
総合評価
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powered by ブクログ2008年の本であるため現在と少し違う部分もあるが、彼が悲観している若者の読書離れは17年の時を経てさらに深刻になっているように感じ悲しくなった。かく言う私も読書をするか否かは自分の気分に依存しており、読書を先人たちとの対話という意識をもって頻繫に行ってはいない。せっかくの時間がある大学生のうちに読書をもっとしたいと思った。
0投稿日: 2026.01.07
powered by ブクログ筆者が旧制高校が大好きなことが伝わった。あとはいかに今の自分らがアメリカ化されてるかもわかった。 大学時代に禅を組んだこともないし読書会もしてないから確かに筆者の言う旧制高校のレベルからは下がっているのだろうと思う。 ただ性の不平等の分配で性的に諦めてしまった男性が多くなってナンパする元気もないって一言が引っかかる。性の不平等の分配って検索すると女性が社会で不平等を受けていると言う話だがこの文では男性が元気がなくなって女性があてがわれないって話に読めるけど私の読みまちがい? 愛人作りまくった渋沢栄一を紹介したり全体的に男性が考える男性のための説教本と言う感じがする。とりあえず女性のリーダーを増やすために私も戦前の哲学の本を読んでみよう
0投稿日: 2025.05.31
powered by ブクログ869 なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書) by 齋藤孝 では、なぜ学ばなくなったのか。それに対する私の端的な回答は、「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。 繰り返しますが、仏教を敬っていた奈良・平安時代から、日本はずっと「リスペクト社会」を貫いてきました。学びや教養を一段高いものと見なす風潮が、社会に充満していたのです。 ところが、ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。 しかし今は、自分という核を持たないまま、ひたすら水平的に「何かいいものはないか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけ。最近の世の中はこれを「自分探し」と称していますが、こういう風潮が始まったのは一九八〇年代ごろからです。 そして、この傾向を爆発的に浸透させたのが、インターネットの普及です。ネット自体は、良くも悪くもありません。ただ、人間の持っている一つの傾向を極端に見せる「増幅器」、あるいは「拡大鏡」であることは間違いありません。 たとえばネガティブな思考を持つ人が 集えば、一気に集団自殺にまで及んでしまう。あるいは向学心に 溢れた人が集えば、架空の学校のようなものが出来て、有益な知識や情報の交換が行われることもあるでしょう。 その意味では、向上心の有無によって、インターネット社会では格差がより助長されるといえます。学びたい人はとことん効率よく学べる一方、向上心のない人は、互いに傷をなめ合うように現状肯定的になるか、あるいは互いの存在を否定するような関係に落ち込んでしまう。その最たる例が、学校のいわゆる「裏サイト」です。先生への悪口や、特定の生徒をいじめるような書き込みが殺到するというネガティブな面が、日々極大化されています。 かつてなら、情報を生み出したり、苦労して調べたことを発表したりすることは、それ自体が尊敬される対象になりました。たとえば読書にしても、そこで展開されるのは著者と読者の一対一の〝にわか師弟関係〟だと思います。読書の時間とは、著者が自分一人に語ってくれる静かな時間であり、それによって自分を掘り下げる時間である。少なくとも私は、そのつもりで本を読んできたし、書いてきました。 でも今や状況は一変し、「情報はタダ」という認識が一般化しています。どれだけタダで出して知名度を高めるか、あるいは好感度を持たれるかといったことが、情報発信側の勝負どころになっている。それを助長しているのが、検索機能によってタダの情報を自由にセレクトできるインターネットです。言い方を換えるなら、情報の発信者ではなく、ネット利用者のほうが立場的に強者になっているわけです。 本でいえば、何人も並んでいる著者の中から、読者が誰かを指名するという感じです。そしてさっと読み流し、「だいたいわかった」「次はあなた」となる。つまり著者は情報提供者、著書は商品として並列的に存在しているだけで、それをセレクトする読者(消費者) のほうが圧倒的に強いわけです。 ネット上では、この傾向がもっと顕著です。 碩学 と呼ばれる学問の大家が心血を注いで書いた言葉も、アイドルの言葉も、一般の人による〝街の声〟も、あるいはショップや商品の宣伝文句も、すべて並列的に同じ情報として扱われています。特定のキーワードによって一律的に検索の網にかかるという意味で、同等のポジションにいるわけです。世の中全体が水平化、フラット化した社会になりつつあるといえるでしょう。 重要なのは情報そのものではありません。ある対象をリスペクトする、その深浅が、自分にとっての情報や言葉の意味・価値を決めていくのです。同じ一つの言葉でも、ネット上でたまたま見かけた言葉と、自分がリスペクトという精神のコストをかけて獲得して出会った言葉では、自分にとっての重みがまったく違うのです。 同じく社会のフラット化を助長し、象徴しているのがテレビです。 バラエティ番組では、いかに教養がないか、バカであるかを競い合うようなものが放映されています。視聴者はそれを見て楽しんだり安心したり。いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が〝強さ〟として映るような時代になっているわけです。 私も出演を依頼されることがありますが、民放のバラエティ番組の場合、引きずり下ろされる危惧をしばしば抱きます。私は大学の教員なので、知性や教養を職業的に磨いている者として出ます。そういう人間をいかにふつうの人間のように引きずり下ろして見せるか、という意図を制作者側に感じることがあります。たとえば、成功した場合と失敗した場合があるとしますと、編集で残されるのは、たいてい後者です。コメントでも知的なものはよくカットされ、感情的な要素の強いコメントや表情が放映されます。要するに、大学で教えているような人間が失敗する姿を見たい、という意識が視聴者の側にあるわけです。 つまり、テレビはあらゆるものをフラット化して見せることにカタルシスを見出している。これは昨今の日本全体を覆う空気のような気がしてなりません。 しかし現在、状況は変わり、先生の威厳は急速に消えつつあります。尊敬の対象というより、サービス業の一つとして 捉えられる傾向が強まってきています。何でもわが子中心で考え、先生にクレームをつけまくる「モンスター・ペアレンツ」、医者に対する「モンスター・ペイシェント」の出現は、その象徴的な現象です。 この要因の一つは、知性・教養に対する尊敬やあこがれのなさです。子どもも親も、また先生自身も、知性・教養にあこがれを持たなくなった。等しく平らになり、皆で勉強しないままでいいじゃないか、という傾向が強まってきているのです。 お互いに足を引っ張り合い、フラット化していくままでは、本章冒頭のPISAの結果を見るまでもなく、国際的に没落していくだけでしょう。 リスペクトとは心の習慣です。何かに対して「これはすごい」「 頭 を垂れて学びたい」という思いを持てないとすれば、世の中のあらゆるものが平板な情報でしかないことになります。つまり、あらゆる情報・言葉がフラット化してしまっているわけです。そのことが、精神を 雑駁 なものにしてしまっている感は否めません。 言い方を換えるなら、人間の心の潤いというものは、尊敬やあこがれの対象を持てるかどうかで変わってくる。その対象は具体的な人である場合もあるし、教養のようなものである場合もある。いずれにせよ、そこから学ぶこと自体に対する尊敬があって初めて、自己形成の意欲の尽きない泉が 湧いてくるのです。 ただ、経済についてはこうして数字がはっきり出るため、人々の話題にものぼります。一方で尊敬やあこがれの精神が失われたことによる莫大な損失については、統計データがない分、気づきにくいかもしれません。しかし、努力しなくなったのも、勉強しなくなったのも、あるいは社会の各所がさまざまな形で崩れつつあるのも、根本原因は知性教養や人格に対する敬意のなさにあります。 もともと人間の心には、リスペクトしたいという願望がかならずあります。成長とともに尊敬の対象を変え、自己形成していくのが本来の姿です。 この二十年、私は大学生と関わり続けています。定点観測のように十八歳から二十二歳程度の若者と付き合っていると、彼らの気質の変化を肌で感じることができます。その第一は、濃い交わりが苦手になってきているということです。 地方出身者が東京という都市に初めて出会ってショックを受け、東京なんかに負けるもんか、東京のバカ野郎、という気概を持つ。それが明治以来、ずっと日本の活力になっていたわけです。そんな「上京力」とでもいうべき、上京へのあこがれ、プレッシャー、孤独感、負けん気、誇りと意地といったものが混ざり合って、緊張感のある向上心を生み出していたのです。 しかし今は自宅から通う学生が多く、大学生活が必ずしも一人暮らしを意味しなくなりました。アルバイトをする高校生も珍しくありませんし、高校生でセックス等を経験する人も多いですから、大学生になったときのライフスタイルの劇的な変化というものが、あまり見られなくなってきています。高校と同じ感覚で大学でも授業を受け、アルバイトをして自宅に帰る。家ではミクシィで時間を 潰し、自分の生活空間を侵されない範囲で浅いコミュニケーションをとって寝る。高校の延長線上に大学があるかのようです。 私が勤める明治大学でも、最近は飲み会を企画してもなかなか人が集まりません。明治大学はよかれ悪しかれ飲んで語り合う、あるいは必要以上に飲むことが伝統的に継承されてきた大学です。十数年前の学生たちであれば、大学付近の非常に安い居酒屋を見つけては、毎週のように大人数で騒ぎ続けていたものです。 言い方を換えるなら、今の学生にとって飲み会は、快適なプライベートな時間ではなくなったということです。ゼミや授業で知り合った仲間と飲むことは、プライベートというより、一種の社会的なつき合いなのです。彼らが好むプライベートとは、わずか二~三人程度の、たとえば高校時代の同級生と連絡を取るといったことなのです。 だからゼミなどで十~二十人単位になると、それはもはや「社会」になる。おかげで、一体感を持った集団になるまで、きわめて時間がかかるようになりました。人間関係上の体温の低さというものを感じざるを得ません。 昨今の学生は、一対一のコミュニケーション能力についても未熟な感じがします。たとえば知らない人との世間話は、明らかに苦手になってきています。他人とゆるやかな関係をつくったり、その場を雰囲気よく過ごす 術 を知りません。 自分と関係のある人、仲のいい人とは会話ができるのに、新しい場所で友人をつくることは苦手です。同じ学年・学科の学生同士でも、相互にあまり交わらない。結局、顔は知っているがお互いに話さないまま、ということも珍しくありません。 濃い交わりを避ける傾向は、自分一人の快適なプライベート時間を維持したいという意思の裏返しです。もっと本質的にいえば、自分というものを守りたいという意識がきわめて強いということです。 一見自信があるように思える学生でも、他者の目を過剰に意識していたりします。自分自身で自分を支えているというより、他者の承認によって自分自身を支えている。幼稚化していると感じることが多いのは、そのためでしょう。 大学生でも、「先生、オレの名前覚えてますか?」と言ってくる学生もいます。存在承認欲求の強さを身に 沁みて感じます。 今の大人の中で、中・高・大学時代にそのような感覚を持っていた人は少ないでしょう。まして叱ってもらいたい一心で悪さをしたという人はほとんどいないと思います。つまり、ひと昔前の中・高校生は、そこまで他者に存在の承認を求めなくてもいい状況だったということです。 現在は、他者の前で自分の実力があからさまになることは避けたいと思う一方で、他者による承認も得たいのです。競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質があるよ」と褒めてもらいたい。そういう都合のいい欲求が目立つようになっています。 昨今の大学は、いわばホテルのようにサービスを手厚くして評判を高めることに必死です。「大学改革」という名の下に行われている多くの改革は、経営難の大学に学生を呼び込むにはどうしたらよいか、という観点がベースになっています。 気になるのは、学生の学問に対する熱意のなさです。私はかなり厳しい授業をしますが、そうするとどうしても、しっかりついてくる学生と最初から避ける学生に分かれてしまいます。 そもそも学ぶとは、野生動物のように自ら知識を狩りに出かけ、 貪欲 に吸収することです。こうして知を得ることは、友人に伝えずにはいられなくなるような興奮を伴うものです。しかし今の学生に、そういう積極性は希薄です。だから、知との出会いが生まれることは少ない。 自分自身で知識を積極的に得ようとしていないので、これは当然かもしれません。その学問に興味を持ち、狩りをする意識で学んでいるのではなく、受動的な学び方をしているのです。もちろん教える側の責任でもありますが、結局、学問の奥深くまで入り込まずに学生時代を過ごし、三年生の半ばになると本格的な就職活動を始めることになります。 私は毎年四月の段階で、一年生と二年生に最近読んだ本のリストを提出してもらうことにしています。しかしそこに挙がるのは、軽い読み物ばかりです。小説ともいえない通俗小説や、内容の薄いエッセイ、あるいはマンガなどがほとんどです。さほど難解ではないはずの新書レベルの本でさえ、読んでいる学生は非常に少なくなっています。 その原因は何でしょうか。学生たちは、さほど厳しくはないにせよ、高校時代に受験勉強はしています。しかし当時から本は読んでいないので、大学生になっても一般教養をぜひ身につけたいという強い意欲が湧きにくい。そのまま、勉強らしい勉強をすることなく、専門書どころか新書すら読むこともなく、大学時代を通り過ぎていくわけです。 以前、セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さんにお会いした際、採用したいと思う学生について、「大学で何をしてきたかという質問に対して、サークル活動、たとえばダンスを頑張ってきましたと答えるような学生は採用したくない」と仰しゃっていました(『ビジネス革新の極意』鈴木敏文・齋藤孝/マガジンハウス)。 大学で学んだことを語れなければ、大学を出た意味がない、ダンスのうまい人を採用したいなら、最初からダンスの専門学校の卒業生を採ったほうがいい、ということです。 基本的な向学心というものは、読書量に表れます。本を読まない学生を見ていると、向学心の衰退を認めざるを得ません。彼らが真面目に授業に出る現象の裏では、こういう事態が進行しているわけです。かつて一九六〇~七〇年代の学生たちは、授業はサボってもある程度の本は読んでいました。当時と今とでは、対照的な様相を呈しているといえるでしょう。 ただ、ステップアップのための転職であれば、まだ合理的で理解しやすいでしょう。問題は、次の仕事も決まっていないうちに辞めてしまうケースです。 こういう人は、たいていアルバイトで 凌いでいきます。それぐらいの仕事ならいくらでもあるという現実も、彼らの身軽で短絡的な身の振り方を後押ししています。だいたい月々十万~十五万円程度は稼げてしまうので、会社などいつ辞めても怖くないという感覚になれるのです。 こうしたケースを多く見ていると、今は「心の安定」を失いやすい時代なのではないかという気がしてきます。