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岡潔、小林秀雄/新潮社
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総合評価

201件)
4.0
57
69
37
6
1
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    読みやすかった。 小林さんの聞き上手っぷりに脱帽。 トルストイやベルクソンなど共通認識の次元が高いなと感じた。 しかもそれをひけらかさず、2人とも行間に埋め込む。 こんな会話がしたいと思った。 雑談の最高峰を見た気がした。

    3
    投稿日: 2025.10.16
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    日本人としての誇りを感じさせてくれる「自分の肉体というものは人類全体の肉体であるべきである。理論ではなく、感情的にそう思えるようになるということが大事で、それが最もできる民族としては日本人だと思います。」感情、心の満足不満足を直観といっている。眠ったまま生存競争に明け暮れる獣。「いま人類は目を閉じで、からだはむやみに動き回っているという有様です。」「いま日本人がすべきことは、からだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないことだと思うのです。」その心は…、書き出すときりがないくらい充実した対談。

    0
    投稿日: 2025.09.29
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    今の自分の知識量では拾いきれないと感じさせられてしまう本でした。言葉上は分かったような気がしているが全然理解できていないような感覚にとらわれてしまいました。ただその中でも今の自分にとって必要な言葉がピックアップできたのかと思います。定期的に読み直したい本です。前回は10年くらい前でした。

    14
    投稿日: 2025.09.14
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    双子のライオン堂で実施していた3回シリーズの読書会にて、書評家の渡辺祐真(スケザネ)さんの解説を手すりに読んだ。 https://peatix.com/user/362821/dashboard# 冒頭の大文字焼きに言及するところから始まる対談は、人為的なものへの拒否反応の現れで、美術や酒へと対象を展開しながら、いい個性とは何か?、それは自然と滲み出てくるものという感じで話しが展開していく。 無明や小我といった仏教用語や、口頭でのやり取りで辻褄があっていないような箇所があったり、変に懐古主義的な考えが色濃く出たりして、とっつきにくかったり、理解しづらい部分はあるが、頷ける箇所は多く、歯応えのある文章。 折に触れて噛み締めたい一冊。

    1
    投稿日: 2025.08.14
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    数学は理論的に筋が通っていたとしても感情に訴えられなければ数学とはいえない。なるほどなぁ。。たしかに、数学という枠組みの中で論理が一貫していなければいけないという伝統?があるのは知っていたが、いわれてみればそれと同等くらいに「美しさ」も追求するのが数学だなと思う。そういう意味で数学は完璧で、数学者も完璧主義的なところがあるのかなと思った。

    3
    投稿日: 2025.08.11
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    2010年版だが、昭和40年に掲載されているが、今も色褪せない。 ただ、なにぶん難しい。 これもまた時間を置いてから再読したい。

    0
    投稿日: 2025.05.26
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    むっっっずーーーーーーー!笑 頭のいい人たちってこんな会話をするんだ、できるんだ。。。。すごい。。。 けど、理解できるようになるまで何回も読み直したいなと思いました。

    0
    投稿日: 2025.05.22
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    天才同士の対話、と聞くと思わず尻込みしそうになるけれど、扱われているテーマはとても普遍的で、人間の学び、創造の根源について考えさせられる 数学・批評論だけに留まらず、芸術、特に絵画についての意見交換を楽しく読んだ

    7
    投稿日: 2025.05.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    知をいくら重ねても情緒からは逃れられないっていう話。 一つの事象を説明するのに、どの層まで掘り下げてその言葉が出てきているのかわからない為、二人の発言のどこまで理解出来て、出来ていないのか自分でもわからないけど、とりあえず最後まで面白く読めたし、良い言葉たちが沢山あった。 p. 146 小林 愛情には理性が持てるが、理性には愛情は行使できない。

    1
    投稿日: 2025.05.13
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    人は自然によって育てられる。人が人を育てることなどできない。人間の根本は、知性などではなく感情である。いくら知的に理解できても感情が納得しなければ人は納得しない。何が言いたいかというと、人が自分たちにとって必要なものは、知性でなく感情で納得できるかどうかで決まる。 これからの時代は、人間を理解しなければならない時代に来ている。いくら知的を重ねても意味がないことがわかってきた。なぜなら、人間にとって大切なのは感情だから。

    1
    投稿日: 2025.05.03
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    小林秀雄と岡潔の対談。 痺れるほどの知性。 ただ自分には正直半分も理解できたとは言い難い。 何かに突き抜けたひとたちというものは、あらゆることを見通せるものなのだろうか。 日本人は欧米の個人主義を真似るのをやめて、小我を捨てるべしという考え方は、奇しくも昭和史の中で半藤一利さんも似たようなことを仰っていた。 もっと研鑽を積んでから読み返したい。

    0
    投稿日: 2025.04.06
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    とにかく2人の会話から頭の良さ、品性の高さが窺えて畏敬の念です。本当に文章として残してくれて、読ませてくれてありがとうございますという気持ちでいっぱいです。 まだまだ内容的に理解が追いつかないところがあるので何度も読み返したいです。そうしている間に2人の知性や品の高さが憑ればいいなと思います笑。 またこちらの話は小林秀雄全集から読んでいるのですが、全集では井伏鱒二の評論があり、これには本当に同意です。氏の魅力を忍耐強さという言葉で言語化、簡潔に表してくれてありがとうございます。

    1
    投稿日: 2025.03.12
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    おすすめ。 #興味深い #考えるヒント 書評 https://naniwoyomu.com/30721/

    0
    投稿日: 2025.02.02
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    話の内容について、さすがに古いと思う所もあるけれど、難しい蘊蓄や専門用語も余りなく、真摯に深いところを探るような対談で面白かった。 真面目に様々な事を考えて、哲学の域まで行く人というのはさほどいないと思うし、そこまで行っている両者の対談というのは貴重なものではないだろうか。 数学者の岡氏が、情や、情緒というものを大切に思っているというのが意外だった。

    2
    投稿日: 2024.12.19
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    批評家小林秀雄と数学者岡潔の対談。 今の感覚からするとうーん、と思う部分も多々あるが対談の端々から感じる知性の瑞々しさや柔らかさからはキラキラと光るものも多く感じる。 特に「情緒」≒「直感」の考え方はとても面白く感じた。 あと小林秀雄がどうしても岡潔とベルクソンを引き合わせたい感が面白かった。

    2
    投稿日: 2024.12.04
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    「〔岡〕昔の(日本の)国家主義や軍国主義は、それ自体は、間違っていても教育としては自我を抑止していました。だから今の個人主義が間違っている。自己中心に考えるということを個人の尊厳だなどと教えないで、そこを直してほしい。 《中略》 神風の恐しさは見たものでなければわからない《中略》ものすごい死に方をしている。」(p.119) 「〔岡〕私は日本人の長所の一つは、《中略》神風のごとく死ねることだと思います。《中略》 あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎ止めることはできないとまで思うのです。」(p.139) 「〔小林〕特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批判しますね。悪い政治の犠牲者という公式を使って。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になってみるという想像力は省略するのです。」(p.140) 批評家・小林秀雄と数学者・岡潔の対談。 話題が広範に渡り、無限の知の泉が2つ湧いているかの如く。 岡氏の専門である数学と物理学との関係、ベルクソンと時間概念に焦点を当てた哲学議論、ピカソやゴッホなどの絵画芸術 、ドストエフスキーとトルストイに関するキリスト教とロシア文学論、など。 哲学史や美術史から物理学の簡単な解説まであり、登場人物も多いので、手元に置いておくと、ちょっとした「大人の百科事典」のように使えそうだ。 その中で特に印象的だったものを、ここの冒頭に引用した。 戦後の個人主義とそれを基礎とした教育制度についての問題提議である。 個人主義の反対概念として、特攻のような「自己を捧げる」行動については、バーリンやラインホールド・ニーバーが主張した「(宗教道徳に基づく)自己犠牲の精神」と通ずるものがある。 また、「特攻ができる日本人でなければ、世界の滅亡を防ぐことはできない」という岡氏の言葉は、タルコフスキー監督の映画『ノスタルジア』を想起させた。 世界を救うために自らの命を擲つ2人の男性の物語だ。 近代思想のメインストリームである単純な個人主義礼賛・全体主義批判では、特攻とは若者の未来を奪う許されざる戦法と批判される。 現代の日本では、自分も含めて、そういうパターンがどこかに染みついているが、それは思考停止でもある。 それをずばり指摘した小林氏の、「悪い政治の犠牲者という公式を使って」と言う言葉は、あまりに核心をついている。 この対談の当時、両氏のように問題提議する賢人がいたことは、社会の財産であったと感じた。 「自己犠牲」というテーマは今後さらに掘り下げたい。 この本はたまたま飲みつつ読んだが、知的な肴のおかげで大変良い時間を過ごせた。 茂木健一郎は解説で、本書について、「声に出して読みたい対話」「音楽に似ている」と語っていたが、飲酒で程よく脱力した脳にすっと吸収するような読み方も悪くなかった。 そのような体験を提供してくれる読書は素晴らしい。 酒の肴になるような、知性溢れる本が他にも無いものか、と探してみたくなった。 蛇足であるが読書メモとして、 去年読んだ小林秀雄の『本居宣長』は「失敗作」という評判であることを読後に知ったのだが、本著で小林氏が『本居宣長』執筆のくだりから、 「この頃、仕事をしていて、とんでもない失敗をするかもしれないなと、いつでも思う」 と自ら予告しているのには思わず吹いた。 作家の永井龍男と小林秀雄が友人同士、ということも知り、洒落た2人にもほのぼのした。

    7
    投稿日: 2024.11.05
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    批評家の小林秀雄と、数学者の岡潔による、 まさに知の巨人といった2人の対談。 正直難しくてわからない数学の話しもありましたが、理系とか文系とかのベクトルを超越した地点での、高度な知性での対話は、圧倒的で、伝わってくるものがありました。 小林秀雄がベルクソンを評価している理由など、情緒的かつ逸脱を許さない人生観の情が伝わってきて、そういう感覚が岡潔との共通点だと思いました。 キリスト教の不信や資本主義の蔓延、または敗戦からの個人主義の導入によって、民衆の知力の低下を憂う、有意義な対話であると思います。

    0
    投稿日: 2024.08.28
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    数学者と文章家の歴史的対談。 何かを究めた人たちは畑は違えど、物事に対する考え方、表現の方法が似通うものなのか。 喧嘩のようなやり取りになるかと思いきや、お互いをリスペクトする両者の考えの調和は小気味良い。 理解ができない事柄も多々あるが、再読を繰り返し、歳を重ねながら、理解を深めたいと感じる。 茂木健一郎氏の「情緒」を美しく耕すために の締めが秀逸でこの本に相応しい。

