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数学する身体(新潮文庫)
数学する身体(新潮文庫)
森田真生/新潮社
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総合評価

68件)
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    身体性と数学を結びつける発想が面白い。心について理解するモチベーションとか。難しい数式とか出てこないので、単純に読み物として楽しめる。

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    投稿日: 2025.11.16
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    アラン・チューニングと岡潔の数学、心、身体、自然とのつながりなど。 いずれも、映画化やドラマ化された人物だ。 アラン・チューニングについては、映画「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」(2014年) 岡潔については、ドラマ「天才を育てた女房~世界が認めた数学者と妻の愛~」(2018年) 映画やドラマは、脚本家や監督によって見せ方のアプローチが違うだろうから、映画やドラマがすべてではないだろう。 この本は、特に岡潔さんの魅力が伝わってくる。 小川の流れについては、ドラマでも描かれていて、私はそのシーンに衝撃を受けたけど、この本を読むと、そのシーンは実際何を伝えたかったのか、今ようやくわかった。 この本は、自分の心が動かされる。 詳しくここでは書かないけど、感動が伝わる。

    1
    投稿日: 2025.06.18
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    自分にとって物凄く遠いところにあった数学だが、哲学的に数学を紐解いていく本書のおかげで少しは数学を好きになれた気がする。

    0
    投稿日: 2025.06.16
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    数学者の岡潔とアラン・チューリングを通し、数学と身体と一見すると全く別のものについて様々なアプローチから迫っていく。 著者が岡潔の著書を読み感じたことを抜粋すると、『バスケに捧げた日々を思い出した。この人にとって数学は、全心身を挙げた行為なのだと思った。生命を集注して数学的思考の「流れ」になりきることに、この人は無上の喜びを感じていることが伝わってきた。この人の言葉は信用できると直観した。』 本書を読みながら、著者に対しても言葉に信用が持てると感じた。

    0
    投稿日: 2025.05.02
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    こういう数学エッセイなら、たまには読みたいな。 岡潔という数学者の存在を初めて知ったが、最も心と遠そうな数学が、実は本質的にはつながっていたという話に心が惹かれた。

    1
    投稿日: 2025.04.20
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    数学に関しての知識はないが、数学者が探究する姿勢、数学の奥にあるものを見ていきたいという心にグッときた。森田さんの言葉選びが美しい。まさに確信をもって書かれた本。もう一度読み返したいところ

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    投稿日: 2025.02.05
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    センスオブワンダー、岡潔のエッセイの編纂?でぼんやりと存在を知り、数学ってホントはなんなのだろう、と思って手に取りました。 いや、なるほど、数学の歴史を知るとこんなにも世の中のことや、学術界の変遷を感じることができるのか、と脳がわくわくどきどきしています。 読み終わる前に『計算する生命』を入手。読み始めたところ。 これもまた、脳と感情が喜ぶ本です。こういう理解ができていれば、高校数学ももっと楽に理解できていたよな、と思います。 そして、数学は生活につながっている、といことをびりびりと感じます。

    0
    投稿日: 2024.11.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    遺伝的アルゴリズムのような人工進化では、磁束などのノイズをリソースとして活用した効率的な回路ができる話は面白い。科学的な思考をもとにしたエンジニアリングではノイズとリソースを明確に分けるが、自然的で即興的なブリコラージュではノイズもリソースもありものの材料として組み合わせて世界を創る。 人類にはまだ理で理解できないこの世界の全体感を、全身とこころで分かろうとする岡潔のアプローチの素晴らしさを改めて感じられる一冊。これが本来の日本のこころなのかも。

    0
    投稿日: 2024.09.07
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    数の歴史から数学史の話を通して、「数学する」とは何か、「数学する身体」とは何かについて語り、ヒルベルトやチューリングにたどり着く。そして数学を数学する者としての岡潔の解説を行うと同時に文学的な物語を語っている。 数学に関する本ではあるものの数学の本ではない。何の本かと聞かれるとこれという表現が見つからない。 改めて数学というものを考えるきっかけになる本

    1
    投稿日: 2024.08.24
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    539 240P 森田真生 1985(昭和60)年東京都生れ。独立研究者。東京大学理学部数学科を卒業後、独立。2018年4月現在は京都に拠点を構えて研究を続けるかたわら、国内外で「数学の演奏会」「大人のための数学講座」「数学ブックトーク」などのライブ活動を行っている。2015(平成27)年、初の著書『数学する身体』で、小林秀雄賞を最年少で受賞。編著に岡潔著『数学する人生』がある。 数学する身体(新潮文庫) by 森田真生 数学科に入りたての頃、飲み会に参加して居酒屋の下駄箱が素数番から埋まっていくのに驚いたことがある。素数というのは、1と自分以外では割り切れない数のことで、理論的にはかなり特別な数だ。  たとえば、6という数は2と3を掛け合わせて作れるので、素数ではない。素数でない数は、いつでも素数をいくつか掛け合わせることで作ることができる。ところが素数そのものは、他の数からは決して作れない。  なぜか数学をしていると、そんな素数に、特別な愛着が 湧いてくる。数学好きが集まると、下駄箱も自然と、素数番から埋まっていくことになるのである。 実用上は 17 と 18 とで、どちらが優れているということもないだろう。ところが、理論上はやっぱり 17 の方が「特別」だ。この素数とそうでない数の間に著しい差異を感じる感性は、数を道具として使う上では無用かもしれない。だが、道具としての〝数〟も、それを繰り返し用いているうちに、自然と「親しみ」の情が湧いてくる。そうして、当初は「使う」ためのものだった〝数〟が「味わう」べきものになる。 かつて狩りや調理など実用のためだった道具たちが「みて、感じる」対象になったとき美術の歴史が始まったのだとすれば( 11)、数字や図形がそれ自身「みて、感じる」対象になってこそ、数学もいよいよ文化となったと言えるのかもしれない。 数学を使って何かに役立てようという意志は背景に退いて、目を凝らして「数」や「図形」の織りなす世界を「よく見よう」とする静かな情熱が、ギリシア数学を貫いている。そういえば「定理(theorem)」という言葉も、もともとは「よく見る」という意味のギリシア語「(theorein)」から来ているのである。 mathematics という言葉は、ギリシア語の(学ばれるべきもの) に由来する。それは本来、私たちが普通「数学」と呼んでいるものよりも、はるかに広い範囲を指す言葉であった。これを、数論、幾何学、天文学、音楽の「四科」からなる特定の学科を示す言葉として用いたのは、古代ギリシアのピタゴラス学派の人々だと言われている。 数学は身体的な営みであり、歴史を背負った営為である。数学にも、数学の「過去」がある。しかし、そのことが意識されることは、普通はあまりない。  たとえば「数学=数式と計算」というイメージを持っている人は少なくない。実際、学校で教わる数学のほとんどが数式と計算なのだから無理もないが、数式と計算をことさら重視するのは一七―一九世紀の西欧数学に特有の傾向で、それ自体が必ずしも普遍的な考え方でないことは、あまり知られていない。すでに述べたように古代ギリシア人は幾何学的論証を重視して具体的な数値的計算を数学に持ち込もうとはしなかったし、あとで見るが現代数学も過度の計算に頼るよりも、抽象的な概念や論理を重視する方向に進んだ。 ここで指摘されている通り「証明」は、そもそも他者の存在を前提としている。論証する数学者の姿勢が、民主政における説得の姿勢と重なることは、しばしば歴史家たちによっても指摘されているが、古代ギリシアにおける数学は独白的であるよりも対話的で、それが目指すところは個人的な得心である以上に、命題が確かに成立するということの「公共的な承認」だったのだ。 古代ギリシアの数学的思考に「他者」が意外な形で潜伏していることを独自の視点から主張した、ハンガリーの数学史家アルパッド・サボーの研究もある( 6)。彼は『原論』に登場する術語の綿密な分析を通し、論証数学の成立の背景に「エレア派」の哲学の影響があったのではないかと、大胆な推論をした。 古代ギリシアにおける論証数学の誕生は、そんな抜本的な飛躍の一つである。その後一七世紀のヨーロッパを舞台に、それに匹敵するような大きな革命が起きる。一言で言えば、図の代わりに「記号」が全面的に使用されるようになり、論証に代わって「計算」が数学の前面に押し出されるのだ。 すでに述べたように、古代ギリシア数学の大きな特徴は、実践よりも理論を尊重し、計算よりも幾何学的論証を重視する姿勢である。一方で、インド起源の数学は、実用的な関心の中で、計算を重視する傾向が強かった。これらの異なる伝統がイスラーム世界で 雑 じり合い、結果として実践性と理論を兼ね備え、数と幾何学の双方に関わる、独自の数学文化が 育まれていく。 ライプニッツの微積分学に秘められた意義を真っ先に読み取り、それを広く世に知らしめたのはスイスのベルヌーイ兄弟である。そのうち弟のヨハン・ベルヌーイに数学を教わったのが、一八世紀最大の数学者、レオンハルト・オイラー(一七〇七―一七八三) だ。 「人が呼吸するように、また 鷲 が風に身を任せるように( 15)」計算をしたと言われるオイラーは、幾何学的な図の代わりに「関数」を数学の中心に据えて、現在に繫がる微積分学の基本的なテクニックのほとんどすべてを発見してしまった。視力を完全に失った晩年も創造意欲は衰えず、その研究の領域は解析学のほかにも力学や数論など多方面にわたり、デカルトやライプニッツやニュートンによって整備された代数的計算の方法の威力をまざまざと示してみせた。  古代ギリシア人のように図を描きながら厳密な論証を積み重ねていく代わりに、一七、一八世紀の数学者たちは記号と計算の力を借りて、縦横に独創的な数学世界を切り 拓いていったのである。 アラン・チューリングがケンブリッジ大学のキングス・カレッジに入学したとき、ヒルベルト計画はすでにゲーデルの発見によって暗礁に乗り上げていた。それでも、大学の講義でヒルベルト流の「超数学」の世界に触れる機会のあったチューリングは、その 瑞々しい感性で、 数学について数学的に語る ヒルベルトの方法に、計り知れない可能性を見出した。 一九五一年の暮れ、チューリングの家に泥棒が入った。彼はすぐに警察に報告をして、ついでに犯人に心当たりがある 旨 を伝えた。その犯人はおそらく数日前に出会った友人の男で、自分とその男はこれまでに「三回セックスをした」と、チューリングは警官の前で正直に告白をする。国民防衛軍の入隊志願書に「ノー」と書いたときと同じように、彼は平然と事実を打ち明けただけのつもりだったのだろう。  ところが、チューリングはすぐさま「著しい 猥褻」の罪で起訴され、十二ヶ月にわたる保護観察処分と、女性ホルモンの大量投与による「治療」を言い渡される。当時イギリスで同性愛は厳しく法律で禁じられていたからだ。戦争の終結を二年から四年早めたことで事実上一千万人以上の命を救ったとも言われる英雄に対して、あまりにも 酷い仕打ちである。 「数学とは何か」「数学にとって身体とは何か」を問う私の探求の原点には、岡潔(一九〇一―一九七八) という数学者との出会いがある。  大学に入って間もない頃のことだ。私はたまたま通りがかりの古書店で、『日本のこころ』という本に巡り合った。それは岡潔の代表的エッセイを編んだ選集で、当時すでに絶版の文庫版だったが、タイトルといい、本の体裁といい、とても数学の本には見えなかった。難解そうな数学書の並びの中で、ひときわ不思議な魅力を放っていた。 私は高校までバスケットボールに夢中だった。勝ち負けよりも、無心で没頭しているときに、試合の「流れ」と一体化してしまう感覚が好きだった。バスケに「真実」というものがあるとすれば、それは正しい理論を身につけることでも、戦術をたくさん覚えることでもなく、ただバスケという行為に没入しきって「体得」するほかないものだと感じていた。  岡潔の言葉を読んでいると、なぜか不思議と、バスケに 捧げた日々を思い出した。この人にとって数学は、全心身を挙げた行為なのだと思った。頭で理屈を 捏ねることでも、小手先の計算を振り回すことでもなく、生命を集注して数学的思考の「流れ」になりきることに、この人は無上の喜びを感じていることが伝わってきた。 私は、岡潔のことをもっと知りたいと思った。彼が見つめる先に、自分が本当に知りたい何かがあるのではないかとも思った。簡単に言えば、「この人の言葉は信用できる」と直観したのだ。  数学と身体を巡る私の旅も、ここから始まったのである。岡潔の語る数学は、それまで私が知っていたものとはまったく違った。そこには、生きた身体の響きがあった。 「数学」と「身体」──とてつもなくかけ離れて見えるこの二つの世界が、実はどこか深くで交わっているのではないか。その交わる場所を、この目で確かめたいと思った。ならば、数学の道へ分け入るしかない。私は、数学を学ぶ決心をした。 岡潔は 稀有 な数学者である。一九〇一年に生まれ、数学を志し、京大を卒業後はそのまま講師となり、やがてパリへ留学、帰国後に広島文理科大学助教授就任と順当に数学者への道を歩んだ。ところが、一九三〇年代後半を境に突如として世間との交渉を断ち、故郷の紀見村に籠って、すべてを数学研究に捧げるようになる。職を捨て、食べる物も住む場所も着る物も顧みず、わずかな奨学金を頼りに、ひたすら農耕と数学に耽った。妻と子供三人を持ちながらその生き方を貫いた岡は、明らかに常人離れしている。 本人は、天才と呼ばれるのを嫌ったという。人は生まれつき特別なわけでも、生まれつき常人離れしているわけでもない。好きで世間を超出したり、しなかったりするのでもない。ただ人それぞれ、その人固有の生涯の縁に従って生きるだけだ。  およそ十年前に岡潔の『日本のこころ』に出会って以来、私は何度も何度も、 頁 が擦り切れるくらい、この本を読み返してきた。不思議なことに、その度に新しい発見があり、毎回違った箇所に線を引いている。文章の方は動いていないはずだから、変わっているのはこちらの方なのだろうが、まるで生き物のように、同じ言葉が何度も新しい意味を帯びて 蘇ってくるのだ。実感に裏打ちされた言葉の底力である。 岡は宗教と科学の両方を知りながら、どちらにも安住しない人だった。肉体を伴う一生は、縁起する 重々 帝 網 の大宇宙にあってはたしかに幻のようなものである。しかしその幻に、その肉体の背負った局所に宿る情緒の彩りがある。高瀬氏は「岡先生の情緒の根底にあるのは、中谷治宇二郎との友情だと思う」と言った。

