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powered by ブクログ地獄篇のような凄惨な場面は少なく、さまざまな人名が続出して、それぞれの罪を清めている情景が描かれている。 聞いたこともないような人名は、いったいどのような人物なのかということが皆目わからないのだが、幸いに訳註があるのでおおよそのことは理解できる。 それにしても、やや煩雑な感は否めない。 圧巻は、第31歌以降のベアトリーチェとの再会の場面。ゲーテの『ファウスト』も、この場面を意識しながら描かれたのではないかと想像される。
0投稿日: 2026.04.17
powered by ブクログこちらの平川祐弘訳ダンテの『神曲』と、阿刀田高『やさしいダンテ』と、挿絵による『ドレの神曲』と同時進行。 『地獄篇』 https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309463118 阿刀田高 https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4041576261#comment 【煉獄編】 ❐煉獄とは 「煉獄」というのは聖書でもあまり記述されていない。プロテスタントでは煉獄の存在を認めていない。カトリックでは「七つの大罪を清める場所」としている。 ウェルギリウス先生はダンテの導き手だが、煉獄や天国へ入ったことがないので、出会う死者たちに道を聞きながら進む。しかし精神的にはやっぱり導き手である。 煉獄は、地獄へ行くほどの罪ではないが、天国直行はできない者たちが罪を悔い改める場所。<第一歌>で煉獄の入口の番人として「翁」がいるんだけど、解説によると彼は古代ローマ時代の政治家小カトーらしい。『神曲』には、それぞれの場所で出会った死者たちの背景や特徴だけ書かれて名前が書かれないことがあるけれど、当時の読者はこれで全部わかるのね(^_^;)さて、小カトーはカエサルとの対立に敗れて自殺している。だが地獄生きではない。あの世でも、この世の功績によって少しは情状酌量があるのか? ❐煉獄の成り立ち まず死者は船に乗って煉獄山の麓に着く。第一の丘、第二の丘、ペテロの門をくぐって第一層から第七層まで上がり、楽園にたどり着く。煉獄山は大変険しいのだが、罪が贖われれば気持ちが楽になり坂も楽になる。ダンテは天使による罪を表す「P」の七つの刻印を押され、層を上がるたびにその罪が贖われると刻印が消えていく。 そして煉獄には大気があり、太陽や星が出て、昼と夜がある。地獄のルシフェルから下って反転して、南半球に出てきた、って地理らしい。途中で空に浮かぶ星が…とか、赤道からの距離が…とか書かれるので、ダンテの天文学や地質学の知識が出ているんだろう。 ❐煉獄の構造 第一層から第三層は、歪んだ愛の結果の罪。 第一層:信仰を持つが高慢だったもの。重い荷物を持ち後ろ向きに歩く。 第二層:嫉妬の罪。目を針金で縫い合わされて絶壁に縛られ愛の鞭打たれる。 第三層:憤怒の罪。煙で視界を遮られる。 第四層から第六層は、人間の物欲的欲求が強すぎて生じた罪。 第四層:神の善に対して怠惰。休まずに走り続ける。 第五層:貪欲。財産や地位への執着。地面に這いつくばる。 第六層:暴食。近くに美味しそうなものがあるけれども決して飲食できずに植えて苦しんでいる。 第七層:愛欲。激しい炎の中を通り抜ける。ダンテは怯え、熱いけれども無事に通れる。 罪を悔い改めて天国への道が開かれると、煉獄全体が揺れるらしい。しかしダンテが会った死者たちは「自分の敵は苦しめばいい」と言ったりして、現世の恨みを捨てられない者も多い。 地上楽園:七つの罪を贖ったら地上楽園へ。ダンテはウェルギリウス先生と別れ(寂しい〜)、ベアトリーチェと再会する(ベアトリーチェが死んでから10年。ダンテが最後に会ってからは15年くらい?)。 地上楽園:罪を贖った魂は地上楽園に到達する。この時点でウェルギリウス先生の「導き」の役割は終わり。 ❐地獄と煉獄 アケロン川で地獄に行く。地獄は「審判の日」まで罰を受け続ける。煉獄は悔い改めれば天国への道が開かれる。地獄の川は血の川とか怒りや愚痴が溜まった川。煉獄に行くにはテーヴェレの河口から。罪を贖い地上楽園?に着くとある川が「忘れる」レテ川と「愛を知る」エウノエ川。地獄に行くには忘れることは許されない。煉獄から天国へ上がれるようになり現世のことを忘れてもよい。 地獄は救いがないので読んでいてもどんどん重苦しくなっていったけれど、煉獄に出たら日夜があり、風が吹き、星が出て、死者にも希望があり、清らかな水があり、そして色がある。まだ明るくはないけれども爽やかさを感じるようになる。 ❐煉獄での自問自戒 煉獄では、自分で自分の罪を自覚して悔い改めなければいけない。煉獄では、見て、感じて、取り入れて自分の判断して、進む。そのため『煉獄編』は理屈的っていうか内省的。神は人間を善いものとして創ったはずだが、生きている人間が理屈ばかり求めたり、努力しないことによって成長は止まる。ダンテも「煉獄のすべてに意味があるように感じる。何を見て、大切なことを読み取らなければいけないのか。見落としがあるのではないか」と考えながら進む。そして天国に辿り着けば会えるベアトリーチェを想いながら内省が続く。ウェルギリウス先生はそんなダンテに「何が大事かを知ること。理屈を超えて見ること。人間の理屈には限界があるが、すべてをあるがままに受け入れるのだ」とかなんとか導く。 ダンテは、ベアトリーチェやウェルギリウス先生の導きによりこの世の原理、人間のあるべき姿を求めている。