
総合評価
(74件)| 21 | ||
| 25 | ||
| 14 | ||
| 2 | ||
| 2 |
powered by ブクログ前回読んだのは、恐らく30年くらい前だったと思う。 本書の白眉は、「物質である脳から、なぜ心が生まれるのか」という心身問題に対し、「脳は構造で心はその機能」という明快な回答を提示したところだと思う。 その当然の帰結として、脳がなくなれば心も消える。 しかし、死が近付くとその認識は堪えがたいため、「魂の座」のようなものを想定するようになるのだろう。 また、最近読んだ「ドグラ・マグラ」に出てきた正木博士の「脳は身体の電話交換局」というセリフが本書でも引用されている。 そこから、人間が言語や品物、そして貨幣を交換するのは、脳自体が神経細胞間で電気信号を絶えず交換するシステムだからに他ならない、という結論を出すのは養老先生の独創である。 さらに進んで、社会制度や経済活動とは、脳の内部メカニズムが外部世界にそのまま投影・投射された「脳の産物」なのである、とまで言い切ってしまうことには躊躇も覚えるが、本書の文体のせいか、妙に説得力を感じてしまう。
0投稿日: 2026.10.04
powered by ブクログhttps://x.com/nobushiromasaki/status/2098624517052776486?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw
0投稿日: 2026.09.12
powered by ブクログ養老先生の専門分野の脳に関する本。養老先生!難し過ぎです。養老先生の作品で星2つは初めてです。それはさておき、先日NHKで最近の養老先生のドキュメントをやっていました。先生の子供達と虫を捕る無邪気なお顔がよかったです。いつまでもお元気で、難しくないエッセイをお願いします
4投稿日: 2026.07.14
powered by ブクログ1002円 唯脳論は私達はこの世界の中に生きているんじゃなくて、人間が認知出来るものの中にしか、つまり脳の中でしか生きられないということか。これは物理とかを勉強してたらそう思うよね。例えば、光の中でも可視光線の範囲ってめちゃくちゃ狭いし、光も音も脳が変換してるもんね。 「医学はヒトの理解を前提にするが、それには脳の理解が欠かせない。ここでもしかし、脳は一種のタブーである。うっかり脳をいじると、大学をクビになる。医学では実用性が優先するから、実用性のない議論は常に流行らない。そうした理由から、やはり唯脳論は人気がない。いちばんこれを主張してよいはずの精神科は、仲間喧嘩ばかりしている。おかげで大学の総長が国会に喚問されたりする。脳の話は、医学部では、触らぬ神にたたりなし、である。 そういうわけで、余計な御世話だが、利害関係のない私が、そうした皆さんの代りに、唯脳論を主張する始末になった。解剖学というのは、相手が死んでいるから、医学のようであって医学ではない。相手がすでに死んでいたのでは、医者は腕の振るいようがない。実証的であろうにも、死体はすでに存在してしまっているから、何も実証の仕様がない。理屈があろうがなかろうが、存在するものは仕方がない。そうとでも考える他はない。ゆえに、自然科学風であって、じつはそうでないようでもある。そういう変な分野だから、唯脳論のような変なことを考えるのであろう。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「時代の動きに敏感な学生が、理科に進まないとすれば、多くの場合、数学ができないからである。もっともこれは、社会構造の問題であって、じつは数学ができることが理科の適性なのではない。物理学者のファラデーは、まったく数学ができなかったという話がある。 それとこの本とはどういう関係があるか。 医者は大体、理科と文科の間に挟まって往生するものである。両者をどう結合したらいいか。そこで脳にたどりつく、というのが、この本を書いた私の動機である。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「理科系の人は、科学は有効性、実証性がなくてはならないとまで言う。こう書いても、理科系の人なら、それで「なぜいけないのだ」と不審気な顔をするであろう。それが理科と文科の喧嘩のもっとも深い原因だと私は思う。この本で私が述べようとするのは、文科系における言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけではなく、すべてを脳全体の機能へあらためて戻そうとする試みである。だから「唯脳論」なのである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「 他方、理科系の学者は、しばしば真理は自分の外部にあると考えている。それを「客観性」と称するのである。そういう人たちが、なぜ数学が得意なのか、私には皆目、納得がいかない。数学者が実験室で自分の数学を証明しようとした、という話を聞いたことがない。しかし、私は自分が理解できる範囲の数学が「正しい」ことを、いかにその数学がいわゆる「実証性」を欠いていても、信じている。それとも、経験科学万能主義者は、数学の存在を認めていないのであろうか。 私は解剖学者である。解剖学というのは人体の構成を説明する。たとえば説明しているのは私である。しかし、私が説明しようとしまいと、死体はそこに「ある」。死体はすでに「実証されている」。それは私の実証すべき全てを含んでいるからである。実証が全てであれば、私は解剖学など止めてしまい、死体を「実証主義者」の面前に担ぎ出す。それで十分であろう。 考えているのは自分である。「実証されなければ科学ではない」。そう信じているのは、そう信じている人の脳である。さらに限定するならそう信じている人の意識である。しかし、脳に存在するのは意識だけではない。フロイドはだから「無意識」を「発見」したのである。私はそれとは別な「無意識」を発見したと思っている。それはたとえば数学である。数学の論理は、それがある形で脳内にあるからこそ、見つかるのである。しかし、数学者は、そのこと自体を「意識してはいない」。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「もちろん、かつてヒトは、実証され得ない観念を振り廻し、他人に多大の迷惑をかけた。歴史はそういう教訓に満ちている。それを過ちだと考えるか。それとも、ヒトとは「そういうものだ」と考えるか。私は後者である。なぜなら、前提に述べたように、ヒトはおそらく五万年このかた変らないからである。「実証されないものは語るに足らない」という実証不能な観念を振り廻すほど、私は観念論者ではない。その意味では、私はあくまで実証主義者である。しかし、私は、ヒトとは実証不能な観念にすら頼りたくなるほどに、弱い者であることは知っているつもりである。だから、ヒトから、シンボルの一つである宗教を切り離すことはできない。 いまとなっては、誰が神の存在を「実証」しようとするか。それが無益なことはわかっている。だから、実証主義者が出現する。なぜなら多くのヒトは、何らかの「神」なしでは生きられないからである。実証主義者の神は、「実証」である。現代の実証主義者の言い分と、過去の宗教家の言い分とは、内容は違うが、形式は同じである。「お前の言うことは実証という名の神が許さない」と最後に述べるか、ただ単に「神が許さない」とのみ述べるか、その差に過ぎない。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「この点でも、しばしば意識の特殊性は誇張される。なぜなら、「自己言及性」は意識の特徴であるが、その中にも、さらに段階がある。つまり、脳には自分の脳と他人の脳があり、つまり自分の意識と他人の意識がある。他人の脳あるいは意識を対象にするなら、かならずしも自己言及にならない。「脳が脳を考える」のがおかしいと言ったところで、自分の脳で他人の脳を考えることは、われわれの日常的な行為であり、いっこうに差し支えないことになっている。誰であれ、 「あいつはいったい、なにを考えとるんだ」という疑問を、感じなかった人はないであろう。その意味では、脳が脳を考えることに、なんの不思議もない。 もちろん、脳の持つ自己言及性は、ある種の変な矛盾を、論理的に生じる。その典型は、「自己参入の矛盾」である。これは、話に自分のことが加わると、おかしくなるというものである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「心という機能について、解剖学が貢献できるのは、心という機能と、脳という構造の「関係」を指摘することである。肝臓のような臓器については、こうした「関係」は、ふつうそれほど意識的に追及されはしない。構造と機能の関係は、習慣的に自明とされるからである。しかし、脳については、そうはいかない。なぜなら、われわれはまだ、心と脳の関係について、それほど判然と自明だとは思っていないからである。この関係を、できるだけ「常識的」に解明しようというのが、唯脳論の目的の一つでもある。 ここで私が採ろうとする方法は、形態学で常用されるものである。それは「対応関係」の追及である。脳という構造と、心という機能には、どんな種類の対応関係が、どの程度に存在するか。これは、哲学的な心身論では、平行論と呼ばれるものに近いのであろう。しかし、形態学、すなわち後に述べるように、視覚系を用いた生物学では、つねに対応関係を追うのである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「これをわざわざ注記するのは、自然科学は因果関係を追及すると、多くの人が、しばしば誤解しているからである。原因と結果も、もちろんある種の対応関係だが、これは先行する出来事と後に生じる出来事との間の、時間を含んだのっぴきならない対応関係である。形態学は、こうした時間的な過程であっても、つねに「時間を除いた」対応関係としてのみ捉える。なぜなら、形には、時間性はないからである。これに関する詳しい議論は、むしろ前著『形を読む』(培風館)を参照されたい。