
総合評価
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powered by ブクログ01 東映は映画の製作,配給会社である.戦後の一時期に台頭した,その最も盛んな活動を見せた時期が描き込まれている.年代で言えば1950年代から60年代にかけてだろうか.東映の全てではなく,その特徴が最も現れていた京都撮影所(02)が中心的な舞台となる.出入りするのは俳優に限らない.この撮影所から吐き出される映像作品には,監督,助監督,プロデューサー,撮影,照明,美術といった面々のほか,大部屋の斬られ役たちも出入りする.その胡散臭さと柄の悪さには舌を巻く.違法すれすれと言わず,戦後のどさくさに紛れた不法もあっただろうことが示唆される.また,警察組織や反社会組織とも連携したなかに東映の映画が生み出されいた様子が伝わってくる. 02 そこはやがて太秦映画村として観光を取り込んだ経営もなされていく.歴代の撮影所長たちがメインの人物でもある.ここで撮られていたのは主に時代劇であり,その時代劇の時代が描かれるのは前半であって,撮影所と時代劇と,そして東映の衰退の様子が哀愁(03)を込めて描かれる.エロ路線や任侠路線で持ち直すこともあり,テレビにシフトした時代劇製作で乗り切ることもあるが,華やに輝き,その時代があまりに瞬間的に過ぎてしまったために,停滞の時代は長く,悲しくも感じられる. 03 松竹の配給ではあったが映画「蒲田行進曲」に描かれた世界だけでなく,その映画製作そのものの意味が,改めて異彩を帯びてくる.そこにかけられた技術や思いが取材されており,それを読んだ時,この映画に込められた異様なエネルギーの理由が明らかにもされている.
0投稿日: 2025.08.17
powered by ブクログいゃあ おもしろく読ませてもらいました 私自身は 全くの映画ファンでは ありません 本書で描かれ、紹介されている 数々の名作もほとんど見たことがありません それでも その時代であるがゆえに こういう映画が作られた こういう映画人がいた ということが 肌感覚で伝わってくる 「人間」が作ってきたのだ という熱い思いが伝わってくる スクリーンに映し出される 映画スターのお話ではなく その「映画」に携わってきた人たちの 息遣いが伝わってくる
0投稿日: 2024.03.31
powered by ブクログメチャクチャ面白かった。たぶん今年のベスト1だと思う。 東映の黎明期から時代劇、任侠、実録路線までを膨大な量のインタビューと資料を駆使して活写している。 東映映画ファンでない人はどうなんだろう。少し割引いて考えなくてはならないのだろうけど、それでも楽しめると思う。固定的な映画館を持たなかった東映は普通の映画会社の倍の映画をものすごい熱気で作り続ける。東映撮影所では皆走っていると言われていたとか。 できあがった作品より現場が面白い。東映は今まで何本の映画をつくってきたか知らないが、この本を映画化できたらそれが一番面白いものになるだろうと思う。見る人は限られるかもしれないが。 『例えば、侍が殿に伺候するシーンを描くとする。これを所作通りの段取りで進めれば、次のような流れになる。まず侍が襖を開け、おじぎをする。これに対し殿が「近う」と声をかける。それで侍は中に入り、襖を閉めてから前に進み、殿の近くに座り、刀を置き、それから両者の会話が始まる。これが従来の多くの時代劇で採られた手法だった。 ただ、物語の展開と直接は関係ない段取りを丁寧に積み重ねていては、テンポがまどろっこしくなり、観客に飽きられてしまう。そこを東映時代劇の場合は、たとえば前日に侍と友人の間で「明日、殿に言上しにいく」「そうか」と会話をさせたら、次のカットでは殿と侍が対面している場面による。その結果、物語上で大して必要のない所作事に時間を割かれることなく、前へ前へテンポ良く物語を進ませることになり、観客は飽きさせない構成になったのだ。』 『「遠山の金さん」では、主人公が町人《遊び人の金さん》として町へ出る時、ほっかむりをするだけの変装しかしていない。それでも悪党は奉行所のお白州で対面しても、目の前にいる奉行の正体が「金さん」だということに桜吹雪の刺青をその見るまでは気づかない。 「あれ、どう見たって知恵蔵じゃないですか。気づかないのはおかしいですよ」 そう疑問を呈する平山。松田は動じない。 「これは意識的にやってるんだ。