しかしそれは誰かの力や祈りや導きが必要な旅でもある。ウェルギリウス先生は、煉獄にいる人々を見て思い悩むダンテに「皆には言わせておけ。どっしり構えていろ。次から次へと考えばかり秋起こしていると、互いに力を削ぎ合って目的を踏み外すぞ」などとアドバイスします(第五歌) そして作者であるダンテ自身が持っているであろうイタリアやフィレンツェへの不安や怒りが書かれている。 ❐煉獄の構造における愛のこと ダンテとウェルギリウス先生の対話よりキリスト教の愛について。 現世ではなにかを大勢で分けると一人当たりは少なくなる。しかし神への愛はあるだけ人々を照らして増えてゆく。そこで一つのもの(愛)は多くの人が分け合ったほうが増えるのである。 人間には分の気に入るものがあり、神への「原初の善」と、人間の物欲としての「第二の善」があり、人々はそれらを愛することにより徳にもなるし悪にもなる。愛の力が歪んだ方向に向かったり、過不足が生じると罪を犯す。煉獄で贖う罪は、「善を正しく愛さなかった」ことで起きる。 そこで煉獄の第一層から三層の嫉妬、憤怒、怠惰は神の善を愛する心が不足したことによって生じたもの。第四層の怠惰は神の善を愛する心が不足したことによって生じた。第五層から七層の貪欲、暴食、愛欲は、人間の物欲的欲求が強すぎて生じた。 ❐ウェルギリウス先生からベアトリーチェへ ここにくるまでにウェルギリウス先生はダンテに精神的なアドバイスをして、道案内をして、その上険しい岩場でダンテを背負ってくれたり(本当はウェルギリウス先生は霊体なのでダンテは触れないのだが、このあたりはご都合的にってことで)、岩場の狭い道を通るときはダンテを内側で自分は外側を歩くなどの気遣いもしてくれた。さり気ないけど実にいい人。 しかしダンテが地上楽園に着いた<第二十七歌>で、ウェルギリウス先生は「自分の導くという役割は終わった」という。しばらくは影のように側にいるんだけど、ダンテがベアトリーチェに会った<第三十五歌>では傍らにウェルギリウスの死先生の姿がなくなった! ええー寂しいー。 ウェルギリウス先生がいるのは国の入口の「辺獄(リンボ)」である。人生に迷うダンテの導き手として地獄と煉獄を案内し、ダンテに数々のアドバイスを与えてきた彼は、人知れず辺獄に戻されてしまったんだよね。情状酌量ってもんはないのかーー!(無いのがあの世の沙汰) しかも<第二一歌>では、煉獄で罪を許されたラテン詩人スタティウスが同行していた。彼はウェルギリウス先生の大ファンで「是非一緒に」となったのだ。ダンテはベアトリーチェと語らい自分の行いを振り返り、スタティウスは天国に行く。そしてウェルギリウス先生は地獄の入口に戻される。無情だ(-_-;) そしてダンテはベアトリーチェと語らう。 ❐怒るベアトリーチェ ベアトリーチェの登場はなかなか印象的。ギュスターブ・ドレの絵も良い。聖獣(イエス・キリストを象徴するらしい)やら天使やらを添えた車に乗って空を飛んで登場。そしてダンテを叱る・笑 実際のベアトリーチェは25歳で亡くなっている。ダンテと同じ年なので、地上楽園で再会したときには死後十年が経っている。ベアトリーチェは「私が生きている間はあなた(ダンテ)を導いたけれど、私が死んでから邪道へ迷い込みましたね」と叱責し、「この森で共にローマのゆく道を見ましょう。現世に戻ったら忘れないでくださいね」と告げる。そして幻想的(地獄煉獄巡りが十分幻想だが)な光景が広がりまくるんだけど、意味がよくわかりません(-_-;) ❐煉獄篇全体について 煉獄は己の罪を己で自覚して改める場なので、自分との語らいになる。しかしそれを抒情詩で書かれるととっても内省的だし、例え話と象徴と仄めかしとが延々と綴られていくので、ものがたりとしては面白くない(-_-;) あまりに内相的で抽象的で内容も難しいので詩のリズムや美しさを楽しむ余裕も持てなませんでした(-_-;) しかしダラダラしていないので小説形式よりは読みやすいかもしれない(^_^;)
30投稿日: 2026.03.18
powered by ブクログ「煉獄」れんごく という言葉は、カトリックの教義で、死後に魂が天国へ行く前に罪を浄化する場所を指します。また、比喩的に、苦しみを受ける場所を指すこともあります。 マハーバーラタとダンテの神曲、雰囲気が似てるなと思ったんだけど、こういうのが叙事詩っていうんだ。読書歴浅いから知らなかった。叙事詩って創作の泉って感じがするし、その国の個性が滲み出るから面白い。 ダンテが死人ヴェルギリウスに導かれ、生きたまま地獄の谷を下り、煉獄の山を上り、天国を目指す長く苦しい旅。イリアス、オデュッセイア、アエネーイスと同じく話の途中から始まる。地獄篇はアエネーイスが元ネタぽい。トロイの木馬を考案したオデュッセウスや、バベルの塔建設を命じた 人生の正道を踏みはずした私が目を覚ました時暗い森の中にいた。1300年春ダンテは地獄・煉獄・天国をめぐる旅に出る……世界文学の最高傑作を分かりやすい日本語訳テキストで読む 2年前3冊揃いで購入するも、初っ端の本書で挫折。 キリスト教や世界史の知識が乏しい為読み進められなかった。 今日『白鯨』の登場人物の台詞と重なる場面が出てくる偶然に驚く。 亀のような歩みで何とか通読。 小説を読む合間に次の煉獄篇を少しずつ読んでいく。 海外文学を挫折する原因のひとつとして、背景知識や概念など分からない所が出現する度に調べて読むペースが崩れ、それがストレスとなる事だと思う。 何度も繰り返し読むと決めたら、とりあえず前に進んでみる。最後まで読み切る。 解説も後回し。 次は天国篇へ。 