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powered by ブクログ177P 9.11は2001年 文化人類学者ってフィールドワークがあって実際に現地に行ってるからプロの旅人感があって好き これに関しては私もそう思うんだけど、日本は自然災害が多くてものが老朽化しやすい現実があるんだよね。それで地震で歴史的建造物が崩壊して人が死にましたっていうのはシャレにならないんだよね。でもやっぱり東京は何でもかんでも新しくなってしまうという寂しさは確かにあると思う。そういう意味で何百年も前の建造物が今も残ってるパリの街並みは本当に素敵だと思うけど、日本の環境災害レベルからそれは不可能なんじゃないかと思う。 青木 保 (あおき・たもつ) 1938年東京都生れ。上智大学文学部卒。東京大学大学院を経て、大阪大学助教授、同大教授、ハーバード大学客員教授を歴任。九六年より現職(先端科学技術研究センター教授)。学園紛争で揺れた70年代初頭、タイの仏教寺院で托鉢してまとめた「タイの僧院にて」が学会で高い評価を受ける。以来アジアの政治と文化の関わりについて考察を重ね、文化人類学的な関心は比較文化、文明論、国際関係論などの分野にも及ぶ。最近は、話題を集めたハンチントン教授の「文明の衝突」に内包されているアジア異質論の政治的な危険性に警鐘を鳴らす。アジアは欧米の人権、民主化の押しつけにただ反発するだけでなく、アジア的価値をもって応えるべきだと主張(『THISIS読売』95年4月号)。異文化に自ら飛び込み、体験する学者としての存在感は大きい。著書に『「日本文化論」の変容』(中央公論社、90年)などがある。 「 アフガニスタン、パキスタンなどの中部ユーラシアの世界は、アメリカの社会と比べればあらゆる面であまりにも違いが目立ちすぎ、日本にいてもこの違いに驚かざるをえません。情報化やグローバル化が進んでいると言われている世界で、私たちは一般に、どこに行っても同じような生活ができ、同じように技術の恩恵にあずかれると何となく思っていることが多いわけですが、実際にはこうした事件によって露呈された大きな意味での世界の違い、あるいは文化の違いによる断層のあまりの大きさに、いまさらながら大きな衝撃を受けざるをえないのです。私もアジアのさまざまな地域を歩いてきましたし、都市も農村も山岳部にもジャングルの中にも行きましたが、アフガニスタンでの米軍とタリバーンやアルカイダとの対立は、また次元の異なる現代の光景と落差を浮かび上がらせたのです。直接の対決でなくては実際に現れることのない差異です。 「九・一一」事件については、現在もその全貌がよくわからない面が多いし、いまでも進行中の問題もあり、いますぐ結論的なことを言うわけにはいきません。ただグローバル化という形で世界は画一化していく、あるいは一様になっていくと思われていたところに、実はグローバル化そのものを抑圧として考える、あるいはその抑圧に対する反発を強く感じて自爆テロも辞さず強行してしまうような世界が一方にある。グローバル化を進める、現代の科学技術の粋をこらしたような文明の世界と、それに対して、そうした恩恵の外にあって自分たちの価値を守ろうとする文化の世界が別個に存在し、その二つの違いの対立がこうしたテロ事件となって現れるという感じもしました。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私は一九九七年にウズベキスタンのタシュケントを訪れました。日本に対する関心が非常に強く、日本語を習いたいという学生もたくさんいました。そうした地域が旧ソビエトだった中央アジアにあり、親日という言い方はあまりにも単純すぎますが、日本に対して非常に関心があることもわかると、この地域はいっぺんに近くなる気がします。タシュケントからさらに中央アジア寄りの、ティムール王の墓所があるサマルカンドにも行くことができました。まさにアジアの中心部、というよりユーラシア大陸の中心部に来た気がしたものです。 言うまでもなく、古い都であるサマルカンドは歴史の教科書にも必ず出てくる東西交渉の要衝で、東西の文物が出会い、東へ西へと伝わる機軸となった場所でもあります。そういうところに行きますと、中央アジアが一つの世界の中心であったことがよくわかります。 そうした世界は、それまでのイデオロギー対立の世界においては、私たちにも身近な存在としてはほとんど伝わってこなかったのですが、いまや独立して、ウズベキスタンの文化を認めよう、それを発展させようという活力を持ち、新しいアジアの一員としても存在していることが認識できます。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「もう一つ、今回のイラク攻撃の前段階でも見られたことですが、「九・一一」後の世界で明らかになってきたことがあります。同時多発テロ事件という悲惨な目に遭って、その復興とテロ撲滅を宣言するアメリカでは、大統領が God bless America.や God bless you.というように「神」という言葉を実によく使います。現代国家の最高指導者が神という言葉を口にするのは、歴代のアメリカ大統領からもヨーロッパや日本の首脳からもほとんど聞いたことがありません。日本の首脳はかつて「日本は神の国である」と言ったことがありますが、それにしても毎回の演説が必ず「神の祝福あれ」という言葉で締めくくられるブッシュ大統領の姿を見ていますと、そこにはブッシュ大統領が信じる一つの神の世界があり、またそれを熱烈に支持し、その言葉に共鳴する人たちがいることがわかります。 アメリカ社会は大変な多民族社会、多宗教社会、多言語社会であり、多文化主義(マルチカルチュラリズム)という言葉も盛んに使われ、それを実践しようとする動きも強いわけです。ただ今回のような事件が起こりますと、そういう声よりもむしろ「神の祝福するアメリカ」という宗教的な表現が政治言語として使われるようになります。それが現在のアメリカの政治言語の大きな特徴になっており、全世界に対して自らの「神の国」を守らなくてはならないという強烈なメッセージが発せられている感じを受けます。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「それは先進国、 G 8のメンバーでもある現代国家としては珍しい現象と言わなくてはいけないと思います。神という言葉が政治言説化することの持つ大きな効果もあるわけで、アメリカが一体となるために「神の国」アメリカという言説が使われているのです。多文化社会アメリカでは「神」はどの宗教の「神」なのか、という問いも当然発せられるべきものにちがいなく、前著でアメリカ大統領の就任式における「聖書への誓い」について指摘したことがありますが、本来、困難な問題を国家と社会に突きつけるはずの言動です。ブッシュ大統領は、自らの「神」をアメリカという国と社会に「重ね合わせる」ことに疑いを持たないようです。 他方、イラクからアメリカや世界に発せられるのは、イスラムの神の国、神が国民を守って最終的な勝利に導くというサダム・フセイン大統領や閣僚たちの言葉です。フセイン大統領や閣僚たちがテレビに出ていたころは、毎回「神のご加護を」とか、「神が守ってくれるから、われわれは勝利する」という、「神」の力を信じるといった言葉が再三スピーチの中に出てきました。 この二年足らずの間に、科学技術の発達の先端にあるような「現代文明社会」のアメリカと、その対極と言っては言いすぎかもしれませんが、その意味ではかなり程度の違うイラクにおいて、政治指導者がともに神という言葉を使い、神の名において自分たちの攻撃や自分たちの反発を正当化する、あるいは神の名において最終的な勝利を宣言する政治言語が見られました。こうした経験はかつてないことであり、それが逆に新世紀初めの現実を表しているような感じがします。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「そのほかの世界でもそれぞれ神や神々がいると思いますが、先に記したように最高政治指導者が神という言葉を使って国民や世界にメッセージを発するということはほとんどありません。