
総合評価
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powered by ブクログhttps://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/webopac/BB01853893
0投稿日: 2025.04.11
powered by ブクログちょっとした好奇心から読み始めたんだけど、望外の収穫が得られる良い本だった。 20年以上前の作品だけど人間の根源に関わる普遍的で全ての人が無関係ではいられないテーマで、まったく古さを感じさせない。それどころか、医学が発達するほどジレンマに陥る脳死という問題。 作者の息子さんの人生を追体験するかのような前半と、脳死論の二部構成。 次男の遺した文章を織り交ぜる内容でリアルな人物像が浮かび上がるが、一歩引いた視点でまとめられている。現実には父親として想像を絶する苦悩があっただろうに、ここまで冷静に綴られていることに感服した。それでも我が子への愛情がにじみ出ているのが胸を打つ。同時に、作家というのは因果な商売だなと。芸術家は壁にぶち当たった時にそれを昇華して素晴らしい作品を残すというのを本書で強く感じた。 次男が陥ってしまった不幸な状況、これは時代も大きく関係していると思う。高度成長期を経てバブル絶頂期にいたる過程で、日本人はみな″こうあらねばならない″といういわゆるイケイケな時代に産まれてしまった。現代もそう変わらないとは言え、今なら彼のような天才肌というのか人とは違う感受性の強い子供に多少理解はある社会に変わっているように思う。 科学的考察の後半部については、日本人という民族特有の観点から論じた死生観をからめつつ、作家の目を通した問題提起と彼なりに導き出した答えに概ね同意できた。 単純に知識が広がるだけでなく、自分だけではなかなか到達し得ない、新たなものの見方や考え方の幅が広がる、読書本来の良さが詰まっていると思う。 いのち 永遠にして
2投稿日: 2025.04.07
powered by ブクログ次男の自死を体験した著者が、精神を病みながら直向きに生きた息子や、患者家族にも寄り添う救急医療スタッフ、臓器移植制度の課題についても語る。深く、鋭いノンフィクション。 脳死を「二人称の死」の視点から捉えた考察は、大変腑に落ちた。30年経った現在も移植医療が進まないのは、この視点が欠けているからであろうか。
1投稿日: 2024.11.16
powered by ブクログ「家族にしてみれば、~脳だけを見て語りかけているのではない。温もりのある体全体、喜びや悲しみを表現してきた体全体に語りかけ、その体全体から最後の何かを読み取ろうとし、需要への物語を創ろうとしているのだ。」 とても素晴らしい1文だと思った。 このような考えや姿勢こそが、つまりは愛なのではないかと感じた。 脳死に限らず、人の死について考えることの出来る良書。
0投稿日: 2023.08.21
powered by ブクログ自殺により脳死状態となった作者の次男について、家族が脳死を受け入れ、臓器提供を決定するプロセスを書いたノンフィクション。加えて作者の脳死に対する考えを記した論考。三人称の死として科学的に脳死=死亡と捉えることはできても、「二人称」としての家族の死亡を受け入れるには時間が必要になることが当事者目線で書かれている。 ある意味当然のことではあるが、家族の死は単純に科学的に受け入れることはできない。平素科学的な事実に基づいて世の中を見てきたであろう作者が次男の脳死に直面し、その受け取り方の違いをリアルに書いているという点で胸に来るものがあり、貴重な読書体験であった。
0投稿日: 2023.07.13
powered by ブクログ家族の生や死を描くことはできても、それと向き合う自分を描くのは簡単なことではない。言葉では何かを描き漏らしているような気がしてしまう。それでも一冊描き上げた柳田邦男はすごい。
1投稿日: 2022.10.25
powered by ブクログ精神病により自殺を図った息子が脳死を経て心停止するまでの11日間において、父親として臓器移植等を体験し考えたことを綴ったノンフィクション。 海外文学作品を引用した心情表現、医学の専門的な内容等、難解な部分はあるものの、あとがき、解説等が充実しており、読みやすく工夫されている。 家族が脳死になったら家族としてどう向き合うか、また、自分が脳死になった場合の臓器提供をどうするか等、考えずにはいられなくなる内容だった。 読後に少し調べてみたところ、本書が発行されてからの25年の間に臓器移植法が制定・改正され、本書発行時は認められていなかった心停止前の脳死患者からの臓器移植も行えるようになっているようだ。 本書の著者は、息子が脳死となってから心停止するまでの数日間の猶予があったからこそ、息子の死を受け入れることが出来ていた。 心停止を待たずとも臓器移植を行える現代においては、脳死した患者家族の葛藤は、より大きいと思う。 本書の影響により、そのような家族の心に負う傷を少しでも小さくしてくれる枠組みが構築されていることを期待したい。
2投稿日: 2021.11.11
powered by ブクログ誰にも言えず、誰にも理解されない苦しみ。 筆舌に尽くし難い思い。 それでも、人は、生きていく。 この本を通して背中を見せてくださった。
2投稿日: 2021.10.24
powered by ブクログ著者の息子が心の病から自死にいたり、脳死判定を受け、腎移植を決断する。 脳死という考えを、当事者というか、肉親の立場から考える。科学上、また、医学上、脳死は、一定の判定をクリアするとそういう判定となるが、死というものは、ここまでが生きていて、ここからが死んでいると言う風にスパッと決められるものではない。肉親は、特にそうだ。少しずつその死を受け入れていく。 自分の息子の死を題材にしているので、主観が入るのは当たり前だし、仕方がないが、ちょっと感情的な文章というか、表現になっているところもあった。それが悪いというわけではなく、だからこそ本書の意味があるといえる。
0投稿日: 2021.05.14
powered by ブクログ御子息の突然の「脳死」という状態を体験することになった著者。 病院の医師と看護師さん達が家族に寄り添ってくれていて、説明もケアもとても大事にされていたことが家族にとってどれだけありがたかったことか 必要なのは十分な「時間」と「場」 著者が「無駄死にさせるのではなく人の役に立ててあげたい」と思い臓器提供の判断をするのは簡単ではないだろう
0投稿日: 2021.02.10
powered by ブクログ赤裸々にご自分の家族を描いたノンフィクション。精神を病んで自殺された次男、やはり精神を病んでいる奥様、長男も一時生死を彷徨う病気になる等これだけ大変な中作家活動を続けられるのは凄い。本作は、自死された息子さんの為に、彼が残した日記、文章、親子の会話の記憶等から、彼自身が確かに存在した証を残したい、それを自己犠牲という形で実現したいという考え方に惹きつけられていた事を理解して、その実現を助けようともがく残された家族の実像が見事に表現されている。ノンフィクション作家ならでは、と言おうか。
0投稿日: 2020.09.03
powered by ブクログ柳田家の4人家族のうち著者を除く3人が精神的な病と闘っていたのには驚き。自殺した次男は脳死状態を経て死んだが、その短い足跡を綴った息子への鎮魂歌である。中学生同士のちょっとしたふざけあいから事故がおこり、そこから精神的に追い詰められていく。彼の悩みは、誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在、ということ。そのためか、闘病中に書き綴った小説を自費出版することで彼の生きた証を残し、臓器提供をすることで他人のためにも生きた。彼の死後、関係のあった人から遺族への暖かい励ましの言葉があるが、人は、なぜ彼が生きているうちにもっと深くやさしく対峙出来なかったのかを悔やむ。「親孝行 したいときには親は無し」という川柳が、わが身の身勝手さと、その後に来る自責の念を伝える。自分ののほほんとした生き方に喝!
