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powered by ブクログさすが金原ひとみさん。家に帰る道のりやカフェで座っているだけでも小説感あり。おしゃれなキラキラ生活を綴っているわけではないのですが、なんか素敵。友人から頻繁に連絡が来たり飲み歩いたりフェスに興じたりリア充に見えるのですが、鬱々とした仄暗い空気を終始まとっていて、エッセイなのに読むのに時間がかかりました。
0投稿日: 2025.10.13
powered by ブクログ再読。 不思議なことに、このたった一年半で刺さる文章が少し違っている。 それでもこの本が私のお守りであることには変わらない。 そして、新刊エッセイを早く読みたくてウズウズしている。
4投稿日: 2025.10.11
powered by ブクログ平野啓一郎氏の「文学はなんの役に立つのか」の中で紹介され、興味をそそられ手にした一冊。金原ひとみ氏の名前は若くして芥川賞を受賞されたこと、「蛇とピアス」というキャッチーなタイトルで記憶に刻まれてはいたものの、自分のジャンルではないのかな…好奇心は持ちながらも手にすることはなかった。 一人称で語られる自身のリアルな体験、心象風景を綴ったエッセイ小説… 物書きとしてパリで暮らす日常から見えてくる、夫婦、親子、仕事…. フランスで暮らす文筆家といえば辻仁成氏が思い浮かぶ。一見の旅行者にとっては憧れのパリであるが、実際に家族で生活者として居を構え、異文化の中で出会う人々、発見、トラブル、心の葛藤…テーマは似ていても文体、感じ方は全く違い、興味深い。 私が彼の地に在留したほぼ半世紀前にはインターネットは普及しておらず、今とは人との繋がり方も移動のスピードも情報の量も全く違うものの、異国でぶち当たる文化、習慣の違い、そこから見えてくる「自分」とは本来はどういう人間なのか… 改めて考えさせられる1冊
0投稿日: 2025.10.09
powered by ブクログ文章から彼女特有のひりしりした感触が伝わる。フランスにいても日本にいても、生きることに苦しさを覚えながらもがいて生きている彼女の人生が垣間見える作品。また彼女の周りには浮気をしているあるいはされた登場人物がたくさんいるようだ。
1投稿日: 2025.09.15
powered by ブクログこの方の書く小説のような(ただしドラッグには溺れていない)エッセイ。おしゃれ生活語りかと思いきや、パリの魅力を読者に感じさせない視点が面白い。
5投稿日: 2025.09.15
powered by ブクログこれまた西加奈子さんのポッドキャストを聴いて読んだ一冊。 普通、とされる意見や行き方やしがらみや、自分に対する評価や肯定感なんていらないのかもな、と救われる一冊。衝動やどうしようもないところなんて、どうにもしなくていいと思える。 まるごと自分を愛しましょう、がしたい人はすればいいし、しなくても世界はまわっていく。そんな風に思えた。日々の生活が綴られていて、それぞれの人の人生があって、だからといってこうしたらいい、とかこれが正解、という焦燥や焦りもなく、ただ生きていく。 人生の歩んでいる道は違うけど、こういう文章になぜだかホッとする。 しかし小説家がおすすめの小説を教えてくれるなんて、いい時代だなあ。
1投稿日: 2025.09.09
powered by ブクログどんな方なんだろうと以前から気になっていた金原さん。パリでの生活、フランスの嫌な部分がこれでもかというくらい分かりやすく出ていて面食らった。彼女の周りの不倫率の高さと、小学生の時には友達と万引きしていた話が露骨すぎて、いくらなんでも・・と思った。変な人遭遇率も高すぎないか?幸せだけどずっと生き辛いのは痛いくらい伝わりました。
14投稿日: 2025.08.07
powered by ブクログ赤いカバーがなんとなく目に留まって手に取った。蛇にピアスの人か、むかし読んだな、くらいの知識で読み始めて、一気に読んでしまった。不安定で繊細で、なんだか引き込まれる文章。エッセイは普段読まないので、こんなふうに考えている人もいるんだなと興味深い気づきがあった。逆にわたしってなーんも考えずに図太く生きてるんだな…。ご本人のしんどさを思う気持ちと、不安定さゆえ引き込まれる彼女の生き方、文才と自分の平凡さの対比を残念に思う気持ちと。 お子様はどう育っているんだろう。流石に仮名だろうけど、不倫をしたりされたりしている友人たちのことをここまで細かに書いて大丈夫なんだろうか…(下世話な感想しか浮かばない自分が重ね重ね悲しくなるね) 金原ひとみさんの小説、見かけたら買ってみます。いい読書体験だった。
1投稿日: 2025.06.17
powered by ブクログ人が、というよりも、鬱が文章を紡ぎ出している。著者が、小さい頃から存在してはいけない人間だと自分自身を思っていた。虐められるといった原因はとくにないのに、思考がそのように回っていくのはさぞかし苦しいだろうと思う。私などは小さい頃は今現在よりも死ぬということがとても恐ろしく、布団の中で悪いことばかり想像してしまった。祖母がお風呂場で足を滑らせ死んでしまわないか、そんな考えてもどうしようもないこと、自分が死んでしまうことではなくて近しい人を失うことへの不安が大きかった。こう考えてみると、著者はなによりも自己に関心がある人なんだなと(多かれ少なかれ皆そうだが)。恋愛至上主義と認めているのも、男好きなどという範疇を超えて、恋愛によって自己肯定ができるためなのかもしれない。自分、自分、肥大した自分。 フェスによく足を運んでいるとのことだが、好きなバンドはなんだろう?気になる。好きな音楽があり、飲み友達がいて、目の回る毎日があり、悩んでいる自分を見つめられ、私からは著者はとても幸せそうに見えるが、「あの人は幸せだ」という烙印は他人が押してはいけないのだよね、きっと。魅力的な文章で埋没できた。著者と会って話したとして私との会話ではどのように著者の心は動くのだろう?そんな興味を持った。
7投稿日: 2025.03.23
powered by ブクログ金原ひとみさん、とても危うい感じのする方。 パリでも東京でも鬱傾向が強いのか、とても不安定。この状態で幼い娘さんと母子生活をされてたなんてすごい。 あまり共感できる部分はなかったのだけど、この繊細さが紡ぎ出す文章には心惹かれるものがあった。 恋愛で救われるタイプだと仰っているので、どうか幸せになって欲しいなと思う。 読み終えて、著者の幸せを願うって不思議な感覚。
35投稿日: 2025.01.11
powered by ブクログ金原ひとみのエッセイ読んだ。慢性的な鬱を抱えてる感じが共感した。 日本では同性愛が認知されてない無いものにされてるような感じがするし、フランスでは、男性も女性も同性愛が特別視されてない感じが、アート、映画、人々の交友関係で分かった。(例えばyvanさんが街中で再開した女性と小話した後に、あの子バイセクシャルだよ。とかからかいとかがない普通の感じで言ってたり) 日本で同性愛って言うと、注目されたいだけとか言う必要無いとか、若いと一時の気の迷いとか、男性嫌悪とか、そういうのばかり言われてきて、内面にずっと悲しみを溜めてきた感じを改めて自覚した。 金原ひとみ 東京都出身。文化学院高等課程中退。小学校4年生のとき不登校になり、中学、高校にはほとんど通っていない。小学6年のとき、父親の留学に伴い、1年間サンフランシスコに暮らす。小説を書き始めたのは12歳の時。15歳のころリストカットを繰り返す[2]。中学3年生の時、父が法政大学で開いていたゼミに、「めいっ子の高校生」として参加。19歳の時、周囲の勧めを受けてすばる文学賞に応募した。 2003年、『蛇にピアス』で第27回すばる文学賞を受賞。 2004年、同作で第130回芥川賞を綿矢りさと共に受賞。 2005年、集英社の担当編集者と結婚。 2007年、アニメ映画『カフカ 田舎医者』で映画初出演。第1子(長女)を出産[3][4]。 2010年、「夏旅」で川端康成文学賞最終候補。『トリップ・トラップ』で第27回織田作之助賞を受賞[5]。 2011年、東日本大震災に伴って発生した原発事故による放射能汚染を心配して、東京から父親の実家がある岡山に移住し次女を出産[6]。その後フランスへ移り住む[7]。 2012年4月11日、NHKのトーク番組『スタジオパークからこんにちは』にゲスト出演。生放送への出演は自身初。 2012年、『マザーズ』で第22回Bunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞(選考委員:高樹のぶ子)[7]。 2018年、帰国。 2020年、『アタラクシア』で第5回渡辺淳一文学賞を受賞[8]。 2021年、『アンソーシャル ディスタンス』で第57回谷崎潤一郎賞を受賞[9][10]。 2024年、離婚したことを公表した[11]。 家族・親族 父は児童文学研究家・翻訳家・法政大学社会学部教授の金原瑞人[12]。 母方の祖父母はともに千葉県大多喜町の歌人であり、祖父の短歌は国語教科書に掲載されたことがある[13]。 