
Serendipity ~偶発的な出会い~ vol.25 野田秀樹さんに聞いてみた

舞台で芝居を観ることが特別なことではない日本人は、どのくらいいるのでしょう。劇作家、演出家、そして役者の顔も持ち、2008年からは東京芸術劇場の芸術監督を努める野田秀樹さん。普段演劇を観ない人でも、特にテレビや映画の仕事をするわけでも、わかりやすい芝居をするわけでもない野田さんの名前はなぜか知っています。今回、野田さんの戯曲が電子化されるにあたり、芝居の元となる戯曲というテキストは、いったいどんな読み方をすれば楽しめるのか。その読み方を聞いてみました。
戯曲は、何回も読んでわかってくることが小説よりも比較的多いんじゃないかな。
―今回、野田さんの戯曲が電子化されるにあたって、初めて戯曲を読むであろう方々に戯曲の読み方をお話しいただければと思っています
野田秀樹(以後N):最終的には慣れしかないかな(笑)。戯曲がなんで読みにくいかというと、ロシア文学とかそうだけど、登場人物がわからなくなるからだったりするでしょ。それと一緒で、戯曲は登場人物がたくさんいればいるほど、これは誰なのかを頭に入れて、人間関係をつくっていかなきゃいけないから読みにくいんだよね。自分は仕事だから仕事で他の人の戯曲を読んでも苦じゃないけど、考えてみたら億劫なんだよね。
――なるほど(笑)。本になった戯曲は、役者が演じるためのテキストとしてではなく、誰しもに開かれたものとしてあります。芝居を観ていない読者は戯曲をどう読めばいいのでしょう
N:例えば映画やテレビは脚本っていうでしょ。それらはほとんど説明のためにあると思っていい。一方戯曲は、行間の方を読む作業なんだよね。役者は役をどう演じるかを考えるとき、行間を読むわけじゃないですか。字面だけ読むと、“父「今夜にした。」/娘「そうよ。」/父「今夜、何するんだ。」(「表に出ろいっ!」)”というたった三言でも、役者の演技次第で「今夜、何するんだ。」が全く違って聞こえてくる。
映画の良い脚本には行間があるのかもしれないけど、それが戯曲のポイントです。テレビの脚本は行間を説明していく作業であって、一対一に対応したイメージをやるための道具。演劇の世界で、シェイクスピアがなぜあんなに演じ続けられるのかというと、シェイクスピアを読み込むとどんなふうにも解釈ができるからなんだよね。役者が行間を読んでこうも表現できると気がついたとき、違う表現ができてくる。戯曲が面白いと感じるとしたら、そこだね。戯曲は、何回も読んでわかってくることが小説よりも比較的多いんじゃないかな。
――というのは?
N:一回読んだだけじゃ見えてこないものが戯曲にはすごく多いと思う。人間関係もそうだけど、読み落としもあるだろうね。良い戯曲であればあるほど視点がいくつもあって、例えば小説でも、一人称で「僕が」「私が」と書けば、その視点で書くだけだからある種エッセイに近いけど、三人出てきて三人称で「彼」「彼女」と書くようになると、登場人物それぞれの視点が出てくる。戯曲も同じで、良い戯曲は七人いると七人の目線があって、読んでいるとどうしても七人の目線全部を一回では追えなくて、視点を変えて二回目を読んでみると、いろいろと違いが感じられる。だから戯曲は回数を読むところに面白さがあるんですよ。
劇作家が劇作家として出来上がってきたかどうかを見る方法は、三人登場しているシーンを書けるかどうかなんです。二人の対話は割とだれでもできる。三人目が入ると書いているうちに三人目の存在を忘れたりしちゃうんです。物語上に必要な討論が二人の間で始まったとき、三人目の存在と言葉をどう入れていけるか。さらに四人目、 五人目と同じ場面に大勢の人間がでてきても、それぞれの目線をちゃんと書けるか、全く別のことを考えている喋らない人をちゃんと書けるかどうかなんですね。それができていれば基本的には書けていると思う。だから戯曲を書くことは意外に分裂的な作業だよね。マンガが好きな人は、セリフを吹き出しだと考えてみると読みやすいかもしれないな。
――なるほど。誰かキャラクターが喋っているというふうに
N:現実に今の若い劇作家は、吹き出しみたいなセリフで書いている人もいます。マンガにもいろいろなタイプがあるわけだから、俺のを「ガロ」みたいな特殊なマンガだという人もいるけれど、それはそれでいい。(笑)。
戯曲は文学なんだろうなと思うようになりました

