
総合評価
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powered by ブクログ昨日開催された立教大学の澤田直 教授の最終講義に参加するために手に取った。怠けていてイベントまでに読了出来なかったが、なんとか読み終えた。 最近、ヌーヴォー・ロマンやガタリ、デリダなどと、やや背伸びして堅い本ばかり読んでいたので、それに比べると下り坂を自転車で走っているような爽快な読み心地だった。/ ペソアは、ポルトガルの詩人・作家で、70もの人格(異名者)を作って作品を書き分けた。死の前年に出版された詩集『メンサージェン』などを除けば、生前にまとめて発表された作品はごく僅かで、死後二万七千点余りの草稿が衣装箱に残されていた。 いまだに多くの謎を秘めた作家であり、そこがまたペソアの魅力の一つにもなっているのだと思う。/ ◯「プロローグ」: 【詩人はふりをするものだ そのふりは完璧すぎて ほんとうに感じている 苦痛のふりまでしてしまう】(ペソア「自己心理記述」)/ この文章は、《「人間は悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」》(安部公房『第四間氷期』)や、サルトルの『一指導者の幼年時代』に頻出する「ふりをする」を想起させる。/ 以前、ペソアの『不安の書』を読んだが、こういう断章形式の作品は、なかなか読書のモチベーションを持続できない僕のような人間には、すごく相性がいい。 小間切れの読書を許してくれるのだから。 たとえば、ベンヤミンの『パサージュ論』などもそうだ。 なんだか、鉱物の標本を見ているようで、飽きることがない。/ 【ペソアの残した言葉を書き写すのは、なんだか少しだけペソアその人になったようで心地よい経験だ。「引用」は現代の文学の重要な要素のひとつだが、それは共振力が強力に発揮される磁場でもある。つまり、書くことと読むことが交わる場所であり、作者と読者が錯綜する地点なのだ。】/ 僕のような「半引用」にはありがたい言葉だ。/ ◯「少年時代」: ペソアが五歳の時に、父が結核で亡くなり、その翌年弟が死去する。最初の異名者が現れるのはこの頃だ。/ 【彼は孤独な子どもだった。(略)それに加えて、衝動的な激しい怒りと、多くの恐怖が見られた。その性格を要約すれば、知的早熟、時期尚早の強烈な想像力、意地の悪さ、恐怖、孤立の必要。つまり、ミニチュアの神経疾患である。】(ペソアの書いた幼年期の思い出)/ ペソアの性向には、同居していた精神を病む祖母の存在も関与していたようで、彼は自分もまた狂気に捕らわれてしまうのではないかという思いに、生涯つきまとわれる。/ ◯「異名者登場」: ペソアの〈異名〉はどのようにして生まれたのか? 【ある日、私は少々複雑な牧歌詩人をつくりあげ、それをあたかも実在する詩人であるかのように〔略〕紹介して、サ=カルネイロを揶揄(からか)ってやろうと思い立ちました。数日を費やしましたが、うまく仕立てることができませんでした。ところが、それを諦めた日(略)私はふと(略)紙をとって、立ったまま(略)書き始めたのです。そうして、私は、次々と三十篇ほどの詩を(略)一種の忘我のうちに書き上げました。それは本当に私の生涯の勝利の日でした。(略)そしてそれに続いてきたものは、私のうちにおける誰かの出現だったのです。私はすぐさまその人物をアルベルト・カエイロと名づけました。】/ ペソアの異名者は、平野啓一郎の言う「分人」※と、ダニエル・キイス『24人のビリー・ミリガン』における「多重人格」との中間に位置するものだが、単に作品の作者としてだけの存在に留まらず、恋人に異名者名で手紙を送ったりもしている。/ ※「分人」: 一般に、たった一つの「本当の自分」が存在し、様々な仮面(ペルソナ)を使い分けて、社会生活を営んでいると考えられているが、そうではなく、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格(分人)があるのであり、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える考え方。/ ◯「『不穏の書』」: 異名者の一人、ベルナルド・ソアレス(輸入会社の会計補佐)が作者とされている。本書には、澤田氏訳の『不穏の書』 (思潮社、2000年)と、高橋都彦訳の(新思索社、2007年)がある。/ 【都市の孤独な散策者の独白という側面がある。これはイタリアの作家にしてペソア研究の第一人者でもあったアントニオ・タブッキが指摘したことであるが、『不穏の書』には、リルケの『マルテの手記』(一九一〇)に通じる街の描写がある。 ─中略─ ただ、ソアレスには青年マルテのようなストイックな相貌は見られず、疲れた中年の悲哀が揺曳している。こう書きながらぼくの脳裏に浮かぶのは、いまひとりの孤独な書記、ブーヴィルの街を徘徊し、ブルジョワを呪詛する『嘔吐』(一九三八)のロカンタンだ。】/ ソアレスからマルテを想起するというのは、「マルテ」の愛読者ならそう困難なことではないのかも知れないが、ロカンタンの名前はなかなか出てこないのではないか? さすが、哲学者としてサルトル関連本をたくさん書いている澤田氏である。/ 【わたしは何ひとつしたことがない そうなのだ これからもしないだろう だが 何もしないこと それこそわたしの学んだこと すべてをする 何もしない それは同じこと わたしとは なれなかったものの亡霊にすぎない】/ 怠け者の心になんと沁み入る言葉だろうか? このあたりは、なんとなくベケットの登場人物の匂いがする。/ ◯「詩人の恋」: 1920年、32歳のペソアに一大転機が訪れる。 【詩人に遅咲きの初恋が訪れる。当時十九歳だったオフェリア・ケイロスという娘に魅了され、恋に落ちたのだ。】/ せっかくですが、ここを詳しく引用してしまったのでは、ネタバレの誹りを免れないと思うので、ご興味のある方は、ぜひ本書をお手に取って、詩人の恋の顛末をお読み下さい。/ ◯「詩集『メンサージェン』」: 【なにものかであることは牢獄だ 自分であることは 存在しないこと 逃げながら わたしは生きるだろう より生き生きと ほんとうに】(ペソアの、この時期に書かれ発表されなかった詩篇より。)/ ペソアは、ほとんど断章ばかりを残した。 だが、果たして人生は大河ドラマのようなものなのだろうか? 生は、ある日なんの脈絡もなく強制終了となる。 人生は、果たして長編小説のようなものなのだろうか? 人生とは、断章ではないか? ジュゼッペ・トルナトーレの映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のラストで、数々の映画のラブシーンが走馬灯のように流れる。 あれは、トルナトーレの映画への愛を表したものとだけ思っていたが、ひょっとしたら彼の人生観を表したものでもあったのではないだろうか?
2投稿日: 2025.03.08
powered by ブクログペソアとは「誰」だったのだろう。たくさんの異名(別名義)を使い分け、多作を示しつつ同時に忘れがたい大部の『不穏の書』を記してしまった男。孤高のたたずまいを示すこの人物を、澤田直は豊富な資料も然ることながら実に情熱的で精緻な読解を駆使してほとんど丸裸にしてしまう。そこから見えてくるのは実にスットコドッコイというかなんというか、恋をしては空振りに終わったり詩を書いては未完に終わらせてしまったり、到底取り澄ましたところのない男の姿だ。そんな、ある意味発達障害的なスットコドッコイさこそ逆に読者を惹くのかもしれない
0投稿日: 2024.05.27
