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ためらいの倫理学 戦争・性・物語
ためらいの倫理学 戦争・性・物語
内田樹/KADOKAWA
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総合評価

65件)
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    内田先生のデビュー作。 修羅の門で有名な川原先生のパラダイス学園のように、デビュー作って「今と全然ちゃうやん」となってしまいがちだ。内田先生はどうなんだろうとドキドキしながら読んでみた。 まず思ったのは「内田先生もまるくなったんだなぁ」ということ。 本書ではいろんな論考に対して実名を挙げ、真っ向から批判を加えるなど、バチバチした雰囲気が漂う。 また、最近の内田先生の文章は、わかりやすいロジックを用いて、誰が読んでも平易に理解できるよう書いてくれているけれど、本書では哲学的論考として難解な文章が多い。頑張ったけど半分くらいしかついていけなかったんじゃないかな。 一方で感じたのは、言っていることは今と全く変わらないということ。 僕の理解の範囲では(もっとも、理解が及ばないところが多かったのは上述のとおり)、正義か悪かのような審問の論法からは距離をおいて、「こうも考えられるけど、こちらも正しい。うーん、これはなかなか難しい問題だ」のように、判断を留保し、煮え切らないまま、はっきりしないまま考え続けることが良いのでは?と言ってくれているように思いました。 確かに、切れ味鋭いロジックは使っている人は気持ちいいけれど、スパッと切られた当人はたまったものではない。 そういえば、僕が昔インタビューを受けたときに「あなたは言葉を選びながらゆっくり返答するんですね。」と言われたことがある。立て板に水のような言葉で相手を説き伏せるのは僕はどうも苦手だ。 なのでこの本の「ためらいながら他者と対話していこう」という論考はすっきりと腑に落ちるところがあった。

    1
    投稿日: 2025.08.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    倫理にも哲学にも明るくないのでとても難しかったけど、何とか読み終えた。でも半分も理解できていないと思う。 戦争について。確かに、第三者がその争いのすべてを理解するのは難しい…。「応仁の乱」を読んだ後だから余計にそう思うのかもしれない。 「『無名』兵士の一人ひとりに固有の名前と顔を取り戻すこと、それが加藤の言う『死者を悼む』ということである。」「加藤が言う『哀悼』とは、要するに『死者について物語ること』である。」 兵士であってもなくても、一人一人の生きかた・死に様にこそドラマがある。

    0
    投稿日: 2025.01.14
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    よし、、カミュを読もう。となりました。 内田さんの文章を読むと、次に何を読もうか(何について自分は知らず、何について知っている人になりたいのか)という視点が得られるという効能があるように思います。 早速書店でカミュの「異邦人」「ペスト」を手に取りました。楽しみです。

    0
    投稿日: 2021.12.13
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    多様な問題に白か黒か断定的な立場を取るのは一見知的だけど 本来知的な人とは、知らないことを知る「無知の知」を知り、無知を隠さない人だ という視点で様々な問題を論じた本 ただ中身は難しい笑 この考えを持っとくと本当に信頼できるのは誰かがわかる気がする

    0
    投稿日: 2021.04.16
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    カミュについて語ったタイトルになってる論考を読みたくて買う。 反抗、を、ためらい、と読み替えるとこにやっと納得。 カミュとかそのことを読んでていつも違和感のある、反抗とかの厳しい言葉と内容のあいまいさ。 ためらい、だ。 感情を失った理念を批判するペストはまさにこれだろう。人間らしいためらいを忘れた人間の恐ろしさ。 SNSには、ためらいを感じるための「顔」がない。 ムルソーの状態だ。 そうではなく、顔と顔を向き合わせて発言すること。 そのときにためらいがうまれるだろう。 それは弱さではない、抗いだ。 自分の中にある正義への抗いだ。 スピノザは、道徳的な絶対的な善悪を否定し、倫理的なよいわるいを関係性のなかで解いた。 まさにこれではないか。道徳的な善をなそうとしたときに、それをためらわせる倫理観。 場面ごとの関係がうむ倫理によって、「ためらうことをためらうな」とでも言えばいいのか。 自分のなかの勝手な道徳観による自動的な、論理的な結論を自動的に遂行することに抗え、ためらわずにためらえ! そういうことかと思う。

    1
    投稿日: 2019.10.28
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    現代思想のセントバーナード犬 「批評性の硬直」状況から何とか抜け出ること ”生活者の実感”のステレオタイプにも”専門的知見”のステレオタイプにも回収されない、ふつうの人のふつうの生活実感に基礎づけられた平明な批評 そちらの言い分とこちらの言い分が出会う局面を設定 「どうです、ここは一つ、中をとって・・・」 私が黙っても誰も困らないが私が困る 「なるほど、それもごもっともです。しかしそれでは私の立場というものがない、どうですここはひとつ・・・」 無限に中をとり続ければ言葉に窮することはない。 おのれが主体であることを一瞬も疑わない、その圧倒的で索莫とした自信から発する重苦しさ ”誰が“戦争を起こしたか・・・”誰が”なんてことはあり得ない 自国の歴史の暗部について、恥辱の気持ちを持つことは、その栄光に対して誇りを持つことと同じくらい大事なことである。 中学生の多数は、教師や親の知見からではなく、彼ら固有の狭隘な人間関係とその閉じられた空間を支配している稚拙なイデオロギーの圧倒的な大気圧化で世界観や人間観を形成している。 知的動機に駆られて歴史の教科書を開く中学生が一体何人いるだろうか。 日本は、右したり左したり、じたばたすることによって結果的に何もしないですませる、というふるまいをもって21世紀の国際社会を生き延びる戦略 大山鳴動鼠一匹的パフォーマンスの知恵 さまざまな社会的不合理を改め、世の中を少しでも住みよくしてくれるのは、「自分は間違っているかもしれない」と考えることのできる知性であって、「私は正しい」ことを論証できる知性ではない。 フェミニストは、家事は知的で楽しい作業であり、生産的、創造的な主体を要求するという考え方を危険なものとみなす。「二流市民へのドロップアウトのリスクなしに、家事労働は担当できない?」 有用ではありうるがそれは決して支配的なイデオロギーになってはならない質のもの システムの硬直性や停滞性を批判する対抗イデオロギーである限り、それは社会の活性化にとって有用である。 おじさんはあまりイデオロギー的に先鋭化することを私は好まない・・等身大の穏やかな営みを通じて、家族と地域社会と職域の集団を支えていくのが「おじさんの道」 一義的に定義はできないが、効果的に利用することはできるようなもののことを「道具概念」とか「操作概念」と呼ぶ。→「気」 いやだなと思っていたのは、要するに「セックスコンシャス」の高さと知的な開放性みたいなものがリンクしているという図式に対してだったようだ。 私たちは、テクストのうちに必ず「読むつもりのなかったもの」を発見してしまう。そして無意識のうちにそれを読むまいと目をそらす。 この抵抗こそ、抑圧されたもののありかを指し示す最も的確な指標 ”読みとばせ、理解しようとするな”・・・ 真に反省的な読み手とは、自分が批判しているイデオロギーをテクストの中に発見する人ではなく、読みつつある自分の中でその当のイデオロギーが「抵抗」として活発に作動していることに気づく人のことである。 複雑な問題に接するときの基本のマナーは、「できるだけ複雑さを温存し、単純化を自制する」 単純な進歩史観だけでは説得されない。なぜそれがあるのか、人間というのはとても複雑で精妙で、主に幻想を主食とする生き物だ。 最近は、「意味がわからない言葉があっても気にしない」「ノリのよい文章を読んで気分がよくなること」を求めている。 私の交通能力を始めから過度に低く設定するのは、おのれの交通能力を過大評価するのと同じくらいに有害である。コミュニケーションの不可能な相手と身をよじるようにしてなおコミュニケーションを試みる私のシステムのきしみから、「愛」は起動するのではあるまいか。 罪責感と自己免責のないまぜになった「腰の決まらなさ」こそ、私が「とほほ感覚」と呼ぶもの。 おのれを「無垢にして無力なもの」として提示するのはよくない。 暴力が不可避だが暴力の正当化には反対

