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「いき」の構造 他二篇
「いき」の構造 他二篇
九鬼周造/岩波書店
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総合評価

84件)
3.8
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    本書は、哲学者である九鬼修造が、日本特有の感覚である「いき」の構造について論じたものです。 解説によると、九鬼はあのハイデガーやベルクソンにも評価され、サルトルが家庭教師をつとめたこともあるとのこと。日本の哲学者としては西田幾多郎が有名でしょうが、日本の哲学者は彼だけではないんですね。 本書は古典的な哲学書ではありますが、例えばハンナアーレントにおけるアリストテレス哲学のように前提となる基本的知識を必要としないため、非常に読みやすいものとなっています。 そのため、哲学に興味がある方、古典に触れてみたい方、読みやすい岩波文庫を探している方など本書はおすすめです。 本書において「いき」とは、「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」という三要素で述べられています。 すなわち、異性に対する可能性を可能性として終始せしめんとする武士道的理想主義と、無常な運命を静観しようとする仏教的非現実性とにより、媚態を示しつつも漸近線のように決して交わることがないような態度を指すと考えられます。 四章以降では、着物に素足がいきであるとか、平行線、特に横縞よりも縦縞の方がいきであるとか、「いき」が の客観的表現について述べられていますが、このあたりは流石に九鬼の個人的趣向にすぎないというか、フェティシズムが大いに反映されたものだろうと思わなくもないのですが、それはそれとして、日本における「いき」というものを言語化したという点で非常に本書は面白い一冊であると感じました。

    22
    投稿日: 2025.11.10
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    第131回アワヒニビブリオバトル テーマ「コミュニケーション」で紹介された本です。 2025.9.2

    0
    投稿日: 2025.09.03
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    九鬼周造氏は「いき」の内包的構造の徴表を「媚態」「意地」「諦め」とする。そこから外延的構造、自然的表現、芸術的表現の側面から、定義を示しながら考察していく。例えば縦縞と横縞、どちらが「いき」か、など。読む前は純文学をこじらせた作家の考察と勝手に思って手に取ったが、世界的に評価の高い哲学者であり、ハイデッカーやサルトルとも面識があると知って二度びっくり。そのため内容はかなり硬派で難解。なので読み応えがある。他収録の「風流に関する一考察」「情緒の系図」も面白い。

    1
    投稿日: 2025.08.11
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    曖昧な感覚をスッキリ説明するのは難しい。それを複数の要素によって成り立つと言語化していて、なるほどな思った。諦めというのは裏返せば覚悟のことなのかもなと思った。

    8
    投稿日: 2025.07.25
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    このレビューはネタバレを含みます。

    東洋(日本)に基軸を置きながら西洋も理解したうえで、東洋の考え方の一つである「いき」について説明した一冊。 かなり難解で、一読では理解できなかった部分が多くあった。他方、「いき」の本質を言語学的な考えをベースとし、相対概念として説明するその方法については、私が外国語(の単語)を理解するうえで非常に参考となるものだった。

    1
    投稿日: 2025.03.07
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    九鬼周造 くきしゅうぞう [生]1888.2.15. 東京 [没]1941.5.6. 京都 哲学者。男爵九鬼隆一の4男として生れる。 1912年東京大学哲学科卒業。 22年ヨーロッパに留学,リッケルト,ベルグソン,ハイデガーに師事。 29年帰国,京都大学教授となり哲学史を担当した。その哲学の特徴は,解釈学的,現象学的方法を用いて実存哲学の新展開を試み,日本固有の精神構造あるいは美意識を分析したところにある。「媚び」「意気」「諦め」の3要素に分析して論じた『「いき」の構造』 (1930) はその代表的著作である。その他の著書に『偶然性の問題』 (35) ,『人間と実存』 (39) などがある。なお「実存」は九鬼の造語である。 「いき」の構造(九鬼周造・日) 「いき」とは江戸特有の美意識であり、本書で初めて哲学的に考察された。武士道の理想主義と仏教の非現実性をいきは有するのであり、非実存にして実存的である。それは西洋のように判然としたのではなく陰翳を礼賛するような、武士の切腹的な死を帯びたものである。

    0
    投稿日: 2024.11.25
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    文章が古いためか、理解しにくい そもそもいきと言った言葉を使うこともないので、その構造についていまいち理解が難しい

    0
    投稿日: 2024.10.31
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    日本の哲学者、九鬼修造の論考。 本来、感情的、直感的に把握される「いき」という日本文化の心象について構造的な説明を企てた書。 同著の「偶然性の哲学」に挫折したのでこちらを拝読。 「いき」の中心概念に「媚態」が提示されるが、これは恋愛における互いに決して束縛されることのない緊張関係として説明される。 これは恋愛する男女のみならず、あらゆる他者、概念、神、物体に通ずるものだと思った。 すべての他者は自分のものにもならないし、すべての概念を完全に理解することはできない。 神にどんなに接近を試みても永遠に届くことはない。 愛着ある文房具、食器、家具、グッズ、ガジェット、これらに囲まれると、とても幸せな気持ちなるが、同時に彼らと心を通わしたり、共に死ぬことは決して出来ない。 我々はこれらの互いに束縛されない緊張関係の中に存在する。 とてつもなく寂しい。 だが、ある種の諦めと、それでも向き合い愛するという姿勢が「いき」なのかもしれない。 その全体性が日本の美意識だったら良いなあ、などと勝手な解釈と共に思う。 追記 ・日本語が美しい(九鬼は詩人でもある) ・全体を理解するには明治期の大衆文化を勉強する必要があるかと思う(特に歌舞伎)

    7
    投稿日: 2024.09.11
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    開始: 2024/2/18 終了: 20244/30 感想 日本人に親しみのある概念。西洋の地平から眺めて構造化する。だけど実際に体験していない。だから実感できていない。意識することの難しさ。

    0
    投稿日: 2024.02.18
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    事前知識のない読書となり、読みこなしただけ。 いきとは日本民族固有の感覚であり、媚態、意気地、諦めから成っているというもの。その他情緒と風流について書かれた哲学書。美術などの造詣が深いと楽しめるのでは。

    0
    投稿日: 2023.04.11
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    『「いき」の構造』の底本には昭和五年刊の単行本を、また併収の二論文の底本には『文芸論』(昭和十六年刊)を用いた。

    0
    投稿日: 2022.10.11
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    流し読みして自分で勝手に翻訳すれば大筋は割と理解しやすい。逆にくそまじめに書いてあることを逐一理解しようとすると眠くなって読むのが苦痛でしかなくなる。って感じでした そのうえで、粋に関する具体的な体験の羅列・分析→抽象的な定義づけ→フレームワークの構築っていう九鬼さんの進行に素直に乗っからないと、文章がむずいから途中で迷子になってわからなくなるという印象。 あと個人的にはa○emaの某番組の、ちょうどいい匂わせ選手権っていう企画が、読み進める上で手助けになった気がする。

    1
    投稿日: 2022.04.07
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    頭に内容がなかなか入らなくて難しかった、、 でも読み終わるとなんとなく理解したような気がする。けど、本当になんとなく笑

    0
    投稿日: 2021.08.23
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    大学の頃の先生に勧められたので読んだ。 哲学書くらい難しいけれど、一つ一つのわからない単語を調べながら読んでいくとなんとか読める、という感じ。いきという言葉は死語になりつつあるけれど、せっかくこの本を読んでいきがなんなのかということがなんとなく分かったのだから積極的に使っていきたいと思う。 情緒の系図は頭に入りやすい文章だった。

    0
    投稿日: 2021.07.01
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    粋、野暮、雅、乙、味がある、キザ、さびなど、似ているようでよくわからなかった言葉が定義されており、日本語やその感覚を改めて感じさせられた。 「鬼才」を読んで出てきたので、気になって読んでみた。昔の文体でも気にならないならばお勧め。

    0
    投稿日: 2021.05.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    分かったような分からないような感じの本ではありましたが、明治以来の輸入文化の波の中で失いつつあった古き良き日本文化を後世に残したという意味では価値のある本であったと思います☆