自分はここに骨を埋めるとか、自分のアイデンティティはここにあるといった対象になるもの、あるいは人間関係も含めた信頼関係を見つけにくいのではないでしょうか。それに、「きっと報われるはず」と信じて努力する心のあり方も崩れているようです。 たとえば、会社で懸命に働くことで、会社は一生自分の生活を支え続けてくれるという、相互に安心できる関係性を「心の良い状態」だとすれば、会社が自分を信用せず、自分も会社を信用できない関係性が「心の不良債権」の状態です。後者は常に不安を抱え、「今はここにいるが本当はここにいるべき人間ではない」とか、「組織の一員として位置づけられるのはイヤだ」といった思考に支配されています。リストラも当たり前という殺伐とした社会のあり方が共有され、心にまで影響を与えているわけです。 たとえば、ローンで建てた自宅から会社まで一時間半かけて数十年間通い続け、係長になり課長になり、部長の手前で終わるというサラリーマン人生を歩む人が、かつては少なくありませんでした。骨を埋めるつもりで就職し、家庭をつくり、子どもを学校に通わせるのが、ある種の王道だったと思います。 それに、会社員としての行動習慣に耐えられないという人も現れています。朝八時までに出社し、夜八時まで働き、その後は同僚と遅くまで飲み、翌朝また早く家を出るというパターンが従来は一般的でした。これは日本のサラリーマンが当たり前にこなしてきた昭和を代表する生活形態です。一種のホモセクシュアリズムではないかと思われるほど、会社の人間と四六時中一緒に行動し、しかも会社の話をする。よほど愛社精神に満ちていなければとれない行動です。 逆にいえば、自分はそこまで会社が好きではないと思ったとしたら、こういう行動はできないでしょう。〝会社漬け〟状態を想定すると、むしろ自分が会社に乗っ取られるような気がするはずです。 会社はかならずしも、人間性を大事にしてくれるわけではありません。自分はもっと人間性を大事にしたいとか、あるいは企業自体が社会的に見れば悪なのではないかという思考に 囚われれば、反動的に「やさしさ」に価値を求めるという選択はあり得ます。 アジア各国に行くと、本屋に座り込み、読み耽って知識をむさぼっている若い人がどこにでもいます。ドキュメンタリー番組では、しばしば、中国の貧しい農村にある学校が取材されますが、小学校の授業料すら払えない家の子どもたちが、口々に「もっと勉強したい」「もっと社会に貢献したい」と語る姿が印象的です。これは、急速に発展する国特有の〝熱さ〟なのかもしれません。 じつは、親自身も競争社会に対して 脅えを持っています。いよいよ富の分配の不平等が現実に起きている以上、「勝ち組」に入らなければ苦労するという、追い立てられるような恐怖感がある。だから、教育にも早く手をつけなければいけないという意識に駆られているわけです。幼児期からの英語教育など、その典型でしょう。 しかし、一生を全うするための心身の基本を培う幼児期に学ぶべきこととして、英語教育は有効なのでしょうか。私はむしろ、この時期は身体と日本語の基礎をつくるほうが重要だという確信を持っています。 学校に対する考え方も、その延長線上にあります。授業料を払っているのだからきちんとサービスしてほしい、という論理を通すようになってきました。特に最近は、親の間でこの傾向が顕著です。いわゆる「モンスター・ペアレンツ」の台頭です。 たとえば、自分の子どもが悪いことをして教師に叱られたとき、逆ギレして学校に文句を言う。子どもが学校に行きたくないと言えば、無条件に休ませる。場合によっては中途退学も 厭わない。あるいは学校に対して、常軌を逸した注文をつける。教師を頭からバカにして、ホテルのドアマンや百貨店の店員に対するように威圧的な態度をとる。こういう勘違いした親が、現在の中学校・高校で日常茶飯事的に増えているのです。 こういう親には、もしかして自分の子どもが悪いのではないか、という謙虚な自己反省意識は働きません。うちの子にかぎってそんなことはしない、うちの子はそんなことを言っていないなど、教師の言うことより子どもの言うことを信用する。子どもを注意するより、子どもと一体化してしまうわけです。 私の教え子である現役の中学・高校教師によれば、最近の子どもと親の関係は、垂直的に厳しく 躾 ける「親子」というより、水平的に楽しみを共有する「友人」に近い。大人としての役割を担いきれていない人が親になっているということです。 ではなぜ、こういう親らしからぬ親が登場するようになったのか。そのルーツをたどれば、戦後のアメリカ化された若者が親になった時代に行き着きます。これについては、第二章で詳述します。 中学受験をする子どもは、小学四年生の時点から本格的な塾に行くのが当たり前になっています。彼らが通う塾のレベルはきわめて高く、高校受験を上回る場合も少なくありません。特に算数などは、一般の大人が見ても、おそらく手も足も出ないでしょう。 国語で読む文章も、高校入試に使われる文章と 遜色 ありません。つまり、そういう塾で勉強した小学生は、勉強しない中学生よりむしろ知識水準が高くなるわけです。この傾向は、すでにかなり一般的になっています。 一方、テレビのバラエティ番組などを見ていると、たまに信じられないほど知識のないタレントが登場します。「バカドル」などと呼ばれ、小学生レベルの問題すら解けないことをむしろ〝売り物〟にしているようです。しかし見方を換えれば、こういう小学生程度の国語力も知識もない状態でも、中学校や高校を卒業できたということです。 これは恐るべきことです。タレントはいいとしても、公立小学校に預けているだけの家庭、あるいは塾に通わせたくても経済的理由で不可能な家庭の子どもは、その時点で将来に響く差をつけられてしまう。 しかも中高一貫校では、中学のうちに高校レベルの学習をすすめています。公立中学ではあくまでも中学レベルに限定されるため、まったく不公平な条件で大学受験に向かうことになる。 こうした条件の差を是正するにはどうすればいいか。それは、公立小・中学校のカリキュラムの質を高めるしかありません。ところが、そうすると落ちこぼれが出てくるとの理由で、逆に教科書の水準はどんどん落とされてきた。それがこの二、三十年の状況です。 小学校高学年の時点で学習の環境に差がついてしまうことは、たんに進路が有名私立と公立に分かれてしまうだけではありません。もっと重要なのは、学ぶ習慣がつくかどうかという、生涯にわたる差になってしまうということです。 勉強を 厭わない人と苦になってしまう人。わからない問題に当たったとき、考えることのできる人と投げ出してしまう人。こういう差が生じてしまうことが、もっとも深刻な問題なのです。 学ぶということは、たんに知識を獲得するだけの行為ではありません。そのトレーニングを通じ、わからないことや大量の問題に立ち向かっていく心の強さを培っていくことが、もっと大事なのです。 そのためには、質の高いカリキュラムを用意し、内容の濃い教科書で学ばせる必要があります。しかもそれは、とりわけ小学校から始めたほうがいい。なぜなら、中学生以降になると自主性が尊重されるため、生徒が素直に受け入れない可能性があるからです。 小学生の素直なときに学ぶ習慣を身につけなければ、中学校に進んでも努力や勉強から逃げてしまいます。そしてその後も、永久に立ち向かうことはないかもしれません。これは、国家的な損失です。 アメリカの若者文化はカウンターカルチャー(対抗文化) でした。ボクシングのカウンターパンチと同様、自分が無から建設するというより、現在あるものに対立する、ないしは否定する形で成り立っていた文化運動だったわけです。 対抗の対象は、一言でいえば「伝統的な知」、つまりヨーロッパの古典主義です。たとえばギリシャ・ローマの伝統であるギリシャ哲学や、シェイクスピアやゲーテといった全世界的な人類の知的遺産と考えられている権威あるものを指します。それらに対して、アメリカの若者文化は「ノー」を表明したのです。 政治制度にしても、民主主義を超えて社会主義的リベラルを目指す「ニューレフト」という運動が起きていました。この新左翼的な運動を積極的に担っていたのが若者たちでした。 彼らが共有していた意識は、否定と破壊、つまり現状に「ノー」と言い続けることでした。たとえば、明らかに政策的に行き詰まっていたベトナム戦争に対して「ノー」と言うのが正義でした。あるいは公民権運動に賛同し、黒人の権利を妨げるものに対して「ノー」と言うことにも、社会的な正義が保障されていました。 これらの面だけを取り上げれば、彼らの活動は民主化に貢献した若者の政治運動であり、新しい価値観への転換であると評価することもできます。しかし、現実への影響としては、若者の知的な面での後退を招いた感も否めませ フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも 捨象 でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。 ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。 つまり、音楽は麻薬に似ているというわけです。音楽を聴くのには努力も才能も徳も不要。要するに努力しなくてもエクスタシーを味わうことができる、ということです。 エクスタシーとは、かつては地道な努力の果ての達成感から得られると考えられていました。ちょうど登山のようなものといえるでしょう。単純に一歩一歩進んでいくことによって、最後にパノラマ的風景を味わうことができる。こういう感覚が共有されていたのが、後述する書生文化や教養文化です。 簡単に快楽が手に入るのであれば、苦労して山登りをする必要はない。むしろ音楽で感性を解放することのほうが、古くさい権威に頼るよりよほど大事なのではないか──こういう一見もっともらしい主張が、若者文化の台頭によって是認されてしまったわけです。 セックスに関しては、それまでよりも気軽に行ってよいとする「セックス革命」がアメリカで起こりました。これにより、性的関係がずいぶん変化しました。いわゆる「性の解放」です。 六〇年代初頭から性表現の制約が少しずつ見直され、ゆるくなっていきました。以前は若い男女の同棲を親や教師はとがめましたが、やがてそれも自由になりました。女子学生たちも、セックスに興味があるとか、すでに体験済みだということが周囲に知られても恥じなくなりました。彼らは、若くてもセックスをする権利を獲得したわけです。 今の親世代には、自分の親の世代に比べ、子どもの世界を邪魔してはいけないという自己規制に近い意識が大きく働いています。「性の解放」の潮流が正当性を持って社会に是認されたため、親自身も禁止することを「古くさい」「リベラルではない」と思うようになっている。そこで子どもに自由を与えることを優先させ、厳しく制約をつけるしつけを軽視する子育てを実践したのです。つまり、親の権威というもの自体が、対抗文化の隆盛とともに著しく減退したわけです。 「親の言うことはきかない」という態度も、アメリカにおける若者文化の一つの特徴ですが、これも日本に流入しました。肯定的に見れば、親からの独立心が強いということもできます。しかし否定的に見ると、親の代まで受け継がれてきた、ある種伝統的な知識や経験知、常識といったものが、次の世代に伝達される回路を失ったということも意味しています。 この変化には、まだ、権威づけられた古典的教養を否定しようとする「意志」が働いていました。しかし、やがてその意志も消えます。ポスト全共闘世代においては、否定するという意識もないまま、あるいは何を学び、何を学ばないかという意思決定もないまま、ただ本を読まなくなったのです。 この傾向はその後、急速に加速しました。現在の学生においては、授業には真面目に出席する一方で、自己形成にかかわる一般教養を読書によって培っていくという生活習慣はほとんど根づいていない傾向を感じます。 こうしてカリフォルニアは、旧来の抑圧された自己を解放する象徴的な存在となっていきました。十九世紀から二十世紀半ばまでの知の伝統は、人間を抑圧する悪であり、それから逃れて自らのエネルギーをすべて解放することが善である、という非常に単純化された図式が公認されていました。「本なんか読まなくていいじゃないか」という世代が生まれてくるのも、避けられない事態だったのです。 また、こうして向上心を持っている人こそすばらしい、という価値観が男性どうしの間で共有されていたし、女性から見た評価も同様でした。結婚するときも、見合いがほとんどだったため、見た目のよさはそれほど問題にならなかったのです。 前出の『アメリカン・マインドの終焉』でも、「セックス革命」で得をしたのは老人より若者であり、醜いより美しい者だった、と指摘しています。フリーになったからといって、平等になったわけではないのです。 六〇年代のアメリカ文化は白人の若者がリードしていましたが、最近はむしろ黒人文化の影響力のほうが強まりつつあるようです。街で見られるストリートダンスのリズムのルーツは、黒人のダンスにあります。メロディーよりリズム中心の動きであり、カーペンターズやサイモン&ガーファンクル的なメロディーラインの美しいポップスより、ラップが主流になりつつあります。 言葉をちぎって投げつけるようなラップの歌い方は、黒人のスラングがベースになっています。お金と教養に乏しく、ふだんから俗語を使うような階層の人たちが、対抗手段や自己表現、社会批判の一つの手段として始めた面があります。そのスタイルが、黒人以外にも共感を得て広がりはじめたわけです。 七〇年代の日本の若者は今よりもっと貧乏でしたが、貧困性は表面化していませんでした。アメリカの文化が反体制・反伝統から、貧困を背景にした社会批判的なアピールの形へと展開したのに合わせて、日本の若者もアメリカの下層部分からの影響を強く受けるようになったのです。 ついでにいえば、これらが幅広く導入されたもう一つの理由は、バスケットボールの流行だと思います。マンガ『スラムダンク』(井上雄彦/集英社) の大ヒットで子どもたちにバスケット文化が浸透しました。バスケット競技自体は黒人のものではありませんが、マジック・ジョンソンやマイケル・ジョーダンなど、アメリカのプロリーグ・NBAで活躍した中心選手の多くは黒人です。 こうして、しだいに黒人のヒーローが増えたこともあり、日本の若者はあこがれの対象を白人の若者文化から黒人の若者文化へと移していきました。これも、アメリカ化の一過程であるといえます。 「教養? そんなものが何になるんだ。自分たちの文化はそういったものとは別なんだ。俺たちのダンスを見てくれ、ヨォ」といった感じでしょうか。あの「何々してくれ、ヨォ」と言って手首を独特な形にくねらせるのを見ていると、あまり本などは読まないだろうな、ということが容易に推測されます。 頭の良し悪しはさまざまな文脈で判断されるので、一概に言うことはできません。あるいは努力の有無を問うにしても、働いているのなら何らかの形で日々努力をしていることにはなります。しかし、黒人をモデルにしょっちゅう踊っている若者たちが、世界共通の教養といわれる本を読んでいるかといえば、その期待は薄いでしょう。もちろん、黒人文化に教養がないなどと言おうとしているわけではありません。あくまで日本の若者の話です。 では、日本の若者はアメリカ文化のすべてを忠実に取り入れたのかといえば、そうではありません。むしろ非常に中途半端な採用だったと言わざるを得ません。 アメリカという国の基本にあるのは、フロンティアスピリット(開拓者精神)、インデペンデントな気概(独立心) です。彼らは希望を胸に西海岸へ進出し、旺盛に次々と開拓地を突き進んだ結果、最後には月まで行ってしまったわけです。 それに加えて、インディビジュアリズム(個人主義) も発達しています。これ以上冒すことのできない個というものの力を信じ、その努力によって自分というものを自立させる。そういう個の集まりが、結果の平等ではなく機会の平等からスタートする。その結果、富を得るものは得るが、敗れるものは敗れる。