てげてげ読書ノートさんのレビュー
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ミステリと言う勿れ(1)
田村由美 / 月刊flowers
真実は人の数、犯人は星座の数
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(1)観察芸は面白い
プロローグとなるエピソード1。主人公となる大学生久能整(ととのう)くんと、これから色々な事件で彼と関わることになる大隣署の面々が登場します。なんだか、ウルトラ警備隊とモロボシダ…ンの出会いのようで、将来は整くんが一係に入るのかしら。そこからは、第2部「ミステリと言って好し」になるのかもしれません。
妄想はさておき、ここで整くんが発揮するのが、鋭い観察と推論に基づく、シャーロック・ホームズばりの“当てもの”スキルです。「『君』が『おまえ』になりましたね」だとか、そういう細部を見逃しません。加えて、「真実は一つなんかじゃないですよ」と言い切る合理性。彼と一係の面々が会話するだけで、各キャラクターの個性や背負っている物語が見えてきます。まさに「真実は人の数だけある」が生き生きと展開されるのです。
そして事件解決。整くんの推論から捜査は大きな進展を見せますが、真犯人は特定されません。そこから先は警察の仕事というわけです。つまり、素人探偵による謎解きは本作品の主題ではなく、タイトルは「ミステリと言う勿れ」。
実によく考えられた第1話だと思いました。
(2)ちょっとこだわり
小道具についても一言。作者がお好きなのか、星座や鉱石が小物として使われます。作劇上では、「泣かせ」のポイントで使われることが多く印象的です。エピソード4「殺すのが早すぎた」(広島編)のエンディングは必見ですよ(第4巻に収録)。
ネクタイピンのトパーズやえんじ色から「蠍座」を特定する整くんには、「君もサソリンなのか」とツッコミまずにはいられませんが、蠍座の役割は、「隠された真実を開示すること」。彼にはピッタリかもしれません。でも論理的な人だから、水瓶など風の星座なのでしょうね。
どうやら、星座は重要なモチーフらしく、雑誌連載では新たな星座のアクセサリーが登場しています。12星座がつながって、大きな絵が描かれていくのかも?今後も目が離せません。
なお、星座とミステリといえば、島田荘司「占星術殺人事件」が思い起こされますね。かの作品に匹敵する豪快なトリックの登場を期待しましょう。
(3)バディはできるのか?
さて、大学生活を満喫している整くんですが、友達も恋人もおらず、名探偵に欠かせない相棒がおりません。我路くんは「教授」のようなライバル的ポジションですし、連載で登場したライカさんはアイリーン・アドラーかアゾートの役が似合いそう。やはり孤独なモロボシダンなのか。親子の問題がほのめかされ、地元(?)広島での挙動不審ぶりも気になります。そろそろ彼に、ワトソンのような信頼できる相棒が現れることを願います。
連載では漫画ならではの仕掛けも登場し、ますます先が楽しみです。先は長そうなので、今のうちに読み始めることをお勧めします。雑誌連載もぜひ! 続きを読む投稿日:2019.09.08
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モリアーティ秘録 上
キム・ニューマン, 北原尚彦 / 創元推理文庫
創元推理文庫にキム・ニューマン待望の復活
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キム・ニューマンをご存知でしょうか。
代表作「ドラキュラ紀元」シリーズは、ドラキュラが英国征服を果たした改変世界史にして、古今東西のヴァンパイア作品の登場人物が勢ぞろいする宝石箱のような物語。復刊フ…ェアにおける人気投票でも、ファンの大きな支持を集めています。