0投稿日: 2018.09.22
powered by ブクログ脳死。自分がそうなったら意識がないのだから死と同じ、延命治療は不要。そう思っていた。知ってるつもりでいたけれど、何にも分かっていなかったんだと思った。 脳の機能は失っていても身体が語りかけてきて、それを身内は感じる。そんな状況を経験したらとても脳死イコール死といったドライな考え方を持ち続けることはできないんじゃないか。自分が声をかけると脳死状態にある人の血圧が上がったら、人工呼吸器を外すなんてことは考えられなくなりそう。 実際に脳死状態に陥った人の家族として経験された方ならではの意見はとても考えさせられるものがある。
0投稿日: 2018.04.30
powered by ブクログこの本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。 打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。 でもこの家庭は違いました。壮絶というより むしろ崇高という言葉がしっくりきます。 崇高な生き方ではないでしょうか。犠牲…というタイトルに込められた深い意味を理解するでしょう。
1投稿日: 2018.03.07
powered by ブクログ脳死に向き合う父親の、情に寄り切らず、理にも寄り切らない、率直な思いと考えを述べたドキュメンタリーである。洋二郎氏は存命であったなら恐らく優れた作家になってであろう感性と文章力を感じさせられるが、彼自身の好きだった作品名を章名に用いて作品名もタルコフスキーの「サクリファイス(犠牲)」から拝借している。 愛する人の「実感とは異なる死」と対峙したとき、医学的法的解釈では到達し得ない「何か」を11日間の感情や思考の変遷とともに的確に言い表している。死は点ではなくプロセスと捉え、死を状態ではなく受け止める側の在り方なのだと感じさせられる。特に臓器移植を決意したあとに、腎臓の提供は許諾したものの膵臓は見送る行は遺族の微妙な感情の立ち位置を理解させる。洋二郎氏が逝去したとき「マタイ受難曲」のアリアの「憐れみ給え、我が神よ」が流れたのは、クリスチャンでないものに対しても死の神秘と尊厳な印象を与えざるをえない。 脳死というものを考えるとき理論や定義ではなく死生観への配慮はもとより、賢一郎氏が語るように臓器提供=医療に参加するという敬意の念が求められるのであろう。息子の死という痛みを伴いながら脳死というものに対して改めて議論を提起しており色々と考えさせられた。
0投稿日: 2018.01.03
powered by ブクログまず、毎日なかなか意識しない「生と死」の存在を再確認させられた。次に、うやむやにしていたドナーの意思表示。おそらく高校生の頃、なにかの校内での集会で渡されたカード。カードで意思表示するだけでなく、家族にも伝えておこうと思う。
0投稿日: 2017.11.29
powered by ブクログノンフィクション作家、柳田邦夫さんの息子、洋二郎が自死をはかる。これまでの息子との会話から、息子が何を望んでいたか、父親としてどうするべきなのかを考え、臓器移植を決意していく。その決意までの思考を「生と死」「脳死問題」「臓器移植」などをキーワードにして、一人称、二人称、三人称の視点をおりまぜて書かれている。 私が「脳死」や「臓器提供」について考えたのは、きっと将来の進路を決めた中学生の終わり、高校生の始まりの頃だった気がする。両親に「脳死になったら臓器提供したい」という意思表示をしたところ、反対された覚えがある。いまだに、臓器提供したい気持ちは変わらないが、私はこれから母親の立場になる。果たして、自分の子が「脳死」「臓器提供」という場面になったら、私は賛成するのだろうか。反対するのだろうか。 このキーワードはもぉ世の中の様々な出来事に埋もれつつあるワード。時代が少し進んだ時に読んでも再考するきっかけを与える本だと思う。
0投稿日: 2017.06.20
powered by ブクログ心を病んでしまった息子(洋二郎)が自殺を図って病院に搬送されてから脳死に至るまでを綴ったエッセイ。 臓器移植や脳死判定の手順等が詳細に書かれていてます。 洋二郎が書いた短編小説も収録されており、心を病んだ洋二郎の心境の考察を試みていました。 エッセイなので著者の主観も入っています。 自分は個人的に、この著者は生理的に受け付けられないタイプだと思いました。なんとなく「そんなんだったから、俺は言ってやったよ」とか、「こんなに苦しんでいる人がいるんだからお前もこうしろ(著者はこうは言っていません。あくまで私の感想です)」といタイプが苦手な方にはお勧めできません。
0投稿日: 2016.05.15
powered by ブクログノンフィクション作家として、航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントを多数発表している柳田邦男氏が、1993年に25歳にして精神疾患から自殺を図り、脳死状態で11日間を共にした次男・洋二郎氏を追悼するために著した作品。1994年に文藝春秋に掲載されたものに加筆、再構成し、更に別途発表した脳死・臓器移植論を加えて、1995年に出版、1999年に文庫化された。1995年に菊池寛賞受賞。 内容は、洋二郎氏が自殺を図った日から、脳死を経て、心肺停止状態になるまでの11日間を、洋二郎氏が精神を病み始めた中学時代以降の追想、及び洋二郎氏の残した日記や文章を断章として加えて、克明に綴ったものである。 柳田氏は、本作品の執筆の動機を、「あえて簡潔にいうなら、彼の究極の恐怖心を取り除いてやるためだといおうか。・・・彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」と語っており、また、洋二郎氏の生前の意思に沿って、心肺停止後、腎臓移植(自らドナー登録をしていた骨髄移植はできなかったが)も行っている。 しかし、洋二郎氏の持っていた“究極の恐怖心”とは、実は全ての人間のものであり、我々は、自分の死に対し、自らがどのように折り合いをつけるのか、死んだ人間に対し、残された人間がどのように対処するのか、自らのこととして常に考えておかなければならない。 自ら及び大切な人の死と生について、改めて考えさせる一冊である。 (2006年7月了)
1投稿日: 2016.04.23