パリの砂漠、東京の蜃気楼 (ホーム社) by 金原ひとみ 幼い頃から、あらゆるものが怖かった。ニュースで流れる火事の映像、友達らが噂するノストラダムスの大予言、下校途中に声をかけてきた痴漢、それらへの恐怖で死んでしまうのではないかと思うほど怖くても、逃げられない日常がいつも目の前にあって、日常は怖がる私をまた被膜になって覆う。恐怖と日常のミルフィーユは何重にも重なり、生きれば生きるほど、何も見えなくなっていくように感じる。目を閉じてシャワーを頭のてっぺんから浴びていると、ウォータースライダーのようにどこかに滑り降り新しい世界に生まれ落ちるような気がした。目を開けたくなくて、何も見たくなくて、夫からも日常からも世界からも逃避してしまいたくて、それでも私は目を開けて、また一つ曇った世界を、ミルフィーユを軋ませながら生きていくのだろう。 昔フランス語の先生が、二〇〇三年の猛暑の際、フランス全土で熱中症により約一万五千人が亡くなり、遺体を安置所に収容しきれず、市場や冷凍トラックを仮の安置所として使っていたと話していた。フランス人は夏の間長期旅行に出かけることが多いため、バカンスに行けない世代の多くの老人たちが孤独死を遂げたのだという。 そう注文してから飲み物のメニューに目を走らせる。暑い時は大抵ロゼか白ワインを頼むが、パリはもう暑くない。鴨を頼んだのだから赤にするのが正解なのだろうが、今日の気分に赤は重すぎる気がした。モヒートにでもしようかなと思ってふと騒がしいテラスの方を見ると、二十代くらいの若者たちが揃ってスプリッツを飲んでいるのが見えて、スプリッツくださいと私はメニューを閉じて言った。私はアリゴテをグラスで、と続けたアンナが珍しいねと顔を上げて言う。 彼の提案に私たちは同意し、すぐ近くにあったゴンドラ乗り場から乗り込んだ。十二時を過ぎていたため辺りには他のゴンドラや船はほとんどおらず、真っ暗なしんとした空気の中で、ちゃぽちゃぽという水の音とオールが立てる鈍い音が響くばかりで、イメージしていた陽気なゴンドラとは全く違う雰囲気だった。どこそこにこんな美術館があって、あの辺りにこんな教会があってねと教えてくれる彼に、どうしてそんなにヴェネツィアに詳しいんですかとコーディネーターの女性が聞くと、実は昔付き合っていた彼と一ヶ月バカンスでヴェネツィアに滞在したことがあるのと彼は告白した。一ヶ月恋人とヴェネツィアで過ごすなんてあまりにも遠い世界の話のような気がして、思わずいいなあと声をあげた。十年前、仕事のついでにヴェネツィアに一泊した時、着いた途端に高熱を出したのを思い出す。記憶に残るのは、ベッドの中で聞いていた、夫が苛立ったまま保険会社に問い合わせをしている声だけだった。 今の私には、彼女の言葉はひどく無責任で、残酷に感じられた。手を振ってまたねと言ったけれど、もうしばらくアンナには会えないような気がした。妊娠出産は、時に女友達と距離を作る。そんな乾いた感想が頭を過った。 少なくとも今日、原稿に関しては煙に巻くことはしなかった。でも私は一体どれだけの感情や他人を欺瞞し煙に巻いているだろう。自分にも他人にもどれだけ不誠実な存在だろう。自分が誠実であったことなど一度もなかったくせに急にその事実が重たく感じられた。人は何かしらの脅威を感じると途端に感傷的で偽善的になる。あの絡み合っていたカップルや憂鬱そうだった二人の女の子たちも、今こんな風に自らの無力感に思いを馳せているのだろうかと考えると少しだけ愉快になったけれど、すぐにまた虚しくなって時計の針の音に耳をすませ天井の梁に走る木目を数え始めた。 充電が少なくなり文字入力の反応が間延びし始めた MacBook を前に、何度も後ろを振り返る。図書館は長時間滞在する人が多く、コンセントのある席は二時間経っても全く空きが出ない。いつもだったらコンセントのある席が空いていなかった時点で引き返し、コンセントの充実したスタバに行くところだが、年末に向けて早めに終わらせたい仕事があった。少なくとも二十九日か三十日には終わらせ、大晦日にはどこかに行かずとも大掃除や張り切った料理をしたかったのだ。だからこそ、コーヒーとマフィンの匂いと人々の笑い声、浮ついた空気、そういうものと遮断された所でじっと仕事をしていたかった。買ってから七年近く経つ MacBook は二時間のワード使用ですでに 98 パーセントから 50 パーセントにまで充電を減らし、打ち込むたび反映に時間がかかり苛立ちは募りきっていた。しかも近くのカウンターで本の貸し出しを担当している男が、人が本を借りるたびに「Bonne étude.(勉強がんばって)」と馬鹿の一つ覚えのように一定のトーンで繰り返すのが癇に障った。 それは私の管轄じゃない。それは私のせいじゃない。というのはフランスの事務手続きを一つする時に五回くらい聞く言葉だ。実際に縦割り社会で、警察署や市役所などの大きな機関では自分のやる仕事以外はなんにも把握していない人がほとんどで、全体を把握している人がどこにもいないのだ。城に測量師として雇われて来たのに延々城に入れないというカフカの「城」が書かれたのも、こうした理不尽な体験が元になっていたに違いない。 真面目でお姉さん気質のリラと、お調子者のアルティネが喧嘩をする様子を想像しながら、すぐに仲直りするよと私は笑った。リラはイラン人の両親を持つイギリス生まれのフランス育ちで、アルティネはセネガル人の両親を持つフランス生まれのフランス育ちだ。両親の国籍も、生まれた場所も肌の色も違う女の子たちが、コーランの暗唱でそうして小さな諍いを起こしているのが、宗教に触れずに育った私には可愛らしく感じられた。そうして宗教や国籍、人種が入り混じったクラスの中では、『 スランプ』や『FAIRY TAIL』、『よつばと!』などジャンルもへったくれもなく日本の漫画が流行っていて、テレビで流行っているのはティーンネイジャー向けのコロンビアのテレビドラマで、おもちゃで流行っているのはフランスの小学校最上学年だというのにスライムだ。スカイプのチャットもどんな話してるの? と隣から覗き込むと「お昼ご飯にスパゲッティボロネーズ食べた」「うそ! 私もー!」などのたわいない話ばかりだ。 ある晩、すっかり熟睡していた私は、また突然の胃痛で文字どおり飛び上がって目を覚ました。それまでとは一線を画す格別の痛みで、もんどりうち脂汗をかきながら、今私がここで死んだら子供二人はここで餓死してしまうかもしれないと恐ろしくなるものの、連絡できる人は誰一人思い浮かばなかった。そもそも救急の番号も分からない。今ここで救急車を呼んだ場合、子供たちは一緒に連れていけるのだろうか。救急隊員だってまさか幼子を放置してはおかないだろうが、私が処置を受けている間あの子たちはどこで誰が見ていてくれるというのだろう。内臓をアイスピックでぐちゃぐちゃに刺されまくっているような痛みに呻きが漏れ、服が汗でじっとりと湿り、心細さと情けなさに涙が出た。三十分ほどで痛みが治まると、へとへとになったまま夫にスカイプで発信し、今後頻繁に連絡をしてくれ、連絡が取れなくなったら私は死んでいる可能性があるから、こっちのポリスに連絡して子供たちを保護するように指示してくれと遺言を伝えたが、とにかくいいから病院に行けと説得されとうとうネットでパリの病院について調べ始めた。 理由があろうがなかろうが鬱は鬱で、理由があったところで解決できる問題ならそもそも鬱にはならないため、理由がある鬱もない鬱も特に違いはない。アンナに帰国前に一度ランチに行こうと誘われ、久しぶりだねと心躍らせていた時とは全くテンションが違っていた。評判がいいという新しいレストランで待ち合わせを決めてから一週間、私はすっかり鬱になっていた。家を出ることもメトロに乗ることも笑うことも話すこともメニューを選ぶことも全てが辛かった。本当は布団に潜ったままじっと虚空を見つめていることでしか精神が保てないほどの鬱なのに、力を振り絞ってマレ地区まで足を伸ばし小洒落たレストランに到着した私は、とにかくこの鬱のせいで相手に嫌な思いをさせたりせず、穏便にこの食事を終えたいという一心で無理やり笑顔を作る。 皆私のことを嫌いになる。いつか見捨てられる。この確信がいつから芽生えたのか分からない。この歳まで誰かにいじめられたり手ひどく裏切られたり見捨てられたこともない。それなのにこの確信があるのは、私自身が自分を嫌いで、見捨てたいと願っているからなのだろうか。今周りにいる人々は、常に自分を好きでいてくれる人ばかりだ。それなのに生きていることに激しい罪悪感がある。払拭できない覆せない罪悪感がある。生きているだけで何かの害悪でしかありえないという確信がある。善悪の境目すら把握していないのに、ただ自分が害悪であるという確信だけがある。もっと自分に強固な理性があれば、こんなことにはならなかったのだろうか。「理性的な人間は鬱にならない、鬱は非理性的な人間の病だ」。昔の彼氏に言われた言葉を思い出す。この人は理性を失うほどの世界に遭遇したことのない井の中の蛙なのだとその時は嘲ったが、今は思う。私は何故常に理性を失い続けているのだろう。どうして三十四年間、理性を喪失したまま生きてきたのだろう。