したがって唯脳論は、「心の原因としての脳」を扱うのではない。心の示す機能に「対応するもの」としての脳、あるいは脳という構造に対応するものとしての「心という機能」を扱う。これは対応関係であるから、論理的にも因果的にも、前後はない。その意味では、ここで言う唯脳論とは、基本的には形態学である。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「唯脳論は、世界を脳の産物だとするものではない。前章で述べたように、意識的活動が脳の産物だという、当たり前のことを述べているだけである。科学哲学者の大森荘蔵氏は、私の唯脳論に対して、「無脳論」を述べられた( 1)。世界は脳の産物である。唯脳論は、そこに導く危険がある。そう大森氏は思われるのであろう。しかし、世界が脳の産物などとは、哲学者以外には、誰も思っていないのではないか。そういうことを考えるのが、ほとんど哲学者の定義ではないかと思うほどである。どう考えたって、素直に言えば、脳は世界の産物であり、哲学は脳の産物である。脳は哲学よりも広く、世界は脳より広い。 哲学者は論理整合性を重視するので、われわれの心が脳の産物であるなら、世界が脳の産物になるということを、どうしても指摘したいらしい。その議論の際の世界とは、まさに脳の産物としての世界であろう。唯脳論は、そんなことはどうでもいいと言う。唯脳論からすれば、世界の解釈は一つではない。「脳」だけをとってみても、物質になったり、心になったりする。それが、われわれの脳が持つ性質なのである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 ドゥルーズを読んでいると、養老孟司の唯脳論を連想するのだけれど、養老孟司の場合は物としての脳の解剖学的見地を土台にしているのに対して、ドゥルーズは概念としての「脳」の創造をやっているという感じがする。 「 脳と脊髄の区分に、骨を使うのは、相当無責任に聞こえるが、脳と言い、脊髄と言っても、その区分はかならずしも内在的ではない。要するに、脳と脊髄とはひとつながりのもので、間に線を引くのは、人間の側の取り決めの問題に過ぎない。もちろん、脳と脊髄とは、解剖学的な構成の詳細がやや異なっている。しかし、両者は移行するもので、その移行部は、延髄である。 脳神経は、伝統的に左右十二対とされる。これには、三叉神経、顔面神経など、いちいち固有の名称が付されている。ただし、専門家はこれを、番号で呼ぶこともある。番号でどの脳神経かわかるようになれば、それがむしろ専門家である。ただし、詳しく言えば、零番と呼ばれる脳神経もあるし、十二対の中には、強いて分ける必要がないものもある。つまり、この分け方も、ある程度は人為的、伝統的なものと言ってよいであろう。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「 経験から推測されたことだが、五分以上酸素を断った状態にしておくと、脳は回復不能の障害を受ける(この事実の実験的証明は、ヒトでは倫理的に不可能である)。これは、神経細胞がいわばその日暮し、手から口への生活状態にあって、生きていくため、たえずグルコース(つまりブドー糖)を分解していなくてはならないからである。仕事がない時は、食わずに寝ている。その知恵が、神経細胞にはないらしい。 神経細胞は、グルコースを酸化してエネルギーを得る。それしかできない。だから、酸素が切れても糖が切れても、エネルギー切れで、バンザイの状態になる。七十歳以上の人では、ガンではなく、脳血管障害が、死因としてもっとも多い。その遠因は、神経細胞のこういう性質にある。 すなわち脳は、血液からたえずグルコースと酸素の供給を受ける必要がある。酸素だけが切れた状態とは、たとえば一酸化炭素中毒であり、この場合には、赤血球中のヘモグロビンが一酸化炭素と結合し、酸素との結合力を失う。したがって、脳に十分酸素を運んでくれない。糖だけが切れた状態とは、たとえばインシュリンを過剰に投与された糖尿病患者である。この場合は、血中の糖がきわめて減少する。いずれの場合も間もなく意識を失う。その状態が続けば、ふつう回復不能の障害を生じる。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 養老孟司 唯脳論 “ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう。”(本書13p) 著者は都会とは脳の産物、ヒトが脳で考え形にした世界であり “現代人はいわば脳の中に住む”という。 都市は自然を排除し、便利さ快適さを追い続ける。確かに……限られた自然がある公園に行ってすら、地面には座らず無意識にベンチを探している。脳化とは何なのか? しかし自然は決して意のままにはならず、人間は自然そのもの。脳もまた然り。 熟読することで少しずつ脳や身体、心に、ついて理解が進む本。現在書かれている著作を読んでも『唯脳論』が根底にある。さらに考察が加わったり削ぎ落とされたりしながら、芯の部分は揺らぎがない。35年以上も前に書かれた本ですが、鮮度は落ちず、むしろ現代に問う鋭さが増している学び多き名著です。#再読 「ここでわかるもう一つの点は、脳とは順次連結していく神経細胞の集合体だということである。あるいはむしろ、たがいに連絡する神経細胞の集合体に「すぎない」。だからこそ夢野久作は、『ドグラ・マグラ』のなかで、「脳は身体の電話交換局にすぎない」と言ったのであろう。では、思考はどこから生じるのか。久作によれば、それはむろん、「全身の細胞が思考する」のである。脳は、その細胞思考の電話交換局である。久作が存命であれば、当然脳死は死にあらず、と言ったことであろう。 神経細胞は軸索と呼ばれる突起を出し、その先端が次の神経細胞に付着する。この付着部は特殊な構造を作り、これをシナプスと呼ぶ。ただし、脳が神経細胞だけからできているとすると、細胞表面のいたるところが、隣りの神経細胞と接触することになる。それだと、いたる所に興奮が伝わる可能性が生じるから、おそらくそういうことが起こらぬよう、もう一種類の細胞、ややこしいのだが、神経膠細胞という脇役があって、それが神経細胞どうしの間に、徹底的にはまり込む。この膠細胞は、グリアと呼ぶ方が短くて通りがいいので、そう呼ぶことにする。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「生きていくために、ことばなら最低どれだけの単語数が必要かということを、私はドイツ人の子供から習ったことがある。 この子の両親は二人とも医者で、私の友人だった。しかし、この二人の子供の育て方ときたら、われわれ日本人から見たら、ほとんどデタラメに近かった。医学の素養があるだけに、かえってタチが悪い。主人公である娘は、当時一歳半くらいだった。外国の家は靴で上がる。それでジュウタンが敷いてある。その上をこの子が這う。それはまあいい。ジュウタンの上に落ちていて、拾えるような小さなものは、ひとまず口に入れる。ゴミであろうが、食物のカスだろうが、いっさい構わない。親に一応注意すると、食べられないものなら本人が吐き出す。放っておいてくれと言う。我が家に来た機会に、大人たちにテンプラを出したことがある。ほかにも子供用の食物はあるというのに、この娘がテンプラをむやみに食う。これも注意したが、やはり放っておけと言う。翌日恐る恐る電話したら、いま下痢をしているところだ、と母親が電話口で平然と述べた。 オーストラリアに住んでいた頃、この子を何日かあずかったことがある。三つだけ、ことばが言えた。食物を見ると指さして、「マイン」と言う。「あたしのだ」と主張するわけである。それが同時に、食物の代名詞になっている。食物を食べ終えると、「モア」つまり「もっとくれ」と言う。安全な表現である。飢える心配がない。あと一つ、どうして覚えたのか、男を見ると「パパ」と言う。社会的な表現としては、これで十分である。これだけで、いくつになっても生きていける。この子を連れ歩くと、皆が「お前の子だな」と確認を求めた。父親にされてはたまらぬ、と恐慌を来たすのである。子供に英会話を教えるなら、この三語で十分であることを、この時に知った。一昨年この子にドイツで出会ったら、一人前の娘に成長しており、もっともらしい顔をしていた。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「デカルトが「 cogito ergo sum」つまり「我思う、故に我あり」あるいは「考えている私が存在する」というようなことを述べたとき、いま私が述べたようなことを、結局は考えていたのではないかと思う。当時は脳の概念もはっきりしなかったし、解剖学も神経生理学もなかった。しかし、天才が暇にまかせてゆっくり考えたのだから、金も暇もない、後世の私が考えるくらいのことは十分に考えたはずである。意識にとって、存在するものは脳に起こることだけである。自分のことを知る存在が脳であり、デカルトは要するに「私は脳であり、脳は存在する」と言ったらしい。それは、解剖学的にも正しい叙述だったと言うべきであろう。 さらにソクラテスが「汝、自らを知れ」と言った時、「お前の頭を使え」と言ったのである。「自ら」は脳であり、「知る」のは脳であるから。だから、脳が脳のことを知っているのは、脳が知られる以前からわかっていた。哲学は典型的に脳の学であるが、それを単に言語で表現しているだけのことである。デカルトの言が存在論の基礎のように扱われたのは、そういう筋書きが当時の「学」だったからで、当今であればそのまま神経生理学になったかもしれない。 デカルトにしてもソクラテスにしても、その発言を当時の文脈にひき直して理解すれば、立派な哲学史になるであろう。しかし私は哲学の歴史を説いているわけではない。解剖学は人間、つまりホモ・サピエンスが、数万年このかた変らないことを説き、したがって歴史上の人物はかならずしも「文脈的」ではなく、「同時的」に理解できる可能性を述べる。 それはともかく、脳が脳を知ることを、もう少し具体的に解説すべきであろう。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「哲学の他に典型的な脳の学と言えば、数学であろう。