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    投稿日: 2024.08.19
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    #ヨンデルホン #数学する身体 / #森田真生 #新潮社 #ドクリョウ #ヨミオワリ もっと集中して読むべきであったか。まぁ、本は逃げない。次は、じっくり。俄然、岡潔を読んでみたくなった。

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    投稿日: 2024.07.29
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    本書は数学書ではなく、「数学する」ことについて思索した哲学書だ。 著者の森田真生氏は「独立研究者」というちょっと変わった肩書きで、スマートニュース会長の鈴木健氏からの影響で文系から東大数学科に転向したという経歴の持ち主。 読み進めるごとにセンスオブワンダーが溢れてくるのだが、本書を30歳の若さで書き上げたというのだから驚き。 前半では数学史を辿りながら、数学と身体との結びつきについてその起源から洞察がなされる。 数式はほとんど出てこないので、数学が苦手な読者でもスイスイ読み進められる。 後半では著者が影響を受けたアラン・チューリングと岡潔の魅力が語られ、心の問題にまで踏み込んだ少し抽象度の高い論説が展開される。 アラン・チューリングといえば「コンピュータの父」「人工知能の基礎を作った天才」であり、昨今のAIブームにつながる話にも触れられているので、興味のある方はぜひ。 うむうむむ。難しい。のにおもしろい。 ーーーーーーー一以下、抜書きーーーーーーーー . 起源にまで遡ってみれば、数学は端から身体を超えていこうとする行為であった。数えることも測ることも、計算することも論証することも、すべては生身の身体にはない正確で、確実な知を求める欲求の産物である。曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。一方で、数学はただ単に身体と対立するのでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。古代においてはもちろん、現代に至ってもなお、数学はいつでも「数学する身体」とともにある。 . 〝数〟は、人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である。「自然数(naturalnumber)」という言葉があるが、それは決してあらかじめどこかに「自然に」存在しているわけではない。「自然」と呼ばれるのは、もはや道具であることを意識させないほどに、それが高度に身体化されているからである。 . 例えばオーストラリアのヨーク岬とパプアニューギニアの間にあるトレス海峡諸島の原住民は、両手だけでなく、肘や肩、胸や足首、膝、腰など、全身を使って33まで数える方法を持っている。中世ヨーロッパにおいては、両手の指を使って9999まで数える方法があった。しかし、身体の部位には限りがあるから、いずれにしても限界がある。 . ところが紀元前五世紀頃のギリシアを舞台に、それまでとは異質な数学文化が花開く。計算によって問題を解決することよりも、「証明」によって結果の正当性を保証するプロセスに重きを置く姿勢が生まれたのだ。ギリシアの数学者たちは、「いかに」答えを導き出すかという技術以上に、「なぜ」その答えが正しいかという理論に拘った。とりわけ象徴的なのが、ユークリッドの『原論』である。 . 私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもなく、近代の西欧数学なのである。数学は初めからいまの形であったわけではなく、時代や場所ごとにその姿を変えながら、徐々にいまの形に変容してきたのだ。 . チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。〝数〟は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分学の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。 . 岡潔によれば、数学の中心にあるのは「情緒」だという。計算や論理は数学の本体ではなくて、肝心なことは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を集め続けてやめないことだという。自他の別も、時空の枠すらをも超えて、大きな心で数学に没頭しているうちに、「内外二重の窓がともに開け放たれることになって、『清冷の外気』が室内にはいる」のだと、彼は独特の表現で、数学の喜びを描写する。 . チューリングが、心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした。チューリングが数学を道具として心の探究に向かったとすれば、岡にとって数学は、心の世界の奥深くへと分け入る行為そのものであった。道元にとって禅がそうであったように、また芭蕉にとって俳諧がそうであったように、彼にとって数学は、それ自体が一つの道だったのだ。

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    投稿日: 2024.07.10
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    「「数える」という行為から始まって、古代ギリシア人の論証数学、近代ヨーロッパの記号と計算、数学理論を記号操作に写し取ろうとしコンピュータに至るまで、数学史の一つの流れを追った」数学哲学書。AIが人の脳(心)を解明した先に何があるのか、期待と不安が尽きない。

