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渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝
渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝
渡部昇一/扶桑社
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    アルフレッドラッセルウォレス 日本が欧州の植民地にならなかった理由が書いてある。自国の動植物誌とか、伊能忠敬の日本地図があったから、日本は未開野蛮国と見なされずに、植民地対象外になったらしい。 ダーウィンが種の起源を考えるヒントになったのは微分積分をかじってたかららしい。生物学は数学関係無いと思われがちだけど、メンデルも生物学に数学の確率の考え方を入れてメンデル遺伝の法則を見つけたから、数学の考え方は本当に役に立つと思ってる。 「園芸と読書を好み、読書クラブや貸し本屋から借りた旅行記や伝記の最善のものがいくつも家の中にありました。かのトマス・ボウドラー氏( Thomas Bowdler)が、シェイクスピアの作品の中の卑猥だったり下品だったりする表現を削除した『家庭用シェイクスピア』全集十巻を一八一八年に出版した時、父は購入していました。ボウドラー氏は「家庭で声を出して読むのにふさわしくない単語や表現を削除した」とその刊行趣旨を謳っているわけですが、私の父はまさにシェイクスピアを声を出して家族の者たちに読んで聞かせてくれたものです。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「兄弟姉妹のことを簡単に紹介しておきましょう。まず長兄のウィリアムですが、土地測量士になり、後に私もこの兄と一緒に仕事をすることになります。次兄のジョンは建築業者に弟子入りし、後に立派な大工と指物師になりましたが、あとで測量と建築を学び、ゴールド・ラッシュの盛りの頃にカリフォルニアに行って採鉱をやってまずまずの成功をして帰国し、イギリスで結婚してまたアメリカにもどりました。弟のハーバートはトランク製造職人に弟子入りしましたがこれを好まず、後に鉄細工製品の鋳型を作る店に入りました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「オウエンは十歳の時に、兄が馬具職人をしているロンドンに出ましたが、その後スタンフォードの大きな衣料・呉服商に移ります。この店は最高級品を扱い、全国の貴族・紳士階級に品物を供給していました。ここではよい品質の織物を選別する目を養ったほか、仕事があまりきつくなかったので一日五時間も読書したといいます。この時にすでに彼は自活していますから、十歳にして経済的に独立したことになります。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「その後いろいろありましたが、事業的には成功の連続で、南スコットランドのニュー・ラナークにある工場のパートナーであり、唯一人の経営者になったのが二十九歳の時でした。ここまでの経歴を見ただけでも、オウエンは空想家であるどころか、天才的な実務家であることがわかります。マルクスはじめ多くの社会主義者が全く実務を知らなかったのとは大違いなことがわかりましょう。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「またこの仕事をしている間に、三角法を用いて地図上の土地を計算したり、測量術や地図作成の基本を習得しました。これは実に面白い仕事でした。兄は『イングランドの三角測量』という大きな本を持っていましたが、この本が私の興味をさらに刺激してくれたことは確かです。教会の塔や丘の頂上などが三角測量の地点になるわけですが、私たちが測量している教区の教会もそれに入っていました。この本を私は愛読し、三角測量に使われるセオドライト経緯儀などの測量器具についての説明もよく読みました。数十キロ、時として百数十キロも離れた山の頂上を観測点とし、一インチ(約二センチ半)ぐらいの誤差しか出ないことを知った時の私の新鮮な知的興奮は想像してもらえるでしょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「地図製作のための精密な測量と計算法が私に与えてくれた感銘はまことに深いものがありました。実際に測量をやること、あの小型六分儀という見事な道具を使うことを覚えたことは、私の精神を実用数学に開いてくれたことになります。学校では幾何や代数をいくらか習いましたが、数学を実際に用いるということは教えられませんでした。私は測量と計算を通じて新しい知の光を見た思いがしたのです。知識欲が猛然とわき上がりました。幸いにその当時は有用知識普及協会が出版している初歩的な本を安価で買うことができました。  最初に買ったのは光学と機械学の本です。そして数年間、私はできる限りの易しい実験などをしながらこの二冊の本と取り組み、初歩の機械学と光学の主要原理を次第に明確に把握するようになりました。