数学が頭を使う学問だということは、数学を考えたくない人でさえ、よく知っている。しかも、ふつうは頭しか使わない。実験室で数学をやろうという人はない。したがって、数学の規則は頭の中にある規則である。すなわち、神経系がおのずから持つ規則に他ならない。こういう叙述を嫌うのは、たぶん数学者だけであろう。 われわれは初等幾何学で直線というものを習う。数学者は、直線などというものは、現実には存在しないと言う。最近では、マンデルブローがそう言った。自然に存在する線と言えば、フラクタルだからである。 では、直線はどこにあるのか。脳の中である。どこにもそんなものがないとすれば、ヒトが直線を考えつくはずがない。どこかに直線がなければならない。だから脳の中に存在する他はない。では、脳のどこに直線があるのか。脳を解剖しても、脳から直線が出て来ないことは、解剖学者が保証する。 初等幾何の公理では、直線は点の集合である。なぜ直線は点の集合か。点は幾何学図形、つまり図形の基本単位だが、点はどこにあるのか。幾何学によれば、点には位置だけあって、大きさがない。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「要するに、ユークリッドは、「自分の」したがって「ヒトの」視覚系で生じる出来事を、公理という形に整理して述べた。ここでもやはり、脳は脳内で起こることを、なぜか知っている。「幻肢」と同じことである。ヒューベルとウィーゼルがネコを使って実験室で証明したことを、ユークリッドは、自分の頭を「観察」することによって、二千年以上も前に発見したことになる。その時になにを使ったか。もちろん言語である。公理は言語の形に書かれている。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「もっとも、言語も数学も、ある程度を越えると、理解する人の方が減る。つまり、そうした脳内過程には、個体差を越えるほどの一般性が無い。時代によって、同じ考えの理解度が違ってくるのは、教育、つまり環境の問題に過ぎない。江戸期の人に微積分を教えても、いまの人同様によく、あるいは悪く、理解したであろう。 したがって、すでに議論したように、より多くの脳内過程を含む頭ほど、多くのことを理解するはずである。類似の過程が自分の頭の中に存在するからである。だからこそ、ヒトは動物を十分ではないにしても理解する。これもまた、脳が脳を知る典型であろう。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「脳は脳のことを知る。知るとすればそれ以外にはない。つまり、「私が何かを知っている」という言語表現は、「私が」があるためにややこしいことになっている。日本語では、この「私が」は不要である。私にはその方が論理的に思われる。「私が知っている」と言うときの「私」は、日本語では他人と区別して言うのであって、「他ならぬ私が」という文脈で使われる。他人が介在しなければ、ただ「知っている」で十分であり、「知っている」こそ、しつこいようだが、脳の機能である。これを昔から「意識」と言う。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「一つには、キリスト教が、ヒトと動物をはっきり分ける考え方を教えたからである。ヒトは理性と自由意志と良心を持つ、と。ヒトがそういうものを持つに至った事情と言えば、もちろん、ヒトの創造の際に神の手がはたらいたからである。このように、動物とヒトを画然と分けるから、動物に意識があるかという議論は、もし「ある」と考える場合には、当然歯切れが悪くなる。ドナルド・グリフィンの場合がそうではないかと思う( 8)。場合によっては、神学論争を覚悟しなくてはならないからである。一方、理性はともかく、自由意志とか良心が動物にあるとかないとか言ったところで、自分の意志や良心ですら、あるのかないのかはっきりしないのが、日本人だろう。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「三木成夫氏は、話の上手な方であった。学生は氏の講義をたいへんに喜んで聞いた。私も、である。そこには、話の「間」すなわち卓れたリズムの取り扱いがあったに違いない。個人的な意見を言わせていただければ、私は三木氏の書かれたものより、話の方が好きである。氏はある年齢になられてから、ヴァイオリンを練習された。知人友人たちは閉口したらしいが、その熱心さは、いまだに語り伝えられている。晩年は日周リズムに凝っておられた。 他方、中村雄二郎氏が「共通感覚」について論じられたときから、「形がリズム」になることは、自然の成り行きだったであろう( 12)。形とリズムの「連合」こそまさしく、意識的な「共通感覚」の基本に他ならないからである。その意味では、純粋視覚というものがあるとすれば、そんなものは「共通感覚」からは放逐されるべきである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「ダーウィンは、キリスト教会とぶつかった。それは当然である。キリスト教もまた、典型的な「等身大以上」の思想だからである。ヒトは心に神を創り、それを投影する。投影された影は、しばしば等身大より大きい。それをヒトの肉体に連続させるために、「三位一体」があり「受肉」がある。ダーウィンと教会の衝突の深層はなにか。それは、古き「等身大以上」の思想、すなわち神と、新しい「等身大以上」すなわち「ヒトを含む生物全体の歴史を説明する原理」との衝突だったのである。ダーウィンの思想に、当時の敬虔な人たちは、ある傲慢さを見たに違いない。ヒトが感情的に反発するところには、なにかある。そして、その反発は、自分が同質なものを持っていることから生じる。それはすなわち、「等身大以上」の思想である。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「われわれは、運動をある意味ではバカにしている。純粋の認識論とは、しばしば知覚系のみによる哲学である。そこでは運動系は一顧だにされない。しかし、脳内に運動系がある以上、脳はそれを黙って見過ごすことはできない。そこに目的論思考が生じる。なぜならそれは脳が運動系に与えた「解釈」だからである。そのために、われわれにとって、動物の行動は「合目的的」となる。動物が合目的的に行動することに対して、「目的意識」を前提すれば擬人論となるが、古典的な自然科学思考はそれに対して異を唱えた。それはそれで当然であろう。なぜなら、第一に、共通の言語がない以上、われわれはいまのところ、動物に「目的意識」を証明できない。第二に、脳の進化を考えれば、われわれ自身の「目的論」は、われわれの「合目的的行動」の後について発生してきたものに違いないからである。それは、脳が脳のことを「知る」ようになった以上、やむを得ないと言ってよいであろう。それがいつ発生したかは、第一の条件から、不明と言うしかないのである。だからといって、古典的な科学者のように、動物の行動が「合目的的と言ってはいけない」すなわち「目的論は科学的ではない」と拡張するのも、当然誤りである。それは脳内にある目的意識ないし目的論と、外にある行動を無関係と誤解しただけである。そもそも行動に関わって脳内に必然的に発生してきた思考を、行動に当てはめることに異を唱えるのは、バカな話である。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「力学が数学ときわめて親近性が高いことは、それを支持している。力学の原理を、われわれが脳の中から「探してきた」としても、どこからどうしてそれを探してきたか、それを意識化することが難しいのである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著 「 「はじめに」で述べたように、われわれはいまでは脳の中に住んでいる。したがって、その脳を知ることは、われわれの急務である。それが、公式的には、私が唯脳論を書いた動機である。それは、ここまでのところで、あるいは御理解頂けたかもしれない。 ただし私は、解剖学者ではあるが、脳の専門家ではない。脳を専門に研究するのが私の日常ではない。誤解しないで欲しいが、この本は脳の解説書ではない。では、なぜあえて脳を論じるのか。 書いて始めて気がつくことだが、その裏にはさらに「真の」動機がある。それは「解剖学とはなにか」という疑問である。それは決して、ただ専門分野に関するだけの疑問ではない。ヒトはなぜ解剖のような奇妙な行為を始めたか、と言い換えてもいいのである。」 —『唯脳論 (ちくま学芸文庫)』養老孟司著
1投稿日: 2026.04.06
powered by ブクログヒトは、脳を中心に社会(都市?)を作り、人工物で埋めつくす。制御と統制のため。身体化。昔で言う「国体」?? 読んでいて、寺の伽藍配置もずいぶん脳化しているなと思った。手つかずの自然は置かない。
0投稿日: 2026.04.05
powered by ブクログ(2021/6/8読了) 難しい本である。 難しいのは、放談エッセイではなくて学術的な本だから、というだけではなく、脳が脳について語っているせいではないのか?と思ったら、だいたいそんな感じで合っていた。 脳の「構造」や「働き」から、数学にせよ社会制度にせよ脳から発するさまざまなものに到まで、脳にその原因(原型)がある。意識とは、言語とは、時間とは、…と話はいよいよ隘路へ入り込んでいく。難しい。 現代の「脳化」(特に都会には、人間の脳から発したものしか「ない」)とか、その死生観には納得。「死は当人にはなんの意味も無い」というような身も蓋もない正論には、却ってスッキリするし、そういう意味では、死が怖くなくなる本、でもある。
0投稿日: 2026.03.06
powered by ブクログ▶図書館にあり?タイトル同じで出版年月ちがうもの。 ●2025年12月15日、Yahooフリマで見つけた。今年4月に「スイッチ!」を購入した出品者さんの出品物をみてて見つけた。Yahooフリマで600円-300円引きクーポン=300円で買える。