    5
    投稿日: 2024.08.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    友人に勧められて。 小林 …誰でもめいめいがみんな自分の歴史をもっている。オギャアと生れてからの歴史は、どうしたって背負っているのです。伝統を否定しようと、民族を否定しようとかまわない。やっぱり記憶がよみがえるということがあるのです。記憶が勝手によみがえるのですからね、これはどうしようもないのです。これが私になんらかの感動を与えたりするということもまた、私の意志ではないのです、記憶がやるんです。記憶が幼時のなつかしさに連れていくのです。言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人の精神のなかにも持続している。そこに立ちかえることを、芭蕉は不易と読んだのではないかと思います。(p.133) ベルクソンの「物質と記憶」にその後言及。

    1
    投稿日: 2024.08.02
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    薄い本ではありますが、一度読んだだけでは理解できません。とても深い本だと思います。何度も繰り返し読む価値のある本のような気がします。 年齢によっても感じ方は異なるでしょう。 ドストエフスキーやトルストイと言ったロシアの小説家の名前が出てきましたが、まだ私は読んだことはありません。罪と罰や白痴にチャレンジしてみようと思います。 私の故郷、三重出身の本居宣長や芭蕉の話も出てきました。この2人に関する私自身の無知さにも忸怩たる思いです。少しは勉強したいと思う読後感です。

    1
    投稿日: 2024.07.25
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    面白いが、文理の碩学泰斗が対談していることに価値があるのであってその内容に価値があるかは疑問である。 世の中の中年男性が2人と同じくらい理性的でかつ低俗でないならば、きっと同じような会話をするのだと思う。 もちろんここから何らかのインスピレーションを引き出すこともありうるのだろうけど、一読した限りではそれは難しかった。

    0
    投稿日: 2024.07.15
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    数学界の天才と評論界の天才による対談。 解説にもある通り、内容は雑談であり、テーマは多岐にわたる。 二人の対話は非常に高度かつ知的で、すんなりと理解するのは難しかった。そんな私でも、知情意に関する数学論文の話は、相手を理詰めで追い詰める昨今の風潮に対して1つの気づきとなった。

    0
    投稿日: 2024.06.24
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    以前、尊敬する友人に薦められて読んだ。 その時は所々しかわからなかった。 全部を理解することは一生ないのだろうけど、これから長い年月をかけて何度も何度も読み返す必要あり。

    0
    投稿日: 2024.05.24
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    図書館で借りたのですが、読み終わった後に思わずamazonでポチり。何回も読み返したいし、子供にも読んで欲しいな。 岡潔先生、数学というごりごりの論理的な学問の学者さんなのに知性だけでなく感情の満足を得ないと数額が進まないと悟ったことに驚愕。 キーワードは「情緒」。 グローバル化の中で日本が、そして日本人がどうあるべきかを考える上でもとても参考になるなー。 数学者と批評家という異色の組み合わせ、そしてそれぞれの分野で異彩を放つ天才同士の対話は、現代社会に生きる我々が気づいていない、あるいは忘れてしまっている世界や社会の本質に切れ味の良い洞察を与えてくれること間違いなしだろう。初読では消化不良なのだ、買ったものをもう一回よもっと。

    1
    投稿日: 2024.04.30
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    知や意思はいかに説明しても、情は納得しない。直観(感情の満足・不満足)なしに情熱は持てない。裏打ちのないのを抽象的という。しばらくはできても、足が大地をはなれて飛び上がっているようなもので、第二歩を出すことができない。 欧米人の指導層には小我をもって自己と考える欠点がある。日本人の長所の一つは神風のごとく死ねること。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできない。無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直観がはたらかない。欧米人の特徴は目は見えないが、からだを使うことができる。目を閉じて、からだはむやみに動きまわっている。いつ谷底に落ちるかわからない。日本がすべきことはからだを動かさず、じっと坐りこんで、目を開いて何もしないこと。 奈良の博物館。正倉院。破れたきれの展示を丹念に長い間見た後に、外へ出てみると、どの松を見てもいい枝ぶりをしている。自然は何を見ても美しい。 自然科学の世界(例:相対性理論の時間・空間)は自然言語では説明できない。言葉にならない。数学言語が必要になる。 数学は印象でやるもので記憶はかえって邪魔になる。 おか・きよし 岡潔 『人間の建設』1965

    6
    投稿日: 2024.04.27
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    悔しいけれど、今の私の知力では1割しか理解できなかった。 やはり、良い議論をするにはほとんど同じレベルの頭脳が必要だと思う。 これから先もっと沢山の素敵な人たちと対話するために、言語を覚えるような気持ちで教養を身につけていきたい。 30歳になってもう一度この本を読んだ時、5割は理解できるように。

    5
    投稿日: 2024.04.25
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    普段使ってない脳みそを使って読んだ感じ、まさに筋トレというか脳トレ…!教育分野に関しても言及されていて、とくに素読教育の是非はわたしも賛成。初等教育の時点では子供たちはスポンジのように知識をスイスイ吸収していくので、九九だけと言わず、国語分野でも素読を入れるのは良いかもしれない。ちなみに教育に携わる者の給料が薄給なのはこの時代からだったのか… p.115 小林 言葉と言うものを、主人はそれくらい信用していると言う、そのことなのです。言葉の組み合わせとか、発明とか、そういうことで新しい言葉の世界をまた作り出している。それがある新しい意味を持つことが価値ですね。それと同じように、数学者は、数というものが、言葉では無いのですか。詩人が言葉に対するような態度で数と言うものを持っているわけですね。 岡 言葉が五十音に基づいてあるとすれば、それに相当するものが数ですね。それから作られたものが言葉ですね。 小林 新しい数を作っていくわけですね。 岡 数というものがあるから、数字の言葉というものが作れるわけですね。 《読みたい本》 小林秀雄 ドストエフスキイの生活、本居宣長 プラトンの本 ドストエフスキー カラマーゾフの兄弟、罪と罰、白痴

    4
    投稿日: 2024.04.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

    うーん難しい。普段使わない脳みその筋肉が頑張っている音がした。数学者の文章って普段読まないから思考回路が違くて面白かった。あと唐突にはじまる形式なのも、面白い。 最後の解説で、茂木健一郎が「声に出して読みたい」と書いてあったが、そんな暇ないんだが!?と思う。茂木さんとの格の違いを見せつけられる。 ==== 数学は、発見の前に必ず行き詰まる。

    1
    投稿日: 2024.03.03
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    二人の偉人が対談している。小林秀雄さんと岡清さん。国語と数学。 二人の思想、見ている世界を自分は残念ながら眺めることができていないので、会話についていけないところも多々あった。 岡潔さんの書籍は何冊か読んだことがあるが、小林秀雄さんの書籍はまだ読んだことがない。今度は、小林さんの書籍を手にしてみたい。

    3
    投稿日: 2024.01.18
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    ただのメモ 無明≒小我≒西洋的な自我 人は自己中心に知情意し, 感覚し, 行為するものであるが, 自己中心的な行為しようとする本能のことを無明という. 岡潔は無明をおさえれば, やっていることが面白くなってくるというが, これは無明を超えた真の自分の心, ユングでいう自己から俯瞰してみるということなのだろうか. 一番面白かったのは, 数学が抽象的になってしまったという話だった. 感情的に矛盾するとしか思えない二つの命題を共に仮定してもそれが矛盾しないという証明が出てしまったことにより, 知情意の知のみの領域へ入り込んでしまった. 矛盾するというのは情であり感情の満足であるが, これが納得しなければ本当にそうだと思えない. 感情抜きには情熱は生まれないものであり, 数学が学問として改めてどうあるべきか考える必要があると言う話だった. 理性(常識)は感情を元にして働く 直観とは感情の満足・不満足である ベルグソン ベルグソンの考えていた時間は僕たちが生きる時間 時間は心(感情)≒情緒の一種

    0
    投稿日: 2023.12.29
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    二度挫折して、三度目の正直で読み切りました。 150Pくらいの薄い本なのですが、体力使いました。 「難しい」とは何か? 「わからない」とは何か? これらを考えさせられました。 世の中の事を大体わかった気でいましたが、全然そんなことはなかったですね。 この本は読んでいるうちに(100P超えたあたりから)癖になるところがあります。体力ある時にもう一度読み返したいと思います。 お二人(小林氏、岡氏)は文系と理系とで全く異なる世界で生きてきたのに、波長が合っている様子がうかがえます。とても不思議。 お二人の住んでいる世界感が同じだからなんだと思います。 反対に、私は「住む世界が違う」って、こういう事を言うんだなぁ、と感じました。 まず、二人の会話に登場する共通言語について行けないのです。 結構得意ジャンルと思っていた文学・美術の話が登場しますが、ついて行けない。 例えていうなら、富士山の麓から頂上にいる二人の会話を聞いている感じ。自分の文化教養度の低さを感じました。 例えば、文中にトルストイ・ドフトエスキー・ピカソ、と言った名だたる巨匠の作品が登場します。 彼らが創った作品がどんなものか、ざっくりとした知識はあります。 しかし、彼ら(小林氏、岡氏)のように時代背景や作者の思いまでくみ取り、作者がどんな状況下にいて、何を訴えたくてその作品を創ったのか。作者についてとことん調べ、作品と作者を紐づけたうえで一つの作品として見ているんです。そのうえで、「これは好き」「これは嫌い」と判断している。 物事を深堀りするっていうのはこういう事なんだな、と勉強になりました。 (私は作品単体としか見てないよ。。。「薄っぺらいな、自分」と思っていたけど、そういう事なんだと思う) 文学に至っては、実際に読んでいるか、も会話の肝となります。 ”「白痴」のムイシキン公爵とか…” 普段、こんな話しますか?笑 この会話について行くためには、「白痴」を読んでムイシキン公爵がどんな人物なのか、ストーリーで彼はどういう役目なのか、本を読んでいることが必要なのです。 普段から何を見てどう感じているのか。 対象物が私とは全く違う。笑(住む世界が違うって、ここの違いだと思う) 「わからない」って純粋に思ったのですが、そりゃそうなのです。読んでいないのですから。 この本を読んで、久しぶりに「わからない」って感覚を抱きました。 同じ日本語を話しているのに、知識がない故に理解できない。共通言語について行けないって、こういう事を言いたいのです。 ”わかるということはわからないなと思うことだと思いますね”(抜粋) ものすごく考えさせられる言葉です。 こちらの書籍は「わからないな」だらけでした。。。 私も「わかる」に一歩近づけたということでしょうか。

    25
    投稿日: 2023.12.21
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    タイトルがなんだか凄い話なのかなと、おもっていたものの、読み始めると、対談ものでした。なんというかジャンルの違う凄い二人の対談だけれど、結構共通するところの話があり、究極、人間として学ぶベースの部分の情緒のところが大事ということなのかと。情緒の言葉の意味というか範囲というかそれがどういうことなのか、といった二人の話からの考えることがいっぱいあり、いつでもどこからでも繰り返し読めて、考えることができる本となっているのかなと。旅のお伴にしたい。

