
総合評価
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powered by ブクログニーチェの著作の中では、調子が明るく高揚感のある文章が続く(特に第四書に顕著である)。一大事である『神の死』を喜ばしく受け入れ、『一個の全面的な肯定者』として、新しい時代に嬉々として突入する姿が見える。私は本書『喜ばしき知恵』と『道徳の系譜学』が、ニーチェにおける肯定と否定のそれぞれの極点だと思う。ニーチェを読むなら最低でもこの二冊だろう。もう一冊、総まとめとして加えるなら『偶像の黄昏』か。詩的感性が十分な人であれば『ツァラトゥストラ』だけで足りるのかもしれないが、私には散文形式の著作の方が理解が容易であった。そのため、知名度に誘われて『ツァラトゥストラ』を読んでみたものの、さっぱり分からなかった人にも本書はおすすめできる。本書は『ツァラトゥストラ』と共通の思考圏域に属しながら、ニーチェ自身の主張をストレートに散文によって表現しており、『ツァラトゥストラ』よりはるかに理解しやすい。 序文で『快癒した者の感謝の念』が語られる。調子は明るく快活である。 『この書物の言葉は、氷晶を融かす春風にも似ている。傲慢、動揺、矛盾、そして激変する四月の天候がここにはある。いまだ冬の圏内にありながら、冬を打倒する勝利が予感されるのだ。来たるべき勝利が、いや、かならずや訪れる、ことによるとすでに到来しているかもしれない勝利が……。およそ予想外のことが起こったかのように、感謝の念がそこここに溢れ出ている。快癒した者の感謝の念が──。』 ニーチェ思想全体でも、『病気』と『健康』の対概念は大変重要である。ニーチェは『病気』に対して『底辺に喘いだあの激症期は、いまでもなお汲み尽くせないほどの実りをもたらしてくれた』と感謝する。一方で、従来の哲学を省みて『病いこそが哲学者を駆り立ててきたものではなかったか』と疑問を突き付ける。第一書に『軟弱な者を殺す毒物は、壮健な者にとっては強壮剤なのだ』という主張があるが、軟弱な者にとっては、『病気』は毒になるということだろう。 第一書の最初で『人間という種の保存に有利なことを行うという課題』について『そうした本能以上に古く、強烈で揺るぎなく、克服不可能なものは何もない』と宣言される。ニーチェの根本的な人間観、哲学観だろう。以降は認識、高貴-卑俗、強者-弱者、道徳の欺瞞、生命観、文明等々の多様なテーマが、鋭い視点から次々と語られる。体系的ではないものの、大きな流れはあり、後の著作に繋がるような重要な着想も多くみられる。例えば『高貴』あるいは『強者』とされる人間の在り方について、彼らは『知性を沈黙させて服従させるほどにまで強い快と不快の感情のいくばくかを抱く』とか、『他人に喜びを与えたり苦痛を与えたりするのは、他人に対して自分の権力を行使することにほかならない』というように形容される。『道徳』についても極めてプラグマティックに、『そうした徳からわれわれ自身や社会のために期待できる効果を想定している』のだと洞察される。それらの主張は、後の『善悪の彼岸』や『道徳の系譜学』ではより苛烈かつ執拗に繰り返されることになるが、本書のニーチェにはまだ余裕があり、読みやすい。他にも、『生きること』とは『死に絶えようとする何ものかを、わが身から絶えず追放することを意味する』という主張は、後に『力への意志』として概念化されるものである。さらに非常に興味深いのは、平和な時代の若者たちの病についての指摘である。ニーチェは退屈に疲れた若者たちについて、彼らは『行動や行為の尤もらしい理由を引き出すために、何事かに悩みたいという欲求』を宿し、『彼らの空想は、そこから怪物を作り出すのに精を出すが、それはあとあとその怪物と闘いたいから』である。現代のSNS社会にも見られるような、過剰な陰謀論や煽り合いのような状況にも大いに当てはまるように思う。 第二書は、第一書に引き続き多様なテーマが扱われる。それらは科学的世界観、真理観、女性、芸術、音楽、学問、詩人等々と幅広い。ニーチェは『真理』というものも、『道徳』と同様に極めて社会的かつプラグマティックに考えている。例えば、『事物が何と呼ばれるかということは、事物が実際に何であるかということよりも絶対に重要である』という洞察や、『人類にとってこれまで最大の課題』は、たとえそれが虚偽だとしても『できるだけ多くの事柄に関して互いに合意』を形成し服することだったという主張がそれに該当する。