0投稿日: 2025.12.15
powered by ブクログ解剖学者である養老孟司氏が1989年に発表し、日本の思想界に衝撃を与えた一冊です。私たちが「心」と呼んでいるものも、「現実」だと思っているものも、すべては脳という臓器のクセ(構造)が見せているものに過ぎない、と述べられています。読了後、街並みや自分の考え事を見たときに「これも脳の構造のせいか」と俯瞰して見られるようになりました。抽象的な話や、解剖学の用語が出てくるため、じっくり腰を据えて読む必要があります。
0投稿日: 2025.11.22
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
『唯脳論』は、知識を得るための本というより、「考えるという行為そのもの」を体験する本だと思いました。 読みながら何度も立ち止まり、「なぜ筆者はこの章を置いたのか」「何が言いたいのか」と自問する機会が何度もありました。 養老孟司さんは、私たちが“常識”や“通説”として疑うことなく受け入れていることに気づかせようとしているように感じます。 ヒトが話す前提はヒト自身が作り出したものであり、それは人間の都合であるのではないかと、繰り返し伝えているように思いました。 特に印象的だったのは、“生物学的に考える”という視点です。 人間の構造は一万年前からほとんど変わっていないことや、脳が意識を持つに至った必然性についての考察は、私にとって新鮮でした。 私はこれまで、意識がスタート地点という前提で考えていたため、意識がなぜ必然的に生まれたのかを考える視点がありませんでした。 また、人間は高尚な存在ではなく、動物の一種であり、脳に剰余があることがヒトの特徴であると語っているのが感じられました。 ヒトがいかに“偉い”かを皮肉を込めて描き出しているのかもしれません。 自然保護を語りながら自然破壊を許容する矛盾や、数字に固執する社会の危うさにも、危機感を抱いているように思います。 後半の視覚と言語、構造と機能、物質界などの抽象的な話題は、前半で伝えきったメッセージを繰り返し形を変えて深めていく構成のように感じました。 難しい本ではあります。 ほかの感想でも「難しい」「また読みたい」という声が多いのも納得です。 しかし、思考を重ねることで確かな何かを受け取れる本であり、ただ理解するだけでなく、“体験”として読む価値のある読書体験だったと思います。
1投稿日: 2025.05.28
powered by ブクログ現代社会は全て「脳」が創り出したモノである。 この本を読んだ直後にホームセンターに用事で行ったのですが、人間ってすげえってなりました。
10投稿日: 2023.10.08
powered by ブクログ「エネルギーを巡る旅」に人間は脳化社会を作っていると記述があった事から、20年ぶりに読んでみた。後半は理解できない部分が多かったが、環境問題を論じる人が理性的でないように感じるのは、そもそも自然と脳つまり理性は対立するのが本質だから当たり前とはさすが養老先生。
0投稿日: 2023.10.06
powered by ブクログ視覚と聴覚の連合、これが意味する内容の考察が興味深い。また、この感想を書く行為も脳による行為であることを自覚し、我々が脳社会の住人であることを想起する。
0投稿日: 2023.02.16
powered by ブクログ『バカの壁』(2003年、新潮新書)以前に書かれた著作では、著者の代表作といえる本です。 著者は、「ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぼう」と述べています。ただし唯脳論は、「世界を脳の産物だとするものではない」と注意が付されています。こうした誤解は多かったようで、「解説」を執筆している澤口俊之も、本書が「世界は脳の産物だ」という主張をしているものと誤解をしていたことを告白しています。なお、この点についての著者の主張を正確に理解していたのは池田晶子で、『メタフィジカル・パンチ―形而上より愛をこめて』(2005年、文春文庫)のなかで的確な批評が提示されています。 「唯脳論」の中心的な主張はむしろ、「ヒトの作り出すものは、ヒトの脳の投射である」という著者のことばに、明確に示されているといってよいと思います。いわゆる心脳問題については、心臓と血管系の機能が循環であるように、脳の機能が心であるという主張が語られており、そうした立場から視覚系の機能と聴覚系の機能を区別して、人間の言語についての独自の考えが展開されていますが、心の哲学などでかまびすしく論じられている問題についての唯脳論の立場からのくわしい議論が提出されているわけではありません。 たとえば著者は、「われわれは、背中がカユイ時に、背中のことについてなにかを知っているのではない。脳についてなにかを知っているのである」と断言しますが、「脳についてなにかを知っている」にもかかわらず、それを「背中についてなにかを知っている」のだという思い込みが生じている以上、われわれは「背中についてなにかを知っている」ということがどのようなことであるのかを理解しているはずです。心の哲学では、志向性をめぐる議論においてこのような問題がさかんに論じられているのですが、本書にこうした問題のこたえを見いだすことはむずかしく、「文系と理系の対立を脳に還元してみる」という著者の企図はかならずしも成功しているとはいいがたいように思います。
1投稿日: 2022.08.19
powered by ブクログ養老先生の本は、この本から読み始めるのがオススメです。先生の書かれる本に通底する考え方、物の捉え方が書いてあります。
1投稿日: 2022.03.27
powered by ブクログ”現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とはすなわち、社会がほとんど脳そのものになったことを意味している。脳は、典型的な情報器官だからである”(本書p007より) この一文で始まる本書は、脳科学がここまで人口に膾炙する前、1989年に発表され、これからは”脳の時代である”ということを喝破した一冊である。『現代思想』に月1で連載された論考がベースになっており、脳を巡り様々なテーマが綴られていくが、その人文社会学までも射程圏内にある著者の知性の幅広さと、解剖学者としての長年の経験に基づくその知性の深さという、2つの力が見事に結実した知的論考と言える。 私が本書を手に取ったのは、敬愛する菊池成孔が「自身が選ぶ100冊」的な文章の中で選んでいた1冊であったからである。その選出の理由がよく分かったのは本書において言語と音楽、リズムについて記されている章を読んでからであった。 人間が言語を獲得した1つの仮説として「自分の発語を自分で聴く」というフィードバックサイクルの存在を提示した上で、同様のメカニズムが音楽においても存在していること(いうまでもなく楽器の演奏においては、常に自らの音を聴き、他人の音と合わせた上で音量・ピッチ・トーン・テンポなどを調整するというフィードバックが常に働く)を示す。その仮説を裏付ける材料として、失語症と失”音楽”症(理由なく急に楽器の演奏ができなくなる)は、脳内の近接領域の機能不全から起こっている・・・、という議論の流れなど、音楽愛好者にとってはこの上なくスリリングな知的興奮を味わわせてくれる。
0投稿日: 2021.11.28
powered by ブクログヒトの作るものはヒトの脳の投射。 社会の構造も、脳の機能の投射となる。 視覚/聴覚と運動の関係。人間が出力するものの様態を考える上での根幹になっている。
0投稿日: 2021.07.21
powered by ブクログ今考えていること、哲学や社会学を通っていたが、なにか、あっけなくまとめてもらえた感覚だ。一連の終わりみたいな位置だった。少しの間、読書がライトになりそうだ。脳ね。いや体ね。社会も世論も本音と建前ではもううまく出来上がるわけがない。性も死も伏せててなにを語れるんだと。無理に決まってる。食を語って埋葬を語らず。死も体もなし。死んだら画面から消えるゲームの世界。読後にちょっと思った。言わなかったことが言いたかったことだったり、ヒトに信念があるから自然は復讐するんだと、それを理解しない風潮はより悪化していると感じさせた。
0投稿日: 2021.05.28
powered by ブクログ・意識とは、脳が脳のことを考えることだ ・下等生物には、意識がなくて、人間に意識があるのは、脳が進化してきた過程にある ・末梢神経と脳の神経細胞は地図関係にある (だから足がない人も足が痛むことがある) ・言語でも知覚言語と音声言語で違う
0投稿日: 2021.01.09
powered by ブクログ現代社会は脳が社会に反映されている、いや脳そのものになったという当時としては斬新であったと思われる31年前にあたる平成元年出版の著作。 脳と社会に纏わることの証左を様々挙げながら、また特に著者の専門である解剖学の専門的な知識にも及んで、解説にもある通り、時々起こるような脳ブームのきっかけとなった本である。後に著書のヒット作「バカの壁」に繋がる代表作。 もちろん脳科学にも近接領域があって、心理学や哲学の文系よりの分野を巻き込んむが、その端緒になったようだ。 私たちは脳の中に住んでいる、という指摘をされると理解できる、というように人々が気付かないが本質的なことを著者の養老孟司は言ってくれるので結構長いこと著者のことが好きだ。本質や思い込みを指摘してくれることも大事だが、今東京では喫煙しにくい状態になっているのだが、養老孟司は喫煙者でありそこもいい。
5投稿日: 2020.08.05
powered by ブクログ著者の博識を直感的な表現で記述されると、それが何を意味しているのか、バカの壁が高い者にはなかなか理解することは難しい。
0投稿日: 2020.07.05
powered by ブクログ唯脳論とはなにか◆心身論と唯脳論◆「もの」としての脳◆計算機という脳の進化◆位置を知る◆脳は脳のことしか知らない◆デカルト・意識・睡眠◆意識の役割◆言語の発生◆言語の周辺◆時間◆運動と目的論◆脳と身体
0投稿日: 2019.09.13