    1
    投稿日: 2023.11.05
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    2人の対談を記述した対談本。 時代が1965年 昭和40年 ということと、当時の高齢者である 2人が、如何に高名な人とは言え、現代では時代に合っていない 論争を繰り広げられているため、これを面白いと思う人もいれば、 何言ってんだろう?ってなる人もいると思われる。 自分にとっては、小林さんはさすがに小説をよく読む人なら、 少しはついていけるだろうと思うところではあるが、 岡さんに関してはよっぽど数学に強くないと、ついていけない ことをバンバン言うために、岡さん主体の話にはどうもついていけない。 ゴッホやドフトエフスキーにトルストイと、 語られてはいるものの、あくまで2人の意見でしかなく、 偏見があるため、真面目に受け取ると問題になりそうな内容だと 感じてしまった。 個人的には、読みにくいし、あまり面白いとは思えなかったかな。 この本に対しての読解力は自分にはまだないのでしょう。 言葉使いも少々時代の違いを感じたかな。

    1
    投稿日: 2023.09.30
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    言葉を選ばずに書けば「最近の若いもんは…」の精神が通底していて、読んでる間中説教されているような感じでした笑。 といっても、当時からの最高位の知識人2人の語ることなので、とても一般人の理解に及ぶところも無く。。。 「情緒として納得できない」ということでアインシュタインの理論に与しない態度については、なんとなく目から鱗でした。頭のいい人の考えたことは無条件に受け入れるべきだ、もしくは受け入れられた態度をとるべきという先入観が一つ外されたような気がします。

    0
    投稿日: 2023.09.28
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    読んでいて、心が落ち着いた。 情緒、詩人。 落ち着いて読めたのは、岡潔さんの言う詩的なところが、この対談にもあったからでしょうか。

    0
    投稿日: 2023.09.03
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    読後、すごい話を隣で聞いてしまった...という気持ちになる。 「面白い絵は見ていると疲れる、良い絵は人を疲れさせない」という話がとてもよかった。

    0
    投稿日: 2023.08.23
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    「新潮文庫の100冊 2023」にて紹介されており、気になったので読んでみました。 この雑談の領域には全く立てていないのは理解したうえで。 「体系を学ぶのに非常に時間がかかる」というのは色々と共感するものがありました。

    0
    投稿日: 2023.08.02
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    【読もうと思った理由】 実はこの本は、数年前から本屋でふと気になる度に立ち読みしていた本だった。当時読んでいても、理解できる部分がかなり限られており、自分にとって、かなり難解な本だった。ただ何故だろう、理由は分からないが、何故か本屋に行けば、立ち読み読みしたくなる。そんな不思議な魅力がある本だった。いつしかこの本に書かれていることを、理解したいという欲求が、徐々に増大していた。そこから、本書でピックアップされている、ドストエフスキーやプラトン、哲学書や仏教書に興味を持ち始め、読み始めることになる。上記に書いてある本を読めば読むほどに、本書に書いてあることが、徐々にではあるが理解できてくる。こんな数年に渡って興味を失わなかった書籍は稀である。そして遂に数年越しに本書を購入し、読み始めた。 【岡潔(きよし)氏ってどんな人?】 明治34年(1901)、現在の大阪市に生まれる。4歳から紀見村(現:橋本市)の父の実家で育ち、粉河中学校時代に「クリフォードの定理」で数学に興味を持ち始める。大正14年(1925)に京都帝国大学理学部を卒業、その後、同大学の助教授を勤めていたときに、フランスのパリにあるソルボンヌ大学に文部省(現:文部科学省)の海外研究員として留学した。そこで、生涯の研究分野を「多変数函数論」と心に決めて、昭和7(1932)年に帰国した。 この研究は、「山にたとえれば、いかにも登りにくそうな山だと分かったので、敢えて登ろうとするようなものであった。」と後に語っている。昭和9年(1934)、この分野に関する詳しい文献が載せられた本を入手、中心となる三つの問題が解決されていないことが分かり、この問題解決にとりかかる決意を固め研究を開始する。しかし、残されている問題だけに、手も足も出ないほど難しいものであった。夜昼関係なく没頭した研究生活を送っていたある日の朝、いつものように椅子に腰を掛けていると、突然目の前にひらめきが起こって問題解決の第一着手である「上空移行の原理」を発見、その後、約20年を費やしてその理論の骨格を一人で完成した。 岡の研究した分野「多変数函数論」についての問題は、20世紀の初めに注目され始めていたが、あまりに難しいため世界の数学者は手をつけられずにいた。岡のためにとっておかれたようなこの問題の解として、岡は10編の論文を書き上げる。生涯で10編の論文というと非常に少ない数だが、補足的な1編を除き、9編すべてが珠玉の傑作と言われている。あまりに素晴らしい論文のため、一人の人間が書き上げたとは信じられない程である。日本の数学者が神様のように尊敬するドイツの数学者ジーゲルは、『オカとはニコラ・ブルバキのように数学者の団体の名前だと思っていた』と語ったそう。ジーゲル本人やブルバキの主要メンバーのヴェイユ、カルタンらは、はるばる奈良まで岡潔を訪ねた。 この研究の業績は、世界の数学界で高く評価され、昭和26年(1951)50歳という若さで「日本学士院賞」を、昭和35年(1960)には「文化勲章」を受章した。世界の誰もが手に負えなかった難問を解き明かした岡潔は、昭和53年(1978)76歳で生涯の幕を閉じた。 【小林秀雄氏って、どんな人?】 (1902-1983)東京生れ。東京帝大仏文科卒。1929(昭和4)年、「様々なる意匠」が「改造」誌の懸賞評論二席入選。以後、「アシルと亀の子」はじめ、独創的な批評活動に入り、『私小説論』『ドストエフスキイの生活』等を刊行。戦中は「無常という事」以下、古典に関する随想を手がけ、終戦の翌年「モオツァルト」を発表。1967年、文化勲章受章。連載11年に及ぶ晩年の大作『本居宣長』(1977年刊)で日本文学大賞受賞。2002(平成14)年から2005年にかけて、新字体新かなづかい、脚注付きの全集『小林秀雄全作品』(全28集、別巻4 )が刊行された。 【本書概要】 有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である。学問、芸術、酒、現代数学、アインシュタイン、俳句、素読、本居宣長、ドストエフスキー、ゴッホ、非ユークリッド幾何学、三角関数、プラトン、理性……主題は激しく転回する。そして、その全ての言葉は示唆と普遍性に富む。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。 【感想】 「人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っている」(岡潔氏談) 僕がこの本でもっとも感銘を受けた言葉だ。 実はここ数年でずっと自分の中で解決したい問題があった。上記に上げたこの言葉が、数年にも渡り悩み続け課題を、あっけなく解決してくれた言葉だ。その課題とは、僕が好きな養老孟司氏から感銘を受けた言葉が、発端となる。 「好きなことをやりたかったら、やらなくちゃいけないことを好きになるしかない。」 (以下、養老孟司氏談) 解剖学を成り立たせるためには、死んだ人が必要ですから、まず遺体を探してこなければいけない。「亡くなったら、いつでも引き取りに伺います」と献体をお願いしておいて、そういう人が出たら受け取りに行くわけです。でも、「今日は元旦だからやめといてくれ」とか、「死ぬときは勤務時間中にしてください」っていうわけにはいかない。私も、好きなことはなんなのかということについて、結論を出すまでにはかなり時間がかかりました。10年以上かかったかもしれない。 で、出た結論は、「好きなことをやりたかったら、やらなきゃならないことを好きになるしかない」ということです。つまり、仕事を変えるのと自分を変えるのとでは、どっちが楽なのかという話。だったら自分を変えちゃって、「俺はこれが好きなんだ」って思い込んだほうがいいんです。 上記を読んで、もちろん理解できたし、何なら実践しようと、自分の苦手な業務で試みてみたりもした。理屈では分かっていても、なかなか継続できなかった。しかし、今回上記に上げた岡潔氏の「極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質を持っている」という言葉が、僕の救いになったことは間違いない。 自分が携わる仕事で、必ずどんな仕事であろうと付随業務がある。それこそ上記に上げた解剖学でいう、遺体を日時を問わず、引き取りに行く業務などだ。自分の苦手であり、どうしても好きになれない業務は、極端に誰よりも熱心に取り組むしかないんだと。そうすれば苦手な業務からも、色々な気づきを得れる。色々な気づきを得られる業務は、気づけば好きな業務に変わっているイメージが、初めて持てた。 養老孟司氏の「好きなことをやりたかったら、やらなきゃいけないことを好きになるしかない」という言葉を、解決する考え方はないかと、ずっと諦めずに探し続けた自分が、間違っていなかったんだと思えたことが、本書から得た最大の収穫です。 また本書から得られた気づきは、沢山ある。以下、忘れないうちに備忘録として記載しておく。 (まずはその人物に興味を持つ) 私は人というものが分からないと、つまらないのです。誰の文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でも面白くなります。(小林秀雄氏談) 小林秀雄氏の言葉で、もっとも腑に落ちた言葉が上記だ。そういえば僕も最近好きになった作家は、全て作品からではなく、作者本人に興味を持ち、作者自身を好きになるところから始まっている。ドストエフスキーも、村上春樹氏も、五木寛之氏も、ニーチェも、三島由紀夫氏ですら、みんなそうだったと今回改めて気づいた。 作者自身に興味を持てれば、たとえ読んでいる作品が難解であろうと、少し無理をしてでも、分かりたい、理解したいという気持ちが上回る。そして読了すれば、僕が興味を持つ作品は、基本名著と言われる作品が多いので、何かしら感銘を受ける箇所がある。そうすると、自然とその作者のことをもっと知りたくなる。知りたくなれば、別の作品を読んでいる。別の作品から新たな気づきを得られると、気づいた時にはその作者を今までよりもよりも好きになる…。という好循環で回っていく。改めて再認識したことは、その作者自身のことに興味を持てるかどうかが、全てなんだなと改めて思った。 (ドストエフスキーとトルストイの違い) 小林秀雄氏は、トルストイの「コサック」という作品が、その後のトルストイの方向性を決めたという。コサックの鮮やかさというものは、正直な目から出てくるものだという。ああいう文章は、ドストエフスキーには書けないという。ドストエフスキーには、ああいう正直にものを見る目がないのだという。トルストイの目には、健康で明瞭で、廻り道や裏道が一つもないのだという。それが美しいんだと。 また別の視点から二人を比べている。 ドストエフスキーは無明の達人だと。無明の極がトルストイよりもよほど濃いんだと。だからトルストイは「懺悔録」なんてものを書いているが、ドストエフスキーには懺悔録なんかないのだと。トルストイには、痛烈な後悔があるが、ドストエフスキーに言わせれば、自分の苦痛は、とても後悔なんかで片付く簡単な代物ではないと言う。そういうところが、ドストエフスキーとトルストイの違いなんだと。だからトルストイは生きるか死ぬかのはっきりとした戦闘をして、最後にやられるのだという。ドストエフスキーはそれを看破していたのだと。 宗教の問題に、あんたみたいに猪武者みたいなやり方をしていては駄目だぞということを、「アンナカレーニナ」を書いた頃のトルストイに言っている。ドストエフスキーは宗教体系に関して、もっと複雑で、うろうろ、ふらふら、行ったり来たりしている。トルストイは、合理的といえば合理的だが、懺悔録などというものを書くタイプの男は、大体そうなんだと。だから遂に、がたっとくるのだという。ドストエフスキーには、そういう要素はない。苦労の質が全く違うんだと。あの人は政治犯で、青年期に一旦死んで、また生まれてきたような人間だから。 上記の二人の違いを読んで、まだ一度も読んだことがないトルストイに興味が出てきた。次に海外文学を読むとすると、トルストイを読むだろうなと。元々「アンナカレーニナ」と「戦争と平和」の2作品は、遅かれ早かれ読もうと思っていたのだが、小林秀雄氏のドストエフスキーとトルストイの対比は、忖度なくめっちゃ面白い。この部分を読むだけで、文学好きの方は、この本を読む価値があるのではと、思ってしまった。 (岡潔氏のいう情緒の理想) 私が環境にこだわったのは、家庭に子供が育つということは、その家庭の雰囲気が非常に子供に影響すると思ったからなんだ。「愛と信頼と向上する意志」大体その三つが人の中心になると思う。それが人の骨格を形成する。しかし、生まれて自分の中心を作ろうとする時期に、家庭にそういう雰囲気が欠けていたら、恐ろしい結果になるであろうと、脅かしているのだという。そこで、私が言う情緒とは、人が生まれて育つ有様を見ていて、それがわかると、人というものもかなりわかるのではないかと言う。 赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。その頃では、まだ自他の区別がない。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかしながら、親子の情というものはすでにある。あると仮定する。既に母親は別格なのだ。自他の別はないが、親子の情はあるのだという。そして時間というものがわかってくるのが、生後32ヶ月過ぎてから後なんだという。 そうすると、赤ん坊にはまだ時間というものがない。だから、そうして抱かれている有様は、自他の別なく、時間の概念すらない、これが本当の“のどか“というものだ。それを仏教では「涅槃(ねはん)」という。世界の始まりというのは、そういう状態なのではないか。 そののち人の心の中には、時というものが生まれ、自他の区別ができていき、森羅万象ができていく。それが一個の世界が出来上がることだと思う。そうすると、“のどか“というものは、これが平和の内容だろうと思うが、自他の別なく、時間の概念がない状態だろう。それが何かというと、「情緒」なのだ。だから時間、空間が最初にあるという、キリスト教などの説明の仕方では分からないが、情緒が最初に育つんだという。自他の別もないのに、親子の情というものがあり得る。それが情緒の理想なんだと。矛盾ではなく、初めにちゃんとあるのだと。そういうのを情緒と言っている。私の世界観は、つまり、最初に情緒ができるということだ。 →この一連の文章を読んで、多分このことが、岡潔氏がこの本で最も訴えたかったことなんだろうと思った。正直このことを、心理学者や自己啓発本なんかで言っていることであれば、半信半疑でしか受け止められなかったであろう。だがこのことを話しているのは、「多変数函数論」という難しすぎて、世界中の数学者が匙を投げた難問を、たった一人で解き明かした、数学の天才が話していることに、妙な信憑性を感じてしまう。そう、数学と正反対である情緒に、ここまでこだわるのは、何かよっぽど岡氏を惹きつける魅力があるのであろう。少しでも岡氏の頭の中を覗いてみたくなった。なので、次は予定通り岡潔氏の「春宵十話」を読みます!