    0
    投稿日: 2021.03.18
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    『「いき」の構造』は、実証性の薄い考察で、容易に肯からぬところがある。しかし、残りの2篇は、実に示唆に富む内容であり、こちらだけでも目を通すことを薦めたい。 九鬼は実存主義研究者であるが、その考え方は構造主義的ではないかと思う。

    0
    投稿日: 2020.05.17
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    平野啓一郎の「かっこいいとは何か」に触発されて読みました。「いき」とは何か、上品、派手、渋味など、似た言葉と比較して、論証していくプロセスが面白く、引き込まれました。難解な語句が多く、読みにくいところもありましたが、筆者の、多くの文献を基に論理的に主張を組み立てていく姿勢に、誠実さを感じました。筆者が哲学者であることも初めて知りましたが、ジャンルに関係なく、多くの人に読んで欲しい一冊です。

    0
    投稿日: 2020.05.05
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    序説は面白かった。言葉の持つニュアンスと比較から、言葉と民族性をつなげる。 海外の事例が「いきではない」というのはなんとなくわかるが、結局「何がいきなのなか」は、当時の感覚とは違うし、そもそも今「いきだね」とはほとんど言わないから、その場面を想像するしかない。だから、構造もなんとなく合ってそうだけどよくんからん、となる。

    0
    投稿日: 2019.10.12
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    「いき」、風流、そして情緒の構造・系譜を解きほぐそうと試みた一冊。 文体も古く難解だが、「情緒の系譜」は比較的わかりやすい。 情緒の系譜にたどりつきなるほどと一定の理解をし、あらためて「いき」の構造に対峙するのがよいかもしれない。

    0
    投稿日: 2018.07.07
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    吉田真生 「甲は甲である」という必然性よりも「甲は乙で有る」という偶然性に引かれたのが九鬼だった。 日経新聞夕刊 プロムナード 2017年12月28日

    0
    投稿日: 2017.12.28
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    こーーーーれは凄い(笑) 細い外見は、肉の衰えを示すと共に精神自体を表現している 野暮は揉まれて粋となる 粋な声についたらされて、嘘と知りてもほんまに受けて 自分には英文でも読んでるかのように難解だけど、めちゃくちゃ深いです

    0
    投稿日: 2017.08.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    出来ることならカッコよく生きたいものです。しかしながら、そうもいかないのが人の世の常。実際のところ、みっともない行いをしながらでも、生きていかなくてはならないというのが、殆どの人生ではないでしょうか? ただ、しかしながらカッコよさや美しさに憧れて、そのような振る舞いを雑多な世の中から探しだしたり、自らもほんの少しでも、そのような振る舞いが出来たとしたらこれは幸いでしょうね。 で、もしも生きるにあたって、そう望むのであれば必要な事は何がカッコよくて、どうあれば美しいのか?それをできるだけ明確にしておく事はに必要かと思います。 本書「いきの構造」は日本独特と思われる「いき」という美意識について、西洋の哲学の思考法をもって分析した本であります。 自らの美意識を決定または、探るにあたって参考になる一冊かもしれません。 筆者によれば「いき」というものは、武士道的な意気地と仏教的な諦めがあわさったものであるという事です。 こう書くと、抽象的すぎて意味不明かもしれませんが、この本ではとても具体的な例として、着物の柄である「縦縞」は大変「いき」であるとしています。 なぜなら交わりそうで永遠に交わる事のない、なおかつそれでも、離れることのない二本の線の様子が、まるで粋な男女のごとし、だという事です。 そう言われてみると縦縞は「いなせ」に思えてきますね(笑) そして二本の線というイメージから池澤夏樹さんのスティルライフの冒頭を思いだしました。池澤さんが好きだという方もここには何人かいらっしゃいますし、以前ひっつじーさんが引用してくれた事のある文章ですね。 大変、粋な文章です。 ↓ 「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。   でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。 たとえば、星を見るとかして。」 【スティルライフ 池澤夏樹】より https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/B01BBXCBAQ/ref=tmm_kin_title_0?ie=UTF8&qid=&sr= ↑ なんだろう?なんか、似てますよね。九鬼さんの縦縞粋論は男女の関係を例にしてますが、池澤さんは世界と自分の関係で書いてるわけですが、両者とも、自分がすくっとしっかり個として立ち、その上で誰かであり、世界を求める、そんなところは同じかなあ、と感じますね。 という事で、カッコ良く生きようと願うのならまずは自分がしっかりと自らの足で立つという事でもあるんだろうなあ、とこの本を読んで感じました。 2017/04/22 22:27

    0
    投稿日: 2017.07.04
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    哲学の本を読んでいたので、前よりは読みやすい。 粋な人になりたいなぁと思って手に取った。 いきとは垢抜けて(諦)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)だという。 古今東西様々な文学作品に現れるいきの例に楽しませられながら読めた。

    1
    投稿日: 2017.04.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    いき、とは何かについてが知れるとともにその研究姿勢に関しての学びも多い本。 二元的態度、という決して交わらない平行線のような緊張感を保つ媚態と、理想主義に基づく意気地、そして最後に非現実性をふまえた諦めを経ていきという美的感覚が、浮かび上がる。 それを絶妙な、筆者の言葉を借りると、「意識現象のもとに存在する」いきの描写とともに概念の解釈がなされていく。 筆者の研究態度としての真髄が「意味体験を概念自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている」という一説に表されているだろう。

    0
    投稿日: 2016.12.29
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    大正~昭和時代の哲学者・九鬼周造(1888~1941年)の代表的著作。 著者は1921~29年に欧州に留学し、パリの哲学界で若い俊秀として認められ、ハイデッガーやベルクソンからも評価を受けていたという。 著者は、「「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支ない」と、ソシュールの言語学的アプローチから、「いき」を「わが民族に独自な「生き」かたの一つ」と述べている。 そして、その日本人の生き方の美意識の基本的構造を、古典的ヨーロッパ哲学の論法で分析したのである。 著者による、「いき」の内包的な特徴・性質は以下である。 ◆第一に、異性に対する「媚態」、即ち、異性を意識した「なまめかしさ」、「つやっぽさ」、「色気」であり、異性との関係が「いき」の原本的存在を形成している。 ◆第二に、「意気」即ち「意気地」であり、江戸っ子の気概が含まれる。「武士は食わねど高楊枝」の、溌剌とした武士道の理想が生きている。 ◆第三に、「諦め」、即ち、運命に対する執着を離脱した無関心である。垢抜けがしてなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。無常等を原理とする仏教の世界観である。 更に、著者は、「いき」の芸術形式として、模様は「縦縞」、「曲線」ではなく「直線」、「絵画的模様」ではなく「幾何学的模様」、色は「鼠色、褐色、紺や藍」などと、我々のファッションにも役に立つような具体的な内容も述べている。 最近ではあまり耳にすることがなくなった「いき」という言葉であるが、ある言葉が使われなくなるということは、その言葉の表す「概念」、「価値」が失われることと同義である。「いき」の表す日本人の生き方の美意識を再認識するとともに、言葉が生まれること・無くなることの意味を改めて感じる。 (2010年7月了)

    0
    投稿日: 2016.01.11
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    二元論をベースに対立項間の緊張関係に注目する思想。おおむね面白かったけど、「自由な芸術的表現」を論じる第4章の論理は強引すぎて引いた。

    0
    投稿日: 2015.09.29
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    大学の講義(一般教養)中に紹介されたので購入した書物。 当時読了したものでレビューは今しています。 当時は雑誌でいうところのCanCamのえびちゃんなんかが流行っていたりして、今でこそ浅草上野両国好きですが…まだ文章をサラっと撫でたような読み方をしていた。「確かに江戸千代紙は縞が多くてボーダーはないですね」くらいの感覚でした。 なるほど、いきとは異性への媚態であり、意地と諦めの絶妙なバランス…確かに吉原発祥の「見栄」という言葉もそうですよね。 著者は「いき」という概念は消えつつあると嘆いているものの、最近の流行を見ると、根底には日本人は「『いき』というもの」が好きなんじゃないかな、という気がしますね。 →くだらないと言われそうだけど、最近流行した中村アンちゃんの「無造作ヘア」とか、森エリカさんが雑誌arでよく載っていた「イガリメイク」は異性への媚態がありつつも素っぽく作りこみすぎないことに重点を置いています。 (だからなんだと言われたらそれまでですが)