powered by ブクログ昔、ヒトは洞窟に住んだり、森で獣を捕まえたり、自然の中で生きていたが、文明が進むにつれ、建築物や道路、街路樹に囲まれた社会を作っていった。この社会は脳の大脳皮質が生み出した幻想。都会に住んでると、周囲のあらゆるモノゴトは単なる記号や情報にしか見えなくなってくる。自然から切り離されたデジタル世界に生きてる錯覚になる。でも、ネットとかで生々しい死体の写真や「九相詩絵巻」を見ると、「あぁ、ヒトも自然の一部なんだ」「あらゆる意識を生み出すのは脳という身体の器官なんだ」と気づいて背筋がゾッとする。心地よい幻想から目が覚めて、生々しい自然の中にいることに愕然とする。隠されるものは、一皮剥いだ死体、すなわち異形のものである。しかし、それがヒトの真の姿である。なぜなら、われわれがいかに進歩の中へ逃走しようと、それが自然なるものの真の姿だからである。ヒトを生み出したのは、その自然である。『唯脳論』1989 *********************** サヴァンのカレンダー計算能力、眼前の景色を完全に記憶するカメラ・アイ、演奏された曲をその場で覚える、桁の大きい素数を順次追う能力。これら能力はヒト社会では役に立たない。要求されるのは言語を使って他人と共有する力。p.165『人間科学』2002 機能は場所が決まっていない。肺の場所は決まっているが、呼吸の場所は決まっていない。心臓の場所は決まっているが、循環の場所は決まっていない。筋肉の場所は決まっているが、運動の場所は決まっていない。脳の場所は決まっているが、意識の場所は決まっていない。▼人間は自分の内臓に発生するがん細胞を感知できない。人間が感知できるのは外界。『からだを読む』2002 一元論。壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。自分は変わらないという根拠のない思い込み。自分が違う人になるかもしれないと思えば、絶対的な原理主義は主張できない。p.194。人間は悩むのが当たり前、生きている限り悩むものなのに、悩みがあること、全てがハッキリしないことを悪いことと思い、無理やり悩みを無くそうとして、確かなものが欲しくなり、科学・宗教を絶対視してしまう。p.121▼己の日常とは別の世界を見て自分で何かを考える。p.169。安易に「わかる」「話せばわかる」「絶対の真実がある」と思うな。思考停止して強固な壁の中に住むこと(一元論)は楽だが、向こう側・自分と違う立場のことは見えなくなる。話が通じなくなる。p.204『バカの壁』2003 『まともな人』2003 人間が自然であり、高度なシステムだと捉えれば、畏怖の念が湧いてくる。それは結局自分を尊重していることになる。p.23▼自分の死体は「ない死体」。親しい人の死体は「死体ではない死体」。他人の死体は「死体である死体」。p.82▼中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考えがあり、中国人は死んだ後も人は別人になるわけではないと考えている。p.109▼ハプスブルク家は死ぬと心臓だけ取り出して銀のケースに入れて教会におさめていた。p.149▼「どうせ死ぬから今死んでもいい」は「どうせ腹が減るから喰うのを止める」と同じ。p.174『死の壁』2004 元気な自分と死にそうな自分は別の人。死ぬのは私ではなく別の人。死体は私にとって想像ではなく、平たい現実。▼フツーの顔を何枚も重ねていくと美人(特別)になっていく。当たり前の極限がノーベル賞。▼与えられた自然状態に対して、人間社会がやり遂げたことを考えれば、日本は世界でも模範的な国家のひとつ。p.242『人生論』2004 『無思想の発見』2005 感覚の世界ではすべてが違うが、言葉の世界ではすべてが同じ。言葉の「リンゴ」は赤くても青くても、大きくても小さくてもリンゴ。マンガはその「違う」と「同じ」をつなぐところに位置している。感覚の世界が地面で「同じ」の世界が天井で、そこに唯一絶体の神がある。p.34。人間は12兆個の細胞からできたものすごく複雑なもの。人間の複雑さに比べたら、原爆なんておもちゃみたいに簡単。そういう簡単なものに、ややこしいものをこわす権利はない。p.143『マンガをもっと読みなさい』2005 人は眠るとき意識が切れている。起きていると意識がある状態が続き、眠っている間は意識は切れている。死ぬということは最後に意識が切れてもう戻ってこない状態をいう。人生は点線。▼人が抱く死への恐怖は生前のものであって、死後は意識はなく死への恐怖もない。『養老訓』2007 現代人の悩みは人間関係の比重が大きすぎる。人間関係が肥大しすぎている。家族がどうだとか、友達がどうだとか。▼自然がない。花鳥風月。気ままな猫。方丈記。人間はあくまで自然の一部であり、自然の世界が縮小しすぎるのは良くない。▼日本人は7割が自分は無宗教と思っている。無宗教の「無」は仏教の無。『未来を変える選択』2012 個性は放っておいても誰にでもある。この世で生きていく上で大切なのは人といかに違うかではなく、人と同じところを探すこと。p.12。伝統芸能では徹底的に師匠の真似をさせられる。しかし、どこかがどうしても違ってくる。その違いが個性。弟子入りの段階から個性を伸ばせと言っても意味がない。p.34▼自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きしているから。地図の中で自分の場所「矢印」はここと決めてくれているから。脳の空間定位の領野が壊れれば、自分と世界との区別はつかない。境目がない。p.19『「自分」の壁』2014 理系と文系の違いよりも、野外か実験室かの違いが大きい。『文系の壁』2015 同じの世界:見えているものが同じ,意識,数学,一神教,グローバル,イコール。違うの世界:見えているものが違う,感覚,芸術,多神教,ローカル,ノットイコール。現代社会は「同じの世界」に偏り,バランスを欠いている.たとえば,「白」という文字.これは意識でとらえると白色,感覚でとらえると黒色(文字は黒色だから).鴨川はつねに鴨川だと思っているが,流れている水は常に違う水.私はつねに私だと思っているが,人の身体は物質的には7年で入れ替わって違うものになる.人間はイコールを理解できるが,動物はできない.猿の話.朝三暮四(ちょうさんぼし)目先の違いに囚われて,実際は同じであることに気付かない.都市社会はエアコンで「同じ」気温,照明で「同じ」明るさ,石の床は「同じ」堅さ.「違う」「変化」は排除される。人間関係は「同じ」が好まれ,「違う」「変化」は嫌われる.生身の人間は常に変化する.その「違い」や「変化」が面倒臭い.いらない.となる。*ペットは「死ぬ」から飼うのを嫌がる人がいるが,これも「死ぬ」という自然の「変化」を嫌う現代人の特徴なのかも.『遺言』2017
5投稿日: 2019.06.06
powered by ブクログたぶん養老さんの伝えていることの0.5%くらいしかわかってない。それでも面白いと思った。難しいけど、その着眼点にハッとさせられたりひやっとしたり。 もうぜんぶがぜんぶ、脳に支配されてるじゃんって思った。自分で考えたって思ってることも、嬉しいという感情も、行動も、そしてこの社会も、ぜーんぶ。脳にとって都合のいいことが快感になって、脳にとって都合のいい方向に人間が進んでいく。 唯一死ぬことだけは脳は制御できない。これが唯一の自然。どんなこともぜんぶ脳に戻されるから、なんだかもう何も信じれないというか、考え始めると学習も思考も人生もぜんぶが取るに足らないことに思えてくるんだけど、一方で、だから、自分の脳を満足させてやるように生きようと思ったり。 もっと「経験」をつんだら、もうちょと理解できることが増えそうだから、本棚の見えるところに大事にとっておいて、また数十年後読み返そう。 (メモ) 唯脳論 ヒトの活動を、脳と呼ばれる器官の法則性という観点から、全般的に眺めようとする立場を、唯脳論と呼ぶ。 この本でわたしが述べようとするのは、文科系ひおける言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけでなく、すべてを脳全体の機能へ改めて戻そうとする試みである。だから、「唯脳論」なのである。 脳は「物(構造)」 心は「機能」 機能は構造から出てこない 身体の他の臓器と脳の決定的な違いは、脳には自己言及性があるということ。 自己言及性とは、自分で自分のことを考えること。(つまり、意識) それゆえに自己参入の矛盾を生じさせる。 →ラッセルの逆理、リシャール数 末梢を十分支配しない神経細胞は死ぬ 相手のない、あるいは相手に不足のある神経細胞は、間引かれてしまう。 →この前提から意識の発生を考える 受け取る側の脳だけが進化の過程で勝手に大きくなることはない。 では大きくなった理由は、 神経細胞が脳の中でできるだけお互い同士つながり合うことによって、お互いに「末梢」あるきは「支配域」を増やす。それによってお互いを維持する。(機能的に言うなら互いに入力を与え合う) 脳内の神経細胞が増加し、外部からの入力、あるいは直接の出力の「量」だけに依存するのではなく脳の自前の、あるいは自慰的な活動に、神経細胞の維持が依存するようにになったとき、意識が発生したと考えられる。 意識がそう言うものだとすれば、その単純な生物学的意味とは、神経細胞の維持である。
0投稿日: 2019.02.01
powered by ブクログシンプルにもう一回読みたい。難しかったが、脳の存在意義について、自分にはない考えを取り込むことができた。
0投稿日: 2019.01.07
powered by ブクログ1990年代、アメリカでは「脳の10年(Decade of the Brain)」と言われた。しかし、同時期の日本はまだ「心の時代」だった。事件が起きればワイドショーで犯人の「心の闇」が語られ、エヴァンゲリオンが人気を呼び、大学の心理学科は10〜20倍の競争率だった。その頃に著者は、いち早く脳に着目していた。 しかし、この本は題名から想像されるような「脳がわかればすべてがわかる」という内容ではない。むしろ「人間は脳にわかることしかわからない」という限界について述べたと言ってもいい。つまり、人間は脳の中に閉じ込められている。 それはソフトだけでなくハードにおいても同じである。都会とは要するに脳が設計した空間である。その中には、脳にとって予測不可能なもの=自然は存在してはならない。だから街路樹は植えてもいいが、雑草は引っこ抜く。しかし、どれだけ自然を排除しても、最後にどうしても残る自然がある。それはわれわれの身体である。ここでも脳は限界に直面する。 脳ブームに先行しながら、脳神話の矛盾さえもすでに見通していた、時代の一歩も二歩も先を行った本。いまなお多くの示唆を与えてくれるエキサイティングな論考と言える。