    90
    投稿日: 2023.07.01
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    岡さんは、恥ずかしながご存知なかったのですが、もっと難解かなと思っていたが、以外と砕けた感じで、楽しめました。

    5
    投稿日: 2023.06.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

     蔵書を断捨離するなか本著を目にして再度読んでみた。  小林秀雄は東大仏文科を卒業しているが理系の知見も大変よく勉強していることがわかる。この対談(というか雑談)は小林のリードによって進行され岡潔はそのつど思いを語っている。  岡潔の著作は読んだことはないが「こころ」とか「情緒」といった内容で書いているとのこと。機会を作って読んでみたい。  何はともあれ、本著は小林がどんな相手でも整然と対談できる知の巨人であるその一端に触れられる一冊だ。

    2
    投稿日: 2023.05.23
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    面白かった。所々、難しいところもあったが、それも含めて楽しく読んだ。1965年の対談だが、古さは感じない。お二人がご存命であれば、現在の日本、世界をいかほど嘆いたことだろうと思う。長くは語られないが、ふとしたところにハッとするような見方や考え方が散らばっていて、それを見つけた時の楽しさも感じた。

    4
    投稿日: 2023.05.10
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    理解が及ばない次元の対話なのか。またいつか読んでみたい。 ・無明の人への眼差し ・自然科学は破壊のみなのか

    1
    投稿日: 2023.04.29
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    この本の価値を理解する力がまだ私にはない…。ところどころなるほどと思う会話はあるし一応文字面では理解できるけど、天才2人の意図する全容を理解するには全然足りてない感じ。何度も繰り返し精読する必要がありそう。(そしてたぶんその価値もある本)

    1
    投稿日: 2023.04.25
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    このレビューはネタバレを含みます。

    トルストイやピカソが無明の達人だったと言う。その2人は芸術でもって自分が何者か追求した。本居宣長も学問という体型に縛られていない1人である。 一方、岡と小林、そしてアインシュタインは、学問でもって自分が何者か追求したが、どうしても科学では限界があった。2人より先にアインシュタインはそれをわかっていたから、2人とも「アインシュタインは偉い」と言って同情しているようだ。 だからこそ、2人ともピカソやトルストイのような無明の達人に憧れを持っていた。むしろ羨ましがっているのかもしれない。

    2
    投稿日: 2023.02.28
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    対談だから読むのは容易い、でも内容を理解するのは難しい、そんな本。共感するところも首をかしげるところもありましたが、読んでいて何より感じたのは安心感。最高の知性である二人のおじさんが様々な事柄について哲学的に語り合う風景は頼もしく、憧れてしまうものでした。

    1
    投稿日: 2023.02.28
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    難しい所も多々あったけど 読み切れた 難しい所も多々あったけど また読み直したい 素読教育の必要については 全く同意 市リユース文庫にて入手

    2
    投稿日: 2023.02.24
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    特に岡潔さんの考えがよく見えて学びになった 数学は知性の世界だけではなく感情を入れないと成り立たないという考えが印象的だった 知らない固有名詞が多くピンとこないところもあった

    0
    投稿日: 2023.02.13
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    高名な数学者と批評家の対談。読み始めは昔の知識人に良くある断定的な物言いが少し鼻についたものの、専門や知識の異なる二人による見解の表明と説明、意見の違いや解釈の同意など、会話の中でお互いの理解が進みながら続く様子が小気味よく、興味深く読むことができた。理論に矛盾がなくても感情が納得できない学問はだめだとか、政治理論や政治形態が先にあって人間を当てはめてゆくと先がないとか、二人の人の心を中心に置く視点の鋭さに魅了された。

    2
    投稿日: 2023.01.18
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    難しい(悲)「日本史上最も知的な雑談」後ろ書きより。ホンマに知的すぎる。最後まで難しかった。知の巨人の対談。 平成22.3.1発行

    0
    投稿日: 2023.01.01
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    50年以上も前の対談なので彼らが生きていたらいまの日本をどう見るのか気になる 神風特攻隊を挙げて日本人は小我を自分だとおもわない民族といっているが、いまではあれはヒロポンで覚醒状態だったというのが定説である 難しい話も多いがこの本も考えるヒントになることも多い

    14
    投稿日: 2022.12.31
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    背表紙に「文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談」とあるが、天才すぎて何言ってるか全然分からず、途中で断念… ちーん…(−_−;) したがっていつものように評価なしです。

    11
    投稿日: 2022.12.02
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    数学者と文芸評論家の対話をそのまま文章にしている「だけ」なのだが、余りにも多くのヒントやアイデアが散りばめられていて、自らの読むタイミングや心情によって光って見える箇所は変わってくる。そんな感想。 砂金が流れる河のような名著。何度でも読もう。 数学は情緒。

    1
    投稿日: 2022.11.27
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    数学者の岡潔さん、批評家の小林秀雄さんの対談集。対談だから、読みやすいかな、とも思ったのですが、やはり難しいです。情緒とは、学問とは、アインシュタインから哲学まで、話題は多岐に渡ります。図書館の本だったので最後は流し読みしてしまった。再読したい。

    10
    投稿日: 2022.10.16
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    小林秀雄と岡潔の教育や学問に対する考え方に共感した。 現代の教育は競争や利益に主眼を置き、人間の情緒を無視して、ただ癖をつけるものになってしまっている。 私自身、競争に勝つため、目の前の利益のために知識を自らに上書きする勉強をしてきた。 その結果自分の感性、考えを疎かにするようになってしまっていたことに違和感を覚えていたため、とても響いた。 下心を抑え、ただ純粋に事物と向き合い、自然と湧き立つ自らの情緒を大切にしたいと感じた。

    2
    投稿日: 2022.08.25
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    異分野の二人の知の巨人の対話集。 批評家の小林秀雄(高校の教科書でお会いしました) 数学者の岡潔(日本数学史上最大の数学者・文庫の紹介文より。「数学する身体」の森田さん敬愛する数学者ですね。)というお二人。 ページ数は150ページくらい程。時間をかけて(かかってしまったのだけど)言葉を追いました。 ピカソやゴッホ等芸術について、ドストエフスキーやトルストイ等文学について、日本の教育、果ては日本酒のお話まで多岐に渡る雑談集。高尚な会話を楽しむには力量が足りず。ただ、お二人とも決して難解な言葉を使わず、ご自身の思想を柔らかく語り合っています。 岡潔先生は、日本民族としての性質を大切にされているようです。そして情緒という感性を重要視されており、ご自身の数学的世界を情緒に基づいて創造したと言われています。西洋的な自我、自己を中心とした自己について、又、理論や体系について否定的のようです。現状の積木細工の様な研究に危機感をお持ちでした。 情緒が先に育つ。満足には感情が必要。など、数学の世界に止まらない、知ることへの楽しさを示唆されているようです。 小林先生は、批評家の仕事を、考えるより言葉を探している。言葉に力があり、言葉が言葉を産む。それが文章になると。とても、正確な表現と思います。 お二人の著作を読んで、もう少し理解を深める事ができればと思います。

    34
    投稿日: 2022.08.21
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    恥ずかしながら、学生時代数学が不得意であった私は、岡潔さんのことを知らなかった。数学者であることを知り「論理的な堅苦しい話をする方だったら嫌だな…」と思いながらも、小林秀雄さんとの対談という点に惹かれ、ページをめくった。 数ページ読むとその懸念は吹き飛んだ。 巻末の茂木健一郎さんの解説の言葉を借りると「繰り返しそれに接しても飽きることがないという意味において、『人間の建設』は一編の「音楽」に似ていると言ってもよい」…まさにそのとおり‼︎ とりわけ岡潔さんの言葉に深く共感し、また、お二人が交わされた言葉の美しさにため息がもれた。  ひと昔前の対談ではあるが、じっくりと考えることをおざなりにして忙しなく生きがちな私たちに、何かしらの気づきを与えてくれる本だと思う。 手元におき、何度も読み返したい一冊となった。