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    投稿日: 2024.07.01
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    内容が扱うものが数学で難解なものなので、本当に理解できているかはわからないが、数学の歴史の中でたどり着いた、客観的な計算ではない、人間的なもの、閃き、心、情緒にたどり着いたチューリングと岡潔。心でないものをタマネギの皮を剥くように特定していって、残る心を探究するチューリングと、数学という道の中で、数学になりきり、情緒とはを体得しようとした岡潔の、最後行き着くところは近しいがアプローチが全然違うところが、絶対的な真理というものはないのでは、と思わせて面白い

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    投稿日: 2024.06.14
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    岡潔とアラン・チューリング。 難しくてわからないところも多かったけど、難しくてわからないことがあるということを意識することが大切。

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    投稿日: 2024.04.13
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    同じ著者の『数学の贈り物』を読み、すっかりファンになってしまい読んだ一冊。数学というものを、数字や記号を使った「純粋に」論理的な思考と考えるイメージに対して、そうした思考に「身体」の役割を取り戻そうとする本。 数学史についての説明は、ユークリッドに始まる古代のギリシア数学から、チューリング機械まで。数学史に関する本を一度でも読んだことがあれば大体知っているような有名どころが押さえられている。 ただ、面白いのは、古代の数学には、「身体性」があった、というところだ。 ユークリッドの書いた『原論』には、多くの命題がある。しかし、現代数学の命題と明らかに異なっているのが、命題を読んだだけでは、状況がよく分からず、横に付けられた図とセットになっている点だと言う。 著者は、このことについて、古代の数学は、ただ、数式や記号を使って、論理的な思考を書くだけでなく、数学というものが、まさに、自分の「身体」を使って図を書くという行為と、不可分だったのだという。つまり、数学をすることは、頭で考えるのと同時に、体で考えていた。 頭の中で考えることと、実際に体を動かして頭の外で考えること。こうした「考える」ということの捉え方が面白かった。 後半、著者は、自分が最も影響を受けたという岡潔の言った「情緒」の言葉を鍵に、数学を体で、直感で理解することを取り戻すべきだという主張を説明していく。 高校時代に学んだ数学も、難しくなればなるほど、そこに数式として書かれたものは、現実的な感覚から遠ざかっていってしまう。著者の主張の通り、そんな数学に、体でなることができたとき、どんな風な景色が見えるようになるのか、とても心惹かれる。 本の数学に関する本筋からは脱線になるが、この本の中で紹介されている、アルタイの写真の話が一番印象に残った。木に立てかけられた板の前に一人の男が立ち、その周り数十人の子どもたちが座っている。 学校という場所があって、そこで勉強をするのではない。たとえ、そこに学校という建物がなくとも、誰かが誰かに教えるという行為が先にあって、そこに「学校」という空間が生まれる。 自分が今まで身につけてきたことを以て、日々生きること。そのためのヒントに満ちた本だった。

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    投稿日: 2023.12.27
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    著者の数学に〈情緒〉動かされてる体験がひしひしと伝わってくる。学問の探究へと道を進む稀有な人たちって何かしらこういう信念と、出会いがあるんだろうなと胸踊る内容です(本書の本筋ではないので、悪しからず)。 チューリングと岡潔を軸に、数学と身体というテーマを深ぼっていく構成。恥ずかしながら岡潔の存在を知らず、こんなに観念的な数学との付き合い方があるんだと目から鱗状態になりました。 チューリングの数学を道具として利用して人間と心と数学の境界を暴きにいくアプローチ対して、岡潔は心の奥深くは分け入る行為そのものこそが数学であるという立場をとる。どちらも魅力的で勝つ痺れる対比で捉える筆者の洞察力に傑物感が窺い知れます。同世代ということで、すごい人っているんだなーと単純に感動しちゃう。 丁寧に論を進める筆致と、そのテーマの深淵さかつ引き込まれるその面白さを十二分に堪能できます。数学に興味があってもなくても、必読となっておりますよ。

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    投稿日: 2023.09.12
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    数学の生い立ち、数学に人生を捧げる人達と数学との向き合い方・考え方など、『数学と人間』をテーマに書かれているような感じです。数学をよく理解していない私にとって、聞いたことのない数学理論の話しが登場しますが、逆に興味が湧いてくるのは、著者の描き方たる所以だと思う。

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    投稿日: 2023.07.12
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    前半は数学の刺激的な歴史のはなし。 subitizationスービタイゼーション: 人間は少数のものは一瞬で判断できるが、およそ3個を超えるとこの能力は消える。それで、指折り数えるような方法は世界には様々発展した。漢字やローマ数字のみならず、マヤ文明でも古代インドでも、数を表す文字は1から3までは棒の本数、しかし4から異なる。 紀元前5世紀ギリシャ: 古代文明の時代から、数は測量や暦など、日常の具体的な問題の解決のために発展してきた。ところがこの頃「いかに」正しい答えを導くかよりも「なぜ」正しいかを重く見る動きが現れる。→ユークリッドの『原論』:素数が無限にある証明で有名。 定理theoremの語源は、「よく見る」というギリシャ語theorein、 数学mathematicsの語源は「学ばれるべきもの」というギリシャ語μάθημαマテーマタ (ハイデッガー「学びとは、はじめから自分の手元にあるものを掴み取ることである」) アルジャブル: 古代ギリシャ文明衰退後、数学的遺産の後継者は、アッバース朝(750-1258)のイスラム社会。理論先行のギリシャと、計算重視のインドの数学が合流。初期アラビア数学者アル=フワーリズミー著『ジャブルとムカバラの書』『イルム・アル・ジャブル・ワル・ムカバラ("Ilm al-jabr wa'l-muqabalah")(約分と消約との学=The science of reduction and cancellation)』 →代数を表すラテン語algebraアルゲブラの語源→アルジャブルの目指す、未知数を含む式を解きやすい形に持ち込むための機械的手続き(即ちアルゴリズム)を考案し、その正当性を幾何学的手段で証明すること。 記号化する代数 この時代の計算には記号がなく、自然言語だけで表現されていた。16世紀に活版印刷の普及も手伝って記号法の統一が進み、+-×÷や√が出揃ってくる。 フランスのヴィエトは記号操作による「一般式」を確立。未知数に母音、既知数に子音を使っていたが、デカルトは未知数にxyz、既知数にabcなど、記号代数の表記をほぼ現代の形に整理した。 図形の問題も、古代ギリシャ以来の「作図された問題を解く」のではなく、記号化によって(図形を一般式に置き換えて解く)代数の問題に書き換わった。 その後、ニュートンとライプニッツがそれぞれ、微分と積分を発明。個々の図形に接線を引くのではなく、一般的な方程式に対してその接線や面積を求めるアルゴリズムを確立。 この流れにより、数学は物理的制約から自由になり、「無限」や「虚数」などの概念を獲得していく。つまり、図形に描けないような「あり得ない」ことでも、数式上「あり得る」ならば、数学で扱えるようになった。 作品の後半は、2人の天才の人生にフォーカス。 数学は、天才の頭脳の中で発展したのではなく、むしろ身体性に裏打ちされた行動の中で発展したのだというような話。詩や俳句からのインスピレーションが数学の進展に寄与したりもする、そんな話を読んで、理系とか文系とかいう区分には何の意味もなく、技術者でありながら読書趣味の自分を肯定してみたりする。

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    投稿日: 2023.04.22
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    読んだからと言っても…数学が身近になったとは、言えない。だけど、数学する人と話したいな、話を聞いて、感じたいな。と思いました。

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    投稿日: 2023.03.21
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    興味を惹かれる内容がとても多い 数学の表面的な難しさを取っ払って、数学という行為の面白さや美しさそのものの中に飛び込ませてもらえる本

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    投稿日: 2023.03.09
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    参考文献が挙げられている本を読んだとき、それらの参考文献のいくつかを読んでみようかなと思うことも、その本自身の面白さを物語る尺度ではないだろうか?数学の魅力を、チューリングと岡潔を取り上げて語る。入りに身体を意識させ、そのごチューリングに至っては、コンピューティングに、最後に身体とつながる心の重要性に向かう。数学読み物としては、なかなか楽しめると思います。間違いなく、(一部は有名な著作も散見されるが)参考文献の何作かは読んでみたいと思いました。

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    投稿日: 2022.10.16
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    第一章 数学する身体 人工物としての“数” 道具の生態系 形や大きさ よく見る 手許にあるものを掴みとる 脳から漏れ出す 行為としての数学 数学の中に住まう 天命を反転する 第二章 計算する機械 I 証明の原風景 証明を支える「認識の道具」 対話としての証明 II 記号の発見 アルジャブル 記号化する代数 普遍性の希求 「無限」の世界へ 「意味」を超える 「基礎」の不安 「数学」を数学する III 計算する機械 心と機械 計算する数 暗号解読 計算する機械コンピュータの誕生 「人工知能へ」 イミテーション・ゲーム 解ける問題と解けない問題 第三章 風景の始原 紀見峠へ 数学者、岡潔 少年と蝶 風景の始原 魔術化された世界 不都合な脳 脳の外へ 「わかる」ということ 第四章 零の場所 パリでの日々 精神の系図 峻険なる山岳地帯 出離の道 零の場所 「情」と「情緒」 晩年の夢/情緒の彩り 終章 生成する風景