0投稿日: 2018.12.14
powered by ブクログ「心も社会も脳の機能である」。この本は脳の解説書ではないと著者は言う。しかし広く深く脳に関わりのあるさまざまな話題を取り上げている。心身二元論などのまやかしは胡散霧消し、脳が心を作りだした。この社会も世界もわれわれの脳が作り出したものである。構造と機能。視聴覚系と運動系。現在の脳科学はこの本が書かれたときよりもより一層脳が世界を作り出していることを解き明かしつつあるようだ。
0投稿日: 2018.10.11
powered by ブクログ書いてる内容は凄く難解なのにスラスラ読み進んでいく興味深い脳みそ。ヒトを考えることは脳みそを考えることなのか。興味深い。
0投稿日: 2018.05.23
powered by ブクログ養老氏の著作の原点? 解剖学者という視点から明快に説明されており わかりやすい 脳 機能 回路⇒思考 意識と話が進む 現代の脳が優位な背景を 知ることができる
2投稿日: 2015.08.19
powered by ブクログ評判の割に、脳科学の側面からそこまで精神てものには突っ込んでない印象。論っていうにはちょっともんやりするよな感じ。
0投稿日: 2014.08.27
powered by ブクログ残念ながら、自分が理解するにはまだ程遠い。 他の書物を読み耽ってから再挑戦。 以下項目抜粋。 ・ヒトが人である所以 ・心は脳から生じるか ・自己言及性の矛盾 ・死体は存在するか ・神経系とはなにか ・脳の構成要素 ・神経細胞のはたらき ・計算能力について ・脳に起こることだけが存在する ・「考える主体」は要らない ・眠りは生の一形式 ・意識の生物学的意義 ・言語の身体性 ・失「音楽」症 ・時間と自己同一性
0投稿日: 2013.10.07
powered by ブクログたぶん4年ぶりくらいの再読。 ようやく少しずつ分かるようになってきたような気がする。 でも、養老さんの知識の量や考えの深さが半端無いから言われていることがなかなか理解できない。 わたしの脳の中に養老さんの脳の中にあるのと同じ構造がなく、その機能が働かなければわかるということはない。 ただ、学習によって脳は変化するから、もし今回すこしはわかったような気になれたとしたらこの4年間でわたしの脳も少しは変化したのかもしれない。 それにしても養老さんは素敵だ! Mahalo
0投稿日: 2013.09.04
powered by ブクログ脳は脳のことしか知らない、他の臓器もまたしかり、っていう発想は斬新す。言われてみればなるほどだけど、どうしても、人間は脳中心で動いてる、って観念にとらわれてしまうし、それが当たり前と思ってしまうから。でも、当たり前を疑うことに興味津々な今日この頃、唯脳論も魅力的な理論に思えました。
0投稿日: 2013.07.21
powered by ブクログ僕では理解が難しい。でも、とても興味深い内容でした。 何度も読み返して、理解したいと思える本だと思います。
0投稿日: 2013.05.13
powered by ブクログ脳の身体性を自覚させられる本。客観性は「外部」に存在するのではなく、「脳」に存在するという当然の事実に気付かされただけでも価値あり。
0投稿日: 2013.05.05
powered by ブクログ脳のことについて考えているのは自分の脳、というループに迷いこんだ。ヴェラスケスの絵が印象に残っている。
0投稿日: 2013.03.22
powered by ブクログ一読。よくわからない所も多。印象深かった所など、思いつきメモ。 心は脳の機能である、という。 それならば、筆者は言っていないが、逆から言えば、脳は心の構造である、ともなるはずである。どっちから言ってもよいのだと思う。「脳と心もまた、同じ「なにか」を、違う見方で見たもの」(p.30)だというのなら。にもかかわらず唯心論でなくて唯脳論を説くのは、唯脳論という語り方に利便性があるからなんだろうと思う。つまり、「構造」ということ。 ヒトなら同じ構造の脳を持っているはずである。だったら脳を調べれば、ヒトに「普遍」の形式、変化する中身を容れる、あるいは支える枠組みを把握できる。そして脳は物としてがんとしてそこにある。だったら把握するのに助かるはずである。たぶんそういうようなことだろうと思う。 「脳は脳のことを知る。知るとすればそれ以外にはない(p.112)」「意識にとって存在することは脳に起こることだけ(p.102)」。私が知っているのは、私に起こっていることだけ。私に起こっていることだけを、私は知っている。なんだ、常識じゃないか。なるほど古代人だって知っていておかしくない。 脳に起こるのは、外界の事物との出会いの反応の過程。もうひとつは、脳に出会う脳の反応の過程。脳は、脳以外のものに対して応答するだけでない。脳自身にも応答する。脳は脳にひとり語りする。思考とは、脳に反響するこだまである、とか言ってみたい気分になる。 筆者は直接は言っていないけど、いや「唯脳論はじつは身体一元論(p.41)」ともいっているから、以下みたいに考えてよいかもしれない。 実際日常的には、考えるだけでなくて、しゃべったり、頭をかいたり、お茶を淹れたり、脳内だけでこだまがおこるのでなくて、脳を「電話交換局」として、足の子指から耳の裏まで、体中にこだまが起きている。「思う」すなわち脳内の局所的反響は、私の一部にすぎない。脳は身体の一部にすぎないので。とすると、筆者の言葉(p.119)をもじるなら、たぶんこうなる。「私が存在すると言語で表現される状態、すなわち、私が身体を使う、つまり行為すると言語で表現される状態である。なぜなら、行為することこそ典型的な身体の「意識的機能」、つまり「身体が身体を知っている状態」であるから。」。ロボットは一生懸命働いているけれどたぶん自分が黙々となにか製品を製造していることをしらない。 私の身体、身体の私、私が身体。一つ目は、脳の、脳以外の身体への優位性、二つ目は、脳は抹消の奴隷、三つ目は心身一如、か。身体は、いつの間にか、あった。脳は気付いたら生まれていた。だったら、一つ目は言えない。脳は身体に所有されている。しかし、本当は、別に中枢と末端が主従関係にあるわけでもないから、奴隷ということもない。私が脳に局在しているわけでもない。両者が調和して十全に全身体が機能している所が、心身一如ということか。
0投稿日: 2013.02.17
powered by ブクログ一連の脳ブームの端緒を拓いた…という紹介文の通りの内容です。 個人的に特に感銘を受けたのは、視覚と聴覚についての論考です。 視覚は時間を疎外あるいは客観化し、 聴覚は時間を前提あるいは内在化する。 外界の事物はただ何気なくそこに存在している。 脳はそれを聴覚や運動系に依存して、時を含めてとり込む。 あるいは視覚形に依存して、時を外してとり込む。 この二つが上手く連合するに至ったことが、 言語成立とほとんど同義である。 このへんが目から鱗でした。 他にももっとありますが、とりあえずこのへんで。
0投稿日: 2013.02.01
powered by ブクログ「唯脳論」5 著者 養老孟司 出版 筑摩書房 p28より引用 “ところが、心はじつは脳の作用であり、つまり脳の機能を指し ている。” 解剖学者である著者による、脳の働きと人間社会などについて 論じた一冊。 ヒトがヒトである所以についてから脳と身体についてまで、解 剖図などを交えながら書かれています。 上記の引用は、心と脳について書かれた項での一文。 子供の頃は、心は心臓の辺りにあると思っていましたが、ああい う漫画的な表現はいつからされるようになったのでしょうか? 昔のSF等で描かれていた物などが、現実の世界に作られるよう になっているのを見ると、文明社会は脳の産物という話について 納得することが出来るのではないでしょうか。 ーーーーー
0投稿日: 2013.01.07
powered by ブクログ脳は行動を支配し統御するよう進化してきた P228; 支配しているのは意識や精神である。原初は四肢の連絡調整の役割しかもたなかった脳が、精神が意識的に運動をコントロールするようになってきた。人間社会の進化と同じ。
0投稿日: 2012.10.21
powered by ブクログ人が考えつくものは全て『脳』というフィルターを通している.公理でさえも.脳にあるものしか考えられない.
0投稿日: 2012.08.31
powered by ブクログ教養として読んでおいたほうがいいんでないでしょうか 内容の是非はかなり賛否両論ありますね この人文章が下手くそだからわかりにくいけど、ぶっちゃけそんなたいしたこと言ってないよ。 だから楽勝で読めるって。うん。
0投稿日: 2012.05.27
powered by ブクログ衝撃を受けた内容でした。 一つのテーマに、「都市は人間の脳が具現化している世界。」 というのがありました。 その理由は、今存在しているビル・車・高架などは自然界のものではない。もともと人間の脳でイメージして作ったものだから。 また、言葉・お金・社会がなぜ今存在しているのか。それも、これらの共通点である「交換」という機能が、もともとは脳の機能だから。ということ。 単純明快ですが、この気づきこそが養老孟司が注目される所以ではないか、と感嘆の思いで読みました!
0投稿日: 2012.02.29
powered by ブクログバカの壁は実に大衆にこびた面白くない本なのに売れ,この唯脳論はそれほど売れていない.こちらの方がおもしろいのに.理由がわからん.読み手の層の絶対人数の問題だろうが,それにしてもこの本が見過ごされているのはもったいない.学ぶべきことがたくさんある本だった.
