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大衆の反逆
大衆の反逆
オルテガ、寺田和夫/中央公論新社
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総合評価

20件)
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    難しかったけど、辛辣な話が多くて読むのが辛くなった。格差を実感しながら国家の事まで考えるのは私には難儀でした。

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    投稿日: 2025.03.12
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    ■■レジェメ■■ 1)一言でこの本を言うなら? 2)本書のキーワード  『生』『大衆的な人』『貴族的な人』 3)要約 1)時代と生き方の変化 2)大衆的な人ばかりになって大変 3)科学者は始末が悪い 4)感想 –    1)表面的   2)自分の中で反応した知識   3)自分に落とし込んで見る   4)アクションプランにつながるかんがえ ■一言で表すなら? 曇った生き方をする『大衆的な人』が、社会大半をしめ主人公となった と分析した本。 ■本書キーワード ○3つある。『生』『大衆的な人』『貴族的な人』である これらを理解することが大事だと思って、どんな意味で使われているのかをまとめてみた。 1)貴族的な人|自分自身と闘いながら、自己を律して能動的に動く人。自己を高めたり貫くことに人生を賭ける人。 『生』を感じている人。少数派になった。(私の主観では)岡本太郎的。 2)大衆的な人|みんなと同じが良くて、自分が生まれる前からあったことは当たり前の自然で、  他人に権利を要求する。一方自分に要求することはなく、当たり前だから有り難みを分からず施しを享受する  慢心した坊っちゃんであり、自分が享受するメリットにしか興味がない人のこと。 多数派であり現代日本人的でもある。『生』を感じていない人々。(私の主観では)ニーチェのいう末人的でもある。 3)生|今ここではないどこかに到達したいと願う、心からの感情。行動的の源泉であり、自分を突き動かすもの。 ■要約 ○ピックアップする主張は3点ある。1)時代と生き方の変化 2)大半が大衆的な人になって大変 3)科学者始末が悪い である。 1)時代と生き方の変化 ●20世紀前半から現代まで続いている、科学技術の発達で、事実を見れば満ち足りた黄金時代を過ごしている。 ●それに基づいた我々の時代は、すべての過去の時代よりも豊かであるという、うぬぼれでがありますと。過去全体を無視し、古典的、規範的な時代を認めず、自分が、すべての過去の時代よりも優れている新しい生であるとも主張している。 2)大衆的な人ばかりになって大変 ●いい時代の一方で、どこか自分を突き動かすような欲求、実感が無く、漫然と過ごしている大衆的な人が多なりましたと。 ●特に強い想いのない大衆的な人が、社会の舵取りをする世の中になってしまったから、さあ大変。 ○これまではたくさんの暴君もいたけれど、哲学思想を持った李世民のような、貴族的な考えの人が世の中を動かしていたと状況が変わった。  大変だ。と嘆いている。 3)科学者は始末が悪い ●極度に細分化と専門特化した科学技術の現代では、一番権力を持っているのは、実は科学者だといっている。 ●科学者は人の言うことを最も聞かないし、少し専門を外れたことは何も知らないくせに知ってるふうな顔をするという始末の悪い人間と述べている。

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    投稿日: 2023.07.30
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    メモ→ https://twitter.com/nobushiromasaki/status/1616173827498872832?s=46&t=5curN9nOVM8M_agdxq2j4A