私の人生は足を踏み外し続けることで無理やり転がり続けてきたようなものだった。 返事を書いている途中に入った二通目に、思わず手を止める。書き途中だったメッセージを消し、「家庭にも社会にも居場所のない人の寂しさはどうしてもそういうところに向かってしまうのかも」とまで打ってやはり消す。「誰かと肉体的な関係を持つことでしか解消されない寂しさもあるのかもしれない」とまで打ってやはり消す。その男の肩を持つつもりなんてないのに、出てくるのはそんな言葉ばかりで、打てば打つほど己の間抜けさを露呈している気分になる。液晶の上で指を右往左往させていると、三通目が入った。 目覚めた瞬間スマホを確認するようになって、もう何年になるだろう。LINEとスナップチャット、メールを確認すると、ポケモン GO を開いてポケモンを捕まえ、最後にツイッターを開きいくらかスクロールしてから、またゴロゴロする。それが私のほぼ毎日の日課だ。二度寝をしようかどうか迷いながらツイッターをスクロールしている途中、セクハラという文字が目に入り自動的に動画が無音のまま開始する。テレビの情報番組で女性たちが男性芸人から暴力と辱めを受けながら、笑顔を絶やさず対応している動画だった。眠気と怠さと嫌悪で呻き声をあげながら最後まで見て死にたくなってスマホをロックする。ここ数年日本のバラエティ番組やワイドショーを見ると死にたくなる。新居に越して改めて買い直したテレビは、配線が足りなかったのもあって、BSとネットに繫いだだけで地上波は接続していない。地上波を繫ぐケーブルは死への架け橋。 フランスでは、酒瓶を持った男性に娼婦呼ばわりされようが、感じの悪い店員や不動産屋に邪険にされようが、ラリっているのか頭がおかしいのかいわゆるヤバい人にすれ違いざまに怒鳴りつけられようが蠅が飛んでいる程度にしか感じなかったのに、日本に戻って以来外部からの刺激に過敏になっている自分を実感していた。日常が穏やかすぎる故の、刺激への耐性の低下。フランスの男性には感じなかった、日本の男性の高圧的な態度。いや、そんなレベルの話じゃなく、もっと強烈に、生きているだけで四方八方から侵害されているような閉塞感がある。 笑いながら言うと、いやおじさんは無理だよーとサラリーマンはまだまだ絡みそうな雰囲気だったけれど、同僚らしき人に引っ張られてどこかに消えた。何で私は苛立ったのに笑って答えたのだろう。フランスだったら、私は気分を害したことを隠さず、相手を睨んだ後無視して通り過ぎただろう。なぜそうしなかったのかと言えば、日本でそんな態度をとったらまるで子供っぽいと思われ一層軽んじられるからだ。 結局私も、テレビ番組でパワハラセクハラをされても笑ってやり過ごした女性たちと同じで、彼らの土俵に「立ってやるか」と笑ってやり過ごす女なのだ。そうだだから、私は彼女たちを見て死にたくなるのだ。 Arrête!(止めて!) Dégueulasse!(気持ち悪い!)」と叫んで彼を突き飛ばした。反射的に出たフランス語に驚いていた。日本に帰国して以来初めてフランス語を口にした瞬間だった。突き飛ばされても尚ヘラヘラしている男に舌打ちをして背を向け、さっきよりも早足で駅に向かった。こんな怒りを感じるのは久しぶりだった。信じられないほどの怒りなのに、泣きそうだった。 好きな男に泣きついて慰められたい、フランス語が出たのと同じくらい自然にそう思っている自分に気づいて情けなくなる。ずっとそうだった。良くも悪くも私の感情を振れさせるのは男でしかない。男に傷つけられて男に助けを求めてばかりいる自分は、小説を書いても子供を産んでもフランス語を勉強してもいくら新居や生活を整えても空っぽだ。どんなに丁寧に積み重ねても、テトリス棒で四段ずつ消されていく。積み重ねたものは必ずリセットされ、この身には何も残らない。 フランスで友達と食事をする時はほぼ必ず割り勘にしていた。フランスでは夜に仕事を持ち込むことがほとんどないため、ディナーは基本的に友人同士やカップル、家族で赴く。そして友人同士でも恋人同士でも奢り奢られということはあまりない。恋人同士であっても、奢るということは金銭が介在する卑しい関係という印象が強いのだという。カップルの内どちらか一人がディナーで支払いをするということは、夫婦かそれと同等、あるいはどちらかが買われている間柄といった印象を与える。日本文化に慣れ親しんだフランス人はもちろん、仕事でディナーに訪れる男女がいることを知っているはずだけれど、ビストロ風の店構えの前でフランス語で話している内に、何となく自分が立場の弱い女性のように感じられ憂鬱になっていく。 当時絶賛鬱祭りで精神安定剤や抗鬱剤を乱用し、摂食障害で体重が減りに減り生理が止まってホルモン治療を受け、心身ともにぼろぼろだった。カミソリで身体中を削りながら生きているがごとく、生きれば生きるほど痩せ細り、生きれば生きるほど全ての症状が悪化した。もう自分を保つことはできないのかもしれない。何をもって保つというのかも分からないまま漠然とそう思っていた。新婚で、小説も書けていた。嫌いな人や嫌いな仕事も特になかった。何が辛いのかも分からないまま、生きていくのが不可能であると思い知らされ続けているような日々だった。 それでも、新幹線に乗り東京に帰る間、そのバンドのセトリでプレイリストを作って聴いている内に感傷的になって、アンコールの曲が流れてきたらやっぱり泣いた。どんなに生きづらくてもこの生きづらさが死ぬまで続くのだとしても、あのバンドが存在するこの世に生まれてきて良かった。原発事故避難していた彼女と岡山で偶然出会い読書体験を聞いたこと、その後移住したフランスで後にフェスに誘ってくれることになる友達と出会ったこと、人と人、記憶と現在が繫がりこうして再び音楽に泣ける日が来たこと、全てに感動していた。 ツイッターをスクロールしながら思わず歯を食いしばっていることに気づいて意識的に力を抜く。途端に周囲にいるスーツ姿の男たちが憎く思えてくる。普通に働くことを当然の権利だと思いやがって! お前らのその保障された社会生活が私たちにとってどれだけ貴重なものか理不尽なリストラでもされて思い知るが良い! こうして女は男を憎み、男は女を愛せなくなる。保育園問題一つ解決できない状況を見ていると、この国を覆う無力感の理由がよく分かる。 仕事という要素のない人生でアイデンティティを構成するとしたら、子供や夫からの愛や、美味しいご飯を作れて家を綺麗に保てる、よくできる妻、母という定型化した肩書きといった所にそれを見出すしかなく、夫との関係が破綻してしまった彼女が別の人に穴埋めを求めるのは当然の流れと言える。同じ専業主婦でも、夫との関係は破綻していて子供にも疎ましがられてるけどそれでも気にせず家事やって生きていくという割り切った人もいるけれど、女を捨てられないと言い切るその迷いのなさにのみ、私は彼女らしさを見ることができたような気がしていた。 手に切り傷があるんじゃないかと両手を二度見するくらい寒かった。イヤホンから流れる音楽がふっと薄れ、ポコンとLINEのバカみたいな通知音がして、震える手でスマホをアンロックするとレイナから「結局帰り道でLINEしちゃった」と入っていた。そっか、と呟いて私はスマホをポケットに入れる。大人になっても仕事をしても親になってもこんなに寂しいなんて思わなかった。こんなにも癒されたくて、こんなにも誰かを求めてしまうなんて思わなかった。 すぐにもう一度ポコンと音が鳴ったけれど、レイナからの連投を読む覚悟がなかなかできず、ポケットに手を入れたまま見渡す限り誰もいない道を、イヤホンから流れる曲に合わせていつもより少し大きな声で鼻歌を歌いながら家に向かって歩き続けた。 時代や土地の違いによるものが大きいのだろうが、私が彼女の年の頃にはすでに筋金入りの不登校だったし、ぬいぐるみなんて一つも持っていなかったし、友達と化粧品を万引きしたり、立ち入り禁止のマンションの屋上とか非常階段とかでこの世界に絶望して飛び降りようか悩んだり、小説を読んで現実逃避したりしていた。 スーパーで買い物をしている途中、ふと思い出したように次女が言う。思わず笑って叩かれてるかもねと答えると、次女は自分が叩かれているような苦痛そうな表情を浮かべる。夫は昨日から修行道場に三日間の修行をしに行っているのだ。フランスにいた頃、向こうで一銭も稼いでいなかったくせに日本への帰国を嫌がっていた夫が唯一日本に帰ったらやりたいこととして挙げていたのがこの修行道場に行くことだった。 「カオナシみたいな男がいたら私は絶対好きになるね」 カオナシが可愛いと言う次女に共感してそう言うと、「私はいや。だって気持ち悪いじゃん」と長女が言う。次女は私と同様こたつから出られない系なのだが、長女はあまりこたつに入らないどころか家に留まらず外にガンガン出て友達と遊びまくる系で、同じ親を持つ子供であっても性格や好みは生まれ持ったものなのだなと最近 頓 に痛感する。次女は「テラスハウス」が好きでよく見ているのだが、男性の新メンバーが入ってきた時の反応を見ていて私と男の趣味が同じだと気づいて以来、未来への不安が高まっている。一般的には、カオナシキモい! と言ってのける女の方が堅実な男と結婚しそうだ。 