0投稿日: 2012.02.27
powered by ブクログなかなか理解できたと思えず、何度も読み直し。”唯脳論”を主張している○○学者がほかにいるのだろうか。”唯脳論”の考え方は、非の打ち所がなく、かつ、養老孟司が唯一唱えているように思える。”唯脳論”の考え方は、もっと評価されていいように思うのだが。
0投稿日: 2012.01.21
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
自分にとっては難解な部類の本だったので時間がかかってしまった。 バカの壁でおなじみの養老孟司先生の本です。 小飼弾がバカの壁の内容を難しくしたものだと評していたが、なるほどうまく言い当てていると思った。 自然は別としてこの世の中にあるモノはすべて脳が作り出したモノで、私たちは脳の中に住んでいる。 斬新な発想だと思います。すごく理解できる。 それをもっと突き詰めて考えていくと、この世界をどうとらえるのかは自分次第で良いも悪いもどうにでも変えることが出来るということをいいたいのかな?なんて思ったりもした。 あと人間の脳が他の動物と比較してここまで大きく発達した理由は、解剖学的にいう人間には意識、つまり“心”がそこにあるからということでしか証明できないというのは、不思議だけど納得できました。
0投稿日: 2011.11.10
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
10年ぶりぐらいに読みました。普段から養老先生がお話ししていることの原点のような内容で、真新しいことはそれほど書かれてはいませんがその碩学ぶりには驚きます。読み方を変えれば、かなり冒険的な内容もあり知的好奇心をくすぐられる良い本でした。
0投稿日: 2011.10.29
powered by ブクログとても面白い。しかし最後の解説はなんなんだ一体。非常に失礼だけど、実験動物みたいな奴だなと思ってしまった。
0投稿日: 2011.09.26
powered by ブクログはしがきを読んだ限りでは、かなり面白いと思ったがどうもこの人の文章は胡散臭い。 わざと難解に書いてぼかしてわかりにくくしているだけで、内容がないように感じるのだ。 厳密に言えば間違っていることも多いだろう。まあ、つまらなくはない、という程度の本である。 暇つぶしにはなるが、時間を大切にしている人間には無駄なものだろう。 はしがき等の あらゆる人工物は脳の産物ゆえ、現代人は脳の中に住んでいる。その意味でわれわれは御伽噺の世界に住んでいる。 という主張のみ受け取ろうと思う。
0投稿日: 2011.03.12
powered by ブクログバカの壁で有名な解剖学者、養老猛司先生の本です。 ある種、先生の核になる本である気もします。 一つ一つが簡潔に述べられているはずだと思うのですが、あまり専門的な基礎学が無いと次々と疑問が生まれて、脳に押し込む過程が難しく、一般的な本と違って普通に読む事が出来ません。 もう、教科書レベルだと思います。疲れる。 ただ、普段意識していない事をさらっと書かれていて頭をガツンと殴られた気もすれば、普段疑問に思っていた事の解が書かれてありスカッとしたり。 非常に忙しく、また面白いです。 夢の話がまさにそうでした。 印象深かったのは、脳はとても複雑だが一つ一つの神経細胞の機能からすれば複雑ではない。 なのに記憶や心理、計算、感情などが生じるのは複雑怪奇だ、と。 脳を解剖しても心は出てこない。本当に謎だ。 数学に関してもなるほど、と。 数字そのものが人の脳が作り出したものなのに、それを使って証明している。 いつの間にか「無意識」に数字が存在している。 先生がこの本を書かれてもう10年以上。 おそらくこの本で書かれている計算機、つまりパソコンもかなり進歩しました。 ネット、という媒体の事も考えたらもっと飛躍的な進歩だと思います。 もちろん計算機には違いありませんが。 ネット社会なんてもう純粋な脳社会。 SNSやtwitterなんかはもう脳内がデジタル化された世界です。 計算機を物理的な意味で脳化させるというより、脳を補助する役割を担っている現在、先生がこれ以上は大脳を肥大化させるしかない、という部分がデジタル化されてきているような気がします。 若い人は・・・という部分に書かれていますが、自分みたいな途中からパソコンが普及しだしたよりもっと若い世代、ネットが当たり前の世代にとって脳の一部をそこで補助した場合どうなっていくのか、とても怖くもあり楽しみでもある気がします。 どっかの世論でゆとりとか言われて衰えているんじゃないか、という風潮もありますが、デジタルで補助したその差分が何に使われていくのか・・・脳はそんなにやわいもんじゃ無い気もします。 にしても、焼夷弾の話ではないですが先生の時折挟む皮肉というか、ブラック的な表現がクセになりますね^^; 難しい話のはずなのに、分かり易く面白く読める。 本当に凄いです。 脳化社会の中で脳が脳を考える時代なんですね。
0投稿日: 2011.02.24
powered by ブクログ脳が世界を作った。 世界は脳だ。 社会は、身体を存続することができないからこそ、作られる。 ……… 解説者も言うが、消化しきれないほど深い内容だが、深いからこそ読み応えもあるし、興奮する。個人的には、言語のところが面白かった。
0投稿日: 2010.11.07
powered by ブクログめっちゃ面白かった。専門的なことはもちろん書かれているが相当わかりやすかった。ただ求めていたものがかかれていなくて残念だったが後悔はしていない
0投稿日: 2010.07.19
powered by ブクログ期待したほどの本ではなかった。 「脳は脳のことしか知らない」など、知的なヒントは散見するものの、そこから深く追究していくということがない。 解剖学者なんだからこんなものなのか。
0投稿日: 2010.05.07
powered by ブクログじっくりと、自分で考えながら読むべき本。文章が非常に論理的。 人工物とは脳の産物である。 本を読むということは、著者の思考の過程(脳の状態の遷移)を自分の脳で追体験することである。
0投稿日: 2010.04.25
powered by ブクログ解剖学の観点から脳とは何か、構造、機能、意識とは、言葉とは、さまざまな角度から脳の本質を論じていく。 今われわれは脳の作りだした桃源郷に住んでいる。 そこから解放されるか否か、それは私の知ったことではない。 だそうだ。 読むのに頭をつかう(それこそ脳をつかう)が、久々に質のいい大学の講義受けたような気分になれる。
1投稿日: 2010.02.10
powered by ブクログ考えない様に、、と考えてしまう。。。 人間にとって「脳」とは何か? 人間は身体拡張を続け、足は高速で走る車、そして空を飛ぶ 翼へと進化し、そして、人間は「脳」の拡張へと向かう。 心ってなんだろう? 「脳だけをとってみても、物質になったり、心になったりする。 それが、われわれの脳が持つ性質なのである。」 物質としての脳からなぜ意識や心が生まれるのだろう? 現代社会を「脳化社会」として、身体の拡張から「脳」の 拡張へと進化?する人間。 心と体の秘密が分かって来る。
1投稿日: 2009.11.19
powered by ブクログ『バカの壁』は、本書を「バカ向けに書き直したもの」(小飼弾氏)だから、本書の予習編として読むとよいだろう。 『バカの壁』を読むなら『唯脳論』を読んだほうが、中身が濃くていい。(小飼弾)
0投稿日: 2009.10.26
powered by ブクログ10年ぶりに再読。視覚系と聴覚系の脳による融合からの言語の発生が面白い。構造と機能、量子と連続などの脳による統合から、哲学的諸問題の様相が見えてくる。完全に脳化された都市という場は、人間、人類を更なる脳化に導くのだろうか。身体の一部としての脳が、身体性を完全に隠蔽する時、人類は今の人類と同じでは無くなる。
1投稿日: 2009.03.05
powered by ブクログ難しい!とは思うけれど ぜひ読んで欲しい一冊。 バカの壁が養老猛司さんのすべてではないことを 知れる一冊です。
0投稿日: 2008.11.30
powered by ブクログムズカシイ。社会というものは脳の機能の延長上であるという。ならば、”社会”という単語の入る学問は脳の機能についての学問であるといえるのではないだろうか、みたいなことが後半のどこかに記述されていた。積読していたので、そこしか印象にないだけだけど(笑
0投稿日: 2008.11.05
powered by ブクログなかなか面白い本で、89年発行時は結構斬新であったと思われる。脳研究者の「あとがき」は少し暴走ぎみであるが、本書の内容はそれを差し引いてもなかなか深く広い。循環系をいくら分解しても循環がとりだせないように、脳を分解しても心が出てこないことを示し、社会や心が脳の産物であることを示す。また、目的論と運動系の関係、聴覚と時間の関係、視覚と聴覚の連合と言語の関係などなかなか刺激的な理論にみちている。
1投稿日: 2008.08.28
powered by ブクログ唯脳論。解剖学や生理学の専門的な内容もあり、養老孟司の一般的な著作に比べるとなかなか難しい。言葉や文化、文明はすべて人の脳の枠内に包含されているというのが唯脳論の主張だと理解した。都市化や文明化は詰まるところ、脳が地球にある「自然」を脳が作る「人工物」に置き換えていくことのようだ。だから、養老さんは残された自然である虫に全面的に目を向けているのかな。
1投稿日: 2008.08.18