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    投稿日: 2018.10.18
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    ためらいの倫理学―戦争・性・物語― 内田樹21冊目 初期の本ということもあり、やや難しい感じがした。特にレヴィナスについては、難しいと思うことが多かった。印象に残ったところは“私は知性というものを「自分が誤りうること」(そのレンジとリスク)についての査定能力に基づいて判断することにしている。平たく言えば、「自分のバカさ加減」についてどれくらいリアルでクールな自己評価が出来るかを基準にして、私は知性を判定している―p145”という文章。本の後半で表れる「とほほ主義」というもののこれに近い。誰かを断罪したり、自説の正しさを懸命に主張するのではなく、自分が犯しうる失敗や他人にかけるうる迷惑についてクリアに予想し、それをしないように努めるということをしようじゃないかという風に解釈した。物語についてという節の「徹底的に知的な人は徹底的に具体的な生活者になる」という言葉も、自己認識を突き詰めたところ、それは哲学書などではなく日常にその成果が表れるということを言ってるんじゃないかと思う。自分の邪悪さを認識している人は、自分の邪悪さを認識していない人よりも邪悪なことをなしえないというパラドキシカルな言葉はまさに名言だ。つまるところ「汝自身を知れ」ということなのかな。最近の自分のお気に入りの「脚下照顧」という言葉も、なんだか近いものを感じる。特に戦争や性について声高に相手の責任や社会システムを批判するひとは、内田的に言えば知性的ではないのである。まずは自分の周りを出来るだけ幸せにしてから、その輪を広げていこうという内田の経験則的教訓が本書にもにじみ出ている。 他者論は正直よくわからなかったが、自分なりの解釈では、他者というものはよくわからないということが全体にある。最大公約数もなければ最小公倍数もない、同じパラダイムで語ることが出来ないものである。どうにも解釈できないものは、同時にどうにも解釈できる。トランプでいうジョーカーのような、まったくもって異質のものである。貨幣論でいえば、徹底的に価値のない紙切れが徹底的に価値を持つ紙幣となるように(ビットコインとかに至ってはもはや記号でありデータ、使用価値は全くない)、他者はどうにもこうにも分からない存在である。だから、他者を「愛する」必要がある。畏怖し、歓待し、聞き従い、慰める必要性がある。愛するという感情程複雑で、両義的な感情はない。それは言語におけるジョーカーである。他者というジョーカーに充てられるものは、やはり言語におけるジョーカー「愛」なのだろう。わからないものに対してわからないものを充てるということは、あんまりないようでよくある。明治時代の日本が外来語が、漢語に訳されて輸入されたように、よくわかんねえからよくわかんねえままとりあえず使ってみるかという具合に。他者はよくわからない。でもそのわからなさ具合がより人を引き付ける。こんな感じかな。 本書にもある通り、物語ろうとすることは、知ろうとすることである。なんだかレビュー書いてるうちに、わからなかった本のわからない箇所について読んでる時よりも知ることができた(気がする)。

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    投稿日: 2017.09.03
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    著者のデビュー作です。「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学」という4つのテーマのもとに、著者が雑誌などに発表した論考が収録されています。 「あとがき」で述べられている、「自分自身の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということばに、本書の中心的な思想は集約されているように思います。著者はこのようなスタンスに立って、愛国心、戦争責任、女性の解放、そして「他者」といった主題について審問の文法で語ることのパフォーマティヴな水準における問題を、鋭くえぐり出しています。 著者の基本的な思考の構えが、すでにこの本で明瞭に示されていますが、あえていえば近年の著者の文章に見られる、武術など「身体の知」への傾倒はまだはっきりとは語られていません。そのぶんクリアカットな批評になっているような印象を受けました。

    1
    投稿日: 2016.01.25
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    ネット右翼や教条主義的左翼の氾濫する今日に、どこまでもフェアに、ニュートラルに日常性からずれることのない場所に自身の知性を置く街場主義は注目に値する。「とほほ」主義、つまり自身のいかがわしさを十分理解したものがとり得る現実への態度はよく判るが、が、が、しかし、そこでどうして高橋源一郎なのか。後期資本主義、戦後民主主義の達成としての自己満悦があの馬面をつくったのではなかったか。

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    投稿日: 2015.02.28
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    著者はかなり風変わりだとは思うが大学の教授ではあるので、書いてることの半分ぐらいは良く分からないし、4分の一ぐらいはまったく分からない。のこり4分の一はまあ、納得できる話である。 結論として「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということを手を換え品を買え、執拗に繰り返し主張しているとのことなので、よく分からないところにも、まあ解ったところに書いてあることが書いてあるのでありましょう。 正しい日本のおじさんの生き方をいかに綱領化するか、それが現在の思想的急務であるそうである。正しい日本のおじさんの生き方とはいかなるものか。 とほほ主義というのがキータームか。『「とほほ」とは自分は「局外」にあるかのような発言はしないという強い覚悟であり、同時に「局内」というのが「檻の中」でしかないという寒々しい断念である』 自分が正しいという前提で、審問者として議論するのではなく、自分が間違っているということも含めて吟味していくことであると思うと、やはり冒頭に書いた(本では最後に書いてある)結論に帰結するのである。