ダンテ 神曲 煉獄篇 私の印象的な言葉 『おまえは、もっぱら地上の事ばかり考えているから、真実の光明から暗黒を引き出してしまう』 やはり、人間は現世の言葉ばかり考えては幸せになれないんだと思う。 心掛けたいです。 地獄めぐりを終えウェルギリウスの魂とともに煉獄を旅するダンテ。山頂の楽園を目指し、過酷な登山道をゆく。 ダンテ『神曲』に、ギリ地獄に落ちないで済んだけど煉獄にも入れないで、煉獄の入口あたりでずっと座ってグズグズしているべラックワという人が出てくる ダンテの友達だった楽器職人がモデルとされ、怠け者で有名だったので怠惰の罰として生前と同じだけの時間を煉獄の入口で待たされているらしい 「何かの奇妙な理由からと考える〔この樹が円錐形をさかさまにしたような格好になってることに象徴する意味をさとるべきだ、ということ〕ようなら、そなたのこころはまだ眠っているのですよ。そなたのおろかな考えが、そなたのこころのまわりでエルサの水〔アルノ川の支流。その水には石灰石がとけこんでいて、ものを化石にするという〕とならず、」 —『神曲・煉獄篇』ダンテ・アルギエーリ著 「ピエートロの門をはいると、山には上から、色欲、大食、貪欲、懶惰、怒り、妬み、おごりの順に、七つの罪をきよめるために、それぞれ一段ずつ七つの段丘ができていて、それが山をとりまく環道となって螺線形に一周する形で麓へ延びている。そして、さらにそれを罪の重さで分けて、下からたかぶり、妬み、怒りが下部の、懶惰が中部の、貪欲、大食、色欲が上部の煉獄となる。きよめられる七つの罪はほとんどここに集まっていて、区分的には、これが「中の煉獄」となるのである。 山のいただきの、もっとも高いところは、もはや雲のなかへはいることもあって、頂上にちかい色欲の環道をはいると、そこが地上楽園である。かつてアダムとイヴが原罪を得たところで、その中ほどに知恵の樹がある。この山上の狭い盆地が、区分上からは「後の煉獄」となるのである。」 —『神曲・煉獄篇』ダンテ・アルギエーリ著 「ダンテがつぐなうその特殊な罪というのは何かというと、それはベアトリーチェに対する罪である。その罪は二つの意味をもっていて、一つは現世的な色欲の罪であり、も一つのは彼女の精神的な本性を拒否した罪だ。それはいうならば、地獄でエピキュリアニズムと呼んでいた異端、すなわち懐疑である。いいかえれば、それは霊魂の不滅性の否定であり、人間的な限界を越える精神に対する拒否だからだ。これは地獄にはなかった哲学的な煉獄の罪だと思う。」 —『神曲・煉獄篇』ダンテ・アルギエーリ著 https://a.co/8Jkfzj3 プルガトリオっていう言葉はダンテの神曲の煉獄編の題名なので、あそこから煉獄が始まりましたよという意味で間違いないでしょうね。煉獄には煉獄山があって、自分の罪を登山しながら清めていくんですよね。そして山頂にベアトリーチェという天女がいると。同じ名前ですけども。 「その結果として、十九世紀には現象的に、『神曲』がドイツのプロテスタント社会に多くの読者を見いだすことになるが、それに引きかえ、イタリア人をのぞくカトリックのラテン民族のあいだでは、そういう現象は見られないという。その理由は明らかで、カトリックのラテン民族は、プロテスタント社会が、主として知的に抽出しなければならないものを、いまだに教会の中にもっているからだと思う。(その断層が、はからずも、『神曲』によってラテン民族とドイツ民族とを、再びむすぶ力になったというオザナムの見解はおもしろい)。 煉獄の神話は、こうしてある程度ダンテによって、プロテスタントの世界でよみがえったといえる。そうなってからは、もし和解とか、とりなしとかが、信仰個条や神学的な教理として、抽象的なかたちで与えられるものとすれば、プロテスタントはそれを再び神話化するだろう。なぜなら、彼らは自分自身の具体的なかたちを持ちはじめているからだ。その具体的なかたちとは、真に詩的なもの、あるいは詩となる真実の素材である。そこで、われわれは、この問題について、その原初の具体的なもの、すなわち神話をかいま見なければならないと思う。」 —『神曲・煉獄篇』ダンテ・アルギエーリ著
1投稿日: 2025.07.08
powered by ブクログ煉獄篇の最後辺りに天国編はより難解だから気軽に手出すんじゃねぇぞ?みたいな忠告があったのでひよって天国編を読まなかった過去がある(未だに未読)
0投稿日: 2023.04.21
powered by ブクログ・これから先はおまえの喜びを先達とするがよい。峻嶮な、狭隘な道の外へおまえはすでに出たのだ。正面に輝くかなたの太陽を見ろ、草花や樹々を見ろ、ここではすべてが大地からおのずと生えている。
0投稿日: 2023.03.12
powered by ブクログ煉獄とはなんぞや?地獄行きを免れた死者が天国を目指し七つの大罪を浄める贖罪の山である。鬼滅の刃は知らん。 地獄篇のビジュアルが印象強い「神曲」だが、煉獄篇も非常に映像的。地下に降りていった前篇から、今度は山を登っていくという流れになり、雄大かつ峻烈な風景が描かれる。おどろおどろしさは薄れるものの、罪を償うべく過酷な労働を強いられる著名人が続々登場し感情移入を誘う。ダンテの額に肉、ではなくて七つのP(罪)の文字が刻まれ、七つの大罪に対応した環道を通過するごとに一つひとつ消えていく、というのもマンガ的で面白い。 先生との別れの情緒と、ようやく出会えた夫人から受ける叱責の強烈さが見事なコントラストをなしていて、ここが煉獄篇最大の見どころなのかも。というかSMすぎてワロタ。ダンテくんがM男というよりSすぎるんですよあの方……。 終盤の、美女がたくさん登場し癒やされる光景は文字通り地上の楽園という感じで、ダンテと共に旅をしてきた読者をなごませる。このあたりは天使やら幻獣やらが登場し、どファンタジーな映像を堪能できるので読んできたかいがあるというもの。続く天国篇はいかなる世界か楽しみだ。
