Reader Store
放浪哲学 11年かけて130カ国15万キロの自転車ひとり旅
放浪哲学 11年かけて130カ国15万キロの自転車ひとり旅
中西大輔/SBクリエイティブ
作品詳細ページへ戻る

総合評価

3件)
4.5
1
1
0
0
0
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    660 392P 凄い危険な地域でも一人旅出来るのが唯一男が羨ましいポイントだな。ヨーロッパぐらいなら一人でも大丈夫だけど、アフリカのマリとかガーナとかナイジェリアとかも一人で行けるのは羨ましい。 中西 大輔 自転車地球旅行人。1970年兵庫県生まれ。6年間の住宅メーカー勤務後、1998年7月から北米を皮切りに南米、欧州、アフリカなど、2009年10月まで11年かけて130カ国15万キロの自転車世界一周を達成(地球3周分の距離に相当)。訪問国数と走行距離は日本人として最高記録。ブラジルではサッカーの神様・ペレと対面、カーター米元大統領やワレサ元ポーランド大統領にも会った。紛争中の国では軍や政府に賄賂を要求され、砂漠ではハイエナの餌食になりかけたことも。治安の悪い地域では刑務所の独房を借りて寝た。2004年にはペルーのカハマル市より名誉市民賞を受賞。日本アドベンチャー・サイクリストクラブの「地球体験ぺダリアン大賞」を受賞 第一章 世界一周自転車旅へ出発(一九九八年六月~一九九九年六月) なぜ、なぜ、なぜ──九八年六月・日本 自転車は本当に届くのか──九八年七月・アラスカ州 「早く南に向かいなさい」──九八年八月・アラスカ州 野生の巨大熊の恐怖──九八年八月・カナダ 八年前に助けてもらったドンさんに再会──九八年一一月・カリフォルニア州 砂嵐とヒョウの来襲に身も凍る──九八年一一月・アリゾナ州 いつまででも泊まっていきなさい──九八年一一月・ニューメキシコ州 不安でいっぱいのメキシコ入国──九八年一一月・メキシコ メキシコ人家族の大歓迎──九八年一一月・メキシコ メキシコの盛大なクリスマス──九八年一二月・メキシコ 街で突然、靴工場の兄さんに招かれて──九九年一月・メキシコ 強盗事件が日常茶飯事の危険な都市──九九年二月・ベリーズ 狭くてうす暗い部屋から裕福な生活へ──九九年三月・エルサルバドル 治安がいいはずのコスタリカで盗難に──九九年四月・コスタリカ ゲリラ、麻薬、強盗の多い国で成功を収めた日系人──九九年五月・コロンビア キトで生まれてはじめてのラジオ出演──九九年五月・エクアドル 夢見た島の現実に唖然──九九年五月・エクアドル(ガラパゴス諸島) アルベルト・フジモリ大統領のお姉さんに会う──九九年六月・ペルー 日本人をルーツに持つペルー人──九九年六月・ペルー 第二章 西ヨーロッパ(一九九九年六月~二〇〇〇年八月) 執拗な荷物検査を受けて意気消沈──九九年六月・スウェーデン ヨーロッパ最北端を目指して前進──九九年六月・スウェーデン 共通言語は自転車修理──九九年七月・フィンランド バスの遅れでたらい回しに──九九年七月・ノルウェー 強風吹き荒れる平原でキャンプ──九九年七月・アイスランド 美人が多いフェロー諸島──九九年八月・デンマーク 台湾の友人に会うためひた走るが……──九九年八月・イギリス 一〇年ぶりにストームさん一家を訪ねる──九九年九月・フランス 目覚めるとテントの外は銀世界──九九年一一月・ドイツ ベルリンの壁崩壊から一〇年たった街──九九年一一月・ドイツ ヨーロッパ一美しくビールのうまい町──九九年一一月・チェコ ドイツの友人から素敵なクリスマスプレゼント──九九年一二月・ドイツ 次々に宿泊先を紹介してもらう友達の輪──〇〇年一月・スイス 標高一〇〇〇メートルの峠を越える──〇〇年八月・スペイン 第三章 アフリカ(二〇〇〇年八月~二〇〇一年九月) アフリカの洗礼──〇〇年八月・モロッコ 巨大なゴキブリとハエの大群に大わらわ──〇〇年九月・モロッコ 地雷と強盗集団の待つ砂漠を激走──〇〇年九月・モロッコ 自動車が海に沈む危機に──〇〇年九月・モーリタニア スイス人の友人に偶然再会──〇〇年一〇月・セネガル 現金がおろせない危機──〇〇年一一月・セネガル 電気、ガス、水道のない小さな集落で──〇〇年一一月・マリ 物価が激安で宿は一泊七〇円──〇一年一月・ガーナ 地球一周四万キロのマラソン旅をするスイス人──〇一年一月・トーゴ 弱肉強食の街──〇一年二月・ナイジェリア 英雄エムボマの家族に迎えられる──〇一年三月・カメルーン 賄賂を強要する憎たらしい奴ら──〇一年三月・赤道ギニア 重度のマラリアに感染──〇一年四月・ケニア 危険極まりない日没後のナイロビ──〇一年四月・ケニア 野生動物を間近に見る──〇一年四月・ケニア 高山病になりながらキリマンジャロ登頂──〇一年五月・タンザニア 経済難の首都ハラレで世話してくれた裕福な白人家族──〇一年六月・ジンバブエ 山道で自転車が大破! 体中傷だらけのピンチに現れた男たち──〇一年八月・ナミビア アフリカ最南端のアガラス岬へ──〇一年九月・南アフリカ 第四章 東南アジア、オーストラリア、南米、北米(二〇〇一年九月~二〇〇五年七月) 道も警官もタイから一転──〇一年一一月・カンボジア 航空料金以上の超過手荷物料金──〇一年一二月・オーストラリア エベレスト人類初登頂者に会い地球二周目を決意──〇二年一月・ニュージーランド 四〇年旅を続ける大先輩と偶然出会う──〇二年一月・チリ チリ最大手の新聞社の取材を受ける──〇二年一月・チリ 南米最南端の日本人宿でタラバガニを喰らう──〇二年二月・アルゼンチン パタゴニアで暴風に悩まされる日々──〇二年三月・チリ チロエ島の宿で甘えに甘えて四カ月滞在──〇二年四~八月・チリ 友人の訃報をメールで知る──〇二年八月・アルゼンチン 苦しみながらも南米最高峰アコンカグアに登頂──〇二年一二月~〇三年一月・チリ ウルグアイ空軍機墜落事故の生還者と会う──〇三年六月・ウルグアイ ブラジルの大都市は自転車ブーム──〇三年一一月・ブラジル 犯罪多発都市でキャッシュカード泥棒に遭う──〇四年一二月・ブラジル 金欠が続くが笑顔に努める──〇四年一二月・ブラジル カーター元大統領と対面──〇五年五月・アメリカ アントニオ猪木さんからカンパしてもらう──〇五年六月・アメリカ 日本に帰るか、このまま旅を続けるか──〇五年七月・カナダ 第五章 再び西ヨーロッパへ(二〇〇五年七月~二〇〇九年一〇月) 四〇年以上世界を走り続けるハインツさんと再会──〇五年七月・フランス イタリア人サイクリストとモンブラン登頂──〇五年八月・フランス 同じ旅人を子に持つスイス人の母の手紙──〇五年八月・スイス 社会復帰の厳しさ──〇六年五月・スペイン 戦争の傷跡──〇六年九月・ポーランド ロシア軍人にだまされる──〇六年一〇月・ロシア 突然、名誉市民章を受ける──〇六年一一月・モルドバ 内戦の傷跡が残る──〇六年一二月・旧ユーゴスラビア各国 サイクリングクラブで講演──〇七年十二月~〇八年一月・フランス ブルゴス市で二時間の講演──〇七年三月・スペイン サイクリング賞を受賞──〇七年五月・チュニジア クラクションを勘違い──〇七年七月・トルコ 争いの香りがする──〇七年一〇月・シリア 入国チェックが厳しい──〇七年一一月・イスラエル 砂の道と照りつける日差しに疲労困憊──〇八年一月・スーダン 子どもたちの投石に困惑──〇八年一月・エチオピア 日本人観光客の多さに驚く──〇八年三月・イエメン 砂まみれになりながら砂漠を走る──〇八年五月・オマーン ノーベル平和賞受賞者と会う──〇八年七月・イラン 戦乱に遭遇──〇八年八月・グルジア なにもない平原をひた走る──〇八年九月・トルクメニスタン 標高四〇〇〇メートル級の峠越え──〇八年一〇月・中国、パキスタン 自転車のチェーンが見つからない──〇八年一一月・インド エベレスト街道で野口健さんに会う──〇九年一月・ネパール ジャカルタで自転車通勤のムーブメント──〇九年四月・インドネシア バンコクの日本人社会に触れる──〇九年五月・タイ インドの腫れ物を昆明の病院で治す──〇九年八月・ベトナム、中国 一泊一五〇円の民宿──〇九年九月・中国 厳戒態勢の北京──〇九年九月・中国 故郷に近づいてきたと実感──〇九年九月・韓国 旅の終焉──〇九年九月・韓国 放浪哲学 11年かけて130カ国15万キロの自転車ひとり旅 by 中西 大輔 もくじ プロローグ ひとり旅のはじまり 第一章 世界一周自転車旅へ出発(一九九八年六月~一九九九年六月) なぜ、なぜ、なぜ──九八年六月・日本 自転車は本当に届くのか──九八年七月・アラスカ州 「早く南に向かいなさい」──九八年八月・アラスカ州 野生の巨大熊の恐怖──九八年八月・カナダ 八年前に助けてもらったドンさんに再会──九八年一一月・カリフォルニア州 砂嵐とヒョウの来襲に身も凍る──九八年一一月・アリゾナ州 いつまででも泊まっていきなさい──九八年一一月・ニューメキシコ州 不安でいっぱいのメキシコ入国──九八年一一月・メキシコ メキシコ人家族の大歓迎──九八年一一月・メキシコ メキシコの盛大なクリスマス──九八年一二月・メキシコ 街で突然、靴工場の兄さんに招かれて──九九年一月・メキシコ 強盗事件が日常茶飯事の危険な都市──九九年二月・ベリーズ 狭くてうす暗い部屋から裕福な生活へ──九九年三月・エルサルバドル 治安がいいはずのコスタリカで盗難に──九九年四月・コスタリカ ゲリラ、麻薬、強盗の多い国で成功を収めた日系人──九九年五月・コロンビア キトで生まれてはじめてのラジオ出演──九九年五月・エクアドル 夢見た島の現実に唖然──九九年五月・エクアドル(ガラパゴス諸島) アルベルト・フジモリ大統領のお姉さんに会う──九九年六月・ペルー 日本人をルーツに持つペルー人──九九年六月・ペルー 第二章 西ヨーロッパ(一九九九年六月~二〇〇〇年八月) 執拗な荷物検査を受けて意気消沈──九九年六月・スウェーデン ヨーロッパ最北端を目指して前進──九九年六月・スウェーデン 共通言語は自転車修理──九九年七月・フィンランド バスの遅れでたらい回しに──九九年七月・ノルウェー 強風吹き荒れる平原でキャンプ──九九年七月・アイスランド 美人が多いフェロー諸島──九九年八月・デンマーク 台湾の友人に会うためひた走るが……──… 大学を卒業して六年間の住宅メーカー勤めで、旅行資金七〇〇万円を貯めた。会社を辞め、出発準備をしていたとき、最後の勤務地となった熊本の地元紙・熊本日日新聞の取材を受けた。熊本市に四年間暮らし、この地を第二の故郷のように感じていたこともあり、地元でお世話になった人たちにこれからの私のことを知ってもらえればと、軽い気持ちで取材に応じることにした。 両親は、せっかく就職できた大手企業を辞め、世界一周の旅に出ようとする私に猛反対した。現在の安定を捨て、命の保証さえない危険な自転車旅に出ようとしている私のことが心配でならないのだ。  無事に生還できたとしても、一度ドロップアウトした人間は冷遇される日本の社会では、将来生計の保証もない。私もそれをわかったうえで旅に出ることを説得し、熊本のアパートを引き払って両親の住む兵庫県川西市へと戻った。 天候は週の半分が曇りか雨。雨の日はレインウェアを着て走るのだが、体が冷えて結構つらい。それでもアラスカの素晴らしい大自然は、心を癒してくれる。氷河や河川、湖沼、滝などの清らかな水の流れ、自然林の緑に魅せられ、野生の生き物を間近に見ることもできる。  ムース(ヘラ鹿)、熊、トナカイ、コヨーテ、ヤマアラシ、ビーバー、野ウサギ、リスなどの動物、さらにチョウ、ハチ、アリ、蚊、ハエ、バッタ、トンボなど日本でもお馴染みの昆虫も生息している。町を離れると、毎日夕方から巨大な蚊の集団に襲われ、閉口させられた。冬にはマイナス四〇度になる厳寒の地で、よくもこんなにたくさんの生物が生きているものだと感心させられる。 「ラスクルーセスにようこそ。世界一周にチャレンジする君を大歓迎するよ。私も自転車旅行が好きで、休暇を利用してはアメリカ国内のあちらこちらを走っているんだ。自転車旅行中はいつも君のように日焼けして、汗まみれで腹を空かせていたよ」。私がこの地でメキシコから中南米へと進んでいく準備をすると説明すると、教授の家にしばらく滞在させてもらえることになった。 このラスクルーセスで、とても幸せなときをすごさせてもらった。夫妻のお陰で中南米へ向けての旅の準備は整った。