物理学への興味と、その諸原理の勉強は、一生続いたのですが、その基礎はこの時にできたものです。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「また測量の仕事の性質上、田舎に住んでいるためよく一人で散歩することがありましたが、そうした折に大自然というものを感じ始めました。そして毎日目にするいろいろな花や灌木や木の名前をもっと知りたいと思うようになったのです。その頃はそうした植物の学名どころか、英語での名前も知りませんでした。植物学という体系的な学問の一分野があること、つまりどんな花でも、どんなとるに足らない雑草でも正確に記述され分類されていること、数限りなくいろいろある植物や動物には体系あるいは秩序があるのだということなど、その頃は知らなかったのです。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「バイロン卿といえばロマン的な詩人とすぐ考えられますけれども、私は人権の擁護者であり、真に倫理的な教師であったと思います。ついでながら言っておけば、ウィリアム兄も私も、パブリック・スクールや大学とは無縁でしたが、測量をしながらも、イギリス文学を読み、文学論も交わし、また政治にも関心を持っておりました。われわれは落ちぶれた中流階級の人間でしたが、やはり労働者階級とはそうした点では画然たる教養の差があったと言ってもよいでしょう。  パブの酒場に集まる人たちは、よく唄を歌いました。中には下品な歌詞のものもありましたが、上の階級の人たちの唄より下品ということはありませんでした。面白いと思って記憶に残っているのは、ナポレオンを英雄としている唄が多かったことでした。当時、イギリスはナポレオン戦争に勝って間もない頃ですから、ナポレオンに対する悪口や悪趣味の漫画などが溢れるほど印刷物として出ていたのに、村のパブではまるで違っていたのです。あれは何だったんでしょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「「君もこの土地測量という半分戸外、半分屋外の仕事を好きになると思うよ。よく晴れた夏の日に、文字通り国中を跋渉して測量鎖を引っぱり、大自然の美を鑑賞し、丘の上で新鮮な空気を吸い、あるいは、昼の暑いさなか、潺湲と流れる山川の側の気持ちよい谷間でチーズ・パンを食べることは楽しいですよ。実際は時として、寒い冬の日に、一本の木もない丘の上の、一マイル四方に家一軒ないところで、風に吹かれ、霙に打たれ、骨まで凍る思いがすることもあり、これはあんまり愉快とは言えません。しかしこれも夕方には十分補いがつくのです。一日中家に居る人には、皿も茶碗も何でも食べれるほど空っ腹を抱えて、ちゃんとした夕食に向かって座る時の楽しさというものは想像できないでしょう」」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「そのほか、このあたりには地質学的に面白い渓谷や巨石などあり、日曜にはよく探検したものです。当時はまだ地質学の知識はなかったのですが、地質学的に面白いものには深い興味がすでにあったことを示しております。これは私の将来の研究に対する適性がすでに現れていたと考えてもよいのではないでしょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「私は論理の徹底を求めること、ほとんど天性の如きものがありましたが、自然科学の世界ならともかく、人間の世の中は論理の徹底だけでは把握し切れぬものがあるようです。また今から反省しますと私の論理の徹底も部分的徹底にすぎなかったことがわかります。たとえば生まれつきの才能の差は巨大です。これを機会の平等の論理を徹底させるだけで公平にすることができましょうか。勉強は一番できない人間が理解できる水準にとどめ、運動競技も一番運動神経の劣った者ができる水準以上のことはさせないとしたら、平等の論理は完徹されたことになりますが、それはナンセンス以外のものにほかならないことは誰にも明らかでしょう。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「また特に女性の場合、美人と醜女では世の中で受ける利益の差は巨大です。たとえば美人は親からもらった美貌を一つの機会として女優やモデルになれます。大きな収入のもとにもなります。これを平等に、同じぐらいにするということもナンセンスです。つまり私の機会の平等の論理を徹底させよ、という議論は中途半端にならざるを得ないものでした。今にして思えばスペンサー氏程度の機会の平等の中に、かえって正しさがあったのかも知れません。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「バーソロミュー氏は真の建築原理推進のための教会のフリーメーソン協会の一員で、ゴシックの熱烈な愛好者でした。そのためゴシック建築の原理やその美の解説は絶妙と言うべきものがあり、私はその後これに匹敵する本に出会ったことはありません。