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    投稿日: 2023.01.20
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    大衆とは、みずからを、特別な理由によって、よいとも悪いとも評価しようとせず、自分が「みんなと同じ」だと感ずることに、かえっていい気持ちになる人々全部。 そのため、社会を大衆と優れた少数派に分けるのは、社会階級の区分ではなく、人間の区分であり、上層階級においても大衆が支配的であるのが、現代の特色。 また、凡庸な精神が、それが凡庸であることを承知の上で、凡庸の権利を確認し、これをあらゆるところへ(政治的にも社会的にも)押し付けようとする。 大衆の支配=歴史的水準の全般的な上昇。かつ、昔は崇高なものと思われた個人の権利が、広く当たり前のものになった時代。 ここにはじめて、すべての古典を無視する時代、過去の中に手本や規範の存在する可能性を認めない時代が誕生した。しかし、現代は他の時代より上であるが、事故の運命に不安をいだき、自らの力に怯える時代だ。 われらの時代は、全ての過去の時代よりもすぐれ、過去に還元されない、新しい生であるとみなしている。いまだかつてないほど資産、知識、技術を持っているのに、途方に暮れている、かつてなかったほど不幸な時代。 【大衆について】 大衆は、世界各国が民主主義と技術の発展により、人口を急激に増加させることにより、発生した。 生を受けたときから、世界は完全であり自分の前に障害は無いものとして認識しており、それが過去から続く偉い人々の不断の努力の結晶であることを忘れ、まるで空気を吸うように、自然の権利として要求している。 大衆的人間は、自分のうちにあるものを無意識に肯定し、自分以外のいかなる権威にもみずから訴える、という習慣を持っていない。高貴な身分は不断の努力によって手に入れ、手に入れた後は義務を伴うのに対し、「人権」、「市民権」のような共通の権利は、受け身の財産だ。そうした惰性の生を大衆と呼ぶ。 大衆は愚かだということではなく、反対に、現在の大衆的人間は利口であるが、それを所有しているという漠然たる感覚は自己の内部に隠れ、それを使用しないことだけに卓だっている。言い換えれば、凡人が自分は卓抜であると信じているのではなく、凡人が凡庸の権利を、宣言し押し付けているのである。 今日の平均人は、世界で起こることに関して、ずっと断定的な思想を持っており、聞くという習慣を失った。その思想は、真理や原理を欠く、とうてい思想とは呼べぬ野蛮なものだ。 思想を持つとは、思想の根拠となる真理を所有していると信じることであり、それを議論する対話にある。しかし、大衆的人間は議論をしない。かれらの思想は、他人と対話をしようとせず、言葉を吐き出したいという欲望以外の何物でもない。 平均人が科学から受ける恩恵と、科学に捧げる、感謝との間の不均衡。 今日では、人間が自分たちの文明自体の進歩についていけていない。文明の進歩は問題の複雑化であり、その解決には、その背後にたくさんの歴史を持つことである。 しかし、過去全体を圧縮して自分の中に取り入れることが、過去全体を凌駕するための不可欠な条件であるにも関わらず、それをやらない。 科学者は、科学者が専門分野に特化していく(特化せざるを得ない社会的枠組みができた)中で、総合的教養を失い始めた。また、科学の発達による機械化によって、非凡な者に仕事を与えることが可能となった。 専門家は、自分の知らない問題に対して、自分の特殊な問題では知者である人間として身勝手にふるまう。これが大衆の支配の象徴である。 支配とは、世論による力であり、世界を支配するというのは、思想、願望、目的などの体系が世界で優越していることだ。支配とは、誰かに命令することと、何かを命令することであり、誰かに命令することは、結局、何かの事業に、大きな歴史的運命に参加せよということ。 人生とは、ある目標に向かって自分の生を賭けるものであり、現代人は、何かに生を捧げることはなく、緊張も形もなくなっている。 ヨーロッパに内在する支配の夢(科学、芸術、技術による発展への緊張した目標)が無くなれば、ヨーロッパと、そのあとの全世界が、野蛮状態に陥るだろう。 衰退、無力の感覚は、現在ヨーロッパが持つ潜在力の規模と、その力を発揮すべき政治組織の大きさの間に釣り合いが取れていないからだ。 議会の非能率を叫ぶ人に、何に対して非効率なのか、現代の公共問題の解決とは何かを聞いてみても、はっきりした答えは帰ってこない。 議会の権威失墜は、政治的な道具としての欠陥とは全く無関係な原因であり、ヨーロッパ人が、この道具の使い方を知らないこと、伝統的な社会生活の目的を尊重しないこと、結局、自分の属する国家についての夢を持っていないことだ。 まとめ 今日の世界は、大衆の無法な反逆が目立ち、退廃している。退廃の原因は、ヨーロッパが、世界でふるっていた権力がどこかに行ってしまい、支配しているということに自信がなくなっているからだ。 時代の充実は、明確な、前もって定められた、間違うことのない未来が前提とされるのに、今はどの方角に向かっているか分からない。どれもこれも生の本質的な根底からの想像ではなく、根無し草だ。 今日の国は限界を迎えており、生の新しい原理を打ち立てねばならぬが、ここで台頭するのは国家主義だ。 国家主義は排他的であり、既に固まっているヨーロッパを立て直すのには役立たない。ヨーロッパ大陸の諸国民を1国家とする超国家を建設する決意だけが、ヨーロッパを蘇らせる。 現在流行している共産主義に、ヨーロッパ人が逃げ込むことを抑えているのは、臆病だからではなく、ヨーロッパ人が、共産主義の組織によって人間の幸福が増すとは思わないからだ。 しかし、ソビエトの断固とした改革と、彼らの信条と緊張した生き方は、ヨーロッパの人々に強い影響力を与えうるだろう。それに打ち勝つためには、西欧にも新しい生の計画への意欲を打ち出さねばならない。 大衆的人間は、こうして他の人が建設し積み上げてきたものを否定しながら、その否定するものによって生きている。

