【感想】庶民烈伝

深沢七郎 / 中公文庫
(7件のレビュー)

総合評価:

平均 3.8
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ブクログレビュー

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  • しんめん

    しんめん


    んー、面白い。
    別に唸る様な仕掛けも美しい表現も綺麗な締まりないが、表題通りの、当時の“庶民”の苛烈な生活がつらつらと描かれている。
    序章の、“庶民”の定義を巡った作者と知人とのちょっとおバカっぽい掛け合いも、気が利いていて良い滑走路になっていた。続きを読む

    投稿日:2022.12.15

  • サユリ

    サユリ

    面白い。
    序は、まるで『果てしない物語』のよう。

    カフェに置いてあって、まだ少ししか読めていないけど、手元に置いておきたい本。

    投稿日:2021.08.13

  • yoshidamasakazu

    yoshidamasakazu

    描かれている情景は 宮本常一の「忘れられた日本人」な感じ。近代の日本人というより、山奥で原始的な暮らしをする庶民の滑稽で、哀しい日常を描いている

    見ようによっては 神話に見える。庶民の哀しい現実に 自然調和や社会構造が働いているように見える。庶民の本質として 虚栄心ではない 強情さ を見いだせる続きを読む

    投稿日:2016.12.13

  • 乱読ぴょん

    乱読ぴょん

    本読みの友が、いつだったか買っていた深沢七郎の本が発掘された!と読んだそうで、「おくまさんがね…」と内容にかかわるメールがきたところで、待って待って、まだ読んでないから待ってと、私も図書館で本を借りてきて読む。タイトルどおり、"庶民"の生き方が描かれたものである。

    友の「おくまさんがね…」というのは、周囲を気遣って決して本音を言わずにいる母親おくまの話「おくま嘘歌」であった。嫁の心を考え、嫁いだ娘の気持ちを考え、おくまは「こう思わせたい」行動をとる。

    ほんとうは娘の顔が見たくて婚家へ訪ねてきたのに、「坊の顔を見たくて来たのオジャンけ」(p.68)とおくまは嘘を言う。孫の顔を見たくて来たと言った方が娘が喜ぶと思ったからだ。その孫をおぶったおくまは、ちょっとの間に大きくなった孫が肩が痛くなるほど重いと感じる。それでも、苦しげにおぶっていては、かえって娘に心配させるから、そんな重い子をずっとおぶっていたのかと問われたときには、「なーに、いっさら、クタビれんでごいす」(p.70)と嘘を言う。

    おくまの言動はずっとこんな具合だ。娘の家から帰ってきたとき、嫁も息子も疲れただろうと言ってくれる。たしかにくたびれているのだが、娘の家へ行って疲れて帰ってくるのは申し訳ない気がするし、そう思われては次に行くときに気がひけるから、やはりおくまは「なに、いっさら」(p.73)と嘘を言う。そうして、死ぬときにも嘘を言ったおくまが描かれる。

    そんな"庶民"の話が6つと、巻頭には「庶民というものは、どんな人達だか」(p.9)を書いた序章が収められている。

    どの話もなんだかすさまじい。そのなかでも私がおもしろかったのは、「べえべえぶし」。歌の上手かった善兵衛さんの話だ。野良唄として歌われた「べえべえぶし」にことよせて、農業で生きる姿やその心を描いている。