1投稿日: 2022.03.12
powered by ブクログ文学的美しさにおいては、平川祐弘訳の右に出るものなし。これをたった35歳の弱冠で訳し上げた平川先生はやはり学者としては超一級。
0投稿日: 2021.12.13
powered by ブクログ地獄編同様、一日一歌コツコツ読んだ。 『神曲』を読む上で、思いつきで実行してきたこの読み方は案外有効なように思える。なぜなら、地獄〜煉獄を巡ることがいかに大変なのかを追体験できるからだ。途上でダンテは何度も挫けるが、その都度ウェルギリウスに励まされ、歩を進める。私も何度か読むことが億劫になったが、その度に自分で喝を入れて読んできた。 だからこそ、ダンテがベアトリーチェに再開するまでどれだけ苦労したのかが、現体験を通じて感じることができる。 閑話休題、煉獄編で特に惹かれたのはやはり美しい情景表現だ。第一歌から感動で鳥肌が止まらなかったのは鮮明に覚えている。これも地獄編をコツコツ読んできた後だからこそ味わえる感動である。 もちろん第一歌のみならず、全体にわたって美しくて的確な表現が止まらない。これに心動かされない者が果たしているのだろうか? 『神曲』の魅力は語り尽くせないくらいにはまだまだある。″3″を意識したゴシック調の形式、原語で音読したときに歌になる工夫、各編の行数の統一性などなど。『神曲』は知れば知るほど、その偉大さにひれ伏す。 こんなにも私の心を打った作品なので、本書の訳者である平川先生による『ダンテ神曲講義』を参考に再読しようと決意。その前に天国編へ!
0投稿日: 2020.10.05
powered by ブクログ>詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧 かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。 >君ら生きている人々はなにかというとすぐ原因を 天のせいにする、まるで天球が万事を 必然性により動かしているかのような口吻だ。 仮にそうだとすれば、 君ら人間の中には 自由意志は滅んだことになり、善行が至福を 悪行が呵責を受けるのは正義にもとることとなる。 天球は君らの行為に始動は与えるが、 万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても 善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。 そしてこの意志は初期の戦いでは 天球の影響を受けて苦闘するが、もし意志の力が 十分に養成されているならば、すべてに克てるはずだ。 君らは自発的に、より大きな力、より良き性質に 自由に服することができる。その性質が君らの中に もう天球が左右できないような智力を創り出す。 だから、現在の世界が正道を踏み外しているとするなら、 原因は君らの中にある。君らの中に求めるべきだ。(十六歌) >疲労困憊するなどと繰返して言いながら、私たちがここまで夢中になって『神曲』のなかを歩みつづけてこられたのは、結局は訳者平川祐弘の流麗明快で活気に満ちた訳文のみごとさによるものにほかならぬことに、あらためて気がつく 平川先生の訳と注釈の頼もしさ、さながらダンテを導くウェルギリウス先生の如しなので解説めちゃくちゃ分かるになった。そしてあらすじ知るだけなら漫画でもいいかと思ったけどダンテ達と一緒に歩く読書“体験”が重要だったと思うから「『神曲』のなかを歩みつづけ」るという表現にも共感
0投稿日: 2019.03.29
powered by ブクログ読了 地獄で挫折すること度々だったので、煉獄自体が初めてで新鮮 地獄のクライマックスはサタンですが、煉獄のクライマックスはベアトリーチェ
0投稿日: 2018.11.23
powered by ブクログダンテ著、平川祐弘訳『神曲 煉獄篇』河出文庫 読了。地獄めぐりに引き続く、七つの罪を浄化する煉獄山登頂の旅。煉獄の旅も地獄に劣らず厳しいが、罪がひとつずつ消滅するような爽快感があり、山頂には麗しい地上の楽園が待っている。ウェルギリウスとの離別は感慨深かった。天国の旅が待ち遠しい。 2011/01/19
0投稿日: 2018.11.06
powered by ブクログ2009年1月19日~20日。 面白さからいったら地獄篇の方が上かも知れない。 それでも、これは面白い。 ベアトリーチェってのもかなり自惚れが強い女性だし、ダンテも案外傲慢で情けなくて、甘えん坊。 キリスト教ってのもどうなの? 結局は神の復讐の訳でしょ。 なんて読み方はやはり邪道だろうか。 訳者の平川氏の功績がやはり大きいと思う。 この作品を盲目的に賛辞するのではなく、きちんと俯瞰してダメなところはダメ、首を傾げるところはおもいきり傾げる。 そして懇切丁寧な注釈。 大抵は注釈なんて斜め読みするんだけど、ここでの注釈は本当に役に立つ。 痒いところにきちんと手が届くのだ。
0投稿日: 2018.01.06
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