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    投稿日: 2020.05.30
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    オルテガの名は聞き及びながら今まで読んでこなかった一冊。安倍、トランプのありようをみているとまさに「文明の一切の原理に興味がない」ものが社会の主導権を握っているというオルテガの主張が今を行われているかのように感じる。そしてヨーロッパ大陸の諸国民を一丸として一大国家を建設する」という現在のEUの姿とその矛盾が思い起こされる。オルテガは1930年にこれを書き、その後にヒットラーがドイツを興隆させ再び戦争を引き起こすわずか1年前だったことが、これから私と子供達が住む世界の未来を暗示させている。

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    投稿日: 2019.06.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    NHKの100分で名著という番組で紹介されていたので手に取った。 ノブレス・オブリージュ。高貴であることには義務が伴う。現代においては過去に比べたらまるで貴族のような生活をしているのかもしれないが、使命感が欠落しているとの指摘による警告。王政において存在した支配者層と被支配者層の構造が崩壊したことによって、野放しになったかつての隷属する側だった大半の人々が、指針を失いまるで原始人のように欲求のみに忠実に暴れまわるようになる時代が訪れるだろうと予測していた。 これぞまさに昨今のSNSにおける炎上を見れば明白になる。誰しもが自身の信ずるところの正義に寄って濁流のように翻弄し撹乱している。 かといって大衆自体を否定するというわけではない。人々が寄り集まり、広場で言葉を用いて、より良い集団になるために協議する。その行為自体は太古の都市(ポリス)が成り立った歴史的事実を見れば否定できない とのこと。 オルデガが本書で最たる脅威として挙げたのは大衆による「反逆」という部分であると思う。隷属的な営みから解放されて勝ち取られた自由をどう扱うのか、という点において啓発しているのだと受け取った。 何より、現代において享受している様々な道具・機械・サービスも全て、過去において自身すら想像だに出来ない知性ある人々の恒久的な努力によって、生きながらえられていることを忘れてはいけないのだと心に留めるべきことだ。 しかして本書においてその「知性」においても言及されていたことが印象に残る。知性、あるいは専門性に特化し過ぎるあまり、社会的行為、倫理観などが育たない以上、それもまた前述した「原始」性を発現しうることになる。 後半には没落したヨーロッパに妥当する存在を求め彷徨う世界を憂いでいるように見えたが、勝手な憶測ではあるが第二、第三の存在が現れては消えていくことを延々と繰り返すのではないだろうか。それこそが人間の営み、あるいは社会的な動物の営みに他ならないように思った。 だからこそ、ノブレス・オブリージュの精神が必要になるのかもしれない。望み高くあるのであれば使命を果たさなければならない。常に「より良さ」を求めるのであれば苦痛を伴うに違いないのだ。 なんだか進撃の巨人にも繋がる哲学な気がする。

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    投稿日: 2019.05.10
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    大衆の連帯は加速している・・・ ネットやスマホの存在で、大衆は見えない形で連帯している。選挙やデモや集会でしか反逆できなかったオルテガの時代とはずいぶんちがう。そして無自覚であれば、容易にそのような、ネットやスマホの大衆の連帯に巻き込まれてしまいかねない。くだらないネットニュースにくだらないコメント合戦・・・距離をおいて高潔にあることが求められているのだろう。ということは、ここなるレビューもまた大衆的ということか。自虐。