競争はあるがフェアプレーであるというのが基本です。 しかし、このアメリカ的な「どこまでも行くぞ」というフロンティアスピリット、チャレンジを続ける強い気持ち、恐れのなさ、勇気、あるいは民主主義に対する強い意志などは、日本の若者文化には根づいていません。そのかわり、大人社会に反抗しつつ、結局大きな制度にはぶら下がるという生き方を選択した。つまり、日本的な「甘え」が消えない中での若者文化だったわけです。アメリカ文化の導入は、この点できわめて中途半端だったといえるでしょう。 その結果、自分たちはどうすれば自我を確立できるのかというモデルが、日本人自身もわからなくなってしまいました。すべてアメリカ人を真似れば話は簡単だったのですが、本当にアメリカ人のメンタリティを持った日本人は、そうはいません。アメリカはそれなりに… 逆説的になりますが、アメリカには、たとえば「USA! USA!」と叫びさえすればお互いに自立心や共感を実感できる、という幸せな単純さがあります。野球のメジャーリーグの試合では、七回になると必ず愛国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」が球場内に響き渡ります。そのときには、松井秀喜やイチローのような日本人選手も、… なぜ、こんな面倒な〝しきたり〟があるのか。アメリカでは、愛国心を持つことがほとんど百パーセントの善とされています。逆にいえば、それによって連帯感を持たせなければ、バラバラになる危険性がある。それほど、さまざまな地域からさまざまな人々が集まった国であるということです。 もっとも、アメリカの若者たちは、いろいろと自国の文化を批判して従来の伝統を否定する一方で、新しい価値をつくり上げていきました。これはまさにアメリカという国の大きな存在理由であり、特徴… 司馬遼太郎は、「自分は生涯一書生でいたい」という意味のことを書き残しています。それも若いころではなく、日本の歴史というものを捉え直した大功績ある作家として認められた後のことです。 なぜ司馬ほどの大作家が書生にあこがれたのか。それは、 驕らず高ぶらず、常に学ぶ精神を持ち続けたいと願ったからだと思います。自分は未熟である、だから勉強という修行を積むのだということでしょう。これは単に自分自身を戒める言葉ではなく、書生であることこそ喜びであるという意思表示です。 一方、受け入れる先生の側は、ともに学ぶといえば聞こえはいいものの、寝る場所を与え、ご飯も食べさせながら教えなければならない。これはそう簡単なことではありません。それでも、実力のある先生ほど書生を受け入れていました。 たとえば日本を代表する民俗学者である折口信夫 は、自身がホモセクシュアルだったこともあり、多くの書生や弟子を同居させたり抱え込んだりしていました。弟子だった加藤守雄さんの著書『わが師折口信夫』(朝日新聞社) によると、いろいろ感情が絡んで難しいこともあったようです。家庭にまで深く入り込むような師弟関係だからこそ、もっとも濃い人間関係がつくられるわけです。 高齢の経営者には、読書家が少なくありません。経営者は本を読まなければダメ、と言う人もいます。しかし、世代が若くなるにしたがって、そういう人が減っているような気がします。 私はよく、大企業のトップの方が集まる朝食会などに講師として招かれることがあります。出席されるのは高齢の方が多いのですが、だいたい朝八時前から始まります。つまり、トップの方は始業時間前に勉強しているわけです。 では、こういう方々はどういう本を読んでいるのか。いろいろ話を伺うと、ヨーロッパの哲学、思想、文学といった教養的なものが好まれているようです。ゲーテやニーチェ、カント、ドストエフスキーに象徴されるような人生を深く考えるもの、人生論と正面から向き合うような類です。「こういう読書を、生きる柱にしてきた」と言われる方もいました。 これは産業革命後に書かれた自己啓発本です。人は勤勉と努力と工夫によってどのように成功するのか、膨大な事例をもとにひたすら説いている本です。もちろん、紹介されているのはイギリスを中心とするヨーロッパの話ばかり。 にもかかわらず、明治初期の日本でよく読まれたというのは、ちょっと不思議な気もします。ついこの間まで 攘夷 運動をしていた人たちが、欧米の成功 譚 をこぞって読んで感動したとはどういうことでしょうか。 フランスやドイツなどヨーロッパの国が持つ思想の深さ、文化の豊かさに触れることのできる人が、当時の日本には数多くいたということです。 たとえば高校二年の冬休みから読む本として、スタンダール『赤と黒』(小林正訳/新潮文庫他)、バルザック『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)、ピエル・ロチ『氷島の漁夫』(吉永清訳/岩波文庫)、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』(山内義雄訳/白水ブックス)、フローベール『感情教育』(生島遼一訳/岩波文庫他) のそれぞれ原書を挙げています。その一方で、学ぶこととしては、哲学の思想とその把握、数学、イギリスとフランスの近代思想形成史、日本史、西洋史、東洋史を挙げています。 しかも、ただ勉強するぞ、ということではなく、目的を明確に立てている点も特徴的です。たとえば数学は「科学の諸問題を基本的に理解するため」、日本史や西洋史は「日本の現在の具体的な実態認識を目的とする」といった具合です。 私たちは日本をマケドニヤや蒙古のように 了 らせたくない、ギリシャのようにフランスのようにあらせたいのだ。 いずれも、知へのリスペクトと欲求、深い教養が感じられ、彼らが背伸びをして書いているわけではないことは、文面から容易に窺い知れます。およそ今の学生とは比べものにならないほどの切迫感とあこがれを持って勉強していたことがわかるでしょう。 哲学を学び、思考の基本スタイルを作る たとえば経営者の場合、 強靭 な精神が求められます。一般の人には考えられないほど、心身とも疲れる激務です。途中で休むとか、具合が悪いから誰か交代してと投げ出すわけにはいきません。 そのとき、自分自身がぶれない中心というものを持っている、あるいは判断力の基礎を養っているという自信があれば、それを原動力としてさまざまな障害を乗り越えることができます。教養主義をくぐり抜け、そういう実感を共有している経営者の最後の世代が、現在はもう八十歳代になっています。 彼らは、日本経済がもっとも発展した時代に会社を経営してきた人たちです。その意味では、きわめて大きな実績を残したといえるでしょう。その人たちの基礎に哲学があるということを、現役世代は看過してはいけないと思います。 当時の若者は、哲学以外に、一般教養の勉強にも熱心でした。筒井清忠氏の『日本型「教養」の運命』(岩波書店) によれば、高等教育を受ける人は、世界観を構築するため、まず人文的・古典的教養を身につけるものだとされていました。それをベースに各自の研究テーマに取り組むのが常識だったのです。 たしかに、たとえば経済学部に入った学生なら、哲学や文学や語学などではなく、早く経済を学びたいという欲求があるでしょう。あるいは法学部に入ったら、その時点から司法試験ないし法科大学院に合格するための勉強に忙しくなるかもしれません。 もっと 有り体 に言えば、あまりにも学生が勉強しないので、せめて専門分野くらいは身につけさせてくれ、という企業や社会一般からの要請もあります。さらにいえば、専門分野さえ強ければ就職に役に立つと考える親もいます。要は、教養というものに対するリスペクトが欠落しているということです。 しかし一般教養とは、四年間の大学生活のうちの二年をかけ、人間としての奥深さを培っていくことが本来の目的です。それがなおざりにされ、侵食され、最近は二年生の課程から専門科目が入ってきている大学もあります。 彼らに話を聞くと、教養を重んじていない次の世代に対して、足腰の弱さのようなものを感じているそうです。その弱さゆえに、この先の日本はダメになっていくのではないか、と危惧されている方も少なくありません。 ところで、大正後期の、誰もが知的に 貪欲 であった世界に、マルクス主義が入り込んできました。この流入は非常に鮮烈で、旧制高校内にマルクス主義の研究団体が次々と誕生したほどです。 日本の教養主義者は、西洋の哲学に親しめば親しむほど、当然ながら思索の世界と実生活とのギャップを感じるようになりました。そこにマルクス主義が登場し、イギリスの古典経済学、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義を総合したものだと説かれたとき、学生たちは極めてスムースにマルクス主義者になっていったのです。 マルクス主義は、「社会は法則的に動いている」と述べています。階級闘争によって社会はこうなる、未来はこうなっていくと、いわば歴史の絶対的な見方を教える教師として登場したのです。 かつては、ギリシャ・ローマに由来する欧米の古典から学ぶ教養や、西田哲学や禅の教養など、一口に教養といってもバリエーション豊かに存在していました。たとえば西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といったややこしい概念を打ち出していますが、これには禅の伝統も関わっています。禅には「 公案」と呼ばれる、「ここにあるようでない、これは何だ」といった一見論理的に解決できない問いを、直観力のようなもので一気に解いて鍛えるという手法があります。西田哲学は、こういう普通の思考を超えたところにある直観力を重視する、インド以来の瞑想の文化を意識していました。絶対的「無」を論理化することで、「有」を原理とするヨーロッパの哲学を超えようとする西田の学問的野心に多くの若者があこがれを感じ、必死に難解な本を読みました。 しかし、日本社会全体の中では、すでに一九七二年の連合赤軍事件が決定打となって、日本中が大学闘争やマルクス主義に拒否反応を起こすようになっていました。連赤事件がマルクス主義のあだ花になったといえるでしょう。 ただあの事件は、思想内容そのものが原因というより、閉鎖的な支配関係の中であればいつでも起こり得るリンチ事件でした。その証拠に、一九九〇年代のオウム真理教をめぐっても、同じような事件が起きています。自分の信奉する理論を絶対視し、それ以外の理論を徹底排除する傾向が、マルクス主義は強かったということです。 現実の女性とつきあって 云々 ではなく、内なる女性を理想化し、妄想や幻想をかきたてながら勉強に 邁進 する。そういうねじれた 鬱陶しさが、かつての若者の一般的な心情でした。今日のように、恋愛をするのが若者の特権であり、それこそが若者らしさなのだという考えは、とりあえず旧制高校にはありません。それより男同士の友情のほうが大事でした。ここでいう「友情」とは、ともに高みを目指して歩むこと、つまり一緒に勉強することを指します。このちょっとねじれた男の世界を描いた小説として、森見登美彦氏の『太陽の塔』(新潮文庫) があります。これは比較的最近の作品ですが、登場するのは古くさい学生です。主人公の「私」は、かつて自分を振った女性を「研究」することに明け暮れるのです。 それに比べると、八〇年代以降の空気はガラリと変わりました。たとえばクリスマスともなれば、「クリスマスファシズム」と言ってもいいほどの強迫観念が 蔓延 する。クリスマスを一人または同性と過ごすのは悲惨、だから全情熱を傾けて彼女をつくり、当日は豪華なデートを演出しなければならない、といった具合です。 ところが、今の空気はやや違います。当時は女性とつきあうだけで莫大な出費を必要としましたが、最近は女性自身による激しいダンピングが行われている気がします。今はそれによって恋愛に対する幻想が消え、高揚感ではなく虚無感だけが残っているのかもしれません。 たとえば一時期、インターネットで株を売買するデイトレーダーが巨額の儲けを出した、といった話がよく 喧伝 されました。そんなに簡単に儲けられるのか、と勘違いする人もいるかもしれませんが、実際には損をする人のほうが圧倒的に多いのです。しかし、そういう人には目もくれず、成功した人だけをもてはやすのが昨今の風潮です。 若者の側も、先輩と飲みに行ったり語り合ったりなんかしたくない、仕事が終わればできるだけ自分のプライベートに戻りたい、という気持ちを隠さなくなりました。たしかに年齢の高い人とのコミュニケーションは非常に疲れるものです。感覚も違うし、相手によっては威張る人もいるし、聞きたくもない説教が多くなりがちです。 しかし、かつては説教も含めたコミュニケーションは当たり前でした。若者は、先輩・後輩をはじめとするさまざまな鬱陶しさの中で、多くのことを学んでいったのです。その意味で、先輩をはじめとする大人の経験知にも、ある程度のリスペクトはしていたわけです。我慢して聞いて学んだことを、仕事上の原動力にする。就業時間以外にも、こうして勉強していたわけです。 もちろん、マルクスも指摘したとおり、こういう文化的なことは経済的な基盤がなければできません。下部構造としての経済活動があって初めて文化が生まれるということは、世界史を見ても明らかです。 たとえば、ある程度豊かな宮廷文化というものがなければ、そこに『源氏物語』も生まれ得なかったでしょう。一人残らず明日の食べ物に困っていたら、さしもの紫式部も物語を書く余裕はなかったはずです。 かつて、社会党が瞬間的に政権を取る(自民党・さきがけとの連立) という奇跡のような時期がありました(一九九四年六月~九六年一月)。しかし、その奇跡とともに、同党はすさまじい勢いで自己崩壊していきました。一時はかなりの支持もあったはずですが、今の社民党は極小政党でしかありません。 代わりに民主党が台頭し、二大政党の形にはなっていますが、自民党が二つに割れたようなものです。つまり、政治全体が保守全盛の構造になっているわけです。今さらマルクス主義が思想的なバックボーンになることは、まずあり得ないでしょう。 ということは、思想的にこれだ、といえるようなものはもはや存在しないのかもしれません。政治にもない、現代思想にもないとすれば、どうすればいいか。若い人たちは、思想的なバックボーンなしに生きていけるのでしょうか。 現在も、多くの思想が書籍としては出版されています。しかし今の若者に、それを読みこなすだけの学力がついていません。岩波文庫を積極的に読んでいる大学生はほとんどいなくなってしまいました。 生活の中に生き方の規範があればまだいいのですが、家庭内でそのようなものも伝承されていません。かつて幸田露伴は娘の幸田文 を厳しく鍛え、「 渾身」という生き方の構えを、身から身へと伝えました。幸田文はまた自分の娘(青木玉) を、たとえば書道での姿勢が悪いと言って腰をけとばして鍛えました。こういう家庭はもう少ないでしょう。 しかも、兄弟やいとこ、おじさんおばさんも少なくなり、地域社会の人との関係も希薄化しています。つまり人間関係の経験が極端に少なくなっているわけです。その影響が、最近の中学生・高校生の幼稚さとして現れています。前述したとおり、本来なら家庭で甘えるべきところなのに、学校の教師に対して過度に甘えてくるという現象が起きているのです。
0投稿日: 2024.06.04
powered by ブクログ学ぶことへの意欲が減ってきているのは、本当にそう思う。 子どもたちを見ていると塾に通っていたとしても "やらされている"感が満載である。 読書量がどれほど大切か。 これが分かるのは読書をしている人だけであって、本に触れていない人は一生気付かない。 知らないことを知った時、無関心でいる怖さ。 自分には関係ないと思ってしまう人は自分を含め、たくさんいるんだろうなと思った。 自分のためだけではなく、"人のために"行動できる人は素敵だなぁ。
1投稿日: 2024.03.28
powered by ブクログ主張したいことは分かるが従来からの変化を感覚値で報告しているのみであり、「なぜ~のか」を裏付ける社会構造や社会心理的分析による裏付けが弱い。 良くも悪くも講談社現代新書だなぁという書。