客は気づいているのに悪役は気づいていない。だからお客さんは優越感を感じることができるんだ。時代劇の悪役といえばヤクザとか権力者とか、普段から偉そうな奴らだろ。そういうのを鼻で笑うことでできるんだから、お客さんにとって、これほど痛快なことはないんだよ」』 『大映と東映両社では、使われる証明器具も異なる。大映では光量の強い、大きな器具を一台使ってスポット的な一発を当てる。それによって、照明の当たっている所とそうでない所がハッキリと分かれ、陰影の濃淡の強い映像になる。勝新太郎は座頭市を演じている時、目をつぶったままでも正確な位置への移転ができてと言われているが、それは照明の当たっている所とそうでない所の温度差が大きかったために、肌で感じる光の強さで自ら立ち位置を把握することができたからだ。 一方の東映では、小さな照明器具を何台も使う。まず、一台のメイン照明はスターの顔と同じ高さに配置し、正面から明るく綺麗に照らす。その上で、周囲に小さな照明器具を使って、顔から一つ一つ、細かい影を消していく。ただ、それだけでは顔だけが浮かび上がることになって、かえってブサイクな映りになる。そこで、背景も同様に明るくするため、スタジオの二階に組まれた足場の三百六十度に張り巡らされた照明を使ってセット全体を明るく照らし出すのだ。』 『上野はここで、「息の詰め方」を徹底的に研究した。真っ暗闇の中には近衛が一人だけ映る。闇の中から敵はいつ出てくるのか・・・観客は黙って息を詰めて待つしかない。そのしてギリギリまで緊張を盛り上げたところで突然現れ、静寂の中に近衛の悲鳴が響くことで観客を「ドキッ」とさせる。それが上野の狙いだった。 この息を詰めさせる時間が短いと緊張を盛り上がらないし、長いと観客が息を吐いてしまって緊張が途切れる。どうカッティングを積み重ねれば最もいいタイミングでの悲鳴になるのか、上野は尺数や画面サイズなど、計算に計算を重ねた。』
0投稿日: 2020.09.04
powered by ブクログ面白い。当時の映画産業全体が時代と合わなくなった。その結果、時代に合わせられる人々により映画が作られ、映画自体も当然時代に合う映画のみがでてくるようになったと解釈している。よって当時のような面白さを持った映画はもう作られない。
0投稿日: 2020.06.01
powered by ブクログ春日太一の本は何を読んでも下らない。批判的精神に欠けることは驚くばかりで、本当に映像学修士の称号の持ち主かと疑わざるを得ないが、これは多分「売らんかな」根性で乱筆しているうちに読者受け(というより編集者受け)するような文章を書く習慣が身についてしまい、そこから脱却できなくなったためであろうと思われる。 東映京都撮影所を取り上げた本書もマキノ満男を名所長としてヨイショするなど読むに耐えぬ内容ではあるが、取材だけは相当丁寧にやったと見えて、随所に重要な情報を見出すことができる。ブクログのレビューでは自由に加筆が可能でなので、今後随時それらをここに書き記しておくことにする。 まずはライティングのこと。勝新太郎は座頭市を演じていたとき、目を閉じていても撮影の立ち位置が分かったという伝説があるが、それにはこういう背景があったものらしい。そもそも大映の時代劇は座頭市にせよ眠狂四郎にせよ、情感を視覚化するために陰影の明瞭な映像を好んだため、ライティングでも大型のライトを単独で用いスポットライト的な光の当て方をする技法が発達した。勝新が暝目しても正確に立ち位置へと移動できたのは、強烈なライトが当たっているため照明の有無で温度差が生じており、それを肌で感ずることができたからだ。 対して東映ではスターの全身を美しく写すことに腐心し、小型のライトを何機も使用するのが常だった。まずメインの照明はスターの顔と同じ高さに置き、正面から明るく照らす。そして他の小型ライトであちこちから光を当て、顔から影を消してゆく。ただそのままだと顔だけが浮き出た違和感ある映像になるので、背景を明るくするためにスタジオ2階の足場に360度カバーできるように組んだライトを使ってセット全体を明るく照らし出していた。ラッシュで影が入ってるのが見つかると、監督やプロデューサーはライトマンを叱責したという。右太衛門の旗本退屈男のキンキラキンの衣裳は、そうした細かな配慮によって生み出されたものだったのである。
0投稿日: 2019.12.07