    1
    投稿日: 2022.08.10
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    何喋ってんだかさっぱりわからない。二人が意気投合してるのかしてないのかもよくわからない。いちいち遠まわしというか、その説明にその言葉いる?って思う。のに、ずっとこの雑談について考えている。美しい文章を生むってどういうことなのか。 私たちは人に結果や有り様を正確に、そっくりそのまま伝えることを重視した教育を幼いころから受けている。すごく好きなネットラジオで言っていたことなのだけど、どうしたらうまく伝えられるかを考えたとき、まず最初にすることは「説明を省く」ことなんだそうだ。実生活ではもちろんそうあるべきだとは思うんだけど(というかオタク特有の早口で全部説明するやつをそろそろやめたい…と常々思ってる)それって「美しい文章」を生むためのプロセスとしては初期段階に過ぎなくて、小林秀雄さんのおっしゃる通り言いたいことずばりそのものよりも先に言葉が生まれて、その言葉を母としてさらなる言葉が生まれ、それがつながっていって文章になる。みたいな流れこそ「美しい文章」が生まれる瞬間なんじゃなかろうか。(偉そうに語っているがぶっちゃけ自分でもあまり意味わかってないですすみません) 小林秀雄さんといえば坂口安吾の短編集で出てきた能の批評での「美しい花がある。花の美しさというものはない。」の言葉を思い出す。マ~~~~ジ意味わかんない。でもずっとその文章について考えてしまう。(花の美しさというものはない、「決まった美しさ」などないという意味??どゆこと???だれか説明してくれ)そんな浮世離れした名文を書いたかと思えば、「私は人というものがわからないとつまらないのです。誰の文章を読んでいても、その人がわかると、たとえつまらない文章でもおもしろくなります…」と言っている。(その後もとても興味深いことをおっしゃっているのだけど)これ、作品そのものよりも作家について知りたいと思って映画や本見ながらWikipediaで作者について調べちゃったりする私とか、YouTubeとかで作品の年表並べて作家自身について批評したり考察している人たちと割と近いこと言っているな、と思って面白くなった。また小林さんは批評について「高みにいて、なんとかかんとかいう言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。」とも言っている。私たちは、素人が好き放題「批評」と題してコンテンツに対しあーだこーだ気軽に言えちゃう時代に生きている。創作者でもなんでもない私からするとそれはそれでとってもハッピーだしネット最高!なんだけど、心から創作者の身になって考え、手探りで作品に対して言葉を探すことこそ真の批評なんだと、日本を代表する批評家がおっしゃっている。でもそれって批評だけじゃなくて、人とコミュニケーションを取る時全般に言えることなんじゃないかな、と私は思った。 タイトルの「人間の建設」については結局どこのテーマのことを言っているのかこれまた私は完全に理解できていないと思う。でも、心に残ったのが「数学でも批評でも何かを創作する上で大事なのは情緒であること」という点。何かに触れて感情が動く。まさに情緒こそ情熱や直観を生み出し、作品を生み出す原動力となる。「人の心」が建設、創作をする上で鍵となるよ、とヒントをもらったような気がした。

    1
    投稿日: 2022.08.09
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    天才と呼ばれるような人たちの仕事のなかには、こんなにも情緒が入り込んでいるのかと感嘆し、それと同時に少し親近感を感じた。 岡も小林も、やはり私たちと同じ"人間"なんだ。

    2
    投稿日: 2022.07.31
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    対談のレベルが高すぎる、、雀の涙ほどしか理解出来なかった。深い事言ってるんだろうなぁとフワフワ読んでたらいつの間にか読了。再読したい。

    2
    投稿日: 2022.06.15
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    2人が行った雑談を取りまとめた1冊。 ただその雑談をしたのが、小林秀雄氏と岡潔氏。 あらゆる方向に話が進んでいくが、お互いがきちんと雑談を続けられている。 その理由は、それぞれが図太い幹のようなものを持っていて、そこからあらゆる方向に枝が伸ばせている感覚を得た。 こんな雑談が出来ると楽しいだろうなーと。 読むたびに毎回新しい感想を持てそうな1冊。 特に読みたい本がない時に、ちょこちょこ読みながら自分をアップデート出来そうな1冊。

    3
    投稿日: 2022.06.12
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    難し過ぎた。ほとんどわからなかったが、気づいたことを記す。 岡潔がたびたび主張する、「数学は情緒でやるもの」という考えを昔は格好いいなと漠然とした憧れを抱いていた。 私も大学に入り、学問をするようになってから、少しだけこの言葉の意味がわかり始めた。 思考と感情は両車輪のようなものだ。 例えば、頭では分かっていたとしても心では納得できないことがあるだろう。逆に感情を優先するが故に理性的な判断ができない時がある。 そうした頭と心の相違が成長の兆しであると思う。 思考と感情は互いに影響しあっているのだ。 この本では、岡潔が「数学は理解していても好きでなければできない」と言っている。 理系の学問では、感情論を考えてはならない。 しかし、学問は人間がやるものなのだから、決して感情は無視してはいけない。 感情があるからこそ、学問は発展してきたのだろう。

    1
    投稿日: 2022.05.31
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    神本! 数学者と批評家という一見すると全く違う分野を進んだ方々の対談なのに、こんなにも共通点がある。 何かを極めようとするとき、深く、広く、色々なことがつながっていくのだろうか。 夢を追おうとすると孤独を味わうのと同時に、先人偉人が通った道を所々に見つけて「こっちでいいのかも」と次の一歩を踏み出す勇気をもらえることがある。 読んで良かった!

    5
    投稿日: 2022.02.17
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    深い叡智を垣間見た思い。 5回読んでも本当には理解できないと思う。けれども、理解できなくても5回読む意味があると思う。そういう印象の本。でも、いつかできることなら理解したい。

    1
    投稿日: 2022.01.21
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    近代批評の祖と呼ばれ、文系の頂点に君臨した小林秀雄と、日本史上最大の数学者の岡潔が1965年に行った対談を書き起こしたものである。その対談から60年近くが経過し、両氏が逝去してから約40年が経った現在、本書を読む意義が高まっている。 本対談でとりわけ注目されたのが人間や学問の根底にある「情緒」と当時の日本社会への憂いである。知的なものや功利主義に対するアンチテーゼとして掲げられた「情緒」は「もののあはれ」を忘却した日本人へ警鐘を鳴らしている。 IoTだけでなく人までがシステム化されつつある現代日本、何もかもが均一化され合理化が目指されるこの世界で何が大切なのか。それを知るためのヒントが約60年前の本対談が示している。

    1
    投稿日: 2021.12.07
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    面白かったところをざっくり羅列します。 p29「修士をでなければ論文に書かれている内容すら理解することのできない今の抽象的な数学はつまらない。」 数学が奇形的な発達を遂げたせいで、敷居がどんどんと上がり続ける現状を憂う岡潔の心が伝わってきた。 p85「だれの文章を読んでいても、その人がわかるとたとえつまらない文章でも面白くなる。」 小林秀雄の文章論。何をいうかではなく誰がいうかの原則は当時からあったのだと思った。必ずしも文章を書く際に上手いレトリックや言葉遣いをする必要はないのだと思った。僕も文章を読めば誰が書いたのかわかる文章が好きだ。 p90「首の必要のない文章」 途中まで書いたはいいものの、それを完成させなくてもよいと思う文章について小林秀雄が述べたもの。 ギリシャの彫刻が首がなくても美しいように、最後まで書かないことで収まりが良くなるという逆説が文章にもあるのだ。 p104「全体としての1」 岡潔の身体論、というより人生訓。数学が扱う概念は、それこそ数字の1ですら形而上の、実際に存在しないものだ。 だけれど僕たちはなんとなく形而上の1を理解することができる。それは生後18ヶ月まででなんとなく体得したからだと岡は言う。 人間が立ち上がろうとしたとき、全身400かの筋肉全部が統一的に動く。一つの身体でありながら筋肉全体を連動させている。人間の個というのは、individual、これ以上分割できないものであるけれど、それでも全体の中の一つなのだという考え方。 その哲学が、生き方が数学にも敷衍されているから岡潔の文章は面白いのだろう。 p110「自分の確信したことしか話さない」 岡潔は確信したことしか書かないという小林秀雄の指摘。 学者は学説や知識を書く。しかし確信したことは書かない。人がなんと言おうと自分はこうとしか思えないという直観めいたものが文章に表れてこない。そしてその文章は面白くないと小林はいう。 僕は以前インターネットで検索上位に食い込むためにSEOという手法を用いて文章を書いた。しかしその時、書いてて全く楽しくなかった。自分が思ったことではなく、ネット上の人気を取るために口当たりの良い言葉を選ばなければならなかったからだ。 p117「わかるということはわからないと思うことだと思います」 岡潔の哲学として、人間が「わかる」ということは原体験の中で体得した「情緒」、つまり一人の人間が森羅万象と繋がっているというぬくもりのようなものをもう一度獲得することなのだと説く。 以前、ハイデガーか誰かが理解することを「一度覚えたことを掴み直す作業」だと定義していた。岡の考えはそれに近いと感じる。 p129「数学者自身が満足するかどうか」 数学が成り立つためには、その数学体系に矛盾がないことが証明されるだけではいけないと岡はいう。 その体系を各々の数学者の感情が満足していたかどうかがより大事らしい。 数学は知的に独立したものではなく、知を説得せしめる情の力が優位であることが明らかとなってきている。 p134「人為的なことをやめ、原体験に立ち返る」 成長するにつれ習得してきた人為的なもの(この文章では定義されていないが、おそらく仕事や損得の絡む人間関係とかのことだろう)をやっていると人間は弱ってくると岡は言う。 それに対応する小林の意見はこうだ。 芭蕉は「不易(ふえき)」という概念を提唱した。詩人は、幼児期を思い出すことで詩的言語を作り出すのだという。記憶というものは誰でもめいめいが持っていて、伝統や民族を否定しようが必ず持ち合わせているものである。記憶は勝手によみがえる。記憶が勝手に幼児期の懐かしさに連れて行き、人々に感動を与える。それはおそらく自分の意志とは違う。そういうふうに記憶に連れ去られ、原体験に立ち返ることが芭蕉の考える「不易」なのだと小林秀雄は語る。 適度に記憶に従って立ち返ることが人間にはどうしても必要なのだと僕は思った。 『ニューシネマパラダイス』という映画は、それ自体がノスタルジー映画でありながら「ノスタルジーに囚われるな」という警句を掲げている。 ノスタルジーが人間の強度を保つものだ、という岡と小林で共通する感覚は理解できる。僕はそれに付け加え、適度なノスタルジーへの頻度と進入角度を探る必要があるのだと思う。 p140「その人の気持ちになってみるというのが批評の極意」 小林秀雄の気持ちがこもった発言であると思う。 小林は特攻隊について文章を書くことを例に挙げて説明している。 特攻隊を扇動的なイデオロギー、政治の犠牲者とする文章は観念的であり、特攻に飛び立つ気持ちに対する想像力が失われてしまっている。 特攻隊の身になって(それが実際に不可能であるのは承知の上で)考えてみると、だいたい言葉というのはぱっと浮かんでこない。 それでも言葉を見つけようとするのが批評行為だと小林は言います。 これを作品の批評に敷衍して僕は考えてみます。 普段、作品についてアウトプットをしている時、どうにも言葉が出てこない瞬間というのがあります。 特にそれが感動を伴うものなら尚更です。自分が感じたことは確かに心の中にあるのに、その言葉が出てこない。 そんな時、自分から離れてその作品を見た人一般へと想像力を広げるのが批評の極意なのだと思いました。 p178「脳科学的に見た時に、創造するというプロセスは思い出すことに似ている」 解説を書いている茂木健一郎の主張でなかなかノスタルジーを考える上で面白いなと思いました。 曰く、「思い出す」という行為と「創造」という行為はどちらも前頭葉の回路が中心になって行われるそうです。 前頭葉を使って、過去に経験したことを「思い出す」、そしてその思い出した記憶を自らの経験と繋げることで「創造」する。ノスタルジー、記憶を「思い出す」ことは自分の意志とは関係なしに起こることであり、その意志とは離れた行為が「創造」を生み出している。そう考えると、人間がなぜノスタルジー好きなのかもわかってきます。ノスタルジーは人間を「創造」によって作り替える原動力になるとも言えるからです。 この本のタイトルは『人間の建設』ですが、人間が新しく「建設」されるために、過去のノスタルジーを適度に取り入れることが求められているのだと思いました。過去のノスタルジーが新しい創造を連れてくることこそ、過去の記憶と結びついて離れることのできない人間の特質だと思うのです。