    0
    投稿日: 2015.09.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「いき」という概念を、内在的意味と対外的な区別との観点から論じる。 その枠組みはわかったけど、各論の議論の内容はいまいち理解不十分。 わび・さび・萌えとともに、日本固有の概念なんだろうか。 半分くらいで投げました…。

    0
    投稿日: 2015.06.24
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    「いき」という日本人(主に江戸時代の江戸の人)独特の感覚についての解説本。著者によると「諦め」と「媚態」と「意気地」である。著者はパリに10年以上滞在しているが、そこで日本人の特徴をアピールするのに「いき」を使ったというのは「いき」である。

    0
    投稿日: 2015.06.13
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    ・九鬼周造は、江戸の美意識であった「粋(いき)」の意味を哲学的に探り、恋愛にある緊張感や儚さ、近松や西鶴の描く、心の交情。その本質的なところに「いき」があると云っています。  「いきの第一の徴表は、相手に対する媚態である。  関係が、いきの原本的存在を形成していることは、いきごとが、いろごと、を意味するのでも分かる。  媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が、極限に達せざることである。  いきは媚態でありながら、なお相手に対して、一種の反抗を示す強みを持った意識である」              (九鬼周造)  まず第一に、「いき」には「媚態」があり、相手を惹き付けようとする色気こそが、いきの大前提なのだそうです。  そして、恋愛には、緊張感が大切で、いざ深い仲になってしまうと、その媚態は消え去り、いきではなくなってしまうのだそうです。  近づきたいから生まれるのが、いき。しかし、近づきすぎてもだめ……。この微妙な距離感でないと、いきにはなりません。そこで、生まれたのが、意気地(いきじ)という反抗的な態度です。たとえば、武士は食わねど高楊枝、宵越しの金は持たぬ、というどこか突き放したやり方も、いきといわれる所以です。  また、運命を受け入れる、諦めの気持ちもいきには必要といいます。  恋愛においては、相手を好きになっても構わないけれど、そのことで束縛や、未練があるなら、それは断つ(諦める)のだそうです。好きだとしても、相手に縛られるということは、「いき」ではなくなってしまう。好きでありながらも、その支配下には入らない、のが良いそうです。  この、媚態、意気地、諦観、の三位一体がいきの定義としていて、成る程と興味深いのですが、ここで、九鬼自身が実例として挙げているのを見ると、いき特有の複雑さが分かります。 (九鬼の女性観に対するいき)  「只、まっすぐ立っているのではなく、 少し姿勢を崩し、姿はほっそり柳腰。丸顔よりも、細面が宜しい。  目は、流し目。過去の憂いを感じさせる光沢。軽やかな諦めと、凛とした張りがあること。  口は、緊張と緩みの絶妙なところが好い。憂いを感じさせて、厚化粧は野暮である。  髪形は、きちっとさせないつぶし島田など、少し崩したものがいきである。  着物は揺れる物で、襟足を見せるように引き下げた抜衣紋(ぬきえもん)が色っぽい。  湯上がりのような上気した肌に浴衣を羽織って解れ髪。こういうのがいきである……」  個人的に思うのは、アメリカなどでは、胸が大きければ大きいほど良いというのがアメリカ人のエロスの考え方ですが、うなじがなんとなく、見えたり見えなかったりするのが色っぽい、エロスだ、というのは、アメリカ人の感覚にはないです。  「いいな」「いきだな」、と思う日本人の振るまい、生き方に蓄積されていったものを知れると同時に、国際的な第三者の考えでいうと、あまり意味のない「一体なにしているんだろう」、とも思ってしまいます。  直接的すぎてはいけないし、直接的じゃなくてもいけない。  かっこいいだけではなくて、けれどかっこ悪くてもいけない。そのあいだの微妙なところを歩いていくのが、「いき」であり、日本人の美徳だと九鬼は述べています。  江戸時代、江戸っ子が蕎麦の汁をちょっとしか浸けないで食べるのは、いきなことだと云われていましたが、それは確かにかっこよくもあり、また変な人だとおかしくもあります。  つまり、江戸時代の人たちのメンタリティは、外からの敵がいない状況のなか、かっこよさとおかしさが、複雑に、そして独特に絡み合い、しかもその絡み合いの概念が、「いき」と人々の間で共有されてしまっていました。それは、異分子(諸外国)から見ると、考えられない光景でした。  九鬼は、いきをさらに明らかにしようと、他のさまざまな言葉と、どんな関係にあるのかを探り続けました。  「この時のいきは何かである」と言わないで、その「何か」というのは、常に他のものとの関係性で、はじめて出てくるいきであり、曖昧なものでも、曖昧なもののまま、追求はできるのだということを、一手に引き受けて論じてくれました。  好む、や好奇心を持つなどの、「好き」は、髪を梳く、紙を漉く、土を鋤く、風がすく、透き通る、ということの「数寄」に由来していますが、この「いき」も、何となく曖昧に揺れ動く「好き」に近いです。  現代のいきは、決して日本人だけのものではなくて、色々なところに伝わって語っていける、いきな、恋心であり、いきな、かっこよさになっていけたらいいなと思いました。  

    1
    投稿日: 2015.02.25
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    「いき」の核にあるのは、見た目でもなく振る舞いでもなく二元性。 江戸のいきな人たちと同じような生活はできないけれど、現代の日本人の中にも「いき」の精神は生き続けることができる いきでありたい

    0
    投稿日: 2015.01.28
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    『「いき」の構造』 日本文化論として、その枢軸の概念に「いき」を位置づけている。 いきを中心に、差異を作ることで、いきの直方体的構造が現れてきている。 いきの内包的構造としての、三つの契機は、時間論に沿うもの。ここには、ドゥルーズとの近親性があるように思う。時間の三つの総合と、近しい時間の見方だった。ただ、未来に目的を置くあたりは、カントとの距離の取り方の違いかもしれない。 最後に、いきの概念を単に西洋の文化に適用することはできないとされてるなど、いきの概念が個別的なものにとどまっていることへ注意がされる点は興味深い。

    0
    投稿日: 2015.01.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    [ 内容 ] 日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。 「運命によって“諦め”を得た“媚態”が“意気地”の自由に生きるのが“いき”である」―九鬼(1888‐1941)は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと、こう結論する。 再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収。 [ 目次 ] 「いき」の構造 風流に関する一考察 情緒の系図 [ 問題提起 ] [ 結論 ] [ コメント ] [ 読了した日 ]

    0
    投稿日: 2014.11.10
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    最初は、そのものすごく論文的な文体に若干の疎ましさと、なんとも、言えない違和感を感じながらの読書だった。 おそらく、自分の中で予想していた、「いき」というものを論じるリズムや語彙、文体とあまりにもかけ離れていたからだと思う。 でも、しばらく読み進むうちに、だんだん、面白くなって来た。 何が面白いかというと、「いき」というある種情緒的な内容を、それとは全く異なるような次元での論調との二元性に可笑しみを感じたのだ。 書いている内容はとてもわかりすく、興味深い。 でも、その語彙や文体が、それを自虐的に妨げる節もある。 と、こうしてレビューを、まとめていて、あることに気づいた。 著者が、あらゆる角度から、「いき」に着いて論じているその要旨を一言で現せば、まさに 「二元性の同居」 なわけである。 なるほど、有る意味、この本も、「いき」なのかもしれない。

    0
    投稿日: 2014.08.03
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    「いき」とは「媚態」を根本として、それに「意気地」と「諦め」が加わった様子のことをいう。 日本独特の美意識を、哲学の言葉で明快に書き表している。 とはいえ、どんな言葉を使っても、こういう美意識をニュアンスまで完全に言い表すことはできない。このことを筆者自らはっきりと言っているところに、九鬼周造の哲学者としての覚悟のようなものが感じられる。 残念ながら現代人の私には、現実で「いき」な人やものに出会う機会がないが、これを読むとなんとなく分かる気がするのは日本人だからなのか。 ただ、本当に「いき」を理解するには、やはり自分には人生経験が全然足りていない。