それは、近代国家とは世俗国家であり、宗教と政治、あるいは宗教と社会は分離すべきである、宗教を政治の世界あるいは社会の常識の中に持ち込まない 、こういった暗黙の前提があるからです。インドであれ中国であれ、日本であれ韓国であれ、もちろんヨーロッパ諸国であれ、それを守ってきたわけです。それに対して、この二年間のアメリカと、アフガニスタンでのオサマ・ビンラディンやタリバーンの指導者との、あるいはイラクの指導者たちとの、政治的、軍事的な応酬の中では、政治的主張が多く「神の言葉」で語られるという現象が起きています。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私は「九・一一」事件のあとに書いた小さな新聞記事においても、世界の多様性を減少させるような動きは避けるべきだと主張しました。それはいまも全く変わりませんが、現在の世界を見ますと、世界は多様であり、いろいろな価値を持つ人たちがそれぞれ支え合って一つのグローバルな社会を構築していこうという動きはたしかに続いている一方、それとは逆に、お互いに「神」の名の下に、自分たちの信ずる世界だけを世界に広めよう、あるいはそれで世界の動きを解釈してしまおうというような、世界の「単純化」、ある点では多様性の抹消化の動きが起こっています。これに対して私は非常に強い危機を感じます。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「一方にあるのが、アメリカのマンハッタンに代表されるような現代科学技術の達成という形の文明で、もう一方にあるのは、自分たちの信仰を極度に神聖化し、それを広めることを目的として、自分たちのテロ行為を正当化するような動きです。これもまた文明の一つの表現と言えるかと思うのです。イスラムは歴史的に見ても一つの文明にちがいなく、その世界的な広がりから見ても、現代における有力な宗教中心の文明でしょう。それであるからこそ「神の力」も普遍的なメッセージとなるわけです。オサマ・ビンラディンやサダム・フセインの「神」への言及の背後には、イスラム文明の伝統が存在します。ブッシュ大統領の「神」の背後にはキリスト教が存在するのと同じです。私はどちらの政治言語にも、ある種未熟な人間理解と世界理解を感じざるをえません。「九・一一」という大事件がそれを極端な形で露わにさせたと言えるのではないでしょうか。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「 「九・一一」後の世界を特徴づけるとすれば、私たちはいまだ「野蛮な世界」に生きているということではないかと思います。私は科学技術の発展を土台にした「現代文明」とか、イスラム教を中心とした「文明」とか、これまで言ってきましたが、本来の「文明」とはこういう類のものではないのではないかとも考えています。私は「現代文明は形成途上にある」という論文を昨年(二〇〇二年)に発表もしました。「現代文明」は、もっと人類全体への人間的な視野と寛容な態度を持ち、文化の多様性や社会の多様なあり方を認めて、人類が互いによりよく理解しあう世界のことでなくてはならないはずです。としてみれば、私たちはこの世界をよりよくする、より人間的に構築する意志や態度を、いろいろな面ではっきりと示していく必要があるだろうと思います。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「考えてみれば、二〇世紀は世界を一つのシステムにしようとする動きが非常に強かったわけです。それが人類の歴史において初めてと言っていいくらいに、大きな動きとして広がった時代です。もちろんグローバル化の動きは、古代にもありました。ローマ帝国のすべてをローマ的世界にする動き、中国の大文明をつくる動き、インドのヒンドゥー文明をつくる動きも見られました。また、古代ギリシア人の考え方には、人間の世界を普遍的なシステムとして捉えようとする動きがありました。いずれも世界を同じ一つのシステムにしようとする動きであり、しかも「多様な文化・地域・人間」を包括する動きでもあり、それを「文明化」と呼んだわけです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「そこには、よく言われるように、自由か平等かという対立もありました。本来、自由と平等はどこかで重なって実現されないと人間の生活にとっては意味がないのですが、現実には東西イデオロギー対立という形で表現され、実行された自由主義的な資本主義と平等主義的な社会主義とでは、価値や表現、あるいはそれがもたらす人間の生活と文化は、非常に違ったものになりました。 社会主義的な平等主義の行き詰まりが露呈したのが、八〇年代の終わりから九〇年代の初めで、そこに第二次世界大戦と同じくらいの衝撃力を持つ世界の画期が訪れました。そのあとに出現したのは、前にも述べたように、世界には自由主義か社会主義かといった対立だけでは決して捉えることのできない多様な文化や価値、あるいは異なった民族や地域が存在し、また近代世界ではある意味で否定され、社会主義社会では抑圧された宗教が、人間の価値として生々しく存在するという現実であったわけです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「日本においても、近代化の過程で「日本語をやめてフランス語にしてしまおう」といった主張があり、現在では「英語を第二公用語へ」という主張や「英語中心でやっていこう」という主張も一部で強くあるということを、私たちは認識しておかなければなりません。情報化や I T革命の波の中で、文化の多様性の擁護が忘れられるような傾向も容易に出てきます。私は、英語は重要だし、それを多くの日本人が習得する必要は認めますが、英語中心主義的な主張には反対です。世界には多くの重要な言語があるし、東アジアでは中国語や韓国語の重要性ももっと認識すべきです。外国語に対する鋭い感受性を育てることがまず必要でしょう。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「一方で、文化の多様性の擁護などは本当に意味があるのか、という疑問もあります。世界の文化には「強い文化」と「弱い文化」があって、「強い文化」が「弱い文化」を駆逐し、場合によっては吸収するといった現象が見られたことは事実にちがいありません。日本文化といっても、近代国家・社会を作っていく過程で多くのものが失われていきました。先に触れた着物、和服にしても、いまや滅亡の危機にあると言っても過言ではありません。しかし、これも日本人自らが選択した結果でした。この事実もしっかり受け止めるべきでしょう。だが、問題はもっと深いところにあります。後で述べる問題ですが、民族にしても、「歴史ある民族」と「歴史なき民族」というカテゴリーがありました。これは、エンゲルスやスターリンといったマルクス主義者が主張し、ソビエトでは実際に政策に用いたことで知られています。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「また、デカルト的近代合理主義に代表されるヨーロッパ文化の主張とは、「強い文化」が世界の中心になっていくべきだという考え方でした。そして、自然科学としては自然淘汰論、すなわちダーウィニズムと、社会でのマルクス主義、近代主義、啓蒙主義といったものが一緒になって、現在のグローバリゼーションにいたる道筋をつくっています。それはアメリカのブッシュ政権による対イラク攻撃の背景にもどこかで響いているものですから、いま問題としている「文化の多様性」とは、単に地球上に存在する一つひとつの文化を守れ、といったことにとどまらず、現代の国際政治に強い影響を及ぼしている問題なのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「けれども、神道のような宗教の存在はとても珍しい例ではないでしょうか。