
総合評価
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powered by ブクログ瀬戸内寂聴はちょっと。。。と食わず嫌いで過ごしてきたけれど、古典をそのまま読むのは気が進まないので半ば妥協で借りてきた本。 平安女性(才色兼備の)貴族自伝。 「ありきたりのいい加減な話が世間で持て囃されている。身分の高い男の妻であるこの私が事実を書いたらどんなものでしょうね。」で始まる。 蜻蛉日記本文引用と瀬戸内寂聴の脚色?超訳?の分量も丁度良く、そのまま読むと平面的で巻物絵のような印象で終わるやも知れない原作が映画のように立体的に多角的に肉や吐息や汗を伴って再現されている。さすが生臭尼(褒め言葉 冒頭から「(いくら美人で文才があっても)こりゃ大変な事故物件なのでは。。兼家乙。」読み進めても同じ。息子がいたとはいえこれを見捨てないどころか15-16年は足繁く通い毎年元旦は必ず訪れるほど礼を尽くしたのは彼女の美貌と才能と高貴な不器用さというレアリティのおかげか。にしても兼家が「だってあれだけ珍しい花だもの。メンテは他の花と同じってわけはないし手がかかるのも当たり前さ。その面倒も僕を愛してるからこその甘えなんだから全てが色っぽいよ。甘噛みが過ぎるだけさ。」と余裕に満ちてるのが1000年経っても伝わる。そりゃ女性からしたら余計に腹立つか。笑 女性心理描写がリアリティに溢れていて、冒頭文章を書く女性の「鬼」(女性としての幸福に不必要な才能)に触れたかと思いきや「美貌が若さに負けるなんて知らない」「自分の矜持が許さないことが相手の魅力」「時姫には嫉妬しない。コンプレックスが大き過ぎて」なんてのは道綱母を「美貌と文才を鼻にかけた世間知らずの幼稚な女」と何度も切り刻むようでありながら「生きるのが下手な賢く愚かで不幸な女」と憐れむよう。 兼家にちょっと優しくされただけで時姫の娘の入内を素直に喜ぶ作者をして「日頃は女の強情さの底にかくされている気の好さや、育ちの良さがしよばれて痛々しい」また 「兼家の冷淡さは筆を極めて克明に書くが、自分が満足させられたことは省略していることが多いのを見落とせない」としている。 うっ。 麻薬中毒に関して快楽と苦痛をシーソーになぞらえ説明した本を読んだが、今なら少し分かる。 麻薬にしろ恋愛にしろ、シーソーの支点がズレるのだ。道綱母は兼家を想うあまりに彼の愛情を感じるたびに「それを失ったら」と余計に不安がる。その際反対側のシーソーは勢いよく下振れし支点もズレる。愛情のシーソーは短くなり苦痛のシーソーは長くなる。1の愛情を得れば5の苦痛を返してくるのだ。環境も大きいだろうけど彼女は生まれつきそういう脳の構造なのかも。 瀬戸内寂聴が想像する「欲求不満」の影響は大きいだろうなぁ。運動もせず重い着物を何枚も着込んで前屈みにじっとしているだけの生活。 高貴な女性にとって性生活だけが「生きてる」ことを実感できたのでは。 作者が出自の卑しい女とその子供を呪い殺さんほどの敵意を剥き出しにするところ、瀬戸内寂聴は時代的にも紫式部が源氏物語を書く上で参考にしたのではとしてるが納得の推察。 にしても。 兼家クン、「明るい賢い骨太で野良犬感のある上品な男」なんでしょうね。彼の傲慢さの土地に生えた天真爛漫さや強引さや優しさなどのホックが、多くの女性の心に引っかかる。そして上流階級のお坊ちゃんが相手の女性の身分にあまり拘りを見せないところが、選ばれた女性の「私だからこそ選ばれたのだ」という自尊心をより大きく刺激して余計に沼らせるのか。普通こういう男は総じてクズなんだけど、どうやら彼は相当、いや至極マトモ。 とはいえ。 死を覚悟した病身で作者を密かに向かい入れる(本妻のいる自宅に)とか、賀茂祭での作者と本妻の喧嘩の様子を当日夜に聞かされても2人の女の仲違いを理解した上でのからかい、時代が違うとはいえやはり遊び人独特の無邪気な残酷さが見られる。作者は密かに自宅に招き入れられたことを愛情の深さと捉えたかもだけど、「あなたにやってることは他の女にもやってますよ」ですよね。 