    1
    投稿日: 2014.03.17
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「いき」とは江戸時代の江戸を中心に始まった日本特有の美学である。江戸時代は身分差を持つ恋愛が頻繁にあったと考えられる。そのため身分差を超えないための一種の禁欲的行為として「いき」が機能し、浸透したのだと考えられる。 江戸時代では身分差があった場合に恋愛関係にはなることは不可能であった。そこで、「いき」が機能してくるのである。媚態の状態では、異性との距離を出来得る限り接近せしめつつその極限に達しないことが大切ある。そして、媚態は異性の征服を仮想目的とし、目的の実現とともに消滅の運命にある。目的の実現から生まれるのは倦怠・絶望・嫌悪と言った感情である。 しかし、だからと言って媚態の状態を持続させるのは難しいことである。そこで、媚態を保つ手段として意気地が出てくるのである。自己の欲求とは逆の行動を取ることによって目的の実現を防ぐのである。この状態を貫いた場合には、最終的には心中へと行き着いてしまう。

    0
    投稿日: 2014.02.04
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    20世紀の日本哲学者である九鬼周造による本著書には、「いき」について、内包的構造、外延的構造、自然的表現、芸術的表現の切り口で、哲学的に丁寧に説明されている。 「いき」とは、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考える。 意気、渋み、甘味、野暮、上品、地味、派手、下品の点軸を定義した上で、さび、乙、きざ、雅、味、いろっぽさという面が存在するとの説明。事例として、抜き衣紋、首、素足、手、縦縞、色(灰色、茶色、青系統色)、建築、音楽についても興味深い。 日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。「運命によって<諦め>を得た<媚態>が<意気地>の自由に生きるのが<いき>である」

    0
    投稿日: 2014.01.19
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「いき」ということがらの「本質」ではなく「存在そのもの」のありようを、「媚態」「意気」そして「諦念」として分析してみせながら、さりとてそのような分析的な手法では捉えようのないものであると結論づける。 六面体の構造モデルの提案は、「どうこれ?うまくはまってるでしょ?」という嬉しさが伝わってきて微笑ましい。

    0
    投稿日: 2013.12.23
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    高校生の時に授業で使った本。 いま改めて読んでも小難しくて、表題の「いきの構造」の章だけで挫折。 言葉で説明しろと言われても困る「いき」という価値観が わかったようなわからないような...。 でも「いき」という価値観を捉えていくための アプローチの仕方(多面体での説明とか)は面白かった。 もうちょっと時間を置いてからまたチャレンジしようかな。

    0
    投稿日: 2013.12.19
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    日本独自の美意識について深く掘り下げて考え抜かれた良書。 何かについて知るためには「比べること」が重要だと言われるが、まさに色々な角度から比較することによって「いき」や「風流」という言葉に形を与えていく様は圧巻。 さらに「情緒の系図」では多種多様な「感情」が分かりやすく図にまとめられていて、思わず写メに撮ってしまうほど。笑 未読の方は是非とも手にとっていただきたいです。

    0
    投稿日: 2013.11.11
  • 「いき」をとことん分析

    江戸の「いき」。関西では粋(すい)とも呼び、似ているが微妙に異なるそうです。その「いき」について、パリに留学したりした哲学者がなんだか可笑しくなるくらい分析的に説いています。最初の発表は昭和5年です。 手短に要約してしまえば、垢抜して張のある色っぽさが「いき」となります。反対語は野暮。ヨーロッパ仕込の哲学者である著者にとっては、日本独自の美的概念である「いき」を、哲学の手法でもって分析的に叙述するのが主眼であるそうです。「何故そんなことをしなきゃならないの?」と(野暮ながら)思ってしまわなくもないですが、1920年代にヨーロッパで研究に打ち込んだ日本人の気概があったのではないかと。 この本は、21世紀を生きる日本人(わたし)にとってもリーダブルです。普段の生活で「いき」なんてことを考えたり口にしたりする事は滅多にないですが、「ふんふん、それは確かにいきだね」なんて納得しながら読めます。民族的伝統の残滓がちゃんとわたしの中に息づいてるのか、はたまた概念的分析で提示された「いき」には意外と普遍的なところがあるのか。また、文章がとても明晰かつ美しいです。外国語を習得した人独特の明晰さであるように感じます。それも、この本の読みやすさの一因でしょう。 他に、もっと後期の著作である「風流に関する一考察」、「情緒の系図」を収録。そこでも哲学者の分析魔ぶりがいかんなく発揮されています。

    1
    投稿日: 2013.11.08
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    「うまいこと言えないけどなんとなくあんな感じでなんかいい感じのあれ」という「いき」について、丁寧に要素を取り出して、整理しなおしてくれた感じです。「そうそう、うまく表現できなかったけどそういう感じだよ!」という謎のテンションで一気読みしました。筆者の意図を掴めているかは大いに疑問です。 具体例としてあげられているものも素敵で、三本線とばちと柳と桜の花、なんて組み合わせを見たときはうっかりときめいてしまいました。あれ?本当にその組み合わせだったかなあ。 ふざけた内容で恐縮ですが、枯れ木も山、ということでご勘弁願います。

    0
    投稿日: 2013.09.27
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    10年早かった。全く意味がわからないままただページをめくりなんとか最後までたどり着いたが、一体何が書いてあったのか、それは何を意味していたのかがほとんど理解できなかった。わずかに理解できた部分は面白かった。日本美術の考察は日本人の普遍的な興味の対象であるからだろう。それだけに分からないのが悔しい。美術か哲学に対する素養があると楽しめるかもしれない。他二篇についてはほとんど読まなかった。残念だ。