旅立ちの前夜、パスターナック教授から「いつまででも泊まっていきなさい」と温かい言葉をいただいた。さらに「もしメキシコや中南米で困ったことがあれば、いつでも連絡をしてきなさい。必ず助けてあげるから」という言葉もいただき、とても勇気づけられた。 一家で最も若いナオミさんは英語をあまり話せないが、代わりにスペイン語を一生懸命教えてくれた。一八歳でもう婚約者がいるナオミさんは将来、大家族をつくることが夢なのだそうだ。二五歳の長男エクトール・ゴンザロさんの夫婦には、赤ん坊が誕生したばかり。家族の絆が強いこの一家は、結婚して家を出た子どもたちも、週末には必ず両親の家にやってきて食事をともにする。 標高二一〇〇メートルの活火山が周囲に並ぶ、プエブラ市近郊の町でのこと。朝、宿を出て路地を走りはじめたとき、後ろからやってきたオンボロのニッサン車「イチバン」に乗る若い男が私に声をかけてきた。英語が話せるその男は、自転車好きの家族に私を紹介したいから、ちょっとだけ寄り道をして家にきてほしいという。男はホセ・ルイスさんといい、登山や自転車などが趣味なのだそうだ。私の旅の話を聞き、目を輝かせているので、彼の家に寄ってみることにした。 メキシコ南部から中米のエルサルバドルにかけて、マヤの古代遺跡が分散している。カリブ海の海岸に沿ってマヤ遺跡を訪ねながら、メキシコ南西部にあるユカタン半島のほうから隣国ベリーズへと向かった。ベリーズは四国ほどの面積しかない小さな国。かつてイギリスの植民地だったことから、中米では唯一英語が公用語となっている。  日本人旅行者はビザを取得しなければ入国できず、メキシコ国境の町チェトゥマルにあるベリーズ領事館で日本円にして約四〇〇〇円ほどのビザ代を払い、一カ月間有効の観光ビザを取得した。さらに両替店にいき、残った六〇〇ペソを一二一ベリーズドルに替えた。そして町を離れ、国境の検問所に向かう。 それにしてもメキシコは事前に聞いていた悪い噂とは逆に、私にとってとても居心地がいい国となった。たまたま運がよかったのだろうか。  国境の検問所に続く道には、これからベリーズに入国しようとする自動車が列をなしている。その間を自転車でくぐり抜け、出国審査の建物に近づくと、「ドラー、ドラー、チェンジマネー」と両替商たちが一斉に近づいてきた。「いくら金を持っているんだ、両替しないか? レートは最高だぞ!」。断っても、断っても、次から次へとまとわりついてくる。さらには残った金で食べ物や飲み物を買えと迫ってくる行商人たち、タクシー運転手たちもまとわりついてくる。挙句の果てには、自称ガイドが出国の手続きを勝手に手伝い、金銭を請求してくる。 たことにベリーズシティでは、多くの商店で中国人や台湾人が働いている。物を買うには鉄格子越しに商品と代金を交換するのだが、親切に話しかけてくれた台湾人の店員に話を聞くと、強盗事件は日常茶飯事とのこと。警察はまったく役に立たず、自衛が大前提だという。鉄格子にも納得する。思った通りの危険な都市だ。聞けば、麻薬と酒が黒人たちを悪の道に招いており、台湾人の店員は、この国を出て早く故郷へ帰りたいという。夜は絶対に外出しないようにと厳重に注意された。 エルサルバドルは、日本の四国より少し大きいくらいの中米の小国だ。一九八〇年代の内戦を経て貧しい国となり、ピストルやナイフを使った強盗事件が多発している。前年に襲った大型ハリケーン「ミッチ」により南部の橋は壊され、壊滅状態の村もあり、治安の悪化や伝染病が心配されていた。 私の宿選びのポイントは三つある。自転車の安全が確保されること、値段ができる限り安いこと、そして従業員やオーナーが感じのいい人あること。この三つさえ満たせていれば、快適さなど二の次だ。 「セマナサンタ(キリスト教の聖週間)」の日、ニカラグアの首都マナグアで、ひとり旅をしているスイス人サイクリスト、アルバノ君と出会った。私と同じく北米から出発し、南米へ向かっているアルバノ君と意気投合。しばらく一緒に旅をしようということになった。アルバノ君はアマチュアの自転車レース選手だけに、体力は私よりありそうだ。二人で旅をするとなると、お互いの走行ペースを合わせないといけないため、気をつかうことが増える。一方、お互いの経験や旅の仕方を共有できるいい機会となる。 ここはアンデス山脈。強い日差しのもと、三〇キロにおよぶ長い上り坂をひたすらペダルを踏みこんで上る。体中から滝のように汗が吹き出し、シャツもパンツも汗まみれだ。標高二八五〇メートルの盆地にあるエクアドルの首都キトを目指す。そのためには、盆地を囲む山を越えなければならない。  谷底から二時間かけて、ようやく峠の上につく。標高三〇〇〇メートルはあろうか。ここは赤道直下だが、標高が高いだけあって暑さはそれほど厳しくない。しかし、湿度が高くとても蒸し蒸しする。アラスカを発ってから一〇カ月。ようやく赤道までたどり着いたことで、うれしさがこみ上げてくる。 グアヤキルから一時間半のフライトで赤道直下のガラパゴス諸島、サンタクルス島に着く。外国人旅行者は、自然保護のための一〇〇ドルを入域税として支払うことが上陸の条件だ。さらに自然保護のため、細かなルールが決められている。各島を見学するには、船とガイドを雇わなければならず、個人で自由に探索することは許されない。 ガイドブックにも、島を守るための厳しい決まりがいろいろと書かれている。例えば、「野生動物には絶対触れてはならない」、これは人間のバイ菌が野生動物に悪影響を与えないため。「タバコを吸ってはいけない」、これは山火事防止のため。「昆虫や植物の種子などを持ち込んではならない」、これは生態系の破壊を防ぐため。「ごみは捨ててはならない」、これは当たり前のことだろう。 ガラパゴス諸島は、赤道上の野生動物の楽園で、手つかずの自然が残されていると思っていた。しかし、空港から対岸のサンタクルス島に船で渡ると、立派なアスファルトの道路が森を引き裂いて、一直線に伸びている光景に唖然とする。草原には、鉄パイプなど建築物の廃材が放置されていたりもする。 さらに前年発生した二〇世紀最大といわれるエルニーニョの影響で、ガラパゴスに住む生物の個体数が激減したそうだ。人間による環境破壊のしわ寄せが、こんな南海の孤島にまで及んでいることを実感する。この野生動物の楽園はいつまで存在できるのだろうか。