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本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話
本質観取の教科書 みんなの納得を生み出す対話
苫野一徳、岩内章太郎、稲垣みどり/集英社
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総合評価

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    仕事で志向などの違いでほんのり派閥が出来ることがあり、なんかいい対処法ないかなぁ〜 で読み始めた。 という前提だと、なるほどこれは使えるかも、と感じた。「テーマに対する体験や考えを、対話の場にいる人たちの共通項で抽象化したもの、が本質観取である」ように私には読み取れたから。 本当に本質か?は何とも言えないけれど、これで解決することも多いのでは?

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    投稿日: 2026.02.13
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    相互承認と共通了解。現象学の話ではなく,哲学対話の一種だったのね。まぁ,苫野さんは教育学部の人だからねぇ。P4CとSDとの比較は興味深い。いろんな流派があるんだなと。哲学カフェはまた別ものか。

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    投稿日: 2026.01.29
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    相対主義に対しどう対抗してきたか ・プラトン イデア論 しかし、これは結局「それも万人の検証、確証には開かれていない」となる ・デカルト 懐疑→私から始める ・フッサール 本質観取 ①エポケー 客観的正解がある、と考えるのをやめる、保留する ②私の意識体験に全てを還元する 感覚における、なんらかの意識体験や確信それ自体は、否定することはできないよね そこに、条件を見出す 他の「私」にはどう見えてるかを捉える =絶対の答えを見つけるでもなく、全てを相対化するでもなく、共に答えを作る =世界の彼方に存在するイデアではない、それぞれの「私」が体験を交換しながら本質を編む(体験、自由変更) エポケーは、どこか絶対的正解がある という判断を保留して 肯定も否定も差し控える=相互承認の原理へ

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    投稿日: 2026.01.10
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    4 本質観取が挑むのは、そのような意味の本質を洞察すること。私たちはいったい、何をもってそれぞれを「正義」と呼んでいるのか。これを欠いてはもはや「正義」とは呼べなくなってしまう、その意味の中心は何なのか。その本質的な条件を見つけ出すのが本質観取の営み。 6 本質観取の対話も、哲学対話の1つ。 対話を通して、誰もができるだけ深く納得できる「共通了解」を見出し合うこと。多様な人の多様な考えに触れるだけでなく、その上でなお、誰もが深く唸ってしまうほどの、本質的な考えを見出し合うこと。 33 さまざまに異なる立場の人々が、互いの違いについては「相互了承」し、その上で誰もが確かめて納得できる「共通了解」に向かっていくことが、哲学対話の真髄。 47 どのような人にも確かめられるということが、「物語」ではなく「原理」を使うことの意義。 48 哲学者たちは、存在の根源について「水」「無限なもの」「空気」「数」「火」「原子」など、数多くの原理(キーワード)提起した。でも、いったいどの原理が本当に正しいのか。