    0
    投稿日: 2013.09.12
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    表題作は、東京生まれの哲学者で、西田幾多郎と同時期に京都帝国大学で講壇に立っていた(が、西田や田辺元を中心とした所謂「京都学派」にあっては飽くまで傍流であったとされる)九鬼周造(1888-1941)が、我々の文化に於いて「いき」と称されている独特な美意識の在りようを、西洋哲学の手法を援用しながら概念的かつ具体的に闡明した彼の代表的著作、1930年。その他「風流に関する一考察」「情緒の系図」所収。九鬼は東京帝国大学哲学科卒業後に独仏へ留学、ベルクソンの「生の哲学」に影響を受け、またハイデガーに師事し現象学を学んでいる。 「「いき」の構造」の序に曰く、「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。・・・。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である」 "いき"には三つの契機が在るとされる、「媚態」「意気地[いきじ]」「諦め」。「媚態」とは、他者(本書では専ら異性とされる)との間に超越的な距離を措定し、その他者との(本書では情愛的な)合一を目的として追求しつつも、無限にその成就を遅延させ続けるような、成就の可能性を可能性のまま決して成就させることのないような、そんな二元的機制の緊張関係に自分と相手を付置する態度のこと。そんな媚態の機制の内に即物性という"野暮"が入り込んでその緊張関係を弛緩させない為に裏打ちされるのが、"無粋"としての即物性に反抗する自由性であり、その理想主義への気概が、「意気地」である。しかし、他者との合一と云う目的が飽くまで虚構としての目的・仮構された目的であるとするその【遊戯性】を維持し続ける為には、自己の運命に対する「諦め」の境地に達するを要する。それは、若い恋に破れて浮世の苦渋辛酸を嘗め、世の洗練を経て、"純朴な独り善がり"や"真摯な涙"から垢抜けることで、ようやく自己の運命への拘泥・執着から脱し得た、恬淡無碍の心である。こうして、散文的な現実性は超然と無視され、【完全に無目的な自律的遊戯】――「媚態のための媚態」――に興じる。これが"いき"である。曰く、「運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である」 運命愛の中で興じる凛乎たるアイロニズム。 様々な芸術分野に見られる"崩し"の文化を、ここで闡明した"いき"の構造から説明している点が興味深かった。各芸術の形式に於ける一元的平衡を敢えて崩し、その変移によって二元的機制の緊張関係=媚態が創出される。そして、その変移の度が過ぎて緊張関係が消滅してしまわないように、反即物性・反俗物性の意気地によって抑制される。こうして、現実の散文性を峻拒する【自律的遊戯】として、芸術に於ける"いき"が開花する。 九鬼は、"いき"と云う語によって我々の内に漠然と普遍化されている美意識の典型を、化政期の江戸という歴史的にも地理的にも極めて限定された、しかも更にそのうちの遊里という特殊な文化を生きる者たちに見出した。本論考を読んでいると西洋に於けるダンディズムと云う美学が想起されるが、九鬼自身が指摘しているように、ダンディズムは殆ど男によって生きられた文化であったが、一方"いき"はと云えば落魄した"粋人"たる男たちだけでなく"苦界"に身を沈めた女たちによっても息されていたという点で異なると云える。 私には、嘗て、場末のストリップ劇場に置き場の無い我が身を寄せていた時期があった。世間一般からは"セックス産業"(この表現自体、実に散文的であるが)と蔑まれている世界の中で、更に風前の灯の如く消滅寸前であったストリップ業界。しかし、劇場の中では、舞台と客席という形で画然と隔てられた二元的空間に於いて、彼女らの踊りが媒介となってその隔壁が溶解してしまったかのような錯覚を覚えてしまうほどに、彼女らが舞台上に創る世界に陶酔・没入・合一していた。世間から隔離されたその特殊な空間の中で、私の感性には確かに一つの美意識が刻まれたと断言できる。それと九鬼の謂う"いき"とは必ずしも同一ではないだろう。しかし、九鬼のこの論考が、何だか他人事とは思えない、と云っては妙だが、私にはとても生き生きと読まれた。"苦界"から普遍的な美意識を汲み取ってきたことを、率直に嬉しく思った。もう一度繰り返しておこう。「生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ」 「結論」に於いて披歴されている学問論もまた、本論考の主題たる"いき"の構造――「それでもなお」と無限に繰り出すトーマス・マン的チェーホフ的な反語的機制(「諦め」と「意気地」によって裏打ちされた「媚態」と云う機制)――と明らかに呼応している。そこにはドイツ的な教養の影がはっきり表れていないか。 「概念的契機の集合としての「いき」と、意味体験としての「いき」との間には、越えることのできない間隙がある。・・・、「いき」の論理的言表の潜勢性と現勢性との間には截然たる区別がある」 「しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである」 □ ところで、現代日本に於けるアイドルのファンは"いき"であるか。彼らには、アイドルの売る「夢」が嘘であることを承知の上でなおそれに騙された振りをしてはファンとして彼女らに魅せられてみるほどの雅量が、全く見出されない。アイロニーに悠然と戯れてみせる美学はその欠片も無い。彼らは、九鬼が美事に謳いあげた"いき"と云う文化様式を、生きてはいない。

    3
    投稿日: 2013.02.10
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    九鬼周造の『いきの構造』は 学生時代に 少し読んだが あまりにもつまらないというかよくわからないので、すぐに捨てた。 そして、今頃になって  何か、気になり、読み始めた。 言葉というのは 時代とともに 風化していくものである。 そうであるがゆえに 古い言葉、古典的な言葉、失われつつある言葉を 蘇生させる作業が必要なのかもしれない。 そのひとつに 『風流』 という言葉がありそうだと思う。 それは、生活スタイルである。 今で言う 『ロハスな生活』というアメリカから来た 言葉を ありがたがるよりも 『風流な生活』のほうが よっぽどよさそうである。 九鬼は言う 風流とは 『世俗』を断ち切り、『離俗』することである。 『風流人となるには 「心を正して俗を離れるほかはなし」』 という。 この言葉の 『心を正して』というくだりが なんともいえなく、崇高である。 『世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくるという気迫 が風流の根底になくてはならない。』という・・・ 九鬼はつづけていう 『風流のこの第2の契機を耽美ということができる。』 ふーむ。 精神生活の充実を 『耽美』に結びつけるのはよほどのことだ。 九鬼の言う 『耽美』と 現在使われている  『耽美』とは、かなり距離がある・・ような気がする。 その内面的な充実は つねに 革新されていく・・・ 『昨日の風は今日よろしからず、  今日の風は明日に用いがたきゆえ』(去来抄) と 九鬼は引用するが・・・ 現在の 『空気を読む』につながる・・・ そういえば、この『空気』という言葉も  古い言葉につながるが 新しい装いを持ち出した。 九鬼は 風流の第3の要素が 『自然』をあげている。 『離俗と耽美の総合として 自然に復帰すること』 いやー。ロハス的になってきた・・・・ 九鬼は言う 『自然美を包蔵しない芸術美だけの生活は風流とはいえない。』 このことを実行するのは 並大抵のことでは、 できないほどの 『風流な生活』なのである。 『色ふかき君がこころの花ちりて身にしむ風の流れとみぞみし』 という風流の方向・・・なのである。 九鬼は言う 『風流の滋味を味わう心は  また白露の味を味として知る心である。』 という・・・ まいりましたねぇ。 『白酒』ではなく、『白露』なのですね。 白露は季語で、秋の気配を感じさせる涼しさを象徴する。 芭蕉は 『白露もこぼさぬ萩のうねりかな』 と50歳のときに詠んだ。 万葉集には『白露』を詠んだ歌が多い 九鬼が言う 『白露』 とは、一体どんな味なのだろう 九鬼が引用している・・・・俳句 『白露に淋しき味を忘るるな』・・・という 白露とは 淋しき味 なのである。 風流とは 淋しき味を かみしめること。 この『風流に関する一考察』は 風流を説明するために 対語を 明らかにする作業をしている。 雪舟の水墨と又兵衛の濃彩 伊賀焼きのさび肌と色鍋島の光沢 謡曲の沈音と清元の甲声 対立関係というのを 否定することによって、 新しいものが生まれてくるという発想が 西洋的な発想に基づいているのだろう。 九鬼は言う 『風流が「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」が  とだけを自覚して「厳かなもの」の自覚を欠くならば  日本人の精神生活にとって大きい不幸といわなければならない。』 現代の生活は  「華やかなもの」と「寂びたもの」と「可笑しいもの」と「厳かなもの」 のすべてをなくしているような気もする・・・ それは、九鬼にとっては 精神生活が成り立たない と嘆いていることだろう。 九鬼は 風流の産む美的価値の本質的構造の対立関係を 第1組を 「華やかなもの」と「寂びたもの」 第2組を 「太いもの」と「細いもの」 第3組を 「厳かなもの」と「可笑しいもの」 におき・・・ 『対立者相互の否定関係に基づいて  第1組には斬新性が、第2組は不動性が、第3組が交代性がみられる』としている。 これが、6つの頂点となり正八面体となる。 これを九鬼は 『昔の哲学者は 地、水、火、風の4原質のうちで、 地の微粒子は正6面体を成し、水の微粒子は正二十面体、 火の微粒子は正4面体、風の微粒子は正八面体を成す と考えたのであった。 「風」の微粒子の形態とされていた正八面体が 「風流」の価値体系を表しうることは、偶然ではあるまい。』 この説明は まったく飛んでいる。 この飛び方が 九鬼の知識の蓄積がなせるものかもしれない。 この正八面体論は、 今の言葉からすると 「太いもの」と「細いもの」 が、あまりにも具体的過ぎて 言葉の広がりを失っている。 「可笑しいもの」が、枕草子的な言葉から 現在の言葉には かなりの質的な変遷が起こっている。 九鬼は言う 『体中の「風」が呼吸を媒介として、 碧空に吹く「風」に身を任すときに、風流の士となる。』 あぁ。風流人とは・・・なんと自然なのだ。

