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エッチなお仕事なぜいけないの?
エッチなお仕事なぜいけないの?
中村うさぎ/ポット出版
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総合評価

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    売春、セックスワークの教科書としても読めるし、学校教育のなかで偏った性道徳や倫理観を一新できる教科書。本当に出会えてよかった。 特に対幻想とそれに基づく性道徳や性倫理、売春反対観念から読み取れるフェミニズムとミソジニー、ミサンドリーは、自分の性差別意識を試されるので、読みながら耳に痛い部分が多々あると思う。 わたし自身、ミサンドリーとミソジニーを同時に持っている体感がある。 言い換えれば、男らしさと女らしさに支えられた異性愛的な価値観の全てが、わたしに吐き気を催させる。それらを利用した恋愛市場も、そこに何も知らないで消費者として参加する人々の無邪気さと行動様式も、同じように気持ちが悪い。 売春には賛成も反対もない。 私自身は性サービスをお金で買わない。運転したいと思わないから車を買わないように、吸いたいと思わないから煙草を買わないように、飲みたいと思わないからお酒を買わないように。 ただ売る方に関しては、性感染症や心身の健康さえ管理できるのであれば、寧ろ積極的にしていいと思ってきた。それも、個人同士の交渉で。具体的には立ちんぼやネットを使った売春、パパ活、ママ活など。 理由は簡単で、自分に自分で値段を付けるというのが快楽だからだ。 わたしたちは徹底的に他人に評価されて生きて死んでいくけど、そんなのはつまらないことだと思う。 この社会でまっとうに生きていれば、まっとうな自己肯定感なんて持てずに死ぬだけだ。 それか歪んだ正義感や自己犠牲の道をひた走るだけ。 売春とそうでないセックスを本当の意味で区別することはできない。 浮気と本気の区別がつかないように。売春だろうが恋愛だろうがセックスをするし、その都度のセックスの目的が、快感や相手との性行為を欲していようが、相手のお金を欲していようが、行為としてセックスがあることに変わりない。 戦勝国の殺人は合法だけど、敗戦国の殺人や、通常の法律の下で行われる殺人が犯罪なのと同じで、どちらも同じ行為をしながら、殺されたのがどんな相手で、どんな理由で殺したかでその行為の正当性を判断しようとしているわけで。 不倫や浮気も同じだ。生理的な欲求や、情緒を持った人間だということを度外視して、人格攻撃に発展する。社会の道徳、倫理に叶った欲求しか持ってはならないという、その一人の人間への強制的な視線が、わたしには酷く稚拙で、暴力的に感じる。 そこから分かるのは、そもそも結婚とか恋愛のように、人格を関係性のなかにこじつけることの不可能性だだろう。セックスは関係性を選ぶものではないので、売買春という関係を罰すればいいということになっているのが現状。 そうだとしても、結婚は売春の上位互換にしか感じられないし、そうあっていいと思う。 結婚というのは当人同士のためにあるもので、婚姻関係が、予め決められた性役割とか、理想の夫婦像、夫、妻という幻想への恭順にある必要はない。世間や社会や他人が、その私的な契約領域に何かを強制する必要性を感じない。もちろんDVやハラスメントなどの個人への危害に介入は必要だけど、関係性は個人そのものじゃない。 雇用関係にも同じことが言える。 だからかもしれない。 人は自分が法律的に認められた所有権を他人に持ちたい。人の「モノ化」だ。自分はもう色々な形で他人に社会に所有されてしまっている。娘かしれないし、息子かもしれないし、父や母、夫や妻、祖父や祖母、友達、親友、同僚、部下、上司、会社員、生徒、教師、恋人。年上と年下とか。 上に上げたそれぞれの名称は、それぞれに固有の「ふるまい、らしさ」が「義務」として与えられている。父や母を敬うだとか、家族は助け合うだとか。恋人は浮気しないというのもある。恋人が欲しいとは、自分の抱いた恋愛感情を保証してくれる他者が欲しいということだ。 関係性のなかにあるわたしたちは、その捨てることのできない配役をこなす義務を負いながら、他の関係性のなかに入っていって、そこでもまた義務を負う。まるで、関係をもつごとに不自由になるけど、ひとつの関係性の不自由さを束の間でも忘れるために、他の関係性を希望するというように。 売春に反対する人はきっと、この関係性における義務を当事者たちが逸脱することに危機感を覚えている、まっとうな倫理観や道徳感情を持っている、善良な人々だ。日々、義務を果たしているんだろう。 関係性内での配役に固執する人は、また自分と相手の対等性を担保するのが関係性における配役の順守度だと思っている気がする。怯えや自己否定は、配役への順応に拍車をかける。 売春を肯定できる心象は、義務と権利の関係性を担保にした愛から自由でいる必要がある。 性抜きに人を愛していいのだし、愛がないセックスなんてそこら中に転がっている。セックスは愛じゃない。愛の手段のひとつにセックスがあるだけで、セックスそれだけでは愛にはなり得ない。 そんなこともうとっくにわかっているはずだ。 だからセックスを憎むのも、性を憎むのも苦しいだけだ。 セックスは行為で、性は生理学的な身体のことで、愛は別。魂も別。 セックスをした相手のことを好きになってもいいし、好きになった相手とセックスをしてもいい。 セックスをしたら必ず相手を好きになるわけじゃないし、好きになった相手とセックスがなくたってなんの問題もない。 わたしたちは自分も、他人も関係性と配役のなかに縛りすぎている。 その理由は、自分がないからなんだと思う。 対幻想という言葉は、裏返せば、関係のなかでしか自分が生きていけないという呪縛でもある。 関係の外にある自分を育むこと。 わたしが自分自身に反省として思ったことだ。 血縁関係、雇用関係、恋愛関係、交友関係にある自分が、わずかな一部分なんだという意識が持てているか。 きっとこの所属意識や関係強迫観念が、わたしの目に移ってきた社会のおぼろげな空気の正体だったんだなぁと感じる。そうした神経症をもとに醸成された社会的な価値観が、結局は差別や糾弾となって個人攻撃に繋がる。

