【感想】母のあしおと

神田茜 / 集英社文庫
(5件のレビュー)

総合評価:

平均 4.4
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ブクログレビュー

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  • さてさて

    さてさて

    あなたの奥さんは、あなたの子供から見るとお母さんであり、奥さんのお母さんから見れば娘でもあるのです。

      ( ‘ω’)チョットナニイッテルカワカラナイ

    そうですよね。いきなりそんなことを力説されても困りますよね。そう言われればもちろんそうに違いないとは思いますが、わざわざ強調されても困惑するばかりです。しかし、一人の女性の一生という見方をした場合には、それぞれの時代にその女性が演じてきたそれぞれの役割があったのだと思います。

    私たちは、現在という時間を生きる中に、何かしら家族の一員だと思います。それは、誰かの妻という立場かもしれません。誰かの母親という立場かもしれません。そして、誰かの娘という立場かもしれません。しかし、それはあくまで今日この瞬間を切り取った場合に言えることであって過去へと時間を遡ることによって違う役割を担っていたことに気づきます。そして、それはそんなあなたから見た家族の構成メンバーにだって言えるはずです。あなたのお母さんだって何十年も遡れば、『まだ十歳』の娘という時代だってあったのです。

    さてここに、”ある女性の人生を遡ってたどる、感動の連作集”と謳われる物語があります。2014年から過去に遡っていくこの作品。最終章では1953年という戦後間もない時代にまで遡るこの作品。そしてそれは、そんな女性の姿を、身近な人から見える姿によって物語の中に浮かび上がらせていく物語です。
    
    『こんなに大きいと、食べきれるかしら』と『搾りたてのハチミツの入ったビンを』受け取った はる子に、『うちのやつはレモンを輪切りにしてこれに漬けておいて、お湯で割って飲んでたよ…』と返すのは主人公の日吉和夫。『うちのやつがどんなふうに使っていたかなんて、うっかり話さなければよかったとすぐに後悔』する和夫は『はる子さんは亡くなった妻に似ている』と、『はる子さんのご主人がまだ元気なころ』から思ってきました。『ご主人が亡くなりひとりになって、食べきれるかどうかと』『言いたかったのだろう』と思う和夫は、『女性のこまかい気持ちに対して気の利かない男だ』と、『道子にいつも言われていた』ことを思い出します。そんな和夫は、食事に関する話を続けます。『病気になると大変だから』『看病してくれるひとがいないものね』『お互いにね』と会話する中に『はる子さんのご主人が脳梗塞でぽっくり亡くなり、うちの道子が心臓病でぽっくり逝ったのも前日まで健康だったおかげだろう』と思う和夫。そんなところに『だめだよ、日吉さん。喪中の人くどいちゃ』と、『隣家の中内』が声をかけてきました。『はは、通りかかっただけですよ』と答える和夫は、はる子が『抱えていたハチミツのビンを、そっと足元に置いて隠すの』を見ます。やむなく『頭を下げて車をバックさせ』る和夫は、『はる子さんの手は、色白ですこしぷっくりしている。それでいて指先は尖って、まるで楓のような手だ。それも道子と似ている』と、『胸の前で小さく手を振ってくれ』ている はる子を見ます。そして、家に帰ってきた和夫は『玄関を開けてタタキに散らばっている郵便物を拾』うと、『再び軽トラを走らせ』山小屋へと向かいました。『道子がいなくなって三年半になるが、ひとりになった今も、雪のない時期は山にいて蜂の世話をしている』という和夫。
    場面は変わり、『毎年五月に行われる老人会の花見』へと訪れた和夫は、『肉を焼いて、玉ねぎやもやしを鍋に入れる仕事を担当し』ますが、『そばにいるお調子者の自慢話を、みんなと一緒に笑いながら聴いている』中に、『そろそろ退散したいのだがそのきっかけが難しい』と思います。そんな和夫は『隣の輪』で『お喋りの女性が盛り上げ役』をする会話の中で『私はもう長生きなんかしたくないわ』、『主人になにも尽くせなかったから、自分だけ楽しむのはなんだか申し訳ない』と語る はる子の言葉を聞きます。『ご主人が亡くなってまだ半年』、『倒れて三日で逝ってしまったのだから、心の傷が癒えてはいないだろう』と はる子のことを思う和夫。そんな中、ちょうど はる子が『手洗いに立った』タイミングで『蜂の仕事があるもんで、すいません』と告げた和夫はその場を退散します。そして、『来週のパークゴルフ、水曜日の九時だって』と教えてくれる はる子に『朝、迎えに行こうか?』、『コゴミやワラビが採れるから、持って行くね』と言う和夫。『嬉しい。すこしでいいのよ』と言う はる子に『うん。じゃあ』と返して別れた和夫は、『山菜採りに、山に来ない?』と『本当は言うはずだった台詞を口のなかで呟』きます。そして、『はる子さんのことだから、きっとあと何年も亡くなったご主人にわるいと遠慮をしながら暮らすのだろう』と思う和夫。家へと帰り、仏壇で手を合わせる和夫は、『これから誰と居たとしても、道子と暮らした日に戻ることはできない』という今を思う中に、だからこそ、『その気持ちをわかり合える はる子さんと』『ただ日常をふたりで過ごすだけ。それは持ってはいけない望みだろうか』と思います。道子を亡くして一人、養蜂の日々を送る和夫の日常が描かれていきます…という最初の短編〈はちみつ 平成二十六年〉。道子の人生を遡っていくこの作品の冒頭を道子の死後に一人となった夫の生活を描くところからスタートさせる好編でした。