    2
    投稿日: 2013.01.13
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    面白い。ダイナミックに切り開かれていく地平に目を見張っているうちに、さまざまな現象がその地平線に展開され整理され、美しく一つのストーリーをなしたという感じ。 感覚的なこと、意識現象は言語化することで思想となり、一本の糸で連ねられて構造を表すようになり、他者と言葉を媒介して論ずることができるものとなる。逆に言えば、その作業によってこそ、感覚を共有し議論の俎上に載せることができるようになる。「意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている(88頁)」とは、まさにこの稿の意義であろう。 それまで実に感覚的に語られることしかなかった「いき」とは一体どういうことなのか?──答えは表紙にも引用されている「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である(95頁)」という一文にまとめられているが、その結論に至るまでの現象のあばき方というか、分析の過程が、読んでいて小気味よくなるほどの切れ味に満ちている。 「思想を構造化することの成功例」みたいな感じで(うろ覚え)、丸山真男「日本の思想」で言及されてたのも納得。 この頭の中が整理された感覚、ぜひ味わってみませんか、と人に薦めたくなりました。 ※章四、五は具体例。一〜三が特に面白かったなぁ。六の結論だけ読んでも魅力を堪能できないと思うのでぜひとりあえず一〜三を

    0
    投稿日: 2012.11.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    野暮な行動は取れるが, 「いき」な振る舞いは難しい。 「いき」の構造を読めば,いきになれるかと思った。 読み終わって,自分には無理だと思った。 江戸,徳川時代が鍵かも。 解説を多田道太郎が書いている。 読んで,はたと分かった。 江戸っ子か、ハイデッガー,ベルグソン,サルトルが理解できないと理解できないかも。 3度は読んでみようと思った。

    0
    投稿日: 2012.10.22
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    ヨーロッパ哲学的な言葉で、日本の言葉・表現を腑分けしていく。論理自体はヨーロッパ的というよりは普遍的なものだろうし、読んでいてすごく説得力がある。 この感情とは何か、この感性とは何か、そういった問いへの一連の強力な答えになるだろうし、これによって比較文化的通路が生まれうるだろう、という感じです。 P.88 しかしながら概念的分析の価値は実際的価値に尽きるであろうか。体験さるる意味の論理的言表の潜勢性を現勢性に化せんとする概念的努力は、実際的価値の有無または多少を規矩とする功利的立場によって評価さるべきはずのものであろうか。否。意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識との間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさにまさの学の意義は存するのである。

    1
    投稿日: 2012.08.02
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    難解… 成る程ね~という部分も多いけど基本的によくわからない、 というか自分の学の無さを思い知らされる。 あの岡倉天心と血が繋がっている(?)というのは驚いた。

    0
    投稿日: 2012.06.24
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    ずいぶん昔の、しかも海外で書かれた本で驚きました。一度国外に出ることで日本を意識する事ができ、日本に対する冷静な判断ができるものなのか。一度外国の生活をしてみたいと思いました。 また、デザインにかかわる方が予想以上にこの本を読んでいる事にも驚きです。

    0
    投稿日: 2012.06.10
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    論文なのに面白い! 読んでいて心踊るものがあった。 「いき」の構造・風流に関する一考察・情緒の系図の三編が収録されていて、日本の美意識について解りやすく書かれている。 特に「いき」については、共感・納得するところが多く、あっという間に読めた。 横縞より縦縞、武士道、仏教、江戸文化、媚態などなど日本の良さを再認識できる。 決してひとりよがりなものではなくて、すっきりしていて、国際的感覚があるところに脱帽。

    0
    投稿日: 2012.03.18
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     本書は、『「いき」の構造』の他に、『風流に関する一考察』、『情緒の系図』が併収されている。  『「いき」の構造』では、「いき」という言葉の独自性が西洋哲学の手法を用いて論じられている。「いき」を媚態、意気、諦めの3つの言葉を用い定義しつつ、他の様々な日本語との関連から分析している。着眼点の鋭さにただただ舌を巻いた。『風流に関する一考察』では「風流」について、『情緒の系図』では「情緒」について、それぞれ『「いき」の構造』と同様に様々な日本語を用いて分析している。日本文学や和歌を沢山引用しており、それらの比較を通して次々に概念が浮き彫りになっていく感覚は得もいわれぬ。どの作品においてもいえることだが、日本文化を礼賛しているようには感じられず、中立性を保てているため、好印象を受けた。これは西洋哲学の視点から論じられているからだと考えられる。  著者の哲学や言語学への造詣の深さが感じられ、また日本語の多義性や多様性、その奥深さを存分に堪能できる一冊である。

    0
    投稿日: 2012.01.27
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    「いきだねえ!!」 粋な人間が最近少ない。 風流な人間もいなくなった。 日本人なのにね!

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    投稿日: 2011.09.16
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    於菟が現在の研究を行う上で最も参考になった三冊の本の一つです。 この本の表紙に示されている直方体が於菟の研究の原点です。 ☆ メタローグ 「粋なお方」とは、今日風に言えば、さしずめ「クールなやつ」のことである。しかし、こんな風俗めいた言葉を、それまでの日本の哲学がまともに取り上げることは、およそ考えられなかった。日本では、「善の研究」(西田幾多郎)をはじめ「人生いかに生きるべきか」の問いに向き合った哲学が王道だったからだ。だが、「(いきの表現は)うすものを身に纏うことである」といった言葉が平気で飛び出す本書の面白さは、まさに無類である。「いき」の特性は、異性に対する「媚態」であり、江戸者の「意気地」であり、執着のない「諦め」である。畳みかけるような分析の切れも、書名同様、垢抜けしている。(宮川匡司) 『ことし読む本いち押しガイド2000』 Copyright© メタローグ. All rights reserved. 出版社/著者からの内容紹介 日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か.「運命によって〈諦め〉を得た〈媚態〉が〈意気地〉の自由に生きるのが〈いき〉である」――九鬼は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと,こう結論する.再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収. (解説 多田道太郎) ★

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    投稿日: 2011.09.07
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    「いき」という言葉自体は現代日本にも残っているけれど、その概念は既にかなり風化しかかっているように思う。昔どんな風にこの言葉が使われていたのか、『「いき」の構造』で探って見るのは面白い事のように思う。

    0
    投稿日: 2011.07.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    この本には、表題作の他に「風流に関する一考察」「情緒の系図」が併収されています。三篇とも、難しいのですが、比較的、「いき」の構造が理解しやすく、「風流―」「情緒―」と読み進めるに連れて難解になっていきました。 「いき」の構造は題のとおり、「粋(意気)」という概念の構造を、内包的・外延的な見地から定義していきます。直六面体の図を使って言葉を定義していくその方法には得心するとともに、その発想の凄さに驚嘆してしまいます。この話の中に、遊郭に大きな影響を受けた日本人の人生観も読み取れて大変おもしろいです。さらに、遊郭を「芸能界」に置き換えれば、「野暮」→「甘味」→「意気」→「渋味」という流れは現代にも適用できるかもしれません。 「風流に関する一考察」は「いき」と同じように「風流」を定義していく話、「情緒の系図」は歌から人間の感情を読み取り、分析し、図式化してみようという話。どの話も一読の価値は絶対にあると思います。何年か経った後、深く理解するためにもう一度読んでみたいと思わされる本でした。

    0
    投稿日: 2011.06.11
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    「いき」とは何か。江戸の名家に生まれ、留学などで哲学に傾倒した作者が、着物の色配合や、しぐさである、体の曲線美などで「いき」を説明した本。かなり深いところに行っているが、丁寧に読むと「へぇー」の連続である。日本の「いき」な第一人者。

