てげてげ読書ノートさんのレビュー
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マキとマミ~上司が衰退ジャンルのオタ仲間だった話~
町田粥 / コミックエッセイ
スピーチも浮かぶ!レジェンドの深き愛
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電車の車内広告に、ホイホイと引き寄せられて読みました。
ウェブで好評連載中の四コマ漫画です。
(1)深い愛は人を孤独にする
本作の進行役は若いマミさん。架空度高めの「夢の後輩」です。
高い…ITスキルを持ちつつも、言動はオタクとして普遍的。説明的な仕草やクローゼットの神棚の他、「沼が私を見つけた」などのツボを押さえたセリフも飛び出します。
紙袋から資料をドサッと出すなどの振舞いには、旧世代として嬉しくなるものがありますね。「ひと月に14回ほど観に行った舞台」のため有給休暇大量取得というくだりには、立川談志ファンの先輩を思い出しました。
そんなマミさんが一目置く、先輩であるマキさんは、より個性が強めです(私の世代の言い方では「業が深い」)。
マキさんは、職場ではクールビューティー系の、かなりデキる人のようです。しかしその正体は…展開停止して久しい乙女ゲーのシリーズにハマり続ける、10年選手の古参オタ!
公式からの新規情報がないにも関わらず考察(妄想)ツイートを投下し続け、ツイッターでは名の知られたファンですが、即売会には行ったことがないという一面も。
ゆっくりじっくり考える人であるがゆえ、「望んだわけではないのに、なるべくして孤高の人になる」という成り行きにジワッときます。
何かを深く愛するほど、そして、その期間が長くなるほど、人は孤独になってゆきます。しかし、長く続けていると、思いもよらない人に多大な影響を与えていることも。明るいマミさんとの出会いにより少し解放されたマキさんの姿は、そんなご褒美をもらった人のようです。
(2)キレイな単行本は好きですね!
私は電子版で購入しましたが、紙の書店でもぜひ実物をご覧ください。色白の美しい本に仕上がっています。
あまりに端正で可愛らしく、笑えるほどの出来のよさですが、果てない沼にはまり続ける成人には、このくらい夢を見させてくれるのが正解です!
客観的には行きつけのカフェで駄弁っているだけでも、心象風景はこうなのですよね。
なお、乙女心を忘れない読者には、お店のレジで恥ずかしくないことも大切だったりしますが、その意味でもありがたいことでしょう。
当然、単行本の価格は若干お高めになりますね。
ですが、これも含めて美点といえます。使途に困る公式アクセサリーに「私も8万円ぐらいまでなら」と小声でつぶやく本作の読者なら、むしろ「課金させてくれてありがとう」と感謝の念が湧いてくることでしょう。
(3)男性陣はこれから本領発揮?
マキとマミだけでなく、男子二名にも注目です。
まずは、マキさんの弟である学くん。口調は丁寧ながら、行動は社会人として完全に破綻しています(誉め言葉)。
こういう人(あるいは鬼というべきか)は、パッと見わりと愛想がよくカッコよかったりしますが、内面的には全く男前ではありません。自分の興味で頭が一杯で、他人に割くリソースがないのでしょう。
しかし、話の内容は、(理解することができれば)最高に面白く魅力的だったりします。鬼は極めると神にもなるのです。
そして、学くんの友人にして、カフェの店主である真下くん。
彼のジャンルは、謎。何かにハマっていることは、思春期にマキさんに嗅ぎ付けられているのですが、未だに明かさないという筋金入りです。
成人してもオタ身内にも明かさないということは…もしかするとマキさんに関する個人的な何かが…イヤイヤ!憶測はやめておきましょう。
とにかく、男性陣の深掘りも楽しそうです!
