人生の旅をゆく 4
吉本ばなな(著)
/NHK出版
作品情報
「喪失と再生」を描き続けてきた作家による「旅と日常」を描いたエッセイ・アンソロジーのシリーズ第4弾。
著者は、日々見逃しがちな、ちいさいけれど大切なことを、旅先での出会いや食事、その背景にある文化、植物や動物を育てること、その動植物を食べることで生きている私たちの生活といったもののなかに見出し、エッセイに仕立てて提示する。バリ島の屋台に見た昭和の日本、心身ともに癒された奄美のひとと海。コロナ禍で「自分が罹患しやしないか」しか考えないひとの内面を考察したかと思えば、冷蔵庫に「家事の分担表」を貼っているカップルがなぜうまくいかないのかを一言で言いきり、タピオカ店や喫茶店のプロの技を省察する。そして、亡くなってしまった大切なひとたちへの思いを、その不在を嘆くのではなく、ともに過ごした時間こそが宝ものだとして、前を向いて生きてゆくことのすばらしさを綴る--。旅でも、日常でも、コロナ禍に見舞われても、著者のまなざしと態度はあくまでも同時代的で、やさしく、鋭い。
そんなエッセイをひとつずつ読み進むと、同じ時を生きる著者が、自らの経験を通じて読み手を勇気づけていることに気づく。各章が上質な短篇小説の趣をもつ、著者最新のエッセイ集。シリーズ累計7万部!
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商品情報
- シリーズ
- 人生の旅をゆく 4
- 著者
- 吉本ばなな
- 出版社
- NHK出版
- 書籍発売日
- 2022.02.25
- Reader Store発売日
- 2022.02.25
- ファイルサイズ
- 1.5MB
- ページ数
- 356ページ
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この作品のレビュー
平均 4.4 (5件のレビュー)
-
森博嗣先生のこと、「ピロチくんとオレ」がとても好きで、読めてよかったです。
編集の方の人柄や丁寧さみたいなものも、人生の旅をゆく、のシリーズから感じられて好きな本です。投稿日:2022.03.30
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吉本ばなな
1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『…キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。近著に『ミトンとふびん』がある。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
人生の旅をゆく 4
by 吉本 ばなな
今思うと、後から出世してえらくなった人は、くまなく「ありがとう」「ごちそうさま」が言える人ばかりだった。
そういったもてなしがどれほど豊かだったのか、集中してお点前をしていたら、ふっと昔の茶人の気持ちがリアルに見えてきたのである。 ああ、この感覚が茶道というものなのかと思った。ほとんど全て忘れてしまったが、あの瞬間だけはまだ心に残っている。
知人が、山から降りてきてしまって畑を荒らして殺された猪の脂で石鹸を作る仕事をしている。最高になめらかなその石鹸で体を洗うとしっとりする。人間は動物の脂に助けられてきたのだと、その歴史を肌で感じる。どんなにすばらしい植物性の油でもかなわないのだ。 その知人のおうちで猪の肉をごちそうになったことがある。 成人男性三名、成人女性三名、肉は一キロ。 足りないかもしれないし、野菜や豆腐を入れようと他の材料をたくさん買ってきた。 しかし、全然問題なく、足りてしまったのである。 あまりにも肉の栄養が濃厚で、数枚いただいたらもう満腹になり、肌がつやつやになり、風邪まで治ってしまった。ものすごい力を肉は持っていた。山で生まれ、山で育ち、自然の食べ物を食べて生き抜いてきた雌の猪の力。ありがたいとしか言いようがない。 ああ、ふだん焼肉屋さんなどでみんなで何キロも肉を平らげて、ごはんまで食べるというあの感覚は「そこにそれほど栄養がつまっていないから」なんだ。食べものから栄養をしっかりいただける時代はすでにもう過去になってしまったのだ、そう実感した。