私にはなにもできないが、心配だ。  人口七〇〇万人の大都市、ペルーの首都リマに着く。今年は日本人移民がこの国に入植して一〇〇周年を迎える記念すべき年。日系人のアルベルト・フジモリ大統領は、両親が熊本出身だ。熊本は私が以前、住宅メーカーの社員として勤務していたところでもある。勝手ながら、大統領に親近感がわく。 パスポートを見せてアラスカから自転車でやってきたことを伝えると、警備員たちの表情は一変。友達のようにいろいろと話しかけてくる。「この自転車で一年もかけてペルーまでやってきたのか。そりゃあすごい。せっかくだから、フジモリ大統領に表敬訪問するといい。きっと喜んでくれるに違いない」というようなことをスペイン語で話してくる。彼らによれば、日本人ならわりと簡単に大統領に会えるそうだ。大統領官邸までの道のりを教えてくれたので、とにかくいってみることにする。 しかし、アポなしで突然伺っても、さすがに一国の大統領には会えないだろう。そこで、まずはフジモリ大統領への手紙を書き、リマの中心街にある大統領官邸にいく。大統領官邸の入り口にいる警備員に事情を伝えると、向かいの建物にある事務所で手続きするように教えてくれたので、そこでフジモリ大統領への手紙を渡す。すると、なんと翌朝、フジモリ大統領に面会できることになった。ただの旅行者がこんな簡単に大統領に面会できてしまうのだろうか。異国では、日本では考えられないようなことが起こる。うれしい半面、驚きで胸が高鳴る。何事もやってみるものだ。 翌朝、正装して大統領官邸に出直してきた。気持ちがすこぶる高まる。なんといっても一国の大統領に会えるのだ。入り口でペルー人ガイドに案内され、日本人の中年の女性のグループとともに大統領官邸に入る。女性たちは官邸内でポーズをとって写真を撮りまくっている。周りにいる他の人々に迷惑がかかるほどの大声でおしゃべりしているが、まったく気にかけない様子だ。この女性たちに限らないことだが、団体で外国旅行をする日本人は、無神経な行動をとる人が多いように感じる。 秋田さんの紹介で、ペルーの日系人向けの新聞『プレンサ・ニッケイ』に取材を受ける。日系三世の若い記者は、日本語がほとんど話せない。彼に限らず日系三世、四世ともなると、日本語が話せない人が多いそうで、この記者に日本語で話かけると恥ずかしそうにする。自分たちのルーツの言葉を話せないことが気恥ずかしいのだろうか。見た目は日本人と同じなので、彼ら日系人と日本語で会話できないことに戸惑いを感じてしまう。彼らは日本人をルーツに持つペルー人なのだと、次第に理解するようになった。 かつてペルーに渡った日本人は、世代をへて静かにこの国の文化に溶け込むことで、民族的な対立は発生しなかったのだろう。人種、民族、宗教……いくつかの民族国家や多人種国家では、融和することなく、悲惨な対立が続いている。殺人は報復を呼び、報復は常にエスカレートする。なぜ理解し合えないのだろうか。日本人である私にとって、理屈ではわかっていても、感覚として実感できない部分がある。私は自転車旅を通じてそれを肌で感じたいと思った。 約二〇〇〇キロ先にあるヨーロッパ最北端のノールカップを目指して自転車をこぐ。ストックホルム近郊を離れると道は上り下りが多いものの、とても走りやすく快適に前進できる。道ゆく自動車の運転マナーはよく、市街地では自転車や歩行者の通行が自動車より優先されている。海、森、湖、畑、町と次々に風景が入れ替わり、晴れていればその美しさは申し分ない。夏の北欧がサイクリストに人気が高いのもうなずける。しかし、夏の北欧は晴れた日があまり長く続かず、雨空の日が多い。雨はしとしと、二、三日降り続くこともある。私はそんな雨が大の苦手だ。 テントのなかで、食パンとヨーグルトだけの簡単な食事を済ませ、レインウェアを着こんで外に出た。昨日通りすぎたロバニエミまで、七キロの道のりを自転車で戻る。ロバニエミはサンタクロース発祥の地として知られ、町の外れに「サンタクロースの村」という標識がある。トナカイが放牧されているが、この長雨と蚊の襲撃にトナカイたちもうんざりしているのではないだろうか。 ボトムブラケットの交換は特殊な工具が必要で、こちらも力仕事だ。お互いのタイミングを合わせ、ぐいっと力を込めて部品を外す。息が合っていたため作業がスムーズに進み、三〇分ほどで修理が完了した。手際のよい彼の仕事振りには感心する。修理代を払おうとすると、彼は日本円で三〇〇〇円ほどの部品代だけでいいという。おまけにスプレー式のオイルまでプレゼントしてくれた。  ヨーロッパにきて初めて親切にされ、心が熱くなった。なにもお返しできないので、私は彼に旅の話をした。言葉は通じないのだが、再び身振り手振りを交えて一生懸命に説明すると、彼はとても楽しそうに聞き入ってくれた。 外は相変わらず雨が降り続いているが、自転車で図書館にいってみることにした。北欧の国々の図書館はどこも立派できれいで、ここロバニエミの図書館も近代的で広々としている。二〇分の時間制限でインターネットを無料で利用できるのがいい。この居心地のいい図書館で地図や資料を見ながら、今後の計画を練ったり手紙を書いたりした。 アイスランドを発った後、デンマーク領のフェロー諸島に寄り、その次にイギリスのシェトランド諸島とオークニ諸島に寄り、スコットランド北部のジョンオーグローツ岬に到着。それが謝さんとロンドンで会う約束の日の六日前になってしまった。大急ぎでロンドンに向けて自転車をこぎ続けたが、四日前にスコットランドの真ん中あたりにあるアビモアというところまでくるのがやっと。ロンドンまでは、まだ八五〇キロも離れている地点だ。 チェコの首都プラハは、ヨーロッパで最も美しい町の一つ。そうドイツ人の友人から教わったことがある。また、チェコのビールは、地元のビールが世界一うまいと胸を張るドイツ人をもうならせるそうだ。そんな評判を耳にしていたので、チェコへいくのを楽しみにしていた。国が変われば言葉が変わり、通貨も変わる。持ち合わせていたドイツマルク札を、銀行でチェコクローネへと両替する。小さな国々の多いヨーロッパでは、数週間おきに国境を越え、両替をしている。 チェコとポーランドは、ベルリンの壁崩壊とともに東欧の共産主義から脱し、西欧の民主主義に移行した。