それで私は近代のゴシック建築については厳しい批判者となっています。外面的な恰好ばかりつけてゴシックの根本原理は無視したものが大部分なんですね。例外的に立派なゴシック建築はチャールズ・バリー卿( Sir Charles Barry)の国会議事堂ぐらいのものでしょう。ウィリアム兄は国会議事堂の設計コンペに出された設計図の展覧会を見ていましたが、バリー卿の設計図が他にくらべて頭抜けてよかったと言っていました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「異郷の地とて同じ年頃の友人もなかったので、私は興味を持ち始めたことをいろいろやって暮らしました。まず私は天測の練習をやりました。測量をしている時に六分儀の使い方は覚えていた上に、兄が航海天文学の本を持っていたからです。そして太陽や北極星の観測をして子午線を決めたり、太陽や星の最高点から経度を見つけたり、指時計を北極星に向けて粗末な日時計を作ったりしました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「また兄と暮らしていた七年間の間に、小遣いとしては数シリング以上を持ったことはありませんでした。毎年、あるいは二年に一度、家に帰った時、どうしても必要な新しい着物を買ってもらい、次に帰省するまでの小遣いとして十シリングか一ポンドぐらいのお金をもらいました。このお金は私の祖父が私に残してくれた少しばかりの遺贈財産からのものだと思います。こうした状況は当時は非常に辛いと思いましたが、今では私という人間を形成し、生涯の仕事を決めるための本当に重要な意味を持っていたことがはっきりわかります。もし父がある程度豊かで、ちゃんとした洋服をいつも仕立てさせてくれ、たっぷり小遣いをくれたら、また兄が人口の多い都市の測量会社の幹部社員などになっていたとしたらどうでしょうか。そうした環境の下では一人でいる時の慰めや楽しみとして私が自分の全精力を自然に向けるということはなかったでしょうし、従って私の全人生は違ったものになったことでしょう。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「この頃に書いたものに言わば「博学のすすめ」みたいなものがあります。専門的深化の重要性もさることながら、私は個人の体験から、広く興味を持ち、自己のさまざまな能力を開発した方が、一生、楽しくすごせるのではないかと信じています。何しろ若い時のものですから、今から見れば陳腐な議論を並べ立てています。科学は知識の進行的累積であり、印刷術のおかげでその保持と普及が助けられている。だから知力を持った存在である人間は、自分の持つ高貴な能力を最高度に開発し、過去の知識を吸収し、さらにこれに加えていくべきである……という、何とも恥ずかしい若書きです。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「そして積分も始めたのですが、そのあたりが私の数学の力の限界だったようです。ヒル校長の指導でやり続けたとしても、私は数学者としては成功しなかったと思います。それは私がいくら音楽教育を受けたとしても、音楽家として成功しなかったであろうというのと同じ意味です。人間には天分というものがあるのですね。  もっとも数学に対する興味を私は一生失いませんでした。数学の進歩についての記事など見ると、よく解りもしないのにその数式を追ってみたりして、人智の発達を喜んだものです。このように数学者になる才能のなかったことは確かなのですが、微分をかじっていたことは、後になって「種の起源」を考える時にヒントになったものと思われます──その時は自覚していなかったのですが──ある種からの変異が、限りない変異を重ねて、もとの種から限りなく離れてゆくという発想は、微分を学んだ際の無限の考え方と通ずるところがあると今にして思うのです。連続の究極が別物になるというのは正に微分的発想と言えるのではないでしょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「微分をかじっていたことは、後になって「種の起源」を考える時にヒントになったものと思われます──その時は自覚していなかったのですが──ある種からの変異が、限りない変異を重ねて、もとの種から限りなく離れてゆくという発想は、微分を学んだ際の無限の考え方と通ずるところがあると今にして思うのです。連続の究極が別物になるというのは正に微分的発想と言えるのではないでしょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ダーウィン氏が二十年にも及び厖大なコレクションを扱いながら、種における明確な分岐の原理に思いつくことができなかった時、南洋の島で熱病に悩され続けながらそれに思い当たったのは──その時は微分のことは頭に浮かびませんでしたが──昔、ニースにいた時にヒル牧師さんに習った微分の発想法が意識下にあったからではないでしょうか。ダーウィン氏も少年時代、数学は苦手だったようですから、微分はやっていなかったのでしょう。