煉獄というのは、天国へ行く前に現世の罪を浄める場所。 これはカトリックだけの教えのようです。 プロテスタントには天国と地獄しかありません。 ここも天国ではありませんから、地獄ほどではありませんが苦しみに悶えながら罪を償っています。 本来罪を犯した人は地獄に行くのではないの? 一度の罪で地獄に落とされ永遠に地獄で苦しみ続けなければならない人と、煉獄でゆっくりゆっくりと罪を浄めて天国へ入れる人のちがいがわかりません。 だたし、どんな理由があろうとも罪を犯すのは結局本人の意思。 “天球は君らの行為に始動は与えるが、 万事がそれで動くのではない。仮にそうだとしても 善悪を知る光や自由意志が君らには与えられている。” 今話題の『沈黙』のテーマにも重なりますが、こんなことも。 “ 至高の神よ、口にするのも畏れ多いが、 神の正義の目はよそを向いておられるのか? それとも神の深謀遠慮は われわれの理解の及ばぬところで こうした禍を福に転じる用意を整えておられるのか?” “普通、正義を心に秘めている人は多いが、射るのは遅い、 議を経ずには矢を弓につがえぬからだ。” 議を経ないでやりたい放題の人、最近多いですね。 一昨年読んだゼイディー・スミスの『ホワイト・ティース』の中に出てきた疑問 “もし自分が神に許され楽園に行けたとしても、自分の足元に数え切れないほどの救われなかった人たちの屍があるとするのなら、それは本当に楽園と言えるのだろうか。” これに対する答えはまだ私の中にない。 天国篇を読んで答えは出るだろうか。 ダンテ以前とダンテ以後で大きく変わったと言われるヨーロッパの文学と美術。 それほどの芸術のきらめきが天国篇では薄れて、宗教色が強くなるらしい。 “詩行が独立して読むだけでは意味が通ぜず、興趣も湧かず、註釈が必要とされるような部分は、詩的作品としては欠陥作品というべきであろう。残念なことにこの種の傾向は煉獄篇末尾から天国篇全体を通じて強まる傾向にある。” と訳者が書いているのを読んで、日本では『神曲』を芸術作品として読んでいたのだと気がつく。 てっきり宗教作品だとばかり…。 だから明治の文豪たちがこぞって絶賛していたのか。今気がつきました。
0投稿日: 2017.01.30
powered by ブクログ難しすぎてなにがなんだか... 途中から心折れてあらすじの部分を一気読み。 そっちの方がやっぱり分かりやすかった。 またいつか読み返すつもり...
0投稿日: 2016.09.14
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ダンテ(平川祐弘訳)『神曲』河出書房,2009(初版1966) 全33歌。ダンテはウェリギリウスに導かれて、地獄からはいあがってきた。一応、煉獄は南半球にあるらしい。カトーに出迎えられ、船でついた魂たちと煉獄の山を目指す。煉獄(Purgatory)は古代にはなく、中世にできあがった概念らしい(ル・ゴフ『煉獄の誕生』未読)。ダンテによれば、死者の魂は現世で死ぬと、海を越えて、煉獄に運ばれてくる(この点、あの世を海の向こうと考える日本神話の一部とも共通していて、興味深い)。煉獄は死の前に神と和解した魂が、七つの大罪(高慢・嫉妬・怒り・怠惰・貪欲・大食らい・色欲)を清めるところで、ダンテは煉獄の入口で天使に七つのP(peccato:イタリア語の「罪」)を額に刻印され、煉獄の七重の山を上っていく。一つの罪をみるごとに天使にPを消してもらい、賛美歌が聞こえてきて、身が軽くなる。地獄は下りだが、煉獄は上りである。高慢の罪の魂は岩を負わされていたり、嫉妬の魂はただ座り込んでいたり、貪欲の罪は寝そべることを強いられていたり、色欲の魂は火で灼かれていたりする。興味深いのは「大食らい」の罪で、この罪を犯した魂は痩せこけている。ダンテは食物を摂る必要のない魂がどうして痩せこけるのかと疑問を発する。ここで、煉獄の浄罪を終えて旅を共にするスタティウスが答える。スタティウスは西暦50年前後の詩人で隠れキリスト教徒だったという設定、ウェリギリウスを尊敬している。彼の知識では、心臓の血から精液が生じ、「自然の器」(子宮)で血と結合し、生命がうまれるが、その脳を作るに及び、魂が生じる。魂は死んでも、その活動をやめず、生きていた時と同じく形成力によって霊魂の体をもつようになる。これを鏡が姿をうつす例で説明する。要するに死んでも体があるから、痩せこけるのである。この他にも水蒸気が冷やされて雨になるなどの気象学の知識も披露されている。 ダンテとウェリギリウスとスタティウスは七つの大罪の浄めを通りぬけ、最後の炎を通り抜けると、頂上のエデンの園で、ベアトリーチェと再会する。ベアトリーチェはいきなりダンテを叱りつける。ダンテは9才のときに、ベアトリーチェとはじめて会い、18歳のときに再会、その後、ベアトリーチェは銀行家に嫁いで、25歳で死んだ。要するに初恋の人である。天国に上ったベアトリーチェは、ダンテが自分が死んだ後に他の女性にうつつを抜かし、身をもちくずして、このままでは地獄落ちになるのを心配して、ウェリギリウスに泣きついて、ダンテに地獄と煉獄をみせたのであった。ダンテは十年ぶりに会ったベアトリーチェから小学生のように叱られて声もでない。それでも、なんとか前非を悔い、マテルダに助けられて忘却の川レテで罪の記憶を洗いながし、ダンテはベアトリーチェとともに天に昇ることになる。 要するに、35歳のいい年をした男が、初恋の人に子供のように叱られる話であるが、仏教でも観音さまは慈悲深い女性のようだし、なんか恋した人に叱られたい願望ってあるのかなと思う。 ウェリギリウスは第30歌で静かに姿を消す。ベアトリーチェは結構自意識過剰。 「私がその中にいた美しい肢体ほどお前の目を/喜ばせたものは自然にも人工にもありませんでした。/その肢体はいまは大地へ塵となって散りました。/私が死に、それで至上の喜びが脆くも失せたというのなら、/どうしてはかない現世のほかのものが/おまえの心を惹き得たのでしょうか。」