そのニューマンが、同シリーズにも登場するモリアーティ教授とモラン大佐を題材にした新作を発表したというのですから、手に取らずにはいられません。
(1)ニューマン版「教授」の本領発揮
「ドラキュラ紀元」シリーズでは、シャーロック・ホームズの兄マイクロフトと、彼の秘密機関「ディオゲネス・クラブ」が、重要な役割で登場していました。
ただし、名探偵その人は影が薄く(投獄されていたため)、マイクロフトからの任務で「教授」やモラン大佐などの犯罪者たちと顔を合わせるのは、主人公チャールズ・ボウルガードの役割でした(『ドラキュラ紀元』「巣の中の蜘蛛」「もっとも危険な獲物」他)。
本作では、ヴァンパイア化していない「教授」が、ロンドンの暗闇で活動する様子が描かれます。
(2)教授の敵は名探偵にあらず
モリアーティ教授は、言わずと知れたシャーロック・ホームズ最大の敵。とはいえ、「犯罪界のナポレオン」は、ホームズのような一匹狼ではありません。同じコンサルタントでも、個人事業の諮問探偵とは違い、「犯罪商会」(ザ・ファーム)は多くの従業員を抱える会社型の組織です。
では、物語は悪の組織対正義のヒーローという図式で展開するのでしょうか。いえいえ、それはヒーロー側の勝手な思い込みというもの。基本的に、組織のライバルは同業者である他の組織であり、教授は競争相手となる犯罪者を叩き潰すことで、結果的に事件を「解決」するのです。
たとえば第一章「血色の記録」は、「緋色の研究」と対になる事件簿です。この事件で、教授は、依頼人の悪党を上回る極悪な策謀を断行することによって、莫大な利益を得るとともに、巧妙に敵も始末します。
市場における勝利や、事業の成功といった視点から見れば、ヒーローよりも悪党のほうが、よほど現実の経済活動に近いといえますね(もちろん、手段は選ばないといけませんが)。
(3)語り手モランの魅力
本作において、ホームズの公式記録者ワトソンの役割を務めるのは、モラン大佐。スリルにのめり込むハンターで、腕もたつ危険人物です。モランを従える気概を有するのは、「犯罪界のナポレオン」モリアーティただ一人。
モランはこの恐ろしい雇い主のことを、英国人らしいユーモアを交えて回想しています。ウェルズのSFをふまえた大人の本気の悪ふざけ「赤い惑星連盟」事件や、「バスカヴィル家の犬」における名探偵の不完全な謎解きを嘲笑うかのような、恐るべきクライマックスに到達する「ダーバヴィル家の犬」事件など。大笑いさせたうえで、冷酷な「解決」にぞっとさせられるあたりは、まさに犯罪界の皇帝の右腕にふさわしい狂気の持ち主といえるでしょう。
なお、モランといえば、一番気になるのは「ライヘンバッハの滝」の一件でしょう。
モリアーティはホームズの別人格か、薬物による妄想の産物ではないかとまで疑われる、謎の多い事件です。唯一の目撃者とされるモランの証言は、ホームズファンなら誰もが読んでみたいものといえます。
下巻の最終章では、それまでの様式を崩して、原典における例の事件がモリアーティ側から語られます。教授が世界犯罪組織サミットを招集し、科学捜査とアマチュア名探偵の脅威を説く(そしてホームズ譚最高の悪女アイリーン・アドラーに茶化される)場面は、キム・ニューマンの真骨頂。
ぜひとも、原典と「ドラキュラ紀元」シリーズを手元に拡げながらお読みください。ついでに「ゼンダ城の虜」も、Reader Storeに並ばないかしら。 続きを読む投稿日:2018.12.25
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茨姫はたたかう
近藤史恵 / 祥伝社文庫
目覚めれば枕元には誰がいる?
