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総合評価

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    1988年版を読みました https://booklog.jp/users/0645363cbc10438c/archives/1/4335100167

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    投稿日: 2025.10.05
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    時間かけて途中まで読んだけど、まだ無理だ! フッサールと西田幾多郎の知識つけてから再読します… 一応メモだけ残しときます… ・生きものを生きものとして規定している共通の根拠というものが存在すること ・有機物と環境(世界)が出会うこと時点において主体が成立すること ・主体は有機体と環境の出会いの根拠として働くもの ・環境の変化により主体が失われるが、知覚と運動の円環的なからみあいを通じて新たな主体が維持される(不連続の連続) ・主体には生命の根拠との関わり、世界との関わりの二面があるけどなんか一緒らしい ・5章はよくわからん! ・ノエシス→生命活動一般の動的な志向性 ・ノエマ→ノエシス的な生命活動が意識面に送り込んだ表象 ・ノエシスとノエマはよくわからないけど両方が両方を規定している感じ?

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    投稿日: 2023.02.04
  • 価値観も世界の感じかたも変わる本

    この前、木村敏の「分裂病と他者」を読みとても面白かったので、本書を読んでみた。 「分裂病と他者」でも触れられていたメタノエシスについてが非常に丁寧に説明されていて木村理論の理解を深めることができる。 本書は演奏という具体的な例をベースに木村敏のノエシス、あいだ、が具体的に分かりやすく解説されている。 つまり演奏論としても芸術論としても表現論としても読める。 この本を読んでから音楽の聞こえ方が完全に変わってしまった。 フッサールの一歩通行のノエシスーノエマとは一線を画する木村現象学の円環的現象学はハイデガーやヴァイツゼッカーのみならずヘーゲルともどこか通じるものを感じさせる。 生命一般の根拠との関わりをベースに心を心身二元論ではなく、メタ心、メタ身体というべきメタレベルで論じている。 また本書で展開される共通感覚についての理論はユングの元型の考えに直結している。 フランス現代思想のデリダにも言及しパロールとアルシエクリチュールの差異を間と間主体的あいだの差異として取り出し現在の現在への自己限定の動的構造を暴いている。 さらに西田の行為的直観、ヴァイツゼッカーのゲシュタルトクライシス論、ユキュスクルの環界、これらの本質を分かりやすく解説している。 また統合失調症の成因論ではお馴染みのベイトソンのダブルバインドについて、再考されているのだが、これが目から鱗の内容で、なるほどそう解釈する手があったか、と思わされる。 木村はメタメッセージの側の問題としてダブルバインドを再考している。 ダブルバインドはラカニアンの新宮一成も再考していて、それと比較すると面白い。 いずれにせよ木村現象学は、統合失調症の解釈を参照する限りにおいて、構造主義言語学より一歩上をいっているのはほぼ間違いないと思われる。 また本書は非常に分かりやすく書かれていて噴水の喩えなど、分かりやすさへの工夫も凝らされている。 精神病理学の理論として古い本だと思われる方がいるかもしれないが、それは大きな間違いである。 私は最新の心理療法家の臨床論文も読むのだが、現代人の精神的傾向、つまり非定型発達を理解する上で木村理論をスルーすることはありえないと断言できる。 本書は今の日本社会、日本人の若者の心を知る上で最重要書籍の1つである。 もし木村敏が生きていれば、発達障害を心身症などと関連づけ、アレクシシミアや操作的思考との関連を明らかにし生命一般の根拠との繋がりの希薄さ、共通感覚の欠落として、ポストポストフェストゥム論として論じるのではないかと思う。 木村理論は、自らを身ずからに見て、身体性を自己同一の原理の中核に位置付けるのだが、この着想は現代人の近代主体の解体を理解する上で決定的に重要な考えなのは、もはや疑う余地がない。 したがって、この時代にこそ、この本は必読なのである。 私は心理療法家ではないが現代の心理療法家は全員木村敏を読めと言いたい。 本書で論じられるウィーゴの構想力、トピカや第二の被膜の話というのは、明確に現代のユング派のいう象徴や物語性と心的誕生の議論と同じである。したがって現代のユング派より木村敏の考え方の方が発達障害を元型(共通感覚)との関連において明確に理論化しえている印象は拭えない。