チェコで最初に到着したリベレツの町を見て驚いた。ちょっと前に通ったばかりのポーランドのズゴジェレツの町と比較にならないほどモダンなのだ。旧共産圏とは思えない。ベルリンの壁崩壊から一〇年で、見違えるほど町並みが変わったのか、中心街にはしゃれたショーウィンドーがある小ぎれいな店が並び、イギリスの大型スーパーマーケットのテスコもある。おしゃれな服を着た若い人たちのなかには、英語を話す人が少なくない。ATMが街角にいくつもあって西欧諸国にひけをとらないほど利便性が高い。しかし、驚くほど物価が安いことに驚かされる。 周囲を見渡すと歴史ある立派な石造りの建築物と、いたる所に石碑や彫像が見られる。よく見るとアパートや建物の上にまで見事な彫像が並んでいる。ここプラハは第二次世界大戦の戦火を逃れ、中世の繁栄がそのまま残っているそうだ。まるでおとぎの国のような見事な街並みに心打たれる。  久しぶりにテントではなく宿に泊まり、プラハを観光してみることにした。ヨーロッパ一美しいとされるプラハは、さすがに観光客たちを飽きさせない見どころにあふれている。夜はクラシックのコンサートを堪能し、有名なビアホールにも訪ねてみた。繁華街にある「ウ・フレクー」というビアホールは、創業一四九九年とプラハで最も古く、いつも観光客で賑わっているそうだ。 チェコは一人当たりのビール消費量が世界一。コーラの三分の一の値段でうまいビールが飲めるのだから、この統計にも納得する。パブを兼ねたレストランでは、昼間からビールをあおっている人がいる。地元の人々が集まるレストランは、ウ・フレクーなどの外国人観光客が訪れるビアホールのように、豪華な装飾や賑やかなアコーディオン奏者、格好いいウェイターなどはいない。質素な建物内で明るいライトのもと、人々の楽しそうな雑談が響き渡るのだが、そんな雰囲気が私はとても好きだ。こんなチェコの伝統が、いつまでも残ってほしいと思う。 ローマンさんの本職は写真家だが、自転車の分解や整備が得意で、プロの自転車整備職人以上の豊富な知識と技術を身につけている。バラバラに分解した自転車の部品は、まだ使える部品、もう交換したほうがいい部品、グリースを塗ってメンテナンスをする部品、とそれぞれ仕分けする。自転車の修理は深夜まで続いた。ローマンさんが工具を使って作業するのをお父さんがなにかと小まめに手伝うため、私はほとんどなにもせず見ているだけであった。そんな私にお母さんは紅茶を運んできて、冷えるといけないからと毛糸の帽子とジャンパーを着させてくれた。 大西洋に面するモロッコ最大の都市カサブランカへとやってきた。一五一五年にポルトガル人によって町が再建され、ポルトガル語で「白い家」を意味するカサブランカと命名された。近代的な建物が立ち並ぶ新市街と、古い城砦で囲まれ迷路のようなアラブ圏独特の「メディナ」と呼ばれる旧市街がある。このようなメディナが残る町は、モロッコにいくつかある。カサブランカをゆっくりと探索してみたかったが、「カサブランカは泥棒が多いからいかないほうがいい」と聞かされていたので早々に退散。町はずれの宿に泊まることにした。  モロッコ中部の商業都市マラケシュのメディナは、世界遺産に登録されており、観光客で栄えている。その中心街で宿を探していると、突如、英語で話しかけてくる男が現れた。「宿を探しているのか」と尋ねられ「そうだ」と答えると、「ついてこい!」と私の前を勝手に歩き、次々と高そうなホテルに案内される。断って、自分で見つけた安い宿に入ると、その男はなおも宿の前で待ち構えている。今度は町案内をすると言ってつきまとってくる。   巨大なゴキブリとハエの大群に大わらわ ──〇〇年九月・モロッコ モロッコの南には、サハラ砂漠に覆われた西サハラという地域がある。かつてのスペインの植民地だ。一九七六年にスペインが領有権を放棄して以来、実質的にモロッコが統治している。しかし、独立を目指すポリサリオ戦線(RASD)と対立し、八八年の停戦後も過激派の暴動や外国人を狙った誘拐事件がしばしば起きている。地雷がいまだに埋設されているところでもある。この西サハラを通過するルートは、陸路でサハラ砂漠を縦断する主流ルートになっているが、日本の外務省からは渡航を自粛するように勧告されている。 ダグラの町の人に話を聞くと、町の七キロ先に、ヨーロッパから自動車でやってくる旅行者や商人たちがよく利用するキャンプ場があるという。教えてもらったキャンプ場にいくと、柵で囲われた広大な敷地のなかに、コンクリート造りの平屋の建物が並んでいる。そして、外国人慣れしているような、英語を流暢に話す主人が現れた。モーリタニアへいく車に自転車ごと乗せてもらいたいと事情を話すと、その主人は「今日きた外国人旅行者は君一人だが、じきにヨーロッパ人たちが自動車でやってくるから心配するな」という。一人部屋は三〇ディラハム(約四五〇円)。料金はモロッコの安ホテルの半額くらいだが、ドアを開けると室内は湿気で蒸し暑く、巨大な二匹のゴキブリが床をはっていた。 夜は扇風機をかけて眠るものの、高温多湿でもの凄く寝苦しい。翌日、あまりに部屋が蒸し暑いので、空気を循環させるためにドアと窓を開けっ放しにして町に出かけた。そして、帰ってみるなり驚いた。室内がハエだらけなのだ。数百匹はいるだろうか。体じゅうにまとわりついてくるので、叩き潰そうとするが、ハエはじつにすばしっこい。食料袋にまでハエが入り込み、暴れ回る始末だ。昼寝をしようと横になると、口や鼻のなかにまでハエが入り込んでくる。 自動車が海に沈む危機に ──〇〇年九月・モーリタニア  モロッコとの国境に近いヌアジブの町も、ダフラと同じように漁業で栄えている。日本へ大量のタコを輸出している。町中の道路はアスファルトで整備されており、たくさんの商店が並んで活気がある。ここもまさに陸の孤島のような町だ。 モーリタニアの砂漠には、黄色い砂丘、白い砂丘、赤い砂丘、黒い砂丘、青っぽい砂丘など、色とりどりの幻想的な風景が広がっている。しかし、自動車はガタガタ道で吹っ飛びそうになるくらい揺れ、おまけに酷い暑さで頭がもうろうとし、景色を楽しむ余裕などない。「冷たいジュースを飲みたい」「クーラーの効いたベッドで横になりたい」、ただただ何度もそう思う。  深夜まで走り続けて海岸の村に到着し、一夜を明かす。