    2
    投稿日: 2011.05.17
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    およそ「いき」の現象の把握に関して方法論的考察をする場合に,…(中略)…「いき」を単に種概念として取扱って,それを包括する類概念の抽象的普遍を向観する「本質直感」を索(もと)めてはならない。意味体験としての「いき」の理解は,具体的な,事実的な,特殊な「存在会得」でなくてはならない。 (『「いき」の構造』九鬼周造) ******************* 18ページ目でいきなり刺激的だぜ,九鬼せんせー。 つか,あのドイツ人が言ってたことと似てる気が・・ (本棚ガサガサ) ******************* …本書において分析し且つ歴史的に究明すべき対象をあらかじめ確定しておくべきであるとするならば,その場合問題となりうることは,概念的な定義ではなくて,さしあたりここで資本主義の「精神」とよんでいるものに対する最小限度の暫定的な例示に止まらねばならない。 (『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』M.ウェーバー) ******************** ビンゴ!! 会ったこともないはずのふたりが,ここまで正確に全く同一のことを言うという奇跡が起こるのはなぜか。それは,(語義矛盾を許してもらえるなら)それが奇跡ではないからです。 時代的にも空間的にも断絶した場所に生きた九鬼とウェーバーの言葉に,口裏あわせしたとしか思えない符号が可能になるという事態を必然にするのは,「愚かさのあり様は無数にあるが,賢さのあり方はひとつかない」という命題だ。 それ以前に論じられたことのない概念,もしくは論じられたことがあっても議論が錯綜している概念(「いき」@九鬼だったり「資本主義の精神」@ウェーバーだったり,「超人」@ニーチェ)を扱う場合, その概念の定義を,立論に先立って事前に確立し,それを現象にあてがっていくというスキームをとることはできない。(だって,概念がなんであるか,まだ誰も分かってないんだから) 世界史的に頭がいいと言われるためには,そのような取り扱い注意の概念を扱う際に,軽率に定義を確立するという誘惑に禁欲を貫くタフさを備えていなければならない。 「おおまか」なアウトラインを使って,現象の例示をもって,ひとつづつアプライし,事後的に定義に跳ね返ってくるという方法論。具体と抽象を浮遊する肺活量。 要は,「○○がなんであるか分からないけど,○○について論じる」というとてつもない知的な負荷に耐えられる人だけが,賢者の系譜につらなることを許されるのだ。 因みに,『「いき」の構造』が提供してくれる読書の妙は,最終的に「いき」が何であるか余計分からなくなる点です。

    1
    投稿日: 2011.01.21
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    凄い本です。 始め少し?いやかなり..読み難さを感じました時間をかけてじっくり取り組むと、 言葉にし難い 「いき」 そして「詫び 寂び」そえから喜怒哀楽をの感情の細やかな分類... なんと表現したら良いのか... 上手く書けないが「凄い本だ」という事だけは間違いない様だ。 以前読んだ「茶の本」いま少し読み始めている「菊と刀」に何処か通じているような... (日本人とか外国人とかそう言う物を超えた何かがあると思うということ) 書く事に溺れないで、淡々と理知的に日本人が敢えて言葉に出さなくても分かる感情や感覚を「こういう物です」とか「こういう事」と解説しているような本。凄いと思う。 「いき」の部分ではデザインそのものの大きなヒントになるなぁーと感動してしまった。 著者の九鬼周造という人にも興味が湧いて来た。

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    投稿日: 2011.01.07
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    日本の民族的特殊性と「いき」について、時代を超えて訴えかけてくる。 昭和五年に書かれたものだが、現代においても本質的に変わりはない。

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    投稿日: 2010.11.10
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    私の読書力ではなかなか深く読みこなせない内容。 パリ在住時に書き始めたようだが、確かに「いき」は日本特有のものであることは間違いない。 最近では「かわいい」が様々なところで取り上げられているが、 この「かわいい」について九鬼先生がどのように考えられるか? そのあたりが見えるともう少し理解が進むのかも知れない。

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    投稿日: 2010.09.06
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    やや二元論的すぎる論調なことは否めないが、言葉にしがたい感覚を言語化するためには、二元論は効果的な手法だということか。しかし、何回読んでも新しい発見がある作品。

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    投稿日: 2010.06.27
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    いき-『小太郎の左腕』『「いき」の構造』 http://d.hatena.ne.jp/kojitya/20100511/1273526554

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    投稿日: 2010.05.11
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    http://lily-book.seesaa.net/article/147133453.html これは自分の本棚にある本。マイベストブック。

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    投稿日: 2010.05.06
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    かつての日本人の独特の価値観であった「いき」を西洋哲学的アプローチを持って語りだした作品。面白です。他に「風流に関する一考察」「情緒の系図」が収録されています。「情緒…」のほうはぱっとしません。俳句や和歌の世界観に私が興味がないからかもしれませんが…

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    投稿日: 2010.03.21
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    垢抜けして張りのある色っぽさ。すこし崩した姿勢や髪型、薄化粧。 あと、やせたいなーって思った。 細長い形は肉の衰えとともに霊の力を語る。って。 細くてお綺麗になりたい。

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    投稿日: 2009.12.26
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    難解だ。 「いき」という概念を、クッキリした言葉で表現しようという労作。江戸期の洒落本や川柳などを主に引用し、そこから「いき」の本質をつかみ出そうとする。やはりこの手の文章は、どうしても身に入ってきにくいので、分量はさほどではないが、読むのに時間がかかってしまった。 自分としては、もう一度腰を据えてじっくりと取り組みたい、というところ。 「いき」の他にも、身の回りにはボンヤリした、はっきりしない概念がたくさんある。そういうことを考えるのも楽しそうだ。

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    投稿日: 2009.10.27
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    心の中で「へぇ〜」を連発しどおし。 江戸の気っぷの良さを感じられました。(関西は「いき」ではなくて「すい」の文化) 私の着物の趣味は全然「いき」じゃないわ……。 「いき」は媚態、意気地、諦めの三徴表。 そして二元的可能性。 姿勢を軽く崩すことが「いき」、抜き衣紋が「いき」(西洋のデコルテとは大違い)、うすものを身に纏うことが「いき」、緊張と弛緩が混ざった表情が「いき」、素足が「いき」。 二元性模様である縞、それも縦縞が「いき」。 色合いは第一に鼠色、第二に褐色系統の気柄茶と媚茶、第三に青系統の紺と御納戸。 その他、「風流に関する一考察」、「情緒の系図」。 情緒の系図のほうは新万葉集の歌から見る、感情の考察。 松岡正剛の千夜千冊での解説 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0689.html

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    投稿日: 2009.08.15
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    すでに日本の「いき」は死んでしまったのだ、ということを本書を読んで理解した。水商売に「意気地」と潔い「あきらめ」があった時代…。 概念同士の関係を図形的に説明するところとかあるけど、主張はちっとも科学的ではない。「いき」は哲学というより美学の問題なのだろう。

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    投稿日: 2009.05.14
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    ハード面のなっていないソフトな文学好きなので、哲学っぽい用語、形相因とか「的」「性」のつく語がやたらと出てくるとふわーと思考が散ってしまう。けどのってくると痛快かつ面白い!縦縞のなかに男と女など「いき」を取り囲む二元性を読み取った九鬼周造。図柄や音楽・建築にまでその読み込みを広げるのには「ほ、本当?」とつっこみたくなる時もあるけれど、鮮やか。解説で恐らくパリにいた頃からこれに着手したのでは書かれていて、だから「いき」を際だたせる反例にあげられる西洋の例との対比が面白いのかと思った。同じ縞模様でも理髪店のあの三色は派手なために「いき」でなく、煙管の銀・赤銅・帯青灰色なら「いき」だろうという注釈とか、その対比自体がなんだか楽しい。「また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。 「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿している。」 言い回しもいちいち様になっていて、こんな文章で男と女のこと、着物、建築や食べ物について読むと自分まで通になったかのように勘違いする。「風流に関する一考察」「情緒の系譜」は「「いき」の構造」に比べるとゆるい。私は俳句や短歌には本当にうとかったんだけれど、「風流に関する一考察」を読んで俳句いいなあと思わされた。九鬼によれば俳句は空間的、絵画的で短歌は時間的、音楽的らしいから、なんとなく頷けた。私にはまだこの本を批判する技量はなく、感心させられ通しだった。

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    投稿日: 2009.03.11
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    二元的とか対自性的矩形面とか形相因とか 言われると思考がふあーと遠のくダメ文学脳の典型なんで ときたまつらいけれど「いき」って感じがどんなのか、 だんだんイメージが湧く。 それこじつけだろとかすごい妄想力だとかちまちまあって面白い。 「また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。」 「色に染みつつ色に泥まないのが「いき」である。」 「「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿している。」 こんな文章くやしい。

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    投稿日: 2009.03.07
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    「いき」日本人に特有の感覚で日本人特有の民族性がよく表れているものだと思う。 その「いき」を分析し、構造を図に表してしまったのがこの本! ちょっと前半が図の説明を文字だけでしかやっていなかったのでわかりにっかったけど、新鮮だった。 他二編のうちの「情緒の系図」も結構おもしろかった♪