0投稿日: 2014.12.14
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ダンテはウェルギリウスに導かれ、最上部の地上の楽園(エデンの園)を目指して七つの圏(わ)を登っていく。そのそれぞれの圏(わ)では、キリスト教の七つの大罪(高慢、嫉妬、怒り、怠惰、貪欲、大食らい、色欲)を犯した魂たちがその罪を浄められている。 その浄められ方がなるほどそうなのだろうという感じ。 地獄編もそうだったが、ダンテさんの想像力、描写力はやはり凄い! Mahalo
0投稿日: 2014.06.26
powered by ブクログ煉獄とは、天へ昇る前に自らの罪を浄める場所です。煉獄の山を登り終えたとき、全ての罪が浄められるとされています。 ダンテは星を見上げ、ベアトリーチェの愛を感じ「信じること、希望を持つこと、そして人を愛することこそが、人を支える基本的な力である」ことに気付きます。 煉獄の山では、かつて自惚れたり高慢であった人々は重い石を担ぎ、嫉妬深かった人々は目の瞼を縫い付けられ、怠惰であった人々は走り続け、貪欲であった者は腹這いで伏し続けるという試練に遭っています。 詩人ウェルギウスは説きます。 愛とは人の好みの感情に似ていて、好きな方に流れていく。人は本来の努めの度が過ぎてしまったり、道を逸れてしまう結果、償いをするために善をつむこととなる。つまり良い行いも、悪い行いもともに愛から発しているということなのだと。 また煉獄ではひとつの魂が浄化されると、天と地が呼応します。 そこでダンテは、魂は個人的な存在ではなく、ひとつの存在がその他全ての存在に関わっており、誰かを思う気持ちや愛があってこそ魂は浄化され、すべてのものが、ひとつの魂の浄化を喜ぶことを知ります。 煉獄の最後の試練である、炎を浴び身を浄めることで、ダンテは降臨するベアトリーチェとついに再開することができます。 ベアトリーチェは母の優しさをもってダンテを責めます。 あなたは私が死んでしまうと悲しみのあまり我を忘れ、正道を見失った。 失望したが、どうしても見捨てることはできなかった。だからウェルギウスに頼み、地獄を見せー煉獄の炎で身を浄めさせー神の真実を示すほかに道はないと考えたのだと。 そしてダンテはベアトリーチェに導かれます。光り輝く神の国ー天国へ。
0投稿日: 2014.04.25
powered by ブクログ地獄編に続いて煉獄編。 煉獄とは、生まれ変わるために魂の浄化が行われる場所で、巨大な山になっている。 地獄編よりも。情景の描写が一層文学的になり、また思想も多く散りばめられている。 しかし、地獄編よりも面白みは薄くなってしまった印象。 ダンテと会話をする人物それぞれの個性が立っていないので 全体的にぼんやりしているのかも。 後半でベアトリ―チェにやっと逢うことができるが、まさか遭遇した時のベアトリ―チェが結構強烈な人で驚いた。 それにしても、ウェルギリウスがここでお別れしてしまったので、「先生」の言葉と素敵な振る舞いが、これから天国編でみられないのは、大変に惜しい。 地獄の罰を受けることも、煉獄で浄化されることも、天国に行く着くことも、生まれ変わることも出来ない、永遠の魂の放浪者・ウェルギリウス。 少し遅く生まれたスタティウスが、最期に改宗した故に煉獄山を登ることを許されたのに、死後はるかに詩人としての評価が高いウェルギリウスがこうした扱いを受けてしまう、キリスト教の考え方に、理不尽を感じてしまった。 いつかウェルギリウスの「アエネイス」も読んでみたい。
0投稿日: 2013.05.27
powered by ブクログすいぶんかかって読破。 地獄篇~煉獄篇~天国篇と、あわせて1000ページを軽く越えるボリューム。 ちなみに、宗教的な興味がとくにあったわけではない。 「分かりやすい」と好評の訳だけあって、さながらダンテと旅する気分。地獄篇では、さまざまな罪によって罰を受ける人々を見て、ちょっぴり自分の罪を悔いてみたりもした。 煉獄から徐々に抽象的になっていき、天国はまったく理解を越えていた。まだ私の魂はそこに到達できないらしい。(笑)
0投稿日: 2013.04.09
powered by ブクログ地獄や天国と違って煉獄というのは日本人になかなか馴染みがないのだけど、そもそもキリスト教内でもプロテスタントや正教会は煉獄の存在を認めてないのだから仕方がない。地獄が信心を持たない者がその罪によって裁かれる場所なのに対して、煉獄は信者として救済を約束されていながらも生前の罪を浄化するために設けられた苦しみの場であるというのも始めて知って興味深かった。内容は一層混み入ったテーマやさほど有名でない人物議論に入っていくが、ウェルギリウス先生と共に行く煉獄山の登山光景は地獄の重苦しい雰囲気と違ってどこか爽やか。
0投稿日: 2013.03.18