事実、高等数学が普通の人の日常生活に役立つことはありません。加減乗除の算数で十分です。しかし知能の啓発という点では、若い頃に微分積分の考え方に触れておくことは望ましいと思います。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「この一年の間の収穫の一つは、時間とチャンスに恵まれ、沢山本を読むことができたことでしょう。このおかげで私は終生よい文学の愛読者になることができたと思います。もちろんマルサスの『人口論』を読んだことは、私の後の人生を決定することになる決定的な事件でした。もちろんその時はそのようなことになることは思い至りませんでしたが。  その意味ではヒル校長に微分を教えていただき、円の面積の計算は小さな矩形(四つの角が直角の四角形)の面積の集計、しかもその矩形の底辺が無限に細かになると、その矩形の連続は無限に円の弧になり、ついに弧として収斂する、という無限級数から微分に至る発想を学んだことも、将来、決定的な意味を持つことになります。もとの種からの変異の変異の変異の変異……と無限に続いた後は、新種として収斂するということに思い至ったわけですから。しかしその点については後に至ってからも思い至りませんでした。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「甲虫集めは確かに子供じみた行為で科学的に見えないかも知れませんが、正にこの子供じみたことのみを通じて進化の科学への道は開かれたのです。小さい虫たちに見られる無数の細かな変異や変種を採集して分類しているうちに、「なぜ」また「どうして」そんな変異があるのかと考えるようになったのです。  アカデミックな学者の発想からは出なかったのに、若い頃に甲虫類採集に夢中だった体験があったればこそダーウィン氏や私が、「種の起源」という問題意識を抱くに至ったと言えましょう。この点、ベイツ君の出会い、甲虫類採集との出会いはまことに決定的なことでした。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ニースにいた頃の知的生活の一端に、そこの哲学協会があります。この協会には小さい図書室と読書室があって、そこでは時に講演会もありました。ハレー彗星がもどってくる少し前にはグリニッジ王立天文台長のジョージ・ B・エアリ卿( Sir George Biddell Airy, 1801-92)を招いて話を聞いたこともありました。そのすすめでしかるべきサイズの望遠鏡も購入されました。しかしそれを据えつける適当な場所がないので、その図書室に十分の視界を得られるだけの高さの四角い塔をつけて、その上から観測することに決まりました。しかしその塔には屋根まではつきませんでしたので、折角の望遠鏡もほとんど使われずじまいになりました。何しろ一々運んで据えつけて観測するのが面倒だったんですね。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「この点、ヒックス氏の判断は、私の知的、精神的特徴については不思議なほど正確で包括的です。わずか数行の中で、その後私がやった仕事を可能ならしめた能力、また科学や文学や思想において私に与えられた評価のもとになっている能力の組み合わせ具合がまことに正確にのべられているではありませんか。ただ数学については一言つけ加えておく必要があります。私は算術はいつも苦学したことがないことは確かです。しかし高等数学には向いてなかったと思います。秀れた数学者になるためには機知がつけ加わらないといけないのですが、私の頭蓋骨はこのウィットの部分が相対的に小さいのです。積分の導入部あたりで終わったのはそのためでしょう(しかし微分をやったことは、前にのべたように種の起源の原因発見には決定的な役割を演じたと思うのですが)。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「つまり二人とも貧しい家の出身で大学に行っていません。スプルース氏の父は確かヨークシャーの田舎の村の学校教師だったはずです。どのくらいの給料であるかは私も経験があるからよく知っています。極貧に近いと考えてよいでしょう。ただスプルース氏は数学がよくできたので彼もヨークシャーの学校の先生となりました。そして植物採集、特にヨークシャー地方の苔類の研究で認められ、中央の学会誌にも論文が出るようになりました。しかし呼吸器官を害してピレネー山脈の村で一年転地療養せざるを得なくなったのですが、ここでも採集を続け、キューガーデン園長のフッカー卿( Sir William J. Hooker, 1785-1865)の植物学の雑誌に寄稿して認められ、その他の学術雑誌にも苔類について寄稿しました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ついでながら言い添えておけば、世界中の地図、海図、動植物の生棲記録の完璧を求めるというのがヨーロッパ先進国、特にイギリスの情熱でありました。