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「いばら姫」(眠れる森の美女)のお話をご存知ですか?野茨に隠された城で眠るお姫様を、100年後にやってきた王子様が目覚めさせるお話です。王子は、魔女を退治するわけではなく、適切なタイミングでそこに現れ…るだけの、モーニングコールのような役割です。白雪姫や赤ずきんと比べると、ずいぶん平和なストーリーですね。
そんな、いばら姫が、たたかう?どんな理由で、何と戦うのでしょうか。
(1)名探偵は整体師
本作は、ミステリーとしての構造をもっています。
探偵役は、整体師の力先生。名前や、ちょっと乱暴な口調からは、筋骨逞しいオジサマを思わせますが、実は30代半ばくらいの華奢な男性なのだそうです。「恋愛って、心を無理に軋ませて寄り添うことなんやろうな」などというセリフも、説教くさいものではなく、彼自身の感覚なのでしょう。
(2)いつも戦うわけじゃない
ただし、名探偵は、この物語では脇役です。
事件の犯人を見つけることではなく、眠っていたお姫様が、世界の厳しさを受け入れ、自分の身は自分で守るという意思を持つこと。これが、本作の主題です。
「正しい」ルールに従っても、世界が守ってくれないことに気づいた主人公はパニックを起こし、力先生の治療を受けます。名探偵の治療ですから、これは同時に彼女のプロファイリングにもなっています。
苦痛の原因は、外部の悪人だけではなく、善良な彼女の内面にもあると気づかされ、「たたかう」ことを決意するのです。
とはいえ、毎日高い靴を履いて、戦闘モードで街に出ていくことを推奨する作品ではありません(隣人の坂下さんのエピソード)。自分を認めてくれる人に対してまで、鎧を着て剣を振り回す必要はないのです。
お姫様はお姫様であってよい。肝心なのは、幸せを人任せにしないこと。これが、いばら姫のたたかいだと思います。
(3)王子様も決して要らないわけじゃない
一方、モーニングコールの王子様はどうなのか。お姫様が自分で幸せをつかむなら、王子様は要らないのでしょうか。
本作では、サブ主人公の小松崎くんが、この問題に挑戦します。
彼が恋した相手は、家庭の事情で少々取扱注意の女性。拒絶されて傷つきながらも、彼は相手を待つことにします。
女性に「受け身であれ」との呪いがかけられるのに対し、男性には「リードせよ」「手を出せ」との呪いがかけられます。追いかけ回さず待ち続ける、という選択は、なかなか苦しいものなのです。
物語の終盤では、それぞれの悩みを抱える彼らが、協力して主人公のストーカー事件を解決します。
意外な仕掛けも明らかになり、最後まで飽きさせず、もう一度初めから読み返したくなるところは、さすがミステリーの名手による一篇です。
たとえ世界が守ってくれなくても、あきらめずたたかう女性に、エールを送る一冊です。ぜひ一読、そして再読を。王子様が、あなたのお目覚めの時をお待ちですよ。 続きを読む投稿日:2018.11.22
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トーマの心臓
萩尾望都 / Sho-Comi
あなたが愛すれば、誰もそれを止めたりはしない
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「11人いる!」や「ポーの一族」と並ぶ、萩尾望都さん初期の代表作です。
閉鎖的な寄宿舎学校を舞台に、愛に関するいくつもの謎が提示されます。与える愛、見守る愛、待ち続ける愛、追いかける愛、選び取る愛……。あなたが読み終えたときには、いくつの謎が解けているでしょうか。
(1)「心臓」に邪念なし
物語は、トーマという少年が、雪道を歩いていくシーンから始まります。冒頭ページの素晴らしいこと!優れた物語は、世界に足の先をつけていなければなりません。わずか数行で、読者の心も今いる場所を離れ、トーマのいるノルトバーデン地方の街角に立たされる。名描写です。
トーマの死の知らせと同時に、主人公ユリスモール(ユーリ)に彼の手紙が届き、最初の謎が現れます。なぜ、トーマは衝撃的な手段をとったのか。