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    投稿日: 2018.10.16
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    現代がうまくいかんのは、大衆が身勝手やからやあ!という主張はよくわかりましたが、全体的にとっちらかっていて読みにくい。でもところどころ刺激的な文書がならぶ。

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    投稿日: 2018.10.06
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    内田樹先生が度々引用されている御本なのでいつかは読んでみなくてはと本棚に用意してあった一冊。立憲主義の破壊に扉を開いた参院選前に読んだというのも何かのお導きなのだろう。いや、俺が求めていたのか? 国家って様々な形があって、生き物みたいにうごめいているもんなんだなぁ~と思った。立憲主義や民主主義って言っても、ある政治形態に名前をつけただけで、実際に営まれている政治過程は複雑怪奇でよくわからない。 僕らが国家の構成要素だということは、否定しがたい事実だけれども、階層性の論理から言うと階層下位にある国民は、階層上位にある国家の活動を制御しようがないのだろうな、とふと思った。 それは、決してあきらめとか自棄とかではなくて、だからこそ、精一杯生きていきたいなぁ~という希望を含んだ気持ちです。

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    投稿日: 2016.07.22
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    大衆の中にいると、大多数のうちの1人という安心感から、自分を疑わなくなる。 議論から逃げ、暴力やクーデターに走ろうとする。 自分の中の知性を磨くことこそが重要。 ってことかな? 難解でした。

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    投稿日: 2016.06.05
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    タイトルから受け取るイメージとは裏腹に大衆というものがいかに無責任で無知であるか、そしてその大衆が今国の中心になってしまっていることの恐ろしさを指摘した書。1930年に書かれた作品なのですが、驚くほど現代そのものだと思った。 権利や自由があらかじめ用意された世代に生まれたわれわれはそれが空気と同等であるかのように扱い、感謝するということをせず(自然物であるかのような扱い)、義務も遂行せずに、ただひたすらに権利権利を叫びたてる。 現時の特徴は「凡庸な精神が、自己が凡庸であることを承知の上で、大胆にもその凡庸なるものの権利を主張し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある」とオルテガは主張する。 その延長線上に、「サンディカリスムとファシズムの相の下に、はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押し付けるタイプの人間がでてきたのである」 この二点だけとってもオルテガが主張する「大衆」というもののおろかさが分かると思う。 なんだか最近のニュースを見ているととってもうなずける。 更に、現代のほうが前世紀よりも技術も環境も整備されているのに幸福感が少ないのは、「時代は他の時代より上だが、自分自身よりは下だ」と書かれている「時代の高さ」という章に大きくうなずいた。

    2
    投稿日: 2012.08.06
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    19世紀のヨーロッパが、まさにいまの、21世紀の日本の状況に酷似しているという衝撃。僕たちはこれから、どんな未来を選択してゆけばいいのだろう…。

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    投稿日: 2012.02.17
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     本書の内容がはじめて発表されたのは1926年、マドリードのある新聞だ。80年以上前に書かれたものであるにもかかわらず、(あるいはそれ故に)これは現在の日本にぴたりと当てはまる分析ではないかと思ってしまう箇所が少なからずあったことに驚きの念を禁じえないとともに、ヨーロッパではじまっていたことが遅れて日本で起こっているのかもしれないとも思った。 (以下引用)   要するにわれわれの時代の高さとはいかなるものだろうか?  現代は、あらゆる時代の絶頂ではないが、しかし、自分があらゆる過去の時代よりも上にあり、知られている限りの頂よりもなお高いところにあると感じている。われわれの時代が自分自身について抱いている感じをまとめるのは容易ではない。つまり、われわれの時代は他のあらゆる時代よりもまさっていると信じながらも、それと同時に自分が新しい時代の始まりだと感じていて、しかもそれが末期の苦悩でないことに自信が持てずにいるのだ。以上をどういうふうに表現したらいいものか?たぶんこんなものになるだろう。すなわち他のあらゆる時代にまさりながら、自分自身には劣っている時代、非常に強いが、それを同時に自分の運命には確信がもていない時代。自分の力を自慢しているが、それと同時にその力におびえている時代。それがわれわれの時代である(p79)