powered by ブクログ2016.2.22.読了魂が震えた本。ノンフィクション作家、柳田邦男さんの次男洋二郎さんは、25歳の時に突然自殺をはかる。とりあえず、その時は一命をとりとめたものの、いわゆる脳死状態におちいってしまう。その状態を見守りながら、臓器移植を決意するまでの柳田さん、そして実兄の心の過程を描く。一刻も早く新鮮な?臓器が欲しい医療関係者。少しでも望みがあるならば命を助けて欲しい家族。矛盾する両者の溝を埋めることができるのか。ご自身の体験から、読者が納得できる結論を出されていたことが印象的だった。生きていても仕方ないと思う命を骨髄移植などで役立てたいという洋二郎さんの気持ちを思うと涙が出て仕方がなかった。中学の時の偶然の事故による目に後遺症によって本人も家族もしらない間に心の病を患い、学校に行けなくてってしまった洋二郎さんの苦しみを知り、柳田さんが慙愧に堪えない気持ちになるのが親として辛かった。一人称の死、二人称の死、三人称の死という概念にとても説得力があった。
0投稿日: 2016.04.07
powered by ブクログ脳死患者からの臓器移植が法的に認められるようになりました。現在数百万枚のドナーカードが配布されているとも言われています。もちろん、みながきちんとサインしているわけではなさそうですが。臓器を交換しなければ長く生きられない人たちにとって、これは待ちに待った法律だったことでしょう。しかし、脳死は本当に人の死と認められるものでしょうか。日本で長く受け入れられなかったことにはそれなりの理由があるのではないでしょうか。本書の著者は医療などにもくわしいノンフィクションの作家です。彼の次男は中学生のころ目にけがをして、それ以来精神的に不安定な状態にありました。特に大学に入ったころからは対人恐怖がひどく初対面の人たちの中に入ると生きた心地がしなかったようです。この次男はたくさんの日記をつけていました。短編小説も書き残しています。大変な読書家でもあったようです。安部公房と大江健三郎を好んで読んだようです。内省的すぎたのでしょう。教会に通ったり、精神障害者の施設へボランティアに行ったりして、自分を理解してもらえる人にも出会っています。でも、将来の自分に自信が持てず、結局は自ら死を選ぶことになります。数日で脳死状態に陥ります。父親(つまり著者)や長男が相談して、そして本人の意志をできるだけ尊重できるように無理な延命措置はしない、何か世の中の役に立つことがしたいと考えていた本人の気持ちをくんで、心臓死後の腎臓移植をすることになりました。(当時はまだ脳死患者からの移植は認められていなかった。)本書で著者は、この自分の肉親の脳死という難しい状況に直面することによって、「二人称の死」という考え方にたどりついています。自分の死(一人称の死)はもう考えることもできません。他人の死(三人称の死)は客観的に考えられます。それならきっと脳死を人の死と認められるでしょう。でも身近な人の死(二人称の死)ではそう簡単に割り切れません。いまだ顔色はよく、体はあたたかい。血液は流れているのだから。それを死と認められるのか・・・本書を読んでじっくり考えて下さい。個人的な感想・・・私も安部公房が好きで、この次男と同じように学生時代は物理学専攻でした。性格的にも、ちょっと他人事としてかたづけることができませんでした。自分が脳死状態になったら、あるいは逆に臓器が必要になっても、私は臓器移植を希望しません。臓器を単に部品と考える考え方にはなじめないからです。ただ、自分の愛する人たちが臓器が必要になったとき、自分の考えはたぶんもろくも崩れ去るのでしょう。
0投稿日: 2015.11.15
powered by ブクログ前半は息子さんの闘病記、後半は脳死に関して。 前半は、作家だからなのか非常に淡々と状況を説明している感じ。対人恐怖とはこんな症状なんだ、っていうのがわかった。後半は脳死は人の死か、脳死のときの家族のケアについて考えさせられた。柳田さんは、奥様も息子さんもで大変だけど、仕事を続けられて、それを後に残している。すごいなぁ。でもなんか、もっといろいろ対策できたんじゃ、、とか思ってしまうところもあった。
0投稿日: 2015.07.01
powered by ブクログこの世界の矛盾を受け入れる存在がいないと、世界は成り立たないのかもしれない。地球規模、もしくは遺伝子の問題として、犠牲を必要としているのかもしれない。そういう意味で、ドナーもレシピエントも、同じ犠牲を捧げる人だと思えてくる。特に、著者の息子さんのように心を病むことは、社会のしわ寄せを一身に引き受ける、犠牲以外のなにものでもないように思えてきた。彼は臓器を提供する以前に、精神疾患になる事で、すでに犠牲を捧げていたのかも…。
1投稿日: 2015.01.29
powered by ブクログ祖父母が亡くなり,叔母が生死の境を彷徨ってからというもの 死について真摯に考えることが増えました。そして,姪が産まれてから 生について考えることが増えました。 どんなに頑張っても人の命には限りがある。ならば,未来の子孫のために 私には何が出来るのかということ考え,自らに落としこんで考えるならば 劣化しない価値あるデータを,生み出すことであろうと,暫定的な解を導いていました。 それを成し遂げるまでには,自分は死ねないし,まだ取り組み始めに過ぎないとも思っています。 今回「犠牲 わが息子・脳死の11日」を読んで,考えることがありました。 自死をした洋次郎さんは,長らく精神を病んでいた。 精神を病む人は,周りの人にも結構多くいて(研究をする人は心を病む人も多い) それは何故かということを考えた時に,視野が狭くなっているからではないか と思っていました。特定の物差しで測られる世界に囚われ過ぎているから,精神を 病む可能性が高いのではないのかと。彼らのことを気にしつつも,彼らの傷と隣り合うと 自分の精神も引き込まれてしまうことへの恐れがあり,なかなか触れることが出来ない といったこともありました。ずっと気になってはいるんです。ふとした時に,彼らのことを 強く思い出すのです。そして,彼らの発した一言一言を思い出し,それはある面では 真実であったということも同時に思い出すのです。しかし,それが自分も含めた 大多数においては筋ではない,という論理から,それを弾き飛ばしてしまう, 悪く言えば排除してしまうことに微かな違和感も覚えていました。 それに対して,自分には何が出来るかを再考した時に,未だに答えは出ないのですが, 1つ思うことには,心を病みがちな友人のことであり,彼女は卓越した表現者であったということでした。 大学時代に行っていた演劇で,人の心の深層まで沁み入って表現をする必要があるシーン がありました。私は深層まで触れこむことがとても怖くて,客観的にしか役に対峙できなかった。 しかし,彼女は自分自身の心の深層を切り拓いて,役を自分自身に取り込んでいった。 その演技は,観客への大きな共鳴を産んだ。 亡くなった洋次郎さんは,そういった性質を持つ人だったように感じました。 