旦那不在の三日間で意外なほど書き溜まった原稿にほくほくした気持ちではいたが、帰宅日になるとわくわくしているのも事実で、いつも何を食べているのか分かっていないであろうブルドーザーのような食べ方をする旦那のため、昨日の三倍くらいのおかずを作って彼を待った。 「パパの声かわいい!」 次女が旦那の掠れ切った声を聞いて嬉しそうに言う。どうやら次女は男性の情けないところや弱いところを「かわいい」と認識する思考回路があるようで、まるで自分を見ているような気持ちになる。 へとへとな彼は瞼が重そうで、子供達はまだリビングで TWICE を踊っている気配であるのに、今にも眠ってしまいそうだった。基本的に鬱は早起きや掃除や武道や水行をすれば治ると思っている旦那と、早起きや定期的な掃除、武道や水行をするような人は鬱にはならないし鬱な人はそんなことできないし、そんなことをするくらいなら死ぬと思っているのだと主張する私は、一生分かり合えないだろう。それでも重なり合った部分はあって、その部分のかけがえのなさを思うたび、私はこの人と一生離れられないような気がする。この人とは離婚するほかなさそうだ。そういう判断を下したことも何度かあったけれど、彼のかき鳴らす雑音に揉まれている内、意外なほどその雑音に私の憂鬱や死にたみが紛れていることを自覚した。永遠に分かり合えない人と一番近いところで生きることこそが、きっと私にとっての修行なのだ。 ウィーンと倒れていく施術台に寝そべりながら、本日もいつも通りCカール百四十本でよろしいでしょうか? と聞く店長の長野さんにいつも通りでお願いしますと微笑む。美容師と世間話をしながら、新刊のインタビューを受けながら、子供達の担任と彼らの学習や教育について話しながら、気心の知れた友達と飲みながら、常に人と向き合いながら、激しい乖離を感じる。音楽を聴いている時、きっとその乖離が軽減されているのだ。中毒になるものというのは、往々にしてそういう性質のものなのかもしれない。自分との融合を感じられる瞬間が、脳を溶かすのだろう。でもそもそもどうして自分がこんなに乖離しているのだろう。 つまり依存体質でない人間というのは、自分自身の中に乖離を感じていない人なのかも知れない。そう考えるとこれまである種の人々に対して感じてきた違和感が少し解消された気がした。一本一本まつげにエクステを接着されながら寝落ち、ビクッと起きてはエクステが瞼の隙間に刺さり、染みる接着剤に涙を滲ませる。すみません、という長野さんの言葉に、いえ、と答える。自分が悪いのだ。自分の責任だ。この人生の全ての根拠は自分にある。人生に対する強大な無力感に、そんな思いが被さる。 四月一日から、彼はこの手を使ってナンパを続けているのだろうか。だとしたら、何日目までこの手を使い続けるつもりなのだろう。終始イヤホンを外さないまま呆れ笑いをしながら手を振ると、彼はノリ良くじゃあね! と笑顔で手を振った。日本のナンパはなぜこうもバカげているのだろう。フランスではこういう手合いは全くなかった。彼氏はいる? 結婚はしてる? どこかで食事かカフェでも。フランスでは皆大真面目にそうやって声を掛けてきた。だから私も大真面目に結婚していることを伝え、食事には行けないと答えた。日本の馬鹿げたナンパはもはや文化と言っても良いかもしれない。 異国に暮らす移民たちにとって家族というのは大きな心の支えであり、それだけで自分を肯定してくれる存在となる。少し前に読んだ、海外生活について書かれた記事を思い出す。 過酷な異国生活の中でも、私にとって家庭はアイデンティティになり得なかった。家庭とは、成り立たせ回さなければならないものだった。自分は家庭が倒れないように回り続ける歯車でしかない、その思いが 鉋 のように、硬くなった皮膚を鋭くリズミカルに削り続けているようだった。 音楽が止まっているのに気づき、もう一度アルバムを最初から流す。また止まっているのに気づいて、また流す。そういうことを続けながら、こうして緩やかに鬱になり、緩やかに回復しては、やっぱり生きたいと思ったりやっぱり死にたいと思ったりして生きていくしか、残された道はないのだろうか。 こんな自分になるとは思っていなかった。あの質問を聞いて以来、何度もその言葉が胸に湧き上がる。 「ねえ、パパはママの他に好きな女の子はいるのかな?」 出がけに発せられた次女の唐突な質問に思わず笑ってしまう。 「どうだろうね。ママには分からないよ」 「ママはパパの他に好きな男の子はいる?」 「いたらどうする?」 「そしたら私は自分にナイフを刺して死ぬよ」 アカリの下ネタに笑ってワインを飲み干しながら、少し前に旦那に浮気されたと相談してきた友達が、「私精液飲めないから浮気されたのかな」と憂鬱そうに漏らしていたのを思い出す。リポスフェリックっていうジェル状のビタミンCは精液の十倍は不味いとか、メニエールになった時処方されたメニレットって薬は百倍不味かったとか、ピータンの方が味の方向性としては無理かもとか、くだらない話をしている内に、微かに湧き上がり始めていたアカリへの違和感は綺麗に忘れ去られていた。 「彼女みたいに全てを手に入れてる系の人が夫婦関係だけ破綻してるから、不倫相手と結婚したいと思わないのかなって思ったんだけどね」 「家庭壊したくないって気持ちは分かんで。私も子供たちが懐いてるっていうのが離婚せえへん大きな理由やし」 恋愛至上主義が過ぎると、夫にも言われたことがある。そんなものは古いイデオロギーでしかないのだと。それでもユミから出てきた言葉は意外で、「へえー」と間の抜けた声で微かな反論をする。 「あんたやって仕事とか子供とか大事やろ? 恋愛だけが人生やないやろ?」 「もちろん仕事も子供も大事だよ。でも恋愛っていう要素は全てのベースになってると思わない? 恋愛がうまくいってる時ほど仕事も含めて人生が快調に稼働する感じしない? 夫婦関係悪い時とか彼氏と喧嘩した時とか、色々詰むじゃん?」 「そんな、恋愛してない人たちを丸っと敵に回すようなことよう言えんな。童貞率めっちゃ上がってんの知らんの? 最近めっちゃ上がってるらしいで知らんけど。そんな世の中恋愛恋愛してへんで。そんな生き方してて、いつか恋愛できへん年になったらどうするん。生き甲斐なくなんで」 「そうかな。私は親に全く甘えない子供だったし、物をねだったりもしなかったよ」 「そうじゃなくて。やりたくないことは絶対にやらなかったって。幼稚園に無理やり連れて行こうとすると服を全部脱いで拒否したとか、とにかくわがままを押し通すためには何でもする子だったって」 服を脱いで登園を拒否した記憶は残っていなかったけれど、小学校低学年の頃、母親に襟首を引っ張られて廊下を引きずられ、クラスに放り込まれた記憶が蘇った。あの時皆に注目されたまま席に着いた後、私は怒りに震えていた。彼女が気分によってそういう暴力的な対処をする人だと知ってから、彼女の機嫌が悪い時はきちんと家を出て下校時間まで公園なんかで時間を潰すようになった。感情や気分で態度が変わる彼女を、私は心から憎んでいた。 「死ねばいいんだろ? 死んでやるよ!」 恐らく一番激しかった母とのつかみ合いの喧嘩が脳裏に蘇る。何を責められていたのか叱られていたのかは覚えていない。とにかく母に罵倒された私はそう怒鳴り、怒鳴った瞬間に引っ叩かれた。あまり思い出せないが、小学校四年か五年、今の長女よりも小さかったはずだ。引っ叩き返したのはあの時が初めてだったような気がする。引っ叩いたあと、母の首を摑んで揉み合った。死んでやるよと怒鳴りながら、もう殺してくれればいいのにと思っていた。 子供時代は、最も生きづらい時代だった。ただ苦しいだけの日々が延々続いていた。楽しかったと思える日は一年の中で七日くらいしかなかった。常に最悪の事態や、嫌なことや、最低の未来を考えていた。きっと私は恋愛によって救われたのだ。個人として、一対一で誰かと向き合い、求めたり求められたりすることで、生きる意味を自分の中に構築していくことができたのだろう。ぼんやりと幼少期の頃を思い出しながら、合点がいった。どうしてか分からないけれど、私はもともと生きづらかった。生きづらさのリハビリをしてくれたのは、母親や家庭ではなく、恋愛であり、小説だった。わがままと捉えられるすべての行動は、生きるためだった。服を脱いだのも死なないためだった。でもそれは多くの人にとってわがままなのだろう。そしてわがままとして捉えてもらった方が、私にとっても楽だったように思う。 でも考えてみれば、付き合ってきた全ての男に必ず一度は「だめだこりゃ」感を抱いてきた。男というのはそういうものなのか、それとも私がそういう男とばかり付き合ってきたということなのだろうか。でもきっと、付き合ってきた男たちからすれば、お前に言われたくないの一言に尽きるだろう。 カブトムシを見ながら、不意に時代の移り変わりを実感する。どんどん人間的とされるものが女性化されていき、それをはみ出すものが排除されていっている。今や犬や猫は名誉人間となり人間と同等の権利を求める声が増え、あらゆる動物に対する虐待への批判が高まり、捕鯨に関しても賛否両論ある。