単に複数の考え方や見方があるだけなら、宗教共同体の限界を突破して創出されるべき「共通了解」が遠のいてしまう。 この点を鋭く突いてきたのが、ソフィストと呼ばれる相対主義者たち。 52 現代社会では「多様性」という言葉が重んじられるが、これもまた、私たちの「ひとそれぞれ」の感覚をよく表している。結局、考え方は人それぞれ。ということは、最後の最後、人は分かり合うことなんてできない。そんな風に考えている人は少なくないのでは。 52 もし私たちが平和を求めるのであれば、争いはどこかのタイミングで治めなければならない。別に争い合ったっていいじゃないか、それもまた「人それぞれ」なんだから、なんて言ったていたら、いつまで経っても平和をつくることはできない。 67 プラトンはやはり、物事の本質を問い、「人それぞれ」を超えて「共通了解」を目指すことに生涯をかけた哲学者。 とはいえ、プラトンのイデア論が、この世を超えた永遠の真理を説いたものであるという通説は間違いではない。ただ限界はある。 68 プラトンとデカルトは、双方とも相対主義を批判し、誰にとっても同じようにある認識の可能性を模索したが、その戦略は全く異なるものだった。 プラトンがやったのは、認識の相対性にイデアの同一性を対置させること。しかし、デカルトはむしろ相対主義を徹底する方向に舵を切った。 疑いうるものはすべて疑ってみよう。 75 現象学的還元とは ①もの後tが客観的に存在しているという自然の判断を「保留」して ②およそ認識一般の本質の「私」の意識における「確信」としてとらえ返す 86 本質観取とは、さまざまな概念や事柄が私そして私たちの生にとって持っている中心的な意味を取り出す作業。 98 本質観取とは、さまざまな「意味」や「価値」の本質を明らかにするものである。何か深遠な、形而上学的な真理を問うものではない。 たとえば、「世界の始まりとは何か?」とか、「死んだらどうなるか?」といった問い。これらは、「意味」や「価値」の問いではなくて、形而上学的な問い。 形而上学とは、われわれの経験世界を超えた世界を問う学のこと。「世界の始まり」も、「死んだらどうなるか」も、私たちが直接経験することはできない世界の話。 162 本質観取は、外的な知識ではなく、あくまでも自身の体験に即した事例や言葉を持ち寄るのが原則。 166【類似概念を比較する】 本質契機を見つける中で、類似概念を比較すると、テーマの本質はよりはっきりと見えてくることがある。たとえば「楽しい」の本質観取であれば、「嬉しい」との違いや重なりを考えてみる。「まじめ」の本質観取であれば、「誠実」との違いや重なりを考えてみる。 このように類似概念との比較することで、本質観取したいでーまの「キワ」が見えてくることがある。たとえば、「まじめ」と「誠実」はいくらか重なり合う概念のように思えますが、どのような場合に私たちはそれを「まじめ」と呼び、他方、どのような場合だとむしろ「誠実」と呼ぶのか、と考えてみると、両者の間の「キワ」がきっとみえてくるはず。それはつまり、「まじめ」の本質が一層クリアになるということもある。 234 本質観取とは、いわば民主主義の営みそのもの。その経験を積みことができたなら、私たちは、いまの民主主義社会をきっとさらに成熟させていくことができるに違いない。 237 本質観取は、ことなる他者同志が共に生きることを学ぶ実践。国籍・文化・宗教・っ言語・ジェンダー・世代・病気や障がいなどの有無などによって異なる感受性、価値観、世界像の多様性を互いに認めた上で、すべての人間が対等な存在としてともに生きていくための普遍的な原理。これを「共生の原理」と呼ぶとすれば「相互承認」と「共通了解」という本質観取の二大原理は、まさしく共生の原理そのもの。 238 真の多様性は、じつは普遍性によってこそ支えられる。 239 つきつめれば、意思決定の手段は「力」か「言葉」。より正確に言えば、「力による決定」か「言葉による決定」か。 242 どれだけ烏煙に思われたとしても、暴力を縮減するには対話の場を作り出す以外にない。