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    投稿日: 2022.10.06
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    よく繰り返し読んでいる本。 「我」や「汝」や「物」や「世界」に着目するのではなく、「我と物」、「我と汝」、「物と物」、「我と世界」の【あいだ】に注意を向ける話などなど。 我と汝の「あいだ」で生じる対話は、ペアプロ、ファシリテーション、ダイアローグに通じる。 仕事では、BDDやモックで出てくる「振る舞い」behaviorという言葉の意味がわからず妙に気になっていたが、「あいだ」が「振る舞い」を理解する補助線となった。 カメラでは、私と被写体と「あいだ」を色々考えさせられた。ゲーテ同様に僕の写真の撮り方に影響を与えた一冊 建築のパタンランゲージは、もの形の話をしているのだろうか?それとも人々が望む心の中を話をしているのだろうか?この本の座視ならどちらでもなく、人と建築、人と人の「あいだで繰り広げられる質」の話になるであろう。 そのほか、音楽の演奏の話、「言葉」と「こと」の話、 「自ら」と「自ずから」の源流である「自」の話などなど、興味深い。 音楽の演奏の話は、スクラムの自己組織化のイメージ像を豊かにしてくれるんじゃなかろうか。 まだ咀嚼しきれていないところが多数あるので、生きているあいだに、またいつか読むと思う。

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    投稿日: 2014.10.02
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    木村臨床哲学の核心である「あいだ」。「生命一般の根拠」とのつながりはどう保たれるのか、正常(共通認識の枠内にある「形態」ととらえてみる)とは何かから新しいノエマを形成するための即興を考える契機がうまれる。

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    投稿日: 2012.09.22
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    やや難解でありながらも、こういった書物につい引き込まれてしまう。 ノエマ、ノエシスや西田幾多郎「行為的直観」概念と格闘しながら。

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    投稿日: 2011.03.29
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    木村は、精神科医であり、思想家でもある人で、その豊かな臨床経験と、哲学の概念をうまく調合して、独自の生命観を記述している。 この本は木村は、生命一般の根拠というものを記述している。以下は、自分の簡単なまとめ。 コモンセンスは日本語では「常識」って訳すけど、これだと成文化が可能な何らかの知識だと思ってしまう。例えば事務マニュアルに載ってる諸規則は、これに該当する。なら、事務マニュアルを全て暗記することによって、初めてその仕事のコモンセンスを習得することができ、仕事が円滑に進むのかと言うと、そうでもない。第一、そんなこと不可能。一方、コモンセンスを直訳するとい「共通感覚」。哲学者ヴィーゴはコモンセンスを、ある集団が共有する、成文化が難しい「世界との実践的・行為的な関わりの感覚」として考えた。知識ではなく、本能的な感覚。それは「頭」で習得するよりも「身体」で習得するようなもの。これさえ習得してしまえば、どんな状況でも、「正解」を導き出せる。ただ、こうしたコモンセンスは、座学の研修だけでは習得できない。その世界へ滑り込み、今までの「自己」を殺して、新たに自己を誕生させていくという、「転機(Krise)」の連続によって取得していく。 木村は、生命現象を、転機として捉える。全ての有機体は、外部環境の働きかけに対して、こうした転機を繰り返すことによって、世界と関わっていると言う。これまでの自分を殺して、新しい自分を誕生させる。いわば、「不連続の連続」。こうして、その都度、世界との実践的・行為的な関わり方を更新して、その世界での「自然さ」を身に付けていく。(ちなみに、分裂症患者は、こうした「自然さ」を喪失した人たち。始終、急激な「転機」が要請される現代社会の犠牲者である。)

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    投稿日: 2011.03.21