たとえば韓国に神道と同じような宗教があるかといえば、神道にあたるような民族的、土着的な宗教は存在しません。シャーマニズムがありますが、これは国家と社会の中心にあるような宗教というよりは、むしろ民間信仰として位置づけられていると思います。韓国では儒教、仏教、そしてキリスト教が社会で大きな位置を占めています。しかも韓国人自ら儒教の正統を誇ってもいるのです。このように大勢では世界の大宗教のほうが影響が強いと言えますが、日本では神道が天皇制と結びついていることもあって、仏教や他の宗教と並ぶ大きな力を持っています。その中で「靖国問題」も出てくるわけです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「一方、日本では、仏教が入ってきても神道がその下に隠れてしまうということはありませんでした。実際、どこのお寺に行っても、神社と寺院は並存していて、寺院の境内に神社があるところも多く見られます。神道は全国的に広がっているし、多くの日本人は、一般的に言っての話ですが、お葬式は仏教で、結婚式は神道でします。何か願い事があるときには神社に行って「神頼み」をし、同時に、お寺でも「仏さま」にも祈願します。まさに神仏混淆です。これも実に珍しい、宗教と信仰の形でしょう。 宗教は文化の大きな要素です。「文化の多様性」の尊重というときに、宗教との関係をどう捉えたらよいのでしょうか。個別的な文化に対応する個別的な宗教は、実は非常に少ないことに気づきます。むしろ、大宗教が世界の人口の大部分を覆っているわけです。そこに宗教の持つ複雑な意味があります。 仏教と日本との結びつきを考えてみても、日本では、神道的な信仰があったところに 神道以前のアニミズム的な自然崇拝と言ってよいのかもしれませんが アジアの世界的大宗教として仏教が入ってきて、七世紀の日本でとても大きな位置を占めました。聖徳太子は、日本は「仏教の国」であると宣言しているほどです。それがいつの間にか仏教は神道と共存するようになり、いわば日本の文化に吸収され、その組織も歴史を下るにつれて檀家制度など、日本の社会組織や制度に合わせた形で展開されました。むしろ、それによって日本人の間に浸透したという事情があると思います。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「ただ、自分の信仰を積極的に、時には攻撃的にミッション意識を持って広めようとするイスラム教やキリスト教などの宗教も、広がって行った場所の文化や社会に適応し、適合する部分があります。キリスト教でも地中海世界に行くと、そこにもともとあった大地母信仰がマリア信仰の形となってキリスト教の中で存続していることが見られます。ユダヤ教的な信仰の系統からキリスト教を見れば、父系的で男性的なイメージが強いのですが、イエスの母マリアの大きな存在を信仰する面が強く現れるのは、イタリアやスペインなど地中海文化と結びついた地域です。 こうした習合は、イギリスとかドイツとか、北の方のヨーロッパではあまり見られません。ですから同じキリスト教といっても、地中海的な性格を持って広がったものと、北方で広がったものとでは性格が違います。ドイツなどでは、新教すなわちプロテスタントが出てきて、土着的な文化的系統の信仰を削ぎとって、より純粋なキリスト教信仰としての面が強調されましたが、地域によって異なる発展があったことにとどまらず、同じキリスト教の枠内であるとはいっても、新教と旧教との争いにはとても苛烈なものがあったことを忘れてはなりません。フランスではその対立から、聖バーソロミューの大虐殺が起こったり、ユグノー信徒のように迫害によって他国へ逃れた例もあるのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「大宗教でもヒンドゥー教や仏教は、歴史上はあまり攻撃的な布教は行わずにきました。一方、キリスト教やイスラム教は、布教のためには武力の行使を辞しません。近代日本に限って見ると、キリスト教は仏教や神道を攻撃する形で布教をしてはこなかったし、今でもしていません。キリスト教の教会に来れば救いの教えを伝えようという態度でした。しかし世界の歴史を見ると、西欧の列強は異民族を征服し、植民地を建設するときに、武力や政治・経済の力とともに、精神的にも服従させようとして布教を行ったことがありました。また聖地を、異教徒、この場合はイスラム教徒から奪還するために、十字軍の派遣を行ったこともありました。 キリスト教でもイスラム教でも、土地の人たちが素朴に持っていたアニミズム的なものを、全部否定することはできないと思います。世界中に広まるためには土地の信仰をどこかに包含しなければやっていけないでしょう。それが、キリスト教会の信仰や教義は同じでも、地域的な異なる展開を生み出しました。アメリカの黒人教会といわれるものもそうですし、アフリカなどの独立教会もそうした例でしょう。私のよく知るスリランカでは、タミル人の間に似たような形の教会があります。コロンボの聖アントニー教会はその典型ですが、クリスマスのミサに行ったところ、黒メガネのカリスマ的神父さんのもとでの熱狂的なミサは黒人教会に近いと感じました。同じコロンボでも英国国教会系の教会のミサは、まさにロンドンでのそれと同じような形で行われていました。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私はタイの仏教とスリランカの仏教を比較して研究してきましたが、タイは植民地にはならず、独立国を通したこともあって、仏教は王と国と社会の圧倒的支持の下で発展して、国教的な地位を得ています。一方、スリランカは、一六世紀以来ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地になる経験をして、キリスト教的なヨーロッパ文化の強い影響の中で、仏教は抑圧され変容しました。そのため、この国の多数民のシンハラ人にとって、仏教は反植民地、反西欧文明の精神的バックボーンとなってきました。タイでは、仏教は政治とは関係を持たないという立場で、それなりの中立性を保ってきましたが、スリランカでは、反西欧、反キリスト教、そして少数民であるヒンドゥー教徒のタミル人との対立、民族紛争の中で、仏教徒は攻撃的になり、政治に関与し、僧侶が反植民地闘争の先頭に立って戦うことがありました。今でも民族紛争において、シンハラ・ナショナリズムの中心を担う仏僧が存在するゆえんです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「またパレスチナ問題にしても、イスラム教徒のアラブ・パレスチナ人と、ユダヤ教徒のイスラエル人との対立であり、領土問題としてだけでなく、民族と宗教の問題が重なっていることが、問題をさらに複雑にしています。聖地エルサレムの問題を見ても、このことはよくわかります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となっている場所なのですから、誰がこの場所を支配するのかは、信仰上の「死活」の問題とさえなります。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「フランスなどでも、フランスという国民国家に、個人としてあるいは市民として属するのであって、その中で異民族集団として存在するということは許されません。それで、フランスの学校において、北アフリカ系のイスラム教徒の生徒がつけるベールを学校の中でするのは認めないという問題が生じます。これに対してイスラム教徒は信仰の問題として反発するわけです。この問題にはフランスの「共和国統治」という国家の根幹的な問題が底にあることも指摘されています。異民族集団としての存在がそのことによってスティグマ化されてしまいます。ですから、固有の民族集団から個人を切り離して国家に所属させるというのが、近代国家の共通した性格なのです。日本で民族集団として生きていくのなら、日本国籍は取らず、日本国民とならずに生きていくことになりますが、それはとても難しいことです。