三十代を過ぎたあるとき体を壊し、食べるものが体を作っていることを実感した。野菜に関してもちょうど魚の目玉や張りを見るように、その色や形から「生き物としての力」を持っているかどうかを見るようになった。 それから二十年、何が起きたかというと違いがわかるようになった。大きくてきれいに見えても味がなかったりスカスカのおいしくない野菜が、見ただけでだいたいわかるようになったのだ。 とても長い時間がかかったけれど、自分がどんな世界で育ってきたかを考えたら、それもそのはずだ。
人工的な味は刺激的で、じわじわっと舌に響いてきて、なんでも同じ「おいしい」味になる。 それから、よく嚙んで味わうと気持ち悪くなるので、早く飲み込んだほうがよくなる。 野菜に力がなくても、ドレッシングの味だけで満足してしまう。
小さい頃からいつも添加物でいっぱいのものばかり食べていたら、舌が慣れてしまって、おいしい野菜の味を知らないまま育ってしまう。もしかしたら野菜が嫌いになってしまうかもしれない。えぐみもないのでうまみも甘みもない、そんな野菜に慣れてしまったらもったいない。経済的な事情を口にする人は多いが、量を減らせば対応できると思う。私はそうした。
鍛えている悪い人もぶよっとした良い人もいるのでいちがいには言えないが、よからぬ事件の犯人を見ると、たいていぶよっとしている。頭の中でいろんなことをこねくりまわしながら、だらだらと食べている人特有のぶよっと感。 それは営業などに従事している方々の、がっちりしているがお腹だけぽこんと出ている(それは私か!)太り方とは違う。 なんていうか、自家中毒という言葉が浮かんでくるような「ぶよ」なのである。
で、病気だったら保険に入れなかったりしてね。 私には、投資目的での保険のほうがまだ理解できるところがあるけれど、備え方は人それぞれだから文句はない。 ただ、いちばんの保険は、自分で作ったり、素材に気をつけたり、そんなことなんだと私は信じている。 めんどうで、果てしない毎日のごはん作り。 さっきも包丁拭いてなかったか? さっきふきんを消毒したばっかりじゃない? またこの時間? そんなことを思いながら、ごちそうではない地味なものを、ただ毎日作り、おいしくいただく。
突然、買ってくるお惣菜やサラダが、口の中でこわばる瞬間や変な後味を感じるようになった。これもまた体に悪いからではなくて、それがいやで、買わなくなった。 十年かかったのもすごいが、なによりすごいのは、なんと、ほとんどの場所でなんにも食べられるものがなくなってしまったことだ。こんなことってあるのだろうか? 日本は大丈夫なんだろうか? 私はなんでもおいしく食べることができるのが自慢だったのに、いつしかすごく狭い人間になってしまった。 これじゃいけないと思ってたまにカップ焼きそばなど食べたりするが、最後に梅干しかゴーヤを食べてちょっと解毒を心がけたり。
一般的にいいことでも自分には良くないことかもしれない。体との対話はまだまだ続く。
そんなことをしていられるのだって、人生のほんの短い期間なのである。私たちはやがて必ず好きなように飲んだり食べたりできなくなる。そのときに幸せな飲食の思い出が心を温めることになる。 だからこそ、今夜のお鮨は一回だけ、海の中を泳いでいたその魚が私の口に入ってくるめぐりあわせも一回だけだということを、しっかり楽しまなくてはいけない。 そのことがわかっている大将だからこその、風邪ひき禁止なのだ。
「ヨーロッパは十八時で外出できなくなるんだし」「ウィグル自治区で抑圧されている人たちに比べたら幸せ」などと謎の比較をしてなんとか元気を出し、どうにもならない歌を歌いながら、こんなにも大変でも自活直前の息子と働き盛りの夫と毎日ごはんを食べたことはいつか必ず宝になるよな、と思っていた。 コロナには困っている、でも、そうしてどうにか生きている。