    “道子の死後から少女だった頃まで、その人生を遡る。七つの視点で綴られた感動の連作集”と内容紹介にうたわれるこの作品。冒頭の短編〈はちみつ 平成二十六年〉が妻を亡くして一人暮らす夫の日常から始まることもあって、日傘を指す後ろ姿の女性の表紙が意味深く感じてもきます。しかし、内容紹介にある通り、この作品は”人生を遡る”と記されている通り、一人の女性の一生、”妻で、母で、娘で、そしてたった一人の「私」だった”という一人の女性の人生を過去に遡りながら見る物語なのです。

    過去に遡りながら描かれていく作品は他にもあります。私が読んできた作品では、桜木紫乃さん「ホテルローヤル」、青山美智子さん「鎌倉うずまき案内所」、そして町田そのこさん「うつくしが丘の不幸の家」などが思い浮かびます。数多の小説は時系列に沿って描かれるのが普通です。主人公が生まれ、成長し、大人になって何かを成していく…まあ、そこまでストレートな作りの作品も少ないかもしれませんが、少なくとも時系列に沿っているというのが数多の小説の作りです。それを、時系列遡りというイレギュラーな手法を用いる限りはそこに作者の何かしらのこだわりがあるはずです。先に挙げた三つの作品では、桜木さんと町田さんは建物に拘られました。それぞれラブホテルと戸建てという違いはありますが、同じ建物に滞在するそれぞれに関連性のない人たちの姿を過去に遡れば遡るほどに新築に近づいていく建物とともに描いていきます。一方で青山さんの作品は場所もそうですが人に光を当てて、その関係性を絶妙に繋ぎ合わせていく青山さんらしい作りになっています。一方で、そんな他の作家さんの作品と異なり、この神田茜さんの作品では、一人の女性の一生に光を当てます。しかも上記した通り、そんな人生を幼き日まで遡るという考え方です。次にどの本を読もうかと選書に勤しんでいた私に、この情報は雷が落ちたような衝撃でした。迷うことなく”ポチっ!”、そんな私の前には予想以上に興味深い世界が待っていました。

    では、そんなこの作品を見ていきたいと思いますが、まずは時代を象徴する表現です。複数の時代を描く作品では作家さんがその時代、その時代を象徴する出来事を物語に織り込まれる場合が一般的です。上記で挙げた三つの作品でも青山さんの作品はこれが巧みで時代の雰囲気を味わいながらの読書が楽しめます。一方で神田さんのこの作品では時代を表す表現が極端に少ないのが特徴と言えるかもしれません。流石に戦後直後まで遡ると意図せずとも生活に時代が見えてしまいますがその程度です。少し見てみましょう。

     ・〈ははぎつね 平成八年〉
       → 『ディズニーランドもオープンしてもう十年以上経つかな』

     ・〈なつのかげ 昭和四十九年〉
       → 『私は五百円札を置いて椅子を立った』
         『帰りの汽車の時間までまだ四十分近くある』

     ・〈まど 昭和二十八年〉
       → 『いい匂いがする。駅前にいるリヤカーのおじさんに頼んで「ドーン」と鳴らしてもらったのだろう。横浜にもあって、ポン菓子と呼ばれていた』。
         『「このあいだ、テレビジョンが置いてあった。まだ電波が来てないから映らないんだけどね」「東京では映るんでしょ?」「新聞に写真が載ってたね。街頭にひとが集まって見てるんだって」』
        『釧路で炭鉱事故と書いてある。三日前に起きた落盤事故での死者が十九人となり…』

