
嵐に呆然としながらもそのとんでもない威力をうつくしいと(私の男)
嵐に呆然としながらもそのとんでもない威力をうつくしいと
文藝春秋文庫から出ている『私の男』を読みました。そこでは解説(あとがき)の北上次郎さんが1行目にこう書かれています。「何の予備知識もなく先入観もなく、ただ読みはじめるのが良い」と。
本当にその通りで、まだこれを読んだことのない人に向けて何かを語ってしまうのはたぶん間違っているのです。しかも作中では人間関係に色んな秘密が隠されていて、その秘密こそがこの作品の核となる部分なので、うっかりネタばらしもできないという。
また、この作品は、元気で体力も余裕もある時に読むことを推奨します。間違っても「おやつにレモンシャーベットでも食べたいな☆」というような時に読んではなりません。そんなさっぱりしたものとは対極にあるからです。もっとも私は大好きなんですけどねそういうの。
ではここからは、ネタバレも含む書評。
もし、まだ読んでいない人が、買うかどうか迷いながらここを読んでいるのなら、今すぐネット切断して黙って買いに行ってください。ここまで言う理由は読んだら分かりますから!!
『私の男』に出てくる人々は、殆どがまともではない。主人公の花でさえもそうです。
まともではないどころか、とんでもない禁忌にまで踏み込んでいる。なのに、なぜだかとてもうつくしいように感じられて仕方がないのです。もしこんなことが現実で起きていたら、聞いただけで吐き気がするほどの事態なのに。
「おとうさん」である淳悟の壊れ方は、どこか現実逃避の側面があることは何となくわかります。しかし、花の壊れ方はそれとはちょっと違う。この爛れた関係、爛れた世界だけが花のすべてなのです。逃げる対象も逃げる先も存在しません。作中で花が逃げていたのはあくまでその世界の存続を脅かすものから、です。
社会的にも法律的にも絶対に許されないし、許してはならないことなのだけれど、花はここだけが私の居場所で、そのために生まれたようなものだと確信している。その確信を他の誰かが否定する方法なんてあるんだろうか…と、考え込んでしまいました。
わりと序盤で、花は、淳牾は死んだ(嘘か本当かは分からない)と告げられます。それによって「花のすべて」が消え、終わってしまう。
淳牾が「死んだ」というそれは、彼なりの最後の責任だったのでしょうか。父親としての? それとも『男』としての?
淳牾が生きているのかどうかは分からない。でも二度と花の前に姿を表さないことは本当なのでしょう。
花は新しい世界を始められるのでしょうか。空洞を埋めるものは見つかるのでしょうか。古いものを捨てて?
誰にも分かりません。分からないように書かれているからです。
結末まで読めば、花にとってのトゥルーエンドなんて存在しないことが分かります。
花と淳語の決別は社会的にはとても正しい。けれど花にとっては世界の終わりにひとしいこと。
メリーバッドエンドにすらなれず、さりとてバッドエンドとも呼べない終わり。
これはなんと言い表すのが正しいのでしょうね?(春雪)