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    投稿日: 2015.01.25
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    十年ちょっと前に発刊された、 内田樹さん初の単著作がこの本でした。 おもに、ご自身のサイトで発表されていた エッセイや論考などを集めたものだそうで、 内容は単純化されていない難しいままのものではありますが、 語り口が柔らかなので、念入りに読むと ちゃんと読解できるものが多いと思います。 それでも、僕なんかは「前景化」なんてわからない言葉でしたし、 「プラグマティック」や「パセティック」なんかは、 意味を忘れてしまっていてWEB検索しました。 そういう労をいとわないで、時間をかけて読むことができる人には、 とても質の高いリターンがあるでしょう。 戦争、性、審問の語法、物語、という四部構成ですが、 なにかしら一貫しているようなものがあります。 思想や事象を咀嚼する、その借り物ではない知性が語り手です。 単純化もしません。 たぶん師匠であるフランスの思想家・エマニュエル・レヴィナスの哲学を 頻繁に引用はしますが、それは著者の血となり肉となったもので、 彼なりの深い洞察と混然一体となっていて、 彼とレヴィナスの間に段差のような、階層の差のようなものはほぼ感じられない。 だからこそ、自身の知に対してフェアな人なんだろうなという印象を 読み手は持つことになるのです。 そして、そんな印象を持った著者の本ですから、 それじゃ、その語るところを拝読しようじゃないかという気概にも 繋がるんだと思うところです。 著者によると、知というものは、自分のことをいかに疑えるかという ところにある、というようなことだそうです。 わからないことや知らないことを隠さず、目をそらさずにいられることが 知性が高いか低いかの条件になるということです。 知識が多かろうが、知恵に富んでいようが、 前掲の条件にそわなければ、知性が高いとはいえない。 それほど、自分の弱いところや愚かなところや邪悪なところを見つめる ことは大事ですよ、ということなんですね。 ところどころに冗談だとか、言い回しの面白さが出てきます。 そういうところも魅力の一つですが、フロイトの弟子にあたる ラカンという構造主義の主要人物の人の書くものの わけのわからなさを、わからないでしょ、と書いてのける素直さと、 その本当にわけのわからないような難しい引用文には苦笑してしまいました。 また、本書のタイトルと同じ題名の「ためらいの倫理学」の章が最後にありますが、 それこそ、この本のまとめ的な、カギとなる章なので、読む人は そこは飛ばさずにいてほしいですね。 ここで言われる「ためらい」は、僕の考え方にも通じるものがあって、 僕の場合は「ゆらぎ」という言葉で表すことが多いです。 ある種の重要な判断には、ブレないことよりも、ブレブレなほうがいいんじゃないか っていう考えですが、本書の「ためらい」、これはアルベール・カミュ論から カミュのものとして飛び出した言葉を元にしていて、 それとほぼ同じだなと思っています。 個人的にカミュは昔『異邦人』を読んだことがありますが、 そのときは、「太陽のまぶしさ」ばかりが印象に残るという、 あまり深い読書ではなかったような気がします。 今でも、そんなものかもしれないですけどね、読解力。 まとめていえば、けっこう難しい本です。 よくわからないなぁ、とフェミニストの章の部分はとくに感じました。 それでも、本書のところどころから得られるものは、 有用であったり、なぐさめであったり、「それでよかったんだ!」っていう 気付きだったりもします。 現代思想のセントバーナードという喩えで、 著者を語る章がありますけれども、 たしかに、本書は、現代思想に遭難した人に、元気になるブランデーを 飲ませてくれるような本かもしれないです。 そうやって、ブランデーだけ飲ませて、 「あとはがんばりな」と去っていきます。 まぁ、それでいいんじゃないでしょうか。

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    投稿日: 2014.11.16
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    なるほどーと思う部分もあれば、よくわからん!っていう部分もあり。 ぼやぼやしながら読んでました。 もっと大人になったらもう一回読んでみようかな。

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    投稿日: 2014.11.01
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    #森の図書室 戦争や性といった「きれいごと」論がはびこりやすいテーマについて、理屈と実態のずれを指摘していくというのが大筋。 「性」に関しては、上野千鶴子を筆頭としたフェミニズム思想(男性学)の欺瞞を暴き、こてんぱんに論破してゆくという展開。 ある一定以上の哲学的・社会学的知識を身につけた読者を想定しており、理解が追いつかないところもあったが、 批判するにあたり、(タイトルの謙虚さとはうらはらに)ためらいさを微塵も感じさせない筆者のひねくれ者っぷりや軽妙な言い回しなど、付随的要素で楽しむこともできた。 (が、やはりこういう本の読み方はあまり好ましくないのかもしれない。「森」を理解するためにはあと数回ぐらい精読が必要)

    0
    投稿日: 2014.10.19
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    内田樹のためらいの倫理学を読みました。 内田樹の初期の評論集でした。 最近読んでいる内田樹の評論では主張がわかりやすく書かれていますが、この本の内容は初期のホームページに書かれていた内容と言うことでレヴィナスやラカンの論文も引用された堅い内容となっています。 なぜ私は戦争について語らないか、なぜ私は性について語らないか、なぜ私は審問の方法で語らないか、それではいかに物語るのか-ためらいの倫理学、という4つの章に分けて書かれています。 自分は被害者であるから他の人を審問する権利がある、という主張に対してどのように対応すべきか、という議論が面白いと思いました。

    0
    投稿日: 2014.09.07
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    (内容を反芻してしたためる前に、機会があってお会いしたある都道府県庁OBの方に本書を差し上げてしまいました)

    0
    投稿日: 2014.09.07
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    今までの内田さんの著作の中で1番時間をかけて読んだ。「戦争論」についてに共感というか、ああだから私はこういうことに言及するのが嫌いだし言及してる人間をテレビやTwitterやらで見るのが大嫌いだったのかとすっきりした。まぁデビュー作から首尾一貫してるから最早感想書くのが難しいんだけど、嫌いな人の好みが合う人の著作は楽しいなあってのと、カミュについての考察に紙幅をかなり割いてくれていたのが嬉しかった。

    3
    投稿日: 2014.08.01
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    大部分が本のためにではなくネットのために書かれたせいか、 前半は読みやすいが文章が本当に軽く、 正直、うーん、と言う感じ。 基本的に内田樹の言う事は賛同することが多いんだが、 何故か好きと思えないのは、 彼の文章に自己顕示欲らしきみたいなものをどうしても感じてしまうから。 でも、 知性というものを「自分が誤り得ること」についての査定能力に基づいて判断する というのは100%同意。 本当にそうよね。 最後のカミュ論が結構面白かった。 特に「首尾一貫した主張など存在しない」というところが。 ああそうか。 と思った。 腑に落ちた。 そうなんだよね.............。 そんな感じ。

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    投稿日: 2014.01.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    内田先生の最初の著作。といっても、Web等で発表したものを著作にまとめるスタイルはあまり変わらず。戦争論・フェミニズム、分かりにくく書くことの愉悦等々。

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    投稿日: 2013.12.01
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    内田せんせいの最初の単著だそうです。 初々しいです。そして根本の主張は同じですね。 僕のようなあほな読者を想定していない語り口が多いです。 なので、分からないところは読み飛ばしてたら… その結果”矛盾”が書けなくなったりするんでしょうか。 表題のためらいの倫理学は、異邦人の解説としてもすごく面白かったです。