その一方で、ニーチェが女性を語る文章は著しく偏っているが、許してやってほしいと思う。例えば次のような記述が典型例だ。 『自分の愛する男性の目の前では、そわそわと落ち着きを欠いて、やたらにお喋りするような哀れな女性たちは、いつでももてないものだ。なぜなら男たちの心を鷲掴みにするのは、奥床しく、蕩けるような淑やかさだと、相場が決まっているからだ。』 彼の生涯に関する情報がいくらでも手に入る我々からしたら、いくら強気なことを主張したところで、どう考えても負け惜しみまたは強がりである。つまり、そのような男性の一種の偽悪癖に対しては、微笑むか、それができそうにないなら軽蔑すればよいだけであろう。 第三書、ニーチェの本領発揮、一般に広く知られるニーチェの思想が披瀝される。まずはニーチェの代名詞、『神の死』である。 『神は死んだ。とはいえ、人の世の常として、おそらくなお幾千年にもわたって、神の影が出現するかずかずの洞窟が存在することだろう。──そしてわれわれは、──神の影をも克服しなければならないのだ!』 『神は死んだ!二度と甦ることはない!われわれが神を殺めたのだ!あらゆる殺害者のなかでも最たる殺害者たるわれわれに、心休まる時があろうか?』 ニーチェは、『神』概念に由来する世界の擬人化に対して『世界を生きた存在とみなす考えに用心しよう』と否定し、それに対して『永遠にわたって混沌』、『この骰子遊びは、およそ旋律などとは呼べないその調べをそっくりそのまま永遠に反復する』などと、『永遠回帰』を思わせる世界観を対置する。そうして世界は変貌し、本格的な認識、真理、そして道徳-キリスト教批判が展開される。ニーチェによると、『真理』とは、『結果的に有益で種の存続にかなうもの』であった『誤謬』が『人間という種の前提や基本条件』となったものに過ぎない。同様に『道徳』も、『ある集団を維持するための条件』として『個々人の中に潜む集群本能』に過ぎず、したがって『きわめて多くの道徳が存在』したのだと相対化される。そのうちの一つの『道徳』であるキリスト教が『世界を醜悪で下劣なものとみなそう』と決意したことで『世界を実際に醜悪で下劣なものにしてしまった』のであり『いまや、われわれの趣味がキリスト教に反感を覚える』のだと宣言される。そういった洞察が象徴するように、『神の死』によって『すべての事物の照明と色彩に変化が起こった』かのごとく世界は変貌するのであるが、ニーチェはそれでも『かつての巨匠たち』=『古代の人類』の『絢爛たる色彩に匹敵できる望みはない』と嘆く(古代とはギリシアあるいはローマの人々のことであろう)。 第三書の後半は、比較的短い断章、というより箴言集が続く。一つ一つの文章は短いものの、非常に鋭い。例えば『「善悪というのは、神の抱く偏見だ」──そう蛇は語った』という一言は、『道徳』の非論理性を鮮やかに示す。そうかと思えば、気の利いた人間描写も多い。印象深いところでは、『ある見解を傷つける最も陰険なやり方は、故意に欠陥のある理由でそれを弁護することである』、『われわれの耳は、自分が答えることのできる問いのみを聴く』、『大声を張り上げて話す者は、およそ繊細な問題を考えることができない』といったところである。ニーチェの念頭にあったのは神学か哲学か古典文献学か、あるいは浸透し始めた新聞などの大衆文化かもしれない。しかし現代人ならば、SNSに溢れる醜悪な状況を容易に連想するだろう。疑問なのは、なぜ第三書の後半という中途半端な位置に、そのような箴言集を置いたのかということだ。書物全体の最初か最後、あるいは独立した一章を置くのが違和感のない構成だろう。推測するに、『神の死』を通過した自由な精神が世界をどのように眺めるか、その多彩な例を示しているのではないだろうか。 第四書、ニーチェの一つの極点である。 『運命愛(amor fati)──これをいまから私の愛としよう!醜悪なものに闘いを挑むのはやめよう。私はひとを非難することを望まないし、非難する者を非難しようとさえ思わない。目をそむけること──これを私の唯一の否認のあり方としよう!要するに、私はいずれは、一個の全面的な肯定者になることを願うのだ!』 私はここで思う、ニーチェはその宣言を守れなかったのではないか。本書が出版されたのが1882年、『反キリスト者』が書かれたのが1888年である。『ツァラトゥストラ』より後のニーチェは、激烈な批判の書を何冊も書いた後、その著作活動を停止した……。 