初め、この贈り物は爆弾のように炸裂し、ユーリは、自分を支配しようとする策略と誤解します。これは防御反応です。自分を恐れ、好きだという感情を、自分自身からも隠しているユーリ。その原因と背景は、物語が進むにつれて明らかになります。
不思議なことに、全身に血液を送り出す心臓は、愛する人にも直接つながる臓器です。手の届かない所にいる人の身を案ずるときに、胸の奥が締め上げられる、おなじみの感覚。心臓が相手のところに飛んでいき、自分の胸にはないかのようです。
トーマは、「人を愛する資格がない」と思い込んでいるユーリに、自分の翼を与えようとします。そのとき差し出すものを「心臓」と表現したのは、自然なことなのかもしれません。
(2)オスカーとエーリク
ユーリには、近くで見守る二人の友人がいます。
一人は、「番人」であるオスカー。ユーリのために細やかに心を配りつつ、それを容易に悟らせない、複雑な人物です(彼の美しい母親を巡る厄介な家庭の事情については、「訪問者」という別な作品で詳しく語られます)。
年長らしく分別があり、信頼がおけるイイ男です。
しかしユーリとの関係では、理解の深さゆえに手を出せないジレンマに悩んでいます。一気に突撃したトーマやエーリクが、ユーリに変化を起こすことに成功していることに、悔しい思いもある様子。保護者的立場は、対等・協力の関係を結ぶ妨げにもなるのです。
もう一人は、転入生のエーリク。甘えん坊ですが、孤高の優等生であるユーリが、実は「まるでわかってない」空っぽの存在だと見抜くなど、なかなかの慧眼の持ち主です。
トーマの始めた仕事を彼が引き継ぎ、ユーリが自ら人生の扉を開く勇気を与えることになります。望んだものとは異なる結末となりますが、これもまた、他人を愛するということの面白いところですね。
(3)ユーリの魅力
オスカーに「頭のいいやつ」「たいへんな感情派」「気が小さい」と評されるユーリ。優等生の役割演技に逃避していますが、皆に好かれ、気にかけられています。
その魅力の源は、優しさでしょう。本当は、ユーリは人を愛している。それを自分で認めることができずに苦しむ姿が、助けてあげたいと思わせるのです。
その背景には、人種差別や暴力など、本人の努力では解消できない問題もあります。この辺りの設定の巧みさも、本作に、単なるお花畑の恋愛模様とは異なる、リアルな骨格を与えています。
物語後半では、トーマ本人が書いたラブレターが発見され、これが登場人物たちにとっての「正解発表」となっています。ラストで、この手紙を読むユーリの表情が良いですね。
図書館で、想い人が借りた本を追いかけて読んでいくトーマ。相手を問い詰めるのではなく、本を追うことで内面を知るという手は、優れた着眼。よく見つけましたね(相手が読書家でないと成り立たないですが…)。
その思いを記した手紙が本に挟まれ、発見され、最後にユーリに届けられるという流れの美しさ。トーマの想いが、エゴではなく、ユーリを大切に思う他の人々にも響くものだからこそ、手から手へと渡されていったのでしょう。これこそ、「心臓」ならではの働きといえるのではないかと思います。
命を投げ出す激しい愛が、いかに細やかな観察と、深い理解と共感とにより生み出されたか。物語の見事な構成により、不思議な愛の本質に導かれてゆきます。
世代を超えて読み継がれるのも納得の傑作です。ぜひ手に取って、ユーリたちと共に、謎を解いてみてください。 続きを読む投稿日:2018.08.16
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辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦
高野秀行, 清水克行 / 集英社インターナショナル
あなたと行けば、異郷も楽しい
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本を読む楽しみは、旅をする楽しみに似ています。
一人旅もよいですが、ときには、気の合う仲間と二人で旅をするのも、またよいものです。
本書は、その楽しみをたっぷりと味合わせてくれますよ。
(1…)お茶会にお題迎えて読書会
片や辺境世界の探索者、片や中世文書の解読者。