    0
    投稿日: 2013.10.24
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    ライトな本。 知識が甘いところも少しながらあると思った。特に、ジェンダーの父子家庭の話では完全経験則で語っていて、家族社会学をすっとばしているように感じた。しかし、そこに目をつむればさすが一流学者!といった視点から大胆(ライトな本としてではできないくらい大胆)に展開していて、その視点を学べるのは面白い。 あくまで専門書ではないので楽しむつもりで読めば良いと思う。また、著者の宮台真司の嫌い具合は同様に彼のことが嫌いな私にとっては爆笑の的であった。

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    投稿日: 2013.09.02
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    難しかった。 語彙力やら集中力やらを高めて再挑戦したい。 2015年6月30日 電子書籍版にて再読 なるほど、2周目ともなると拾える内容が増えて面白かった。 言論の世界において「俺はなんでも知ってるぜ。世の中はこうだ。俺の言うことが正しい。」という態度は生き延びていく上では必要なものかもしれないが、知性そのものが宿るところは「俺はぜんぜん知らないな。これはどういうことなんだろう」という好奇心に駆動される。 子どもの学力低下問題なんかもそうだけど、知識に対する渇求ってやつが大事なんだろうなぁ。その延長線上で「すべてわかった」気になるのは欲望の停止になるので、満足しちゃいかんということなのだろう。

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    投稿日: 2013.07.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「知性」とはなにかを考えさせ、自らの思考力、判断力を鍛えるための良質なテキストが満載です。 p.25 私たちは知性を計算するとき、その人の「真剣さ」や「情報量」や「現場経験」などというものを勘定に入れない。そうではなくて、その人が自分の知っていることをどれくらい疑っているか、自分が見たものをどれくらい信じていないか、自分の善意に紛れ込んでいる欲望をどれくらい意識化できるか、を基準にして判断する。 p.42 私たちは知性を検証する場合に、ふつう「自己批判能力」を基準にする。自分の無知、偏見、イデオロギー性、邪悪さ、そういったものを勘定に入れてものを考えることができているかどうかを物差しにして、私たちは他人の知性を計算する。自分の博識、公正無視、正義を無謬の前提にしてものを考えている者のことを、私たちは「バカ」と呼んでいいことになっている。

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    投稿日: 2013.07.28
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    これは、特に最後の方は、自分的には難しかった。フェミニズムとか有事法制とか、ならではの切り口でなるほど、って思わされたけど、十分に理解しきれない部分があったのもまた確か。将来的にあらためて再挑戦してみたいと思う。

    0
    投稿日: 2013.04.01
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    難解な内容で、なかなか読み進まないうえ、そこそこの事前知識がないと更に理解にも及ばない。 しかし、じっくり読み込むと、漠然とだが理解はでき、共感できることも多々ある。 しばらくしてから、また、読んでみたい。

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    投稿日: 2012.12.29
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    全体的にはサクサクと読み進めないところが多かった。戦争責任のあたりはタイムリーなこともあり、また著者の歴史観にも共感でき、興味深く読めた。

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    投稿日: 2012.09.08
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    内田先生の最初の著作。「戦争論/戦後責任論」、「フェニミズム/ジェンダー論」、「他者/物語論」に関したトピックを扱っているが、一貫して主張されているのは、 「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」(p.349あとがきより) ということだった。自然科学の世界にいる身の実感として、全くその通りだと思う。 トピックにもよるけれど、「私は知っている。なんであなたたちは分からないのか」と言い切ることができる人ほど信用できない。 話題になっている領土問題や原発再稼働などにも当てはめることができるのではないかと思う。 あと、カミユの「異邦人」が読んでみたくなった。

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    投稿日: 2012.08.26
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    デビュー作。今よりも文体がキツイ。個人に対する攻撃が結構多いから、これは確かに批判されてもおかしくはないかな。面白いし、言いたい事に筋は通ってるから納得はするけど。

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    投稿日: 2012.08.20
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    内田樹の本を読むのは今年これで3冊目。カミュのことについて書かれた評論が収録されており、自分が高校生(?)の頃に「異邦人」や「ペスト」を読んだ時のことを思い出しつつ、作品にそんな哲学的省察が込められていたことに新鮮な驚きを感じました。

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    投稿日: 2012.07.28
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    内田先生のデビュー作。内田作品はこれまでちょうど10冊読んだが、なぜかデビュー作だけはスルーしていた。内田先生自身が述べているが、先生は専門外(たとえば本作品では性)の問題も積極的に俎上に載せ、それを私のような素人にも実に分かりやすく捌いて提供してくれる。その手並みは理路こそ入り組んでいるものの実に鮮やかで胸にストンと落ち、落ちない場合でも読者を思想に駆り立てる。その理由は数多いる専門家と呼ばれる人たちが自分の専門性や知性の高さをひけらかすのに専心するあまり、結果として読者を置いてけぼりにしているのに対し、内田先生にはそういう厭らしさがなく(あっても周到に隠されている)、専ら読者との間に架橋することに意を注いでいるからではないかと思う。「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」(349ページ)。内田先生のこのスタンスを100%支持する。

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    投稿日: 2012.06.23
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    現代思想のセントバーナード犬・内田樹のデビュー作。 戦争論やフェミニズム、途中のジャック・ラカンあたりは頭から煙が出そうだったが、なんとか読了。 アルベール・カミュの「異邦人」刊行とレジスタンス参加が同時期で、「異邦人」の主人公ムルソーと、思想家としてのカミュの内在的な関連性についての考察は、こんな読み方があるのかと、非常に興味深い。 「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性」より、「自分の愚かさを吟味でき、疑うことができる知性が好きだ」という著者の意見。後の作品でも、その基本スタンスは変わることがなく、空気を読まないといけない社会へのラディカルな異議申し立ては、とても明快かつ痛快。

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    投稿日: 2012.05.30
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    前に読んだ2冊とも内田樹さんの名前が出てきた為,読んでみた。内田さんの発する言葉にただうなずいた。自分が思っていたり悩んでいるようなことを言葉にしてくれたような。 20代残りわずかな期間に出会えたことに幸運を感じた。