1投稿日: 2022.08.02
powered by ブクログ2022/07/26 齋藤孝さんの本面白い。ただ頭ごなしに勉強しろって言うんじゃなくて歴史も踏まえてメカニズムを解説してくれるからいい。検索万能社会についての文章が自分の核心をつかれてるようでドキっとした、、よし、本を読もうと思った モンスターペアレントとそういう人の他人に対する敬意の無さってつながりがあるというのが、なんか自分に身に覚えがありすぎてウッ…となった、、
1投稿日: 2022.07.26
powered by ブクログ現代の日本に対して、何も疑問に思うことなく過ごしてきた若者ですが、齋藤孝さんから見た現代社会は昔と比べると質の低い学力・自己形成力の風潮が漂っているのですね。私は学ぶことを続けたいと更に気持ちを持つことができました。
0投稿日: 2022.02.12
powered by ブクログ思想家、文学者への憧れ、リスペクトが書へと向かわせた。知的なもののステータスが高かった我々の時代。 偏差値偏重と批判の大きかった時代だが、知の怪物たちと向かい合い何とか理解しようと対峙した。 今の時代にこれを取り戻そうとしたら初等教育からだと思う。古典にふれ、学ぶ楽しさを味わう必要がある。大人ががんばろう。
1投稿日: 2021.10.17
powered by ブクログ教養がいかに大切かが分かった。夏目漱石や、著名人が出てきても、名前は聞いたことがあるで終わってしまう。教養を身につけなくては不味いと思わせてくれる本である。
1投稿日: 2020.08.12
powered by ブクログ多少のデータは用いているものの、著者自身の生い立ちや20年の教員生活といった経験談に基づくものであり、あまり客観性はないのだが、読むべき点がないわけではない。 この種のテーマは格差社会論等で語りつくされているのだが、類書にはない指摘としては二章の「アメリカ化」が興味深い。カウンターカルチャーがメインとする対抗の対象は「伝統的な知」≒ヨーロッパ古典主義であると。そして身体論の隆盛により、理性(中身)より見た目重視となったと。この辺の指摘は昨今の反知性主義にも通じるところがある。 著者は大正教養主義の復興を望んでいるようだが、それは難しいだろう。自由と平等と個人主義、そしてグローバリズムの流れはもはや止める事はできない。変化する時代状況の中で古典だけを読んでいても学んだ事にはならないだろう。他方、昨今は反グローバリズムやナショナリズムが台頭する兆しもある。これらが今後隆盛し、仮に戦前回帰のようになったとしても、復活するのは大正教養主義ではなく、令和風に再構築された新たな教養主義となるのだろう。そして、それを形成していくのは大学教員の仕事である。「学ばない」と嘆くだけではなく、新たな知の体系を構築し、「教える」責任をもってもらいたいところである。
0投稿日: 2020.05.14
powered by ブクログかつての日本人と比較し、現代の日本人特に若者は向上心、何かに対するリスペクトがなくなり、自発的に学ぶ姿勢が失われ、自分にとって快適な空間、情報にだけアクセスしようとする傾向に筆者は強い危機感を持っている。 この原因の1つにインターネットの普及によって、誰もが簡単に自分が欲しい情報にアクセスし、知識を得ることができるようになったことが挙げられる。 わたしは日本の高校生が海外の高校生に比べて向上心や出世欲、チャレンジ精神が低く、安定を求める傾向があるというデータが気になった。 生き方の選択肢が増え、自由や多様性が尊重される時代、なんで日本人は安定を求めるんだろう? 誰かがやっているから自分もやろう、自分だけ浮かないように周りを意識して、周りに合わせよう、人と違う道を進むのは怖いという日本人的な思考が影響? プラスそもそも自分が何をやりたいのか分からないという人、夢や目標がない人が増えているような気がする。 筆者も言っていたように学ぶ機会が昔に比べて少なくなった(読書や先輩社員との飲みなど学ぶ機会を自分で作ろうとする人が減った)こと、物質的、経済的に昔に比べて豊かになり、そんなにガツガツ生きなくてもそれなりに生きていれば不便がないくらいの生活ができるようになったことが背景にあると思った。 何かを学ぶことは自分の成長であると同時に、誰かの幸せにもつながる。 やらなくてもなんとかなるけどやったほうが自分のためになるなら例えめんどくさくてもやってみる。自発的に取り入れた知識や経験にこそ価値があると思うし、そうやって得た知識や経験を誰かのために役立てられる大人になりたいと思った。
2投稿日: 2019.10.31
powered by ブクログ明治大学文学部教授の著者が、今の世の中、学習をしない若者達へのメッセージ。もっと、みんなで考えてみよう!というメッセージ。
1投稿日: 2018.10.17
powered by ブクログ2008年5月20日 初版 教育に関わる知識人として有名な斎藤孝氏。 タイトルを見てまず気になったのが「学ぶ」という言葉の定義である。 著者は現代の日本人を「学び嫌いの日本人」としてその中身を「学ぼうとせずに、ひたすら受身の快楽にふけるあり方」としている。 確かに多くの日本人がそういった「消費」に飲み込まれているわけだが、それが日本の消費を支えている、という事は重要な点であろう。 また、全ての日本人がそのような学び嫌いというわけではないはずだ。ネットをフルに活用して10年前の日本では得ること無い知識をどん欲に吸収して、またそれを発展させている日本人もいるだろう。 そして、勤勉な日本人という姿が存在した日本においても勤勉な人、そうでない人はいたはずだ。であれば、現代においてそれを嘆くというのはすこし方向が違うような気がしないでもない。 昔の日本にいては「末は博士か大臣か」なんて言葉があったが、それはそのポジションに至ればリスペクトを得られるという確証に近いものがあったから生まれた言葉だろう。生活の安定もほぼ確約されたようなものだ。 しかし、今の大学院から生み出されている博士たちは、就職先すら二人に一人しかみつからない状況である。果たしてそれを目指して黙々と勉強をすることが有利な選択と言えるのだろうか。 序章でも指摘されているが、インターネットによる情報アクセスのフラット化によって知りたい人はよく知れる環境が出来ている。そのことによって格差も生まれるだろう。それは悪い状況なのだろうか。 今の社会で階段を上の方まで上っていくというのは相当に厳しい競争に晒されるということだ。 そういった競争から一歩離れたところで生きたいと願う人もいるだろう。 適切にチャンスをゲットし、成功する人間が多数生まれてくれば、それに続く人間もその生き方を模倣していくだろう。いわば現代はまだ過渡期に過ぎない段階だ。 このような状況で昔の日本を参考に未来を語ってもあまり意味はないのかもしれない。 確かに教養深く知識に通じている人間は魅力的である。しかしそれで食事にありつけるかというか、なかなか難しいのが今の日本である。「博士号を持っている人間は扱いづらい」と企業の採用担当者が平気でこぼすような時代なのだ。 確かに「学び」ということは人間が生きていく上で必要だろう。問題はその「学び」とは一体なんなのか、ということが今の日本でははっきりしていない、ということだ。 何を学べば良いのか、若者に適切にフォローしてあげら得る人が少ない、という社会構造的な問題が著者をいらだたせている原因であると思う。
0投稿日: 2018.10.09
powered by ブクログ青木育志さんの『教養主義者 河合栄治郎』で、「教養主義論争」の一角を担うものとして名前が挙げられていたから手に取った。もっともこの教養主義論争なるもの、どこで行われているのかよくわからないし、べつに「論争」ではないのではないか。それに斎藤は教養ものはほかにもたくさん書いているし、『「文系力」こそが武器である』とかもある。まあ本書は2008年だから、そんなに本を出しまくっていたわけではないのだろうか。目新しい記述はなし。
0投稿日: 2018.10.08
powered by ブクログまあ、そんなものだけど、 そういうテーマに挑んだところがいいね。 資格を獲るだけが勉強になってる。 バカバカしい限りだ。 勉強って、自分を信じられるようになるために、 するんだけどね。
1投稿日: 2018.05.06
powered by ブクログ今の若い世代が本を読まない、学ばないという現実に向き合うと共に、今度は自分どの様に、次の世代への手伝いが出来るのか?が問われているのだと思っている。
0投稿日: 2018.01.12
powered by ブクログあこがれを持ち、学び続けること。学ぶことに対しての尊敬の意を忘れないこと。 あこがれを持ち勉強に励み続けることによって自分の軸もしっかりとしていき人としてどっしりと構えられる。現代の若者によくある一生モラトリウム、ということもなくなる。 皆で同じ定位置に留まって安心し合うような、お互いを慰め合うような関係じゃ駄目だ。志を高く持って、上へ上へと目指していかなければ。
0投稿日: 2017.08.31
powered by ブクログイヤホンから耳を離さない限り、偉大なる伝統の言葉は彼らの耳には届かない。長い間耳にあてていたイヤホンをはずしたときに、初めて気がつくのだ。自分には何も聞こえないことを。 イヤホンで耳を塞いでいる若者たちに聞かせたい言葉である。 そして、これが発刊されたのが2008年。当時の自分に読ませたかった。 ただ、読了したのは2017年。今読むには、どうしても時代錯誤に感じる記述が多いのは仕方がない。ただ、この日本がかかえている構造的な問題を大人が、本当に真剣になって解決しないといけない、ということには変わりない。
1投稿日: 2017.01.26
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
2008年刊行。 日本人の脱教養化を嘆き、教養(主として文系)の復権を図るべく、読書の有用性・必要性を説く。 著者はやっぱり根っからの教育者なのだろう。読後感は良い意味で熱いアジテーションを聞いた気分。特に第5章「思想の背骨」再構築に向けて、と、あとがきは読ませる。 ただし、あくまでも個人に向けたメッセージという意味合いが強い。言い換えれば、著者の現実の処方箋は心許ないし、学ばなくなった社会的要因に関する分析も、やや首を傾げてしまう。 殊に中途半端なアメリカ化を「アメリカ化」と断じる言い回しは誤導であろう。 また、数学・物理学などいわゆる理系学問に対する著者のリスペクトが感じられない。現代の高校生は数学の学習を抜きにして語れないし、読書しない点のみならず、大学受験のため数学の学習から撤退させる風潮も問題視されるべきなのだ。 この意味で、まじめに理系科目を学習し、あるいは実験に勤しむ優秀な学生にはやや酷な言われ方の観がある。ただし、文系大学生が本を読まないのはもってのほかと思うが…。
0投稿日: 2017.01.10
powered by ブクログ私はたぶんこの20年くらいのあいだほぼ新書ばかりを読んでいる。もう少し若いころは時間もお金もあった(自分が自由に使えるお金がもっと多かった)ので、ハードカバーもかなり買っていた。みすず書房の白い表紙の本なんかが本棚に並ぶのがうれしかった。最後まで読み通せないことも多かったのだけど。最近は往復40分少々の電車の中が一番の読書タイム。もちろん新書でも読みにくいのは多いけど、電車の中でいろんな発見をして、帰宅してパートナーにその感動を伝える。たいがい、ワクワクしているのは自分だけで、彼女は退屈そうなのだけれど。さて、齋藤先生は日本人が「バカ」になったことを本当に心配している。新書すら読まない日本人が多いと嘆いている。学ばなくなった一番の理由は、教師に対してリスペクト(尊敬)する気持ちがなくなったことだという。「モンスターペアレンツ」などという言葉ができるくらいで、親が先生に敬意を示さない。当然子どもも先生をバカにする。教室に学ぼうとする姿勢が芽生えないのは当然のこと。私は齋藤先生より少し下の世代だけど、共感することが多い。先生の取り組み(偏愛マップや会議の仕方など)を真似ることも多い。でも、ちょっとまじめに考え過ぎるとしんどくなることがある。そこで森毅。ときどき古い森先生の本を読んでいる。とても気が楽になる。この落差・・・。
0投稿日: 2015.04.13
powered by ブクログオビに書いてあることを、そのまま。 「勉強嫌い、読書量の不足、敬意の喪失 萎縮する若者が「できる」大人になるために」 この書き方は気に入らないが、では「できる」大人になるためにどうすればいいか?というと、本を読みなさい。&学ぶエネルギーの高い場所に集いなさい。だという。 (と、読んだ。) 中心はタイトルにあるように『なぜ学ばなくなったか』の理由付けであり、解決の一冊ではないと思う。 まして「日本の「教育力」を取り戻す!」のは難しい。 齋藤孝の読書への意味付けは何度も為されており、解決を期待するのならば『読書力』や『古典力』を読んだ方が面白い。 偏差値教育にも意味があるという言を必ずしも否定はしないが、大学進学率の高さと、センター試験までもが人物重視を謳いだした現状で、偏差値という観点での結果に対するモチベーションを上げよという方が無体である。 しかし、学ぶことは教育機関の門戸を叩くことのみに通じるものではない。 そうした中で、読書というのは非常に意味のあることだと思うし、それは偏差値云々よりも大切な心構えであるだろう。 結局のところ、自分に対する責任を失った子供たちに育ててきたのは大人である。 自身への責任どころか、社会へ責任転嫁する光景さえ多々見られる。 大人が「己に対する責任の欠如」についての自省を以て、次の子供たちに中らない限りはこの状況は変わらず侵攻していくだろう。 学びとは、自身にとって震えるほど楽しいものである。 それは齋藤孝の言う共有ではなく、過去や故人と対話する孤独な行為であっても楽しい。 さて、そのことをどう「学ばせる」かを大人は考えてゆかなくてはならない。
1投稿日: 2014.08.15
powered by ブクログ「学ぶこと」に対する「リスペクト」がなくなってしまったという指摘は納得できます。この国の未来に対する強い危機意識が、著者にこの本を書かせたのではないかと思いますが、「あとがき」で取り上げられている子どもたちの読書や学習に対する熱気を伝えるエピソードには、まだこの国には希望があるということを感じさせられます。 ただ、大正教養主義を「リスペクト」する著者自身の好みが強く反映されていて、ドイツ哲学やロシア文学を学ぶべきだとされていますが、これには全面的には賛同できないとも感じました。もっと多くの、それこそどんな対象からでも、私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。著者が批判的に言及している、戦後の日本が受け入れてきたアメリカの大衆文化や「ガンダム」などのサブカルチャーにも、学ぶことはたくさんあるはずだと思います。 もちろん、そうした可能性を著者が否定しているわけではありません。「スラム・ダンク」の友情論についての本を書いたこともある著者が言いたいのは、アメリカのロックや日本のサブカルチャーにも優れたものはあり、そこから多くのことを学べるのは確かだけれども、そのことを理由にして、他の学問や文化から学ぶべきものなどないといった態度を取るのは間違いだ、ということなのかなと理解しています。 ただ、やっぱり著者自身の「教養」観に基づいた懐古的な話が多いので、そこに抵抗を感じる読者も出てくるのは仕方がないという気がします。
1投稿日: 2014.02.07
powered by ブクログ斎藤孝氏の本をそれほど読んではいませんが,本書は,やや攻撃的で強めの論調で,氏のイメージが若干変わりました.冒頭から「バカ」が攻撃されているので,自分がその「バカ」ではないかと,びくびくしながら読みました.日本の将来や若者のことを心配されていることはよく伝わりました.