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    投稿日: 2022.07.18
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    【感想】  面白かった。数学の歴史と発展、記号化と身体化、アランチューリングと数学、岡潔と数学の話のどれもが興味深い。文書が美しく、優しい。この人生において数学を勉強し直すことがあれば、読み返す気がする本。 【本書を読みながら気になったコト】 ・小学校で当たり前にならう筆算が定着するまでは、二桁の掛け算は非常に高度なものされていた  →数学も使用目的によって発展していった。ギリシア数字は計算そのものには使いにくかった。計算に使える数学が生まれたのは、インドに依るところが大きい >>数学の目的はかつて、数学的道具を用いながら、税金の計算や土地の測量など、生活上の具体的で実践的な問題を解決することが中心であった。このとき、数学者の関心は、あくまで数学の外の、実世界の方を向いている。 >>数学の道具としての著しい性質は、それが容易に内面化されてしまう点である。はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中では想像上の数字を操作するだけで済んでしまようになる。それは、道具としての数字が次第に五分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。  ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたおも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。  行為はしばしば内面化されて思考となるし、逆に、思考が外在化して行為となることもある。私は時々、人の所作を見ているときに、あるいは自分で身体を動かしているときに、ふと「動くことは考えることに似ている」と思うことがある。身体的な行為が、まるで外にあふれ出した思考のように思えてくるのだ。 ・私たちが学校で教わる数学の大部分は、古代の数学でもなければ現代の数学でもないく、近代の西欧数学である ・数学の計算困難性が増すなかで、コンピュータが誕生した >>チューリングは数学の歴史に、大きな革命をもたらした。  ”数”は、それを人が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。算盤の時代も、アルジャブルの時代も、微積分額の時代においても、数は人間に従属している。数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。  チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピューターの理論的礎石が打ち立てられた。 >>身体から切り離された「形式」や「物」も、それと人が親しく交わり、心通わせ合っているうりに、次第にそれ自体の「意味」や「心」を持ち始めてしまう。  物と心、形式と意味は、そう簡単には切り離せないのだ。 ・岡潔によれば、数学の中心にあるのは情緒。肝心なのは、五感で触れることのできない数学的対象に、関心を続けてやめないことだという。 >>なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理で分かるばかりでなく、情を通い合わせあってわかることができる。他の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。  ところが現代社会はことさらに「自我」を前面に押し出して、「理解(理で解る)」ということばかり教える。自他通い合う情を分断し、「私(ego)」に閉じたmindが、さも心のすべてであるかのように信じている。情の融通が断ち切られ、わかるはずのことも分からなくなった。 >>かぼちゃの種子の生成力が、種子や土、太陽や水の所産であって、人間の手によっては作れないものであるのと同じように、「生きる喜び」も本当は、周囲や自然や環境から与えられるものであって、自力で作り出せるものではない。ところがいまは、何でも「個人」ということが強調されて、その「個」が「全の上の個」であることを忘れている。大自然には通い合う情があり、一つ一つの情緒はその情の一片である、ということが忘れられている。それで日々の生き甲斐までわからなくなった。自他を分断し、周囲から切り離された「私」の中から、生きる喜びが湧き出すはずもない。 ・アランチューリングと岡潔の共通点、それは両社とも数学を通じて心の解明を目指したこと >>『数学する身体』と名付けられた本書は、生命が矛盾を包容するとはどういうことが、そのことがテーマとして貫かれている。数学と身体の間には一見すると矛盾がある。数学は三人称性を纏って形式化と記号化に邁進し、身体はその成り立ちからして一人称的である。これは論理学的な矛盾ではなく、直感的なものである。したがってこの矛盾は、数学そのものによって乗り越えられるものではない。

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    投稿日: 2022.05.31
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    「数学する身体」魅惑的なタイトルです。 著者は、京都に拠点を構え、独立研究者として活動する数学者だそうです。「数学の演奏会」なるライブ活動で、数学に関する彼の想いを表現しています。そして、本作で最年少で小林秀雄賞受賞されています。(小林秀雄先生の著作を理解できたことが無いのですが) 「はじめに」において、この作品を 数学にとって身体とは何か、ゼロから考え直す旅とします。まず、著者の文章力に驚きます。どなたかが、悟りを開いているようなと形容されていました。明確で簡潔。脳と文章が一致しているような印象です。(あくまで個人の感想です。) 第一章では、数学する身体として、数学は身体を使ってきたことを説明します。視覚で少数の数を認知する。体の部位を使って物を数える。(手の指10本で10進法⁉︎)そして、それらの限界から 数字や計算など道具の発見に繋がります。 第二章では、計算する機械として、数学の道具の進化の歴史が語られます。古代ギリシャの言語による証明から、算用数字の発明、記号•代用数字の利用と長い時間をかけて、世界の各地でそれぞれの数学の道具が発展していきます。そして、計算が追いつかなくなり、概念•理論への進化となります。 第三、四章では、著者が啓蒙する、岡潔氏という日本を代表する数学者への想いと、その実績について解説されます。まず、身体の中の脳へ科学的アプローチしていきます。そして、岡潔氏の情緒に対する考え方を丁重に扱っていきます。身体の心「彩り輝き動き」を喚起する言葉として「情緒」を表現に使います。情緒は個々の身体に宿る、とも。 著者は、この岡潔氏の日本的情緒を身体に備えることを望んでいるのかと思う。 終章で 岡潔氏の言葉を取り上げる。心になり心をわかる 心の世界の奥深くへ分入る。という、西欧的な心作る心を理解するとは違うアプローチに自身も惹き込まれているようです。 ライブ映像がネットにありましたので視聴させていただきました。若くきらめく知性でした。小中学生にも是非ライブしてもらいたい。数学だけでなく、あらゆる学びに共通すると思いますので。

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    投稿日: 2022.05.22
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    2022.01.01. 読了後、しばし衝撃の余韻に浸る。 日本人であれば、気づけば足し算をして割り算をして旅人算をして、と算数教育が始まる。中学に上がれば、名前が数学に変わるものの、次々と新しい定理や公理を学んでいく。新たな武器を身につけ問題を解いていく数学は楽しい。そして、大学受験を最後に数学の世界からは遠ざかる。 普通に人生を生きていれば、こんなものだろう。 この本は、「そもそも数学とは、数学という行為とはそもそも何なのか」ということを振り返る暇がなかったことを気づかせる。 現代に教室で学ぶ数学を、人類がどのように獲得してきたかということから、アラン・チューリングを引用して心と数学の関係、岡潔を通じて数学する身体の意味を分かりやすく紐解く。 自分の環世界がまた一つ大きくなった感覚を覚える。 人生とは、自分の環世界を広げていく営みなのかもしれないと思った。 以下、印象に残ったこと ・ギリシア時代の数学は専ら自然言語による。記号の発明は数学において大きな進歩であった。 ・数学とは身体的行為であること。計算という行為を切り離してできたのがコンピュータ。 ・チューリングは、計算という行為を切り離してコンピュータに近い機械を作った。人間の思考や心までも最終的には切り離して、計算可能なものとして機械化できると考えていた。 ・人間は、人間という生物としての来歴、そして個々人の人生の時間の蓄積や想像に立脚した環世界を生きている。風景とは、それらによるところが大きく、見るものによって変わるもの。 ・その人固有の生涯の縁に従って生きるだけだ。 ・ミラーニューロン。私たちの心は他者と共感しやすいものである、環境を横断する大きな心がまずあって、後から仮想的な小さな私へと限定されていく。 ・情とは自他を超えたものである。客体ではなく、自分自身が客体になることでわかることがある。 ・ 関連対談(web 西洋の哲学では人が自由な意思に従って責任を持って何かを為すことは、基本的によいこととされますが、古代中国の哲学ではむしろ「無為」が理想とされます

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    投稿日: 2022.05.21
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    読むほど、「数学」と捉えていた事柄の輪郭が解けて、液体のようになり、体の中に取り入れられる読書体験。

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    投稿日: 2022.03.14
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    『人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなく、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること。』

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    投稿日: 2022.02.22
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    冒頭の「人工物としての”数”」その次に「道具の生態系」くらいまでは斬新でドキドキしたのですが徐々に退屈な内容になっていきました。最初のあたりの内容をもっと展開してほしかったなぁ。

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    投稿日: 2022.01.10
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    わかるは自身が変わる、数字という言葉が脳にある記憶を介して自己の世界に認識される。すると、五感により自然を分けようと数字が無意識に機能する。そこに生活が繋がり合理を求めようとする。居心地の良さは数の整列でもある。時流の一方で "0" と "1" に配列されたデジタルが存在するが、果たしてデジタルで人々は幸せになるのか。所詮デジタルでできることはSNSや情報という言葉である。それよりも自然の中にある数字に興味を抱く。例えば植物で "葉の配列や花びらの形成" を言葉に頼らずに "わかる"。自然は言葉以前の根源にある。だからわかると言葉にするときに人は変わっている。人もまた自然であることの証でもある。

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    投稿日: 2021.12.01
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    これを10代で読んでいたら数学に対して興味や愛情を持てた可能性すらあるな…と、数学が大の苦手だった私でさえ思うほど、数学の新しい捉え方を教えて貰った。面白かった。

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    投稿日: 2021.08.31
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    学生の時に読んだらこの世界にのめり込んだかもしれない、と思うほど、何も知らない人が読んでも引き込まれる一冊。難しい部分は頭が固くなった今では噛み砕くのに時間がかかり過ぎるので流してしまったが、それでも興味深い話が散りばめられていて面白かった。