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    投稿日: 2012.02.02
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     内田樹本はほとんど読んでいる。日垣隆さんの『つながる読書術』で紹介されていた、この内田本は、読んでいなかったので、購入。  最近のうちだ本より少し難解。内田さんが、売れっ子になる前い大学の紀要などに投稿したものも含まれているためだろう。 (1)(フェミニズムに対して)、もし性差のもたらす弊害を実質的に廃絶することを人々がほんとうに望んでいるのなら、「性差については語らない」というのが、一番効果的な方法だろうと思う。(p219) (2)(ラカンを例にして)読者が「テクストに意味がわからない」のは、ほとんどの場合、それが読者に理解されないように書かれているからである。(p260)  何がかいてあるかわからない本ってありますよね。でも、日本語に翻訳してある場合には、訳がわるいこともあると思うな。 (3)現在、世界的な規模で進行している拝外主義的なナショナリストたちや原理主義者たちのプロパガンダは、つきるところ「私は私であり、他者は他者である。その間に架橋することは不可能である」という古くて新しい命題に収斂する。(p290)  だから困るんだよね。原理主義は。お互いに何を考えているかを理解することから、対話は始まるはずなのに。  内田処女作のみずみずしさがあふれている本です。

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    投稿日: 2011.12.24
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    白か黒かどちらといえない「あいまいさ」をわかりやすいことばで語っています。 目からウロコの本です!! 【熊本学園大学:P.N. S・H】

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    投稿日: 2011.10.17
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    内田樹の最初の単書らしい。最近のものに比べて若干わかりづらいのは、彼が今ほど多数の読者を想定していなかったからかもしれない。 ともあれ本書の中で彼自身がレヴィナスやデリダ、ラカンらのことを「非常に難解で、全て理解しているとは思えない」と示唆しているように、彼の中心にあるのは「自分が知らないということを知ることの大切さ」という事だと思う。だからこそ倫理という大層なことを語るのに「ためらい」があってしかるべきだと考えるのだろう。極論は目立つので大きく左右に振れがちなのだが、その間のどこかに真理があると信じているからこそ、弱々しく、ためらいがちな意見になってしまう。その事を恐れずに肯定することで世の中はまともに進んでいくように思う。「論語・擁也」に見える孔子の言葉「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民鮮きこと久し」というのもこれに近いのかも知れない。

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    投稿日: 2011.08.21
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    今から10年前の本だからか、内田樹が最近の著書と比べてずいぶん攻撃的だなあと思った。笑 あと内田樹の本を読んでて初めて反論したくなった箇所があった。でもそのゴツゴツ感が、なんか良い。

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    投稿日: 2011.07.03
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    正直に言うと、内容はよく分からなかった。 内田樹が出した最初の単行本という体だったが、「やはり学者だったのか」という感想。笑 彼のガチな評論というものを初めて読んだ気さえする。 普段の至極わかりやすい文章に比べ、難しい引用や術語が多く難解だが、それでも部分的に分かる箇所を拾えば十分に楽しめる。 なぜか彼の文章は、分からなくてもストレスなく読み続けられてしまう。不思議である。 そして、何か頭がよくなった気がしてしまう。非常に不思議である。 最後のカミュ論のところで、殺人の是非について書いてあったのが少し面白かったかな。 あとは難しかったけど、内田樹ファンとしてその処女作を読む経験はしておいて良かったのかなと思っていて、結果的には満足している。

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    投稿日: 2011.06.14
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    ためらいの美学がここにある。 二つの価値観の間で揺らぎ続けることは耐え難いけれど、 一つの考えに着地して安心するよりもずっと誠実で知的だと思う。 常にわが身を省みる姿勢。 それがぼくの理想だ。

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    投稿日: 2011.03.09
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    平岡諦氏のプロフェッショナル・オートノミーについての議論を読む。なんだかなあ、と思う。 http://medg.jp/mt/2010/08/vol-266-15.html 僕には日本医師会の真意は分からない(会員なのに、変ですよね)。そこに陰謀史観(患者の人権をないがしろにしておけ)があったかどうかも不明である。でも、平岡氏が主張するような 日本医師会の国内向け情報操作   ↓ 日本語という壁による「世界の常識」からの鎖国状態   ↓ 日本の医療界の「ガラパゴス化」   ↓ 日本の医療界の閉塞状況(医療不信、医療崩壊) は、明らかに「言いすぎ」である。ほとんどの医師は医師会が訳した倫理マニュアルなんて読んでないし(僕も読んでなかった)、医師会が百歩譲ってそのような陰謀史観をもっていたとしても、日本の医療界が「それがゆえ」に閉塞状況になったりはしないからである。それに、平岡氏は指摘していないが、WMAは各国の事情に合わせた価値の多様性を尊重している。世界の医療倫理がみな画一的に同じであるべきとは主張していない。スローガンはあくまでスローガンである。平岡氏の主張によれば、日本の医療がことさらに他国の医療に比べて非倫理的ということになるが、そうである根拠を僕は知らない(倫理的な問題が皆無とは言わない。他国に比べてとりわけ、、という意味である)。 WMAはautonomyを以下のように説明している(マニュアルより)。そこでは医師の自律が尊重されているが、「患者の人権を擁護する」ために、とは書かれていない。また、患者のautonomyも大切にすることがうたわれているが、それは医師のautonomyの「目的」ではない。 Autonomy, or self-determination, is the core value of medicine that has changed the most over the years. Individual physicians have traditionally enjoyed a high degree of clinical autonomy in deciding how to treat their patients. Physicians collectively (the medical profession) have been free to determine the standards of medical education and medical practice. As will be evident throughout this Manual, both of these ways of exercising physician autonomy have been moderated in many countries by governments and other authorities imposing controls on physicians. Despite these challenges, physicians still value their clinical and professional autonomy and try to preserve it as much as possible. At the same time, there has been a widespread acceptance by physicians worldwide of patient autonomy, which means that patients should be the ultimate decision-makers in matters that affect themselves. This Manual will deal with examples of potential conflicts between physician autonomy and respect for patient autonomy.  平岡氏は患者の人権擁護が全てに優先する医療倫理の重要事項であるとする。そしてそのために医師のプロフェッショナル・オートノミーが存在するのだと。平岡氏がそのような倫理観を持つことに僕は反対する気はない。しかし、そのような見解が世界の基準なのだから、それを追随しない(と平岡氏には見える)医師会はけしからん、というのはおかしい。 倫理は、どこどこにこう書いてあるから正しい、とか間違っているというものではない。他者に規定される倫理は、それこそ平岡氏の引用されるカントによれば、正しい倫理(あるいは道徳)とは呼べないのではないか。ジュネーブ宣言、ヘルシンキ宣言もそのような文脈で参照されるべきで、一意的に「ジュネーブにこう書いてある」と丸のみすることが世界標準というのではない。倫理もクリティカルに吟味しなければならないのだ。平岡氏の強硬な人権擁護絶対主義、医師会陰謀史観には「ためらい」がない。断言口調である。僕は倫理に関して、断言口調はそぐわないと思っている。倫理については首をかしげて、どうしよう、、、と悩み続けるのが現場のリアルな医療倫理である。 というわけでやっと本に入る。 「ためらいの倫理学」は内田さんの事実上のデビュー作である。久しぶりに読み直してみたが、ものすごく新しい。文体は今よりシャープでより攻撃的だが、本質的には当時も今も言わんとするところは変わっていない。 それは、自分の「正しさ」に対する健全な不安である。それが「ためらい」である。 したがって、自分は正しいに決まっており、相手は間違っているに決まっていると断言する上野千鶴子や宮台真司に内田さんは容赦がない。さらに興味深いのは、正しいに決まっている、と主張するような奴らは間違っているに決まっている、、、、あれ?俺も同じ話法使ってんじゃん、と自分に突っ込みを入れることも忘れない。 予防接種は「効く」のか?、と「患者様」が医療を壊す、で僕はこれらの本の多くは内田樹さんのパクリである、、と書いている。でも、ためらいの倫理学を読み直して、その見解が誤りであることが分かった。ほとんど全部パクリでした。今書いている2冊の本も、たぶん延々とパクリを繰り返すと思います。