0投稿日: 2014.01.27
powered by ブクログ日本人のアメリカ化は深刻だな。 そして自分もその中の一人というのをかなりかんじました。 肝心なことを忘れているな。 日本人が伝えてきた「学ぶ心の伝統」を自分も伝えていかなければならない。 まずは自分が学ぶ精神を改めてから…
1投稿日: 2013.09.23
powered by ブクログアンチアメリカ、ヨーロッパ擁護の典型の本ってかんじ。 まあでも日本が中途半端なところで資本主義・民主主義に適応しようとしてるってところは同感。雰囲気的にデモやストライキの起きてはいけない国なのにね。 でもやっぱりアンチアメリカ、アンチカウンターカルチャーでわたしは読んでて辛かったです。
0投稿日: 2013.08.13
powered by ブクログ日本の近代教養主義の復権を願う内容です。 『読書論』で語られていた、宗教的道徳観を養うのは難しい日本において、 読書により様々な思想に触れる習慣が精神性に大きく影響を与えた というのはなるほどなぁと思いました。 少しリンクする部分もある学びについての考察です。 歴史的背景も交えながら日本近代の学びの在り方について考察されています。 かつてはすべての学問として哲学・思想が基礎となっていたんですよね。 知に対する憧れを取り戻せたら、日本の未来も変わるかも。
1投稿日: 2013.08.07
powered by ブクログ読了。 多くの大学生が本を読まなくなっていると感じる。私の周りには読書の楽しさを分かち合うことのできる友人も居るが、そうでない友人の方が圧倒的に多い。 本を読まないせいとは一概に言えないのだろうが、講義の際の発言がおよそ大学生とは思えない幼稚なものもある。ろくに考えもしていない姑息な発言になんの意味があるのだろうか。 大学全入時代と言われているからといって知的なレベるが上がったわけではないのだろう。周りが大学に進学するから私「も」大学へ、その程度のもののように感じる。 愚痴っぽくなってしまった。
0投稿日: 2013.07.13
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
知へのリスペクトの低下を嘆くあまり、序盤から多少強引だなァと思う展開が気になる。ロックが嫌いなのは分かるが、アメリカ文化の輸入によって、まず既存の主流文化への抵抗から「時間をかけてやっと得られる教養」を志向しなくなり、そのうえ代わりにすぐ得られる快楽を選択するようになった、てのが特によく分からない。 でもこういう熱いひとが現状を嘆いてくれないと何も変わらない。知識がなければ、不利益を被ることを知ってほしい。その啓蒙のための入門書としてであれば使えるような(文章はさすがに読みやすい)。
0投稿日: 2013.06.06
powered by ブクログ若い時には読書をしていなかった。もっと早く本を読んでいたらよかったのにと後悔している。 若者文化で、特に最近のヒップホップから始まりズボンを腰下までずらすファッションに?だった。 明確な答えが有った。 白人文化への憧れから、黒人文化への移行。黒人文化が悪い訳では無い。安定した仕事につけない不安、まずしさから黒人文化への接点がある。 学習していないので、言葉ではなく単語のヒップホップでしか表現出来ない。 ロックの悪影響には、胸が痛む。客観視すると確かに、カウンターで否定するアメリカ文化の悪影響だ。楽に快感を得られるロックは、有害と表現されても納得してしまう。 アメリカ文化の大切な要素は取り入れず、楽な事しか取り込まなかった時代に自分が生きている事を知っただけでも、読書をした意味はある。 斎藤 孝は、自分の生涯の先生になるだろう。
1投稿日: 2013.05.15
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
いつも温厚な齋藤先生が、のっけから「学ぼうとしない奴はバカ」と全開で切って捨てる切り口に、驚かざるを得なかったが、それくらい日本人の無学ぶりに危機感を持っているのだ。日本人は勤勉という神話はもはや存在しない。江戸時代の識字率の高さに海外が驚いたという話は有名であるが、学ぶ意欲すらない「向上心」の急落は現代社会の問題として受け止めなければならない。本書はまずその原因や背景から論じている。 まず、一つ目は、「リスペクト」という心の習慣を失ったことだ。かつての日本人には、何かに敬意を感じ、憧れ、自分自身をそこに重ね合わせていくという心の習慣が、ごく自然に身についていた。仏教の教えや論語など、自分よりすぐれたものを認識し、それに対しての畏怖や畏敬の念を持っていた。しかし、ある時期を境に「バカでもいいじゃん」という「バカ肯定社会」に変質し、「ノーリスペクト社会」が到来した。そして、インターネットの普及により、知の格差が大きく広がっている。情報がただで読める時代に敬意を持ってるとは考えられない。そして、社会のバカの象徴がテレビである。知性のないことを競うかのような番組を見る視聴者はをそれを見て楽しんだり、安心したりするという構図である。そんな中、教育をサービス業と捉える知性や教養に対する尊厳のない「モンスターペアレンツ」が出てくるのは当然かもしれない。 二つ目に、学生の質の変化がある。濃い関わりをさける傾向により、コミュニケーション能力が低下し、自分のことをさらすことのできない学生が多いという。他人の目を過剰に意識し、自分自身というより他人の承認によって支えられている。自分の実力を高める努力はぜず、褒めてもらいたいのだ。そんな中、大学で知を学ばず卒業していくものが多いという。圧倒的な知的な本を読む習慣がついていないせいだ。本を読まないということは、知性のみならず、集中力や忍耐力の欠如にもつながる。そうした意味から、今は心の安定を失いやすい時代であり、「心の不良債権」状態だという。そんな中では、転職や辞職をくり返し、夢という理想だけを追い求め、「やさしさ」という弱さにすがろうとする。人に対しても、自分に対してもやさしく、「本当の自分」を見失わない生き方。 それを助長させたのが三つ目、「アメリカ化」である。 ヒッピーや性の解放など、あらゆるアメリカの文化が日本に蔓延し、それが中身より見た目重視へと変化した。それがバブル社会を経験し、アメリカ化が良しとされ続け、バブル崩壊後、『失われた20年』の中で一億総中流家庭から「勝ち組・負け組」へと二極化してしまった。 この現状を打破するためには、学ぶ心の伝統を再確認し、「学ぶことを生きがいとしている日本人」をアイデンティティの柱の一つとして意識していくことが求められる。学ぶ心はひとりでにつくものではなく、学ぶ戦陣の姿に「あこがれ」を感じ、自分も学びたくなることが大切である。そうした意味で、読書の重要性が挙げられる。読書とは、自分の中で行う、偉大なる他者との対話である。これにより、ねばり強さや判断力といったものを身につけることができる。「情報」ではなく、「人格」として書物を読む習慣を身につけるのである。その中で、さらに知りたいという気持ちが向上心につながってくる。自分をもっと掘り下げたいという思いは、哲学的な考え方につながる。宗教教育のない日本の公教育には、哲学的思考が欠如している。自分を掘り下げるとは厳しい修行のようなものかもしれないが、目指すところは自己のあり方に関わってくる。それが自然と身についた時に、教養を持った人間として見られるのである。
0投稿日: 2013.03.04
powered by ブクログ齋藤先生の言う学びのベースは読書にあるわけですが、確かにデータとしてこれは少なくなっているなぁというのと、実際に自分が大学生の時とかもそうだし、今の周りの人も本を読まなくなっているのは事実。 昔の教育システムに回帰するのも現実的ではないと思うので、そこはもう少し理想から離れたヴィジョンを見たかったですね。
0投稿日: 2013.02.23
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中高生にも読めるように語尾が、ですます調になっています。また、いかにも教科書や入試に出そうな感じな文章だなという印象を受けました。しかし、書かれている内容はなかなか納得できるものでありました。学問へのリスペクトがなくなってきているという指摘。モンスターペアレントなどにみられる先生への尊敬の欠如や、少し驚いたところでは就職の際の学歴不問という募集についてもなるほどと思わされました。確かに、学歴だけでは十分な評価はできませんが、学問をある程度頑張った、もっといえば学問を身につけた人へのリスペクトがないんじゃないのかという指摘には少し考えさせられました。
1投稿日: 2012.12.31
powered by ブクログ勉強は、明日に希望を持つためにすること! もっと早く出会いたかった本です。 勉強しない大学生活を送ってしまったなあ
1投稿日: 2012.10.28
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・日本人=勤勉? かつては、日本人と"勤勉"は必ずセットだった 現在では学ぶ意欲が衰退し、"おバカ"をウリにする番組も目立つ状況 世界的に比べても、明らかに学力は下降している 生きる力は、学ぶ意欲とともにある バブル経済の1980年代に日本人の学びへの意識が変わってしまった ・リスペクトの精神 なぜ学ばなくなったのか、それはリスペクトの精神が失われたから リスペクト: 自分より優れたものがあることを認識し、それに畏怖や畏敬の念を持つこと 何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていく心の習慣 リスペクトの精神が失われ、バカでもいいじゃないか、という空気に 開き直り社会、バカ工程社会、ノーリスペクト社会に ・垂直志向から水平志向の世の中へ かつての日本 = リスペクト社会 教師・意思・親・先人に対する尊敬・感謝の念 学ぶことへのリスペクト = 学びへのあこがれ 現在の日本 = ノーリスペクト社会 尊敬・感謝の喪失 モンスターペアレンツ、ペイシェントの出現 勉強嫌い、活字文化の衰退、読書離れ ・やさしさを重要視 真善美を求める、正義を突き詰める、天下国家を論じる考えから、 やさしさが価値を持つようになった やさしさはカウンターカルチャー 親が子供を鍛え、社会が人を鍛え、厳しさのなかで何かを生み出す価値観、 だれもが努力し、我慢し、作り上げてきた資本主義社会に対抗して、 それを受け入れられない若者を中心に広がってきた 人に対しても、自分に対してもやさしく、本当の自分を見失わない生き方を求める 永遠に若者でいたい症候群、責任を大人として引き受ける意識が希薄になる ・学びをうばったアメリカ化 戦前はアメリカよりもヨーロッパ、ロシアの影響を強くうけていたが、 戦後はライフスタイル、思想的にもアメリカ文化に支配された 特にロックがその普及に大きく貢献した アメリカの若者文化はカウンターカルチャーであり、 無から何かを生み出すのではなく、現在あるものへ対立する考え 伝統的な知 = ヨーロッパの古典主義への対抗 文化、知的遺産、教養への対抗意識 アメリカ人には1日でなれるが、フランス人には1日ではなれない 思想的な教養が要求される敷居の高さ 一方で、アメリカのフロンティアスピリット、インディペンデントな気概という 文化の優れた面は取り入れられなかった 教養主義を失い、中途半端にアメリカ化し、 寄りかかる柱を失ってしまい、金銭至上主義へ走ってきた ・自己形成から自分探しへ 自己形成 学びの積み重ねによる自己形成 旧制高校的教養主義 垂直願望 自己を掘り下げる、自己を向上させる、構築する 自分探し 1980年代~ 自分への不安感から瞑想 水平願望 どこかで幸運で出会いがあり、自分が一気に変わる
1投稿日: 2012.09.15
powered by ブクログ「教養」という言葉自体に対して、日常生活とは遠く、空論のように私ですら直感的に思ってしまうこと…これは確かにレベルが落ちているのだろうなぁ。流行の勉強会も、知への欲求というより、スキル獲得が主流に思えます。難しい(?)哲学には手が出ないとしても、大きな社会観や問題意識は持ち続けたいものです。
1投稿日: 2012.08.27
powered by ブクログ第5章:薄い人間関係を志向する若者たち 興味深かった。 教養を身につけることは、今の社会を知ること。 自分たちを知ること。 これからの未来を考えることにつながると思う。 薄っぺらい話しかできない人間にはなりたくない。