また一方で、よく言われるのは、先住民としてのアイヌの人たちが日本人になってしまうと、アイヌ人独自の文化も失ってしまい、民族集団としてアイヌを主張することも難しくなる。日本に同化すると、どうしても日本文化に取り込まれることになります。逆に、近代国家とはそういうものだと言えます。それがいま「国家」がどうあるべきかといった問題にもなっていきます。多民族・多文化社会にとっての「国家」とは、少なくともこれまでに見た「国民国家」では限界があるといった議論です。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「それに、スリランカの場合だと、大学入試において、人口比で入学者が決められます。日本でふつう考えれば大学入試の合否は、個人の試験の出来不出来によって決められるものなのに、出身の民族が全人口に占める割合によって入学者の数が限定されてしまって、はるかによい点をとった学生がその割合を越えるために入学できないことが起こり、その不満が民族紛争の要因にもなることがあるのです。国家の一員であることは同じなのにもかかわらず、です。 こうした例もあることから、近代の国民国家の成立以前のかつての帝国の場合は、民族や宗教への対応や政策がどうであったかという問題が、しばしば議論されるようにもなっています。オスマン・トルコ、ハプスブルク、ローマといった、巨大な領土に多くの異民族集団を擁する帝国では、民族融和政策に成功した時期もあったとされます。オスマン・トルコ帝国であれば、その中心となっている宗教はイスラム教ですが、帝国領内にはユダヤ教徒やキリスト教徒を含め、多くの異民族集団が存在していました。帝国政府は、それらの異民族集団の独自性を認めることを明言していて、同じ民族内で対立や犯罪などの問題があった場合はその民族集団内の法や慣習で処理するようにし、問題が異民族間で起きたときには、「イスラムの大義」の下に、オスマン帝国の中央政府で裁くという対応をしていたと言われます。これは「ミレット制」と呼ばれて知られています。ハプスブルク朝のオーストリア・ハンガリー二重帝国の後期には、独自の「民族宥和政策」がとられましたが、これも異民族を個人として認める方針で、ユダヤ人などは大いに活躍する場を見出したと言われています。政府の高官や役人などへの登用も民族を問わず、君主に対する忠誠を誓えばよかったのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「人間の社会は多くの点で似ているのは事実でしょう。日本からアジア、ヨーロッパ、ロシア、アメリカなどにわたってさまざまな社会を訪れた私の経験からも、それは言えると思います。消極的に見て、アイロニー的表現をするならば、少なくとも人類の社会はサルやほかの動物の社会と比べれば似ていることになるわけですが、「しかしギリシャ人はルター派のドイツ人とは違っており、中国人はその双方とも違っている。彼らがそれぞれに目指しているもの、恐れたり礼拝したりしているものは、およそ似ていないのである」ということも事実にちがいありません。人間の基本的な生の営み、たとえば家族をつくり社会の規律を守るようなところは似ていても、その実際の表現は非常に違うことが多いのです。その差異を認めなくてはならないという考え方がここで説かれているわけで、それは平凡なことのようで、実は大きな真実を含んでいます。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「ハード・パワーである経済力、技術力、政治力、軍事力とソフト・パワーはもちろん関連しています。ハード・パワーを全く欠いて、ソフト・パワーが影響力を与えるかと言えば、それは難しいところです。しかし、関連はしているけれども、この二つは同じではないとナイは指摘しています。 「ある社会の物質的な成功が、その文化やイデオロギーを魅力的なものとし、一方で、経済的・軍事的失敗は自信喪失とアイデンティティ・クライシスを招くという政治学者サミュエル・ハンチントン(『文明の衝突』の著者)の指摘は正しい」としたうえで、「しかし、ソフト・パワーがハード・パワー基盤に完全に依存しているという彼の指摘は間違っている」と言います。 その例として、カトリックの総本山であるバチカンを挙げます。バチカンはローマの一部にある小さな宗教国家ですが、全世界の信者に対して非常に大きな影響力がありますから、地理的なサイズがかつてより小さくなったからといって、そのソフト・パワーが廃れることはないし、イラク問題でもローマ法王は反戦を訴えたという事実があります。バチカンはハード・パワーはほとんど何もありませんが、信仰を通したソフト・パワーで全世界に訴える。ローマ法王が何かを言えば、全世界のマス・メディアがそれを取り上げて報道する。それによって、バチカンの発言や主張が、世界の世論の一部を形づくることはできるわけです。それは信仰という土台に乗っていますが、非常に大きなソフト・パワーであると言うことができます。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「つまり、共産主義や社会主義に対しては、日本でも戦前から戦後にかけて、共産党や社会党をはじめ知識人の間でも大変な共感を生んでいたことは事実です。ソビエトに対して共感を持っている国は、中国をはじめ多かったわけです。西側と呼ばれる国でも、特にヨーロッパの人たちはどこかでソビエトを応援していました。それはイデオロギー的、そして思想的な共感でもありました。 それがハンガリーやチェコ・スロヴァキアを侵略したために、一挙に幻滅を与えてしまった。大きな意味では一九五〇年代から始まった、ソビエトのいわば帝国的な力、武力や政治力の発揮が、ソビエトに対する大きな幻滅を世界に与えたことは事実です。それに加え、スターリンによる大規模な粛清や、「収容所」の存在が、政府による抑圧のシンボルとして世界に知られました。こうした事実とイメージによって、イデオロギー的なソフト・パワーが低下してしまった。それが九〇年代における崩壊につながったとも言えるでしょう。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「イスラム教徒にとっては、アメリカといえばイスラムを弾圧したり攻撃したりする敵だという見方もあります。ただ、今回のイラクの報道でも示されているように、イラクはサダム・フセイン大統領支配下で湾岸戦争以来、大変な反アメリカの態度を示してきましたが、社会の一般の人たちはスニーカーやTシャツ、あるいはハリウッド映画なども、どこかで魅力として認めていたようなところが見られます。たしかにイスラム教徒の間には、いろいろな面で反アメリカの動きは見られますが、ナイが言うように「イスラム教徒にとって魅力的なわけではない」ということではありません。インドネシアやマレーシアに行っても、イスラム教徒は多いのですが、アメリカの大衆的な娯楽、テレビや電子コミュニケーションは魅力的であり、しかも多くのイスラム教徒の人たちがそれを見たい、使いたいと思っています。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「ん。「銃社会」アメリカでは殺人や暴力の問題が頻発し、人種差別もさまざまなレベルで見られます。その限りでは世界がアメリカのようになっては大変だという印象を与えることがあります。そうしたときにはアメリカが外部の世界に対して平和や暴力反対を訴えても、影響力は持ちえません。一九九〇年代の初めにはシンガポールのリー・クワンユー首相(当時)などが、アメリカの「人権・民主化」政策を批判して、アメリカや西欧の社会の家族崩壊現象や暴力を引いて、反論したことがありました。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「それに対して、ほかの国の指導者は、特に人権や民主化がうまく行われていない国の指導者は、他国に行って公開講演をしたりテレビに出たりするということはまずしません。