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    投稿日: 2011.03.04
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    内田先生が戦争、性、物語について語る、初期のブログコンピレーション本。初期の本の方が文章が難しかった。内田先生はあえて苦手な分野のテーマでもこうして思考を巡らせている。やはり考えるって大切だ。 そして、先生の言う知性というものがわたしも好きだ。「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」

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    投稿日: 2010.10.01
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    ちくまプリマーの「先生はえらい」を高校の時に読もうとして、その文体にイライラして10頁も読まずにやめたんですが、あの書き方はプリマー仕様だったんですね。 出てくる思想家さんとかの下知識がないから(だけじゃないだろうけど)わからん所はたくさんありますが、せやんなーと思いながら読みました。 私自身が内田さんが大学で相手にしている学生と同世代なので、「矛盾が書けない大学生」の話は身に染みるというかなんというか…。 内田さんの講義受けてみたいなと思って神戸女学院、若干考えたんですが、なんせ女子大…。絶対やっていけない自信がある。

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    投稿日: 2010.08.15
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     ここまで素直に自分の好みを書いているとは笑  内田さんの本を読んでぜひとも採用したいと思ったのは、「自分が無知であることから自分の思考をスタートしていること」だ。最近、レポートを書くとき、「べき」、「でなければならない」が増えて、自分でも違和感を持つことがあった。何かを論じるときには、対象を完全に知っているべきである、ということを無意識に考えていたように思える。  何よりも「ためらいの倫理学」に共感を覚えた気がする。最近、サルトル・カミュを好んで読んでいた自分にとって、非常にためになった。これを読むまで、サルトルに異常なまでに惹かれていた。一つ一つの事項に決断していく姿勢に、感銘を覚えていたように思える。しかし、同時に違和感を覚えていた。なぜ、そこまで、1つの姿勢を貫かなければいけないのか、と。また、カミュが何を言いたかったのか、さっぱり理解ができていなかった。その時は、「ペスト」、「異邦人」、「幸福な死」を読了し、「シーシュポスの神々」をかじり読みしていたが、さっぱりだった。そこに、「ためらいの倫理学」を読んで、少しサルトルへの偏愛が覚めたし、カミュへの理解が深まった。もう一度、カミュを読みなおそうかなぁ。。

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    投稿日: 2010.08.06
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    この人は何を言っているんだろう、という部分が何箇所もあるがそれは僕が内田樹の持つ下地(語られる対象に関する知識背景)を持ち合わせていないというだけで、彼が全くわけのわからないことを言っているわけではない(当たり前か)。 それどころか少し高次な内容の話でも「おまえら俺の言ってることがわかんねーだろ、わはは」的な高慢な姿勢じゃないのも良い(それは彼がとほほ主義だからでもある)。あえてわからない風に書くやり方もあるらしいが(というと完全に誤解を招きそうだけどうまく表現できないので)、それは「なぜ私は審問の語法で語らないか」あたりに詳しい。 そういった細かい部分についてはわからないながらも、彼が思想的にはどういった位置づけであるのかは巻末の高橋源一郎の文章を読めばだいたいわかる。 要するに内田樹は『「極端」な意見が跳梁跋扈する恐怖の世界』に『(救世主のように)現れた、非「極端」の人』なのである。 それを示すような文章が「自由主義史観について」にある。ちょっと長くなるけど引用。 『もし中学生に教えるべき「この困難な時代を生き延びるための知識」があるとすれば、それは「声の大きい」やつの言うことを信じるな、ということに尽くされるだろう。風説を信じるな、メディアを信じるな、・・(略)・・いまこう語っている私の言葉を信じるな。このダブル・バインド状況に耐える知性を自力で研ぎ上げてゆくほかに、子どもたちが成熟し自立するための手だてはないと私は考えている。』 本当に頭が良いってどういうことだろうかを考えさせる文でもあった。話としては「当為と権能の語法」が、追記と併せて読むことで、とても面白かった。「戦争論の構造」とかはある程度長いのでエッセイとして読むには少ししんどい(もともとそのために書かれたものじゃないしね)。 (2006年05月19日)

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    投稿日: 2010.08.02
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    何度目かの挑戦で、ようやっと読み終わる。要はわからないことがたくさんだから、決め付けちゃダメだよってことかしら。ウィトゲンシュタインは語りえないことについては沈黙しろと言った。

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    投稿日: 2010.07.02
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    専門家と素人の間という内田氏のポジションは、テレビにはでない。なぜなら、テレビ的なニ項対立思考ではないからだ。非ニ項対立思考?それは日本国民のあたりまえの特性だ。だからこそテレビ番組をみたいのだ。

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    投稿日: 2010.04.04
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    今回の収穫は「とほほ感」です。 私の先生はよく「自分を責めるのではなくこの国の制度を憎みなさい」と言うけど、でも実は、その制度に私たちは加担しているわけであって、その制度を憎むということは共犯者である自分自身をも憎まなければいけなくて…と考えていく時にでる「とほほ感」。 内田樹と丸山眞男はなんとなく似ている感じがする。

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    投稿日: 2010.02.11
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    発刊当時、単行本を買っていたが、09/12/27文庫本をあらためて購入。(本棚を眺めていたら文庫本もすでに購入済みであった・・・。結局3冊目。) 文庫化に際しての「はじめに」、高橋源一郎氏の「解題」を読みたくて。 内田のフェミニズムへの批判は、いつも胸の奥にストンとくるものがあると思い続けていたのだが、ときどきこれで良いのかと思ってしまうようになってきた昨今。 あらためて読みなおしている最中。(10/01/03) 二度目の読了。(10/01/07) ふだん思っていることを思想化することにおいて内田さんはすごいと思う。

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    投稿日: 2009.12.27
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    戦争論の部分がいちばん役に立った。ちょうど考えていてうまく整理できていないところだったので。国内の死者の魂を鎮めることと対外への謝罪を同時に行うことができればそりゃいちばんいいと思う。けれど、果たして可能なのか。といえば、不可能だろうと答えざるを得ないが、そこに向かっていこうと試みることはできると思う。フェミニズムへの言及はあんまり納得できない。どうして、そう考えるのかと思われるところがあった。カミュに関しては、サルトルとの論争もざっくりしか知らずあまりきちんと読んだことがなかったので、しっかり読んでみようと思う。