1投稿日: 2012.07.22
powered by ブクログ『そもそも学ぶとは、野生動物のように自ら知識を狩りに出かけ、貪欲に吸収することです。こうして知を得ることは、友人に伝えずにはいられなくなるような興奮を伴うものです。』 本当に勉強している人は、きつさよりも先の目の輝きがあると思う。(高校のときの前田君とか) 『読書とは自分の中で行う、偉大なる他社との静かな対話』『「情報」ではなく「人格」として書物を読む習慣を身につける』良い言葉だと思った
0投稿日: 2012.06.13
powered by ブクログ大学生の知的レベルの低下が叫ばれて久しい。しかしそれよりも日本人の知的レベルが落ちいているのではないかと著者は言う。特に強調するのが、読書量の低下である。自分もそれほど大学時代に本を読んだ方ではない。しかし、明らかにそれとは比較にならないくらいまわりの人は本を読んでいない。 さらに思考能力のレベルの低下も著しいように思う。そもそも議論・討論・対論の方法さえ未熟である。論理力が弱いことも感じる。 今の日本の学校教育に必要なのは書く力と技術、議論する力と技術、読書力である。これらは教える方にも技量が求められるが、皮肉なことにこれらの能力を一番持っていないのが日本の教師である。書く力がないから書かせっぱなし、論理力がないから議論を恐れて教えっぱなし(教えてもいないが)、読書も浅い読み方である。 せめて読書会を週1回でも開いて、本の中身について論争させるだけでも知的欲求の向上には役立つだろう。
0投稿日: 2012.04.29
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日本の若者は勉強しない、その理由は「知性・教養へのリスペクトがなくなったこと」であると筆者はいう。 さらにその要因として、「ゆとり教育で競争する精神が乏しくなったこと」や「アメリカ化によりロックやドラッグ、セックスといった短絡的な快楽を追い求めること」が、日本の若者に浸透したことが挙げられている。 しかしこの本を読んで感じたのは、もっと根本的な理由として、「リスペクトできるほどの教養人が若者のまわりにあまりいない」ということが言えるのではないか、と。 親や先生、会社の上司に尊敬できる人がいれば、自分もあんな風になりたいと思って勉強するはず。これから生まれてくる子供たちに、「もっと勉強したい」と思ってもらえるように、僕ら大人が、少しは尊敬してもらえるような教養人にならなきゃいけないと感じた。
0投稿日: 2012.04.29
powered by ブクログ「かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。」 そうだそうだ、と思いながら読んだ。 「自分は未熟である。だから勉強という修行を積むのだ・・」 そうだそうだ。 「・・教養を重んじていない次の世代に対して、 足腰の弱さのようなモノを感じている・・」 フムフム。 「勉強にエネルギーが出せないだけではなく、ナンパする エネルギーも持てないわけです。」 ちょっと言い過ぎかも・・。 「ものごとには、深さと高さがある」 「・・我慢強く掘り下げ、よじ登り、積み上げる・・」 そうすることによって生きる手応えが格段に大きくなる。 読み終わって、少し活を入れてもらった気分になった。
0投稿日: 2012.04.09
powered by ブクログ最近の日本では,確実に「バカ化」が進行している。筆者によると,その理由は,自分より優れたものに畏怖や敬意の念を持つ「リスペクト」という習慣を失ったからだという。本来,リスペクトしたいという願望は,成長とともに尊敬の対象を変え,自己形成していくが,その経験が乏しいと,自分の人格や人生に対して,相手に依存したり,責任を転嫁したりする傾向に陥りやすい。筆者は,こうした「ノーリスペクト社会」をどう克服するかが今の日本にとって大きな課題だと説明する。 筆者が特に懸念するのは,大学生の向学心の無さである。学生は1960年代まで知的な読書をしていたが,70年前後の全共闘時代以降,その習慣を持たなくなった。こうした教養主義の没落には,日本の若者の「アメリカ化」が大きく影響しているという。アメリカの若者文化とは,基本的にカウンターカルチャー(対抗文化)であり,教養へのリスペクトを必要としない。ロック,性の解放,ヒッピー文化しかりである。とはいえ,日本の若者がアメリカ文化の全てを取り入れたわけではない。開拓者精神,独立心,個人主義などは,日本の若者文化には根づかなかった。すなわち,日本の若者は,大人社会に反抗しつつ,結局大きな制度にはぶら下がる生き方を選択してしまったといえる。 そこで,筆者は,日本の旧制高校の制度に着目する。旧制高校の学生は,文理を問わず,哲学を根本的な基礎教養として共有し,それを修得して初めて,法律や経済や理科系などの専門に進学することができた。哲学的な思考は,自分を深く掘り下げ,時空を超えた本質的な問題に向かっていき,自分に何ができるのかを探求するために,不可欠な学問である。日本の高度成長期に活躍した経営者も,こうした学生時代をくぐり抜けてきたからこそ,経営哲学を身につけていたのだという。 だからこそ筆者は,現在の大学生に対して,旧制高校出身者のように,精神的なタフさや,思考することを厭わないねばり強さ,勉強することを楽しむといった向学心を身につける重要性を説く。かつてマルクス主義が教養主義に大きく入り込んでいたが,自分の信奉する以外の理論を徹底排除し,学生を破壊的な行動に走らせすぎた結果,後の世代の思想に対する積極性をつみ取ってしまった。だから,現在の日本には倫理観を養う教科が存在しない。そこで筆者は,倫理観を再興するための「読書力」を重視する。読書を手段として,バランスのとれた判断力や粘り強さ,そして世界に通用する教養を身につけるのである。人は誰でも,リスペクトしたいという気持ちを必ず持っている。それならば,中高年世代には,若者へ「学びのあこがれ」を掲示する社会的責任があると,筆者は主張する。 評者も,これまで一般教養科目に携わってきたが,準備期間の短さゆえ,ついつい自分の専門科目を押しつけてしまった嫌いがある。経済史という専門科目自体が,経済学と歴史学を折り合わせた基礎教養的科目だけに,読了後,学生の「リスペクト」に繋がるテーマを提供していく必要性を痛感した次第である。
1投稿日: 2012.03.01
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P86 ここまで述べてきたように、60~70年代の日本は、ヨーロッパの古典的な教養から離れ、むしろそれを否定するようなアメリカの対抗文化に飲み込まれていきました。 ただ、ここで日米の学生をしっかり区別する必要があります。前述したとおり、アメリカの学生は本を全く読まないと批判されていますが、この当時、日本の学生はまだ読んでいたのです。 ところが70年代半ば以降、キャンパスから教養主義が駆逐されていきます。その結果、岩波新書の初版部数がこの当時でピークを迎え、以後下がり続けます。『教養主義の没落』で紹介された『岩波新書50年』によると、70年代前後の全共闘の時代を境に、それまでの全読者に占める割合の第一位だった大学生が、どんどん順位を下げていった。 また、同書で竹内氏は、初版購入者に占める大学生・短大生の実質的なシェアが、65年から95年の30年間で8分の1にまで縮小したとの試算を示しています。 P100 アメリカという国の基本にあるのは、フロンティアスピリット(開拓者精神)、インデペンデントな気概(独立心)です。 P120 かつては、そもそも学ぶこと自体が身体的だった時代もありました。唐木順三は著書『現代史への試み』の中で、これを「素読世代と教養世代」として区別しています。 素読世代とは、夏目漱石や森鴎外をはじめ、二葉亭四迷、内田鑑三、西田幾太郎などの世代、その最後尾として永井荷風を指しています。 もう一方の教養世代とは、芥川龍之介の世代です。 P146 三木清によれば、教養の観念は主として夏目漱石門下の人々、特に漱石の東大時代の師でもあった哲学者ラファエル・フォン・ケーベルの影響を受けた人々によって形成されました。 P180 マルクスがかつて批判したのは、被支配者を分断する支配者でした。支配者にとっては、そのほうが都合がいいからです。それは哲学者ミシェル・フーコーが『監獄の誕生―支配者と処罰―』のなかで「パノプティズム」として批判したものにも通じます。 ベンサムという功利主義者が、「パノプティコン」という刑務所の建築様式を考案しました。簡単にいえば、囚人を汚い一室にまとめて収容するのではなく、きれいなドーナツ状の建物一部屋に一人ずつ入れる仕組みです。 各部屋を明るくガラス張りにする一方、中央に配置した監視塔を暗くしておくと、監視塔からは囚人一人一人が丸見えになりますが、囚人から監視塔の中は見えません。こうして常に監視されているという意識を囚人に植えつけることで、自分自身を自分で監視させようというわけです。フーコーは、この非常に巧妙な管理方式を転用して「パノプティズム」として概念化し、現代が監視社会化していることを示しました。 この特徴の一つは、囚人どうしがバラバラにされているため、会話が出来ないということです。彼らを一つにまとめると、囚人内部で社会をつくり、食事が悪いだの脱獄しようだのといった相談を始めるおそれがある。そこでバラバラにして一人一人を監視するシステムにすれば、個々人は非常に弱くなり、操作されやすくなるわけです。 P214 伊丹敬之一橋大学教授は、日本の経営者に自社の利害を超えた大局的観念、「哲学」が欠けてきたと指摘している(「哲学なき経営者の危険」『Voice』2007年12月号)。そこで次のような本田宗一郎の言葉が引かれている。1952年、創業まもない、資本金6千万円の本田技研は、四億円の工作機械を輸入した。 「私はこの際生産機器を輸入すれば、たとい会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。それならどっちにころんでも国民の外貨は決してムダにはなるまいという多少感傷めいた気持ちもあった」(本田宗一郎著『夢を力に:私の履歴書』)
0投稿日: 2012.02.08
powered by ブクログ旧制高校に憧れた著者は現代のアニメとロックに明け暮れ、「教養」を軽視する若者を「バカ」と切り捨てる。 しかし、その奥底には日本を思い、若者に学ぶ喜びを知って欲しいという、熱い想いを感じ取ることができる。 あとがきの中にとても共感する言葉があった。 「占いや他人からのはげましだけに頼って、心の天気の心配ばかりしていても、本当の晴れは来ない。心の晴れは、技がもたらす。」 「空気は読むものでなく、つくるものだ」 「自分を支えてくれる『技』を磨き、その技で他の人を幸福にすることを生きがいとしてくれたまえ」 日々、大学教員として、学生を鍛え、直接向き合えない人のために本を書き続ける著者の言葉だから、心に刺さる。
0投稿日: 2012.02.03
powered by ブクログ本屋で衝動買いしました。■「学ぶ=読書」の図式に違和感この本ではあたかも学ぶこと=読書すること、であるかのように記述されています。それだけではないのではないか、と少し違和感を感じました。著者自身もこの違和感を持っていたのか、あとがきで若干それを釈明している節がありました。■「アメリカ化」が教養主義の衰退をもたらした不完全な「アメリカ化」が教養主義の衰退をもたらしたと指摘があります。これは、たしかにそういう側面もあるのかもしれないと考えさせられます。
0投稿日: 2012.01.09
powered by ブクログ人間関係の希薄化 読書量の減少 とにかくこの2つが大きな理由として挙げられるということが書かれてある。 自分も学ばなくなった世代に入るのだと思う。 楽な道に体を向けるのではなく、日々の努力、挑戦を胸に刻み生きていきたい。
0投稿日: 2012.01.01
powered by ブクログ勉強不足等で若者が頼りない存在と写るのはいつの時代のことでもある。日本人は元来身体的に学び、教養と呼ばれる頭で考える学びに対しては歴史が浅く、現代に至っても身につけきっていないのではないだろうか?また果たして将来的にも身につけられるものなのだろうか?マルクス主義に行ったり、カルトに走ったりするのはどこか身体的な学びを欲している(頭だけではダメだと思っている)のではないだろうかと思った。この本で身体的な学びということが分かってよかったと思う。