いつかいっしょにカラオケに行ったとき、椎名林檎さんの「歌舞伎町の女王」を熱唱して私たちをびっくりさせたあと、彼女はアニメの『ベルサイユのばら』の主題歌を朗々と歌った。完璧な発音での日本語の歌、映像の中ではオスカルが華麗に動いていた。 「ジョルジョ先生には絶対内緒ですよ、実は私はこのアニメを観て、日本語を勉強しようと決心したんです。だから私の日本語はここからなんですよ」 彼女は言った。なんてかわいいんだろう、小さい頃「ベルばら」を観たその道が今の彼女にしっかりつながっているなんて。 日本のアニメがイタリアで流行ったことにも、池田理代子先生にも、心から感謝しなくては! と私はオスカルを観ながらしみじみと思った。
いつも飲んでいると慣れてしまうから、ほんとうに疲れたときだけのごほうびみたいな感じで飲むようにしている。そのくらい大好きなのだ。 一度だけネパールに行ったことがある。 今はもっと違う雰囲気なのだろうけれど、ちょっと都会を離れると道が全く舗装されていなかった。ものすごい砂ぼこりとか、牛の群れとか、崩れかけた建物やお寺だとか、そんな混沌の中を歩いていたら、いつのまにか顔がほこりで黒くなる、そういう感じだった。 市場で布やかごなど買って、あまりにも足が疲れたしほこりで鼻がかゆいから、少し休もうと思って私は道端のチャイ屋でチャイを買った。大勢がそこで飲んでいるのは、場所もいいけど味もいいのだろうと思ったのだ。 インドやネパールでは列車の中で買える紙コップのチャイさえおいしいので、基本はずれというのがない。それこそが人々の暮らしに空気のように自然に根づいた味なんだと思う。日本で飲む日本茶が、一煎目であれば合宿専用旅館のものでさえうんとおいしいのと同じことで。
バリの空港は最近建て替えをして、ぴかぴかのビルとショッピングモールができ、まるで別の場所みたいになっていた。ほんの何年か前までは、空港を出たら真っ暗で土の道があって、お迎えのドライバーたちが押し合いへし合いしていて、昔ながらのものを売る古びた店が並んでいたのに。なぜか空港の出国ゲートをくぐった後の場所に猫や鳩がいて、どうやって入って来たのだろう? と思ったのを覚えている。
アートとは、世界の中に潜む美に 各々 が気づくことなのだと。
それでも、生産地の気候の中で味わうのとは全く違う。台北の近くの 猫 空 の山の中で飲んだ高山茶とか、アルゼンチンで飲んだ濃いマテ茶を日本では決して再現できないように。
その変化のおかげさまで街中でも自家焙煎の、若い人たちがやっている意欲的なコーヒー豆の店をたくさん見かける。 しかしたいていムラがあったり、豆の選別が徹底していなかったりして味が安定していない。 そういう人たちの気持ちはよくわかる。自分が煎った豆は愛おしくておいしく感じるに決まっている。豆の買いつけなどに行っていたらなおさらだ。 でもたいていの人たちが「正直な感想を聞かせてください」と言われて、正直に言うとものすごく怒る。 怒るなら聞かないでほしいな、といつも思う。
近くでじっくり見ると映画やテレビで観るようにきれいなだけの都ではなかったし、水もそんなにきれいではなかったけれど、夕暮れの水辺に浮かびあがる幻想的な灯りは夢のように美しかった。この街がちょっとずつ沈んでいっているという話を聞いたら、その儚い美しさが胸に迫ってきた。 この世にいる間に見た美しいものたちは、私が死んだらいったいどこに行ってしまうのだろう。私といっしょに消えてしまうのだろうか。そう思えば思うほど、写真でも文章でも残しておけない、美しきものたちへの感謝が湧いてくる。
ほんとうに運動神経がいい人には共通点がある。体の声に自然に従う動きをするのだ。
そのすてきな声で「あなたは、根は、とっても明るいのね」と言われたことを、私は心の中の音の箱の中に大切にとってある。自分ってなんて暗いんだろう! と思ったときに再生すると「そうか、そう言えばそうだったよな」と思って元気になるから。
この問題はほんとうに人それぞれ、人の数だけ結論がある。倫理でも命の大切さの問題でもない。その人が、自分の心や体や状況と相談して出た答えが正しいのだと思う。でも、今は赤ちゃんの話をしただけでも「赤ちゃんが欲しくてできない人が傷つくと思わないんですか!」というような人がいる時代である。そして私は、豊かさとは多様性のことだと思っている。 自分の人生に満足していない人の数だけ、そういったクレームが来るのだろう。 そしてそういう全てのことは、その人自身に返っていくのだと思う。