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    投稿日: 2009.03.02
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    あとがきにこんな文章がある。 最初のほうのスーザン・ソンタグ批判から最後のカミュ論まで、言っていることはずっと同じである。それは何か、と言われても、さすがに一言ではうまく言えない。無理して言えば、それは「自分の正しさを雄弁に主張することのできる知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性のほうが、私は好きだ」ということになるだろう(なんだ、一言で言えるじゃないか)(349頁) ここに、本書の性格および著者の性格がすべてあらわされている。 ポスト・モダニストを批判すること(「最初のほうのスーザン・ソンタグ批判」)、 一方でポスト・モダニズムのの思想的対極と言える実存主義からも距離をとること(「最後のカミュ論」)、 ジャンルレスに語ることを自身のスタンスとしながら思考の核をはっきりさせていること(かぎ括弧部)、 そして平易でユーモアを含む文体。 こんな感じか。総合すると著者自らが「普通の感受性」(190頁)と呼ぶ思考となろう。それはすべての極端から距離を置いた、まさに「中庸」と名づけうるものである。君子の中庸と平民の中庸は区別されるべきだ、とはどこかのえらい思想家が言っていたのを覚えているが(誰だっけか?)、それぞれをポジとネガとしたとき、内田の「中庸」は前者に当てはまるように思われる。つまりいいスタンスじゃん!ということだけなのだが。 実際、内田の論述は読んでいてとても痛快。本来ラディカルとされる極端志向の思考を、「普通の感受性」でひっくり返していくさまは、ラディカルという言葉の意味を再度考えさせられるものだ。たとえばフェミニズムに関するなら、内田はそれを「対抗イデオロギー」である限り認めるが、「支配イデオロギー」としては断固拒否する、というように論じている。つまり、カウンターカルチュアとしてなら正統性があるが、それが本来目指すところの既存のカルチュアの完全転覆には反対するのである。これが意味するのは、つまるところ現体制における性の不平等を肯定する保守的なスタンスだと言えるが、「まぁ、妥当かな」と笑いながら読める(それこそ「とほほ」である)あたりが、内田の上手さなのだろう。論じる対象へ一定の理解を示しながら、それが目指す究極(フェミニストだったら女性の男性超克)はばっさり切って捨てる、というどっちつかずの論法。なるほど、対象からしてみれば一番嫌味ったらしい論法である。 しかし、この論法に創造性はあるのだろうか。あるともないとも言い切れることではないが、基本的には受動的な姿勢からの搦手で一本、という方法である、ヒーローにはなれそうもない。このようなスタンスが、じつは最も困難な立ち振る舞い方だということは、たしかであるが。

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    投稿日: 2009.02.06
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    ある主張がある。 その結論がたとえ正論であっても、微かに不信の念がよぎったり腑に落ちない何かを感じることがある。そういうことを感じ取る内田樹のアンテナはものすごく感度が強くてエリアが広い。そこでなぜアンテナが反応したのかを探り、その理路を書き起こすという知的作業が内田樹の得意技である。 内田樹の書くものは、それが批評を目的とした批評でない限り健全な読み物たる。 内田樹はほとんど二元論的フレームワークから脱することに自らの立ち位置を定めている。まえがきにあるように、「中間を取る」ことで妥協案を探す。「専門家」と「素人」のズレを顕在化させ、修正することに仕事を求める。一方で、というよりむしろそのせいで、内田樹は結局何を言ったのか輪郭が見えにくいことがよくある。それは内田樹の書くものが構造的にある人にとって自明の意見に安易に帰属することをためらわせるものとしての形をとるから。こういう形は捉えにくい。でも健全だと思う。 また、上の理由で内田樹自身の結論が別の場所で変形していることがある。十分起こりうる。一貫しているのはその立ち位置においてのみともいえる。 内田樹を読む醍醐味は、複数ある目に見えた回答のどれにも重ならないが、その中間で確かに存在する内田樹のロジックを追いかけることであり、その妥当性を読み手が読み手の内に求めることにあると思う。 「ためらいの倫理学」は内田樹のデビュー作で、(必然性はあれど)時事性を優先している感のある最近の著作とは違って普遍性のある題材に挑んでいる点で、内田樹のより基礎的な思索を見ることが出来る。「大学生を中心に人気を集める現代思想家」(?)というイメージは自分の中であまりポジティブに働かず、「内田本はジャンクフード」のレッテルを貼っていたけど、これを読んで内田樹のやり口にとことん惹かれた。人に勧めるとしたらまずの本からかなぁと思う。 09.2.4

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    投稿日: 2009.02.02
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    ブログからの抜粋集。 内田さんのブログは拝見しているので、読みやすい。この人の語り口はやっぱり好きだ。

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    投稿日: 2008.12.29
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    「考え方」を考えさせられる。 個人的にはこの本に出会い視界が開けたが、前向きな気持ちで読まないと「中途半端なことしか言ってない」という不快感に襲われるかも。 「先生はえらい」を読んで共感したならぜひ読むべき。

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    投稿日: 2008.09.13
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    内田樹の本を読んだのは初めてだった。インターネットでブログを読んだ限りでは、なんとなくリベラルだけどたまに論旨がねじ曲がったり、変に政治的になったりするオッサンという印象だったが、一冊の本として提示されると、それなりに筋は通ってるし、思考法は理性的だし、なかなか良いと思った。これからもエッセイを見つけたら手に取ってみるつもりです。

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    投稿日: 2008.04.19
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    もっと早くこの人の主張に出会っていればよかったと痛感せざるを得なかった一冊です。歴史認識やフェミニズム問題などになぜ著者が「ためら」うのか、何に「ためら」っているのか、非常に心の中にもやもやとしたわだかまりをすっきりさせてもらった印象が強かったです。最後にカミュ『異邦人』等の著作に見られる論稿も個人的に大ヒットしました。

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    投稿日: 2008.03.02
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    10月購入。10月19日読了。 特に性について(ジェンダー、フェミニズム)関心があったので購入。明確な(すっきりとした)答えを提示せず、中立的な人だと思った。あと言語の用法や意味に関する言及が多かったのはレヴィナスを先生と仰いでいるからだろう。有事法制の孕む構造的欠陥、「日本にとっての最大の有事はアメリカによる侵略だが(中国、ロシアによる侵略はアメリカの許可を要するから)有事法制自体がアメリカの支援で成り立つことを不可疑の前提としている」という部分は鮮烈な指摘だと感じたが、正直全体的に難しい。物語、顔、他者、父、母・・・これらの言葉の説明を初心者にはして欲しい。