人より感じてしまう,考えてしまう。文学に対して深い洞察を行うことが出来, 自分自身にも取り込んでしまう。ある種卓越した才能を持つ人には違いなかった。 しかし,それを外部の人と共有し発信することに対しても,強い恐怖心を抱いており, 書くことで書き続けることで光を求めようと試みたが,結局死を選んでしまった。 この本の後半のすごさは,そうして亡くなった洋次郎さんが一時的な心肺の蘇生,脳死状態への移行から死に 至った経緯に対して,邦男さんは圧倒的な喪失感と悲しみから, この私的な体験をなんとか公的な制度に反映させるために奔走したという点にあると思います。 家族が二人称としての死を体験した時に、それを受容するには時間と物語が必要であったということから 脳死について以下の様な提案をしています。 以下引用 (1)人はだんだんと死んでいくものだという自然の摂理を基本に置き、日本人の従来の死の概念を壊さないようにする。 つまり、一般的には心停止を持って死とするか、死の「前段階」である脳死の段階で死を受け入れるという人は、脳死での死亡を認められ、従って臓器提供が出来る。 (2)どの段階での死を選択するかは、あくまでも本人の生前の意志による、生前の意志の確認は、原則として自筆の文書(日記などを含む)によるが、 文書がない場合は、本人の意見を裏づける二人以上の信頼しうる証言を必要とする。家族の意思ではなく、あくまでも本人の意思を推定するに足る証言である。 とくに脳死を死とする場合は、本人の意思だけでなく、近親者の同意も必要である。 引用終わり 東洋的なファジーな思想を法律に組み込むべきだという大胆な提案。 結局、脳死は人の死とされ、ばっさりと切る法律になってしまった。家族の同意を取り付けられれば、医療者は臓器を移植できることになってしまった。 しかしながら、このような問題提起と、行動(講演会や文筆活動)を起こされたことは、とても重要なことではないかと思いました。 自分自身を振り返ってみても、自分の身に起こった出来事に対して、批判したり、ひどく落ち込むだけではなく、 現状を変えるための具体的な行動に出る、ということは、非常に重要な事だと感じています。 そして、この本によって、死生観というものが少し、変わりました。 早かれ遅かれ人はいずれ死ぬ。そうした時の命の尊さは死にゆく者と今生きているものとで どれほど違うものなのか。生き続けることの意味、人称による死の意味の違いについても、深く考えさせられました。 今、生きる、私達に、何が出来るのだろうか。何をすべきだろうか。どう生きるべきだろうか。 今も考え続けています。
0投稿日: 2014.12.11
powered by ブクログ以前に読んで衝撃を受け、二度目の読了。柳田邦男さんの「息子が生きた証を残したい」という思いが痛いほど伝わってきて、脳死や臓器移植に対する現代医療の問題なども共感を覚えました。暗い内容だけど、不思議と手元に残しておきたい作品です。
1投稿日: 2014.10.11
powered by ブクログ脳死は人の死か? 臓器移植 遺された家族のグリーフケア リビングウィル 納得できる物語を家族がつくりこころを整理するための時間を医師や看護師がつくってあげること 二人称の死 選択のできる死 ファジーな死の定義 など。
0投稿日: 2014.08.03
powered by ブクログノンフィクションの分野には、社会や政治、大事故や自然災害のように対象の大きなものから、個人の体験記ように比較的小さなものまで、多種多様な作品があります。本作は近しい人を失うという経験を後者の視点で語っていますが、その個人的な視点の先には、現代社会に生きる人なら誰でも感じ得る、大きく広いテーマがあります。 放送記者を経て作家となった著者は、飛行機事故を題材にした『マッハの恐怖』を皮切りに多くのノンフィクション作品を送り出していますが、その中にあって本作が異彩を放つのは「自身の心」に分析の対象が向けられている点です。近しい人を失った時、心はどうなるのか。目には見えない自らの内面が変容していく過程を、細やかに、冷静に記しています。 ちなみに、第一章の題名は『百年の孤独』です。私はこの本をきっかけに、ガルシア=マルケスの著作を読んでみたいと思ったのでした。
1投稿日: 2014.07.16
powered by ブクログ精神を病んで自死を図り、その後脳死状態になった息子との11日間の記録。 大きく二部構成になっていて、前半は突然の息子の自死から、彼の臓器移植を決意するまでの過程が丁寧に書かれています。そして後半は脳死について柳田さんの思いが綴られています。 著者の柳田邦男さんはノンフィクション作家さんだけあって感情を抑えた文章で語られています。それが却って痛々しく辛い。 25歳の若さで死を選んだ柳田さんの次男洋二郎さんの書いた日記や短編小説がいくつか紹介されていますが、鋭い文章で書かれた短編小説を読むと、ご存命であったら今頃素晴らしい作家さんになられたのではないかと、尚更その死が惜しまれます。 ホスピスやターミナルケア、グリーフワーク(遺族の喪失感や悲しみのケアをすること)というと、ある程度の年月を生きた人の死に関わるものだと決めつけていましたが、この本では小児病院のホスピスも紹介されています。治癒できない症状を持って生まれてきて、短い生涯を閉じる子供の親にとって、これはとても必要なもの。普及を願います。 祖母は本人の遺志により献体し、母は死を迎えるまでの数ヶ月間植物状態だった経験から、臓器を含む身体は容器に過ぎない、脳が死んだ時が私が死ぬ時だと思って子どもたちにもそう伝えてきましたが、この本を読んで、例えば私が脳死状態になったとしても、彼らにも私の死と向き合う時間を与えてあげるべきかも知れないと思うようになりました。せめてそうやって遺族の感情と向き合ってケアしてくれる病院を探しておこうと思います。まだ考えはまとまりませんが、「延命措置はいらないからね」と言うだけでは無責任だと考えるようになりました。 最後の、医師を目指す高校生の読書感想文もとてもよかった。 いろんなことを考えさせられる本でした。
2投稿日: 2014.06.11
