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ペトラルカ 無知について
ペトラルカ 無知について
ペトラルカ、近藤恒一/岩波書店
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総合評価

6件)
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    ペトラルカも晩年に論争で疲れているなぁという印象。嫌味の少ない穏やかそうな人に思えた。 宗教を不安のせいにして神を冒涜するくせにアリストテレスのことは盲信するんですね、というようなことを言っていて、人文主義の息吹を感じた。

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    投稿日: 2026.01.04
  • 人間中心主義へ

    ペトラルカが活躍したのは、中世が終わろうとし、ルネサンスが芽吹き始めた時期です。中世ヨーロッパにはアリストテレスの著作が広く知られ、知識人にとって学問と云えばアリストテレスを基にしたスコラ哲学を指していました。彼ら中世知識人はアリストテレスを神を扱うように高い位置に置いて、アリストテレスを無批判に盲信して、名前だけアリストテレス唱え、アリストテレスの考えから逸脱したことを話していても、自分で気づかずにいるようなことさえありました。 ペトラルカは、早くからプラトンの著作を知り、プラトン哲学の素晴らしさを理解していました。プラトンを重んじ、アリストテレスを神のようには扱わないペトラルカは、当時の知識人から見れば、「無知」な人間としてみられたようです。 ペトラルカはベネチアの友人4名から訴えられて反論を書いたのですが、書簡は当初の目的である友人への反論を超え出て、知識とは知性とは何かと言う議論へと展開されて行きます。 ペトラルカは、アリストテレスを否定しているわけではなくその優秀性を認めさえしていますが、神のような高い位置からは降ろして他の思想と同等に批判的に吟味しようとしています。アリストテレスは、徳は何であるかを定義し教えてくれますが、徳をなすべく学ぶ者の心を励まし燃え立たせてはくれないと、ペトラルカは言います。いくら知識が増えたとしても、意志も魂も元のままでは意味が無いということです。 知識中心、権威中心であった思想を人間中心に捉え直そうとする姿勢がそこには現れているように感じます。人間中心主義へと大きく変わろうとするルネサンスという時代背景もあったのでしょうか。 こうして書いて来るとペトラルカは人間中心の合理主義者に映るかもしれませんが、彼はキリスト教の僧であり神を深く信仰し愛しています。合理的なもの、人間的なもの、人間の叡智を超えたもの、全てのものを受け止められる大きな精神活動をペトラルカの中に感じます。

    6
    投稿日: 2015.03.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ペトラルカに対する友人たちの不正な評価を論駁した書。 ですが、むしろペトラルカが自身を慰めるための文章のような気がする。 彼自身はキリスト教信仰者として正道を歩んでいるという自信と希望を持っている一方、年老いても未だ怒りや悲しみなどの感情が起こるのを抑えることができず、葛藤している様が人間的で好感を持てる。 ペトラルカが最も大切だと考えたのは神に対する信仰でした。 信仰とは神を知ろうとすることではなく熱烈に愛することです。 「善であろうと意志することは真理を知ろうとすることより優れている」とも述べています。 キケロの言うように「ことばにも顔にも心を表し、何事も自分自身と話すように友人たちと話す」べきである、というのは良い考え方だなと思いました。

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    投稿日: 2013.01.02
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    九州フランス語文学会出版の「フランス文学論集」No44mp 高木雅恵さんの論考にでてた。 「カルメン」が自然の描写とかかなり意識して書かれてるって話。人文主義者らペトラルカなどが自然を賛美してたって話。 で、読みたくなった。

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    投稿日: 2012.10.07
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    ペトラルカの時代において、キリスト教を信じるということは、キリスト教以外を排除することを意味したのだろうか。古典学の方法において、ペトラルカは普遍的なことを喋るが、これではキリスト教信者以外が救われない。この本の射程から宗教がない現代をどう捉えるか、が私のこれからの自分自身への課題だ。

    1
    投稿日: 2011.05.10
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    日本では余り知られていないが、ルネサンス時代人文主義の大物詩人、ペトラルカ。 友人を装って接近してきたアリストテレス信者の4人がペトラルカと談話した末、ペトラルカについて「善良だが無知」と断定。この件に関する論駁の書である。 ただし、ペトラルカは自分を「無知」とされたことに対し反論はしていない。むしろ、「無知」ではあっても「善良」でありたいというキリスト教的人生観を吐露し、その観点から、自然学的な知識を重視したらしい当時のスコラ/アリストテレス主義を批判しているにすぎない。 「獅子のたてがみには毛が何本あるとか、鷹の尾には羽根が何枚生えているとか、・・・たとえこうした知識が真であったとしても、幸福な生活とはなんのかかわりもありません。けだし、人間の本性ははいかなるものか、なんのためにわれわれは生まれてきたのか、どこから来て、どこへいくのか、ということを知らず、なおざりにしておいて、野獣や鳥や魚や蛇の性質を知ったとしても、それがいったいなんの役にたつでしょうか。」(P34) これがこの本の核心部分とおもわれるが、こんにちの目で見るとこれは学問/科学のあまりにも素朴な否定とうつるだろう。 ここではむしろ、「いかに生きるべきか」という功利主義的な考え方が、純朴な知的情熱を排除していくという意味で、反-近代的でさえある。 「人間」を視線の中心に置くという、いかにもルネサンス的な要求と、ニュートン以後の原理主義的な「知」の権力化とがいかに結びつくのか、ここではまだわからない。 とりあえずこの本は、論駁書としては途中で脱線しすぎだし、当時のアリストテレスへの過剰な信奉に対する批判はあっても、結局「美徳を求める」という、アウグスティヌスふうのスタンスからおおきく踏み出してはいないように思える。 やっぱりエラスムス等のほうがおもしろいなと思った。

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    投稿日: 2011.02.21