どこまでが自分たちの仲間であるかという基準で命の重さを決めて良いのか、最終的にゴキブリなどの害虫にも安全な生活を営む権利を与えるべきなのか、感情を優先すべきなのか、生態系を重視するべきなのか、生態系という観点から考えた時、地球上の人間は適正な数と言えるのか、権利を与えるという思考に陥っている一生物である人間の驕り、そこに立ちはだかる自然淘汰という言葉、最も遠い存在であった「虫」という存在と共存することになった今、私は改めて自分の存在価値を考える。公害ピエロの私と、私に潰される蚊やゴキジェットで殺されるゴキブリとを分ける線なんていうものは存在するのだろうか。 メスに逃げられてばかりのオスを見ていたら成功例が気になって「カブトムシ 交尾」で動画検索をすると、締め切りの明けた私は深夜のリビングで二時間以上もカブトムシの交尾を眺めていた。カチャカチャいう硬そうな音以外は意外なまでに予想通りで、人間のそれをスロー再生しているものとそんなに変わらないように見えた。 思えばずっと泣きそうだった。でもずっと幸せでもあった。この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。でも夫に殺されたいと願うことが増えた。もうすぐ長女は十二歳になる。毛足の長いカーペットに染み込んだペンキのように、幾重にもわたってぶちまけられ続けた愚かさの染みは消えない。あの時あんなに幸せだったのにと思い起こされる幸せは全て幻想だと知っている。ずっと泣きそうだった。辛かった。寂しかった。幸せだった。この乖離の中にしか自分は存在できなかった。
0投稿日: 2024.12.23
powered by ブクログ金原ひとみの本を読むのは初めて。現代女性の鋭い感覚と描写に驚いた。繊細な感性の人なのだろう。他の本も読んでみたい。
0投稿日: 2024.12.21
powered by ブクログ愛すること、愛されること。女である資格。その前に鼻にピアスを通さないと済まない自己顕示、それも習慣化すると別の武装となり…赤裸々に、真摯に文章化する。帯の平野啓一郎の評になる。でも、私は非難があるかも知れないがイブの原罪性をみた。出家する前の寂聴さんみたい。
8投稿日: 2024.10.06
powered by ブクログ絶えず見え隠れする「自責の念」「存在することへの疑い」「自分の中の乖離」。 自己嫌悪に陥る心の動きがすごくよくわかる。前向きになったと思ったらまた気持ちが塞がって、という浮き沈みを繰り返し、全くどこにも進めないように感じる。 私がなんとなく感じていたことが言語化されていて納得する部分が半分と、私よりも金原さんはもっともっと繊細で自己矛盾に苦しんできたんだと感じる部分が半分くらい。 あと自分の性格や感じることに対して、何か理由をつけて説明をしたり、経験と紐づけなくてはいけないような感覚は ー辛い過去がないと鬱になっちゃいけない ー自己嫌悪は誰かに見捨てられたから 受験や就活や日常のいろんな場面から植え付けられるけど、でも別に自分が感じることに理由なんていらないんだと思える。
0投稿日: 2024.08.28
powered by ブクログ「天才は孤独」という言葉が浮かぶ。 彼女の鋭敏な受容体は常に自身を 誰もたどり着けない地獄のふちに追いやるけど、 その類まれな感覚と言語化能力によって あらゆる人の心のひだをなぞり、 無理やり作ったかさぶたをはがして 血が流れる感覚を思い出させてくれる。 彼女の小説はいつも主人公が自傷しているけど このような思考回路から生み出されているのか・・と 淡々と読み進めた。 常軌を逸した原罪意識に 凡人の私はところどころついてゆけず 気を抜くと目が文字の上を滑る。 なんかこの感覚の鋭さ、生きづらさ、 宇多田ヒカルを彷彿とさせる。
0投稿日: 2024.06.14
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
金原さんの小説はきつすぎる。エッセイの方がマイルドで読みやすかった。 ↓ 激しく共感‼️ 子供を産み激しい育児をしていた頃の私は元来の私ではなく、子供たちの手が離れるにつれ元の自分に戻っていった、という意識が拭えない。
0投稿日: 2024.06.12
powered by ブクログ最初読み始めた時、これエッセイなん?痛々しく、自分の負の感情を浮き彫りにされる、、、と辛くなった。 しかし、読み進めると、この切り裂くような言葉が結構中毒的に心に刺さった。
0投稿日: 2024.06.06
powered by ブクログ以前にも読んだような気がするのですが、ブクログに登録がなかったので改めて。 たまたま個人的に体調が悪く、気持ち的にも落ち込むことが続いてるタイミングで読んだのですが、こういうときに金原ひとみのエッセイはちょうど良いのだと発見でした。 落ち込み気味な時は金原ひとみに頼るようにします。
1投稿日: 2024.03.14
powered by ブクログこれまで読んだどのエッセイよりも抉られた。どのページを開いても鋭く濡れた刃物で切り付けられるような痛みが走る。「瞬間的な心の充足ではなく、恒常的な魂の充足などあり得るのだろうか」この一文に泣いた。
1投稿日: 2024.01.12
powered by ブクログ金原ひとみの書く文章が、とても好きだ。 用いる語句や表現の全てが、まさにその言葉でしか表現ができないだろうという絶妙な構成で仕組まれているように感じる。 他の作品のような物語も良いのだが、自身の事やその日常語るエッセイにこそ、その真価を発揮しているのではないだろうか。 図書館で借りた本だったが、読後本屋で購入した。
2投稿日: 2024.01.04
powered by ブクログ一歳と四歳の娘とのパリでの母子生活、突然の帰国、そして東京での混迷する日々。苦しみながら、ダメになりながら、なんとかギリギリ生きている。そんなところまで書いてくれている。だからこそ金原さん自身の優しさや強さも感じる。ヒリヒリする。でもこの姿が人間の根本だと思う。
0投稿日: 2023.09.13
powered by ブクログ著者の余りの自己否定に、自分は何か許されるようなものを感じて、共感とともに癒されるような、そういう感想をもっている。
1投稿日: 2023.08.13
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
文章を書く仕事で食べていきたいと目標に向かって精進し、やがて大きな文学賞を取り、今書くことで生計を立てられている。不仲ではない夫と子供がいて、とガワの情報だけ見れば、それこそ華やかに、夢を叶えた人物、という印象を受けるけど、実際とても考え込む性格だしどちらか…と言わなくてもネガティブで、細かいことにしゅんとしてクヨクヨしがちな私は親近感を抱いた。絶対に狙っていないだろうけど、フフッと笑ってしまう一文があったり。 p154「次女がYou Tubeをチラ見しながらスマホでゲームをやり、私はパソコンで「孤独のグルメ」を流しながらクラッシュ・ロワイヤルの対戦とポケモンGOを繰り返すという知性の欠片もない夕食後のひと時が流れた。」 p158「また行こうって思う?と聞くと、旦那は言葉を濁した挙句「あの修行道場とは正反対のものに苦しんだ時には行きたいって思うだろうね」と言う。私はその正反対のものにどれだけ苦しめられ鬱に苦しんでいたとしても、修行道場には永遠に行かないだろう。もっと言えば、修行道場よりも死を選ぶだろう。」
0投稿日: 2023.08.12
powered by ブクログ著者の作品を初めて読んだ。 感情とある種の無感情の交差が時にはゆっくり時にはスピードを増して、心に迫り来るのが、私の読書史上、エッセイとしてはかつてない衝撃を受けた。 他人によく思われたいと意識していないとしても、人はどこか無意識にありのままの気持ちを曝け出すことに抵抗を感じてしまうところがある。 しかし、著者の心の中や思考を全て知ることはできない前提があるうえで、直感的に、こんなにも包み隠すことなく自身を表現できる人に私は出会ったことがない。それがあまりにも真っ直ぐすぎて、こちらの心が何かしらの準備や抵抗をする前に、言葉が身体に入ってきてしまう。だからこそ、人から人へと伝染していってしまうはずの負の言葉さえも、単純に本来そう受け止めるべきはずである著者の自己否定の感情としてすんなりと受け容れることができた。 人間を見せられた。それに尽きるだろう。 パリがどうとか東京がどうだとかいう以前に、どこにいても1人の人として生き惑う金原ひとみという人物と、生まれついた自身を生かす存在としての作家・金原ひとみという人物。2色の流れる血が彼女の身体を巡る限り、読み手の中に流れる血の色が命に疼き続ける。
2投稿日: 2023.06.19
powered by ブクログ勝手にすごくパンクな日常が描かれてるのかと、恐る恐る読み始め、 でも綴られてる日々は、 誰もが抱いた事のあるような悲しさや虚しい感情が研ぎ澄まされて文章になっていたり、どうしようもない気持ちや落ち込みを、何とか友達やお酒の力で乗り越えることとか、 自分の日々起こる、考えや気持ちや怒りを、誠実に言葉にして、それを繰り返す日々がこんなエッセイになるのは、とても新鮮でした。 瑞々しいものを読んだ気持ち。死にたくなってもいいし、どこに行ってもいい。 ずっと泣きそうで、つらくて、寂しくて、でも幸せだという乖離の中で生きてきた、そういう自分に向き合っている。読めてよかった。