powered by ブクログ「冷たい夏の夕暮れに」、神経症というこころの病を抱えた次男洋二郎が25歳で自死を図り,脳死に至る。その11日間の揺れ動く家族の記録と、そこに生前の彼の日記、遺稿集、友達からの追悼の手紙などをはさみ、彼がどう生きていたのかを浮き彫りにしている。生きていた証しを、父親として丁寧に記している。 著者は脳死の専門家。<今こそ「科学知識による自己コントロール」という生活信条を実践しなければ>と考える。 しかし、著者は医療に関する本は数千冊、「脳死と臓器移植に関する本」も数十冊持っているが、「確実に脳死状態に陥っていく息子に対し」それが「ほとんど役に立たないことに気づいた」。 それは三人称の死ではなく、二人称の死だからである。 こころの病を持っていた「彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」。これをガルシア=マルケスの「百年の孤独」に重ねていた。 一方、彼は詩人で映画監督のタルコフスキーの映画「サクリファイス(犠牲)」に感動し、「名も知れぬ人間の密やかな自己犠牲」に「こころを惹かれていた」。 彼は骨髄バンクに登録していた。骨髄移植のドナーである。 脳死をもって死とするという考え方が多い。ここには臓器移植による要請がある。 しかし、大事な家族、二人称の死を受け入れるには、最後に静かな時間と場が必要なのだ。物語る時間が必要なのだ。 そして死はプロセスであり、急いではならない。どこを持って死とするかは本人の意思と近親者の同意によるべきであると、著者は考える。ファジーな死である。 「脳死患者だからといって、放置するのではなく、私たちは生きている患者さんと同じように最後までお世話します」と医者が言ってくれた。 「なるべく話しかけてくださいね」と看護師も言ってくれる。「言葉はしゃべらなくても、体が会話してくれる」と家族は思う。 著者たち家族は彼の意志を叶えるために、骨髄移植の可能性を探るが、それが困難と分かった時点で、可能性のある腎臓移植へ方向転換し、結果的に二人の人に移植は成功する。 友達は彼のことを、「何事にも悩んだり迷ったりするチャーリー・ブラウンに例えて『チャーリー』と呼んでいた。」 彼はカフカと阿部公房が好きだった。私と同じだ。 大江健三郎が好きだったのは違う。大江の文学に救いを求めたのだった。 大江の作品の中で、エリアーデの「indestructibility(破壊し得ないこと)」という言葉を知り、「自分の生への支えとしようとしていた」のだった。 この本は、著者の息子の自死に対する、グリーフワーク(悲しみを癒す作業)である。同時にそこで得られた、二人称の死という概念と、脳死、臓器移植という現代的な問題に対する著者の説得力のある体験と深い思索の結晶である。 こころを揺さぶられる、素晴らしい本である。
0投稿日: 2014.05.26
powered by ブクログ脳死とか、臓器移植について考えさせられるけど、自分がその立場にならないと分からないことだと思います。
0投稿日: 2014.03.08
powered by ブクログ感情が表にですぎず冷静に書かれているので、それゆえ感傷的な部分が純粋に心に入ってくる。 脳死についても良く考えられていて説得的。私自身がどう考えるかはまた別だけど、その考えをはっきりさせるためにも、これをきっかけにもう少し勉強してみたいと思った。 洋一郎という男が素敵だと思った。彼の感性と知性、彼の書く文章が好き。
0投稿日: 2013.11.22
powered by ブクログ自分の子どもが脳死となり、移植のドナーとなった。身内の死というものが、いかに自分の人生に影響を与えるのか泣きながらにつたわってくる。 九州大学:たけ
0投稿日: 2013.11.18
powered by ブクログ読み終わっても、しばらく考えさられる作品だった。 「死」には、一人称、二人称、三人称があり、それぞれまったく異なるものであるという認識は今までになかった。 延命治療の必要性も感じることができた。
0投稿日: 2013.10.22
powered by ブクログ精神を患った息子が自殺を図り救命救急センターで植物状態、脳死を経て死に至るまでの11日間のこと、息子の死を著者がどう受け入れていったかが、よくわかりました。死の形は人それぞれで、死をめぐる家族の物語も十人十色。死を語ることは、その人の生を語ることに他ならないのだと思います。フランクル関連本から手にとった本ですが、いつか突然自分のそばで起こるかもしれない脳死について、すごく勉強になりました。
1投稿日: 2013.09.03
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
柳田さんのご子息が自殺を図り、脳死状態に陥った。家族の11日間の体験と苦悩、そして脳死が人の死と定義するか、医療と家族の意識の違いも書かれています。 脳死と臓器移植についての話も興味深かった。 タイトルの「犠牲」とは映画のタイトルと内容に関わってくるが、世界が平和で誰かが幸せであるためには、何かが、あるいは誰かが犠牲になっているのだと言う話も出てくる。 精神患者の多くが、人よりも繊細で優しく感じやすい特徴を持っている。 それ故の苦悩、それゆえの自己犠牲。理解できない人もいるかもしれないが、自分の存在理由や意義を考え過ぎてしまうと生きるのがとてもつらくなるのだ。 作者は作家ゆえ何が真実か知ろうとしている。その中で、心臓死、脳死、遺伝子死の話が出てきたり、「死」とは何なのか、作者とともに考えさせられる作品です。
0投稿日: 2013.07.21
powered by ブクログ精神病だった息子が自殺を図り脳死した。その父親の手記。 息子の死から立ち直る為 脳死と臓器移植の関係に一石投じる為 に書かれた作品。 最近ノンフィクション系を立て続けに読んでいる。大体、精神が病んでたり、余命数ヶ月だったりする訳で、物語の至る所で死の影がチラついている。正直未だ「死」について深く考えたことは無いが、「死」にとって最も大切なことは、それに至るまでのプロセスなんだろうと思った。 余命を宣告された癌患者はその日に向かって、思うが侭に「死」へのプロセスを歩み始める。 脳死から心停止するまでの僅かな時間は、周りの人々がその「死」を受け入れる為のもの。つまり脳死とは「死」ではなく、「死」へのプロセスの途中である。 かなり考えさせられる作品だった。いつも以上に長文を書いてしまった。多くの人が「死」は身近なものだと言う。ならばその日の為に僕は既にそのプロセスを歩いているのだろうか。
0投稿日: 2013.07.20
powered by ブクログ著者の二男が自殺を図り、脳死状態となり、臓器提供を行うまでの11日間の手記。 死を受け入れること、そのうえでなお生きられる方法を探すこと、生前骨髄バンクに登録していた息子のためにできることを探したこと― いろんなことを考えさせられる一冊。ここまで突き詰めて考えることから、逃げてる気がする。
0投稿日: 2013.07.14