悪意のない悪行ってのが一番タチが悪く、人はそれを「鬼」と呼ぶのでは。 瀬戸内寂聴の本が売れてるのもようやく少し理解した。特に後半、道綱母が出家を仄めかし16歳の道綱が自分もと泣きじゃくる。母はおどけて「鷹も飼えなくなるわよ」と取り繕うと鷹を空に放つ。その際の道綱が見た空の色と光を書いてる。 そういうの好きよ。生臭尼(褒め言葉 彼女は奔放な人生を数十年送った後に仏門に入ったとか。「自分っていうのはこういう人間で」と俗世のモノが話すとどうしても自己弁護が出て門が丸くなりシルエットが甘くなる。ところが俗世の外から鋳型のように「それ以外」をうつしとると細かいズレシワキズ、全部出ちゃう。そこが彼女の文章の魅力でありグロテスクさなのか。 他の本も読んでみよかな。 最後に好きな和歌(喧嘩)をいくつか そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらむ(道綱母) 真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそことか(時姫) 三十日三十夜はわがもとに天地を袋に縫いて幸をいれてもたれば思ふことなし(道綱母) 年ごとにあまれば恋ふる君がためうるふ月をばらおくにやあるらむ(兼家) 蜻蛉日記の作者道綱の母をワカメとするとタラちゃん(実際は妹の娘)が更級日記の作者。カツオ(理能)が花沢さんと結婚、花沢さんの姉妹が清少納言。 もう一人姉がいたと仮定して(アワビ?)その旦那の兄弟の孫が紫式部。
0投稿日: 2023.11.01
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
蜉蝣日記の作者・道綱の母はなぜ蜉蝣日記を書いたのか。 高すぎるプライド故に、亭主・兼家の女癖の悪さが許せず、乾くことのない愛欲に悩まされる。 そんな彼女の作品を通して、女の愛について読み解いていく。 道綱の母が兼家への不満を書けば書くほど、兼家がかっこ良く見えるパラドックスに気づかされます。 兼家にふりまわされ、愛に悶えて、自分は一体何なんだろうか?と煩悶する気持ちが痛いくらいに伝わります。 現代も変わらない人間の情愛について語られる、瀬戸内寂聴さんの筆遣いが素敵です。
1投稿日: 2020.08.04
powered by ブクログ2019年4月14日、読み始め。 41頁まで読んで、返却。 2021年5月29日、追記。 著者の誕生日は5月15日ですが、今回の誕生日で99歳になられたとのこと。 以下、ウィキペディアより、コピペ。 瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう、1922年〈大正11年〉5月15日 - )は、日本の小説家、天台宗の尼僧。俗名晴美。京都府在住。 僧位は権大僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県立城東高等学校)、東京女子大学国語専攻部卒業。学位は文学士(東京女子大学)。元天台寺住職、現名誉住職。比叡山延暦寺禅光坊住職。元敦賀短期大学学長。徳島市名誉市民。京都市名誉市民。代表作には『夏の終り』や『花に問え』『場所』など多数。1988年以降には『源氏物語』に関連する著作が多い。これまで新潮同人雑誌賞を皮切りに、女流文学賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞などを受賞している。 2021年11月11日、追記。 11月9日、心不全のため京都市内の病院で亡くなったとのこと。 99歳の大往生でした。 ●2023年1月3日、追記。 本作の内容は、次のとおり。 ---引用開始 恋に破れ、女が心に鬼を宿す日記を読み解く 『源氏物語』はじめ多くの文学に影響を与えた名作『蜻蛉日記』。愛とプライドに追い詰められていく藤原道綱の母の半生記を通じて、女の業や生き方を分析しつつ、現代語訳に挑む。(解説/俵万智) ---引用終了
4投稿日: 2019.04.15