自分の国の地図や動植物誌を持たない国は、当時の白人から見れば未開野蛮国ということになり、植民地の対象とされていたわけです。日本がその点において特別視される傾向があった理由としては、浮世絵など西欧の及ばない木版美術を持っていたことばかりでなく、地図──伊能忠敬の測量図──があったり、本草学の蓄積があったり、当時の世界で探検が最もおくれていた地域である樺太あたりを探検して間宮海峡などを発見したことなどが、十九世紀後半にはヨーロッパにも知られるようになったことがあげられましょう。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ついでながら言い添えておけば、世界中の地図、海図、動植物の生棲記録の完璧を求めるというのがヨーロッパ先進国、特にイギリスの情熱でありました。自分の国の地図や動植物誌を持たない国は、当時の白人から見れば未開野蛮国ということになり、植民地の対象とされていたわけです。日本がその点において特別視される傾向があった理由としては、浮世絵など西欧の及ばない木版美術を持っていたことばかりでなく、地図──伊能忠敬の測量図──があったり、本草学の蓄積があったり、当時の世界で探検が最もおくれていた地域である樺太あたりを探検して間宮海峡などを発見したことなどが、十九世紀後半にはヨーロッパにも知られるようになったことがあげられましょう。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「地質学上のことは大森林、大原始林のあるところでは当時の探索方法では究め難いものがありました。しかし動物や植物は目で見ることができます。そこから逆に目に見えない地質学的時代のことを推察するわけです。ダーウィン氏も私もライエルの地質学の本を読んで育ったわけですが、私がそれにつけ加えたことは、目に見えない地質学時代の出来事を、目に見える動植物の分布から推論する可能性を立証したことだと言えましょうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「 まず第一は何と言っても処女林の中の木の種類の多さです。熱帯森林と言えばどこも種類が多いというわけではありません。赤道を中心として南北に緯度で数度の間に、自然は厖大な種類の植物を集めているように思われます。たとえばジャワ島の西半分を考えてみましょう。肥沃な平地は耕作され、森林はその地方の小部分でしかないのに、そこの樹木の種類は千五百を超えると報告されております。つまりウェールズと広さのあまり変わらない空間にそれだけの植生の豊かさがあるということですが、アマゾン流域にはそれに劣らぬ、いなそれ以上に多様な植物があると思います。  第二には蝶類と鳥類の数の多いことと、言語に言い表せぬ美しさです。月を重ね、年を重ねるごとにその形の美しさ、不思議さ、神秘さはますます私を魅惑してゆきました。四年間アマゾンを彷徨して飽きることのなかったのはこのためでした。それから何十年たってもそれを思い出すたびに驚嘆の気持ちから胸がわくわくするのです。  第三の、そして全く予期しなかった驚きと喜びは、本物の自然人に出会えたこと、そして彼らの間に住むことができたことです。リオ・ネグロの最上流に入る前の二年間に、いろいろな種族のインディアンの間におりました。しかしこうしたインディアンは少なくともシャツを着てズボンをはいておりました。つまり前に触れたように、いわゆる馴致インディアンだったわけで、少なくとも名目上はキリスト教徒で、最寄りの政府機関の支配を受け、ポルトガル語共用語を話します。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「この年、私は『アマゾン川とリオ・ネグロ流域のヤシ』と『アマゾン及びリオ・ネグロ旅行記』の二冊の本を出したほか、『昆虫学会紀要』に二篇、『動物学会紀要』に一篇、『王立地理学会紀要』に一篇、雑誌『ジオロジスト』に一篇の記事を書いております。帰国した翌年一年間の仕事としてはなかなかの成果だったと思います。そして余暇の多くは大英博物館ですごし、いろいろなコレクションを検討し、ノートを取ったりスケッチしたりしながら、マレー諸島の鳥類、蝶類、甲虫類等の中で珍種とされるもの、値段の高いものを確定しておりました。生活費を稼ぐ心配もなく、このように学会出席と博物館での調査だけに日々を送れたのも良心的で有能なエージェントであったスティーブンズ氏のおかげです。生まれてはじめて学者のような生活ができました。  大学からそのまま学者になった人たちにはあたり前の話でしょうが、私にとってはアカデミックなことだけに専心できたのははじめての経験であり、至福の時間でありました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ライエル卿が時間軸しか考慮しなかったのに、私が空間軸を思いついた理由は、南米と東南アジアという東西の熱帯地方で採集したことと、若い頃、兄と一緒に測量に従事していたことで、一種の地理感覚が発達していた、ということがあるのかも知れません。