powered by ブクログ『脳死』というものを、私は医学生の立場としてしか理解していなかった。例えば脳の状態がどうとか臓器移植がどうとかである。そんな私にとってこの本は衝撃であった。 この本は、遺族の視点で脳死をみることができるのが本書のポイントであろう。これは、脳死の息子が亡くなるまでの様子、家族の心情の変化をその父親が書いている。しかも作家の柳田邦男だけあってすごく克明に深く考えられて描かれている。柳田邦男は家族として脳死と向き合った。そして、息子の脳死を通して改めて脳死について考えるのである。この内容は是非本書で読んでいただきたい。本書を読むことで脳死について深く考えるきっかけが得られるはずだ。
0投稿日: 2013.05.31
powered by ブクログ読みながら、本当にいろんなことを考えた。 犠牲という意味。 この本は、本当にたくさんの角度から読むことができるだろう。 読む時の心境によって、受け止める場所もどんどん変わってくるだろう。 そして、読めば読むほど、人生の深みに連れて行ってくれる本でもあると思う。 柳田さんが、こうして本にしてくださったことを感謝している。
0投稿日: 2013.04.03
powered by ブクログ人は誰かの自己犠牲によって生かされている。犠牲の精神とは愛。愛は合理的ではない。世界は愛でしか幸せになれない。愛すること、犠牲になること赦すこと。どこかの誰かの幸せの為に。
0投稿日: 2012.11.30
powered by ブクログ仕事の上でも、親としても、考えさせられる事はたくさんあった。 学ぶ事も多かった。 しかし、何より、読んでて違和感を感じずにはいられなかった。 洋二郎の原点について、ブレがあるような、彼の本心は、どこなのか。 洋二郎の辛かった気持ちも、わかるような気がする。 彼自身の、言葉を聞いてみたい。
0投稿日: 2012.09.24
powered by ブクログ臓器提供の実際がよくわかる。感情の問題で可否を決めるわけにはいかなくとも、人間の死を感情を排して済ませることも難しい。
1投稿日: 2012.05.07
powered by ブクログ著者の次男が自殺を図り、脳死という状態で11日間過ごした日々の中で、二人称の死に対面した家族の心の葛藤、苦しみ、悲しみそして息子の死と再生の模索が描かれている。脳死患者と家族への医療のあり方に一石を投じている。
1投稿日: 2012.01.17
powered by ブクログ精神を病み、自死を計り脳死状態となった青年。青年の手記を交えながら、その父親である筆者・柳田邦男が息子について、脳死について語る。 この本の何よりも素晴らしい点は、この本の存在自体が柳田邦男の息子を救うものであるということ。人間存在の根源的孤独に苦しんだ彼の記録としての本書が、破壊され得ないものとして存在する事実。それを彼の父親が、息子の人生の完成のために創り上げたこと。孤独と悲劇の記録が、その記録が成されることによって希望になる、それが本当に素晴らしいと思う。 本書は息子の死、息子の手記、それに対する父である筆者の語り、という非常に個人的な話題と共に、脳死、臨床治療といった社会的話題が取り上げられている。柳田邦男は息子の自死というあまりにもつらい事態に対して、自身の持つ科学的知識の利用によって自己コントロールを試みた。主観的な問題に対して、客観性を用いてバランスを取ろうとしているんですね。でも当然ながら客観性だけでは解決し得ない苦しみがあって、それに対してきちんと向き合うこともしている。結果として、一般と個が混ざり合った内容になっている。ここが素敵だなあと思った。どちらが欠けてもいけないと思うから。 精神を病んだ青年が夢見た「自己犠牲」、どこの誰の手によるものかわからない犠牲によって、平凡な毎日が支えられていると思うことは、この世界を辛うじて人間に値するものにすることが出来る唯一のもの。いまこのとき人に残されているのは、不毛なものを希望に変え続ける意志である、と。 生きる意味を見いだす物語が「犠牲」を主軸としたものであることがあまりに切ない。だけど、世界と人生に価値を与える、そんな物語を病の苦しみのなかで彼が発見したことを想うと、胸が詰まる。 そして青年の読書に対する情熱に、衝撃を受けた。読書に対する姿勢があまりにも真摯で、真剣で、それがそのまま人生に対する真摯さに通じているように思えて、心を打たれました。わたしはこんな誠実さを持っていない。彼のこの誠実さは、人間の根源的孤独への気づきに至り、結果として非常に彼は苦しんで自死を選んでしまったので、鈍感さはある意味で自分と自分の周りを生かすための武器なのかなあ、と思いつつ、この気づきを受けてなおかつ乗り越えて行けるだけの叡智がどこかに存在すると信じたい。ただ、苦しみ抜いたその潔癖が、こういった鈍感さの払うべき対価を引き受けてくれたようにも思う。だれかの犠牲によって購われている鈍感さ。どう受け止めるべきか、まだわたしにはわかりません。
1投稿日: 2012.01.13
powered by ブクログ代表作「遠野物語」や、医療・死生観・戦争など日本の現場を知るうえでかかせないノンフィクションライター。 そんな柳田氏が、精神的に病んでいた息子「洋二郎」の自殺・・そして脳死の11日間を素直に見つめなおした自伝的良書。 自伝に留まらず、脳死判定の是非に関する科学的・心理的考察や、柳田氏自身の「アイデンティティー」の新たな模索、人として生きていくことの苦悩や希望など、生々しく語られています。 人間の根源を垣間見る感動ノンフィクションです。
1投稿日: 2011.11.27
powered by ブクログ長女が学校の課題で読むというので単行本を入手して 先に読んでしまいました。(画像がないので文庫で登録します) ”思春期特有”と簡単に片付けられない、繊細で細やかな洋二郎さんの迷いや深く物事を考え続ける姿勢に胸を打たれ、筆者と長男の強く優しい心に感銘を受けました。 また、脳死について深く考えるきっかけとなり、今現在の基準さえも医学の進歩にあいまいにならざるを得ない状況が詳細に記されていて参考になりました。 今を大事に生きることの大切さを改めて感じられる素晴らしい手記となっています。
1投稿日: 2011.07.04
powered by ブクログ2人称の「死」について考えさせられた。特定の宗教を持たない日本人特有の「死」への儀式や過程において、自分だったらどうするだろうという思いの中で読み進めた。
0投稿日: 2011.05.22
powered by ブクログ「犠牲」って何だろうという疑問を解決する答えがあるかな? と思って読んだ。 残念ながらこの本からは回答を見いだせなかった。 とはいえ、どこかに行く飛行機の中で一気に読んで、涙した(T_T) 孤独を宿痾にしちゃいけない。
0投稿日: 2011.05.22