powered by ブクログ東映京都撮影所…オモテの世界と裏の世界の境界線で生きる映画人たちを時代劇研究家の春日太一氏が圧倒的な取材量と熱い筆致で描く。 内容は戦前から現代までの歴史を網羅的に描いているが、僕が重要だと思った時代区分は次のとおり。 (1)中村錦之介らスター中心の時代。いかにスターを美しく撮るかが重要。スターが刀を振れば殺陣が勝手に倒れてくれる様式美の時代。 (2)高倉健、鶴田浩二ら任侠道の時代。主人公も汗をかき血を流す。労働者や学生運動家に支えられた不良感性の時代。 (3)深作欣二「仁義なきシリーズ」の実録ヤクザ時代。リアルな残酷描写が、大衆の覗き見願望に訴えた。 (4)「鬼龍院花子の生涯」から始まる女性受けを狙った美しいパッケージの時代 撮影の裏で繰り広げられる、エピソードの数々が尋常ではない。とある大物歌手(作品中では実名)は映画出演に際し、クレジットの先頭に名前をのせるようヤクザを使って 脅しをかけるが、後に2代目社長となる岡田茂は毅然と断りヤクザからも一目置かれる存在となる。 「鬼龍院〜」は元々、梶芽衣子の持ち込み企画だったが脚本の都合で梶は外された。主人公を演じたのは五社英雄監督の自宅に直談判に来た夏目雅子。彼女は自分が白血病であることを知りつつそれを隠してこの役を手に入れた。 などなど、ネタバレだけどネタバレじゃない。まだまだ熱いエピソードが山ほどある。春日氏の東映京都への普通じゃない愛情が伝わってくる。
0投稿日: 2019.02.22
powered by ブクログ同著者の『時代劇は死なず!』は主にTV時代劇の歩みを追った書だったが、こちらは映画、それも「東映京都撮影所」に絞ったものである。530頁もボリュームだが、読む手はまったく止まらず、一気に読み切ってしまった。映画に全てをかけて魂を燃やし尽くした、フィルムに写っていない作り手たちの熱すぎるドラマに、泣き笑いが止まらない……
0投稿日: 2018.01.08底抜けに痛快で、ページを繰る手が止まらない
かつてジョン・ヒューストンをマグナム写真家が撮った印象的な一枚、それは葉巻を加えた彼が次の撮影地に向けて意気揚々と荷造りしている一瞬をとらえた写真で、映画とはこうした流浪の種族が撮影となると結集する世界だと思っていたら、ここで描かれるのはまるで対極の世界だ。 京都撮影所に集ったアツい男達が、汗と泥にまみれ、怒号と拳骨が飛び交う中、目を血走らせ「誰もがとにかく走りまくりながら」映画を作る。 東映に何の思い入れもない自分が、底抜けに痛快で、ページを繰る手が止まらなくなるのだから、ファンにはたまらない一冊だろう。 マキノ光雄がとにかく面白い。 あの甘粕に満州で嫌みを言われようが、社長から芸者遊びを詰問されようが、一切動じずハッタリをかまして切り抜けるかと思いきや、金策では涙ながらに土下座し援助を請う。 徹底した大衆娯楽を目指し、「柳の下には泥鰌は二匹でも三匹でもおる」と信じる。 後発弱小の東映がトップを取るために打ち立てた、二本立て興業の成功とスターシステムの確立は、一方ではつかの間の天下をもたらすが、ファンの間にマンネリズムの蔓延と時代劇離れを生んだ。 凄まじい量産体制も、マキノ光雄や岡田茂の直感が狂い、現場もその思いを具現化できないと、たちまち失速し迷走を重ねる。
0投稿日: 2017.09.09
powered by ブクログ週刊文春を毎週読む目的のひとつが、春日太一の「木曜邦画劇場」を読むことだ。若いのに(僕より)昔の日本映画のことをたくさん教えてくれるのです。
0投稿日: 2016.09.29
powered by ブクログ胸が痺れて、震えて、泣いた。最高に熱い話。決して、お涙頂戴ものではなくて、ただ感傷に浸ってノスタルジックになるわけでもなく、最後は未来への道を拓こうとする姿勢を見せてくれた。
1投稿日: 2016.09.01
powered by ブクログ数多のヒット作を世に送り出した東映京都撮影所。その栄枯盛衰を俳優、プロデューサー、そして監督、脚本家から現場のスタッフにいたる多くの人々の視点から辿る。綺羅、星のごとく居並ぶ大スターはもちろん、殺陣師などの職人さんたちの言葉は雄弁であり、華やかな銀幕の裏側がいかに凄まじいものであったかを物語る。
0投稿日: 2016.08.15
powered by ブクログ【ヤクザとチャンバラ。熱き映画馬鹿たちの群像】型破りな錦之介の時代劇から、警察もヤクザも巻き込んだ「仁義なき戦い」撮影まで。東映の伝説秘話を徹底取材したノンフィクション。
0投稿日: 2016.06.01