1投稿日: 2023.04.23
powered by ブクログ小説『アタラクシア』で惹かれ、著者初となるエッセイを手に取る。 エッセイでありながら小説の様でもあり、自分と掛け離れた世界の様に感じながらも、ごく身近に感じる瞬間もある。 普段から『気付き』が多い自分に取って金原さんの生き辛さといつも死を身近に感じている事に共鳴する。 『生きているだけで、何かに何かの感情を持っただけで、何かに傷つき、何かを傷つけてしまうその世界自体が、もはや私には許容し難い』の言葉通り、リアルであろうがSNS上であろうが理不尽と捏造に溢れた世界は人を苦しめる。 心の底からの本気の叫びに共感する。
0投稿日: 2023.02.15
powered by ブクログ西加奈子さんが推薦してて。 西さんが言われてたように、 こんなにネガティブでいいんだ、落ちてていいんだと思える本。 自分の相反する感情、自堕落さをそのままにしててもよいんだと思える。 なくすのでなく、もっと感じとってみよう、向き合ってみようと思った。 出会えてよかったし、何度も読み返したい。 著者は、根本的には真面目で誠実な人なのかなと思った。
0投稿日: 2023.02.01
powered by ブクログ小説のようなエッセイ 大人になってもこんな感情残ることがわかって 安心感がある中どこか不意に出る母性な感情が あたたかく少女のようで魅惑だった。
0投稿日: 2022.09.06
powered by ブクログ・金原さんはオートフィクションを用いる作家なので、エッセイも小説のように楽しめる。というかほとんど小説と変わらない。しいていうならエッセイの方が日常的で、その飾らない部分に魅力があった。金原ひとみという作家に興味がある人は必読。
0投稿日: 2022.09.02
powered by ブクログ他人についても自分についてもだめなことをだめなまま淡々と書いてあるのが不安定のなかの安定って感じで好きだと思った
0投稿日: 2022.07.18
powered by ブクログホッとした。私はホッとしたんだ。 大人になってもこんな生きづらさを抱えて、いつ終わってもいいと思える人生を生きていることの軽さ。 私だけじゃない、だけどこんな事もう女の子じゃない私は口にも出せない。 いつまでも、もがき、苦しみ、こうして生きていくしかないのだろう。と念を押された気がしてホッとしたんだ。 あっちに引っ張られないために、私は今日も笑う。
1投稿日: 2022.06.14
powered by ブクログ私は19歳を迎えるよりも前に蛇にピアスと出会い、映画を見てから原作を読み始めた。私があの頃感じていた生きづらさをもう10代の若い少女ではない今も感じ続けていて、こんな大人になったのに情緒不安定で情けない。みんなはもっとしっかり大人になっているのに私だけ鬱鬱とした日々を和かにこなしていることにしんどさを感じていた。そんな生活を肯定してくれたこのエッセイは宝物です。何度も泣きそうになりながら読んだ、良かったと思った。こうやって理由のないわからない、苛立ちや鬱鬱とした気分があること、ちゃんと逃げ場所として音楽やお酒、小説がある金原ひとみを見ていると安心する。あの時死ねば良かった、生きていて良かったを繰り返して、生きてるんだからいいよね。
2投稿日: 2022.06.06
powered by ブクログ「思えばずっと泣きそうだった。でもずっと幸せでもあった。この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。ーーずっと泣きそうだった。辛かった。寂しかった。幸せだった。この乖離の中にしか自分は存在できなかった。」 金原ひとみさんの生への戦い。
1投稿日: 2022.04.23
powered by ブクログ金原さんの小説と同じような雰囲気がありなんだか安心した。生きづらそうで恋愛中心の人生でそれも思った通りで。文章が読みやすく切なさの中に品があって良かった。研ぎすまされてるが故に傷つきやすいのかな。 ネガティブで尖っていてる。 ある人の言葉に怒り、絶望を覚えてそれを文章化してるときに客観的に書いてどちらも正当である状態にしなければこの気持ちを浄化できないみたいな話があって ものすごい冷静な人だなと感心した。作家中の作家だ。渦中でそう思えるなんて。私も見習いたいところだ。
0投稿日: 2022.04.14
powered by ブクログ本書を読む前に、ゲーテの「親和力」を読んでいて溜まったフラストレーションというか、肌(脳?)に滲みてこない感覚をどうにかしたく、次に読む本に選んだのがこの本。とかく“何らかの法則性”の文脈でものごとを見たがる前者に対して、金原ひとみはその逆。 金原ひとみの文学にあるのは、それら整理をつけたがる圧力に対するカウンターとしての無軌道さではなく、そうでなければ生きられないという必死さ、息も絶え絶え感。私としてはそれが好きであり、読む動機でもある。 あまり長編を発表しないようだが、身を削るようなこの書き方であれば、そこも致し方ないように思える。が、長編を読みたい。
0投稿日: 2022.03.20
powered by ブクログ独特のドライで尖った、痛いほど鋭い感性をひしひしと感じる文章に驚いた。彼女はこういう作家だったのか。 感性が鋭すぎることに対するひりひりするような痛みを感じないではいられないのに、そこに強烈な個性を感じて惹きつけられる。
0投稿日: 2022.03.01
powered by ブクログこの人と私、案外近いのかもしれない、と思ったり思わなかったり。 『蛇にピアス』での衝撃的なデビュー以来、「私には関係ない作家」として、横目で眺めてきて20年近く。 様々な書評に惹かれて金原ひとみという人が気になるようになり、何かの書評で紹介されていたこちらのエッセイをついに手に取った。 金原さんがパリで暮らした日々と、東京に帰国してからの出来事や思いを綴る。 どうせ自分はいつか嫌われる、という、どこに根差してんだか分からない絶望感がありつつも、人との関係を継続していける金原さんはすごい。 秀逸な比喩多数。 読み途中、時折本を閉じて表紙の金原さんの目の奥を探りながら読んでしまった。 こんなこと、書いていいの?とか思いながら。 シックな装丁も素敵です。
33投稿日: 2022.01.06
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
フェスの章は、泣きそうになった。これは多分細美さんで、わたしも何度もライブやフェスで泣いてきたからわかる。「お前ら」って呼ばれる絶対的な安心感に救われる。 ワーホリに行く前に読めて良かったと。少し精神状態引きづられちゃうけど、でもなんとか金原さんは書きながら生きててくれるのだろうと思う。
1投稿日: 2022.01.02
powered by ブクログパリでの6年の後東京へ。その間の心の揺らぎ、不安定さ、生きていていいのかと言う問いを内在させながら、日常と小説の乖離の中に生きていく。 生きることになんて真面目に取り組むのかと感心し、また心配になりました。
0投稿日: 2021.11.30
powered by ブクログ金原ひとみさんのエッセイだと思って購入したら、むしろ小説を読んでいるみたいな気持ちになった。でもこう言うことを考えていて、こう言うのが嫌で、こう言うのが好きなんだなって言うのがすごくわかって、楽しかった。 私が好きだったのは子供に関しての話で、女友達とは妊娠出産の時になんとなく距離を置いたり会えなくなったりする、と言うのは、友人のそう言うことは手放しで喜ぶべきだと思い普段口には出せないけれど私も思っていたことで、嬉しいけれど微妙な気持ちというか、代わりに言ってもらった感じがして少しほっとした。あと大人は子供を楽しませる道具ではない、と言うのも、感じていた違和感を代弁してもらったようだった。 マイナスの感情もそのまま的確な表現で語源化して見せてくれる。読んでよかった本です。装丁も綺麗ですき。
0投稿日: 2021.11.24
powered by ブクログ自分とは大きく異なった感受性を持たれた方のように感じたので、理解も共感も出来ない部分が多々あったが、それ故に読んでよかった。
0投稿日: 2021.10.24
powered by ブクログ『今日は何だか月にいるみたい』 『人は何かしらの脅威を感じると途端に感傷的で偽善的になる』 『この砂漠のように灼かれた大地を裸足で飛び跳ねながら生き続けることに、人は何故堪えられるのだろう。爛れた足を癒す誰かの慈悲や愛情でさえもまた、誰かを傷つけるかもしれないというのに』 『寂しさは人を狂わせ、寂しさを盾に、人は人を傷つける』 『私は小説に本音を書いている』 『自分の言葉が誰かに伝わるって信じられなければ私は発言することも小説を書くこともできない』 パリで6年間どんな帰国後東京での生活を綴ったエッセイ。 東京での「フェス」が刺さる。 『小説に救われ音楽に救われ何とか生きてきた』 紛れもない事実だと思う。