サダム・フセイン大統領もそういうことをやっていれば、別の局面が見られたのかもしれません。金正日総書記もそういうことは一切しません。また、いまミャンマーにおける軍部の指導者による人権の抑圧や民主化の弾圧が国際世論で大きな問題となっています。アウン・サン・スーチーさんの処遇問題は常に大きな課題ですが、ミャンマーの実権を握っている国家の指導者が、ミャンマー国内でも、外国でも、公開の場でミャンマーの立場をきちんと説明するということは全くありません。そうなると、ミャンマーに対する信頼がなくなり、批判の正当性が浮かび上がってくるわけです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「 もう一つは、ハード・パワーとソフト・パワーに分けることはできても、ソフト・パワーはあくまでもパワーです。軍事力とハリウッド映画の人気はすぐは結びつかないのですが、アメリカの主張を他の国々に受け入れさせるために、アメリカに対する好感度、いいイメージがあることが重要だという観点からなされた、アメリカの影響力行使のためのパワー論であるということです。ハリウッド映画のように世界的に人気を博し、世界の大多数の人間が観ようとするような文化製品をつくることによって、アメリカのイメージがよくなり、他の国々がアメリカに好感を持つようになって、アメリカの政策や戦略を受け入れる、その戦略にソフト・パワーが役に立つという主張です。 たとえばアメリカが日本に対して何か要求するときも、経済力や技術力、軍事力というハード・パワーを使って要求しなくても、ソフトな面での魅力があれば、日本もアメリカの言うことに従っても悪くはならないだろうと考える、ということです。 アメリカが生み出す文化的な生産物は、ハリウッド映画やポピュラー・ミュージック、あるいはコカコーラにしてもマクドナルドにしても、世界で人気を博して、世界の映画や音楽の中心となったり、世界のファストフードの中心となったりする、それがアメリカのパワーの増強に役立つと考えられているのです。ですから、それは文化における覇権的な戦略、産業における覇権的な戦略とも結びついています。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「 日本語は長い歴史的な変化をこうむってきていますが、いまなお日本語の中核というものは厳然と存在していて、韓国語や中国語、英語とも違う言語を形成しています。このことは当然のことと言われるかもしれません。ただ日本語が大きく変化してきたことは誰しも容易にわかります。江戸時代の日本語、あるいはそれ以前の日本語と現在の日本語は非常に違っています。現代の日本人にとっては、過去の日本語による文章は必ずしも理解できるものではありません。 しかし、われわれは日本語の中に日本の文化を保持していて、時代ごとに美しい日本語を定着させ、すばらしい文学作品を創り出してきました。それをもって、日本語が世界のほかの言語に劣る、あるいは逆に優れているという問題とはなりませんし、そのまま文化の力の問題となるのではありません。日本語の個性が音や文字、文章的な表現において存続していき、それが魅力的になればなるほど、日本文学を通して日本人の世界を読み取り理解したいと願う人たちが外国に出現し、また日本語で書かれた作品がそれぞれの異なる言葉に翻訳されることになります。その結果、日本人の魅力、あるいは日本の国や社会や歴史の魅力も世界に伝わっていくわけです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私のような年代の者にとってのロシアの影響には、二つのタイプがありました。一つのタイプには、ロシアからソビエトになった共産主義ロシアの発信するイデオロギー、つまりマルクス主義の国家観や社会観と、その「実現」であるソビエト社会への関心です。私などの大学時代には、マルクス主義や社会主義的なイデオロギーを高く評価して心酔し、それを誇らかに宣伝するような学生も多くいました。むしろマルクス主義の影響を受けないのは鈍感な学生として悪く評価されるような風潮もあった時代でした。私はまことに鈍感な学生であったのです。 もう一つが、イデオロギーの世界ではなく、旧いロシアの発信する文化的な魅力に関心を持つ人たちです。その場合のロシア文化とは、ほとんどが革命以前の音楽あるいは文学でした。私もチャイコフスキーやボロディンの音楽、ムソルグスキーのオペラには関心がありましたし、ロシアの文学、ツルゲーネフ、チェーホフ、トルストイやドストエフスキーの小説には非常に大きな影響を受けました。モスクワの講演では、私自身はこちらのほうでロシアとつながっていたと発言をしたのです。そうしたら、ソビエトが崩壊した後ということもあったのでしょうか、満場の拍手をもって迎えられた記憶があります。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私のような年代の者にとってのロシアの影響には、二つのタイプがありました。一つのタイプには、ロシアからソビエトになった共産主義ロシアの発信するイデオロギー、つまりマルクス主義の国家観や社会観と、その「実現」であるソビエト社会への関心です。私などの大学時代には、マルクス主義や社会主義的なイデオロギーを高く評価して心酔し、それを誇らかに宣伝するような学生も多くいました。むしろマルクス主義の影響を受けないのは鈍感な学生として悪く評価されるような風潮もあった時代でした。私はまことに鈍感な学生であったのです。 もう一つが、イデオロギーの世界ではなく、旧いロシアの発信する文化的な魅力に関心を持つ人たちです。その場合のロシア文化とは、ほとんどが革命以前の音楽あるいは文学でした。私もチャイコフスキーやボロディンの音楽、ムソルグスキーのオペラには関心がありましたし、ロシアの文学、ツルゲーネフ、チェーホフ、トルストイやドストエフスキーの小説には非常に大きな影響を受けました。モスクワの講演では、私自身はこちらのほうでロシアとつながっていたと発言をしたのです。そうしたら、ソビエトが崩壊した後ということもあったのでしょうか、満場の拍手をもって迎えられた記憶があります。 ソビエトに共感を持った人は、日本にも世界にもたくさんいますが、その背後にはロシア革命以前にロシアが持っていた文化に惹かれてロシアを信頼するような気持ちがあったのではないでしょうか。ロシア文化は人類の共通の価値を切り開くような文化であって、そのいくつかは革命ロシア =ソビエトの文化判断から価値を否定されることもありましたが、モスクワやレニングラードの音楽家やオーケストラは、日本公演でも「昔の」作曲家の作品を中心にプログラムを組んでいました。ロマノフ王朝の帝政時代が政治的、経済的、社会的に特によかったとも思わないものの、その時代が生み出した世界的な文化に対しては非常に心を惹かれるものがありました。それはソビエトのソフト・パワーとして活用されたと言ってよいでしょう。ソビエト体制が崩壊したあと、現在のロシアは、ソビエト時代は通り越して帝政時代に直接結びつきたいのかもしれません。プロコフィエフやショスタコーヴィチなどの音楽家や、エレンブルグやショーロホフなどのすぐれた作家を輩出したソビエト時代の文学や芸術が、すべて魅力がないと言うのではありませんが、自由な芸術活動を抑圧したイメージはあまりに強いのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「両国ともに日本の ODAを通した協力も行われていますし、日本に対する関心は強いにもかかわらず、ソフト・パワーとしての日本はほとんど認識されておりません。タシュケントでは、私が訪れてからすでに五年以上も経っていますし、情報化時代ですから、アニメなど日本の文化発信も受け取られているとは思います。当時は存在しないも同然だった日本語普及活動もいまでは行われるようになったという話も聞きました。「辺境」であるからこそ日本も逆に「文化発信」を強くすべきだと思います。 