翌日は早朝から潮の引いた海岸沿いをひたすら突っ走る。海水に洗われた砂はしまっており、走りやすい。村は数十キロごとに現れる。網でエイなどの魚を捕っている黒人の姿が見える。そんな砂浜がどこまでも続く。所どころで山が海岸に迫っている。そこは干潮の間に抜けないと自動車が海に沈んでしまうポイントだ。 電気、ガス、水道のない小さな集落で ──〇〇年一一月・マリ  雨がほとんど降らないサハラの砂漠地帯から半乾燥地帯のサヘル地域へ。さらに雨季と乾季のあるサバンナ地帯へと、ギニア湾に向かって南下すると、次第に草木の緑が増えていく。ダカールを離れマリの首都バマコまでの道のりは、フランスの植民地時代に敷設された鉄道に沿うようにして進む。 一月三日、ガーナの首都アクラに到着する。ここは人口一六〇万人の大都市で、必要なものはたいていそろう。細菌学者の野口英世が、自ら研究していた黄熱病で亡くなったのがこの地である。ガーナ大学医学部付属病院には、野口英世記念展示室がある。 ガーナの物価は西アフリカで一番安いように思う。パイナップルが一つ一五円というのも驚きだが、最も安い宿のYMCAは大部屋ドミトリーの宿泊料金が一泊たったの七〇円。ただし、シャワーの水は滅多に出ず、トイレは汚い。ここまで物価が安いと、節約している旅行者でさえ、少しいいホテルに泊まることができる。だからこのYMCAは、アフリカ各地からやってくる学生やビジネスマンたちが利用している。ここで出会ったルワンダの学生やナイジェリアのビジネスマン、トーゴの学生は、とても親切な連中ばかりで将来の夢など熱く語ってくれた。 トーゴはフランスの植民地であったため、フランスの文化が浸透している。イギリスの植民地だった隣国ガーナとは雰囲気がだいぶ違う。公用語はフランス語で、フランスパンがおいしい。食堂のメニューも、ガーナに比べれば豊富で、どれもおいしい。マンゴーを食べてみると、やわらかくて甘く、とてもおいしい。ラグビーボールより少し小さいマンゴーが一つ二〇円ほど。ガーナより若干高いが、それでも日本と比べれば激安だ。ついたくさん買ってしまい、たくさん食べると、やはり翌日にはいつもどおり体中に赤い斑点が出る。 旅行ガイドブック「アフリカ」によると、「ナイジェリアは、犯罪率の高いことで指折りの大国といえる。景気低迷による治安悪化に加え、民族対立が根強い相互不信を生み、汚職や腐敗もひどい。警官、軍人の質は特に悪い。隣国のアフリカ人も恐れ、欧米人バックパッカーも避けて通る国。ラゴスの街中には武装強盗やプロの殺し屋がはびこり、外国人が車を運転中に撃たれて金品を奪われたという話も耳にする。現地の人ですらナイジェリア人の九〇パーセントは泥棒だというくらいだから、どんなに親切そうにふるまって近づいてきても完全に信用してはならない」とされる。 そんなナイジェリアにベナンから入国する。ガーナ以来の英語圏にやってきてコミュニケーションがとりやすくなると期待していたのだが、独特の発音やいい回しがあり、はじめはなかなか聞きとれなかった。街はどこもたくさんの人であふれ返り、休憩するたびに人に囲まれる。そのたびに同じような質問攻めにあう。これが毎回のことなので面倒くさくなり、だんだん人ごみを避けるようになった。 ラシシさんはオンボロの軽トラックで、ラゴス市内を案内してくれた。メインの道路の幅は広く、どの車もかなりのスピードを出す。そんななか、ラシシさんがバナナをくれた。食べ終わり、皮を置く場所に困っていると、ラシシさんが私のバナナの皮をとり上げ、ポイッと窓の外に投げ捨てた。バナナを捨てた方向を見ると、なんとそこには人の死体が転がっているではないか。振り返って確認してみたが、間違いなくあれは人の死体だ。  ラシシさんは、「これがナイジェリアさ」といって驚いた様子を見せない。なんでも、警察に通報すると通報者が死体の埋葬費を負担しないといけないため、誰もが見て見ぬ振りをしているのだという。   賄賂を強要する憎たらしいやつら ──〇一年三月・赤道ギニア  ドゥアラ港から船でカメルーンを出国し、赤道ギニアの首都マラボがあるビオコ島へと向かう。カメルーン出国時には、やはり悪徳官憲たちやそれをとり巻くゴロツキたちから何度も金をむしりとられ、はらわたが煮えくり返った。もう二度とこの国へくることはないだろう。もう二度とあんな嫌がらせを受けるのはご免だ。 赤道ギニアはスペインの植民地だったため、人々はスペイン語を話し、街にはスペイン風の古い建物が並んでいる。治安はわりといい。地元の人々は悪徳官憲たちとは対照的に明るく親切な人が多い。今日は港で知り合った親切な青年ジョナ君の家に泊めてもらうことになった。狭い家だが、ジョナ君家族は私を温かく迎え入れてくれた。 キリマンジャロの南麓の緩やかな丘陵部にある都市モシにやってくると、「どこからきたんだ? なに、日本から?」といった具合に通行人からしきりに声がかかる。「おしん!」と叫んでくる人もいる。じつは、日本では二〇年も前にNHKで放映されていたドラマが、ここタンザニアで放映されており、大人気のようなのだ。そのため、タンザニアで日本ブームが巻き起こっているらしい。街は日本車だらけで、「ダラダラ」と呼ばれる公共バスは、「天野町消防署」「大和町ボランティア号」「豊橋石巻温泉郷 見晴荘」などとペイントされた日本の中古車が活躍している。 ゴードンさんは自転車旅行が趣味で、自転車旅行者のホームステイを受け入れる「ウォーム・シャワーズ」という世界的なコミュニティの会員でもある。「私の家に泊まりにきた初めての世界一周旅行者がダイスケだよ」と、眠たげな目をこすりながら歓迎してくれた。自動車でゴードンさんの自宅まで送ってもらうや、二人とも疲れから昼すぎまで熟睡。午後から動物園に連れていってもらった。 ハリス夫妻は、丘の斜面に立つ海の見える大きな屋敷に住んでいる。汗とホコリで真っ黒になった服では入るのが申し訳ないほど美しい豪邸だ。久しぶりにシャワーを浴びさせてもらった後、ワインを飲みながらご馳走を囲んであれやこれやと旅の話がはじまる。私の両親ほどの年齢の夫妻は、私が旅先からたまに送る絵葉書や手紙をいつも楽しみにしていて、私のことをずっと心配してくれていたそうだ。カナダで出会ったときに再会を約束したが、本当に再会できたと喜んでくれた。