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    投稿日: 2025.12.22
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    こういう感じが良いよなぁと思っていた話し合い?に名前がついていて大事なポイントも決まってるのかとこの本を読んで知れて輪郭が定まってきたのが良かった。 子供の頃から きちんと本質観取の機会が広まってるのは希望だなと思う。 なぜ対話篇なのか、饗宴なのか、なんだろなーと思っていたのがなるほど!とわかったのも嬉しかった。 本質観取っぽい会話ができる友達が何人かいるので大事にしてこれからも色んなこと話したいなと思えた。

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    投稿日: 2025.12.16
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    楽しみにしていた本がやっと出来上がって、あっという間に読んでしまった。苫野さんのVoicyをすべて聞いているので、まあたいがい知っている話ではあるわけだけれど、しっかりと紙面で復習することが出来た。これで何度でも振り返ることができる。本質観取やってみたい。しかし、ファシリテータは緊張する。何度か研修の場面で、そういう役にあたったことがあるが、まあ当たり前だけれど、人の話をしっかり聞いていないといけない。その話をふまえて次に進めないといけない。何かキーワードを拾ってこないといけない。書記は他の人に任せたとしても、とにかく気が休まらない。自分が言いたいことを我慢する場合もある。というか、人が話している間に自分が言いたいことをまとめることが出来ない。とにかく、僕は喋るのが下手だ。特に準備せずに即興でしゃべるのが苦手だ。紙に書いて何度も吟味できればいいのだが、どうしても言いたいことの半分も言えないで終わってしまうことが多い。特に初対面の人などの前では、結局なにも自分が出せないまま終わってしまう。ダンバーはそんなことまで調べていたのかとちょっと感心した話が出てきた。飲み屋なんかでの会話で8人いれば、ふつう自然に4人ずつくらいに分かれる。8人のままだと誰かが会話を支配している。確かにそうなんだ。で8人のままでしゃべっていると必ず自分は聞き役に回ってしまう。そして不満を残したまま帰ることになる。そこで必要なのがぬいぐるみだ。いまは自分の番だと分かるのがいい。途中で話を挟まれると、自分の言いたいことが言えない。話すのが苦手、話をまとめるのが苦手な人にとってはこのぬいぐるみというのが大変有効だと思う。でも、それ、自分が主催でやるとかでないとちょっと恥ずかしくて提案できないなあ。もっともっと一般的になると良いなと思う。そして、本質観取。僕は何度もこのPCでこのことばを書いているので一発で変換されるが、ふつうはどうなんだろう。このことば自体ももっともっと一般的になると良いと思う。まあ、小中学校の教科書に載ったというのが一つの契機にはなるだろう。ただし、光村図書だけだから、今ちょっと調べるとシェア16%くらいだから、6人に1人というくらいか。次第に認知度は上がっていくだろうな。あっ、でも、本質観取ということば自体は使っていないのか。それでも、その本質である「相互承認」と「共通了解」という考え方は広まっていくことだろう。その結果、民主主義が成熟していき、世界が平和になることを願ってやまない。 以下、本質観取の進め方メモ テーマを決める。デリケートなテーマには要注意。グランドルールの確認(対等な対話者として相互承認、傾聴、意を尽くした表現、共通了解を見出す、沈黙の尊重 そうそう、沈黙を待ってほしい)何のためにこの本質観取をするのか、あらかじめ問題意識を共有しておく。自分の体験から具体例をたくさん挙げる。共通するキーワード(本質契機)を見つける。本質の定義をする。最初の問題意識に応えているかの確認。ファシリテーターが上からにならないようにきをつけること。 本質観取を普及することの意味メモ 民主主義の本質は「自由の相互承認」に基づき「一般意志」を見出すこと。ということは、本質観取は民主主義の営みそのものと言える。本質観取こそが、民主主義の成熟に大きく貢献する。真の多様性は普遍性によって支えられる。相互承認と共通了解を普遍的なものとして共有することが重要。 ちょっと他の人のレビューを見て感じたこと。僕は苫野さんに99%の信頼を置いているので、素直にすべて受け入れてしまったが、本質定義はだれでもがすんなり受け入れられるものではなさそうだな。実際、本質観取の動画とかを見ていると、うーん、この定義はいまいちかなと思うこともあるしな。ファシリテータが無理矢理引っ張って行っているなと感じることもある。まあ、時間の制約とかいろいろと「大人」の事情があるというのは分かるのだけれど。

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    投稿日: 2025.11.27
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    様々な人が互いの違いを認め合い、そのうえで誰もが納得できる共通了解に向かっていくこと。理論編には納得できる部分が多かったが、実例を読むと、本当に本質と言えるのか疑問を持った。 「いいケア」とは何かを考える事例では、進行役と四名の参加者によって対話が行われ、最終的に「その人の自覚的・無自覚的な願いを想像したかかわりである。いいケアの実現には、対等性の志向、対話的なかかわり、ケアする人の貢献感が必要である」という結論が示される。しかし、これは本質というより、参加者全員の意見を均等に取り入れた結論に見えた。 企業の例として紹介されているSCSKの経営理念「夢ある未来を、共につくる」の本質観取についても同様で、最終的な共通了解は「不可能が可能になる未来を、私たちはみんなで実現する」というものだった。これは元の理念を言い換えただけに近く、前後でどのような理解の深化があったのか分かりにくい。「理念の本質を言葉にできれば、目指す方向が明確になる」と説明されているが、著者が想定する成果の細かさと私が期待したものとの間にずれがあるように感じた。 この二つの例からは、進行役の限界も見えてくる。役割の性質上、意見の選別や切り捨てが難しく、最終的な結論が当たり障りのないものになりやすいように思われる。 「本質観取」は、宮本常一が記録した「寄りあい」と似ている。村で取り決めを行う際、人々が時間をかけて納得するまで話し合い、地域ごとに意見をまとめ、折り合わなければ持ち帰って再度話し合うという過程は、「本質観取」の集団的な理解形成に通じる。語り手が自分たちの体験に基づいて語ることで、他の参加者にも伝わりやすくなり、意見の対立があっても時間を置きながら考え合う点も共通している。 異なるのは、最終的な責任の所在にある。「本質観取」では結論の責任を参加者全体に分散するのに対し、「寄りあい」では最終的に最高責任者が決定する。この違いが、結論の性質にも影響しているように感じた。

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    投稿日: 2025.11.27