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イレナの子供たち 2500人のユダヤ人の子供たちを救った勇気ある女性の物語
イレナの子供たち 2500人のユダヤ人の子供たちを救った勇気ある女性の物語
ティラー・J・マッツェオ、羽田詩津子/東京創元社
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総合評価

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    このレビューはネタバレを含みます。

    1939年9月1日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦中のホロコ-ストと戦後の共産主義に支配された邪悪と恐怖の時代に生きたポーランド人イレナ・センドレル(1910~2008)は、子供の命を救いたい親たちの悲痛な願いを叶えるため、社会福祉局職員の身分を隠れ蓑にして、ワルシャワのゲットーから2500人以上のユダヤ人の子供たちを脱出させて、地下組織の仲間たちの庇護のもとでナチスの目を欺いてきた…。1934年10月、ゲシュタポに連行され、拷問のすえ死刑宣告を受けるも、一命をとりとめた…。 後年、生きのびた子供たちから偉大な守護者へ感謝の念を決して忘れることはなかった。〝罪のない子供たちが死に向かっていく悲劇の行進を思い出すと、胸がよくぞ真っ二つに張り裂けなかったと不思議です。最後の力を振り絞って家に帰ると、神経がおかしくなってしまいました…コルチャック先生と彼の子供たちが死に向かって行進していった光景ほど、悲痛な記憶として心に刻まれた出来事はありませんでした…〟〝私が一人でやったのではありません...私が仕事をまとめていたとき、私たちは20人から35人のグループだったのです...子供たちを救っていた私たちは、べつに英雄などではなかったということです。それどころか、そういう言葉には大きな苛立ちを覚えます。真相はその逆だったからです。私は自分がほんのわずかしか貢献できないで良心の呵責を覚え続けていました…〟女性版“オスカ-・シンドラ-”と呼ばれる、勇気と犠牲に感涙するノンフィクション。

    8
    投稿日: 2025.10.19
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    冒頭は、現代のポーランドだ。女性版オスカー・シンドラーと呼ばれる、ポーランド人女性イレナ・センドレルの存在は、長らく秘せられてきた。本家本元オスカー・シンドラーは、スピルバーグの映画で、一躍有名となったのに。  プロローグは、ゲシュタポに捕まったイレナが、あるファイルを必死に隠そうとしている。そのファイルは、彼女と仲間たちが救い出した、子供たちの本名と出自の記録だ。戸籍に乗せようものなら、ナチスドイツの餌食になる。戦争が終わって家族と再会できた時に、自分が自分であることを証明できる、唯一の大切な書類は、シガレットペーパーに書かれていた。  本編でイレナの出生に戻る。1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まる。戦前、ポーランドにはユダヤ人の富裕層が多く住んでいた。ナチス占領下では、彼等が真っ先にターゲットになる。資産を奪われ、職業を奪われ、ユダヤの星をつけて歩くよう命じられる。 当時ポーランド人は、アーリア人種から一段下がった人種のように看做されており、ユダヤ人と同じく、親衛隊員の気まぐれやお遊びで、通りすがりに撃ち殺される対象だった。自らが救われるために、ユダヤ人を差し出す者もいた。一方で、唯々諾々と従ったポーランド国民だけではなかった。イレナは既に結婚していたが、信奉する教授のもとで、ユダヤ人救済にいち早く動く。その事で夫とも疎遠になるが、彼女には恋人がいた。ナチス占領下のワルシャワのゲットーから、彼女は2500人ものユダヤ人の子供たちを救い出した。あるときは木箱に入れて、あるときはトラックの積荷に隠して、あるときは下水道をつたって、連れ出した子供たちは、仲間たちがかくまい、カトリックに改宗させて偽名を与え、ナチスの目を欺いた。子供の命だけは守りたいという親たちの願いをかなえるために、イレナと仲間達は、文字通り自らの命を賭けた。  いつか親子が出会えるように、子供たちが自分が誰なのかを知ることができるように、それぞれの本名と出自を記録したリストを作った。ゲシュタポに知られたら、命がないのは火を見るより明らかだったというのに。事実、イレナもゲシュタポに連行され死刑宣告を受けるのだ。本当は、親たちは、戦争後の再会を望んでおり、その時のためのリストでもあった。だが“その時”を迎える子供たちは、殆どいなかった。  イリナは勿論偉人であるが、彼女に関わった人々全てが英雄と言っても過言ではない。多くの子供たちを救い、ユダヤ人の血脈を守った人たちの、知られざる闘いを描いたノンフィクション。

    6
    投稿日: 2025.09.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    イレナとその仲間たちが極限状態の中でなんとしても生きようとする生命力と1人でも多くの命を救おうとする勇敢な姿に終始感銘を受けた。 しかし、イレナ自身は讃えられるべきことではなく当たり前のことをしたまでで、救えなかった命に戦後も苦しめられている姿が印象的だった。 救ったユダヤ人をカトリックに改宗せざるを得なかったことが、命を救ったのにも関わらずユダヤ人の親から責められる結果になったことで罪悪感を抱いていることもかなり考えさせられた。

    0
    投稿日: 2022.01.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

    1935年、ワルシャワ大学のキャンパスで起きた暴動の引き金になったのは、「ベンチ・ゲットー」という非公式の制度だった。講義室におけるユダヤ人学生のための座席が、いわゆるアーリア人の学生の座席と分けられた。極右主義が力を増していたのは、隣国ドイツだけではなかった。ポーランドもその問題を抱えていた。ベンチ・ゲットーは許されない、イレナも友人たちもそう言って八羅を建てた。ユダヤ人学生とキャンパスでの支援者たちは、講義のあいだじゅう座ることを拒絶して、怒りのこもった熱心なデモをした。そうした反抗的な学生に講義室から出ていくように命じる教授もいた。だが他の教授は学生を支援し、いっしょに立って講義をした。イレナはそれについてこう語っている。「大学での歳月は私にとって大変つらく、とても悲しいものでした。カトリックとユダヤの学生を大学で区別するために規則が制定されました。カトリックの学生は右側の椅子に座り、ユダヤの学生は左に座った。私は常にユダヤ人学生と一緒に座りました。そのためユダヤ人学生と一緒に反ユダヤ主義者に殴られたんです」。もともと旧弊な場所であるワルシャワ大学では、キャンパスの大半の人間がユダヤ人学生に対するこの差別も暗に受け入れた。だが、市の反対側にあるポーランド自由大学では事情が違った。暴漢がユダヤ人学生を襲撃しようとやってくると、キャンパスにいる全員が抵抗し、消火ホースで水をかけ、ヤジを飛ばして追い払った。

    0
    投稿日: 2019.05.28