powered by ブクログ地獄篇から煉獄篇(Purgatorio)へ。 全ての霊は、死後、肉体を離れ、地獄行きか煉獄行きか分別される。生前の信仰のため、地獄に堕ち永劫の罰を受け続けるのを免れた霊が、天国界へ昇るのに相応しくなるべく罪を清める場所がこの煉獄界、浄罪界とも訳される(なお、聖書に煉獄界の記述は殆ど無く、のちのプロテスタント教会ではその存在を認めていない)。 浄められるべきは七つの大罪。傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・大食・色欲。地獄で罰せられる罪よりも日常的なものであるため、キリスト教の倫理的厳格さが却って身に詰まされる。 「私の血は嫉妬に煮えたぎっていたから、/もし人の幸福を見ようものなら、/顔面は、君の目にも見えるほど、蒼白となった。」(第十四歌) □ キリスト教の世界観では、神の絶対性・神に対する人間の無力さが公理として前提される。 「おまえらにはわからないのか、われわれは守りもなく/裁きに向かって飛ぶ天使のような蝶となるために/生まれついた虫けらだということが?/なぜおまえの気位はそう高く舞いあがるのだ?/おまえはいわば片輪の虫、それも/まだ発育不全の蛹のようなものではないのか?」(第十歌) 「三位一体の神が司る無限の道を/人間の理性[ratio=計算的理性――引用者]で行き尽くせると/期待するのは狂気の沙汰だ」(第三歌) 次の引用に云う「自由」も、当然のことながら、「神への自由=罪に塗れた肉体という鉄鎖から解放され霊が神へと合一していく自由」であって「神からの自由」ではない。勿論、近代的な政治的「自由」でもない。 「自由を求めて彼は進む、そのために/命を惜しまぬ者のみが知る貴重な自由を」(第一歌) 愛の志向も美への陶酔も、一方で人間に自由意志を認めておきながら、最後には神の裁きと地獄の罰を持ち出して、愛や美への自由を矯めようとするのがキリスト教の教えだ。 「人間は善や悪を愛し、/その愛を集めて選り出すことができる・・・。」(第十八歌) 「・・・善悪を知る光や自由意思が君らには与えられている」(第十六歌) 「愛がおまえたち人間のあらゆる徳の種であり、/かつ罰に値するあらゆる行為の種である・・・。/・・・およそものは自己嫌悪におちいることはありえない・・・。/そしてあらゆる存在は原初存在[神]から切り離されて/それ自体で存在するとは考えられぬ以上、/およそ被造物はそれを憎むことはできぬわけだ」(第十七歌) 「およそ愛と呼ばれるものなら/それ自体でみな称賛に値すると主張する人の目には/真理は隠れ、真相は映じていないのだ」(第十八歌) 「天はおまえらを呼び、おまえらの周りを回って、/その永遠の美の数々を示しているが、/おまえらの目はもっぱら地上に注がれている」(第十四歌) 神の絶対性を志向する、則ち神と云う審判者の赦しを日々希求し続ける、その強迫的なまでの目的論的世界観とは、何と窮屈な生だろう。想像するだに息苦しい。 □ "永遠の女性"と云われるベアトリーチェも、要は自分の死後にダンテが自堕落な生活に陥り「よその人の許へ走った」ことを、キリスト教の用語を用いて責めている。そもそもダンテのこの彼岸行自体が、堕落した彼の眼を覚まさせるには「破滅した人間を見せるより外に/もはやない」と、彼女によって図られたものだった。 "永遠の女性"とまで云われる彼女が、言葉ばかりは宗教的な説教で飾り立てているが、その実は高慢で世俗的な女であったことに対して、率直に云って失望を覚えた。「世の中の人々が苦労して方々の枝に探し求めた/あの甘い樹の実」「おまえの餓えをいやしてくれる」(第二十七歌)天国に於いて、彼女はどんな言葉を語るのか。 □ 内面に於て最も清浄たるべき神的合一を憧憬する精神的営為を、世俗に於いて支えるはずの教会。そんな内面に於ける宗教的権威が世俗に於ける政治的権力と一致してしまっては、その権威の源泉たる清浄な信仰心は、世俗の泥濘に何処までも墜ち込んでいくだろう。現に、政治活動家でもあったダンテの本作にも、信仰の清浄な静謐さとはほど遠い、俗世の政治状況に対する憤怒怨恨を露わにしている場面が多々見られるではないか。天皇制批判にも通じる一節を引用する。 「・・・。ローマ教会は/[世俗と宗教の]二権力を掌中に握ろうとしたから、/泥沼に落ち、自分も汚し、積荷も汚してしまったのだ」(第十六歌) 加うるに、内面を支配する宗教的権威が世俗を支配する政治的権力と一致してしまっては、神の絶対性へ合一しようとする宗教的心性は、世俗に於ける絶対的な暴力へと容易に転化してしまうことも歴史を顧みれば看て取れるだろう。 □ 最後に、我が身へ向けての叱咤の句を記しておく。 「風が吹こうがびくとも動ぜぬ塔のように/どっしりかまえていろ。/次から次へと考えが湧く男は、/とかく目標を踏みはずす。/湧きあがる力が互いに力をそぎあうからだ」(第五歌)
1投稿日: 2012.08.21
powered by ブクログ其れが目的のひとつであるからには当然のことなれど 宗教文学のとどのつまりは その宗派に属する者の祝福にあるから 何れを採っても私などは蚊帳の外 お陰で公正な眼でもって その教義が宗派を超えた処で——つまり万民にとって普遍の真理たり得るか否かを観察することが出来る。熱狂や戦慄からは一線も二線も画されて在り 個人的反省や呵責を別としたなら 所詮他人の土俵上の取組を観覧しているに過ぎない。 外国文学を採る限りは そうした一抹の無益は付き纏う訳だが このように小さな 旗頭をもたない国土に産み落とされたのは運の尽きで 彼方の人類史に占める面積も質量も大きい以上 理不尽でもこれに組み拉かれて往くより仕方はない。 なれど 一体 本来で在れば得られた筈の処のどの程度 異教の民は読み取るだろうか。
0投稿日: 2012.03.13
powered by ブクログ日本人におよそ馴染みのない『煉獄』が舞台。地獄に行く程ではないが天国に行くまでに改悛が必要な人が来る場所。天国行きが確定している人が来る場所です。ヴェルギリウスがいなければ意味が分からなかったと思います…。地獄ほど生き生きした文章ではないものの、変わらずサクサク読み進められました◎煉獄では生きている身内に祈ってもらうと天国行きが早まるので、生きているダンテに我先にと話を聞いてもらいたがる下りが非常によく出来ているなぁと思います◎面白かったです!