自分が生きているだけで誰かを傷つける場合がある、それを受け止めて生きていくしかないし、お互い様と思えなければ自分もいつでも攻撃されると覚悟するしかない。 赤ちゃんとさよならしなくてはいけないケースももちろんある。その事態が不幸であるとは限らない。人生にはいろいろな時期があり、いろいろなことが起きる。それぞれの決断があり尊重されるべきだし、一見マイナスの結論だとしても長い目で見たらわからない。
そのクールな風味が奇妙に心地よく思えてきたのは、大人になってからだ。 このように人に干渉しない風通しのいい関係だからこそ、この妖怪たちの関係や生き様に自由な感じがするのだということがわかってきたのである。
ピロチくんとオレ
森さんのこのシリーズを私は勝手に「身も蓋もないシリーズ」と呼んでいる。痛快だけれど決して痛みはなく、爽やかな自由の風が吹いてくるような読後感だ。 森さんの日本語は書いていても話していても正確で美しい。そこも大いに尊敬しているところだ。
あるとき『STAR EGG 星の玉子さま』という絵本を出版したときの「印税を受け取らない代わりに届けたい人に絵本を送る」プロジェクトにおいて、オレの思っていた出版界への疑問を全部表に出して、解決し工夫して実現させてしまったのがピロチくんだ。 絵本を受け取ったオレは絵本のすばらしさとその出版の経緯を読んで感動し、この人は自分の分身ではないかとさえ思った。そのくらいオレの思っていたことを現実の世界で、知性を武器にすっきりと解決してくれたからだ。 オレはお礼のメールを書き、ピロチくんと友だちになった。 離れて住んでいるのであまり会わないし、慰め合ったり、恋愛になったりすることも決してないのだが、互いにかけがえのない存在だということがわかっている。そういう友情だ。
たまに「ピロチくんはほんとうに存在するのだろうか? 賢すぎるしAIかホログラムかなんかなんじゃないのかな」(頭が悪いので表現があいまい)と思って、別れ際に握手してみる。 邪 な気持ちではなく、確かめるために。こんな人が生身の人間のままで存在するなら、どんな奇跡も信じられるからだ。
オレとピロチくんが、同性だったら、あるいは歳が同じだったら、たいへんなことになっていただろうなといつも思う。 大親友か、大ライバルか。 恋愛の可能性を全く思いつけない自分の男らしさが情けない限りだが。 なにのライバルかはわからない。小説かというと、少し違う気がする。 しかし、こんなにアホな、学歴ほぼゼロと言っても過言ではない(ろくに学校に行っていないし、行っても寝続けていたのでどうやって卒業したか全くわからない)オレ、高校三年にもなって「伝説巨神イデオン」を夢中で観ていてうっかり試験に遅刻、ふだん0点しか取れてないのでこれでは留年すると先生の前で涙したら、ひとりだけの追試をやってもらえたという、文系理系以前に人としてしょうもないオレがなにで彼に太刀打ちできるのか全くわからないのだが、オレの中のなにかがピロチくんのなにかに拮抗し、対等なものをもっているのは確かなのだ。
多くの読者が彼に対して心から、オレと同じことを思っているだろう。
それを論破するまでに自分の中で仮説がしっかり成り立っていない、自分の中でデータが集まっていない状況になんとなくモヤモヤする。 考え抜くには知識も経験も足りない。 他にもたくさんある、うすうすわかっているそんなたくさんのことに、ピロチくんは筋道を通す。そして風穴をあける。 やはりそうか、うすうす思っていた自分はたったひとりではなかったのか。しかも漠然と思っていたそれにはこうしてちゃんと論理的な理由があったのか。 そういう種類の「孤独ではない」感覚が人類を進化、発展させてきたと言っても過言ではないと思う。
人は幸せだと太らないということもそのときわかった。ミコノスで毎日食べていたのに、オレは痩せて帰ってきたのだから。もしかしたらあれこそが「地中海式ダイエット」なのか(絶対違います……)?