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    投稿日: 2012.01.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「現代のヨーロッパは退廃している」 オルテガは、19世紀の科学文明の発達がヨーロッパ社会に「大衆的人間」を生じさせ、自らに義務を課し、社会に対して責任を持って生きていこうとする従来からの「貴族的人間」と対峙する存在であるとした。この、文明の成果をまるで自然環境であるかのように享受し、その外に出ようとせず、自分の殻の中に閉じて生きていこうとする大衆的人間が支配する社会が現代の社会であり、このような社会は退廃している、と彼は痛烈に批判している。 社会に対して責任を持ち、もっとリアルな生を生きるべく社会に参加すべきことを主張している。

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    投稿日: 2011.01.08
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     大衆が社会的勢力の中枢に躍り出た。少数の限られた人だけの特権が、大衆に侵食されてきている。気付けば周りは匿名で没個性の無知な大衆で溢れかえっているのである。  オルテガは『大衆の反逆』において、現代における大衆の脅威と危機について語った。しかし、現代について語る前に、此処で言う大衆の定義とその発生の過程についてまず触れておきたい。  まず、大衆とは何なのか。大衆とは漂う波に身を任せ、没個性的であり、匿名性を帯び、無知な非教養人を指す。他人と同じであるという安定感に快楽を覚え、例え知識があったとしても専門化された特定のことだけしか知らない。  そしてまた、それら大衆はどのようにして生産され、また近代において台頭するに至ったのか。オルテガの述べる大衆化のプロセスは三つである。自由主義的デモクラシー、工業化、科学的実験だ。自由主義的デモクラシーは多数決の原理を持ち出し、多数派である大衆の肥大化を促進した。工業化は大量生産・大量消費によるみんなが同じものを所持するフラット化を可能にした。科学的実験は、学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門化傾向を顕著にし、教養人を消し去ってしまった。  さて、現代についてだ。現代は大衆の洪水が起きている。冒頭でも触れた通り、いままでは限られた人の特権だったものが、大衆の波に全て飲み込まれているのである。また、何かについて決める際にも大衆の波が流れる方向に事が運ばれていく。前近代においては限られた人物によって決められていたことが、不特定多数の感情に流されていくのである。  政治的決定における大衆の感情の介入による問題は、大衆が無知なことである。大衆化のプロセスでも述べたように、大衆は科学的実験による学問の専門化の進展により、バランスの崩れた専門家になっているのだ。官僚機構における専門性の優位性は認めるところがあるが、全体を俯瞰して行う政治的決定においては大衆の感情に任せた決定というのは極めて軽率に感じられる。  衆愚の問題は現代日本における大衆民主主義の限界にも重なる。メディアや第一印象に任せ、自らの快楽に沿って選挙を行う日本では、政治の限界は大衆の限界でもある。また、今日の日本においては大衆の従うメディア自身も大衆であるため、自助更正はいよいよ難しいようにも感じるときもある。  大衆の限界、それを乗り越えるにはどうすればいいのか。それこそ語られねばならぬことだ。必要なのは新しい規範なのか、大衆の排除なのか、それとも再生産なのか。私の結論は、大衆の全肯定である。  無知な大衆の選択により、果たして本当に社会は悪くなるのか。私にはどうもそうとは思えないのである。大衆の行動原理が漂う波に身を任せ安楽を貪るだけなのであれば、破綻による脅威が牙を向けば、大衆は自然と目覚めるように思えるのである。  ただ、ひとつ現代において我々にできることと言えば、教養人となることである。大衆とは教養を失い、快楽に生きる存在である。そこから抜け出ることだけが、現代を生きる我々にできることのように思える。社会全体の変革を行うのは容易なことではないのだ。そこでできることといえば、ひとりでも大衆ではなくなることである。快楽に溺れず、考えることができる人間の存在こそ、日本を良き方向に導く。  また、大衆を全肯定することについてだが、過去においては大衆を圧政していた暴君は一部の貴族だった。しかし、現在においては大衆を圧政する暴君が大衆自身となっているため、たとえメディアが機能不全を起こしたとしても、大衆自身の中で自浄作用が生じると考えられるのである。  大衆の時代において大切なことが二つある。一つは考えること、もう一つは待つことである。  一つ目の考えることは、自らを大衆の波に沈まぬようにしてくれる。自己の輪郭を鮮明にし、政治的決定という答えのない問題に対して最善の結果を示せるようになる。  二つ目は即時的な結果ばかりを求め、待っていれば得られたであろう利益を捨てないことだ。今日の日本の政治においても、長期的な視野で行われる政策は大衆に否定され、効果が直ぐさま見えやすいが利益が薄い、もしくは損失が隠されているだけの政策を選ばれることが多いように感じる。大衆が快楽に生きることを悪いとは言わない。私も快楽が好きだからだ。しかし、後の大きな快楽を捨て、刹那的な微々たる快楽を求め過ぎないように務めることは、オルテガの問題視する大衆でも出来るのではないだろうか。  苦痛を伴う教養人となるか、躾のされた大衆となるか。これが私の考える、今日の日本において大衆が目指すべき指針である。