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    投稿日: 2021.11.01
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    自分にはまだ難しく、内容を理解しきれなかった。 ただ、数学にも感情が影響するというのが興味深かった。

    0
    投稿日: 2021.08.02
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    内容は読み応え十分でありながら、テンポよく話が進んでいく爽快感。一気に読み切ってしまうものの、読後感が半端ではない。自分もこれくらいのスピード感で話ができたらなぁ、なんてしみじみ。 さて本書は、数学者岡潔と批評家小林秀雄による対談を書き起こしたもの。 身の回りのことから専門的な話まで、知らない視点や物事が散りばめられている。 天才たちの頭の中を覗き込みたい人、目の前のもやもやから少し距離を置きたい時におすすめ。 以下、ネタバレを含む要約と感想。 本書は、数学や文芸のみならず音楽や日常の一コマや友人や‥色々な切り口から話題を広げているが強調されていることは以下のように受け取った。 ・無明(無知)を知ることの大切さ ・無我の重要性 ・知情意 また、茂木氏の解説では ・生きることの本質は不断なる生成 と結ばれている。 知らないということを知ること、分かるということは分からないということを知ること。 無我夢中で没頭しながら、何かを作り出す時には自分を主張するのではなく「物」を書くこと。答えるだけでなく問いを作り出すこと。 知情意、情(心の動き、情熱)があり、知力と意思があること。 そしてそれらは、生きている人間は人間になりつつある一種の動物として、不断の生成をしていること。だからこそ一つ解決すると次の課題が生まれてくること。 分からない世界や目を覆いたい内面を受け入れて初めて、世界が広がるというのは過去に後悔ばかりな自身としては、心地の良いだけではなかった。ただ心地の良いところ、自動的にほどよく在れるところだけを求めてしまうのは、多分違うのだろう。一方で帰る場所も必要で、それを耕していくことができたらと思う。人の数、虫の数、植物の数だけ、知らない世界がある中でそれでもなお、知ろうとすらために必要なのが呼びかけであり、問いなのだ。 だからこそ、問いをつくることの難しさも感じるし、人により問いの切り口に難易度があるのはある種の救いでもある。 また、著書の中で岡氏が話す、行き詰まるから発見するのです、ということも「できることだけをやらなくてもいいんだ」と心を軽くしてくれる。(とはいえ、できないことだけをやるのもまた違うのだろうが) そうやって世界にあろうとするときに、情はエンジン、意は目的地、知は運転技術みたいなものなのかもしれない。 冒頭、2人は世界の知力が落ちていてると述べている。知力は知力だけでは磨かれないし、あまり意味もない。その裏には実は情や意が迷子になっているという点もあるのではないか。 よく今を不確実性の高い時代というが、逆に本当の意味で不確実性が低かった時代なんてなかったと思う。 歴史として振り返った時に、たまたま穏やかそうに見えただけ、たまたま政権が変わらなかっただけ、ただそれだけなのではないだろうか。 逆にもっとスケールを変えて眺めてみると、地球が爆発してないという点では特段大きな変化がない時代を過ごし続けているとも言えるかもしれない。(これは完全に脇道) なるべく嘘偽りなく、見栄もなく、これまでの後悔も嬉しかったこともひっくるめた過去を受け入れて、行き詰まったらあと一歩なのだとしっかりと踏みしめて、情にまっすぐに、意を確かめながら、知を磨き続けながら、生きていけたらと思う。

    2
    投稿日: 2021.06.20
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    目次 学問をたのしむ心 無明ということ 国を象徴する酒 数学も個性を失う 科学的知性の限界 人間と人生への無知 破壊だけの自然科学 アインシュタインという人間 美的感動について 人間の生きかた 無明の達人 「一」という観念 数学と詩の相似 はじめに言葉 近代数学と情緒 記憶がよみがえる 批評の極意 素読教育の必要 注解 「情緒」を美しく耕すために 茂木健一郎 本書は『小林秀雄全作品』(新潮社版第六次全集)より、「人間の建設」およびその注釈部分を底本とした。

    1
    投稿日: 2021.05.28
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    時間とは情緒のようなものである。 言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときに人は熱心になる。それが情熱。 愛と信頼と向上する意志。その3つが人間の中心。 言葉無しには何もできない。思索は言葉、言葉にする。 人は勝手に記憶が蘇る。 その人の身になる。 思い出すことにより、ヒトは創造できる。 良い問題を出すことが大切だ。答えが見えるような。 自分の中で確信できるものは何か?確信することが大切。 じっと1つのことをやり続けると、見える世界がある。(例:小林一茶の雨の音) 大きすぎる問題にヒトは気がつかない。

    1
    投稿日: 2021.03.09
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    小林秀雄と岡潔の対談。対談というより雑談のような様相で、トピックも雑多であり、両者が前提となる知識を共有していない場面も見られる。これを読んで何かを学べるような類の本ではないが、幅広いトピックについての極めて抽象的な議論が心地よく、楽しく読むことができた。また、議論の抽象性ゆえに自身の知見や経験が想起されることも多く、考えを深めることができた。あくまでただの雑談にすぎないためコンテンツの希少性と意義の観点からこの評価としたが、教養のある友人と語り合うのが好きな人は心から楽しめるであろう。

    1
    投稿日: 2020.09.14
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    問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだ。 また、読みたい。何度読んでも味が出てくる。

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    投稿日: 2020.08.10
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    なぜ読んだ?: 小林秀雄の『読書について』を読んだ後に、「新潮文庫の100冊」を眺めていたらこの本を見かけた。岡潔の名前も大数学者として聞いたことがあったため、この二人が対談するとどうなるかと興味が湧いた。「有り体にいえば雑談である。しかし並の雑談ではない。文系的頭脳の歴史的天才と理系的頭脳の歴史的天才による雑談である」というamazonでの紹介文にも心惹かれた。 図書館で小林秀雄全集を見かけた時に、この『人間の建設』が収録されている巻を借りてきて読んだ。 感想総論: ある分野に対する専門性と、幅広い教養と、それらに裏打ちされた深い思想や人間的知恵が伺い知れる対談内容だった。 岡潔が昔の知・文化は良かったと主張し、小林秀雄がそれに呼応して意見を述べるパターンが多かった。この点については「年寄りの懐古話じゃないか」と首を傾げる人もいるかもしれないが、私はそれを聞くこともまた価値があることだと思っている。私たちは現代の良い点しか見ないことが多いため、年寄りの考える昔の良かった点・現代の良くない点を知った上で、現代を見てみることもまた重要なのではないだろうか。 たとえば1年前に読んでいたら、おそらく難しくて途中でやめてしまっていただろう。読んでいるときに、ここ1年くらいで自分の中に蓄積してきた文系基礎知識や理系専門知識が生かされていることを感じた。この知的雑談を面白いと思いながら、自分の持つ知識を思い起こしつつじっくり理解しようと読んでいくことができるのは、なんと幸せなことか。日本人の何%がこの幸せを味わえるだろうか。勉強してきて良かった、読書してきて良かったという喜びはここにある。文学や詩、俳句の話はまだまだわからないことが多かったので、これから知っていきたい。 感想各論: 感想各論という名で印象に残った点を取り出すことにする。 ・むずかしければむずかしいほど面白い。そういう教育をしなければならない。学問が好きになる心。 ・小我からくる醜いもの、無明。ピカソは無明を描く達人。無明を押さえればやっていることが面白くなる。たとえば雨の音の良さ。 ・個性を尊重するようでいてそれを知らないアメリカと、アメリカを真似する日本 ・数学も抽象的、観念的になっている ・ベルグソンVSアインシュタイン。結局思想と科学の時間観念の違いである。 ・感情的に矛盾するとしか思えないことを矛盾がないと示した。アレフℵとアレフニュルℵ0の中間のメヒティヒカイト(濃度)は存在しないbyポール・コーヘン ・人類の福祉に貢献した進化論。 ・自然科学は破壊しかしていない、建設をしていないという話。これは聞いたことない視点で面白かった。 ・物理も、物理的公理体系ではなく哲学的公理体系になってしまった。 ・科学的な"図"を描いているだけなのに、言葉として受け取り、意味を見出し、人生観や思想として受け取ってしまう!非人間的な量に人間的意味を見出してしまう!諸法無我であるように、科学も無我であることを教えないといけないね、という話。これは非常に共感できる話だった。進化論や量子力学で起こった大激論や、科学を価値判断だと勘違いしてしまう話と共通してるね。 ・作っている人がわかると、駄句駄文も面白い。 ・数学者岡が、情緒を重要視しているというのが非常に印象深い。 ・岡の「一」についての考えは、理論の裏付けのないヴィジョンだが、大変面白い。こういうところから新しいものが生まれてくるんだなあと思った。確信が出ている。 ・数学者もまずは言葉で考えている。 ・解析学の発展の話で、複素関数論の話をしていた。ちょうど勉強していたところだったので深く理解しながら読むことができた。 ・不易流行の意味。