オレはピロチくんの書くものがとても好きだ。どんどん好きになっていく。なぜなら彼の書くものが進化していくのがスリリングだからだ。絶望の中でも知性は活き活きと輝き、脳の隅々まで全部使うライブ感がある。ふだんはそこまでシャープではない自分の思考が純粋になるところまでとことん削り出される。
カラオケは一回だけ行った。ピロチくんが歌う「大阪で生まれた女」に妻への愛を感じて泣けたわ~(「そんなつもりで歌ったんじゃありませんよ、いい歌だからもともと好きだったんです」←言いそうなことを先回りして書いてみました)! そういうことをするためにオレたちはめぐりあったのではない。 それでもオレは書いてしまう。 ピロチくん、この世に生まれてくれて、同じ時代にいてくれて、ありがとう。 ミコノス島の人たちのライフスタイルに出会えたのと同じくらいに、ピロチくんがこの世にいると知ってから、オレはやっとちゃんと息ができるようになった。
「いつまでも孤軍奮闘なのか? 自分だけがこの世の中でどこかおかしいのか?」もうそう思い続けなくてよくなった。
先日、旅の帰りにお家に立ち寄ったら、すばるさんがデッキでオレにさらっとソーセージや野菜を焼いてくれた。火力が不安定な小さなコンロでよくこんなにいろいろなジャンルのものを完璧にむらなく短時間で焼けるな、やっぱりこの人はある種の天才なんだな、と思った。 お嬢さんは寝起きなのに完璧に美人で、ゆるい服を着ているのに佇まいが清潔でとてもきちんとしていた。
蜂を見たピロチくんが「ハニカム構造というのは、丸が押し合ってああなったものであり、蜂そのものが六角形を意識して作っているのではない。そして正六角形は正三角形が集まった形なので安定しているのだ」と言ったら、すばるさんが「な~んかむつかしいこと言い出したよ~!」と言った。なんてすばらしい世界だろう。こんな人たちが静かに潜んでいるなら、やはりこの世を好きでいられる。
なにごとも二十年もくりかえしたら、それは立派な形になると信じている。 小説を書くことも、ほぼ二十年続けたところでちょうど形になってプロになることができた。 ただ、くりかえしくりかえし書いただけのことだった。朴訥に、滞っても気にしないで、こつこつと書いた。
外を歩けて、太陽の光を浴びて、あるいは雨に濡れて、道をゆくということはどんなに幸せなことだろう。 いつかそれができなくなるまで、なるべく元気よくそうしていたい。いつまでだって生きられると思っていた若い頃みたいに。
自分以外の人と暮らすのはたいへんだ。 子どもはできないと思い、それなら動物を飼おうと大型犬一中型犬一猫一亀一がいたところにだめ押しで猫をもう一匹飼ったら子どもができてしまい、まるで農場のような生活になったときもそう思った。
知人の美術家、島袋道浩さんが、阪神・淡路大震災のときに屋台カフェを作ったこと。 水がない、物資がない、家が壊れた、避難所に行く行かないとみな悩み事がいっぱいで、犯罪も増えて、どうにもならないことがたくさんある中で、人々はみなお茶を飲んではこう言ったという。 「ああ、おいしかった。すごくカフェに行きたかったんだ、ありがとう」 そう、たいへんなことがあって、それどころではないときほど、一杯の飲みものは、心に大きな力と良き思い出をくれるのだと思う。 島袋さんは、「この世がほんの少しでもいいところになるために、作品を創っているんだ」とよく言っているが、その通りだと思う。 嗜好的な飲みものは、たとえそれがペットボトルに入っていても缶に入っていても、人それぞれの人生に優しいピリオドを打つアートなのだ。 それはきっと、茶室で密談を交わしていたかもしれない千利休の時代でも同じなのだと思う。緊迫した状況であっても、人はお菓子を食べて、お茶を飲んだ。しつらえの美しさに時を忘れ、お茶を淹れる主人の所作に見惚れてゆっくりした時間の流れを感じたのだろう。
別に、策略をめぐらせ、のし上がらなくては生きていけないほどの弱肉強食さを知れということではない。社会とは、自分のことを屁とも思ってくれないものなのだ。大勢の中のひとり、いてもいなくてもあまり関係ない人、すれ違うだけの人。自分がそういう存在になるというのが、社会に出るということ。仕事ができなければ、いろいろ対策を考えてはくれるけれど最後はクビになり、魅力的に生きなければ基本モテないし稼げない。そういう場でどこまでなにを割り切っていくかを客観的に考え、自分を「特別なもの」と思ってくれる家族や友人にいかに感謝を覚え、感謝を還元できるか。それが大人になるということだ。他者に対して自分はどこまでどうコミットしていくか、そういうことを考えるということでもある。続きを読む投稿日:2024.02.16
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