powered by ブクログ15年ぐらい前、単行本で読んだ本。脳死の問題については、自分は良く分からない・・・。 でも、洋二郎には共感して、忘れられない本になった。今も昔も、こういう本って流行らないのかな・・・。
0投稿日: 2011.03.11
powered by ブクログ冨岡医師のように患者さんとその家族の心情を汲み取り治療にあたることは,二人称に根ざした人間愛なんだと思う。患者さんが医療に参加するのを医師らは助けるという態度が今後さらに求められるのではないか。
0投稿日: 2011.03.10
powered by ブクログ河合隼雄つながりで初めての柳田邦男。 かなり前に書かれた本だけど 息子さんが自死されて脳死になり 臓器提供を決意するまでの11日間の記録が書かれている。 息子さんが「世の中の役に立ちたい」とずっと思ってて どうにかその意思をつごうと色々考えた末に 臓器提供というところに行くまでの葛藤、 病院とのやりとり、医師との話しあいなどが 詳細に書きとめられている。 医療問題を題材にした本を多く書いてきた筆者が 「私は脳死のことについて分かったつもりでいたが 全く分かってなかった。 家族が脳死状態になって、初めて分かった」ということを 書いているのが、印象に残った。 その筆者の「二人称の死」 (自分にとってとても身近なあなたの死) という視点から臓器問題は考えるべきだという意見はとても重く、核心をついていると思った。
0投稿日: 2011.01.08
powered by ブクログ人間の『死』について考えさせられた(?)一冊。 何が人間にとっての『死』であるのか。 柳田さんの、二人称の死、という考え方がとても印象的でした。 生きる中でファジーな線引きも必要なのかもしれない。 そんな中で自分のやってきたことがいかに偽善的であったのか。
0投稿日: 2010.11.07
powered by ブクログ一気に読んだ。 脳死、息子の自殺、家族、そして脳死による臓器移植。 果たして、家族の同意によるものだけでの脳死臓器移植は、皆が納得する形でできるのか。生死とは何なのか。改めて考えなければならないと思った。
1投稿日: 2010.08.25
powered by ブクログ1993年8月10日。精神を病んでいた著者の次男洋二郎氏が25歳の時に自死を選んだ。病院での経過治療、医師との対話、洋二郎氏が書き記していた日記、脳死の判断、腎臓移植提供など、その日からの11日間を見つめて。 洋二郎氏の日記はとても重いし、単純な私にはわからないことがほとんどだった。でも脳死のプロセスや心臓死のこと、日本人の死生観など著者の考えがわかりやすく書かれていてとても良かった。
0投稿日: 2010.08.15
powered by ブクログ自分である。 劣等感ゆえに、誰の役にも立てず、誰からも必要とされない存在であり続けることを恐れてしまう。 そして、これを劣等感なしに、それを超えたうえで想い続けられるところまで達すれば、完成するのだと思う。
0投稿日: 2010.06.23
powered by ブクログこの本を実家で見つけたとき、どうしても止まらなくなって持って帰ってきた。 なぜ今この本を読もうと思ったのか、読んでしまうのか、読んでいるのか、読めるのか。 問いかけるように読んだ。息子を自死によって亡くした著者の柳田邦男氏。洋二郎さんが脳死に陥ってしまった11日間のなまなましい葛藤と、逝ってしまわれてからの数ヶ月。大切な人がもう戻ってこない、逝ってしまったというおおよそ把握できかねる絶望の状況。その只中を、こうして筆を起こし、書き記そうとするその想い。半端ないのがわかるから、今、眼を逸らせなかったんだと思う。 息子洋二郎さんを想う柳田さんの優しさ、向き合う覚悟と真剣さ。個人の死というものは、物語を作ることでしか語れない。現実的には存在が消えるだけ。 脳死の現状や臓器移植に関する日本の医療の現状をよく説明されながらも私の胸を打つのは洋二郎さんの苦しみと、絶望。 そして洋二郎さんを亡くした邦男さんの断絶感覚。悲しみ。哀しみ。かなしみ。。。。 誰かの犠牲の上になりたつ平凡な日常。何不自由の無い今日明日。 自分が犠牲になれるかどうかを問う。犠牲になった人を想う。やさしい。やさしかったねとても。 残されたものはどうしたらいいだろう。いつかその尊い犠牲に報いることができるのだろうか。できるのだろうか。
0投稿日: 2009.07.14
powered by ブクログ柳田邦男著作の中で一番最初に読んだのは「『死の医学』への日記」だった。高校のときの国語の時間だったと思う。内容はほとんど覚えていないけどそれまであんまり読書をしてこなかった私が著者の名前をちゃんと覚えるようになったきっかけの人だと思う。 高校生のあのころから約10年目にして、「『人間の時代』への眼差し」を読んだ。が、なんだか「死の医学への日記」ほどの衝撃はなかった。だけど、氏がご子息を脳死で亡くしていたことは知っていたからいつかこの「犠牲」を読んでみたいと思っていた。 やっと今日購入して読むことができた。 まさか一日で読んでしまうなんて・・。 そもそも私が脳死・臓器移植問題に関心を持ったのはたしか中学生のときだ。 ある日、学校で臓器提供カードが配られた。たしかその当時の世界の状況を伝えるバラエティ番組で「臓器移植」がテーマになっていることが相当多かったような気がする。私は軽率だからすぐ影響を受ける。「命の奇跡」や「感動」などの言葉を鵜呑みにしていた。違和感が無かったわけではないけど、テレビでは誰も言及しないので「ま、いっか」とただ影響されていた。 学校で配られたドナーカードには提供の意思がある臓器に丸をして、自分の署名と保護者の署名を書く欄があった。 さっそくその晩に署名して、臓器はとりあえず全部○して、父親のところに持って行った。父は固まっていた。「おれはできない。お母さんのところに持って行け」。まだ自分が何も考えないで頭の中になんか違和感がありつつも「?」となりながら、風呂上りの母のところに持って行った。母は「・・・なさけない」と言って「パパのところに持って行って」と言った。あのときは両親がなんとなく悲しそうな目になっているのはわかったけどそれでもよくわからなかった。でもあれからずっと気になっていた。財布の中には保護者の署名無しのドナーカードを入れっぱなし。 大学3年のときに小松美彦先生という強烈な先生に出会った。でもこの先生のおかげで財布にいれっぱなしにしてあったドナーカードを思い出し、ついでに私が両親にしたあまりよくない思い出をとことん考える機会になった。 まず、テレビ番組を見ての私の違和感が「レシピエントの存在」に対することだったということがわかった。あの、違和感、コレだったのか!とすごくすっきりしたと同時に、この財布に入っているドナーカード・・・レシピエントの大募集を呼びかけているものだったのか、と。なんというか、世の中の報道や情報はほんとに説明不足のところがあるなあと感じた。私の違和感、両親の違和感、直感的に「なんか嫌だ」と思ってることに対して自分も他人も納得させる理由がない限り自身を持って拒否できないのは国民性ってやつなのでしょうか…なんて。国民性とか西洋合理主義とか東洋思想とかってほんとにあるのか、さえ疑わしいです。 これを読んで思い出したのは、臓器移植が「進んでいる」欧米では、どのような反対議論が挙げられていたのかということだ。今はもう完全に移植推進だけにシフトしたのだろうか。