    1
    投稿日: 2020.07.16
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    小林秀雄と岡潔、庶民の目線から見れば理系と文系の頂点に位置づけられるような二人の対談です。 この二人の間に交わされる議論は、理系文系なんていうつまらない枠組みを突き抜けて、言葉と情の世界を渡り歩きます。 なんといっても、両者ともに智を愛しているなと言うことがすっかりわかる。フィールドが違えど、同じものについて話すことができている理由はここにあるのでしょう。 加えて、数学の天才・岡潔がこれほどまでに言葉と情の人であることに驚きます。今の世の中の人が思う数学者像とはかけ離れた、本当の知識人であることが伺えます。 知を愛してやまずに長年生活を続ける人の行き着く先は皆同じなのでしょうか? 将棋の羽生さんの話を読んでも同じことを思いましたが、あるミクロな知に深く深く飛び込む力を持つ人が行き着く先にはマクロな知(真の教養)に至る扉がある、そういう風に感じられます。 その扉を潜れるような人生を送れるように努力していこうという気が湧いてきます。

    1
    投稿日: 2020.04.29
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    岡潔と小林秀雄という天才同士が対談するとこういう会話になるんだなと大変興味深い。高度な教養と知性が対談参加の十分条件であるかのように、例示や導入などの枕詞は最少に、まるで侍が真剣で斬り合っているような会話が繰り広げられる。特に岡潔の弁舌の切れ味鋭く、ときには無礼にあたるひやっとする発言もあるが、当人たちはその応酬を楽しんでいる模様。その範囲も数学や文学のみならず、物理学や芸術など多岐に渡る。ベルグソンとアインシュタインでこれほど盛り上がる人もそうそういないだろう。 こういう対談はぜひYoutubeで見てみたいものだ。

    3
    投稿日: 2020.04.20
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    数学界と文學界の天才二人による、究極の雑談。 激しい“智”の応酬に小生のメモリは爆速でパンク(照)。 小我にこだわれば人類は滅びる。 草の1年が人の20億年。 勘が内容。確信しないものは書けない。 全ページに知性と名言溢れる「ヤバい」本です。

    3
    投稿日: 2020.03.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    小林 それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人はまれなのです。そういうことをしている人は本当に少いのですよ。フランスには今度こんな派が現れたとか、それを紹介するとか解説するとか、文章はたくさんあります。そういう文章は知識としては有益でしょうが、私は文章としてものを読みますからね、その人の確信があらわれていないような文章は面白くないのです。岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。 岡 なるほど。 小林 自分はこう思うということばかりを、二度言ったり、三度目だけどまた言うとか、何とかかんとか書いていらっしゃる。そういう文章を書いている人はいまいないと思ったのです。それで私は心を動かされたのです。 岡 ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。 小林 確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを言うのは、なにか気負い立たねばならない。確信しない奴を説得しなければならない。まあそんなふうにいきり立つのが常態なんですよ。ばかばかしい。確信するとは2プラス2がイコール4であるというような当たり前のことなのだ。… 岡 人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。 小林 ええ、おっしゃるとおりかも知れません。直感と確信が離れ離れになっているのです。僕はなになにを確信する、と言う。では実物のなにが直観できているのか、という問題でしょう。その点で、私は嘘をつくつかぬという、全く尋常な問題に帰すると考えているのですが、余計な理屈ばかり並べているのですよ、そうとしか思えません。 岡 躾けられて、そのとおいに行為するのと、自分がそうとしか思えないからその通り行為するのと、全く違います。

    1
    投稿日: 2020.03.08
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    古本屋でなんとなく面白そうだなと買ってみたが、正直よく理解できなかった。 ニュートン前後で時間に対する人々の考えがどう変わったのかってのが気になった。

    0
    投稿日: 2020.02.08
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    私の読んだ本は、昭和40年発行されたもので、外来語のカタカナが今と違って、新しい発見だった。例えば、エキザンプル、ソヴェットなど。哲学的、形而上学なので、理数系トークが面白かった。

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    投稿日: 2020.02.02
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    知の巨人たちによる対談。内容は多岐にわたり、数学から詩まで彼らの見解が散りばめられている。小林秀雄は受験の論文問題で見かけたことがあるが、岡潔は初めて知った。対極の分野にいる二人のように思えるが、意外な共通点もあるから面白い。 正直内容の30%くらいしか理解できなかったと思う。だけど「わかるなー」という部分はなかなかに刺さる。数学という学問がどのようなものかについての知識が皆無だったので、そういう意味では数学の組み立て方とか論文がどうとかという話題は新鮮だった。数学がただ数式の羅列ではなく言葉も重要であること、数学と詩の共通点、などなど…短いながらも内容はみっちりと詰まっているからきちんと咀嚼して理解するのに時間が随分とかかってしまった。 そして二人の対談から、世界の代表的な文学作品(ドストエフスキーとか)を読んでいるともっと面白いんだろうな、とひしひしと感じる。

    3
    投稿日: 2020.01.16
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    難しかったー!しかしためになる言葉だらけ。 この本の元となる対談は、僕が生まれる前 すなわち半世紀以上も前のものだと最後に知った 今でこそ、テレビでの文化人などの対談を見ることがあるが、半世紀前だからこそ、こんな風な対談が実現してるんだと思った。 このお二方のような、素晴らしい学者、文化人が現代に存在するのか… いささか不安を覚えるが… こんな本に出会えて本当に良かったと思った

    2
    投稿日: 2020.01.16
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       正直、読んでいる時はこの本の中でいう”直感的に”共感できないものも多々あった。論理が先行して中身が伴ってないんじゃない?とか、それって偏見に例をつけて正当化しているだけじゃない?とか。直感的に共感できないとき、直感的考えはそれに至る論理的な考えの順序を示してはくれないから、それに対してストレスを感じることが多々あると思う。直感的に共感できなくても、ただつっぱねるのではなく、その考えに寄り添ってみるという姿勢を持つことを心がけたい。  あらゆることについて博識な2人の対談を読むことで新たな見識を得ることも多かった。直感があるということは、それについて多くの時間を割いて考えたということだし、それに対する自分なりの納得ができているということだし。また読み返して後々、消化しきれなかった分を見直したいと思う。 【以下、特に印象に残った内容】 ・人は極端になにかをやれば好きになる性質をもつ。易しいことはつまらない、難しいことが面白いということが誰にでもある。 ・「七十にして矩を踰えず」(自分をしつけて一人前に知情意し、行為するようになるまで、七十年かかった)では何もできない ・個性を自己中心的な自分由来だと勘違いしている。それは個性ではなく無明という醜悪的な本能である。雨の良さは無明を抑えなければ分からない。無明は人をくたびれさせる。無明を抑えれば、自然は何をみても美しい。 ・窓を開いた人は純粋な要求を持っている。しかし純粋な要求は自我の殻。 ・研究途中のものは言葉で表せないが、出来上がれば言葉で表せる。こうやって新しい概念を積み重ねていく。言葉で言い表すことなしには、人は長く思索できない。言葉が思索を生む。 ・人は実例に出会わなければ決して分からない。 ・知性や意志では感情(直感)を説得できない。人がなんと思おうと自分はこうとしか思えないというのが直感であり、理屈はない。感情が納得しないと人は本当には納得できない。 ・本当の記憶は頭の記憶より遠くに広がってる、場所に結びついていたりする。 ・批評するとき、その人の立場になって考えること。また、自分でやった人が易しく書こうとしたのと、人のことをやさしく書こうとするのは全然違う。 ・非人間的な量に人間的な意味をつけたがってしまう。 ・ものをかく=情緒を形にする → 情緒は消え、形だけが残る ・素読は暗記するだけで意味が分からないなら無意味だという意見もあるが、そもそもそんな凝縮された言葉に普遍的な意味などない。その意味を教えること自体曖昧な教育。 ・問題を明確にせずして答えを出すのは不可能。一つ解決すると、その解決がさらに疑問を生む。それが無解決に繋がることもいくらでもある。 ・人間に可能かという問題は切り捨てればいい。視野を広げたければ広角レンズを買えば良い。 【以下、これから先本を読むにあたって】 ・個人の存在が底まで分かってはじめて、その人の残した一言一句も本当に分かる。→抜け殻に触れただけで、中身を分かった気にならないように。 ・無明を表現できる人間は、無明に迷わされた人間だし、無明の中に入った人間。なにかを表現できる人は、徹底的にそれについて知った人。 ・感じても本当には理解できないこともある。→言葉にできるほど理解できないこともあると割り切る ・本を読むとき、記述された全部を読むのではなく、そこに表れてる心の動きを読む。→言葉を全部飲み込まなくてもいい時もある。  宗教心、確固たるものがなくても、なにか残っている、曖昧な形で自分たちの中に根付いているものがあると思った。日本らしい思想というものはあるし、そういう感覚に近そうな日本の小説をもう少し読んでみようと思う。

    1
    投稿日: 2020.01.06
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    前から岡潔に関心があり、読みやすそうなので買ってみた。 なんとなく全部音読したら最後に茂木健一郎も音読していて少し驚いた。これは音読させられる対話なのだ。しかしそんなに声に出して気持ちが良い類のものでもなかった。音がすぐれた文章は他にある。しかし内容はすぐれていると思う。科学が成立するには感情の満足が必要であること、自然科学は建設はできず破壊しかできないこと、プラトンの読みやすさ、素読の価値、等等、我が意を得たりだったり納得したり楽しめた。ただ神風のくだりはすべてには首肯しかねる。 小林秀雄は徳利の友達の話をしている時が一番良かった。感情が伴うということは大切なことだと納得できた。 一番良いなあと思った文句は「すべて悪いことができあがるのがあまりに早すぎる」。

    1
    投稿日: 2019.09.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    アインシュタインという人間 について ほんとうにそうだよなぁと思った。自然科学が言っていることに対してどうにも意味づけをしてしまう、言葉として受け取ってしまう。(例ではエントロピーがあげられていたが)それが問題だと。 また、理論として正しくとも感情が納得しない(不完全性定理とか)ものについてアインシュタインでさえ苦悩していたんだなぁ、と。 この対談では感情というものが理性よりも上位のものとして扱われているように感じた。 たとえ公式の上でそうなっても、感情が頷かないと納得できない。そういう観点は普段あまり触れなかったので新鮮で面白かった。

    1
    投稿日: 2019.09.14
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    2人のハイレベルな知能もさることながら、驚くべきは知識量の多さ、それもただ多いだけではなく、分野や専門の域をはるかに超えた広範な知識の多さである。 そんな知性の巨人、岡潔が「感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです」「人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。」と言う。 ここが一番印象に残った。そのあたりの事情をもうちょい詳しく知りたい。

    2
    投稿日: 2019.06.27
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    対局と思われる分野の二人の知のぶつかり合いに圧倒された。 全体のうちで理解できたのはわずか。それも二人が考えていたこととは別の意味かもしれない。これほどまでに、次の文章が想像できない本は初めて。いつかこの対談の真意がつかめるのであろうか? 何回も読み返してみたい作品。その度に理解の度合いが違うのだろう。