    時代を象徴する表現として、その時代に流行ったものや音楽、映画などを登場させる作品が多いのに対して、神田さんはあくまで日常生活を淡々と描かれます。そう言った意味では極めて地味ではありますが、一人の女性の姿を追うということに集中して描かれる神田さんの真摯な姿勢を見るものだと思いました。

    では、そんな物語が光を当てる女性・道子の姿をもう少し見てみましょう。この辺りあまり詳細に書いてしまうとこれから読まれる方の面白みを半減しかねませんので、あくまで主人公となる人物(道子との関係性)と概要をサラッと書くことにとどめたいと思います。また、それぞれの短編タイトルには和暦の記載がありますが、時代の開きが見えるように西暦を付記したいと思います。

     ・〈はちみつ 平成二十六年〉: 2014年
       → 日吉和夫・夫、道子亡き日々を生きる和夫の日常を描く

     ・〈もち 平成二十三年〉: 2011年
       → 日吉悟志・次男、道子の納骨の日前後のあり様を描く

     ・〈ははぎつね 平成八年〉: 1996年
       → 日吉祐子・次男の嫁、結婚の挨拶に赴いた時のことを描く

     ・〈クリームシチュー 昭和六十一年〉: 1986年
       → 日吉啓太・長男、大学受験前夜を描く

     ・〈なつのかげ 昭和四十九年〉: 1974年
       → フミ・夫の従妹、子供たちの面倒を見る日々を描く

     ・〈おきび 昭和四十二年〉: 1967年
       → 道子・本人!、和夫との結婚前夜を描く

     ・〈まど 昭和二十八年〉: 1953年
       → 矢代節子・母、病の床に伏す姿を描く

    以上の通り、物語は1953年から2014年という実に61年という時間を7つの短編で連作短編として描いていきます。それぞれの短編は上記に記したそれぞれの短編で主人公を務める人物たち視点の物語です。それぞれの人物は当然自分の人生を生きていく中にそれぞれの物語の時間を過ごしています。例えば、〈はちみつ 平成二十六年〉の主人公・和夫は、妻亡き日常の中に、三ヶ月前に未亡人となった はる子に心惹かれていく様が描かれていきます。〈クリームシチュー 昭和六十一年〉の主人公・啓太は大学受験を前に起こった家族のある出来事の中に母のある一面を垣間見ます。そして、〈まど 昭和二十八年〉の主人公・節子は、病に伏す中に五人の子供の末っ子で、まだ十歳と幼き道子を母として慮ります。そうです。それぞれの短編の主人公はそれぞれの人生を生きています。そんな中に道子はそれぞれの主人公から見た役割で姿を見せます。それは、和夫にとっては亡妻であり、啓太にとっては母であり、そして節子にとっては娘なのです。それぞれの短編からはそれぞれの主人公の人生の中に大切な存在、しかし、あくまで脇役として登場する存在、それが道子です。しかし、この作品全体として見た通しの主人公は間違いなく道子です。物語を読む中においては読者は主人公に感情移入します。その一方で、この作品では道子の存在を常に意識しながらの読書になります。結果として、同じ場面に対峙する双方の気持ちを常に感じ取りながらの読書の時間がそこに作られていくことになります。これは間違いなく面白いです。なんとも不思議な読み味です。

    その感覚は相手をどのように見ているかという視点が加わることと言えるかもしれません。例えば、最後の短編〈まど 昭和二十八年〉に登場する道子はなんと十歳です。『兄とその下に四人姉妹の五人』の末っ子として生まれた道子ですが、そこには、母親の節子から見たこんな印象が語られています。

     『子どもたちはみんな手がかからなかったが、道子は特に大人しい子だった』。

    まあ、幼き日々に大人しくても化ける子どもがいることから、これは一つの印象にすぎないかもしれませんがもう一つこんな記述もあります。

     『好きなものはちょっと変わっていた。道ばたのアリの巣や木についている毛虫まで、普通の子どもなら嫌がるものを、道子はいつまでも楽しそうに観察していた』。

    この作品を未読の方には、だから?という一文だと思いますが、この作品を読み終えた読者には、なるほど…という一文です。それは、それぞれの短編の主人公視点で語られた道子という人物がどういった一生を送るのか、それを遡りで眺めていく中に、その答えを垣間見ていくことができるからです。