――戯曲も文学の一つだと考えていますか?
N:僕は結局、戯曲は文学なんだろうなと思うようになりました。生前、井上ひさしさんは「戯曲は文学」とおっしゃっていましたけど、俺は若い頃、戯曲は文学である必要はないと思っていた。ただ、さっき言った吹き出しのような戯曲ばかりが増えてくると、文字を後世に残すという本来の役割の文学作品があっていいし、かつてはきっとそれが主流だったとも思うんだ。今は雑誌のようなものが多い。電子書籍はページを進めると前のページは流れて消えていくけど、本はめくってもページそのものは現実に留まっている。だから、字というものに対する感覚が違うと思う。俺はやはり活字と本で育ってきたから頑固な人間の一人でいいと思っているけど、ただ頑なに頑固なのも脳みそに良くないから、自分の興味をひくようになってくれれば使ってみるつもりです。
過去実際に作家たちに一度試練があったのは、手書きからワープロに変わるかというときで、先ほどの井上さんとの文学話しのとき「野田くんは手書き?」って訊かれて、恐らく手書きかどうかの意味は、きっと自分の手で署名することによって責任の所在を明確にすることに近いんですよね。俺はいまパソコンですけど、同時にノートも使っています。恐らく井上さんが言っていた文学は、責任ある知識階級の労働という明治的な意味をひきずっていたと思う。それに対して昭和三十年生まれの俺はちょっと違うところから入っていて、文字というのがあまりにも変調しすぎたから、文化は曲がっちゃったんじゃないかという考えなんです。言葉を全面的に信頼しすぎた結果、学生運動やその他の様々な不幸が起きたんではないかという。文字中心主義に懐疑的な世代であったから、井上さんとはある部分で対立するような考え方でした。いまそこから10年、20年と過ぎて、これだけ文字というものが軽視され消費されると、文学というかたちで文字が残らないか、非常に残りにくい。それへのアンチというか、文字に責任を持とうとする人間もまだいるよということは言いたいんですよ。
――なるほど。戯曲は声に出すという読み方をされるものですが、書く文字と読まれる文字についてはどう意識していますか?
N:自分の戯曲は口に出して言葉になるものだと思っています。気持ち悪がられるかもしれないけど、戯曲は口に出して読んだほうが良い。俺の「えっ」とか「ん」とか言っている箇所は、単純なリズムのための言葉だったりするように、作家ごとのリズムがあったりするからね。
――役者に演じられることを前提に書く戯曲というのは、その制限ゆえに書きにくい、むしろ書きやすいなどはあるのでしょうか
N:どうなんだろう。若い頃の俺のト書きは、演出家が困るようなことを書いていた。“消える”とか“巨大なものが現れる”とか。だから俺の若い頃の戯曲をそのままやるのは大変だと思う。自分ではそのままやってなかったりするから(笑)。蜷川幸雄さんは作家をすごく尊重する方だからト書きに書かれているものはやらなくちゃいけないと考えていて、俺の戯曲を何回かやってくれたけど、ト書きをそのまま実際にやってた。そうしたら凄いテンポが悪くなっちゃって。何も全部やらなくてもいいのにって(笑)。
――戯曲で表現できないことがあるから小説が書きたい、ということもありませんでしたか?
N:意外に演劇っていうのは何でもできる。演劇の人間がよくいう映画との違いの例があって、映画で月面をつくるとしたら大変な金がいるけど、演劇では舞台上に何も無くても役者が無重量状態を演じながら「あ、ここ月面です」と言ったら、お客は信じなければならないルールになっている。そういう意味では何でもできるよね。「ここは身体の中です」と言っても「手の平の上に立ってます」と言っても全然オーケー。それが演劇のすごいところ。意外に演劇でやれないことはないんだよね。死後の世界も生まれる前の世界でもいいし、一万年前にも未来にもすぐいけるんだから。
――そうすると戯曲を書く上で、表現上のフラストレーションを感じたことはない?
N:フラストレーションはないな。書くのは大変だから、遊びたいなあとかはいつも思うけどね(笑)。
自分を中心に読んじゃうと台本は読めない