     やくざゴボータコの足
     やくざ菜っパの傘のホネ
     むすこも むすめも 
     あましもんだんべえ

    と、善兵衛さんが囃子のように歌うのは、役に立たないものたちを並べた文句だ。このやくざゴボーのまえに、善兵衛さんが 

     アア、「子褒め、役好き、出させ好き」

    と叫ぶような言い方の合いの手を入れることもあった、と続く。

    ▼百姓の生活は昔気質というのか、古い時代からの習慣からだろうか、農業は畑からとれる予定以外の収入は全然ないのである。大げさに表現すれば百姓は一生涯たっても予定の収入以外はないのである。これは、希望がない生活でもあった。農作物は高値のときもあるがそんな場合は収穫の少ない時である。豊作なら安値だから、高値でも安値でもほとんど変りはない。結局、百姓たちの希望は自分の子供に寄せられている。「子褒め」は自分の子供を褒めることだが、もし、予定以外の儲けを運んでくれるものがあるなら、それは子供以外にはないのである。なんとかして自分の子供のすぐれた点を見つけだそうとする。「画がうまい」、「野球がうまい」、「唄がうまい」、「自転車が速い」と、それは、幼稚園児でも小学生でも、ちょっと、すぐれた点があれば、将来、「競輪の選手になるだろう」「歌手になって」儲けてくれるではないだろうかと、捕らぬ狸の皮の代金を計ったりする、そこには溺れる者が藁をつかむように自分の子供への将来を讃えるのは自分の子供を褒めることしか希望がないからなのである。(p.219)

    そして、この後ろには「役好き」、生活の中にある組合のような隣組のような組織の「役」、いわば当番をすることに生きる重要性とプライドを見いだす「役がなければ生き甲斐がない」(p.220)百姓生活と、「出させ好き」、つまり余分の収入のない生活が「他人に出させる」という智恵を産み、「金銭、酒、食物等、他人から出させようとする。そのためには選挙でもなんでも自分の権利を放棄してしまう」(p.220)という百姓の哀れさが述べられている。

    こういうところに、宮本常一が人の話をよくよく聞いて書いたのと似たものを感じる。生きていることのすさまじさ、そうして生きている庶民の姿を描いたからこそ、深沢は「烈」の字をあてて、庶民烈伝としたのだろうと思う。

    (1/16了)
    続きを読む

    投稿日:2015.02.08

  • risonazy

    risonazy

    すぐれた小説の条件とは何だろう。
    まず、「機械仕掛けの神」を作品に仕掛けるようではダメだ、と言ってみよう。
    その神は、いろんなことを解決したり先送りしてしまったりするのだが、
    所詮、作者の作った機械による仕掛けにすぎないのだ。
    これに対して、深沢七郎の小説は、「神が仕掛けられた機械」そのものである。
    作者ですら、その神の意図はわからない、という形をとるのだ。
    これは、文学でしか表現できない、ということもできる。
    続きを読む

    投稿日:2014.01.19

  • rucho

    rucho

    このレビューはネタバレを含みます

    深沢七郎が身近な庶民から着想を得たという短編小説集。

    この短編集には、序章として50ページ近い長めのエッセイが収録されています。そのエッセイで、さる老人と庶民の性質について問答しているのですが、喰いしん坊で、強情で、あわてんぼうで・・・。
    冒頭から、おかしくて引き込まれてしまいました。

    さて、それでは本編はどうかというと、
    もちろん庶民の姿は滑稽でかわいらしく描かれているのですが、どこか悲しさが漂う作品ばかりです。

    『おくま嘘歌』はいかにも深沢七郎が好きそうなお婆さんが主人公。
    世間や家族に気を遣って、疲れても本音を言わずに働きます。
    『安芸のやぐも唄』は七色の雲(作中にそれと書いていませんが、原爆のことでしょう)で目を潰されてしまった按摩さん。
    視力だけでなく家族をも失った体験により、社会や信仰とのつながりを断たれてしまいます。
    『サロメの十字架』はホステスのママの座をめぐった権力闘争の物語といったところでしょうか。ママになったところで、やはりいずれ他の者にその座を蹴落とされるだろう運命は悲哀を誘います。

    それでも、悲しさを悲しさと感じない、不幸を不幸と思わないところに、
    悲哀以上に庶民の底力を感じました。
    庶民を、ドストエフスキーの主人公たちにも負けないような個性で描き出した深沢七郎は"ただならぬ庶民"といったところでしょうか。
    どうも、深沢七郎がこの作品を書いた頃の庶民と、今の庶民とでは意味が変わってしまったように思います。
    富やら地位やらであくせくしている私たちに、澄んだ目でものを見直すきっかけをあたえてくれる、そんな素敵な本でした。

    深沢七郎の著作はエッセイも物語も甲乙つけがたく面白いです。

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    投稿日:2013.08.24

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