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    投稿日: 2008.02.08
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    書いてあることとか、その書き方とか、いろんな意味でとても影響を受けた一冊。この本をよんで、なんだ、当たり前のことばかり書いてあるだけじゃないか、と落胆できる人に、わたしはなりたい。

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    投稿日: 2007.11.23
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    内田樹のデビュー作ということで読んでみた。戦争、性、物語というテーマで論が展開されている(タイトルのまんまですけど)。正直、難しくてよくわからなかった部分もある。白か黒かという極端なはっきりとした意見は正しいと思われ勝ちだけど、極端な意見は間違っていることが多い(間違ってるかも)。白か黒かではなく、それ以外のグレーゾーン(灰色部分)の中で、著者が逡巡し、ためらいを感じながら「私の立ち位置はこの部分です。みなさん、どう思いますか?」という風なスタンスでそれぞれのテーマへの意見が述べられている。著者の文章には自己批評、自己省察の意識があって、そこがいいなぁと思う。

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    投稿日: 2007.10.14
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    今、内田樹にはまっています。 何冊か読みました。 現代思想のセントバーナード犬 というキャッチフレーズもすごいけれど… 内田氏の原点はここにある。

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    投稿日: 2007.08.03
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    「ためらい」という言葉が内田先生のキーワードなのかもしれない。 デビュー作にして最高傑作かもしれない、なんて思う。先生の思想のエッセンスが詰まっていて、濃い。

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    投稿日: 2007.05.18
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    様々な分野について、各章ごとに「なぜ私は○○について語らないか」というタイトルで○○について雄弁に、しかも優しい文章で語っている。たまにトンデモ系が紛れ込むベストセラー新書よりも、こういう本こそ読まれるべきかと。

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    投稿日: 2007.05.17
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    なぜ“ためらう”必要があるのか。 断言することを避けるようになった。 反芻することが多くなった。 人の意見を聴くようになった。 そしてまた考える、の繰り返し。 “この本はこうなんだよ”と説明したいんだけど、 そう思ってるのは私だけかも。 なんていうためらいは、自分の思考不足のいいわけです。

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    投稿日: 2007.04.22
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    やばっ。 森博嗣と出会った以来、僕が何も言わなくていいだろう。 大概のことは森と内田が僕なんかより何倍も解りやすく丁寧な言葉で言ってくれている。 もちろん著者買い必死

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    投稿日: 2006.07.16
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    分類=社会。03年8月(01年3月初出)。(参考)内田樹ブログ→http://blog.tatsuru.com/

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    投稿日: 2006.02.14
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    戦争とか性差別とか、そーいう論戦を戦うために、相手を論破するための武器になるものを探して勉強をしてしまうことがあると思うんですが。この本はそういう希望にはあまり答えられません。思うに内田さんの書いたものを引用できる役割というのはバランサーなんじゃないかなぁ。バランスを取る人。もしくは調停する人。自分だけが正しく相手だけが間違っているというような妄想にとりつかれない人。論戦での勝利など欲しくはないけどいろいろ考えたい人は、面白い視点や考え方の人なので読んでみてもいいと思う。

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    投稿日: 2005.09.04
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    ・日記にも書いたが、自分が賢いと思ってる奴ほどバカだ、というのは  まあ確かにそうだろうと思うんだけど、  そういうあなた自身はどうなんですか、  神の視線から見ているだけのようにも思えるんですが、と思いました。 ・フェミニズム批判のところはわりと面白かったです。  ショシャナ・フェルマンの『女が読むとき女が書くとき』の部分は、  難しかったけど、ついつい買ってしまいました。  女が使用する言語にも女であることの何がしかが反映される、というのは  新たな視点だったので。新鮮で。 ・最後の章の、表題作、ためらいの倫理学は非常に面白かった。  カミュの異邦人をテーマにしたもの。  再読したい。

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    投稿日: 2005.02.16
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     もともと「死と身体」を立ち読みし、ニーチェの奴隷道徳が現代は大衆に浸透してしまったというくだりを読んで非常に共感を覚えたため、読んでみることにした。ちょこちょこ3日くらいかかって読了。  非常に注意深い考察・語法と「軽快さ」が同居する不思議な哲学が広がる。 とことんメタレベルで考えながら、ポストモダンやフェミニズム論を批判する。批判といっても攻撃でも中傷でもなく、たんたんと「この人のこの考え方には共感するが、この論理構造には共感できない」と、参考文献を引用しつつ仔細に語る。  上野千鶴子は実際「セックスなんてどうだっていいじゃん」と考えているという事実には共感すると言いつつ、フェミニズム論がもつ自己言及性のなさを指摘する。フェミニストは、女性があらゆる制度や社会、文化、そして文学、論理について男性的原理を押し付けられてきたと語る。そして女性は女性のことばで語らねばならない、というようなことを言うが、その語る言葉はすでに男性的原理のなかで培われてきたものだということを注意深く感じ取っているか、また語らねばならない、と「言う」その語はどうなのか、それがわかっているのか、と言う。そういった自己批評性をもっているかどうかが哲学をするには重要だと言っている。  ページの多くが割かれている戦争論にしても、誰が戦争を起こしたか、誰が悪いか、こっちは被害者だ、あちらは悪だ、こちらが正義だ、と戦争当事者の誰もが思っていると言う。これは他者への認識の矛盾ということだと思う。この本は2001年3月に初版であり、アメリカでの同時多発テロとその後のイラク戦争におけるアメリカの発言をそのまま予言しているかのようである。予言とまで言わずとも、現代の戦争が孕む問題や特性、そして現実のレベルで行われる政策やプロパガンダの際の言説というのは、ある程度わかっているということだと思った。  そういう意味で哲学(この場合社会学かも知れないけれど)の力のようなものを感じた。私は短絡に陥りたくない、と普段から感じているので、全編に渡る、いろんなものを疑いつつ、自分の言葉さえも疑いつつ、単なる感情に陥らず、また人間性を失わない態度、というものにものすごく共感した。 :目次 なぜ私は戦争について語らないか(古だぬきは戦争について語らない アメリカという病 ほか) なぜ私は性について語らないか(アンチ・フェミニズム宣言 「男らしさ」の呪符 ほか) なぜ私は審問の語法で語らないか(正義と慈愛 当為と権能の語法 ほか) それではいかに物語るのか―ためらいの倫理学(「矛盾」と書けない大学生 邪悪さについて ほか) :レヴィナス  レヴィナスは、フッサールの現象学とハイデガー哲学のすぐれた研究者として、わが国でも以前から名前は知られていたが、その独自な思想が共感を得るようになったのは、比較的最近の出来事である。彼の思想は、一見、現象学的であり、実存哲学風であり、またユダヤ教的であるが、その中心にあるのは、私の「存在」の謎と「他者」の思想であろう。 主著は、『全体性と無限』(1961)および、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』(1974)。

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    投稿日: 2004.11.06