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「 ちなみにダーウィン氏は非常に筆まめな人で、もらった手紙に返事も出さないで放っておくようなことの絶対にない人でした。しかもその手紙の中で「私は貴君の論文のほとんど一字一句に賛成する」とまで言ってくれているのです。さらにこういう言葉も続きます。「われわれの考えにうんと似ている理論を見つけることはまあないと言ってもよいことに貴兄もきっと同意なさるでしょう。全く同じ事実を前にしながら、各人が自分勝手な結論を引き出しているのは残念なことです」  ダーウィン氏は私と自分のことを「われわれ」と呼んでくれた上に、種についてのこういう考えを持っているのは「実際上われわれ二人だけだろう」と若僧の私に書いて下さったのですから、私の感激のほどはわかっていただけるでしょう。私の故郷から見れば地球の裏側の南洋の島で、私は何度繰り返してこの手紙を読み返したでしょうか。私は本当の知己あるいは同志を友人のベイツ君のほかに、ダーウィン氏に見出したのです。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「活火山を見て「地球は生きている」と実感する」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「それに当時はいわゆる資本主義の資本蓄積期でもあって、貧富の差が急激に大きくなり、一部の大金持ちのために多くの国民が犠牲になっているという印象──事実そうだったと思います──を持っていたので、生産手段の国有化ということに意義を認める気持ちになっていました。マルクスの『共産党宣言』が出たのはその約十年前の一八四八年のことになります。私はそれを読んではいませんでしたが、土地測量をやっていた頃に大金持ちや有力者によって土地があくどく私有化されてゆく実態を現場で見てきたので、発想の中に社会主義的な傾向がありました。これはイギリスに帰国してからも土地問題を論ずるようになったことに連なっています。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「日本のもので私の興味をひいたのは、彩色した木版画、つまり浮世絵です。そこには日本の変化に富んだ風景や、日常生活のいろいろな面が描かれておりました。それは今までの西洋画に見られない特徴を示しており、また、しばしばユーモラスな描写があるのに驚きました。それらが極めて安価に、つまり一ファージング(四分の一ペンス)で売られているというのにはさらに驚きました。  絵画は元来、神殿や宮殿やお城にかざられるのが普通で、それが豊かな市民の家庭に入り込んだのはヨーロッパにおいてすら古いことではありません。それが明らかに庶民階級である人たちの中で鑑賞され、楽しまれている国が東洋にあるとは。ひょっとしたら日本にはイギリスよりも進んだ市民文化があるのではないかと思わせるものでありました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ポルトガルの影響は語彙だけの問題ではありません。先住民たちのお祭りや婚礼には、カトリック風の行列や音楽が残っており、それが先住民の鐘や踊りと奇妙に混じり合っているのです。もう先住民はプロテスタントなのに祭日にはポルトガルの風俗を色濃く残していました。  面白いのはアンボイナの町からはずれたところに住むマレー系先住民です。彼らは主に漁業で暮らしているのですが、イスラム教徒です。彼らはキリスト教の先住民よりもずっと勤勉で正直だと言われていました。私の体験から言って本物の先住民というのはどこでも正直なものでした。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「そんなことをやっているうちに、私はダーウィンと並んで、アルフレッド・ラッセル・ウォレスという人に興味を持つようになりました。それでウォレスの生涯を調べて、そこに私が長く探し求めていた解決の鍵を見出したような気がしたわけであります。  ウォレスの生涯を簡単に申し上げますと、ダーウィンより約二十歳くらい若い人でありますが、ウェールズのモンマスシャー──今はグウェントというのだと思いますが──に生まれました。わりと豊かな家だったようです。お父さんは職業のない、何もしないで食えるような家でした。そこの八人兄弟の七番目に生まれました。ところがお父さんは出版などに手を出しまして、すってんてんになってしまいます。それで彼は学校には入りましたけれども、授業料を払うことができずに、日本の学齢で言えば中学一年生くらいになった時に、その学校の下級生を教えることで授業料を免除してもらったりしております。それを二年間くらいやりまして、今度はロンドンへ行って、そこで大工をしていたお兄さん(ジョン兄)のところに一年くらいおります。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「ウォレスにはもう一人のお兄さん(ウィリアム兄)がいて、測量士をやっておりました。当時は測量が非常に盛んだったようです。