連載はまだまだ続くようです(お正月の話も笑わせていただきました)。
マキさんと「どき☆ジェネ」の果てない沼が、100年続きますように。 続きを読む投稿日:2018.01.09
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トーマの心臓
萩尾望都 / Sho-Comi
あなたが愛すれば、誰もそれを止めたりはしない
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「11人いる!」や「ポーの一族」と並ぶ、萩尾望都さん初期の代表作です。
閉鎖的な寄宿舎学校を舞台に、愛に関するいくつもの謎が提示されます。与える愛、見守る愛、待ち続ける愛、追いかける愛、選び取る愛……。あなたが読み終えたときには、いくつの謎が解けているでしょうか。
(1)「心臓」に邪念なし
物語は、トーマという少年が、雪道を歩いていくシーンから始まります。冒頭ページの素晴らしいこと!優れた物語は、世界に足の先をつけていなければなりません。わずか数行で、読者の心も今いる場所を離れ、トーマのいるノルトバーデン地方の街角に立たされる。名描写です。
トーマの死の知らせと同時に、主人公ユリスモール(ユーリ)に彼の手紙が届き、最初の謎が現れます。なぜ、トーマは衝撃的な手段をとったのか。
初め、この贈り物は爆弾のように炸裂し、ユーリは、自分を支配しようとする策略と誤解します。これは防御反応です。自分を恐れ、好きだという感情を、自分自身からも隠しているユーリ。その原因と背景は、物語が進むにつれて明らかになります。
不思議なことに、全身に血液を送り出す心臓は、愛する人にも直接つながる臓器です。手の届かない所にいる人の身を案ずるときに、胸の奥が締め上げられる、おなじみの感覚。心臓が相手のところに飛んでいき、自分の胸にはないかのようです。
トーマは、「人を愛する資格がない」と思い込んでいるユーリに、自分の翼を与えようとします。そのとき差し出すものを「心臓」と表現したのは、自然なことなのかもしれません。
(2)オスカーとエーリク
ユーリには、近くで見守る二人の友人がいます。
一人は、「番人」であるオスカー。ユーリのために細やかに心を配りつつ、それを容易に悟らせない、複雑な人物です(彼の美しい母親を巡る厄介な家庭の事情については、「訪問者」という別な作品で詳しく語られます)。
年長らしく分別があり、信頼がおけるイイ男です。
しかしユーリとの関係では、理解の深さゆえに手を出せないジレンマに悩んでいます。一気に突撃したトーマやエーリクが、ユーリに変化を起こすことに成功していることに、悔しい思いもある様子。保護者的立場は、対等・協力の関係を結ぶ妨げにもなるのです。
もう一人は、転入生のエーリク。甘えん坊ですが、孤高の優等生であるユーリが、実は「まるでわかってない」空っぽの存在だと見抜くなど、なかなかの慧眼の持ち主です。
トーマの始めた仕事を彼が引き継ぎ、ユーリが自ら人生の扉を開く勇気を与えることになります。望んだものとは異なる結末となりますが、これもまた、他人を愛するということの面白いところですね。
(3)ユーリの魅力
オスカーに「頭のいいやつ」「たいへんな感情派」「気が小さい」と評されるユーリ。優等生の役割演技に逃避していますが、皆に好かれ、気にかけられています。
その魅力の源は、優しさでしょう。本当は、ユーリは人を愛している。それを自分で認めることができずに苦しむ姿が、助けてあげたいと思わせるのです。
その背景には、人種差別や暴力など、本人の努力では解消できない問題もあります。この辺りの設定の巧みさも、本作に、単なるお花畑の恋愛模様とは異なる、リアルな骨格を与えています。
物語後半では、トーマ本人が書いたラブレターが発見され、これが登場人物たちにとっての「正解発表」となっています。ラストで、この手紙を読むユーリの表情が良いですね。
図書館で、想い人が借りた本を追いかけて読んでいくトーマ。相手を問い詰めるのではなく、本を追うことで内面を知るという手は、優れた着眼。よく見つけましたね(相手が読書家でないと成り立たないですが…)。
その思いを記した手紙が本に挟まれ、発見され、最後にユーリに届けられるという流れの美しさ。トーマの想いが、エゴではなく、ユーリを大切に思う他の人々にも響くものだからこそ、手から手へと渡されていったのでしょう。これこそ、「心臓」ならではの働きといえるのではないかと思います。
命を投げ出す激しい愛が、いかに細やかな観察と、深い理解と共感とにより生み出されたか。物語の見事な構成により、不思議な愛の本質に導かれてゆきます。
世代を超えて読み継がれるのも納得の傑作です。ぜひ手に取って、ユーリたちと共に、謎を解いてみてください。 続きを読む投稿日:2018.08.16
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深く美しきアジア(1)