普段は別々な領域で活躍する著者たちが顔を合わせれば、それだけで楽しい驚きが生まれるものです。
本書の前作に当たる対談集「世界の辺境とハードボイルド室町時代」は、二人ならではの知識や経験に基づくやり取りが、存分に楽しめる作品でした。
もちろん、これだけでも十分に楽しいのです。
しかし、誰かゲストが加われば、もっと面白くなる可能性を秘めていたといえます。
帽子屋とウサギのお茶会に、アリスがやってくれば、これはもう、何かわくわくすることが始まるに違いないですよね。
本書では、読書会の形をとることで、新たな展開が生まれます。これは素晴らしいアイディアですよ。
お題となる書物は、博覧強記の著者たちにとっても未知の世界。課題図書という要素が加わることで、読者も、著者たちとともに、自分の井戸を出て異国へ旅をし、一緒に驚き、楽しむことができるようになりました。
(2)読書量をひけらかす本ではありません
本書のタイトルには、「怪書~驚書~読書合戦」とあり、奇書マニアが腕比べをしているような印象も受けます。この点はちょっと誤解を招きそうですね。
本書は、オレは変わった本を知っているぞ、すごいだろうという、ひけらかしの本ではありません。そもそも、読書会は勝ち負けや正解を競う場ではないのです。
もちろん、各回の選書も読ませどころではありますが、特別な本を読んでいれば偉いという扱いはされません。イブン・バットゥータの「大旅行記」も、これまで読んだことがないから、いや大著でしたねと共有できる。体験を楽しめばよいわけです、
むしろ、対談中にはメジャーな漫画なども出てきます。言語について論ずる中で、「へうげもの」のキャラクターが江戸と上方を行き来しているとか、島津のセリフが読めない文字で書かれているとか、うまい例を取り上げています。娯楽作品の中で誇張があっても、否定せず、面白がるのがいいですね。
(3)注釈が愉快な本に外れなし
各章につく脚注も読みどころ。
ラッコの項には、「イタチ科の哺乳類。体長六○~十三○センチ…」などの基本情報に始まり、室町時代の慣用句「ラッコの皮」に関する豆知識まで書かれており、過剰なまでの懇切丁寧ぶりが笑いを誘います。
著者たちの、説明のうまさにも注目しましょう。
たとえば、権力による管理を逃れるためにわざとリーダーを持たないという考え方を、「子どもたちは小学校の学級委員を押しつけ合う」という例から説明する。明に対して武力を誇る豊臣秀吉の言葉を、「勉強できないけど、スポーツは得意だぜ」と言い換える。
お題の本を未読の場合でも、何を論じているのかわかりやすいです。
もちろん、自分が読んだ本であれば、さらに深く味わえます。私は本書をきっかけに、「世界史の中の戦国日本」を読みましたが、その後に本書第2章を読み返し、改めて著者たちの視野の広さや、原典の切り取り方の鋭さに感心させられました。
読書に勝ち負けや正解はないけれど、優れた読みはいくつも存在し、日々の研さんにより磨くことができるのでしょう。
自分の井戸を深く掘る者は、井戸の外へ出たとき、驚くほど遠くまで行くことができる。
自由や成功を求めて世界へ出ていくには、まず自分の力をつけることが大事です。
そのうえで、出自の異なる他者との出会いを楽しむ心があれば、コミュニケーションの苦労さえも、面白い体験となる可能性があるのですね。
長いものに、素直に巻かれておれない者の生きる道を、確認させられた一冊です。 続きを読む投稿日:2018.06.23
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帽子蒐集狂事件
ディクスン・カー, 宇野利泰 / グーテンベルク21
玩具の価値がわかるかね?名探偵の人生教室
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次々と盗まれる帽子、未発見の「世界最初の探偵小説」の草稿、そして霧のロンドン塔で発見された記者の死体(クロスボウの矢に貫かれて)。笑うべきか、怒るべきか、巻き込まれた者に同情すべきか。一筋縄ではいかな…い事件の数々。
関係者の人間性への洞察から真相を見抜き、夢想と現実のはざまで取り散らかった事態の収拾を図るのは、ディクスン・カーの創造した陽気な巨躯の名探偵、フェル博士です。