0投稿日: 2021.10.06
powered by ブクログ金原ひとみさんがお子さんとパリでどんな生活を送っていたのか…とても興味ありました。パリといえばカフェや美術館、きっとおしゃれな生活が描かれているのだと勝手に思っていました。が、完全に裏切られました(良い意味で)。そこには「蛇とピアス」を書いた金原さんがいました。 実際に自分でピアスを空けようとするシーンは生々しすぎてホラー。かといえば、激しい胃痛のあとビールと激辛ヤンニョムチキンを食してまた胃痛になるくだりはコメディー。 でも全体的には、人には言いたくない自分のネガティブな部分や心の闇を包み隠さずさらけ出していて、読んでいて少し苦しかったです。
0投稿日: 2021.09.17
powered by ブクログフォロワーさんのおすすめで読んだ。エッセイと言うより金原ひとみの自叙伝みたいな作品。感受性のカケラがそこここに散りばめられてて愛おしむように読んだ。紹介してくれた方に感謝したい。
1投稿日: 2021.08.18
powered by ブクログ金原さんの本を初めて読んだ。 自分の心の奥にある普段は気づかないような部分が金原さんの言葉に反応して、とてもたくさんメモに残した。 こんなに繊細で感受性が強く、生きていくのが大変そうな作者に、書くという事があってよかったなとつくづく思う。
0投稿日: 2021.07.18
powered by ブクログやっぱり恒常的な幸せはないなと思った。 上手く行ってる風な人が信用できず、どこか脆そうで踏ん張ってる人をどうしたって愛してしまう。 今は割と精神が安定してて共鳴はあまりしなかったけど、時々鬱と厭世感に引っ張られて危ない感じがした。 日常と現実をここまで咀嚼して自分の恥を愚かさを見せられる人が生きていける手段が文学なのだと思う。 時々上がったり下がったりしながら緩やかには向上していく人生でありたいな。 多分○年後こんなはずじゃなかったとウンザリしながらもそれなりに幸せなのだろう。
1投稿日: 2021.07.02
powered by ブクログずっと情緒不安定で危なっかしい。読んでいて、心がヒリヒリする。 彼女の書いた小説を読んでいる様だけど、これはエッセイ。 ポジティブで明るいエッセイは、読んでいてつまらないし疲れるけど、この作品の方がよっぽど疲れる。でも好きだな。そんな危うい彼女の作品が楽しみでもあるし。 お酒、煙草、恋愛、小説、音楽、家族、友人、どれも彼女にとって必要な要素なのだけど、バランスがもの凄く悪い。本気で心配になるレベルだ。よくここまで包み隠さずに書いたな。
2投稿日: 2021.06.27
powered by ブクログ西加奈子さんのPodcastでおすすめされてたので読んでみた やっぱり作家さんって基本みんなネガティブなんかな ネガティブな人が書く文章っておもしろいと思う(おもしろいって言っちゃダメな内容もあるけど広義的な意味で) 自分もどっちかというとネガティブ側だと思うからそう思うのかもしれん これはこうかな?でもこうかも、ああ〜なんで自分はいつもこうなんだろう、他にもこんなことがあって、みたいな暗い人の思考回路がずっと淡々と書かれて、うわ〜わかるわ〜ってとこも結構あっておもしろい 本気で死んじゃいたい人ってこういう風に考えてるんだなとかあまりにも言語化されてるから自分とは違う感覚もめっちゃすっと入ってくる 結構こういう文章に救われる人って多いと思う 実際自分もそこまで死にたいって本気で思ったことはないけど読んでるとなんか安心してくる この人の作品を薬みたいにして読んでる人は結構いるだろうなって体感として思った そういうのは本とか絵とか音楽みたいな芸術にしかできないことだなって思いますね 自身でも書いてるけどこんなに精神が不安定そうに見える人でも2人の子どもがいて仕事しながらきっちり育てられてるのすごい でもなんとなく自分も過去の自分を振り返ってよくこんなことできたなとか、よく頑張れたなみたいなことってあるからわからんでもない 根っからのポジティブな人とは分かり合えない気がしてるけどみんなどっかしらネガティブな部分ってあるんかな なんかハッピーな話しかしない人ってあんまり信用できないんだよな 嘘臭さを感じてしまうというか、あなたもほんとは苦しいことの方が多いですよね?って思ってしまう だからネガティブな面を持ってる上でそれでもがんばってる人のことをすごく好きになってしまいますね この本が必要じゃない人もいるだろうけど、たとえそうでなくても このひと何言ってるん?笑 こわいし意味わかんねーって感じの人にはなりたくないよな 自分は持ってない傷とか痛みを想像したりわかろうとする姿勢が尊いと思うし、それを優しさっていうんだと思う
7投稿日: 2021.06.06
powered by ブクログ孤独や寂しさ、生きづらさを抱えている人は、明るく前向きな励ましの言葉より、この金原ひとみさんのエッセイを読んだらいいと思う。「死にたい」と常に考えているのは自分だけではないんだ、と分かるだけで救いになるんじゃないかな。 金原ひとみさんの小説は、いつも冒頭の数行読んだたけでぐいっと惹き付けられて読むのをやめられなかった。このエッセイも同じく、金原さんの世界に引き込まれてすぐ読み終わった。 パリと日本の違いが分かるのも面白かったし、素敵だなと思える場面がいくつもあった。
0投稿日: 2021.03.02
powered by ブクログ初めて著者の本を読む。 芥川賞受賞『蛇にピアス』はデビュー作。 そして、本書は初のエッセイということで、楽しみにしていたが、期待通りに素敵な女性であり、母である著者の視点でじっくり読めた。 読んでいて感じたのは、フランスに移住した時の 日常に触れ合うフランス人との交流がすごかった。 突然、カフェで著者のキーボードの音に切れるオヤジとか、公共施設(図書館)で女性の司書が突然、大声を出して『もうイヤ~』と ヒステリックに叫ぶシーンが印象的。 その状況を冷静に語る著者の文章がまた、いいんだなあ。 日常の中でフランスと日本について、買い物のシーンも あったり、よく飲むシーンが多いのも、読んでいて嬉しい。
0投稿日: 2021.02.07
powered by ブクログ前半はフランスで暮らしていた頃のエッセイ。後半は、東京に戻ってきてからのエッセイ。フランスでの生活が、あまりにも危うくて読んでいる方がドキドキするくらいだった、大きなお世話だろうけど。東京でもそれなりなんだけど、想像可能なので少し余裕を持って読んだ、勝手にしろなんだろうけど。 どちらにしても、金原さんは大変さの中で一生懸命生きているのだなぁ。
0投稿日: 2021.02.06
powered by ブクログ植本一子さん選書セットの中に入っていた一冊。金原ひとみさんの本は初めて読んだ。一子さんがこの本を選んだのはなんかわかる気がした。
1投稿日: 2021.01.12
powered by ブクログ金原作品を読み解くうえで、この本は重要な素地になると思った。赤裸々過ぎて心配になるエッセイではあるが、共感するところが多くて救われた。未読の作品たちを、大事に読み進めていきたい。
0投稿日: 2020.11.08
powered by ブクログ毛足のがないカーペットに染み込んだペンキのように、幾重にもわたってぶちまけられつづけた愚かさの染みは消えない
0投稿日: 2020.09.24
powered by ブクログ不意に、読んでいるのがエッセイなのか小説なのかわからなくなりそうなことが度々あった。『アタラクシア』の様々なシーンがリンクされるようだった。
0投稿日: 2020.09.10
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
東日本大震災をきっかけに原発事故の放射能を恐れてフランスに移住しのも知らなかったし、現在は日本に帰国してらのも知らなかった。 俵万智も仙台から沖縄に移住したしね、作家だからどこでも引っ越せるわけだし、あの震災でそういう判断をした人って結構いるのね。 フランスでの日常生活を興味深く読む。 煙草を吸ってると必ず1本くれと言われるとか、これが最後の1本だ断りかたとか、友だちはだいたいフランス在住の日本人で不倫しててみたいな、あとお酒ね、よくシャンパンにワインにほんとひとりでもバーに入ってよく飲んでるみたいで、そうとう酒好きとみた。 あと恋愛ね。中2の時からずーっと恋愛し続けてるってすごい。 生きづらさを感じてた著者は恋愛することによって、生きてていいっって免罪符をもらえたようだ。 恋愛至上主義と自分でも言ってるように、書くことと恋愛することがすべてなのだろう。 著者のそういう生き方しかできない不器用さが嫌いじゃない、と思った自分が意外。
0投稿日: 2020.09.10