鄭問 / アフタヌーン
厄災も理想も受け容れて美しいアジア
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作者は台湾の作家ですが、輸入品の翻訳ではなく、初めから日本の雑誌で連載された作品です。
まずは、美麗な筆致で繰り出される、奇想天外な描写を堪能していただきたい。第2話で、夜市を行く理想王の巨大リムジン…に爆笑したら、あなたはたぶん、この漫画のオリジナリティと相性の良い方です。
第1巻では、コミカルな描写や寓話的なエピソードが多く、少々古臭さも感ずるかもしれません。この点は、百兵衛と理想王の戦いが激しくなるにつれて変わります。ぜひ、潰爛王(かいらんおう)が登場する第3巻まで読み進めてみてください。まさにアジアの奥深さを体現する、私の一番好きなキャラクターです。そこまで来たら、もうラストまで目を放すことはできなくなるでしょう。
それにしても、「深く」「美しき」「アジア」とは、よくできたタイトルですね。
英題にあるように、この作品には、マジカルでスーパーな東洋的世界という一面もあります。しかし、日本の同種の作品とは何か違うのです。
たとえば、寺田克也「西遊奇伝大猿王」は、バンドデシネの強い影響下にありますが、比べてみると、やはり日本の漫画です。
理想と美、愛、幸福、善意、法や規律といった価値が複雑に対立し、全てを呑み込む厄災の力が救いの武器となる。終盤の迫力ある展開は、独特の世界観と日本の漫画雑誌スタイルとの融合も感じさせます。台湾の作家が、日本の雑誌で連載したという作品の出自が、そのままテーマになっているともいえるでしょう。
読めば読むほど、「深く美しきアジア」とは素晴らしいタイトルだと感じます。
私の手元には、1992年に刊行された大判のアフタヌーンKCデラックスもあります。数年に一度、なぜだか読み返したくなる、不思議な宝物のような本です。電子版には、口絵や跋(後書き)も全て収録されていますので、ぜひ読んでみてください。
なお、この文を書く直前に、作者の訃報に接しました。命を削って描かれた作品たちが、永く読み継がれることを願います。 続きを読む投稿日:2017.03.28
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モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝―
ジョン クリーズ, 安原 和見 / 早川書房
偉大な変わり者たちが導く「パイソン」前夜
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日本でも人気がある英国のコメディ番組「モンティ・パイソン」のメンバー、ジョン・クリーズが「パイソン」誕生までを書いた自伝です。
英国の社会や教育、米国のショービジネス、レコードとラジオ、白黒テレビの…時代におけるコメディー史に関する興味深いエピソードの数々、そしてコメディを書き・演じ・笑わせることについての洞察力溢れる解説は、非常に楽しく読めました。
しかし、これは予想通り。本書の素晴らしい点は、クリーズを「パイソン」に導いた人々に詳しく触れている箇所です。
一人はデイヴィッド・フロスト。パラノイアならぬ「プロノイア」(幸福妄想)患者と評される彼は、自分の番組が「すぐれている」かにこだわらず、「受けている」かを重視する真の外交的人物です。クリーズたちにポンポンと仕事を与え、そのうえ好きにやらせてくれる(平気で素人に丸投げする)素敵なボス。こんな人物だと初めて知りました。もう一人のボス、驚異の物まね能力をもつため、毎朝自己を見失ってしまう達人ピーター・セラーズとの対比も面白いです。
二人目は、最初の妻にして共同制作者のコニー・ブース。大陸間の遠距離交際もなんのその、愛情も才能も共有し結ばれたベストパートナーです。クリーズの筆致からも、本当に大切に思い、深い敬意を払っているのがわかります。結婚式のあたりはちょっと感動ものですが、しかし後に別れてしまうのですよね…。
そして三人目は、謎めいた天才グレアム・チャップマン。後年アルコールがもたらす影はまだ薄く、古きよき青春のエピソード集といった雰囲気ですが、カミングアウトには驚いたとか。英国では同性愛が非合法とされた時期が長かったそうで、このあたりは時代の違いを感じます。
そして最後に書き足された最終章。例の復活ライブのことが書かれています。終えて、悔いはないといい合うメンバーたちが印象的。チャップマンはすでに亡く、ライブ当時は元気だったジョーンズも、今は大変なようです。現在75歳、無理もない。本書では、クリーズがこの久しぶりの集合を大いに楽しめたらしいことがわかり、パイソンズのファンの一人として、大変嬉しく思いました。 続きを読む投稿日:2017.05.19
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舟を編む