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    投稿日: 2010.12.16
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     「俺はもう我慢ならねぇ。もう言わなくちゃ気がすまねぇんだよ!」とでもいう感情があって書かれたのかなという気がする一冊。  そういう気がするので、思想書や学術書という意味合いで書いたというよりも、社会にインパクトを与えようという意味合いで書いたのではないかという気がするので、その意味で政治的な一冊ではないかと思う。ちなみにだから、おそらく、論理的には問題があるのではないかとも思う一冊。  そのように私は思うので、本書が人々に何かしらの衝撃や印象を与えたとするならば、本書の目論見の一つは成功したという事になるのではないかと思う。(2010年1月17日記)

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    投稿日: 2010.01.17
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    大衆とは ?生まれたときから、「生」は容易で豊かであるという感覚を抱いている。 ⇒根拠のない楽観主義とそのことへの確信、そしてそこからその「当たり前の状況」を実現させることに対して強い要求が生じる。 ?現存の自己を肯定し、同時に自己の道徳や知性も肯定する。 ⇒ゆえに、外部からの言葉に耳を傾けけず、自分の意見を絶対視する。しまいには他者の存在を考慮すらしなくなる。 ?そればかりか、あらゆることに対して、自己の道徳や知性などを押し付けようとする。 ゆえに現代の大衆は「満足しきったお坊ちゃん」の時代である。 そして恐ろしいことに、その大衆が社会の支配階層となっている。(大衆とはその人物の地位の問題ではなく、その人物自身の問題。ゆえに、一般的にはエリート階層と解されている医者や法律家も「大衆」である。そればかりか、ほとんどの政治家も「大衆」である。) その大衆の支配する社会には、あるべきモラルも価値観も、未来へのビジョンもない。 ------------------------------------- おおざっぱに書いちゃえばこんな感じの内容かと。 19世紀前半〜半ばにかけて書かれた本だけど、現在にも通じるところがある、というか現代のほうがその傾向は強くなってきている? こんな内容の連載をよく当時のスペインの新聞は載せたなぁ。その器量はすごいww

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    投稿日: 2009.02.28
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    思うにオルテガは、近代の生成の過程で必然的に生まれてしまった鬼っ子である「大衆」が、まさしく必然の結果として近代市民国家を破滅の淵に追いやろうとするのを見るに見かねて、本書によってするどい警告を発したのではないか。しかし、大衆がオルテガの定義するとおりの無自覚的に愚昧な存在であるがゆえに、その警告は耳に入らず、ナチズムや冷戦をはじめとしたさまざまな「20世紀の愚行」を引き起こしたのだとすれば、オルテガの努力はまさしく皮肉な結果に終わったといえる。 http://d.hatena.ne.jp/hachiro86/20070521#p1

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    投稿日: 2008.05.03
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    欧州の大衆の統計学的考察  歴史は大衆の反乱をなんども経験している いかにナポレオンのように権力のみ持つものは結局民衆の反感を買い ムソリーニのように合理的に大衆が選んだファシスト政権であっても ただ権力の上に胡坐を書くだけではいけない。  ただ オルテガから読み取れる日本は まさに悪い意味での世論主義 歴史から見ると恐ろしい状態である。

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    投稿日: 2006.03.19
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    【目的】 【引用】 【感じたこと】 【学んだこと】 選ばれた人間=自分に多くを要求し、困難と義務を背負い込む。

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    投稿日: 2005.06.29