(1)ロンドンは今日も霧の中
舞台は、シャーロック・ホームズがモリアーティ教授と対決し、ジャック・ザ・リッパーが跳梁した魔都ロンドン。とはいえ、時代は第一次世界大戦後。大英帝国の威光は薄れ、妖気漂うロンドン塔も、観光客が見物に来る歴史の遺物となっています。
作者はアメリカ出身のためか、イギリス人自身よりも、英国らしいシンボルを見つけるのがうまいようですね。まずは、タイトルにもある帽子です。衛兵はカブト。法廷弁護士はカツラ。紳士たちは折り畳み式のトップハット(シルクハットの原型)。
さらに、序盤の舞台となるロンドン塔も素晴らしい。これは作家の筆力によるところが大きいですね。グーグルマップの写真で見ても、この雰囲気は伝わりません。日本の読者としては漱石の「倫敦塔」も思い起こされ、幻想的な英国観光が楽しめます。
この街に登場するのが、真面目なハドリー警部と、明朗快活なフェル博士です。警部が尋問術を駆使する傍らで、博士は犬の頭をなで、玩具のネズミを走らせ、真面目に推理する気があるのやら。
しかし、警部が見せ場を作れば、博士の深謀遠慮はその上を行く。見習い記者ドリスコルの人物像についての分析は見事です。博士は名探偵のお約束通り、最後の最後まで推理を明かさないため、あまり協力的とは言えないのですが、二人の間には、ライバルでも相棒でもない、不思議な信頼関係があるようです。バラバラなようでいて、最後は一致する。なんだか夫婦のようですね。
(2)幻のポオ第1作、鑑定やいかに?
探偵小説への愛着が、本作のサブテーマです。
本作では、エドガー・アラン・ポーによる「デュパンもの」の草稿が、事態を思わぬ方向へ導きます。なんと、「モルグ街の殺人」よりも前に書かれた、最初の探偵小説という設定。これは読んでみたいですね。
しかし世の中、誰もがその価値を認めるわけではありません。名探偵や密室トリックなど、まともな大人は相手にしません。子どもの空想力を備えた大人だけが、それらを楽しむことができます。ポオの草稿は、中身を読まない人にはただの紙切れ。金銭的評価を聞いて初めて、目の色を変えた争奪戦が始まるのです。
つまりこれは、ファン(愛好家)とコレクター(蒐集狂)についてのお話でもあります。やはり、書物は作家の夢。「所有物として能書きや交換価値を競うのではなく、中身を読んで、その世界を生きてほしい」というのが、作者の願いなのでしょう。
なお、物語の本筋には関係しませんが、フェル博士は探偵小説のファン。しかも、自身がその登場人物だという自覚もあります。後の作品では、有名な「密室講義」を展開しているほどです。
この、名探偵をよく知る名探偵は、謎解きゲームに正解し、真相を明らかにすることは目指しません。現実の世界は、人を好きでも嫌いでもない。動機なき偶然が、幸せな人生を悲劇に変えてしまうのです。しかし、人はそのバカバカしさや非情さに耐えられません。フェル博士は、罪を暴き立てるのではなく、犯人を説諭し、その弱さや人間性を自覚させます。そして、償いよりも生きることを願います。これはそう、教育ですね。事件簿というより、フェル先生の人生教室。
「プライアリー・スクール」におけるホームズや、「オリエント急行の殺人」におけるポアロの立場と比較しても面白いですね。
(3)紳士の秘めた激しい情熱
フェル博士を除けば、本作で最も印象的な人物は、地味なレスター・ビットンです。妻に裏切られてもなお、彼女が不当な扱いを受けたことに怒る男。最後まで愛を手放さなかった男。
彼が、その頑固な優しさを貫くことによって、ただでさえ複雑怪奇な事件は厄介さを増します。情け容赦のない現実は、些細な偶然により、彼の愛する世界を完全に破滅させてしまいます。しかし、罪びとたちの心を動かし、告白をさせたのも、また、彼のそうした行いによるのです。ある意味で、彼は最も英国紳士らしい人物といえるでしょう。
彼は立派な大人ですから、フェル博士も説教はしません。名誉ある選択を尊重し、静かに見送るのも、博士の流儀なのです。
ホームズが犯罪学の研究者ならば、フェル博士は愛情あふれる教師です。
密室は気にしなくてもよい本作で、その魅力をたっぷりと味わいましょう。 続きを読む投稿日:2018.05.22