三浦しをん / 光文社文庫
特典あり!「恋文」を読みましょう
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2011年初版の単行本も素晴らしい装丁でしたが、既にお持ちの方であっても、電子版での再読をお勧めします。なぜなら、文庫化特典として、「馬締の恋文」が収録されているからです。
私は、本書の一番の魅力は…、「恋文文学」である点にあると考えます。もちろん、出版業界の「お仕事モノ」として読んでも感動できますが、本書を読みとく上では、この「恋文」が重要な役割を果たすからです。
(1)言葉のプロは一日にしてならず
本書は、辞書を作る人たちの物語です。主人公は、長年月をかけたプロジェクトを受け継ぎ、その柱となる人物。飛び抜けた適性を持っていますが、その才能は、長い時間を経て実を結ぶタイプのもの。最初は「意余って力足りず」の状態です。
その象徴として登場するのが、件の恋文です。
(2)恋文は準備できない一発勝負
私も、初めて本気のラブレター(電子メールでしたが)を書いたときには難渋しました。秋の大型連休の間中、家族に「今の若い人は朝から晩までスマホばかりね」とからかわれながら、夜も眠らずにああでもないこうでもないと書いては消しているうちに原型は跡形もなくなり、ついに頭が朦朧として、力尽きるように送信ボタンを押したことを覚えています。受け取った相手からすれば、困惑するしかない出来だったでしょう。
主人公の恋文も、まあ誉められたものではありません。便せん15枚の超大作。漢詩が複数引用されるなど、およそラブレターであるかどうかも判読不能な代物です。しかし、これは仕方がない。仕事や婚活なら計画的に進められますが、恋は不意討ち。一生に一度の相手と思い詰める人がいつ現れるかなど、事前には予想がつきません。気づいたときには気持ちが頭を追い越して、猛然と走り出しているのです。上手く言葉にすることは、その最中には無理というものでしょう。だからこそ、古来より、恋文には代筆者がつきものであり、万葉・古今の名歌が今に語り継がれるわけです。
とはいえ、本書は辞書を編む人の話。人生をかけて言葉の海を漕ぎ進む主人公が、代筆を頼むわけにはいきません。夢中で書いた15枚が、当事者以外の人々にも面白がられ、次の世代へと大志をつなぐメッセージになるのです。ここが、上手い!
人から人へ、言葉が見事にその記憶を伝えた様子を読んだとき、そこにはきっと、確かな感動があるはずです。
こういった次第ですので、ぜひ、巻末の恋文をお読みください。
下手は下手なりに頑張って、書き手の人となりをよく伝えております。キャラクターのコメントにもあるように、必要なことは一応押さえてもいます。
全文読了後に本文を再読されれば、主人公の成長ぶりが、一層味わい深く感じられることでしょう。
(3)最終章、もう一つの手紙
本書では、もう一通、大事な手紙が登場します。
こちらは、短い。しかし、万感の思いが込められています。主人公たちよりも遠くへと旅する、先達からのメッセージです。
文章は、長く書くよりも短く書くほうが、書き手の技量は上になります。もちろん、全てを言葉にすることはできない。しかし、やるべきことをやり遂げ、魂が次代へと引き継がれていれば、そこは心配しなくてもよいのです。
諦めずに努力を続けなさい。そうすれば、やがて君たちもこの境地に達するのだぞ、と優しく励まされる気持ちになる一通です。
私は小学校の時、「金を残す人は優れている。名を残す人はそれより高級。しかし、人を残す人は、さらにもっと上である。そんな人になりなさい」と教えられたことがあります。どうすれば「人を残す人」になれるのか、本書に納められた二通の手紙が、その手がかりを教えてくれた気がします。
そんなわけで、わたくし的には「恋文文学」である辞書編集者の物語。特典の恋文ともども、ご愛読いただけると嬉しいです。
そしていつか、恋文を書くべき相手が目の前に現れたら、恥ずかしさを振り切って、きちんと言葉を届けてください。また、もしも、誰かの恋文があなたに届けられたなら、その勇気と無謀に乾杯して、みんなで楽しく読みましょう。
言葉の海を旅する、すべての人に幸いあれ。 続きを読む投稿日:2017.10.10
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ホームズ探偵学序説
水野雅士 / 青弓社
犬も歩けばかわいいワトソン
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〈注意!本書第二部「吾輩はバスカヴィル家の犬である」は、アーサー・コナン・ドイル著「バスカヴィル家の犬」の読了後にお読みください〉
「スター・トレック」のファンはトレッキー。吉永小百合のファンは…サユリスト。
では、名探偵シャーロック・ホームズのファンは何と呼ばれるのでしょうか?
