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失敗した統治論(悪の教典)

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今回は『悪の教典』(貴志 祐介 著)を取り上げます。

失敗した統治論

悪の教典(上)

晨光(しんこう)学院町田高校の英語教師、蓮実聖司はルックスの良さと爽やかな弁舌で、生徒はもちろん、同僚やPTAをも虜にしていた。しかし彼は、邪魔者は躊躇なく排除する共感性欠如の殺人鬼だった。学校という性善説に基づくシステムにサイコパスが紛れこんだとき──。ピカレスクロマンの輝きを秘めた戦慄のサイコホラー傑作。

本書『悪の教典』は、どこまでがネタバレに当たるのか判然としないので、ひとまず、非常に面白い作品である、ということだけを伝えて、その周囲を旋回しながら、語ることにしたい。

主要な登場人物である蓮実聖司は、晨光学院町田高校の二年四組の担任をしている。そんな蓮実は、冒頭、夢の中で『三文オペラ』を聴いている。その『三文オペラ』のことから、話をしてみたい。

『三文オペラ』の戯曲部分は、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトによって造られた。それが上演される際に、音楽を担当したのがクルト・ヴァイルであった。岩波文庫の解説を書いている岩淵達治によれば「初演が空前の大成功を収めた一九二八年八月三十一日」で、「伝説的なベルリンの『黄金の二〇年代』の雰囲気を時代的にとらえたもの」となっている、という。

『三文オペラ』の元ネタになっているのはイギリスの劇作家であるジョン・ゲイの『乞食オペラ』で、それをエリザベート・ハウプトマンが独訳し、それを読んだブレヒトが改作を始めた、という経緯で出来上がった、わけでもなく、その後上演まで、あれやこれやと問題が起きたという。その経緯は、非常に興味深いので、岩波文庫の『三文オペラ』の解説をご覧いただくといいかもしれない。

ロンドンの大泥棒メッキは当地の乞食界を牛耳る大物ピーチャムの一人娘ポリーとひそかに結婚する。ピーチャム夫婦はメッキを葬ろうと画策し、警視総監ブラウンをけしかける。だが、ブラウンとメッキは裏でつながる仲だった。メッキは売春婦の裏切りで入獄するも、ブラウンの娘ルーシーの助けで脱走、だが再び売春婦の裏切りで捕まり絞首台へ。最後の土壇場でメッキは国王の恩赦で釈放、貴族に列せられる。英国のジョン・ゲイの「乞食オペラ」をもとに作曲家クルト・ヴァイルとの協力で完成したこの作品で、ブレヒトの名は一躍世界に知られることになった。この翻訳は現代の生きた日本語を駆使してつくられた現代を反映する新訳である。

この冒頭の夢の『三文オペラ』は、ある意味で、その後続く出来事を予告するものとも捉えられようが、単純に、クルト・ヴァイルの音楽のイメージが、この作品のBGMとなっているだけなのかもしれない。敢えて深読みするとすれば、ヴァイルはナチスによって故国を追われた音楽家であったという事実に、何か繋がりのようなものが感じられもするだろう。

学校と教室というのは、一つの閉鎖空間である。そして貴志祐介の得意とするシチュエーションの一つは、閉鎖空間での人間模様であるということは、以前『クリムゾンの迷宮』に言及したレビューでも書いたことがあるが、今回もまた、それに類する趣向となっている。

学校が、外部から犯罪者が入ることをおそれ、門を閉ざしたとき、閉鎖空間ができあがる。昨今の、学校の問題は往々にして、流動性の担保されない固着した空間であるところに兆しているように思われる。おそらく、貴志もそう考えて、学校の閉鎖性を利用した物語空間を創り上げたのではないか。

学校が閉鎖空間だとすれば、おのおのの教室もまた閉鎖空間となる。教師はそこで統治者の役割を与えられる。フーコーは「統治性」というエッセイの中で、16世紀における「統治」の問題について言及している。

一方には、国家的集中の運動。他方には、宗教的分散と離反の運動。私の考えでは、この二つの運動が交差するところに、十六世紀に特有なあの強度をともなって、「どのように統治されるのか、誰によって、どこまで、どのような目的のために、どんな方法によって?」という問題が提起される。それが統治一般の問題系というものなのです。

これを教室に当てはめてみる。かつて宗教的な規範のもとで諸侯の支配が保障されていた中世においては、諸侯とは力能を保有した神意の代行者に過ぎない。教室において、教職の権威が世間から保障されていた頃の教師の姿とうりふたつだ。
けれども、絶対王政の時代へと移行する際に、宗教的な規範を内に含みつつ統治の概念を発明せざるをえなくなる。これは、教師の聖職観念が世間から失われていく中で、教室にはびこる無秩序をどのように運営すべきかと悩んでいる現代の教員たちの姿に見える。
移行期はたいていは長いものである。この長い変革の中で、いずれ最適な教室の統治が発明されていくことだろうが、現時点では、崩壊するか、妥協するか、交渉するか、恐怖政治を敷くかのどれかになってしまっているように思われる。
果たして、蓮実聖司は教室でいかなる統治を行おうとするのか。そのほころびはどこか。ほころびを繕おうとする蓮実がいかにして、失敗するか。そして、彼は何を行うのか。
本書『悪の教典』は、すぐれたサイコホラーであると同時に、未だ現れぬ教室の統治論の様相を呈している。だからこそ、冒頭のクルト・ヴァイルは、ユダヤ人とナチスの統治における関係をほのめかすかのように配置されているのではないだろうか。言い換えれば、『悪の教典』は一つの失敗した統治のケーススタディのようにも読めるのである。(田中里尚)

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