0投稿日: 2011.12.25
powered by ブクログ日本人の学力低下が叫ばれて久しい。その理由としてはいくつか指摘されていますが、いわゆる「ゆとり教育」が本来の目的とは違う方向に陥り、つまり生徒が自分で考える力を伸ばすことができず、単に教える内容が減ってしまったため、絶対的な知識量の減少が生じてしまったこと。それからインターネットの広範な普及で、居ながらにして大量の情報が入手できるようになったため、情報の価値が相対的に低下したことがあげられるかと思います。 マスメディア、とくにテレビ番組の力も大きいでしょう。バラエティ番組に見る価値のあるものはないと思っていますが、とくに昨今の「おバカタレント」の知識のなさを笑いものにする番組が酷い。視聴者にとって、自分よりも知識のないものがテレビカメラの向こうにいることで、これ以上学ばなくても安心だという気分が生まれるのでしょう。 この本もそういった話をベースに書かれていますが、懐古趣味が強すぎて、納得のいく部分はほとんどありませんでした。人間が易きに流れるのも、日本社会が米国化したのも、インターネットで情報の洪水が起こるのも、時代の要請であり必然です。それに抗おうとして、何になるのか。 このような時代のもとで、どのようにして学びを得るのか模索するべきところが、昔はよかったで終わってしまっています。 また、昔の教育が必ずしもよかったわけでもありません。画一化した人材しか供給できず、過去の成功体験にとらわれて進歩できない教育でしたから、状況の変化に対応できないわけです。太平洋戦争の4年の間に敵国の戦力が増大したのに、手をこまねいていて敗戦したし、戦後の高度経済成長の結果日本が米国を追い抜いた瞬間、目標を見失って迷走しました。 新しい時代の、新しい学びが必要なのに、そのことについて何も書いてくれていないのが、大きく不満でした。 とは言っても、新しい試みについて実際に何も書かれていないわけではないのです。作者自身、新しい時代にあった試みを行っているし、その内容は「あとがき」の10ページ余りに凝縮されています。この試みについて別の本に書かれているのかもしれませんが、この本でも1章を割くくらいのバランスで、ちょうどよかったのではないでしょうか。
0投稿日: 2011.08.19
powered by ブクログ■日本人 1.-日本人は戦後、米国の若者文化の影響を受け、音楽によって簡単に快楽を昧わうことを覚えた。そのことが、本を読ん で自己形成するという地道な活動を困難にした。
0投稿日: 2011.08.08
powered by ブクログ随所にツッコミどころはあるものの、「今と昔の学生の違い」の考察を通して自分の学びに対する姿勢を考える一助になったかな、と感じた。 前文にも繋がるが、今まであまり考えたことがなかった読書の意義について一考させられたというのも読後思ったところ。
1投稿日: 2011.07.23
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
今の若者が、昔と比べて向学心に乏しく、リスペクト(尊敬)の対象も失っているのではないかと提言している本。全体的に「~と思えます」、「~のようです」とかいった根拠が曖昧なものが多くて、確かめようがなく、説得力に欠けている。 著者が言わんとすることはわかる。昔(明治~昭和前期)の大学生のほうが向学心も学力も、今の大学生より上なのは確かだと思う。今は、大学が大衆化して、一部エリート以外の学生が入学するようになり、以前のように学問を追求するよりも、「大企業に入りたい」とか「官僚とか弁護士になりたい」といった多様な希望を抱く傾向がある。 そして、多様化した学生のニーズに応えるため、迷走が始まった、という背景がある。それなのに、この本ではそういう旧制大学に通うような一部エリート層の若者と、大衆化・均質化した現代の若者全般を十把一絡げに扱っている。何か、ずるい。 それにしてもこの本、愚痴っぽい。まあ、明治半ばから後期にかけての頃も、「憲政の神様」として有名な政治家の尾崎行雄が「最近の若者はだらしない。維新志士を見習ったらどうだ」とか愚痴めいたことを言ったことがあった。 1970年代初頭には「三無主義」という言葉が流行し、最近の若者は「無気力」で、「無関心」で、「無責任」であると特徴付けられている。この若者たちは「団塊世代」と呼ばれ、今では60歳前後になり、今の若者に対し「ハングリー精神に欠ける」とか「コミュニケーション能力に乏しい」とか愚痴をこぼしている。こうした現象は古代エジプト時代からあるそうだが、今も変わっていないとは… なんと普遍的なことか。 一応共感できる箇所があったので、★2つ。学問を志そうと思う者の薬にはなる本だと思う。本気で志そうというなら、福澤諭吉『学問のすすめ』のほうがいいだろうが。
0投稿日: 2011.06.18
powered by ブクログ概ね納得できる内容だったが、政治的観点や時代的背景といった考察が少なく、宙に浮いた精神論に終始していたのではないかと思う。読んで損はなかったとは思う。
0投稿日: 2011.04.16
powered by ブクログ率直に「この人の元で学びたい!」と思った。本書で語られている(叩かれている)のはまさに僕ら「若者」で多少複雑な気分でもあったが、今この世代が奮起しないでどうする!まずはとりあえず投票とか行くぞ!って燃えさせてくれます。我ら大学生は黙ってあとがきまで突っ走り「若い人へのメッセージ」を読むべし。 バカ肯定時代→歪曲した「やさしさ」→さらば深交力 アメリカ化→「遊び重視」転換→さらば書生 ・読書力、哲学、教養→「迂回力」「我慢」「恥を知る」 ・パノプティズム日本 ・ガンダム=世界観
0投稿日: 2011.03.02
powered by ブクログ一流の国(精神、生き方)から三流の国(精神、生き方)へのランクダウンという事実。このことに無関心でいられてもそれが自分の未来に関わる問題としたら看過ごせないだろう。「KY」的生き方をポジティブにとらえて、伝統的な日本人「ムラ社会」からの脱却が今求められる。(藤井信之先生)
0投稿日: 2011.01.24
powered by ブクログなんというか、今までもやもやしてたものが若干取れた気がする。 昔の学生は遊ぶよりそれこそ「学」ぶ「生」徒だったんだと。 戦後アメリカの文化、ロックとかが入ってきてみんな自分を律するより楽なほうに逃げていった。 最近の「がんばらなくてもいいや」風潮はアメリカ化された結果なんだと。 うちの大学は滑り止めで入ったから、志望大学より偏差値は低め。 他の大学がどうか分からないけど、少なくとも大学生になって 授業中に「おしゃべりやめなさい」だとか注意されたくない。 で、単位も「ダメだろーなー」と思って出したレポートで取れる。 こんなんでいいの?と思った単位は数知れず。 ゼミの友人とも授業中以外でゼミの内容について語ることもなかった。 もっと知識と知識でぶつかれる友人がほしかったな。 お互い十分調べて議論でぶつかる、みたいな。 ま、受験期だらだらしてたから仕方ないか。 人生がやり直せるとしたら、高校時代に戻ってちゃんと受験勉強したい。 もっと偏差値高い大学入ってぬるぬる進級できるような所じゃない大学でちゃんと勉強したい。 それと、経済的にというのもあるけど親が絶対4年で卒業しろというのがプレッシャーだった。 もう1年行けたらドイツに1年留学してたかもしれない。 8月に短期留学したとき、ドイツの大学生は余裕があるというか、柔軟な学び方をしてると思った。 休学して自費で日本に来る人もいた。 日本人でそういう人がいないわけじゃない。 でも少なくともうちの大学は就職内定率上位校の面子があるのかそういう雰囲気がない。 ちゃんと進級して、ちゃんと学校のいうとおりやればいいところに就職できるよ。 どうも大学側(特に就職課)からそう言われてる気がしてならない。 イラッとしたから就職課にはほとんどお世話にならず自力で就活した。 うん、確かにみんな大学入るのは就職のためだけどさ。 でも悩む時間ってのが少しはあってもいいんじゃない? それが4年間のうちに入ってるならちょっと短いと思う。 もっと本読もう。
0投稿日: 2010.12.12
powered by ブクログ目からウロコの連続! あたしが、あなたが、社会が不安なのはみんなみんな「バカ」だからなのです。 立ち止まって自身を掘り下げることをしないからなのです。 そのために必要なことは読書であり、学ぶことに対し「リスペクト」する心の習慣を持つことなのです。 学生時代にこの本に出会えてよかったー 本を読むことでこのモヤモヤが晴れるならいくらでも読んでやりましょう そしてモチベーションが下がったときにはまたこれを読み返そう そしてそしておっせっかいな人になろう 紹介してくれたマイミク、ちらさんに感謝 ・なぜなら、学ぶ意欲とは、未来への希望と表裏一体だからだ。学ばない人間、向上心を持たない人間は、自分の明日を今日よりも良い日だと信じることができない。 ・人間の心の潤いというものは、尊敬やあこがれの対象を持てるかどうかで変わってくる。 ・以前、セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さんにお会いした際、採用したいと思う学生について、「大学で何をしてきたかという質問に対して、サークル活動、たとえばダンスを頑張ってきましたと答えるような学生は採用したくない」と仰っていました。 ←やべ-、やべ-、勉強するぞ- ・教科の内容には意味があるはずですから、そのカリキュラムに沿ってつくられたテストの点数が高ければ、その教科が身についていると評価できます。それを評価しないということは、すべてを否定することにつながります。 むしろ点数自体をまるで悪と見なしたり、偏差値という言葉を蔑んだりするのは、ある種の弱さの裏返しです。こうして現実と向き合うことを拒否するメンタリティや、長く全国統一試験を拒否してきたという事実には、まさに昨今の教育界が抱える問題があぶり出されているといえるでしょう。 ←あたしはわりと学力至上主義、偏差値至上主義な人間だけど、それは単に高い点数を取ることがいいって言ってるんじゃなくて、そこに至るまでに努力してる点を認めたい、認めてほしいと思っているから。なんだかそれを肯定されたようで嬉しい。 ・ロックミュージックによって得られる快楽には、努力の必要がない。脳の興奮状態を、地道な努力とは無関係に得ることができてしまう。そのことが、本を読んで自己形成していくというかつどうをこんなんにしている ←音楽によって自己形成してきたと自負している私としては、この部分に関しては全力で否定させていただきたい。 ・ポイントは最終的には上っていくということです。 ・自分自身がぶれないという中心というものを持っている、あるいは判断力の基礎を養っているという自信があれば、それを原動力をしてさまざまな障害を乗り越えることができます。 ・「無知ゆえの不利益」に気づけ ・「むずかしくてわからない→自分には関係ない」という回路ではなく、「わからなさ→自分に必要」という回路こそ、若者が持つべきもの
0投稿日: 2010.11.25
powered by ブクログ斉藤孝がこのようなことを考えていたことに驚いた。 三色ボールペンなど手法論ばかりが有名だったからだ。 本全体を通して、教養の大切さをこれでもかと力説している。 そして教養は、だらだらと授業に出るのではなく、本を読んだり師匠についたりして、自分自身を垂直的にどれだけ深堀りできるかだと説いている。 とにかくすべきことは、本を読むこと。特に難解な教養本を読むべし。哲学や古典に親しみその難解さと格闘することで自分自身が深堀りされる。 そのような教養のない頭でっかちの考えなど、浅いし軸がない。 そしてできるかぎり全てをリスペクトする師匠を見つけるべしといっていた。 確かにもっと本は読まなければならないと痛感。 だが、この人はあくまで文科系で、体育会系で学ぶ身体感覚についてはやはり感覚知がないように感じる。身体論に大きくふれている現在の日本を批判しているが、やはり身体でも苦しい修養はできると思う。それを活かすために本を読むということが肝要であると感じた。 勉強することに生きがいを感じてきた著者だけにかなり、偏った見方のような気もするが学ぶべきことは多かった。
0投稿日: 2010.11.23
powered by ブクログ書生いいなぁ。 しかし、就活との関係性には疑問。 誉められているような、叱られているような...