第四書では、『神の死』、つまり既存の価値が失効した後に、いかに率直に自己と世界を『肯定』するか、その実例が豊富に示される。『肯定』するといえば大げさであるが、序文に大きく取り上げられている『健康』と等しいと理解すればおよそ正しいはずだ。彩るのは、『肯定』すること、まさしく『喜ばしき知恵』と言いたくなる明るい調子、否定にとらわれないこと、自由精神、エゴイズム等々である。既存の文化、哲学、価値観、キリスト教への批判(否定)も多くあるが、後の著作ほど苛烈な調子ではない。起こることはことごとく『なくてはならなかったこと』と理解され、決裂した人間関係も『巨大な曲線と天体軌道』における『星の友情』として美しく『肯定』される。『卓越した人間の特徴』は『自らに対して怖れを抱かないこと、自らの内に恥ずべきものを予想しないこと』、あるいは『生まれつき自由な鳥』が『心置きなく飛翔する』ことである。このあたりの筆致の美しさは凄まじい。そして、本書のタイトルである『喜ばしき知恵』が明かされる。ニーチェは『人生は認識の実験になりうる』という洞察を得て、次のように主張する。 『「生は認識の手段である」──この原則を胸に抱いてこそ、われわれは単に勇敢になるだけでなく、喜ばしく生き、喜ばしく笑うことができるのだ!』 そのような立場はあらゆる価値を相対化することを可能とするのだろう。例えば、『道徳』批判の手段である深層心理学的方法についてニーチェは、人間の『判断』は『衝動や愛着や嫌悪、経験や未経験の内にその前歴』をもっている、だから『どうやってその良心が生じたのか?』あるいは『本当は何が私を強制して、それに耳を傾けるよう仕向けているのか?』を問うべきであると明瞭に説明する。ニーチェは『精神活動の大半は、無意識の内に、感じ取られることもないまま進行しているという真理が顕わになってきた』という、フロイトに先駆ける洞察を既に手中にしているのだ。また、非常に重要なテーマである『同情』の禁止についても明瞭である。ニーチェは『同情』について、それは『他人の苦悩から、真に個性的なものを取り去』ってしまい、『われわれの価値や意志を矮小化』して、その『同情する側がまるで運命を握っているかのように振る舞う知的軽薄さは、われわれを憤慨させる』と非難する。その『同情』を「共感」に置き換えてみるだけで、現代の日本にも完全に当てはまるだろう。現代は共感の時代であるが、私はその風潮が嫌いである。「分かる分かる」を連呼する同情深い人は、その実何一つ分かっておらず、他人の不運で楽しい時間を過ごしているだけなのだ。最後から二つ目の断章で、ニーチェの核心として語られがちな『永遠回帰』が初めて示される。しかし私が読んだところ、むしろ主眼は『一個の全面的な肯定者になること』であり、『永遠回帰』はそれに至る手段としての思考実験ではないかと思う。『永遠回帰』とは、『この最後の永遠の確認と封印より以上の何ものも望まないためには、君は君自身と人生をどれほど愛おしく思わなければならないだろうか?──』と問いを投げかける『最大の重石』なのだから。 第五書は、『ツァラトゥストラ』執筆後に増補された章である。『善悪の彼岸』や『道徳の系譜学』と同時期の思索であり、批判的な調子が強く見られる。ここでは『神の死』は『開かれた海』という非常に美しい言葉で表現される。 『……実際に、われわれ哲学者たる者、「自由精神」の持ち主は、「古い神が死んだ」という報せを聴くなり、新たな曙光に照らされたような感覚を抱いている。』 『海原が、われわれの海原が、ふたたび豁然と開かれた。おそらくは、これほど「開かれた海」はかつて存在した例がないほどに──』 『ニヒリズム』や『力への意志』という言葉も初めて登場する。全体として、力点が『一個の全面的な肯定者になること』から、それを阻害する『道徳』への批判に移っていると考えてよさそうである。ときに冷徹な筆致で語られるのは、自由精神、道徳批判、意識と言語、認識、原因概念の誤謬、哲学者の病気、来るべき未来像、自身の文体、そして再び『健康』……である。興味深いのは、バタイユの発想の萌芽とも思われる『自然を支配しているのは、苦境ではなく、過剰であり、浪費であり──それも理不尽なほどの過剰や浪費なのだ』という洞察である。そしてそれは『随所で起こる大小の闘争は、優先権をめぐって、成長と拡張をめぐって、力をめぐって争われるのだ──力への意志に従って』と、『力への意志』に関連づけられる。