ご主人のリックさんは公安局員、奥さんのクリスさんは市役所の事務員で、長期休暇で世界各地を旅行するのが趣味だ。また、どこか旅先か、日本で再会するのを楽しみにしている。 しばらくあたふたしていると、背広姿の若い男が入ってきた。「助かった」と思った。丁寧な英語で事情を聞いてくれるので、キャッシュカードのトラブルを説明した。その男は携帯電話でATMを管理するブラジル銀行に問い合わせ、早口のポルトガル語でなにやら懸命にやりとりしてくれているようだ。すると「もう一度パスワードを押して」というので、パスワードを押すが、赤いランプが点滅し続けたままで正常に作動しない。さらに「ブラジル銀行の人が、もう一度パスワードを入れてくださいといっています」というので、再度パスワードを押すが、結果は同じ。カードも戻ってこない。  男は携帯電話で現状を報告すると、銀行員からの伝言を丁寧に説明してくれた。「今日は土曜日で銀行が休みなので、係員はくることができない。明後日の月曜日にここにきてあなたにカードを返却するから、今日のところは安心してこの場を去っていいですよ」と。  トラブルが片づいたようでホッとした。月曜日まで待たなければならないので、船会社にいって切符をキャンセルしなければならない。大急ぎで船会社の事務所に戻り、事情を説明して、今日正午発の切符をキャンセル。来週の便に変更してもらった。それにしても今日はついていない日だ。あのときATMに立ち寄らなければ、いまごろマカパゆきの船で寝ていられたのに。  今朝の出来事を思い出すうちにふと不安になり、あのATMに戻ってみた。すると、赤いランプはもう点滅しておらず、挿入口に詰まっていた私のキャッシュカードもなくなっている。さっと血の気が引いた。心臓はドキドキと大きく鼓動を打ち、慌てふためく。どうしようか、どうしたらいいのだろうか。 ATMボックスの前にある高級ホテルへ入り、藁にもすがる思いでホテルマンに今朝の一件を相談してみた。すると、年配のホテルマンは顔色を変えた。「ここベレンではよくあるキャッシュカード泥棒です。すぐに日本のあなたの銀行に電話をして、銀行口座からの支払停止措置をとってください。必要ならこのホテルの電話を特別に使わせてあげますから、さあ早く!」… もうATMで現金を引き出せなくなってしまった。手持ちの金はトラベラーズチェックと現金の合計三〇〇〇米ドルほどしかない。この先どこまで旅を続けられるだろうか。それにしても、今朝の行動が悔やまれてならない。何度も何度も思い出しては後悔する。船の切符を買ったあと、そのまま正午の出港まで船で待っていれば、なんの… これから先、しばらくは手持ちの三〇〇〇米ドルで乗り切らなければならない。南米縦断後、カリブ海に浮かぶ一三カ国の島国を訪問したいと思っていたが、あきらめざるを得ない。それどころか、キャッシュカードの再発行が叶わなければ、一時帰国するか、どこかで働いて金を稼がなければ旅が続けられない。  三年半の計画で出発し、「早く帰ってこい」という父の命令を無視してここまできている。こんな体たらくで帰国すれば、もう二度と旅に出させてもらえないだろう。ガンガンと照りつける熱帯の太陽の下、私の心だけが暗く沈む。まだ訪ねていないヨーロッパやアジアの国々、とくにヒマラヤはなんとしても走りたい。 テーラーさん夫妻は、長期休暇を利用して二人乗りのタンデム自転車でフランスを旅行したことがある。私の自転車旅にとても関心が高く、次々と各国のサイクリング事情など質問を受ける。そして、ここアメリカの事情についてレクチャーを受ける。アメリカは移民が増え、犯罪が増加し、景気は後退。少しギクシャクした社会になってきているそうだ。国の法律、州の条令、市の条令、住宅地区の地区条令と、細かに規則が決められている。それに違反するとすぐに警察に通報されるという。 いきたいところや見たいところは、世界中にまだたくさんある。南米最高峰アコンカグア登山のときに知り合ったイタリア人のスベボさんからは、ヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブランの登山に誘われている。フランスではもうすぐ世界最高峰の自転車レース、ツール・ド・フランスが開催される。今季で引退を宣言しているアメリカの英雄、ランス・アームストロングの史上初の七度目となるマイヨ・ジョーヌの姿が見られるかもしれない。 パリに着いたという知らせを自転車仲間たちに一斉メールしたら、すぐイタリアに住むスベボさんから返信があった。南米最高峰アコンカグア登山のときに知り合ったスベボさんとは、ヨーロッパ・アルプスの最高峰モンブランを一緒に登ろうと約束をしていた。スベボさんは、私がモンブランにいく日に合わせて、仕事の休みをとってくれるという。そして、八月五日にモンブランの麓にあるリゾート地、フランスのシャモニーという村で落ち合うことになった。  標高四八一一メートルのモンブランは、アルピニストなら誰でも一生に一度は登頂したいと憧れる山だ。フランスとイタリアの国境にそびえていて、その頂上からは美しいアルプスの峰々を見下ろせる。イタリア側からのいくつかの登頂ルートは、いずれも私にとって技術的に難しい。しかし、フランス側からの登頂ルートは、冬山の装備とガイドが同行すれば、私でも登頂可能な難易度だ。モンブランの標高は、以前登ったアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロより一〇〇〇メートルも低いので、フランス側からなら登頂できるだろうと踏んだ。 なにがなんだか、まったく理解できない。途方にくれていると、警備員が近づいてきて、ビザを手配する旅行代理店の場所を教えてくれた。その旅行会社を訪れると、一カ月間有効の旅行者用ビザは翌日取得で二〇〇米ドル、三日後の取得で一四〇米ドル、二週間後の取得なら九〇米ドルで代行取得できるという。いずれにせよ私にとっては、これまで訪れた国のなかで一番高いビザ代金となる。  旧社会主義国のロシアは外国人旅行者にも開放されているが、かつては秘密警察や旅行制限区域、悪徳官憲などに妨害され、外国人の自由旅行は難しかった。いまでも地方には旅行制限区域があると聞くし、入国後七二時間以内に都市で外国人登録(レジストレーション)という面倒な手続きをしなければならない。 