ロシアはウズベキスタンを連邦の一部として支配してはいましたが、武力や経済力、技術力、政治力で支配するというだけではなく、さらに文化力の影響があったため、ウズベキスタンの人たちのロシアとロシア文化に対する関心は、現在でもさほど衰えているようには見えないのです。もっとも、ここでもアメリカと英語への関心が次第に高くなっているとは感じましたが。 タシュケントは非常にきれいな町です。中心部の道路の両側には並木のある歩道があって、非常に美しい都市づくりをしています。これは帝政時代からのロシアの都市づくりの影響だと思います。これが今後急速に変化して、現代的になり、アメリカ的になっていく可能性はありますが、ロシア文化の力が町並みづくりにも発揮されていたということは忘れられることではないでしょう。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「アジアの代表的な空港では、いまはそうしたアクセスの面がよく考えられています。先年、香港で新しくつくられた空港は、以前は香港島から船で一時間近くかかったランタオ島にありますが、空港開港とともにハイウェイとエキスプレス・トレインが整備されて、外国人の旅行者も市街中心のホテルにすぐたどりつけるようになっています。日本の空港には、新しい関西空港にしても、そういう配慮がなく、人間的なサービスという点ではるかに劣っています。全体として、外国人が日本に来たいと思っても容易に来させないような条件を玄関口である空港から作り出しているわけですから、それが現代日本の魅惑度を削いでいるという感じを外国人に抱かせても仕方ないでしょう。 こうした問題は、基本的には文化度、あるいは日本のソフト・パワーに関することですが、同時にそれを創り出そうとする努力の問題だと思います。この努力は社会にも政府にも、いまだ大変に薄いと言っても過言ではないでしょう。それが海外において日本のイメージを悪くさせているところです。決して日本社会が悪いということではありませんが、外国から訪問客を迎える空港サービスも文化度の問題として捉える必要があると言いたいのです。新世紀には、空港は国の入口というだけでなく、国のシンボルともなり、そのイメージ形成に大きな影響力を発揮します。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「私はかねてから「歩ける都市」の創造が必要であると提言してきました。都市に住み、また訪れる人たちが、都市を利用し、楽しむために、都市を歩くことは非常に重要です。歩くことは健康にも重要だと盛んに言われていますが、たとえば実際に東京の街を歩いてみると、とても気軽には歩けないことがわかります。 まず、道路が歩くためにつくられてはいないということに気がつきます。車中心ですから歩道が狭いことに加えて、ある程度歩くと道路によっては歩道が歩道橋で分断され、階段を上ったり下りたりの繰り返しを強制されます。これは大変な苦痛です。それが続くと散歩の楽しさは味わえなくなります。それに、歩道がよく途切れることも歩く者にとっては苦痛です。 日本の戦後の都市開発はすべて、自動車のための道路、オフィス用の巨大ビルといった考え方が先行したもので、経済発展のための都市づくりでした。たしかに、それは、発展のためには必要なことにちがいなく、決して否定されるべきことではありません。また、大きく見事な街をつくり出した面はありますが、その反面、いかに人が都市を気持ちよく利用できるかという側面はないがしろにされてきました。 最近の都市開発では、文化都市開発という言い方も現れました。現在、東京・六本木に大きな再開発地区が完成しましたが、その中には巨大なオフィスビルやマンションのほかに、歩ける広場や庭園があり、豪華なホテルやレストラン、ハイ・ファッションの商店も軒を並べて、「文化的」にうまくつくられています。しかし、そこにたくさんの人が集まってきて仕事をしたり、ショッピングを楽しんだりしようとしても、そこへのアクセス、周辺の道路や地下鉄への配慮は何もされていません。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「 「歩ける都市」というと、やはり西ヨーロッパの都市を思い浮かべます。代表的な都市としてパリを考えてみますと、いかに人間がうまく歩けるようにつくられているかがわかります。パリのブールバールといわれる大通り、あるいは狭い入り組んだ路地を歩いていても、人間が歩くようにつくられていて、周囲の建物や景色との関係もうまく按配してあるところが多く、歩いていてほとんど苦になりません。いつの間にかパリの半分ぐらいの場所を歩いて過ごしてしまいます。休日には朝から晩まで歩いていて、ほとんど地下鉄やバスに乗らずに、主要な場所、美術館や劇場、図書館などを歩いてまわることが、いつの間にか習性になっていることに気づかされます。東京で同じような生活をすることはちょっと想像できません。 パリのように地下鉄が大変発達していて、どこに行くにも地下鉄ですぐ行けるようなところであっても、都市で暮らすために、歩くことには非常に大きなウエイトがかけられていると感じます。もちろん、ベンヤミンをひもとくまでもなく、パリの街路には革命や反政府運動の弾圧という歴史が刻まれています。バリケードを築かせないためのブールバール造りという面もあったわけですが、現在のパリの「歩きやすさ」をここでは実感として、例に挙げました。ロンドンやミラノ、ミュンヘンであっても、同じような部分があります。西ヨーロッパの都市には、北京や上海、東京のような巨大都市は特になく、歩いてまわれるような規模の都市が多くて、非常に人間的なサイズを感じさせます。歩いていれば広場や公園があって休めるし、カフェも気軽に入れて気分が落ち着きます。都市全体におけるその配置の仕方も非常にうまく考えられていると思います。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「残念ながら、アジアのほとんどの都市は歩くためにつくられてはいません。人間がいかに快適に利用するかという観点からの都市づくりがされているとは思えません。そして、別に日本の悪口を言いたくはないのですが、日本の場合には美術館、劇場、公園に行く場合でも、気軽に歩いて行けるような距離になかったり、先に言ったように道路がそのようにつくられていない場合がほとんどです。これでは都市のソフト・パワー、あるいは都市文化の魅力を非常に低めることになってしまうでしょう。 一九六〇年代にバンコクに初めて行ったときは、熱帯で暑いことを除けば、決して歩いて嫌な都市ではありませんでした。しかし、いまは一説に世界一の交通渋滞があり、それを緩和するような都市計画がほとんど行われてこなかったこともあって、歩くことはむしろ自殺行為になってしまうとさえ言いたくなるところがあります。車で一時間かかるけれども歩けば一〇分で行ける、といった笑うに笑えないようなことも現実にあり、しかも一〇分歩けば大気汚染で息はつまり、眼には涙があふれ、呼吸困難に陥りかねません。 バンコクだけではなく、シンガポール、あるいはクアラルンプールその他の東南アジアの都市からインドの都市も含めて、イスタンブールに至るまで、アジアではほとんどの都市が歩けるようにつくられていないということは、自分の足で歩いて確かめた経験として、申し上げることができます。 「歩ける都市」というのは都市の魅力の基本だと思うのですが、そのためには、深夜、一人で歩いていても、泥棒やストーカーの危険がないという安全面も重要です。歩けるかどうかという面からの都市の快適度の測定は、犯罪の問題、治安の問題にもつながるのです。歩ける都市かどうかを計ることは、都市のソフト・パワー度、あるいは文化度のバロメーターになるでしょう。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「ひるがえって東京を見ると、先に皇后の実家である正田邸が壊されることに対して反対運動がありましたが、結局壊されてしまいました。こういった建物は、上海であれば文化財に指定して、普通に人が住みながら保存する方法を取ったのではないかと思います。