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    投稿日: 2021.08.27
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    このレビューはネタバレを含みます。

    常に身体と共にあった数学が、証明や記号(+,=)を含んで、どんどん抽象的で普遍的な物へと変わっていく。 そして遂に「コンピューター」「AI」という産物を生むに至る。 そのプロセスは「身体」「心」と「物」とを分離していく事であった。 そしてそれを進めたのは、数学者たちの普遍の追求に対する情熱だった。 だから、今日の数学は一見身体から数字が離れて一人歩きしている、空虚な物に見える。 しかし、「コンピューター」「AI」は再び人と人の心を通わせる。 「物」と「心」はそう簡単には分離できない。 アラン・チューリング / 岡潔の2人の巨人は、「数学=物」を追求する事で、「心」とは何かを追求した。

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    投稿日: 2021.08.07
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    数学についての一つの見方を示唆してくれる。読んでくにつれ、脳科学か心理学についての本ではないか。ラマチャンドランの獲得性過共感なんか随分おもしろいではないか、と思った。また、著者は随分岡潔に心酔していて、彼の思想の解説をして、岡潔に興味を持って、ここはひとつ彼の著書を読んでみようかという気になった。2021.6.6

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    投稿日: 2021.06.06
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    書店で「計算する生命」という書籍を目にして読んでみようと思ったのだが、著者が過去の著作を先に読もうと思って手に取ったもの。 人類が数学をいかに発展させてきたかという概論を論じたのちに、数学を介した心の追及に焦点が当てられる。 本書の後半は、情緒を重んじた岡潔の業績とその生活について考察されている。コンピュータ科学の父とされるチューリングが心のありかを探るために心を作るアプローチをとったのに対して、岡潔は数学を深く突き詰めることで心になるというアプローチだったと考えられる。 数学に深く向き合うことで自分の心の在り方にまで関係が出てくるという、数学という学問の奥深さに興味を持った。 ギリシア時代の数学は、専ら自然言語で語られるものであり、現在の数学でみられるような記号は用いられなかった。だから幾何学の照明を行うにもいちいちどの頂点がとかどの辺がということを言葉にする必要があった。これが記号化されたことでいちいち語ることの煩わしさをいかに省略し、人が考える上での処理能力を節約できたかということもおもしろい。もともと人間の脳は数のような抽象的な概念を扱うことが得意ではなく、紙などに数などの記号を書くことで脳の外に実態として出すことができる。実態として出された紙の上の記号に対しては、手を動かすことで操作することができる。これが身体を使って計算するということの一つの例であると理解した。 本書では数学について述べられているが、記号という意味ではあらゆる文字も記号である。文字を手で書いていくということは頭の中身を外部に出して、体を動かして考えるということになるだろう。手書きで考えた方が作業がはかどることも多いが、脳の処理を節約し、更に具象化されたものとしてその情報を操作することができるからなのかもしれないと思った。

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    投稿日: 2021.05.09
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    'すなわち、人は何かを知ろうとするとき、必ず知ろうとすることに先立って、すでに何かを知ってしまっている。一切の知識も、なんらの思い込みもなしに、人は世界と向き合うことはできない。そこで、何かを知ろうとするときに、まず「自分はすでに何を知ってしまっているだろうか」と自問すること。知らなかったことを知ろうとするのではなくて、はじめから知ってしまっていることについて知ろうとすること' '設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じりあう' '…「離散的数量を厳密に把握する(あるいは操作する)」という、人が本来苦手とするタスクを遂行するために、身体や物、さらには外部メディアを使った記号の体系を道具として利用しながら、認知能力が拡張されていく様子であった。人は数字をはじめとする種々の道具を環境の中につくりだし、それを操作することで、巧みに数学的思考の海を渡り歩いていくのである' '数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ' '建築とは、抽象的に言えば、人間の手によって環境の機能を拡張することである。それは道具の使用と同様に、生命が認知コストを外部化するための方法の一つだが、道具が身体的に「把持される」ことで直接的に身体を延長するのとは対照的に、身体がそこに「住まう」ことによって、より間接的に身体の能力を拡張するのが建築である' '数学者は、もはや道具を駆使しながら物理世界に働きかけるものではなく、自ら建築する空間の中に住まい、その中を行為するものになる。行為が建築をいく生成し、建築が行為を誘導する。建築の中に住まう人との境界が雑じり合い、渾然とした一つのシステムが形成される' 'チューリングの心を魅了したのは、いつも「解けるかどうかがわからないパズル」であった' 'しかし彼が、いかなる難問(パズル)を前にしても、常に「解ける」方に賭けて挑み続けたことだけは確かだ。不安の中に、すなわち間違う可能性の中にこそ「心」があると、彼は誰よりも深く知り抜いていたからである' 'ヒトから、その行為が取り出される。そうすることで、対象化が進み、普遍性を手に入れ、探求が深まる' '行為を取り出すことは、人間性をさらけ出すことに似ている。考えることの部分を外部化して、機能化を図ることで、削ぎ落とされるものがあり、状況がクリアになっていく。まるで削ぎ落とされていくことが、ヒトという営みと、それ自身を詳らかに表していくことに繋がっている' 世界の証明と、ヒトの解明と。たまねぎの皮を剥いていくように、それは明らかにされていくように、姿は解剖され、いつか実体が表れるはずだと、中心へ向かい続ける。 ヒトというものから取り出されたものが、自律性を獲得し、僕たちの外側に新しい環境世界を作り始める。彼らは、ヒトに貢献するために表れ、ヒトを導くために生み出された。機械が心を持つ。心というものを定義できるからこそ、ヒトと機械は区分されるはずなのに、区分したいとヒトこそが、自分達が信じたい心というものを定義できないままだ。 自律した機械が心をもつ。彼らと僕たちが心を通わせる。もうすぐやってくる世界。彼らが、僕たちに気づかせてくれるものがあるはずだと、想像する期待がやまない。ヒトが取り出した部分が、ヒトのように行為を始める。きっと彼らは、ヒトというものそのままだろうし、ヒトというものを単純に表したものであるはずだと、思う。そこで出会う発見は、いまに漂っている淀んだ雰囲気を変えてくれる、その更新を与えてくれるものだと、思いたいんだ。 形や、モノや、そして、心が、切り離せず、分け隔てることが出来ない。それが自分たちの世界なんだと、気づくことなんだ。

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    投稿日: 2021.04.28
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     数学史の概観から現代数学に続く二人の巨匠を中心に、「数学する」ということについて思いを巡らせるエッセイ。  原始、数学は日常の具体的な問題を解決する手段であった。暦を数えたり土地を測量したりするためのより実践的な「道具」として数字を用いる。  そこから紀元前5世紀頃に入ると、古代ギリシアでは計算することよりも「証明」することに価値が重く置かれるようになる。「なぜ」その理論が正しいのか?ということを証明することが「文化」になった時代である。書く文字数が多くて面倒だから、というしょうもない理由で私が一番好きじゃない単元である。この「証明」文化の代表作はユークリッドの『原論』であり、そこで使用するのは「図」だった。  そこから17世紀以降の中世ヨーロッパでは「図」ではなく「記号」を使用する一般式が誕生する。著者はそれを組織的、計画的な数学と表現する。ただし数学を一般式で表すことに対して数学者の限界が訪れる。「図」には物理的制約があるが、「記号」には限界がなく、計算が複雑化するためである。一般式として表現はできるがどうにも理解し得ない事象が発生し、数学者を悩ませた。  そこで20世紀には数学をもっと形式化、公理化させるコンピュータの基礎が生まれる。身体性のない「計算する機械」の誕生である。  そのコンピュータの基礎をさらに発展させたのがチューリングである。チューリング機械は「計算」そのものを物理的機械にしたもので、まさに現代のコンピュータといった趣だ。プログラミングの世界だと私は認識した。ただチューリングはここで機械自身が「数学する」ことはできるのか?「数学する」うえで思考する心やひらめき、直観という要素を機械自身が内包することはできるのか?という壁にぶち当たり、解決はしないままとなった。その問いは現代のAIへと連綿と続くもので、機械自身の思考の可能性ってどうなんだろう?とても興味がある。    もう一人、現代を代表する数学者として著者が敬愛している様子である、岡潔が取り上げられている。20世紀に台頭した身体性のない「計算する機械」により、数学に厳密性や生産性、客観化が求められるようになった時代において、岡潔はもう一度数学を身体化する、数学と一つになることを志す。人間が「わかる」ようになるとは計算や証明によってだけでなく、自己が変容することによって、という話は興味深かった。確かに自分の中の知識が増えたり、今までにない経験をしたり、はたまたその時の自分のコンディションによって、今まで分からなかったことが急にはっきりと分かるようになったりすることってあるなぁと思う。また情の通い合いにより無心から有心へと変容することで数学への道が拓けるというのは、なんとも神秘的だと思った。その境地へたどり着くには道のりが長いだろうなぁ。  「数学」という一見理論だっていて正確で寸分の狂いもなさそうな学問が、チューリングにしても岡潔にしても最終的に「心」へとその矢先が向かうのは面白いと思った。その「心」とはひらめきだったり無心から有心へと変わることだったりするのだけど、その「心」に裏打ちされるのはやはり「知識」なのではないかと思うと、興味の赴くままに色んなものを読んだり聞いたりして間口を広く知識を吸収していくことが大事なのではないかと思った。