地図のつくり直しとか、鉄道をつくるちょっと前の頃なので、路線を引いたりするために、非常に測量が盛んだったのであります。そこで、その測量をするお兄さんにつきまして、約五年間を測量しながら勉強しています。お兄さんはお兄さんで、教育のある、非常な勉強家で、当時の新しい学問をよくやる人でしたので、その影響下で一生懸命勉強しました。上は天文学から、下は地質学。これは測量にも必要なことであります。それから数学。このようなことをやって、今で言えば高校一年から大学二年くらいまでの間、毎日ずっと測量をやって歩きました。そのかたわら生物学、特に植物を勉強して、大英博物館の植物の項目をほとんど頭に入れるほどよくやったようです。  それから二年間くらい、今度は学校の先生をレスターでやります。そこは、映画とかによく出てくるような、昔の大きな貴族などの家を学校に変えたところでした。そこの住み込みの教師になって子供たちを教えるのですが、その間にいろいろな、私から見て将来非常に重要なものを勉強するのです。その時に数学を学んでいます。それで微分を終わりまして、積分くらいに入りました。二年間でそのへんまでやりました。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「しかし、これが渡部先生の最終講義となると、話は少々違ってくる。先生は博覧強記の学者であり、知識のぎっしり詰まった引き出しがいくつもあるので、どの引き出しからどんな話が飛び出すのか、誰もが興味津々だったからである。  生前に先生と対談をした際、「大学の教授ならば、是非とも最終講義をすべきである」と常々おっしゃっていた。演題は、これまで大学で積み上げてきた研究成果でもよいし、自分が追求してきた教育観でもよい、また自分の専門領域にこだわらず、最後に学生や世間に伝えたいことでもよい。価値観は多様だから、話す内容は何でもよいけれども、大学教授たるもの、キャンパスライフの最後の想いを語る最終講義だけはやっておきなさい、と。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「読者の中には、本書『幸福なる人生──ウォレス伝』を初めて手にした時、これと同じような疑問を抱いた人がいらっしゃるかもしれない。なぜ英語学者の渡部先生がウォレス伝を書いたのか、と。しかし、本書をお読みになれば、今まで信じ込んでいた既成概念がすべて打ち砕かれ、ウォレスがダーウィンを凌ぐ立派な自然科学者であったということを再認識するだろう。ちょうど最終講義を拝聴したあと、事前に抱いていた疑問が雲散霧消しただけでなく、聴衆の誰もが心を大きく揺り動かされたように(先生の最終講義の講義録は、月刊誌『諸君!』(二〇〇一年十二月号)にも掲載されたが、同誌は廃刊になったため、本書にも再収載されることになった。この講義録も是非ご高覧いただきたい)。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著 「このソネットの「夏」とは、高温多湿の日本の夏とは異なり、イギリスの季節の中では、最も生命力にあふれ、しかも若々しさを感じさせる季節である。シェイクスピアはその夏の一日と青年とを比較して、若さにおいても、美貌においても青年のほうがすぐれていると歌うのだ。どんなに美しいものでも、すべていつかは美を失って朽ち果てる。しかし、「あなたが朽ちることのない詩行の中で永遠に成長なさるならば」( When in eternal lines to time thou grow' st)、その青年の美は不滅の詩の中で永遠の時と合体し、青年の永遠の夏はうつろうこともなく、今青年が手にしている美貌も失われることがない。  なるほど、美しいソネットには違いないが、詩という文学装置によって貪欲な「時間」の浸食に逆らい不滅の生を獲得するというテーマは、シェイクスピアに限らず、『転身物語』を書いたオヴィディウスや『歌章』を書いたホラティウスなどのローマ詩人にも見られるものである。先生が大学の一年生の時に、トマス・ライエル先生から最初に教わった詩の一つが「ソネット第十八番」だったとしても、読書家で、ラテン語の格言も数多く暗記されている先生なら、他にも文学的な引用句が山ほどあったはずである。それなのに、なぜ、最終講義の締めくくりに、このシェイクスピアの「ソネット第十八番」を選ばれたのであろうか。」 —『渡部昇一遺稿 幸福なる人生――ウォレス伝 (扶桑社BOOKS)』渡部 昇一著

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    投稿日: 2025.11.12
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    明らかにウォレスの方が先に進化論にたどり着いていた 人間と猿の脳にはnatureな違いがありdegreeの差ではない 貴族階級(ダーウィン)と貧乏人ではこんなに差別されるのか!!

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    投稿日: 2024.07.22