    そして、この作品では神田さんの大胆な演出が入ります。それこそが、〈おきび 昭和四十二年〉において、なんと道子本人が主人公となり視点の主となるのです。これは、想像以上に興味深い視点を提供してくれます。道子とはどのような人物なのだろう?と読み進める読者は上記した通り、それぞれの短編で主人公となる人物の視点で道子という人物を理解していきます。それは、道子にとって極めて身近な人物たちばかりではありますが、あくまで印象にすぎないという言い方もできてしまいます。しかし、道子本人に視点が移動することで正真正銘の道子という人物を直に知ることができてしまうのです。そんな物語に描かれていく影の主人公・道子の一生を見る物語。それは、時系列ではなく時間を遡って他者視点で描かれていくからこそ、物語の最後にその姿がすっと浮かび上がってくるのだと思いました。

     『上の四人はもう大きいんだけど、いちばん下の道子は離れていて、まだ十歳なの』

    そんな風に母・節子が語る昭和二十八年の道子。この作品ではそんな道子の一生が、2016年から時代を遡る7つの連作短編によって最後に浮かび上がる物語が描かれていました。一人の女性が、妻、母、そして娘というそれぞれの役割を演じていく姿が描かれるこの作品。そんな役割の向こうに道子の存在が色濃く浮かび上がるこの作品。

    一人の女性の人生を時系列遡りで他者視点によって描くという絶妙な構成の妙に、読後、表紙の女性の姿に見る印象が別物に変化した素晴らしい作品でした。
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    投稿日:2024.05.25

  • 湖永

    湖永

    道子という女性の人生を辿る物語。
    人生を「逆」からたどってみたら、母の私も娘の私も女の私も悪くない。
    それぞれの視点で見ると違ったふうに見える。
    平凡なお母さんなんてきっとどこにもいない。

    とても興味が湧いて、自分だったらどう見えるんだろうと考えてしまった。
    母で人生を終えるのかもしれないが、娘でもあったし、女でもあった。
    娘の時期も女の時期も母の時期に比べるとうんと短かかったけれど、確かにあったのだ。
    それはどんなふうに見えていたのか…
    自分であって、自分じゃないみたいに感じるのは母の時間が長いからだろうな。

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    投稿日:2023.03.08

  • bond

    bond

    このレビューはネタバレを含みます

    良い小説だったなあ。ラストは目頭が熱くなったよ。道子の人生を遡っていく構成がいいぞ。しかも、全てが理に落ちる(こんな経験をしているから、あんな性格になったのか、など)こともなく、人間を人間らしく描いている(息子の婚約者にあんなに辛く当たるのは自分がそうされたから、というわけでもなさそうだし)。他のも読んでみるかな。

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    投稿日:2022.10.13

  • ナインチェ

    ナインチェ

    母性を巡る物語。

    道子という女性の 死後数年後から始まる。長年連れ添った老いた夫が、寂しさからやはり伴侶を亡くした高齢女性に淡い恋心を抱くも、彼女の容姿にも仕草にも亡き妻を重ねてしまう。
    道子が息子らを溺愛していた母親だったこと、嫉妬深かったことがエピソードからわかる。

    小説は、道子の生涯を遡っていく。ラストは、道子の幼少期、語り手は道子の母。

    他の章も、道子の葬式の日の次男、道子に意地悪される長男の婚約者、姑にいびられ道子が実家に逃げている間、道子の夫に想いを寄せる夫の従妹、結婚式前夜の道子、と様々な人の視点から、老人から子供時代までの道子が語られていく。

    モンペアぶりを見せるまでに息子らを溺愛し
    息子の婚約者にあからさまな嫉妬心を剥き出しにし
    死んで蜂になってまで夫に近づく老婆を威嚇し
    姑にいびられ鬱から自殺未遂
    娘時代は我慢強さとわがままのアンバランスさ

    道子が私が嫌いなタイプの女性の要素をフルコースで備えていて
    共感が全くできないのだが

    物語が進むにつれ、この人が後のあの人か、という
    構成の面白さですんなり読了。

    母性は美しくなんかない。
    歪な欲だ。






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    投稿日:2021.01.15

  • 葉明

    葉明

    一人の女性の人生をどんどん過去に遡っていく。
    困った部分もあるけれど、憎めない。

    それが、母。

    最後まで読んで振り返った時、
    そういう人生だったんだねとしんみり思う。

    投稿日:2020.06.19

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