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    投稿日: 2021.02.13
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    数学から一番縁遠いと思っている自分が、この本に魅了された。岡潔という巨人に導かれながら、著者はこころに迫ろうとしている。文庫174p 聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水という道元禅師の和歌を岡潔は次のように読み解く。外で雨が降っている。前肢は自分を忘れて、その雨の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識に上らない。ところがあるとき、ふと我に返る。その刹那、「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが本当の「わかる」という経験である。 森田は、それを次のようにとらえる。自分がそのものになる。なりきっているときは「無心」である。ところがふと「有心」に還る。その瞬間、さっきまで自分がなりきっていいたそのものが、よくわかる。「有心」のままではわからないが、「無心」のままでもわからない。「無心」から「有心」に還る。その刹那に「わかる」。これが岡が道元や芭蕉から継承し、数学において実践した方法である。 なぜそんなことができるのか。それは自他を超えて、通い合う情があるからだ。人は理によってわかるばかりではなく、情を通わせ合ってわかることができる。他(ひと)の喜びも、季節の移り変わりも、どれも通い合う情によって「わかる」のだ。 ここで展開される「わかる」とは、日々自分が行っている訪れる人の話をひたすらに聞く、そのことで話す人と私との間で、言葉を超えて動かされる情が共有されたときにお互いに「わかる」「わかられた」と感じられる営みにつながっていると思った。

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    投稿日: 2021.01.10
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    アラン・チューリングと岡潔について詳しく書かれている 数学の歴史を俯瞰できるとともに 人間のカンカクについて考えさせられる

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    投稿日: 2020.12.29
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    数学者が書いたエッセイ。岡潔が書いた芭蕉の感覚を、機械のアルゴリズムに対する自然や人間の瞬時の計算として説明されてるのが新鮮だった。 人類は、座標と数式を道具として使い改良して概念を広げながら世界を捉え続けているけど、数と記号がたまたま人類にとって使いやすかったのであって、もしかしたらその道具では拓けない領域もあるのかもしれないし、また改良していくのかもしれない。どっかで映画『メッセージ』みたいに、地球外生命体に概念を授かることもあるのかもしれない。 普段、うまくコンピュータに仕事させられなくてもどかしさを感じるけど、諦めちゃいけないな(感想)

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    投稿日: 2020.12.24
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    (2018年4月のブログ内容を2020年11月に転記したものです) 某大学の生協にたまたま立ち寄ったときに平積みになっていた本です。 数学は身体のどこで行われているのか、これが森田氏の問いかけです。森田氏は数学史や脳科学の知見を紹介しながら次のようにまとめていきます。 ○ 数学の客体化と岡潔  まず、人間は周囲の環境にあわせて、今使える道具を最大限に利用して(指だったり紙とペンだったり)数学しています。古代ギリシアでは『原論』に見られるように図形や道具と「数学する自分」は分かちがたく結び付いていました。二十世紀になって、ヨーロッパ数学は私たちの身体から次々と数学の要素を切り出していきます。例えば、公理的な方法によって「数学するという行為」が、チューリングのコンピューターによって「計算するという行為」がそれぞれ客体化(研究対象になるということ)されました。 一方で、同時代の日本の数学家、岡潔は「情緒」によって数学した人だと紹介されます。「情緒による数学」とは、「客体になりきる」、つまり「数学になる」ことによって数学するということだと、森田氏はいいます。森田氏は岡潔のよく引用した芭蕉の句を取り上げます。 聞くままにまた心なき身にしあらば己なりけり軒の玉水 外で雨が降っている。禅師は自分を忘れて、その雨水の音に聞き入っている。このとき自分というものがないから、雨は少しも意識にのぼらない。ところがあるとき。ふと我に返る。「さっきまで自分は雨だった」と気づく。これが「わかる」という経験である。岡は好んでこの歌を引きながら、そのように解説をする。 この部分は、岡潔の数学観をよく反映した部分であり、筆者が共感し、文系の身から数学科に転身したことの本質にもなっていると思います。 ○ 2通りの「わかり方」を使って考える 私たちは研究対象を客体化して「神の視点」でとらえようとしがちです。もちろん、論理的に組み立てる際にはその行為が不可欠ですが、人生を生きていく上では、車の両輪として「主体として没入する」ことも同様に大事なのだと、改めて感じさせられました。感覚に没入してふと我に帰ったとき、その全体像が「わかる」という経験は大なり小なり、何かに没入した経験があれば、みなさん感じたことがあるのだと思います。 これまでこのブログで紹介してきた、近藤麻理恵氏の「ときめき」、あるとき「自己本位」に気づいた夏目漱石はまさにそのような没入による「わかり方」の結実したものなのでしょう。 わたしが絵画を見るとき、絵画の中に入ってしまったかのような錯覚に陥るときがあります。悲しいようなあたたかいような気持ちになってふっと気づくとまた現実にいる。そのような「わかり方」を人生において充実させ、一方では、数学を1から組み立てるようなわかり方も大事にしていきたい。 行為と行為する身体が「互いに互いを編みながら、新たな風景を、生み出し続ける」、そんな体験のなかにわたしも身をおきたいと思いました。

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    投稿日: 2020.11.23
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    アランチューリングと岡潔を題材に数学における身体性を語る本。実践者の言葉という印象を受けた。その領域まで到達するには、やはり実戦しかないんだろうな。

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    投稿日: 2020.10.31
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    このレビューはネタバレを含みます。

    数学とは人間の営みである。 数学を非人間的なものと考える傾向のある人はいないだろうか。現実世界から離れすぎて、抽象化しすぎて、何を言っているのかわからないと、高校の授業で思った。この本は、数学と人間の歴史をたどり、抽象化する道を丁寧に説明している。アラン・チューリングと岡潔、2人の数学に対する向き合い方を知り、少しだけ数学を手に取って扱えるもののように感じられたかもしれない。

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    投稿日: 2020.10.19
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    よくわからない本。字面は終えるけど、真に伝えたことがストンと入って来ない。素直に受け入れられる部分と、著者の記述に抵抗感を覚える部分がある。おそらく、読むこちら側が、数学に対しては、非常に素人的な印象しか持っていないからだと思う。なんとなく分かる、分かるような気はするが、伝えるには字数も記述も中途半端だったんじゃないかなあという印象だ。いや、そのことすら「確信」は持てないのだけど・・・w

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    投稿日: 2020.10.11
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    恥ずかしながら、学も少なく活字にあまり強くないので、概要を明確に説明し、筆者の伝えたかった事を述べる事はできません。 特に心に残っている話は、脳のうち「数値」を感じるのは「距離」などを感じる部分で代用しているという話です。それ故、数直線や座標といった「位置」と「数値」を結びつけるなどの面白い考え方ができるのかもしれないというのには合点がいきました。こういう面白い話、数学と身体の関係、身体にとって数学とは何か、数学にとって数学とは何か、なんていう話がちらほらあり、よく分からないけどなんだか「あ、数学やろうかな」と思える書籍でした。

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    投稿日: 2020.08.29
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    おもしろい。 「わかる」という感覚。対象に没入しきって、「体得」するしかない。 この「わかる」という言葉について繰り返されるところから、「わかる」ことの難しさを感じた。 数学の勉強に、と思って読んだ。 数学の勉強にはならなかったが、「わかる」という感覚については自分自身常々考えていたこととマッチしていた。

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    投稿日: 2020.08.19
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    一風変わった数学への手引き書である。どこか哲学書のような雰囲気も漂う。数学史のような記述もあれば、数学に関するエッセイのようでもある。 だが各々の断章は確実に1つの命題に結び付けられる。 すなわち、タイトルの「数学する身体」に。 数学は不思議な学問である。1から始まり、推論を重ね、数学世界を構築していく。数論、確率、幾何、さまざまな分野が、それぞれの用語で論理を組み立て、視野を広げていく。それらは世界を普遍的に捉えることを目する。 けれどもそれを作り上げている人間は、有限の存在である。自分が何者かわからずに生まれ、最終的には死んでいくのが人間である。ある意味、あやふやな存在が、原点から出発して、周囲を少しずつ認識し、仮定から推論を重ね、確固たる世界を築き上げようとしていく。 数学は身体から生まれる。 身体が数学をする。 数学的真理は普遍的と見なされるけれども、それを生み出すのははかない身体である。 数学は身体を超える力を持ちつつも、身体なくては生まれず、また発展しえないものでもある。 本書では、こうした数学と身体の関わりについて、考察を重ねていく。 特に大きく扱われているのが、コンピュータの父と呼ばれるアラン・チューリングと、在野の数学者・岡潔である。 チューリングは、ドイツ軍の暗号エニグマを解いたことでも有名であり、人間を演じ切る機械を作ることは可能かと問う「イミテーション(模倣)ゲーム」の命題でも知られる。チューリングは分析の人だった。人の心をタマネギの皮をむくように1つ1つ解き明かしていく。むいてむいて、最後には何が残るだろうか。そうした形で発展していったのがチューリングの研究の仕方である。 対して、岡は数学を生きた人である。というよりは、彼にとっては生きること自体が命題であり、その1つの発露が数学であったにすぎないのかもしれない。岡は「情緒」という言葉を好んで使った。 数学を身体から切り離し、客観化された対象を分析的に「理解」しようとするのではなく、数学と心通わせ合って、それと一つになって「わかろう」とした 著者もまた、チューリングの姿勢よりは、岡の「生き方」に魅かれているようにも見える。 著者は武術家の甲野善紀とも親交があり、そういう点からも、「身体」へのまなざしが感じ取れる。 そうして生み出される著者自身の数学がどのようなものなのか、本書からはうかがい知れないのが若干残念なのだが、それは読み手である自分自身の力不足なのかもしれない。 不思議な広がりを持つ1冊である。