『道徳』への洞察もさらに深まり、『道徳的仮装』を必要とするのは『臆病さと自身への退屈を抱いた群畜類』であると断言され、『自己軽蔑者』が『他の精神性豊かな人びとよりも自分が優越しているかのような見せかけを生み出し、復讐が実現したという歓びに浸る──少なくともそんな幻影を味わう』ための手段こそが『道徳』であると非難される。明らかに第四書までより辛辣である。ニーチェは『誤解され、誤認され、取り違えられ、誹謗され、聞き間違えられ、聴き落とされること』が自身の運命と述べ、それは『控えめに言って』1901年までと推測する。実際の歴史を考えると、早くても1945年以降であろう。しかし、ニーチェが望むべき未来像について語る際に、『正義と団結の国』は『底の底まで凡庸化した支那風の国となるだろう』と批判し、一方で『われわれは自分たち自身を征服者の一員に数え入れ』、『新たな序列』や『新たな奴隷制』が『「人間」の類型の強化と向上のため』に必要だと述べる……そのような主張を読むとき、誤解され悪用されたのも理由のないことではないと感じることにも否定しがたいものがある。もっとも、彼が実際に理想を見いだしたのは、遠い未来社会の夢想ではなく、古代ギリシア・ローマの貴族社会、あるいは実社会ではなくてオリュンポスへの憧憬ですらあったようにも思う。一方で現代に目を向けての、『研究し続けることのできる世界解釈のみが正しいとみなし、勘定・算出・計量・観察・把握ということのほかは何ものも承認しない世界解釈のみが正しいとするのは、それが精神疾患か痴呆化の結果でないとしたら、愚鈍と無思慮以外の何ものでもない』という主張は、いわゆる地球環境や科学万能主義の問題への批判そのものである。またそれは、ハイデガーが戦後に展開した技術論に先立つ着想でもあるだろう。19世紀の人間でしかないニーチェの先見性に、驚きを禁じ得ない。それらの洞察を得るための方法、『作品から作者へ、行為から行為者へ、理想からそれを求める者へ、思考方法と価値様式から、その背後で力を揮う欲求へと遡及する推論』する方法についても、ニーチェは極めて聡明である。彼は、『道徳的偏見についての考察』それ自身が新たな『偏見』にならないためには、『道徳の外部の場所』=『善悪の彼岸』に立つことが前提となると語る。いわゆるメタ認識である。そして、エピローグの一つ前の断章で、序文で朗らかに謳われていた『健康』が再び大きく取り上げられる。ニーチェは言う、『大いなる健康』は『繰り返し獲得し、獲得し直さなければならない』のであり、それを得た者は『長い航海を続けたのち』に『別の理想』を手に入れる。そして『おそらくはこの理想とともに、大いなる厳粛がいままさに始まり、真の疑問符がはじめて打ち付けられ、魂の運命が変わり、時計の針が進み、悲劇が始まる……』。つまり、『新しい海』への航海は始まったばかりであると、彼は言っているのだろう。 なお、第一書の前および第五書の後に収録されている詩的文章に関しては、私は芸術的感性に乏しいので理解が難しい。それでも最後の一句を読んだときには寂しさに襲われた。少しの間、仲良くしてくれていたニーチェ氏との「さよなら」のように感じて。そのような読後感を与えてくれた書物は、他になかったように思う。 『──この幸福の思い出が、永遠に残るよう、 この幸福の形見を受け取ってくれ、 この花冠をしかと受け取ってくれ! それをさらに高みへと、彼方に、はるかに投げてくれ。 天の梯子を駆け上り、 天高く、星々に吊るして掲げてくれ!』
0投稿日: 2024.09.18
powered by ブクログ注釈など、研究に使うにはちくま学術文庫の方が良いが、普通に読むのであれば、こちらが読みやすいのでオススメ
1投稿日: 2013.10.21
powered by ブクログこの訳は3章から。ちくま学芸の訳より数段読みやすく、流れるように読める。 とはいってもニーチェ自身に由来する難しさはあるので、まあ何度か読み返さねばというところである。第3章あたりの短い断章の方が好きだ。
1投稿日: 2013.01.15
powered by ブクログ[関連リンク] 『喜ばしき知恵』 フリードリヒ・ニーチェ epi の十年千冊。/ウェブリブログ: http://epi-w.at.webry.info/201212/article_1.html
0投稿日: 2012.12.04