0投稿日: 2009.05.16
powered by ブクログ・確かに一人称、二人称、三人称それぞれで死ってのは違うものだと思う。一人称と三人称は理解しやすいけど、二人称の死ってのは当事者になるまでは周囲から顧みるのって難しいよな。 ・脳死は死に至るプロセス。脳死の後に心停止が待っているのは確実で、植物状態とは違うってのは一般にちゃんと理解されてるかな。 ・脳死を死と認めるって考え方はホントに移植ありきの考え方だな。脳死から心臓死までの間に臓器を取れれば移植の成功率とかが上がる。それはわかる。でもそれを制度として脳死=死でOKとしようとするってのはどうかと思う。作者と同意見。 ・んでもって、脳死者本人や家族の移植に対する姿勢を酌みとって、希望によっては脳死を死として移植をOKとするってのは柔軟で良い方法に思える。なんでこんな簡単な事を脳死について騒ぐ時に誰も言わんのか。 ・さて。俺だったらどうなのかな。脳死と心臓死が完全に直結しているのなら、脳死で死としてもらってもいいかもしれないな。でもその死を二人称として見る家族の意見も尊重したい。移植で自分のいのちが繋がって行くのは素晴らしいことだけど、家族の気持ちを無視してまでそれは優先したいことなの?確かに崇高ではあるけれど、という気持ちにもなる。 ・自分の尊厳死だったり、いのちを繋いで行くことだったり、何を望むかキチンと話しておく必要を感じた。ちゃんと話さなかったら誰だって心臓死まで看取りたいと思うもん。 ・どうも脳死論ばっかりになっちゃうのは、精神障害とか自死とかについてあまり考えたくない自分がいるのかな。 ・低体温療法で脳死寸前から回復したケースについて書く作者は、自分の息子にこの療法を試していれば、とは書かない。そこがいたましい。
0投稿日: 2008.12.12
powered by ブクログ柳田邦男が息子を亡くしたときの葛藤を書いた真面目な本。 脳死のなんたるかについて考えたい人はぜひ読んでください。
0投稿日: 2008.05.06
powered by ブクログ自殺した著者の息子の読書傾向が私そっくりだったのには驚いた。よく考えれば私もこみゅにけいしょんなるものは苦手だし、ネガティブシンキングは誰にも引けは取らないと思っている。何故私は自殺せず、著者の息子は自殺したのだろうか。きっと著者の息子の方が真面目だったからだろう。 読んでいるうちに何故私は精神の病に陥らなかったのか、いや、本当に陥っていなかったのだろうかと自問自答しているうちに、もしかしたら高校時代の私はいつ精神を病んでもおかしくない状況にあったのではないかと思いはじめた。 真面目なインテリを親に持つということは大変なんだろーなぁ。
0投稿日: 2007.04.16
powered by ブクログ著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判している。 なによりも著者の次男が生前書き記した日記から、次男を真剣に捉えようとする姿勢と息子を想う気持ちには涙せずにいられなかった。 自己犠牲による生の否定が、人に受け継がれ生の肯定になるのではないかということを考えた。
0投稿日: 2007.02.02
powered by ブクログ著者が心を病み25歳にして自ら命を絶とうとし脳死状態に陥った次男と過ごした11日間を家庭の状態を赤裸々に語りながら、脳死について医学的な見地ではなく、あくまで家族という二人称的視点から捉え、述べている。 またそれだけにとどまらず、死は最大の敗北とする現代医療のあり方をも批判している。 なによりも著者の次男が生前書き記した日記から、次男を真剣に捉えようとする姿勢と息子を想う気持ちには涙せずにいられなかった。 自己犠牲による生の否定が、人に受け継がれ生の肯定になるのではないかということを考えた。
0投稿日: 2007.01.04
powered by ブクログ脳死を「人の死」と捉えてきた私にとっては、考え直す原点となりました。自ら命を絶つ行為は未だ認めることは出来ませんが、この本を読み以前よりは考え方は柔軟になったと思います。
0投稿日: 2006.12.06
powered by ブクログ心を病んで自殺した息子の願いは、自分の亡骸をドナーにした臓器移植だった。父と息子の闘病から死後の葛藤を赤裸々に描いたノンフィクション。
0投稿日: 2006.05.06
powered by ブクログ親は親である以上、世の中でただ一人我が子を愛すべき存在で、子は親の愛を感じて生きていくかけがえのない同志。自殺という殺人だけは誰にも選択してほしくない選択肢。 活字から「夏の夜の夢」がとても重厚に聞こえてくる。
0投稿日: 2005.10.05
powered by ブクログ筆者の最愛の息子が自殺を図り,脳死状態となってから,臓器提供にいたるまでの11日間を綴った手記.生前の息子さんの苦悩と,臓器提供を決意するまでの筆者の苦悩.終末医療,脳死問題について考えさせられる一冊.
0投稿日: 2005.06.09
powered by ブクログ柳田さんのご子息が自死されたときの話。涙が止まらなかった本。 ある時期の私の支えになった実話。今もその気持ちは忘れないでいたい。
0投稿日: 2005.05.30
powered by ブクログ悲しみを煽る内容ではなく、考えさせられる1冊。軽い気持ちでお財布に入れていた「臓器提供意思表示カード」をいったん捨ててしまった。きちんと意味を理解した上で持たなければならないような気がしたから。アンドレイ・タルコフスキーの映画『サクリファイス』が観てみたくなった。かなり重そうだけれど。
0投稿日: 2005.05.05
powered by ブクログ作者の次男が自殺を図る、親として子供への接し方は間違ってなかったのかと自問自答しながら脳死となった息子の願いを自分なりの解釈でかなえる作者。もし自身に降りかかったとき、作者のように冷静になれるか・・・。
0投稿日: 2004.11.08