    8
    投稿日: 2020.07.30
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    数学と哲学はもともと近い関係にある、とは昔からよく言われることだが、それがつまりどういうことかを読者にそれなりのボリュームでわかりやすく(文系寄りに)提示している本に初めて出会った。あとがきはややナルシスティックな書きぶりだが、本文は難しいことを一般読者に過不足のない言葉で説明しておりすばらしい。

    4
    投稿日: 2020.07.15
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    文系の自分に結びつかない単語が並んでいるタイトル「数学と身体」。思わず惹かれて購入し、書籍内の文体の美しさに鳥肌が立った。チューリングや岡潔といった著名な数学者の功績をしれたし、どんな学問でも心・気持ちに寄り添うことが大切なのだと知った。素敵な本と出会った、幸せ。

    0
    投稿日: 2020.07.14
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    この本は、甲野義紀さんのtwitterから知りました。 若い時に甲野さんに影響を受けたということもあり、哲学的な書物で、身体で感じるというか、身体についての考察が共感を得ることが出来た作品でした。 ◯荒川修作さん、チューリングさん、岡潔さんの関連する書物なり映画を見たくなりました。 ◯恐らく読み返す本になると思います。

    3
    投稿日: 2020.04.24
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    3つ以上を数えるために数字を生み出し、そこから数式を編み出し、それが機械をつくり、そして人工知能となって、人間の思考に迫っていく。そんな数学の大きな流れを追うことで「心って何だろう?」ということに向き合った本。 僕らは数学があるから思考するし、数学があるから便利な世界で暮らすわけだけど、果たして思考=数学なのかは、どうなんだろう。 仮に心というものが玉ねぎのように一枚一枚分析して剥ぎ取れるものだとしても、確かに玉ねぎを生み出した種子のチカラの不思議さは、剥ぎ取れないよなあ。

    0
    投稿日: 2020.04.20
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    本を読んだ時、今まで過ごした日々との関わりを感じる瞬間が一番好きです。 この本はその瞬間を多く感じさせてくれました。

    3
    投稿日: 2020.03.14
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    これは深いわ。久しぶりにこういう本を読んだ。 ある意味で哲学書。だけど語り口は優しくて、スッと心に入り込んでくる。 我々は数学を誤解している。 著者はその誤解を少しずつひも解いていくのだ。 一瞬「計算すること」=「数学」と思ってしまうが「そうではない」と言い切る。 歴史的には(計算ではなく)「数えること」から始まった。 これはまだ分かる。次へのステップが面白い。 実は「数学とは【論理】に発展した」というのだ。 これも時系列に沿って考えてみれば明白なのに、なぜかそこに気が付かなかった。 古代より「数えること」は、生活する上で必要なことであった。 そして紀元前3世紀に、ユークリッド「原論」が数学を体系化する。 しかしその中身は、数えることが主眼ではなく、あくまでも公理公準を示しながら論理展開していくものだった。 もちろん「計算」は主眼ではない。 公理公準を読んでいると、一種の哲学のように感じてしまう。 「同じものに等しいものは、互いに等しい」なんて、もはや哲学じゃないか。 江戸時代に「原論」が日本に輸入された際は、そのあまりにも当たり前の論理展開に「レベルが低い」と言って一蹴されたらしい。 しかし、決してレベルが低いという話ではない。当たり前のことを、改めて「前提」とすることで、「では、この場合はどう解釈するのか」を論理で積み上げていく。 この辺は独特な文化の違いも影響しているだろう。 日本では「論理」よりは「感じること」の方が重きを置かれている気がする。 だから当たり前の情報を共有するよりも、情緒を共有する方が、気持ちとして心地いいのだろう。 こうしてみると、数学を通じて、人間の内面を覗いていくのは理解できる。 本書では、後半チューリングと岡潔を取り上げている。 数学者でありながら、二人とも最終的に「人間の心とは何か?」について追い求めているのは、何か不思議な気がするのだ。 特にチューリングは、「どんな数式も、01の数式で置き換えられる」という画期的な理論を見つけ出し、コンピューターの基礎をつくった。 よく考えるとこれも不思議だ。 無理数も虚数も、すべて「01」で表現が出来ている。 宇宙に飛び出すロケットの軌道も、「01」で計算出来ている。 ちなみに本書で「計算」の発展については、16世紀頃と記してある。 これも遅いと思うが、歴史をひも解くと納得。 アラビア数字と「ゼロ」、およびその「ゼロを位取りする」方法が生まれて初めて「計算」が誰でも身近になったのだ。 それまでは、おそらく特殊な才能の持ち主しか、計算は出来なかったのだろう。 アラビア数字とゼロのお陰で、計算が民主化されたのだ。 そう思うと、非常に面白い。 つまり「原論」以降、2000年間くらい、「数学とは論理」だったのだ。 それが「計算」となり、更に今これからは「心」に発展していくのかもしれない。 チューリングも岡潔も目指したのは、人の心だ。 それを数学で再現する。(「解明する」と言った方が分かりやすいかもしれない) 本書のタイトルは「数学する身体」だ。これも深い意味がある。 心こそ、身体があるから存在すると、チューリングも岡潔も認めている。 身体はセンサーの役割で、外界からの情報をインプットしていく。 それを「心」に変換していくのであるが、そこには大きく数学が寄与するだろうことを示しているのだ。 数学が身体を拡張していく。(コンピューターは明らかに人間の能力を拡張している) その時に「心」はどう変化していくのだろうか? 世界が大きく変わる中で「根源的な何か」を追い求めている本書。 すごく価値がある一冊だ。 (2019/12/30)

    3
    投稿日: 2020.03.08
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    人類と数学の関わりを紐解きながら数学の歴史が語られています。特に数学者岡潔に関する記述に惹かれました。次は岡潔氏の著作「日本のこころ」を読んでみたいと思います。

    1
    投稿日: 2019.12.01
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    「数学する身体」 森田真生 著 数学は苦手です。 遠ざけてきた世界です。 文字に関心を高める生き方をしてきました。 文字を通して数学の世界を味わえるなら、、、と思い、 手にした一冊です。 「よく生きるために数学をする。 そういう数学があってもよい。」 著者の理念が子供たちにこそ届いてほしいです。

    1
    投稿日: 2019.09.25
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    森田真生「数学する身体」読了。数学の話から抽象化の極みであるコンピュータの話に転じさらに情緒の話に及ぶ著者の見識に驚いた。その流れはチューリングと岡潔の生涯を辿る事から生まれる。数学が無機的なだけでなく有機的な側面を持てるという点が数学する身体に繋がる。面白かった。

    0
    投稿日: 2019.06.25
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    人類は、身体を道具として、数に対する認知世界を広げていった。 こういうはるか遠くの話から、本書は説き起こされる。 まったく数学の素養がない身としては、ちょっと茫洋とした感覚になる。 そこから、二人の数学者が取り上げられる。 チューリングと、岡潔。 偶然なのか、二人とも近年、映画やドラマになった人たちだ。 この二人がどうつながるのか、つながりがあるのかないのかさえ、予見がつかない読者だったのだが・・・ 心と身体の問題を数学の領域で問うた人たちだったとのことだ。 チューリングは、そのためにまず、身体とともにあった数を切り離し、計算されるもの(データ)から、計算するもの(プログラム)への転回をもたらし、現代のコンピュータ科学の基礎を築く。 これに対し、岡は(主研究たる多変数解析関数の話はとても自分には扱えないので置いておく)、わかるということが、対象と一体化することだと考えた人だという。 数学的な道具を使い、数学者は数学の風景を切り開いていく。 切り開いた先には、その主体が関わることで現出した新しい風景ができあがっていく・・・。 主客一如というのか、すごく東洋的な考え方だ。 数学にまったく縁のない自分にも、なぜかするっと読めてしまう不思議な本だった。 筆者が、脳科学や哲学など、さまざまな知見を導入して、思想史的な布置を作ってくれるので、読めるのかなあ、と思う。

    0
    投稿日: 2019.03.07
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    数学は哲学。世界を、心を理解する方法から、世界に、心に「なる」ことへ。チューリングと岡潔(と芭蕉)を通して語られる森田さんの哲学。チューリングは偉大でありつつ悪役で、岡潔に大きく傾倒している様が読み取れる。私はまだまだ「理解」の側にしか立てないな。岡潔の著作を読んでみたくなった。

    0
    投稿日: 2019.02.05
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    第1章 数学する身体 第2章 計算する機械 第3章 風景の始原 第4章 零の場所 終章 生成する風景 第15回小林秀雄賞 著者:森田真生(1985-、東京都、数学) 解説:鈴木健(1975-、エンジニア)

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    投稿日: 2019.01.09
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    数学という学問が数学という体裁を手に入れてから今日までの進化の道程を辿りつつ、 一見相反する「数学」と「情緒」を繋ぎ合わせていく。 チューリング、岡潔が対照的でありながら心へと向かう試みという点で共通している、という洞察は非常に面白い。 数式が出てくるでもなく、細かい解説がなされるわけではないが数学という学問の意外ともいえるしなやかさに触れることができる刺激的な一冊。