    4
    投稿日: 2019.03.18
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    150ページ程度の薄い本だが、中身は厚い。 やっぱりその道を極めた二人は、人間に対する洞察力が鋭い。 本質をズバッとついてくる。

    0
    投稿日: 2018.12.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    本文を止めてでも、注釈を読むと、錯覚に過ぎないのだが、知的になった気分になる。所々知っている名前や事項が出て来て、興味を惹かれる。 僕くらいの世代には、小林秀雄はやはり格別なのである。

    1
    投稿日: 2018.10.06
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    批評家と数学者の、異業種の対談だが根底に抱えている思想は似ているんだろうと思う。なので全体を通して、意見の違いはあっても流れが同じ向きで、読んでいて気持ちが良い。 その思想と言うのは、理性ではなく情緒や共感が支配しているはずだということ。 ”方程式の上では1つの矛盾も無いが、感情的には矛盾する。それに反駁する理論が無い。” ”科学が何を語り、何を語っていないかを知る” ”人は自然を科学するやり方を覚えたのだから、その方法によってはじめに人間の心をもっと研究しなければならなかった。〜人間とは何か、自分とは何か、人の心の一番根底はこれである、というところから考え直していく。しかし、大きな問題が決して見えないというのが人間の現状だ。物理で言えば、物理的公理が哲学的公理に変わったことにも気づかない。” 偉大な数学者でも、理性が全てをまかなうことはでき無いが、愛情は理性を持つことができる、と唱えていた。今の時代は、愛情を「共感することにより生まれるもの」「直感的に把握するもの」として、それを出発点にWEBであれ何かを生み出しているんじゃ無いかと思う。 3年後に読んだら、さらに違う発見がありそうな本。

    3
    投稿日: 2018.09.09
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    「情緒」について。 はじめに情緒あり、と。 ●時間は情緒に近いのです(岡) ●私の世界観は、つまり最初に情緒ができるということです(岡)

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    投稿日: 2018.06.18
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    人は理性では動かない、やっぱり感情で動く。 情緒。こっち側とそっち側の意識が無い感情、生まれたての赤ん坊と母親みたいなもの。そんな情緒が創造を推進させるようです。

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    投稿日: 2018.03.27
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    2017年12月22日読了。Cakesの連載で見かけて読了。批評家と数学者、全く異なるジャンルの「知の巨人」二人の対談だが、専門分野に対してもそれ以外の分野に対しても、二人の豊富な知識と、分からないことを素直に「わからない」と言えて、またそれを知って自分の知識の栄養にしようという旺盛な欲望・好奇心を感じる。学習と議論を尽くさないとたどり着けない世界があって、ここまでたどり着いた人々に見える景色・持ちうる悩みとはどのように広く壮大なものなのか、を想像すると気が遠くなりそうだ…。でも、少なくともこのような本を読むことで、そのような世界があることが想像でき、その世界の一端に触れることができるのは楽しいことだ。

    1
    投稿日: 2017.12.22
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    数学者と批評家という組み合わせ。小林秀雄と岡潔。小林秀雄は知ってるけど、岡さんは知らず。とはいえ、面白い話をする人だと思った。科学のあり方に対する姿勢みたいなものは単なる数学者というより、もっと大きな印象。日本のあり方に関してとか良かった。岡潔のいう情緒とかってとても大事なんじゃないかと思う。岡潔という人物を知るきっかけになったのは嬉しい。何かいいきかっけになる対談本ではないだろうか。読んでいてとても有意義だった。岡潔という人に出会えたことにも感謝したい。

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    投稿日: 2017.12.18
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    古本屋で偶然見つけたのをきっかけに購入しました。 「なるほど、これは勉強になる。」と感じながら読み進めていましたが、何度か理解するのにつまづく場面がありました。 時間を置いて、再読するつもりです。

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    投稿日: 2017.11.12
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    こうしたひとたちが、同じ場所で同じ時間を共有するということはおもしろいようで、実はさびしいものである。何かが変わることはなく、ふたりという人間がひとりひとりであるということが否応なくわかってしまう。けれど、だからこそ、このひとでしかない、そういうことに気づかされる。小林は小林でしかなく、岡は岡でしかない。このことがなんとさびしく、また豊かなものであることか。 新潮社は、いくらなんでも解説・註釈をつけすぎである。わからないということがどうしてそんなにもいけないことか。平易で簡単であることがどうしてそんなにも大切なのか。ふたりの対話の冒頭部分のことをまるで踏まえていない。専門用語なんて問題は別にどうてもいいはずである。読んでいて註釈記号が多くてなんだかうっとうしい。 小林という人間が、書くことにおいても話すことにおいても変わらないということのは、ああやっぱりそうか、とそんな気がする。むしろそうでなければ小林ではない。あんな風にものをみて考えられるというのはやっぱり彼しかいない。確かに池田某は彼を心より愛し、尊敬し、そのことばが書き物の中に生きているが、やっぱり彼ではない。どんなに真似をしたり、同じものを呼んだとしても、彼のように考えることはできない。しかし、彼のことばがわかる。彼の心が見えて透ける。実に不思議なものだ。それゆえに、彼のことばを求めてやまない。 岡という人物は少しラディカルなひとであるように感じられた。革新的であるというよりかは沸点に至るまでがものすごく速い。沸点は決して低いということはない。むしろ高いひとだと思うが、指数関数のように、急激に一気にある一点へ達するひとだ。そこにはやはり、この島国で生きてきた、ただそれだけが彼を突き動かしている。どうしてそんなに愛してやまないのか、ぜひとも聞いてみたいところである。 お互いがわかりあうことも、培ってきた経験も分かち合うことはできないが、それを承知の上で、互いに感じたこと・思ったこと・考えたことを投げかけあい、応えていく。同じ考えにたどり着くことはない。だけど、どういうわけかふたりが反発することはない。それにはやはりどこかで通底している何かがあるからだ。つなぎとめる何者かが横たわっているからだ。対話というものは、そういうものをどうしたって感じさせずにはいられない、力がある。

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    投稿日: 2017.07.30
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    このレビューはネタバレを含みます。

     評論家の小林秀雄と数学者の岡潔が雑談する様子を収めた本。他分野の専門家同士の対談って、ともすれば他方への無理解からくるマウンティング合戦みたいなことになりがちなんだけど、この二人はちがう。互いへの敬意があるというのは当たり前として、その人のなかの学問があるところまで達すると、目指すものは似てくるのだと思う。二人とも、とっかかりは違えど「人間」「こころ」というものを見ている。だからこそ、どこか噛み合わない部分があっても、底の部分である程度共感しあえている。  次に読む本にも岡潔が重要人物として登場するので、ここでしゃべってる様子からだいたいどんな人かが分かって良かった。小林秀雄にも言われている通り、彼は本当に確信したことをしゃべっている。若干ラディカルなところもあるけど、小林秀雄がそこをスルーしつつ対談を続けているのがおもしろい。それは理論ではないがひとつのヴィジョンである、と言って尊重しているところがすごくいい。対話の作法だね。  心から出てきたものこそ真に自分らしい仕事と言えるんだろう。心から出てきたものというのが人の心をも動かせるものであることの必要条件だと思う。このことが、僕が何であれ作品を見る際の指標となった。  内容に関しては、話自体面白いのは確かだが、べつにこの二人が言っているから必ず正しいというわけでもないし、そこから勝手にいろいろ読み取ると得るものが多いと思います。 以下はメモ ・無明ということ 坂本繁二郎 ・数学も個性を失う 個性的なものに共感する不思議 ・科学的知性の限界 人が生きている時間と物理的対象としての時間 たぶん不完全性定理の話 →数学すら知性だけでは進められない(情という心のはたらきによる納得が必要!) 矛盾がないということも心の満足にすぎない ・破壊だけの自然科学 実感を離れた公理体系のなかの物理 建設をしてみせろ! ・アインシュタインという人間 科学が語るものと語らないもの 人間の勝手な拡張解釈力(ベルグソン) 問題に答えるのではなく、つくる ・美的感動について 情緒、情熱 人となりを知ってるからこその面白さと普遍的なよさ 前者は小林秀雄の感じ方の本質? ・人間の生きかた 本居宣長 論理的一貫性が絶対的なすべてではない 二十代でこれと思ったことを深める ・数学と詩の類似 理論ではないヴィジョン 確信から出る言葉! 確信と直観とがひとつになっているか? 数学も詩も、情緒のなかから出てくる ・記憶がよみがえる 記憶を背負って生きている ・批評の極意 批評とは、それそのものになること 言葉のないところまで行き、そこで言葉をみつける ・素読教育の必要 丸暗記だけがはっきりとした教育 理性は飛ぶことができない

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    投稿日: 2017.07.29
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    個性に関するお二人の考察が心に残りました。ギリシャ的な個性は小我(他の人と違うことが大切)による一方、日本的な個性とは全体の中の一部であると。人と違うことがかっこいいみたいな風潮ってありますが、そういうのは表面的で一時的なものであると読めました。あと、教育についての考察も面白かったです。古典を学ぶことは型を学ぶのと同じで、意味や感じ方などは年齢や育つ環境によって変わってくるので、とにかく小さい時に頭に詰め込んでおくべきだと。現代にも通じる考え方だと思いました。

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    投稿日: 2017.03.27
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    岡潔も小林秀雄もめちゃくちゃ乱暴なことをいってるけど、不思議とわかります。日本人が西洋を理解するのは難しいのかも。

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    投稿日: 2017.03.07
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    何を言われても滞りなく自説を展開できるのはやっぱり自分の中の価値・基準がしっかりしているからだと思う。本当の大人です。良くも悪くも自分の考えに凝り固まっていて(曰く確信を語る)、人となりがよくわかる。

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    投稿日: 2017.02.27
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    主張に同意できない点は多々あるし、数学の議論の話はさっぱり理解できないし、そもそも会話というよりそれぞれの放談といった感じもするけど、読んでいると自分の思考が論理的になってくる不思議な知的刺激・興奮を覚えてしまう一冊だった。何故これを注釈してこれを注釈しないといったものも結構あり、つけどこらがやや的外れな気がしたのは時代故かこちらの知識故か。裏表紙に「有り体に言えば雑談である。しかし並みの雑談ではない…その全ての言葉は示唆と普遍性にとむ。日本史上最も知的な雑談といえるだろう。」とあるがその通り。もしあれば音声ブックで出して欲しい。内容故か茂木氏の解説は蛇足に感じてしまった。要らなかったのでは。

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    投稿日: 2017.02.02
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    これほど静かでそれでいて厳しさを秘めた対談を読んだのは初めて。天才数学者岡の幅広い関心とその思索を平明で的確な言葉で解読していく小林の聞く力に圧倒される。「今日は飲みますよ」と対談後の宴会も示唆されている。かつて11PMという悪質番組でお互いに面識のない詩人金子光晴とボクサー輪島幸一が対談してお互いの職業を当てるという素晴らしい企画を思い出した。調べたら同時期、さもあらん。現代、こうした寓意と好奇心に満ちた対談が成立しない時代になってはしまいか。

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    投稿日: 2016.12.27