東京にも近代的な文化財となりうる建築がたくさんありましたが、たとえば東京駅前の工業倶楽部も解体されて、新しい建物になってしまいました。 全部が全部というわけではありませんが、大半の近代的な建築物、特に繁華街やビジネス街にあるものは、使いにくい、古い、狭い、などの主に商業上の理由から壊されて建て替えられてしまったのです。この都市再開発の名の下でなされた、近代の記念建築の破壊によって、近代都市としての東京の文化的記憶はほとんど消え去り、現在の東京は歴史の浅い新しいビルしかない、文化的記憶の薄い都市になってしまいました。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「これまで、ソフト・パワーと文化の力(あるいは文化力)という言葉を、私は交錯するように使ってきました。ソフト・パワー論は、ある国や都市が他の国や世界に対して影響力を発揮できるか、という戦略論にちがいなく、自国の方針をいかに相手に理解させ、従わせることができるか、という議論です。ハード・パワーではどこかでどうしても強制的にならざるをえないとき、ソフト・パワーによって自国の魅力を発揮して、相手をその気にさせようというものなのです。それは単に一つの国に一つの文化があるということとは違って、世界に影響を与えようとする能動的な文化の力の発信であることは事実です。 けれども、「ソフト・パワー論」の刺激を受けつつ、私は世界戦略的な政治理論とは違う形で、現代世界におけるソフト・パワーの重要性をもっと文化に引きつけて、考えたいのです。ソフト・パワーはあくまでもパワー論ですから、そこには政治経済的なパワー拡張論が背後にあります。しかし、世界の相互依存と緊密化が進む現代のような時代においては、一国の覇権的な拡張は世界秩序を形成するどころか、大いにそれを乱す結果を生み出さずにはいません。そうではなく、異文化間で起きる接触や交流、そして混成化によって、それぞれの文化の力を高め、その魅力を発揮し合う中で、人々が充実した生活や充実した仕事ができるような世界の展開を期したいのです。その意味で、あいまいな言い方になるかもしれませんが、文化の力という問題をあらためて提起したいと思いました。 アメリカの国家戦略的な観点からのソフト・パワー論ではない方向として、それぞれの国や地域がお互いに文化の力を出し合って、お互いに魅力を高めながら、グローバリゼーションの中で人間の交流、文化の交流、あるいは仕事の面での交流をうまく果たしていくことが考えられないでしょうか。それがもっと大切なことではないでしょうか。お互いの文化の力を発揮するような方向で、政治や経済、技術、そして社会が一致協力して進んでいくところに現れるのが、本書で私が言いたい「多文化世界」なのです。 ただ、気をつけておきたいのは、文化の力は、国や社会の伝統的な文化、あるいは固有の文化と思われているものを積極的に活用して広めていこうとすることだけを意味するのではないことです。もちろん、現代の日本においては、歌舞伎や能などの伝統的な芸術、神道や仏教などの宗教、伊勢神宮や京都や奈良の神社・仏閣、さらには京都の町屋などにも象徴されるさまざまな建築など、これらは日本文化の中核として重要な位置を占めています。しかし、文化の力を発揮するというのは、単に伝統的な芸術や建築、宗教を継承し、発展させることを意味するだけではありません。現在の日本の社会が、日本の国内においても、あるいは世界の他の国から見ても魅力を持つものであるかどうか、というところに眼目があるのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「ナイの論文では「知は力なり」という言葉が引かれていました。この言葉は古来、いろいろな人が言ってきたことですが、私はむしろ「文化は力なり」だと思います。 文化の力は、人々が豊かな気持ち、あるいは、楽しめる気持ちで生活し、他の国の人々や異文化を持つ人々とともに生きていけるのか、ということにかかっています。この場合の「力」は、文化の支配的な力ではなく、自発的な力です。一国だけでいくら文化の力を発揮しても、隣の国がそうでなかったら、これは「多文化世界」にはなりえません。これからの世界を考える場合には、「文化は力なり」ということを各国、各社会が深く受け止めて、いかに自分たちの生活から世界に向けて文化を魅力的に発信していくかが、大きな問題になります。「多文化世界」は「多文化社会」とは違います。つまり、自文化のアイデンティティを主張しあうことにはとどまらないのです。」 —『多文化世界 (岩波新書)』青木 保著 「東アジア世界と対照的なのは、そこには伝統的な習慣、またヒンドゥー教に代表されるような宗教の力が非常に強力で、現在でも人々の心を動かしていることです。これは笑い話としてインドの知識人から聞いたことですが、中国などの在外「華僑」は、出身地の村のためにお金を使うこともあるが、同時に、上海のビルを建てるなど、中国の経済発展のために投資する。インドではどうかというと、在外「印僑」の人たちは、お金がたまると、第一に郷里の寺と僧侶に寄進をしたり、新しい寺院をつくったりするのに使う、という話でした。そういう面で、故国の経済発展への投資は二の次になってしまい、何よりも信仰や故郷の文化保持が重要視されるというのです。古くからある習俗に対する執着も非常に強いのです。 インドでは、片方で近代化、グローバル化という変化に適応しなければいけないということは認識されているのですが、同時に、連綿として続いてきた自分たちの文化を守っていこうとする力も非常に強いのです。 インドの首都デリーという近代的都市に行ってもわかりますが、女性はほとんどの人がサリーを着ています
1投稿日: 2026.06.22
powered by ブクログhttps://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/webopac/BB01582447
0投稿日: 2025.04.14
powered by ブクログ青木保 「多文化世界」 多文化世界を構築して 文明衝突を避けようとする思考実験の本と捉えた。とても良書〜文化人類学は 世界を変える学問だと思う バーリンの文化多元主義(プルーラリズム) と ナイの ソフトパワー論 を主テキストにした2部構成。前半は多文化世界の概要を論じ、後半は どのように文化度を高め、多文化世界を構築していくか論じている 国際政治学者 ハンチントン が提示した文明衝突論(異なる文明間の衝突は避けられない)に対して、多元主義とソフトパワー論を用いて反論している 著者の結論 *現代の国家、社会、人間の取るべき態度は 異文化理解を基礎として、多元主義を認識し、協調と説得を ひたすら行う *それぞれの文化が 文化度を高める努力をすることによって、一つのグローバルな多文化世界を構築する 2000年沖縄サミットにおいて「文化の多様性」が21世紀の一層の繁栄のテーマとなっていることを初めて知った
0投稿日: 2021.08.08
powered by ブクログ著者は文化人類学者。仏教国タイについての理解を深めるために、出家してタイの僧院で修行したエピソードは、目新しくて興味深く読んだ。民族.宗教.地域.言語が異なる異文化への理解を深めることで、自国の文化も深く理解でき、他者との相互理解に基づく深い交流が可能になるという。これからの未来を生きる全ての人にとって、今後の大きな課題の一つだと感じた。
0投稿日: 2019.10.03
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