0投稿日: 2010.11.23
powered by ブクログ[ 内容 ] 勉強嫌い、読書量の不足、敬意の喪失、萎縮する若者が「できる」大人になるために。 [ 目次 ] 序章 「リスペクトの精神」を失った日本人 第1章 やさしさ思考の落とし穴 第2章 学びを奪った「アメリカ化」 第3章 「書生」の勉強熱はどこへ消えた? 第4章 教養を身につけるということ 第5章 「思想の背骨」再構築に向けて [ POP ] [ おすすめ度 ] ☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度 ☆☆☆☆☆☆☆ 文章 ☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー ☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性 ☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性 ☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度 共感度(空振り三振・一部・参った!) 読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ) [ 関連図書 ] [ 参考となる書評 ]
0投稿日: 2010.11.21
powered by ブクログ非常に取り留めのない本だ。書きなぐったとしか思えない。多作は質の低下を招くと言うことか。ちょっとがっかりした。
0投稿日: 2010.11.17
powered by ブクログ最近、何をするのも億劫で、面倒に感じてしまっている新入生がいれば、ぜひとも、読んでみてくださいvv (宮崎大学 学部生)
0投稿日: 2010.10.06
powered by ブクログ書生の学び方をもう一度見直そうということが書いてあったと思う。 このまえTVで住み込みで過ごす私立中高一貫校で久々に見た。 そういう師弟関係がもっとあっていい。 教師は教育にかける時間より、事務仕事、雑務が多すぎる。 また、学ぶ側の意欲を高めることは、教師、親、ほか、まわりの大人が示してやらないといけない。 また、自分自身を掘り下げる必要性について、もっと早く気付けばよかったと自分自身思う。 その分、成長できる。
0投稿日: 2010.08.28
powered by ブクログ~100523 確かに今の学生はいろいろなことが足りていないんだろうなぁ。読んでいてなんだか少し怖くなりました。齋藤先生は以前から読書の重要性をよく説いていらっしゃいますが、本書も改めてそれを感じるものでした。
0投稿日: 2010.05.24
powered by ブクログ古典文学や哲学・教養書等に触れる機会が滅多にない現役大学生としては耳に痛いことばかり述べられている本です…。良書を読みたいという気持ちはずっとあるものの何を読んだらいいのかわからないという消極的な姿勢に活を入れられた感もありますし、何よりあとがきの小学生の年間平均読書量200冊以上という事実にもの凄い恥ずかしさを覚えさせられたりもしました。いずれにせよ自分の基盤となるオリジナルの人生哲学を読書によって得たいのであれば、相応の気骨と気迫と何より畏敬の念を持って目の前の書物に当たれという教えの他、諸々ためになったのは確かです。齋藤先生の文章はやっぱり読みやすいなあ。
0投稿日: 2010.05.24
powered by ブクログこの本の限りでは 僕はあまり共感できませんでした。 「昔は良かった」というふうに読めるのです。 僕の読み間違いかもしれません。 僕は不良なので 優等生の齋藤さんには馴染めません。 もちろん教養・教育が重要という意見には 諸手をあげて賛成しますが・・・・。 ブクログで星の多い齋藤さんの別の本、 検索して手に取ってみようと思います。
0投稿日: 2010.04.19
powered by ブクログ確かに昔に比べて今の日本人の知識量は乏しくなったと思いますが少々、旧制高校や書生を持ち上げすぎな感も否めません。 あとがきの「空気は読むものではなく、つくるものだ。」という言葉には同意です。
0投稿日: 2010.01.06
powered by ブクログ(K) 本書で指摘している現代社会の病巣として、「リスペクト」という心の習慣をあげているが、この「リスペクト」という言葉は私の心に響いた。欲しい者は何でも手に入り、本来ならお金で買うことができないものまでもがお金で買えるような錯覚に陥ってくると、「リスペクト」という損得勘定ではない畏怖や畏敬の念は消え失せて、暴走する資本主義の延長線上にある悪平等や歪んだ権利で物事を判断するようになるのだろう。実際に、それを裏付けるようなことがあちこちで起こっているような気がする。 人間の行動を経済活動の一部として考えていては、徳の高い学びにはつながりにくいのではないか。「リスペクト」や「あこがれ」と言った、深層心理から湧き出るような思いが無ければ、徳の高さは生まれそうにもない。一見、遠回りとも思えるかもしれないような学びが捨て去られ始めていることを、本書では学ばなくなったと表現していると理解できる。小さいが新しい発見がある本。
0投稿日: 2009.12.24
powered by ブクログ行き着くところはやはり教育なんだと。そういうことだ。 私は今必死に日本の事(歴史や文化など)を知ろうとしてるけど、本来なら学校で教えるべき処で・・そういうことを知るにつれて後悔ばかりなんです。 なんでもっと・・と、その感情ばっか。 学ぼうとしなかった学生時代の自分が情けないし腹立たしい。でもそれ以上に何も教えてくれなかった教師に腹が立つ。 だって、君が代すら歌えなかった。これって本当に異常だと思う。
0投稿日: 2009.12.05
powered by ブクログ私が本を沢山読もうと思うきっかけになった本。 本を読む大切さがたくさんの言葉で書かれています。 斎藤孝先生は大好きでしたので、すらすら読めました。
0投稿日: 2009.10.08
powered by ブクログ藤原正彦さんと主張が似てると思う。 若者の、教養に対する価値観が変わってきており、それが学ばなくなった原因。このままでは国際的に対等にやっていくる人材が減るという事。 この本ではアメリカ化、特にロックなどの一時的に快楽を得られるカルチャーの輸入が原因だと説き、そうではなくまわりみち的に自我を形成するのに役立つ読書・書生的な暮らしの必要性を解く。 意外だったのが東大生の蔵書が減っているということ。調査によると1974年に蔵書が100冊以下の学生は15%だったのに対し、2000年には100冊どころか50冊という項目の新設にまで至り、しかもその数は37.1%もに上っている。この中には、教科書の類も含まれるらしい。 読書にはある程度の幅が必要だと思うが、これでは足りないんじゃないかなぁ。 若いうちに自分を掘り下げ、掘った分だけ後で伸びるという考えは、個人的に好き。哲学し、本をたくさん読みたいと思った。
0投稿日: 2009.09.21
powered by ブクログ教養主義の消滅が原因だとしているのはとてもわかりやすくなるほどと思ったが、後半がグダグダしてきて飽きてくる。ただけっこう面白いしがんばろうという気も起きるので、大学入学の熱意が薄れてきた頃に読むといいのかもしれない。
0投稿日: 2009.07.27
powered by ブクログ1980年代以降、「勉強」がむしろ「生きる力」を阻害するものという愚かな誤解が横行した。実際は、生命力は、努力して学び、身につけた技によって養われる。どこかでこの時代の流れを変え、日本に「積極的な学ぶ構え」の大切さを復権したい――著者は、そんな願いに20年突き動かされてきたという。その熱が充分に伝わる、読み応えのある本だ。 日本人はなぜ学ばなくなったのか。それは「リスペクト」を失ったからだ。努力しなくなったのも、勉強しなくなったのも、社会が様々に崩れつつあるのも、根本は、知性教養や人格への敬意が失われたからではないか。著者は、大学の教授として学生に接しての様々な体験やいくつかのデータなどから、現在の若者の間に起っている変化を、深い洞察力とともにとらえている。読書量や読書傾向にも学ばない学生の姿がはっきりと表れている。 日本の良さが崩れつつある原因のひとつを彼は、多くの日本人が「自分たちがどのような自己形成をすべきかというモデルをすでに喪失している」ところに見る。戦後の日本の社会では、日本の社会や文化がもっていた良さをすなおに肯定したり、はっきりと語ったりすることが、悪いことのように見なされてきた。おかげで、日本を讃えたり、日本人であることに誇りを持つといったアイデンティティがつくりにくくなっていった。 自分たちの社会や文化を否定的にしか教えない教育をずっと受けてきたのだ。それもあって、自分を自己形成する「核」すらも見失ってしまった。しかし、自分たちの文化を否定的に見てきたのは日本人だけである。 以下に、この本に刺激されての私の見解を述べる。今、世界中の人々が日本文化の素晴らしさに気づき、憧れをもっている。それを知ることは、自分たちの文化を否定的にしか見れなくなっていた色眼鏡を一度はずし、もういちど客観的に日本文化の良さを見直すことにつながる。自分たちが守るべき大切な「核」が何であるかを再発見することにつながる。――最近、私はそのためにも、何がクールジャパンなのか、色々な角度から調べていくことが大切だと思うようになった。
0投稿日: 2009.05.30
powered by ブクログ前半は「昔は〜だった」が続き多少うんざりさせられる。 しかし、後半、特にあとがきが素晴らしい。 教養を身につける過程で自らを掘り下げ、思想的背骨を構築する/「あこがれの連鎖」を生む/信頼できる「技」を身につける・・・ 変化する社会を懐古的視点で見るのではなく、今後どのような姿勢で生きていけばいいのかを建設的な視点で述べられており好感が持てます。 齋藤孝をちょっと好きになった一冊。 でも前半だけで読むのやめる人が多そうな気も。。
0投稿日: 2009.04.30
powered by ブクログ齋藤 孝さんの言っている勉強に対するエネルギー 読了後に、一度うなずく この本のおかげで私はもう一度勉強に対する熱を取り戻せた。
0投稿日: 2009.04.01
powered by ブクログ現代でいえることは、全般的に「学ばなくったっていいじゃん」というネガティブマインドが、特に若者を中心として蔓延しているという点であろう。 最近ではおバカブームが記憶に新しい。 若者に関して言えば、将来への選択肢の広がりも原因と言えるのではないのか? 水平的に楽しみを共有する友人のような親子関係が多くなり、そのせいかどうか、教師への敬意もない。 一生懸命やれば報われるという気持ちも欠如し、就職しても自分的な勝手な理由ですぐにやめてしまうなど、精神的な弱さも危惧される。 リスペクトの精神はいったいどこへいってしまったのだろうか。
0投稿日: 2009.03.04
powered by ブクログ久々の紹介です。 自分の大学生時代のことを思い出して深く反省したり、机に向かうだけではない、 広い意味での『学び』について真剣に考えてみようと思える一冊でした。
0投稿日: 2009.01.21
powered by ブクログ「日本人は、一昔前までは教養が大切にされて、多くの人が本を読んでいたのに、今の若者はなぜ本を読まないのか」ということが語られている本。 齋藤氏の嘆きや憤慨が伝わってきて、やたらと熱い。 ただ、現状がどうなっているかという分析と、どういう流れで今のようになったのかという筆者の推測があるのみで、じゃあどうすればいいのかという提言はまったくされていないという投げやりさはある。「とにかく本を読め」という結論らしい。 でも、本を読まない人は、そもそもこの本だって読むことはないから、その人たちのところに筆者の主張が届くことはないだろう。 齋藤氏の主張には、とても共感出来るところが多いのだけれど、それでも、この本の内容はかなり片寄った意見だと思うし、アメリカについてや現代の若者について、明確な根拠にもとづいていないイメージで、勝手に決め付けている部分がかなり多い気がする。 自分の考えでは、今の日本は、この本で言われているほど絶望的な状況でもないし、その時代に合わせた形で適応をしているというだけで、現代人が昔の人に比べて劣っているということではないのだと思っている。 昔の人のほうが良く知っていたこともあれば、今の人のほうが良く知っていることもある。それは優劣の問題ではなく、どの時代のどの国民にもある、特性ということだと思う。 本を読まなくても、その分、実体験や、他のメディアから読書以上のことを吸収する人もたくさんいるだろうし、それが出来る時代だとも思う。 でも、齋藤氏がこの本で語っていることの真剣さは伝わってくるし、その危機感も非常に納得がいくところが多い。実効性はともかく、とても好感がもてる本だ。 ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。(p.16) フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも捨象でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。 ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。(p.78) こういう若者の変化を見て、前の世代の人々が「教養のない人が増えてしまった」と絶望していたのが30年ほど前。現在では、嘆く人すらいなくなってしまいました。教養という尺度で日本のこの30年間を振り返ると、極端に劣化してしまったことは間違いありません。「無教養」、より正確には、「自らの無教養に対する羞恥心のなさと開き直りの態度」は、そのまま「バカ」と言い換えることができるでしょう。(p.155) 読書にかぎらず、高い山の切り立った崖を登るような努力やエネルギーを必要とすることは、若いころに経験しておくべきなのです。対象をリスペクトするがゆえに、難解であることを承知で立ち向かい、多くのことを根気よく調べ、深く考えながら、あるいは議論しながら少しずつ理解していく。こういう経験が、その後の糧になるのです。(p.168)
0投稿日: 2008.11.19
powered by ブクログ旧制高校生は当たり前のように東西の古典に触れ、飯を削ってでも読書をし、教養を身につけることに貪欲であったのに、なぜ昨今の若者は読書も全くせず知性を磨こうとしないか。哲学が重んじられた時代からマルクス主義、昭和の全体主義、戦後のアメリカ化を経て、教養が疎んじられ、蔑まされる現代という、教養に対する捉え方の史的な経緯とともに、「リスペクトの精神」を養う必要性を説いた1冊。 例によってとても論がはっきりしていて分かりやすく、読みやすい。こういう本は大学生になる前に読んでおけば良かった。特に、なぜ専門科目だけではだめなのか、一般教養を学ばないといけないのか、という問いにはっきり答えてくれている(p.153)部分が印象的だ。さらに、「『知っている』ことと『できる』ことは、全く違うことだ」(p.218)のあたり、「技化」という概念も納得できた。(08/07/24)
0投稿日: 2008.07.23
powered by ブクログこの人の教育論にはどちらかというとうなずく部分が多いが・・・。 この本はさすがに言い過ぎな部分も・・・。 卑近な例は辞めましょうや
0投稿日: 2008.07.13
powered by ブクログ買う価値なしですね。古き良き時代を懐かしむ感じ。 データが乏しいし、時代の変わり目はいつもこの論争は起こる。 裏付けがあまりに乏しいです。 ただ、本全体を通して「熱く、骨太に、粘着質的に人と関われ!」 というメッセージは共感できます。 ポイントは、 1:やさしさ・他者との緩い関係は意味はない 2:アメリカ文化の悪い所ばかり輸入している 3:哲学・一般教養を身に付けろ ですね。 まぁ、特に目新しい論理展開もなく巷で言われていることを まとめた感じで・・・・。 この書籍の中で、昔も今も尊敬できる大人がいたし、その大人達は 哲学や一般教養を身に付けていた。だから身に付けろ! っていう事なんですけど、そんなにすごい大人います? 過去に類を見ないほど、ネット社会が進行し、多くの情報が手に入ります。 汚い政治家、企業経営者、教師、医者・・・・ 本来モラリストである人達が、全くそうでない事実。 しかも、それらは一流大学を卒業して一流の教育を受けてきたはずです。 全く持ってナンセンスです。
0投稿日: 2008.07.03
powered by ブクログ日本人が勉強不足なのは同感であるが・・・。僕のあまり好きになれない昔は良かった思考の本。今の学生に勉強して欲しいのであれば、こういう語り方ははっきり言ってダメだと思う。現在学生の僕の意見。 かつての学生は、雀荘やパチンコ店に通いつつも生き生きしていたとか言っちゃってるし。今の学生は真面目に講義には出るが、学ぶ意欲からではないと批判しているが根拠があまり感じられない。 かつて、クリスマスデートのために本を売ったことを後悔しておられるが、そういうくだらないことを糧にするのも大事だと思う。 遊ぶことで遊びの無駄さやむなしさも分かるのでは? 少なくとも僕なんかよりは遥かに勉強をしているのだろうが、政治や経済はおそらくあまり詳しくないのでは?原因に至るロジックにはところどころ疑問符が付く。
0投稿日: 2008.06.08
powered by ブクログ(2008/5/31読了)論語やマルクスやカントやドストエフスキーといった「古典」を読んで思想的な基盤を築く、という努力をしなくなった結果、大きな不安や困難に出会った時に、一気に楽に解決したいと思って甘い誘惑や非科学的なものにぱっと飛びつき簡単に騙されてしまう人が増えたのでは?と説く。平たく言えば、おカタイ読書をもっとしましょう!ということ。共感する一方、私自身、いわゆる古典はあまり読んでないです…マルクスとか…しょせん新書リーダー(^^;
0投稿日: 2008.05.31
powered by ブクログ面白かったので☆5つ。ただ読者層を広げるため易しく書いかれているので、著者の主張が弱くなってしまったような気がしないでもない。 教養の大切さが書かれています。昔と今の比較が漫画の世界のようで、興味深いです。やはり、本は読むべきです。
0投稿日: 2008.05.23