0投稿日: 2011.11.19
powered by ブクログ二人の詩人、ダンテとウェルギリウスは二十四時間の地獄めぐりを経て、大海の島に出た。そこにそびえる煉獄の山、天国行きを約束された亡者たちが現世の罪を浄める場である。二人は山頂の地上楽園を目指し登って行く。永遠の女性ベアトリーチェがダンテを待つ。清新な名訳で贈る『神曲』第二部煉獄篇。
0投稿日: 2011.10.11
powered by ブクログダンテの神曲の2篇目、煉獄篇です。地獄篇を無事に抜けたダンテが煉獄山を登り、地上楽園を目指していきます。 「煉獄」という語は少しなじみのない言葉ではないでしょうか。私は本書を読んで初めて、こうした世界が地獄と天国との間にあることを知りました。そこに描かれるのは、地獄篇に立ち込めているような悲惨さではなく、「ここを最後まで登り切れば必ず天国に行ける」という希望をよすがとして苦役に耐える魂たちの姿です。しかし一方で、突然現れたダンテ一行に「あの人には影があるぞ」と驚いたり、そのような表情のまま恐る恐る近付いて「自分のことをどうか現世の人に伝えてほしい」と口々に懇願したりする姿は滑稽でもあります。そのためか、登場人物からはあまり悲愴な印象を受けませんでした。 現世で山を登るときには、たいていは(私は山登りの経験はないのですが)頂上に近づくにつれて疲労が増していくものだと思うのですが、煉獄山ではそうではないようです。煉獄の門をくぐるとすぐに急峻な岩場が現れ、ダンテは息も絶え絶えにそこを越えていきます。その描写も巧みで、読者としては「まだ先は長いのに初めからこんなに疲れるなんて」という感情に襲われます。通常の山とは逆に、煉獄では登れば登るほど身体が軽くなっていくようなのですが、読みながらその軽やかさを追体験できるか、と言えば、私にはとても同意できません。このもどかしさはやはり私が現世に生きているからなのでしょうか。ですが、このような描写もやはり滑稽なものなのでしょう。 そして、地獄をずっと2人で旅してきた一行ですが、本書中盤の第21歌からはもう一人、ラテン詩人のスタティウスが加わります。ウェルギリウスを心底尊敬していたというこの人物の登場によって、作品の雰囲気はがらりと変わります。彼とのやり取りを通じて、ウェルギリウスの人柄が、主人公であるはずのダンテ以上に伝わってくる気がしました。地獄では厳格な人物という印象のあった彼の、スタティウスの一途な(?)想いに触れた時に表す心情などは、とても親しみやすいものに感じられます。このような描写のおかげか、本書は先の地獄篇よりもずっと明るい印象を与えるものとなり、原題の「Commedia」にずっとふさわしい内容になったような気がしました。そうした意味では、私個人としては地獄篇より煉獄篇の方が好みであるかも知れません。平川祐弘訳。 (2009年7月入手・2011年2月読了)
1投稿日: 2011.02.16
powered by ブクログ地獄と比べてここ煉獄にいる人たちは KiKi にとってあまり馴染みのない人が多かったです。 そうそう、それとですね、地獄と煉獄って形からすると地獄をひっくり返したのが煉獄・・・・みたいな形になっているみたいです。 要は地獄はすり鉢状・・・というか漏斗状で下へ行くほど狭まってその先っちょにあるのが氷漬けの世界なんだけど、煉獄はそれを上下ひっくり返したような形の急峻な岩山でその天辺にあるのが天国・・・・らしい。 地獄から天国に移動する際には地獄の底に埋まったルシフェロの体づたいにダンテはウェルギリウスに負ぶさって、地球の球体のど真ん中を突き抜けてエルサレムとはちょうど反対側に突き抜けていくような形で浄罪山のほうへ脱出していったということらしいです。 何となくネジをどんどん下がっていくみたいな感じがしてちょっと面白いと思いました。 (全文はブログにて)
0投稿日: 2010.09.23
powered by ブクログベアトリーチェに会いに! その思いで辛く、険しい山道を登る。 ところどころ一息つけるものの、なかなか読み進むのがつらかった。 頂上に着くとベアトリーチェに会えるが、ベアトリーチェがなかなか手厳しい。 気づくとヴェルギリウスが消えているし。 地獄に落ちなくても7つの大罪の罪を煉獄で償わなければならない。 ああ、天国への道はかくも厳しいものなのか。 途中、フランスのカペー朝の王たちの名前があげられていたのでカペー家の歴史がついでに読めてしまった。
0投稿日: 2010.05.27