    0
    投稿日: 2019.01.06
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    【数学する身体】 森田真生著、新潮社、2016年 著者は1985年生まれだから10歳年下の33歳の数学者。 東大文二在学中にベンチャー企業を設立するためにシリコンバレーに行っていた著者が、戦中戦後に天才数学者と言われた岡潔の本を読んで数学に目覚めて「数転」(文系から数学科に転じる)した著者。 もともとが文系だけあって、文章がとにかくうまい。 人間が数学というものをどのように作ってきたのか、がとてもわかりやすく書かれている。 例えば、僕らは数を数える時に「10」を一つの単位としていることに異存はないだろう。これを「10進法」と呼んでいる。 では、なぜ「10」が基本単位なのだろうか?ということがこの本には書かれている。 そんなこと、考えたことも無かったが、森田は以下のように説明する。 -- 指を使って数えるのもそうである 。指はもともと 、モノを掴むために使われてきたのであって 、数えるための器官ではない 。実際 、人間の長い進化の来歴の中で 、 「数える 」必要に迫られることはごく最近までなかっただろう 。だからこそ 、いざその必要に迫られたときには 、それまでモノを掴むために使っていた指を 「転用 」するほかなかったのだ 。あくまでその場凌ぎの方法だから 、これにもしわよせがある 。普通に指を使って数えると 、十までしか数えることができない 。だから 、 「十 」が数えるときの単位として定着した 。無限にある数の中で 、 「十 」が特別扱いされなければならない数学的な理由など 、どこにもないのにである 。実際 、コンピュ ータの中で数字は 、二進法で表現される 。何と言っても 、二つの記号だけですべての数を表せるのが魅力である 。その点 、二進法は十進法よりもはるかにエレガントだが 、世界中の大部分の人は十進法を使う 。それは 、身体を使って数を扱う人間にとって 、十進法がたまたま運用上 、もっとも合理的であったというだけのことである 。 -- この他にも、第二次大戦中にナチスドイツの最強暗号といわれた「エニグマ」を、解読する方法を編み出したイギリス人の天才数学者チューリングのこともページを割いて紹介されている。チューリングはその後、それまでの「人間が行う計算」から「計算そのものを行う計算」という概念を打ち出して、それこそがコンピューターの基礎理論となったことなどを紹介する。 今こうして、フェイスブックを通じて読書日記をUPすることも、インターネットで世界中にシェアできることも、まさにこのチューリングの発想から始まったことだ。もっと言えば、現代社会の殆どがチューリングの発想から始まっていることに驚嘆する。 高校にいると「数学なんて、役に立たない」というセリフを聞くことがままあるが、現実は的には「数学の恩恵を得ない生活は成り立たない」ということだ。 6割くらいしか理解していないかもしれない。 でも、むっちゃ面白かった。 せっかくの夏休み、高校生は背伸びをして、こういう本に挑戦してほしい。 #優読書

    0
    投稿日: 2019.01.06
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    岡潔とアランチューリングという2人の数学者を引き合いに出しながら、「考えること」に関して向き合った本。考えるということは、個人の脳の中では完結せず、脳から身体へ、そして公共へと拡張されることによって実現される行為であるというのが要旨だと読み取った。 ・古代ギリシアより、数学をするには「証明」という思惟の公共性が必要とされた。内にてひとりぼっちで思索にふけるのではなく、証明という外部表出によってはじめて思惟たりうるという考え方。 ・ハイデガーも言っている通り、学ぶという行為は、すでに知っているものを知ることである。 ・いかなる生物も、客観的な「環境」を生きているわけではなく、自分の主観に基づいて再編集された「環世界」を生きている。その環世界の中で、思考と行為を繰り返し、「自分の思惟」が完成されていく。 ・岡潔においては、何かに取り組むことというのはそのものと主客二分されずに一体となるという瞬間が必要だと語る。

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    投稿日: 2019.01.01
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    大学には属さない在野の数学研究者であり、数学の魅力を伝える様々な講演活動等も行う若き著者が、数学の歴史を紐解きながら、数学との距離が遠くなってしまった身体をいかに数学に取り戻せるか、というテーマの元に、数学という学問の面白さを語る随筆。小林秀雄賞の受賞作という点からも明らかなように、文体は極めて理路整然としており、かつ静かな熱量を帯びた語り口が魅力的に映る。 読み手に一定の解釈の自由度を与える(良い意味で、特定の意味を読み手のおしつけない)文章であるが故に、読む人によってどこを面白いと感じるかは恐らく大きく違うだろう。僕個人としては、作図や数学的記号を用いた演算といった「道具」を数学が手に入れることで、「意味」を超えるものがそこから生み出されるという点に改めて「道具」というもののもたらす可能性を感じた次第。人間がその時点で知覚できる「意味」には常に限度があり、その本当の意味はむしろ事後に遅れて解釈されるようになる。虚数の概念のように、数学ではそうした事象が顕著に見られるという点が面白い。

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    投稿日: 2018.07.14
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    最初はチンプンカンプンだったが、アランチューリングが出て来て、面白くなった。 「イミテーションゲーム」という映画を見ていたので、馴染みがあったのだ。 そして、岡潔が出て来て、こちらも小林秀雄との対談で知っていた。 今まで読んだことのないジャンルの本に、興味を持たせる本である。

    1
    投稿日: 2018.07.05
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    数学することと生命活動を営むことの間の関係性を,数学の歴史を繙き,チューリングと岡潔の生を顧みることにより明文化する.明確な解が存在するかも分からないが,何はともあれやってみて,それから思考すればよいではないか,という姿勢は,研究者に通底する.

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    投稿日: 2018.06.15
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    数学と数学者の話ししか出てこないのに、爽やかで清涼な残り香。なんとも不思議なエッセイだった。 大学の教養課程で「数学」の授業が「論理」についての授業だった時におぼえた解放感を思い出した。本書は言葉をつくして「考えること」「考える手続き」「思考の道具」「考えたことを共有する方法」など思わぬところで「生きることと数学」がつながっているのだと語りかけてくれる。 素晴らしい読書体験だった。

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    投稿日: 2018.06.01
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    快著である。チューリングに至る、身体性にからめた数学史のさらい方に唸るものがあるが、岡潔を通して、逆方面から数学を大きく、深く写し出した思索も見事である。文も美しい。

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    投稿日: 2018.05.20
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    本書は、東大工学部・理学部数学科を出た(文Ⅱから理転)独立研究者・森田真生(1985年~)が2015年に発表した初の単著で、史上最年少で小林秀雄賞を受賞したもの。(2018年文庫化) 著者は現在、数学をテーマとした著作・講演活動などを行う。 本書で著者は、古代ギリシアからの数学史、ナチスドイツの「エニグマ暗号」を解読し「人工知能の父」とも言われる英国人アラン・チューリング(1912~54年)、そして、多変数解析関数論の研究で世界的な業績を残した数学者・岡潔(1901~78年)を語りながら、「数学とは何か」、「数学にとって身体とは何か」、「数学とは何であり得るのか」を問うている。その過程では、数多の数学者のほか、建築家の荒川修作、『生物から見た世界』のフォン・ユクスキュル、脳科学者のラマチャンドランなどにも話は及ぶ。 しかし、解説で鈴木健氏が言っているように、著者の関心は明らかに岡潔に注がれており、著者が岡潔の『日本のこころ』に出会ったときに、「私は、岡潔のことをもっと知りたいと思った。彼が見つめる先に、自分が本当に知りたい何かがあるのではないかとも思った。簡単に言えば、「この人の言葉は信用できる」と直観したのだ。」という確信に基づいて語る言葉は、私には強い印象を残すものであった。 「「情」や「情緒」という言葉を中心に据えて数学や学問を語り直すことで、岡潔は脳や肉体という窮屈な場所から、「心」を解放していこうとした。・・・岡潔は確かに偉大な数学者であったが、生み出そうとしていたのは数学以上の何かである。」 「岡は科学を丸ごと否定しているのではない。彼は「零まで」をわかるためには「零から」をわかるのとは違う方法が必要であると言っているのだ。」 「自他の間を行き交う「情」の宿る個々の肉体は狭い。人はその狭い肉体を背負って、大きな宇宙の小さな場所を引き受ける。その小さな場所は、どこまでも具体的である。友情もあるだろう。恋愛もあるだろう。人と交わした約束や、密かな誓いもあるだろう。苦しい離別もあれば、胸に秘められた愛もあるだろう。そうしたすべてが、ひとつひとつの情緒に、彩りを与える、そこに並々ならぬ集注が伴うと、それが形となって現れる。岡潔の場合、数学となって咲いた。」等々 私は、岡潔の『春宵十話』は以前読んでおり、その中にあった「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」という表現に衝撃を受けたが、その真意は十分には分からなかったし、本書についても、一読しただけで著者の言わんとすることが消化できたとは思えない。 しかし、著者が「あとがき」に記している「よく生きるために数学をする。そういう数学があってもいいはずである。この直感に、私は形を与えていきたい。」という思いには直感的にシンパシーを覚えるし(更に、岡潔も著者も「よく生きるために●●をする」の●●は「数学」である必要は必ずしもないとも言っているのだ)、それを少しでも身体で感じられるように、今後時間をかけて思索してみたいと思うのである。 (2018年5月了)

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    投稿日: 2018.05.18