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    投稿日: 2008.07.15
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    九鬼周造は、その名前のインパクトで小学生か中学生かから覚えていた人。 「いき」の特性は、異性に対する「媚態」であり、江戸者の「意気地」であり、執着のない「諦め」である、んだそうです。一応哲学書。擬古文ちっくだけどとても面白いです。まじめに恋愛を分析してるとことか笑っちゃうし。 粋な生き方を目指す私としては必読だったかな☆ 2007,march

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    投稿日: 2008.03.27
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    「いき」とは何か、「風流」とは何か、と著者が考えた本。 「粋」なんてまさに「Don't think, feel!」であって、構造も何もないんじゃ…と思っていたが、図解までされていた。当時の薄い理解では「そうか、恋も必要か…」と思ったような。何年後かにもう一度読み返してみようか

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    投稿日: 2008.03.26
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    「いき」とは何か。日本人の美意識を論じています。体感的に分かる部分も多いのかな。 音楽においても「浪漫派または表現派の名称をもって総括し得る傾向はすべて体験の形式的客観化を目標としている。(中略)体験の芸術的客観化は必ずしも意識的になされることを必要としない。芸術的衝動は無意識的に働く場合も多い。しかしかかる無意識的創造も体験の客観化にほかならない。すなわち個人的または社会的体験が、無意識的に、しかし自由に形成原理を選択して、自己表現を芸術として完了したのである。」ですって。わかったようなわからんような。わかったふりしとけばいいんです、それが「いき」ってもんだ。本当に理解しているのか聞くの?それは無粋です。

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    投稿日: 2007.11.23
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    おしゃれ哲学の金字塔。日本を好きになりたい人におすすめ。我々の精神的文化を忘却のうちに葬り去ることなかれ!

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    投稿日: 2007.11.23
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    九鬼周造。岩波文庫。言葉の選択が格好いいとか、文体構造が素敵とか、よりも、気になったのは、解説の部分。 『九鬼周造は、若いとき、ひょっとすると自分は岡倉天心の息子ではないか、そうであったらいいが――と思っていたという伝聞がある。これは確かな話ではない。しかし、九鬼周造の母親、星崎はつ(初子)が岡倉天心と恋愛におちいり、ために周造の父親、九鬼隆一に離別された。これは事実である。』九鬼水軍の末裔の男爵の父の花柳界出身の母というだけで、明治の空気と安易に思うが、恋愛に陥る母を持った子供の心境ってどうなんだろうと思うと、そうなのかみたいな。こういうのって、相手の器量にもよるよね・・・。天心だからそう思ったという面も多分にあるだろうな。。 いずれにせよ、ヴィビアン・リーとかバーグマンとかを、ぼんやりながら「イカス〜」と思うのは、それまでの安全な幸福あるいは維持されることが使命とされた生活を棄てる行為なんでしょう。本書とは話逸れましたな。文章は平易(だと思うが)なので、哲学といえば哲学だけど、言語やら民族やら、少しのぞいている方には周辺書籍として読まれるとよいかと。昨今の江戸ブームつか和物回帰へのアクセントとしても。

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    投稿日: 2007.05.23
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    タイガー&ドラゴンのドラマに「粋で乙な男になりたい」というセリフがあり、ずっと格闘しているそう。粋な男、乙な男とは何かを探してこの本を乱読し、出会った人にも聞いているらしい。でもその答えは「今も分からない」と言い、逆にやぼな男とは、と聞くと即答し、「やる前から『できない』と言うこと。『おれは弱いから』とか、逃げどころをつくったりするのは好きじゃないし、そういう男になりたくない」と答えた。そう言える潔さが、准くん的な「粋」なのだろう。

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    投稿日: 2007.02.22
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    女性が書いたのかと思ふ程緻密に見事に感情の機微を表現して居る。屹度耳の良いヒトだつたのに相違ない。ま、本ものヽ女性なら此処迄構造的に分類出来はしないだらうけれど。

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    投稿日: 2007.01.03
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    本屋を通りかかって 以前から探していた本を見かけたので買ってしまった。 脳が今は煮えているから頭に入ってこないけれど まともな時に読み直そう 九鬼周造氏の「「いき」の構造」。 ベルクソンも見かけたけれど今回は食指動かず。 「月の漏るより闇がよい」 よいよなあ。

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    投稿日: 2006.09.18
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    言わずと知れた九鬼周造の代表作。 「いき」という日本人特有の精神を見事に直六面体に表現し、その構造を関数として示している。 これは人工知能のプログラムにも応用できるでのはないかと思えてくる。 個人的には、構造の数量化の方法までを説いて欲しかった。

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    投稿日: 2006.09.17
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    (2006.04.27読了)(拝借) 昨年、三木清(1897-1945)を久しぶりに読み、先日和辻哲郎(1889-1960)を読み、今回九鬼周造を読んだのですが、いずれも、ハイデガー(1889-1976)の影響を受けているので驚きました。ハイデガーの「存在と時間」は、必読書ということでしょうか?新しい宿題が出た感じです。 解説に「九鬼周造がヨーロッパにいたのは1921年から1929年までである。その間、時間の問題について講演したり、フランス語で論文を書いたりした。パリの哲学界では若い俊秀と認められ、特にハイデッガーには高く評価され、ベルグソン(1859-1941)にも認められた。無名の実存主義者サルトル(1905-1980)のパトロン的役割を果たしたという説もあるが、サルトルが九鬼の家庭教師(フランス語)であった事は少なくとも間違いない。」とあります。サルトルが九鬼の家庭教師をしていたというのはいつ頃のことなのでしょう? この本には、3つの論文が収められています。「「いき」の構造」「風流に関する一考察」「情緒の系図」です。雑誌に発表されたのは、1930年ですが、「「いき」の構造」が書かれたのは、1926年ということですので、パリ滞在中のことになります。日本的なテーマをパリで書くのも不思議な感じです。 「構造」という題がついています。44頁に立体の図が挿入してあり「いき」に関連する言葉の間の関係を示して説明をくわえています。このあたりが「構造」という題名がついている所以かと思います。 ●いきの内包的構造 「いき」の第一の徴表は異性に対する「媚態」である。異性との関係が「いき」の原本的存在を形成している 「いき」の第二の徴表は「意気」すなわち「意気地」である。野暮と化物は箱根より東に住まぬことを「生粋」の江戸児は誇りとした。 「いき」の第三の徴表は「諦め」である。運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。 ●いきの外延的構造 「いき」に関係を有する主要な意味は「上品」、「派手」、「渋味」などである。 「上品」は対立者として「下品」をもっている。「派手」は対立者に「地味」を有する。「いき」の対立者は「野暮」である。「渋味」の対立者としては「甘味」を考えても差支ないと信ずる。 派手とは葉が外へ出るのである。「葉出」の義である。地味とは根が地を味わうのである。「地の味」の義である。 日本語の意味、日本的情緒に関心のある方にお勧めです。 著者 九鬼 周造 1888年2月15日 東京生まれ 東京帝大卒業 1921~28年 ドイツ・フランスに留学 京都帝大教授 哲学者 1941年5月6日 死去、享年53歳 (「BOOK」データベースより)amazon 日本民族に独自の美意識をあらわす語「いき(粋)」とは何か。「運命によって“諦め”を得た“媚態”が“意気地”の自由に生きるのが“いき”である」―九鬼(1888‐1941)は「いき」の現象をその構造と表現から明快に把えてみせたあと、こう結論する。再評価の気運高い表題作に加え『風流に関する一考察』『情緒の系図』を併収。

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    投稿日: 2006.04.27
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    だれにって 1926年(大正15年)昭和元年の九鬼 周三に 負けたのである 彼の著した「いき」の構造  日本 東洋の精神構造を見事に解している パリに在住 サルトルを家庭教師としそしてパトロンとして ハイデッカーに高く評価され ハイデッカーの著書「言葉についての対話でもくわしく論評される伯爵家4男に負けたのである この本は単なる日本人の精神構造を解した本ではなく 日本人が理化しなければならないビジネス書であり 文化を再興させるための手引き書であることは間違いない

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    投稿日: 2006.02.09