…そうです。この世には、シャーロッキアンと呼ばれる人々がいるのです。
本書は、熱烈なファンの世界を垣間見せてくれる、遊び心溢れる一冊です。
(1)「探偵学」は世のため人のため
本書第一部は、「シャーロック・ホームズの推理方法序説」。
本稿は、ホームズが、デカルトの「方法序説」を手本にして、自分の作り上げた推理方法の大要を説明するものです。
このため、失敗も含めて、ホームズの経験がありのままに語られることになっています。
この点、ホームズには、優れた記録者がいます。そこで、本稿では、ワトソンの公開した事件簿から、適宜具体的事例が紹介されています。
シリーズの愛好家には、引用された事例から、様々な名場面が思い起こされることでしょう。
この仕掛けにより、探偵学が、机上の空論ではなく、ホームズの実地における試行錯誤を元に磨きあげられたものだと感じられるようになっています。
デカルトを踏まえて、ホームズのある特徴が明らかになります。それは、この名探偵は、大きな志を抱いた、正義の人であるということです。
近年では、薬物中毒や型破りの行動など、反社会的で異常なキャラクターが強調されることのあるホームズですが、決して、人嫌いの冷血漢ではありません。むしろ、その反対です。
彼の創始した「民間諮問探偵」という職業や、「探偵学」と呼ばれる、合理的で実際的な推理方法は、特殊な才能を世のため人のために役立てるべく生み出されたものなのです。
探偵学には、絶対確実の成功は保証されないことの自覚が組み込まれています。したがって、個々の事件を解決できなくても、その価値は損なわれません。志を失わないかぎり、反省は次の事件に生かされることでしょう。
社会の暗黒面に立ち向かい、懸命に努力して生み出されたものだからこそ、探偵学は、名探偵カッレくんのような異国の少年にも愛されてきたのですね。
本稿を読んで、改めてその精神を感じとることができました。
(2)ドイルの魔犬が漱石の「猫」と合体!
第二部は、「吾輩はバスカヴィル家の犬である」。
人気作「バスカヴィル家の犬」を、犯行の道具とされた犬の視点から描いた作品です。
本作の魅力は、なんといっても、語り手である魔犬くんです。賢く、健気で忠実な気質は、まさに犬の美質そのもの。
原作では、ワトソンが現場に乗り込み、捜査を助けようと奮闘するのですが、魔犬くんはもう一人、いや一匹のワトソンといえるでしょう。
友人スパニエルくんとの会話もかわいらしく、最終的に二人を待つ悲劇を思えば、自ずと涙が誘われてしまいます。
「バスカヴィル家の犬」は、構想段階ではホームズ物ではなく、全体をまとめる過程で探偵小説になったといわれる作品です。
そのせいか、謎解きには不完全なところがあります。ホームズが推理を誤り、犯人を取り逃がしている疑いが濃いのです。真犯人が誰かは説が分かれますが、ホームズの仮説よりも合理的な解釈が成り立ち、作者ドイルの真意もそこにあると思われます。
本作では、実行犯の側から事件の経過が描かれます。果たして、事件の真相は?末尾に付された日記には、ぞっとする内容が書かれています。
(3)ホームズが名探偵である理由
名探偵もときに過ちをおかします。
「推理方法序説」にも多数の例が挙がっています。「バスカヴィル家の犬」のように、犯人を取り逃していると思われる事件もあります。
だからといって、ホームズの魅力が減ずるわけではありません。
ホームズは人間です。たしかに、細部を観察して合理的に考え、該博かつ実用的な知識を持ち、忍耐強く検証作業を行う力に優れています。しかし、その力には人間としての限界があり、ホームズ自身がそのことを知っています。
けれども、ホームズは諦めません。彼の才能を、人々を救い、より良い社会を実現するために使おうと決意しています。
これこそ、科学の進歩により、真理が自明でなくなった世界における、理想の英雄ではないでしょうか。欲望溢れる魔都ロンドンを闊歩しながら、それに溺れず、傷つきながらも進んでいく一個人。その傍らには、もちろん信頼する友もいます。
もちろん、敗北は手痛い打撃です。犠牲者も出ます。しかし、諦めずに再び立ち上がる。ファンは、そうしたホームズとワトソンの姿に、惜しみない喝采をおくるのです。 続きを読む投稿日:2018.01.04