ヘンリーさんは、南米のパタゴニアで出会った友人だ。パタゴニアの南北に走る未舗装のハイウェー四〇号線で、強い向かい風を受けて自転車を押して前進していたとき、前方から自動車でやってきた旅行者がヘンリーさんだった。過酷な状況で飲み水が切れかけていたとき、水と食料を分けてくれた恩人である。昨夏、東欧へ向かう前にバーゼルに立ち寄ったとき、四年ぶりの再会を果たした。そして、今回再び会うことができた。 一五分のスライドショーと質疑応答の時間はあっという間に終わった。自由な時間を大切にするフランスでは、自由な自転車旅行を愛する人が多い。舞台をあとにすると、次から次へと私のところに握手を求める人がやってきた。そして会場に訪れていたスペイン人のイバン・マルキーナさんから、二カ月後に開催されるブルゴス市での二時間の講演を依頼された。 イタリア北部ジェノバの港を出航した大型フェリーは、二〇時間の航海をへて地中海を渡りアフリカ大陸のチュニジアの港へと寄港した。チュニジアは古代ローマの遺跡が点在する観光国で、ヨーロッパからはもとより日本からの観光客も少なくない。治安が安定しているのも観光地として人気の理由だ。  しかし、船を降りると、厳しい入国のとり締まりが待っていた。まずは長蛇の列に並び、パスポートのチェック。それが終わると荷物検査だが、荷物の中身をすべて出し、一つひとつ入念にチェックされる。  イスラエルから再びヨルダンに戻り、そこからアラビア半島のサウジアラビアにいきたいのだが、サウジアラビアはイスラム教徒以外には観光ビザを出さない排他的な国で入国をあきらめざるを得ない。そこでエジプトへと向かった。 乾季のため水力発電による電力不足が続くネパールの首都カトマンズでは、六時間おきに停電する。インドより貧しい国ではあるが、ここネパールの人たちは、顔立ちが日本人に似ているので親近感がある。また、インドのようにしつこくからんでくる商売人が少なくて助かる。ネパールで一番楽しみにしているのは、世界最高の大山脈であるヒマラヤを見ること。その主峰となるエベレストをぜひこの目で見てみたい。その希望がかなうときがついにやってきた。 一万八〇〇〇もの島々からなるインドネシアだが、入国の際に一カ月間のみの滞在しか許可されず、バタム島、ジャワ島、バリ島のみを走ることにした。ジャワ島には世界最大級の仏教遺跡ボロブドゥールやヒンドゥー教の巨大遺跡プランバナンが残されている。バリ島はインドネシアでは珍しくヒンドゥー文化圏になり、独特の彫刻や建物、習慣が残されている。  毎日、自動車やオートバイとの交通事故の危険を感じる国ではあるが、スベンさんとカロリーンさんから教えてもらったようにたくさんの親切な人々に出会うことができた。もっとたくさんの島を訪れたいのだが、次回訪れる際の楽しみとして残しておこう。 ミャンマーにいったことのある旅行仲間から、ミャンマーの魅力についていろいろと聞いていた。なかには世界で一番好きな国だという旅人がいるほど魅力的なところだ。私は飛行機でヤンゴンに入り、早速、自転車で走ってみる。軍事政権下で、自由に泊れない宿や自転車で走行させてもらえない地域もあるが、仏教の大遺跡バガンなど見どころが多く、人情味のある人々が暮らしている。ミャンマーもタイと同様、物価は安く、治安はいい。 二〇〇九年一〇月一一日、予定通りに大阪に着き、両親や仲間たちに迎えられた。そして、日本アドベンチャー・サイクリストクラブ(JACC)創設三〇周年の記念式典が行われ、そこで五年に一度、世界中のサイクリストを対象に贈られる「地球体験ペダリアン大賞」を受賞。翌年二月には「植村直己冒険賞」も受賞した。自分の体験を少しでも社会に役立てたいという思いは、新聞の記事やラジオ出演、講演などでちょっとずつかなえられている。  さてこれからどう生きていこうか。 「一つの夢を終えたとき、新たな夢を持て」と、ペルー在住の秋田勝さんからいただいた言葉を思い起こす。しかし、あれから四年半以上たつが、新たな夢はまだ生まれていない。起業する才能もないし、なにかの資格を持っているわけでもない私が社会復帰するには、就職先を探すより道はない。とはいえ、四〇歳を越えると条件のいい就職先はなかなか見つからず、先の見通しがまったく立たない。 営林署での森林保全、障害者就労雇用支援センターでのハウスクリーニング、いずれもパートタイムの仕事で、実家暮らしをしながら食いつないでいる状態が続いている。新聞によると日本人の自殺者はここ一〇年以上三万人前後いるという。物に恵まれた豊かなはずの日本だが、一一年もドロップアウトしていた人間にとって、現実の社会は厳しい。  帰国してしばらくすると、七〇歳になるドイツ人のハインツさんが日本を訪れてくれた。小笠原諸島を訪れるのがメインの目的だったが、私の住んでいる関西にも寄ってくれたのだ。相変わらず元気でよくしゃべり、まだまだ世界中をサイクリングするという。そのハインツさんを見ていると一条の光が差してきた。とにかく、いまはがむしゃらに社会復帰に専念して、またいずれチャンスがくればまだ見ぬ世界へ踏み出せばいい。そう思っている。

    0
    投稿日: 2024.07.05
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    自転車で世界一周をする、というのは今では珍しくないけど、でも、読んでみるとやっぱり驚異的なタフさがないと達成できないことだな、と思う。 この著者のように世界中どこででも友人がすぐできる、というのは持って生まれた人徳のようなもの。誰でもできることじゃない。 訪問国が多数ありすぎて、紹介記事は短いものが多いけど、テンポよく読めて、ぐいぐい惹きつけられた。久しぶりに没頭できた本。ま、私も自転車好きというのもあるが、これからも続編を期待したい。

    0
    投稿日: 2023.03.08
  • powered by ブクログのアイコン
    powered by ブクログ

    いろんな人に助けられる様子を見るだけでも価値あり.私は自分の母国で暮らしていると,人に助けてもらっていることに無頓着になりがちなので.

    0
    投稿日: 2021.08.03