powered by ブクログ金原ひとみの著作はなるべく読むようにしている。理由はいくつかあるが、同じ歳ということも大きく関係している。もちろん彼女の文章に中毒性があるということもある。 2011年に娘2人を連れ、渡仏。パリに6年間住むが、日本に帰国する決意をする。本書は、パリ時代、そして東京へ戻ってからの日々を綴った初の内省的エッセイ。 エッセイのはずだが、小説のようでもあった。彼女の著作を読む時はいつものことだが、一気呵成に読み終えてしまった。文章のドライブ感に舌を巻く。口にピアスを通すシーンでは思わず目を瞑った。金原ひとみの文章は読むと実際に痛い。前半はフランス語の言葉を中心にエッセイが紡がれる。aiguille(針)、canicule(熱波)、mystification(欺瞞)。 異国に住むとはどういうことか、家族とは何か、人生の選択について、痛みを伴いながら読了した。 パリには1年住んだことがある。辛い経験ももちろんあったが、ある種の生に対する気楽さを享受していた。同感である。
2投稿日: 2020.08.28
powered by ブクログ金原ひとみには、本当に駄目でもう限界な自分をべったりと共感させて読んできたけれども、これはもう本当に大変な読書だった。エッセイ調ということもあってか、小説とはまた違い、完璧に、自分と文章内の人物の境界が溶ける感覚。文章の切れ味は素晴らしく、また事象を描く解像度がこれまた天晴という感じで、一文一文すべてに「わかる」と言いたくなる。わたしは10代の頃に比べてすっかり健康になった気がしていたけれど、今はやっぱり本当に人生史上最高くらいに駄目で、結局人間の根本にある世界の見方はそう簡単に変わらないのだ、などと思う。メンヘラの味方というと簡単なのだが、なんというか、頭の中を言葉がぐるぐる回り続ける思考を止められないメンヘラの味方という感じで、昔からずっと抱えている抑えきれない焦燥感が胸にばっと蘇り、結局いや〜な気持ちになってしまった。でも共感できたからそれも全部良い。
2投稿日: 2020.08.26
powered by ブクログひぇー。。 これエッセイだよね?小説じゃないよね?こんな赤裸々に書いていいの??フィクション?って読み手が不安になる、不穏さ。ピアスのシーン、ピアスの名前知らなかったから一つずつググって画像検索してひぇーってなっての繰り返し。蛇にピアスから進化し続けてる、怖いくらいに。これはわたしのこと?って思うくらいどこかがシンクロして、暴かないでって泣きそうになった。死にたい、自ら死を選ぶことはなくなったけど夫に殺してほしいって思うって気持ち、すごくわかってしまう。消えたいくらいに絶望するこの鬱々とした世界、なんなんだろうね。
3投稿日: 2020.07.30
powered by ブクログフェスで号泣と子育てで心身削られる部分は共感するけど他は異次元の話すぎる。日常のパリが知れた。世界は破滅ばかりではない。
0投稿日: 2020.07.29
powered by ブクログ生きていくことの愚かしさと情けなさと幸せが、日常に乗せて切々とつづられていた。完璧じゃなくていいって思える。
0投稿日: 2020.07.23
powered by ブクログ何処にいたって苦しいと思うこともあれば、何処か別の場所であればこの息苦しさも和らぐのではないかと思うこともある。 パリと東京の暮らしを読んでいると、感じる苦しみには違いが見えるが、どちらも苦しいまま生き続ける緩やかな生活には違いない。自分を苦しめる出来事は、日常のなんでもない瞬間に訪れる。大きな苦しみを受けたことを、より大きな苦しみの膜で包むような筆者の表現に、逆にホッとなる読者もいるだろう。苦しいなぁ、と思うことにまた別の苦しいなぁを重ねていく。馬鹿みたいだけど止められない。消えないなら、重ねることで保つしかない。幸せは思い出すものかもしれないけど、苦しさはいつだって隣にあるから。
0投稿日: 2020.07.13
powered by ブクログ今まで読んできたエッセイは軽く読めるものが多かったけれど、このエッセイはそんなものではなくてヒリヒリする感じがしました。 読み始めたら金原ひとみさんの世界に引き込まれました。
0投稿日: 2020.07.12
powered by ブクログ「パリの砂漠、東京の蜃気楼」という題がまずとても良い。 金原ひとみさんがパリで過ごした最後の一年と、日本に帰国してからの日々が綴られている。 まるで彼女の小説を読んでいるかのような、でなければ鍵付きの日記を読んでいるかのような、どこか現実からは離れた秘密のような危うさを感じる。勝手に読むことは躊躇われる、とても個人的な言葉だけが並んでいる。 アルコールと音楽と恋愛。万能感の後に突然やってくる希死念慮。仕事や子育てに忙殺され流れゆく日々をやり過ごしながら、金原ひとみさんは幾度も一人で立ち止まり、苦しさに喘ぎながら思考を巡らす。 気を抜いたらすべてが曖昧さの中に消えていってしまいそうな瞬間や感情を、鋭い視線と的確な表現で言語化する。ひたすら書いていく。 金原ひとみさんは、金原ひとみさんの小説にでてくる人物そのままだった。 ** 鏡をじっと見つめ、傷口のかさぶたを爪で剥がした。僅かに血が滲んだだけで滴りはしなかった。三メートルほどの横幅のある、床から天井までの大きな作り付けの棚が鏡越しに目に入った。ここに来た当初空っぽだったその棚には、今は所狭しと本や書類が詰め込まれている。色々捨てなきゃ。そう思った。きっとこの窓際から立ち去れば、そこには生まれて初めて見る窓際のない世界が広がっているに違いない。あるいはそんな世界がもしなかったとしたら、飛び降りる前に刺し殺してくれる窓際の番人と共に生きれば良いのだ。 この砂漠のように灼かれた大地を裸足で飛び跳ねながら生き続けることに、人は何故堪えられるのだろう。爛れた足を癒す誰かの慈悲や愛情でさえもまた、誰かを傷つけるかもしれないというのに。 機内食を食べている途中で寝落ち、四時間後トイレのために起きた瞬間嫌な予感がする。私の体は途轍もない消失への希求に蝕まれていた。これまで自分が普通に生きていたことがどう考えても信じられないという気持ちだった。こんなに愚かな人間でありながら、のうのうと外を歩き世間に顔を晒してこの世に存在し続けてきたという事実が信じられない。自分は愚かであるという理由だけで自然の摂理として放射線状に飛び散り自然消失しているべき存在に感じられ、今普通にここに存在しているということがあまりに荒唐無稽な現実に感じられた。 普通に日常を生きる自分と書く自分の乖離に身を委ねることは、それによって生き永らえているようでもあり、首を絞められているようでもある。 思えばずっと泣きそうだった。でもずっと幸せでもあった。この十年で自分から死ぬことを考えなくなった。でも夫に殺されたいと願うことが増えた。もうすぐ長女は十二歳になる。毛足の長いカーペットに染み込んだペンキのように、幾重にもわたってぶちまけられ続けた愚かさの染みは消えない。あの時あんなに幸せだったのにと思い起こされる幸せは全て幻想だと知っている。ずっと泣きそうだった。辛かった。寂しかった。幸せだった。この乖離の中にしか自分は存在できなかった。
2投稿日: 2020.06.16
powered by ブクログ同じ年ということもあり、彼女の作品は芥川賞をとった「蛇にピアス」の頃からなんだかんだとほとんどの作品を読んでいる。 同世代の彼女がどんな視点で生きてきたのか、思考の変化や変わらない部分に興味があったので、このタイミングでのエッセイは嬉しい。 全てに同調せずとも流れる空気感や言葉のセンス、常にどこかで陰をまとった世界観は健在で魅力的。 エッセイといえど、これまでの作品で漂わせていた雰囲気をそのままに帯びていて良かった。 日常の他愛もないワンシーンや会話でも、何か引っかかり思考を巡らせているところなんかは、素直に素敵だと思う。 そうやって考えあぐねることが生きるということなのかなと。忙しなくただ過ぎていく日常をやりすごすのはあまりにもからっぽだと気付かされる。
5投稿日: 2020.06.09
powered by ブクログ私小説を書いてきた著者のエッセイは、究極の私小説である。 氏の小説における武器となっていた「憂鬱な日常」が、フランスのムードをまとって品格さが備わった印象。 映画化できる内容と展開。
0投稿日: 2020.06.06
powered by ブクログ"ここまで 十数年の時間をかけて知ってきたのは、私と彼との間にある高く険しい壁の形であって、その壁の向こうにいる彼自身については何も知ることができないまま、互いに何も分からないまま生きている。壁を壊そうと足掻くのをやめた今も、見えないところで少しずつ白蟻が家を食い荒らしていくように、その分からなさは少しずつ確かに私を蝕んでいる。"(p.11) "基本的に鬱は早起きや掃除や武道や水行をすれば治ると思っている旦那と、早起きや定期的な掃除、武道や水行をするような人は鬱にはならないし鬱な人はそんなことできないし、そんなことをするくらいなら死ぬと思っているのだと主張する私は、一生分かり合えないだろう。それでも重なり合った部分はあって、その部分のかけがえのなさを思うたび、私はこの人と一生離れられないような気がする。"(p.159)
0投稿日: 2020.05.04