powered by ブクログだいぶ前になるが、某ニュース番組で脳化社会への警鐘を鳴らしていた養老氏の「脳化社会」という考えをより深く理解したいと思い、読み始めた。 養老氏の現代社会に関する考え方は、この本の「はじめに:唯脳論とは何か」と「エピローグ:脳と身体」を読むだけでも十分理解できる。情報化社会とはすなわち社会全体が脳化することを意味しているし、医学的な見地から見ても脳そのものが情報器官であることからも簡単に説明がつくと説明する。 しかも情報化以前に近代化を推し進めてきた時代背景も、それよりももっと過去からの人類の歴史を顧みると、伝統や文化社会制度、言語も全て脳の産物であるから、「私たち人間は脳に従属し脳の中に閉じ込められている」という表現を養老氏は用いる。 基本的な本の構成としては解剖学者である著者が脳そのものを哲学を抜きにした形で正面から、運動器官としての身体と情報器官である脳との関係を捉えなおす上で用いられるのが、唯脳論である。くれぐれも注意しなくてはいけないのはこの言葉は養老氏の造語である点だ。 人の活動を、脳と呼ばれる器官の法則性から全般的に眺めようとする観点を唯脳論と定義づけている。確かにわたしも読み始めてすぐは、意識や意志を持つ上では脳の器官は自己定義にそもそも必要であるし、それを体現するには身体を使わなくてはいけないので、この議論がわからないところがあった。しかし、身体と脳を切り離して考えてみることで現代社会やそこに住む人間が抱える複雑な問題を解き明かすに十分な客観性を与えうることにまずもって驚いた。 他の内臓器官とことなり心を特別視する人々にとっては、「心」が脳と同一であることになじめないと指摘し、それを作用と機能という二つの枠組みを適用することで鮮やかに峻別している。他の臓器ではまずモノとしての臓器の構造を視覚を通じて理解し、そこからその臓器の機能を理解する。一方で脳についてはまず考える、意識するという機能そのものが先にたって、構造を理解するのが後に来るという逆転現象が生じる。しかもまだ人間は自分達の心である脳を完全には理解しきれていない。 心を分析して理論化された心理学に対して、物的な視点である解剖学的見地から脳の機能を解体していくと、人間が人間であるがゆえに必要な脳のある部分は簡単に理解することができるが、さらに奥深くて真理がそこに存在するのかどうかさえも分からない更なる問題に直面する。この点を理解できただけでも読む価値のあった本だった。 脳化社会に生きる人間はいつか脳の身体性に復讐されることになると養老氏は予言する。その復讐がいかなるものかは養老氏は指摘しないが、ダーウィニズムを前提に議論が展開される本書においては自然界における生態系の進化から派生した人間にそなわる「自然」が脳化社会の中で生きる自分の脳をストレスや心労などを通じた心の病気や傷といわれる形で、現実化しているのではないかと私なりに解釈している。 個人的な関心ではあるが、現代における脳化した社会と、映画「マトリックス」で描かれた人間が機会に従属し身体の運動機能を熱源として利用されて脳が何も意味をなさない時代設定を、比較してみると養老氏のいう「脳化社会」がどんなものかが少しは分かりやすくなるのかなと思ったりもする。
1投稿日: 2008.03.16
powered by ブクログ100528読了。 養老氏の著作は理系の研究者が書く本にしては、かなり歯切れが良く、読みやすい。ただ、この本を読んで、その切れ味鋭い舌鋒に「世界とは脳だ!」と巻かれてはいけない気がする。著者がそもそもこの本を書いた理由は「文系と理系の対立を脳に還元してみる」というものである。要は試みであり、思想の提言ではない。 岸田秀が「ものぐさ精神分析」において唯幻論を提唱したとき、私はその理論の明快さにはらはらした。その影響で、今でも私の中では「自殺は幻想我の保持である」とか「人間は最初不能であった」というフレーズが大きな価値観になって占めている。無論、あくまでも岸田氏は心理学者であったから、実証可能性において所詮文系の創りだした都合のいい物語にすぎない、と良い意味の読者であることを誓うこともできた。 しかし、養老氏は解剖学者である。理系の人の説く理論に私はどうも弱い。文系の人の弱さが実証性で、理系の人の弱さがレトリックや訴求力であるならば、養老氏は両方を克服しているように思える。だから、一瞬そのハイブリッドな筆致に信奉してしまいそうになるが、脳においては未解明の部分も多く、実証性は欠けること、また、たまに何を言ってるか良く分からないので信者にはなるまい。幸い本人も「脳とは順次連結していく神経細胞の集合体にすぎない」というように、脳至上主義者ではないから、その辺は一歩引いて読むべきだろう。 また、連載であるからところどころ話が飛ぶ。 「計算機という脳の進化はわれわれの脳の一部の、これからの進化なのであって、原理的に脳を代替するものではない。」という記述で、人工知能の不必要性がわかった。 睡眠は休みではなく、脳の情報整理活動であるから、無意識といえど生の一部である。 一番頷いたのは、意識の発生について。脳にとってみれば、「自分自身が成立していくために必要なこと」が意識である。だから、意識は脳にとって必然である。心の問題に関しては、意識と言い換えればよいのであり、構造と機能の問題に変わりない。 構造主義、視覚主義(永遠or一瞬)⇔機能主義、聴覚主義(流れる時間) 「わかる」とは「形をリズムにする」こと。要は、ヒトの意識による視覚系よ聴覚系の連合である。 ブローカ中枢→運動性言語中枢 ウェルニッケ中枢→聴覚性言語中枢 角回→視覚性言語中枢 ヒトの認識の普遍性について、丸山真男の論文を脳の時間意識の変奏に読み替えた部分は、素晴らしい。自然科学と人文社会学の普遍性を垣間見せてくれた。
1投稿日: 2008.02.07
powered by ブクログ高校の頃に読んだ。 今でも脳みそに刺激が欲しいときに読む本。 最近の養老先生の本よりオススメ。
0投稿日: 2007.11.19
powered by ブクログ身体の様々な器官、 その延長として都会や文化といったものを 脳の機能とからめて説明している。 難しかった。
0投稿日: 2007.09.03
powered by ブクログ解剖学者、養老孟司の哲学本。「循環」が取り出せるのか。一緒くたになってた機能と構造を分けてくれた本です。
0投稿日: 2007.01.24
powered by ブクログいろいろな事を考える上での,自己を含めた「ヒト」の根本的な立ち位置について,深く考察した本.作者の博覧強記ぶりに圧倒される.
0投稿日: 2007.01.15
powered by ブクログ解剖学がご専門の養老孟司氏による脳のお話。「バカの壁」では物足りない方は是非こちらを。この方の主張は一貫性が強い(同じ事が違う著書でも良く語られる)のですが、その原点がこちらの著書のような気がします。
0投稿日: 2006.07.16
powered by ブクログ養老さんはここから始まってます。おそらくこの本抜きで、21世紀の日本を語ることは出来ない、それほど強いインパクトを僕らに与えた、と思える本です。
0投稿日: 2006.05.19
powered by ブクログ好きなんだなぁ〜養老孟司の本!!もともと、理系だったので高校の時に、父から紹介されてはいたものの、大学に入ってから初めて読んだという1冊。「バカの壁」を読んだ人は、こちらを読んでもう一度読みましょう!より深く養老先生の考えが分かります!
1投稿日: 2005.10.16
powered by ブクログ結局脳なのかな? という気にさせられる本。 脳の能力の限界が人間の認識の限界なのかな?本当のところは全くわからないけれどね
1投稿日: 2005.05.22
powered by ブクログ初めてこの本を読んだのは高校生の時。 雑誌のレビューを読んでソッコー欲しくなりお取り寄せした一品。 最近また買って、読みなおしたのですがやっぱりこの辺の養老氏が良いなぁと思いました。 日頃から思っていた疑問がさらに深くなるような本です。 例えば自分が見ている『赤』という色。それは視覚的な感じ方ではななく、自分が『青』と認識しているものが一般的には『赤』と認知されているとしても会話は成立してしまうから、それが本当はどういうものか永久に解らない。それを『赤』と社会的に認識するのはいわゆる脳の作り出す『情報から成り立つ社会』であって…みたいな感じです。 結局の所書かれている内容に明確に『コレだ!』という答えは出ない(出せない)のだけれど、その事について懇切丁寧に書かれていて、心地の良い疑問の残り方がします。 私はコレで読書感想文を書いたのですが、小説を読んで感想を書くよりも、こういう本を読んで感想を書いたほうがやりやすかったです。
1投稿日: 2004.10.22
powered by ブクログちょっと前、同じ養老孟司さんの『バカの壁』を読み、面白かったのだけど、食い足りなさ感、煙に巻かれた感が強かった。まあ、口述筆記のせいかなと思い本書を読んでみた。こちらはちゃんと書いたものだし、厚さもかなりある。 しかし、読んでみたらまるで同じ印象でした(笑)。また煙に巻かれたような。同時にこちらの脳味噌の出来が悪いせいでついて行けてないのか。 非常に大まかに中身を紹介すると、前半は脳の各部分の構造、中盤は言語を軸に「聴覚系-視覚系」の統合のお話、後半は思想史に脳の構造が及ぼした影響の検証となっている。 幾つか成る程と膝を打つ部分もあったが。例えば筆者曰く、「我思う故に我あり」というが、普通日本語で「我」の部分を書かない。「〜と思う」とただ言うだけである。そしてその方が論理的である、といったようなクダリだ。 その、考えてみれば訳の分からない「我」に拘りまくったのが近現代の哲学とも言えるとは思うのだが…。彼はそれは「考えているのは脳に決まっている」と両断する。身も蓋もないが、これって哲学的にも実は含蓄のある表現だと思う。 で、本書の後半では進化論者や歴代の哲学者がかなりばっさばっさと切られていて私的にはかなり戦々恐々として読みすすめた。あまりのばっさり感に胡散臭さも感じるが、ほら話では済まない何かがあるのは確かだと思う。 はっきり言って私の脳がそこら辺整理しきれないので、もう一度読んでみようと思っている。 ところで巻末の解説文を読むと、養老さんのそれとはあまりに質が違うので、改めて氏の凄さと胡散臭さが浮き彫りになって面白い。
1投稿日: 2004.09.29
powered by ブクログおそらく、本当に理解は出来ていないのだろう。それでも、ワタクシの人生に影響を与えてしまったスゴイ本。
1投稿日: 2004.09.23
