乗って猟銃を構えたり(『邪眼は月輪に飛ぶ』)と、「超常」と「科学」が一丸となって戦う筋書きに、両者に対する藤田氏の考えが滲んでいると捉えるのは行き過ぎでしょうか。
短編「空に羽が…」(『暁の歌』所収)では、魔法全盛の世界観の中、主人公の虫目が機械学を研究した成果によって窮地を救う様が描かれています。いつもの藤田漫画と「超常」と「科学」が逆転しているわけですが、それでも魔術を使う指導者たちが表舞台で活躍し、主人公の「科学」はその裏方として(ただしここでは決定的な活躍をするものとして)役割を果たしています。
この短編は、藤田漫画における「超常」と「科学」の扱いが相応に意識的なものだという説を、補強するもののように思います。
「悲憤」と「おかしみ」
最後にもう1つ、忘れてはならないのが「悲憤」と「おかしみ」の「二色だんご」です。先の「陰」と「陽」にも関連しますが、悲しみと怒りこそは藤田漫画に不可欠な要素でしょう。
白面の者が行う非道に、妻子を殺した妖に(『うしおととら』)、難病にかかった子ども達の悲惨な状態に(『からくりサーカス』)、乱れ消えてゆく物語たちに(『月光条例』)、藤田漫画の主人公たちは涙を流し憤ります。それらは、熾烈な戦いの起爆剤となると同時に、「これで怒らずにいつ怒るのか」という藤田氏の叫びのように、自分には思われます。
「悲憤」は確かに重要な要素ですが、これまで出てきた要素+それだけでは、悲壮感ばかりが際立つ漫画になりかねません。しかし一方で、何とも気の抜ける、時にギャグなのかすら分かりかねる「おかしみ」もまた、藤田漫画の味だったりします。
それは例えば、獣の槍をカップラーメンを押さえる重しにしてソーセージまで切った(『うしおととら』)とか、微妙な味のラーメン屋として雑誌に載った(『月光条例』)とかいうくだりです。物語の本題の隙間に、ほんの少し挟まれる程度ではあるものの、こうした場面には、確かに藤田漫画の空気を作る一要素と云えるものがあります。
「おかしみ」の表れとしては、短編「美食王(ガストキング)の到着」も印象深い作品と云えましょう。アラビアンナイト風の世界観の、とある少女の復讐を描いた一篇です。上記に書いた「おかしみ」とはまた少し系統が違いますが、「毒娘」と「魔包丁」という設定と、演劇的な演出、登場人物たちのコミカルなやり取りによって、物語の中で「悲憤」と「おかしみ」が巧く両立している作品と思います。
以上、「二色だんご」という言葉を鍵に、藤田漫画を矯(た)めつ眇(すが)めつしました。しかし、ぜんぜん語り足らないような気もします。
現在も週刊連載を持つ藤田氏は、まだまだ底が知れない漫画家と云っていいでしょう。自分が語り尽くすか、氏の作品の多彩さに押し流されるか、勝負するくらいの気持ちで、これからも追いかけたい存在です。(100夜100漫)