――来年から新たな「THE BEE」の海外公演が始まりますが、原作は筒井康隆の「毟り合い」ですね
N:これは海外でイギリス人と一緒に、まず英語作品として作ったものなんです。台詞は、原作にもっと会話がいっぱいあればそのままでもよかったんですけどね。ただあるものは使って、足していきました。でも、英語から日本語に翻訳して戻したとき、不思議とそのままお芝居の言葉にはなりませんでしたね。
――小説を戯曲にするというのは、オリジナルを書くのと比べてどうですか
N:ものによるんじゃないかな。上演しないで今日の楽しみに20分位のつくろうよというのであれば、けっこう楽。楽っていうかなんでもできる気がする。そんなこといったら、じゃあやってみろよとか言われそうだけど(笑)。
――即興で(笑)
N:即興で。でもそれはできると思うよ。パッと読ませてもらって、ここが面白いからこういうイメージでやろうって言ったことを理解して一緒にやれる役者が三、四人いれば。
――そういう意味では、戯曲を読める良い役者というのは行間を読める役者ということですか
N:近いんじゃないかな。自分の台詞だけラインマーカー引くのを見るとがっかりするけどね(笑)。自分の役だから間違えではないんだけど、自分を中心に読んじゃうと台本は読めない。台本は、まず公平無私っていう態度で読んだほうが自分の役が見えてくると思うんだ。と言いながら、役者の面白さはそれでもやっぱり公平に読めないってことなんだよね。そのおかげで作家や演出家が気づかなかったことを見つけるんだから。その役からの視点で「ここって変じゃないですか」と感じたことが、演出家の盲点だったりもするんですよ。じゃあこれはこういうふうに考えようよと話しあう。基本的にセリフは変えずに解釈で理解しようとしたほうが世界は広がっていきますね。
――新しい構造を作っていくことで成立することがでてくると
N:そう。あらゆるものがそうで、シェイクスピアの台詞は変えようがないでしょ。例えばこの前読んでいた本で、翻訳者の松岡和子さんが「ハムレット」を翻訳しながら常々思っていた疑問点があったから、オフィーリアを演じていた松たか子さんに話してみたら、さらっと答えてくれたらしい。つまり彼女のなかではもう解決しているわけ。役者は納得しないと台本を読めないわけだからね。これは役者のすごいところですよ。
――それを読者に置き換えると、読者も何かしらの発見をしながら読んでいくことが戯曲の楽しみになるわけですね
N:そうそう。自分が、役者になって読むのが一番面白いと思う。あと、演出家になって読むのも面白いかもね。この本でどの役者でどう舞台をつくってみるか考えてみたりとかね。
歴史を考えるヒント
『歴史を考えるヒント』/網野善彦(著)/ 新潮文庫

三十三ページで、君は驚く。三十三ページにある日本をユーラシア大陸の蓋にしたような、逆さ世界地図の読み取り方が感動的。こう見ると日本が孤島ではなく日本海も大陸との間にある湖であって、地球がどうできたかも簡単にわかる。これを見れば、大陸の人々が九州や北海道から流入してきたってことは間違いないわけですよ。言われてみれば単純なことなんだけど、この発想をぽんとやってみせている網野さんがすごい。これはいろいろな学問にとって相当なヒントになっているよ。朝鮮と最近接している九州の場所はわずかな距離しかない。もうほとんど同じ国だよね。そして辺境理論として、大陸から一番遠い蓋の突端部にある東京が最後に栄えているという理屈もわかるよね。
野田秀樹さんの戯曲集
はっきりした頭のうちに、この三つについてだけは書いておきたかった。長崎原爆投下、連合赤軍浅間山荘事件、そして「私」にふりかかった右眼失明の病。鶴屋南北戯曲賞、紀伊國屋演劇賞、芸術選奨文部大臣賞などの賞を総なめにした野田演劇の頂点がここに。「Right Eye」「パンドラの鐘」「カノン」を収録した記念碑的作品集。
書道教室が神話空間と化し、集団とその物語が変容する衝撃作「ザ・キャラクター」。3人家族の偏愛が世界の終末を招き寄せる、破滅=再生のスラップスティック「表に出ろいっ!」。火山観測所に赴任した男と虚言癖の女が、大噴火の噂を巡って歴史を往還する最新作「南へ」。「信じるとは何か」を問う、野田演劇を体感する戯曲集!
恋愛詩集のバイブル『智恵子抄』を新たな視点で読み解き、既存の高村光太郎像に対する文字通りの「売り言葉」となった大竹しのぶの一人芝居『売り言葉』。究極の実験演劇にして野田秀樹の一人舞台『2001人芝居』、それに『農業少女』を加えた最新戯曲集。大劇場では出来ない斬新な試みに満ちた野田演劇の真骨頂。
Profile
野田 秀樹 (のだ ひでき) 劇作家・演出家・役者

1955年、長崎県生まれ。劇作家・演出家・役者。東京芸術劇場芸術監督、多摩美術大学教授。東京大学在学中に劇団「夢の遊眠社」を結成し、数々の名作を生み出す。1992年、「夢の遊眠社」解散後、ロンドンに留学。帰国後の1993年に企画製作会社「NODA・MAP」を設立。以後も「キル」「パンドラの鐘」「オイル」「赤鬼」「THE BEE」「THE DIVER」「パイパー」など次々と話題作を発表。近年では、中村勘三郎丈と組んで歌舞伎「野田版 研辰の討たれ」「野田版 鼠小僧」「野田版 愛陀姫」の脚本・演出も手掛ける。演劇界の旗手として国内外を問わず、精力的な活動を展開。2009年10月、名誉大英勲章OBE受勲。2009年度朝日賞受賞。