2003年の出版の本。 911以降の世界を文化人類学の観点から考える、みたいな感じかな? 大きく2つの部分になっていて、前半は、バーリンの議論を踏まえた文化の多様性と相互理解の可能性みたいな話で、後半は、ジョセフ・ナイの議論を踏まえた文化政策?みたいな話。 前半で紹介されるバーリンの議論がとても面白い。 プラトン的な世界観に基づいて、良かれと思ってやることが、結局のところ、全体主義に行き着いてしまうという構造。それに対抗しうる思想家として、マキャベリがいるという。。。。評判の悪いマキャベリが、なぜか多文化世界につながっているという不思議。 自文化中心主義的で、他者に自分の文化を押し付けようとすることの問題はいうまでもないが(とはいえ、それって今でもたくさんあるんだよね)、文化相対主義も危険性を持っている。 全ての文化が相対的であると、私はこういう文化なんです、という開き直りを生み、それは他の文化への理解を諦めてしまう可能性がある。単純化すると、他の文化で残虐な行為が行われていてもそれはその国の文化だから、という話しにはならないはず。 文化は、相容れない価値を持っていて、大きな統合には向かわない。だが、それでも、文化間での理解を成立させるためにはどうすればいいのか?「唯一の真理」、「正しさ」はないけど、なんらかの人間の「共通感覚」は、あるはず。 そこをなんとかしようという話は、アーレントが政治哲学でやっていることを文化哲学(?)でやっている感じだな。 最近の問題意識にフィットした一冊であった。 ただし、後半のナイの「ソフトパワー」論を踏まえた議論の展開は、そこまで新鮮な感じはしなかったかな。 問題意識はわかるけど、前半に対して、やや集中力が下がる印象を持った。 バーリン、面白そうだな〜。
0投稿日: 2017.12.30
powered by ブクログ前に読んだ「異文化理解」に続く、文化人類学者・青木保先生の一冊。こちらでは、ジョセフ・ナイのソフトパワー論に触発されて「文化は力」と唱えていますが、刊行から15年たとうとしている日本では相変わらず理解されない思考なのが残念です。
0投稿日: 2017.12.18
powered by ブクログ文化人類学ってのがそうなのかもなんだけど、なんだかフワフワしてよく掴みにくい本だった。けど文化都市とかブランド国家とか東アジアと南アジアの発展の仕方の違いって指摘はハッとさせる物がある。
0投稿日: 2016.08.06
powered by ブクログ文化人類学者・青木保氏が、2001年の3.11米国同時多発テロとその後2年間の世界の動きを踏まえて、“多文化(の併存する)世界”の課題とそれへの対処の方法について考察したもので、2003年に出版された。 本書出版以降も、世界各地でテロ及びそれへの報復が散発し、更に、ここ数年のIslamic Stateの台頭を背景に、この類のテーマに関しては専門家から数多の著書が出されているが、問題の根本要因のひとつである“異文化間の対立”の背景と、異文化の併存を前提に今後目指すべき世界の姿について、包括的かつ分りやすく述べているという点では、本書の価値は全く失われてはいない。 著者は前段で、2000年2月に国連とユネスコで宣言として出された“文化の多様性”の擁護を第1のポイントとして、「人間がそれぞれに文化として発達させた価値は多様であって、その多様な価値をそれぞれ尊重しながら、何が共通の認識であるかということを、人間のより調和的な世界を達成するために考えていくという姿勢」が、その基礎であると述べる。 更に、後段では、“文化の力”の向上を第2のポイントとして、「世界の各地域の文化の担い手がその文化の力を認識しながら魅力的なものに鍛えて、世界に発信し、地球全体の文化を豊かにするために努力をする」ことが大事であるという。 そして、その双方を進めることによって、一つのグローバルな世界を構築していくという意志の表れとなる世界が“多文化世界”であり、それこそが21世紀の世界の平和と安定の条件であると主張している。 現在世界各地に飛び火しつつあるテロの脅威は、軍事的な行動だけでは抑えられず、抜本的な認識の転換が必要であることを、世界中の人々が感じ始めている今、改めて読みなおす意義のある一冊であろう。 (2005年9月了)
0投稿日: 2016.01.17
powered by ブクログ国際社会の知識がまったくといって良いほどない身としては 読む際には片手に辞書が必要でした。 特に印象に残っているのが宗教の話で、神道が世界から見ても極めて民族的な宗教だというのにはなるほど、と思いました。 私たち日本人のほとんどはたとえ信者じゃなくとも、初詣やお祭りといった形で神道の文化を体験しているわけで、そうした体験もまた一種の日本文化と言えるんでしょうね。
0投稿日: 2013.11.03
powered by ブクログ(「BOOK」データベースより) イデオロギー対立、少数者への抑圧・攻撃など、苛酷な経験を重ねてきた現代の世界は、宗教・民族問題の先鋭化と同時に、グローバル化に伴う画一化・一元化に直面している。真の相互理解や協調は可能なのか。その鍵となる「文化の多様性」の擁護と「文化の力」をめぐって、理念・現状・課題を、文化人類学者としての豊富な経験から説く
0投稿日: 2012.01.18
powered by ブクログ私たちが生きている現在は「価値の亀裂」の時代である。 これを「文明の衝突」という概念で捉えることにはおおいな妥当性があるが、別の観点から眺めると、「多文化世界」というビジョンが浮かび上がります。「文化相対主義」という文化人類学の基本的概念に立脚した著者の論点は、それぞれの文化の相違を認め尊重しあうのみならず、おのおのがその文化度を高める積極的な努力を通じて1つのグローバルな世界を構築していくことが重要であるというものです。文化を媒介にしたソフトパワーで、軍事力・経済力に頼るハードパワーでは解決できない現代世界の諸問題への解決の糸口を与える「多文化世界」の枠組みは面白いものだと思いました。
0投稿日: 2011.12.06
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
[ 内容 ] イデオロギー対立、少数者への抑圧・攻撃など、苛酷な経験を重ねてきた現代の世界は、宗教・民族問題の先鋭化と同時に、グローバル化に伴う画一化・一元化に直面している。 真の相互理解や協調は可能なのか。 その鍵となる「文化の多様性」の擁護と「文化の力」をめぐって、理念・現状・課題を、文化人類学者としての豊富な経験から説く。 [ 目次 ] 序章 世界は、いま 第1章 文化という課題(文化とは対立するものなのか 宗教・民族の課題 理想の追求) 第2章 文化の力(ソフト・パワーの時代とは 現代都市と文化の力 魅力の追求) [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
0投稿日: 2011.04.26
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
適当に手にとったこの一冊… 今や常識となっていることを改めて読んだ感じだなー ソフトパワーという概念を知らなかったので詳しく知れてよかった 情報通信社会ではこの考えが前提となってる感じがある ただ疑問なのが文化を保存することに目がいって、文化の発展があまり注目されてないなあと おそらくケースバイケースで評価すべきで、保存と発展は決してアントではないはず でも宗教の発展とは何だ? エルサレムを共有すること? 対立する思想を受け入れ、実践すること?
0投稿日: 2011.04.23
powered by ブクログソフトパワーの力を考えた時、日本のソフトパワーって何??って考えて一番最初にうかんだのは「マンガ・アニメ」。こんなに外国の人々に受けがいいのだから、もっと政府は上手く利用すればいいのになと思います。私が知らないだけなのかもしれないけれど。本の内容としては、なるほどという面もありましたが、同じことを何べんも繰り返している気もします。
0投稿日: 2011.01.21
powered by ブクログ文化というものについて深く考えられる。これからの社会の中で互いの文化について知るだけでなく、互いの共通点についても考えていかねばならないと感じた。
0投稿日: 2008.11.16
powered by ブクログこの分野はまだまだしらないのでとりあえず読んでみたのですが。。。 ふむ〜ってかんじですなwww
0投稿日: 2008.10.09