    5
    投稿日: 2025.06.12
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    中村うさぎさんの語り口が好き。 「すべての男をマシンガンで撃ち殺したいと思っていた時期があった」と書いてあって、ものすごく今の私はそれに近いなと感じていたんだけど、読んでいるうちに、中村うさぎさんが体験したように、少しずつ、記号としてしか見えていなかった男性が一人ひとり顔を持つようになってきた気がする。  自分の中のモヤモヤがうさぎさんの言葉で言語化されていくのが心地よかった。 男性にとって「ヤリチン」が必ずしもマイナスの意味で使われない、寧ろ憧れ的な意味さえ持つのに対して、「ヤリマン」にはまるで「簡単にやられて馬鹿な女」というニュアンスがあることに常々疑問を感じていた。 ヤリマンだって意思があってセックスしているわけだし、どうして男たちは「やられて」いるのではなく「やって」いるのだということをすっかり忘れたように話をするのだろう? 「自分の女が自分以外とセックスしたら困る。しかも金まで取って!」という、生殖プログラムに根差した男性側の嫌悪と、「セックスの価値が下がると困る」という女性の怒りがあり、そしてそれらによって性産業に従事する女性の立場が貶められているのだと思った。 社会のセーフティーネットとして風俗が大切な役割を担っているのも十分分かるし、風俗で働く女の子が何をされてもいいわけじゃない。だけど、合法化してしまえば価格は暴落する、、、 差別の上に成り立っている部分も否定できないので、難しい問題だなと思った。

    3
    投稿日: 2020.08.01
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    タイトルそのまま、今の社会では納得のいく答えはみつからないな。自由売春は誰も損しないし皆がWinWinでたの商売と同じであるはずなのですがね。

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    投稿日: 2018.12.13