ミトンとふびん
吉本ばなな(著)
/幻冬舎文庫
この作品のレビュー
平均 3.9 (17件のレビュー)
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『私はここから歩いていくんだ、と思った』。
人の日常はさまざまなものに束縛されています。生活していくためには働いてお金を稼ぐ他ないことは言うまでもありませんが、生まれついた環境によっても土地や家、慣…習などにも人は束縛され続けます。
一方で、そんな束縛には他の人からは決して知り得ないものもあると思います。大切な人の存在を意識する感情です。この場合に束縛という言葉は不適当ではありますが、心が縛られていく感情という意味では一種の束縛だと思います。また、そんな大切な人を失ったとしたらどうでしょうか?物理的な人がいないにも関わらず、いつまでもそんな存在に心が引っ張られてしまうことはあると思います。これは他人からは決して見えない、分からないもの、あくまで自分自身の感情が束縛を受け続けているという状態だと思います。
さてここに、”たいせつなひとの死、癒えることのない喪失”を抱えながら生きていく主人公たちの姿を描いた物語があります。6人の主人公たちがそれぞれの思いの中に旅先へと赴くこの作品。そんな中に感情が揺れ動く様を具に見るこの作品。そしてそれは、そんな旅先で『失うものがないということがなぜか安心につながっていた』という感情の萌芽を見る物語です。
『金沢には一度だけ行ったことがあった』と『全てがぼんやりとあいまいで、今となっては移動した場所も特定できず、淡い感触しか残っていない』というのは主人公の『私』。『当時のボーイフレンドは飛行機嫌いで、どうしても電車で行くと言い張った』という過去を振り返る『私』は、『新幹線がまだ通っていなかった』こともあって『ずいぶんと時間がかかった』ことで『すっかり不機嫌になりふたりはけんかをした』ことを思い出します。『川も見えないし、風情がない』という『ビジネスホテルみたいなところ』に宿泊することになった『私』は、『ホテルのレストランで取ってつけたようなぬるい名物料理のランチを食べながら』文句を言います。それに『そんなこと言うものじゃない』と返す彼。『私はすっかり頭に血が上ってしまい、「帰る。」と言って席を立』ちます。『部屋に上がって荷物をゆっくりまとめた』ものの『追ってこな』い彼。『そろそろ潮時という感じの二人だったので、もういいか』と思う『私』は、『つきあって一年、あまり気の合う人ではなかった』と思う一方で、『旅先で別れるなんて、とも思』います。『そもそも』『飛行機が大好き』という『私』は、『空を飛んでいるあいだずっとわくわくして』過ごすこともあり、『そんな人間だったから合わないに決まっていた』とも考えます。『帰りは絶対飛行機で帰ってやる!』と思う『私』でしたが、ふと『今夜は、この街が地元である目上の知人が店を予約してくれていた』ことを思い出します。『「せっかくここまで来たんだから一泊しよう」と考え直した『私』は、『空室がある別のホテル』に移ります。『清々しい気分だった』という『私』は、『夜になって予約時間が来たので、そのお店にひとりで』出かけます。『さすがにボーイフレンドは来ていなかった』ということに『心底ホッとする『私』は、『もう終わった。これで心おきなく飲める』と思います。『おまかせのみで出てくる食べものはみなホテルで食べた料理の百倍くらいおいし』い中、『自由と幸せを感じ』る『私』。『つやつやと輝』く『お刺身の切り口』、そして『この地方特有の甘くて濃いお醬油がその厚いお刺し身にぴったりと合』うことに喜びを感じる『私』。そんな時、『「ひとり旅なの?」と知人の友だちのおじさま』に『聞きにくそうに言』われ、『そうなんです、彼とケンカ別れしちゃって、てへへ』と返す『私』。『「そんな時期じゃ口説けないな」と明るく言ってくれるような品の良い人たち』と共に『くつろいでお酒を飲み、語り合い、食事をした』『私』。そして、『十一時くらいに歩いてホテル』帰る『私』を送ってくれた『おじさまたち』は、『じゃ、私はここで。今からちょっと野暮用があってね』、『私も行きつけで一杯飲み直して帰るよ』と言うと『夜の闇の中に消えてい』きました。『そのあと数年して、「野暮用」の彼は病気で亡くなったと知人づてに聞いた』『私』は『彼の連れの』『おじさまももう鬼籍に入られたと聞』き、あの時のことを思う中に『あのお店自体がすでに、ぼうっと夜の闇に浮かんだまぼろしだったように思』います。そして、『それから三十年の時を経て』、『夫になった人と娘と三人で』、かつて『もの哀しい印象のある街』と記憶に残る金沢を再訪する『私』は、そこに『まるで違う顔をしてい』る街の姿を見ます。そんな過去の先の今を生きる『私』が描かれていきます…という最初の短編〈夢の中〉。旅先でのけんか別れという衝撃的な始まりの先に穏やかな今が描かれていく好編でした。
“今日もこうしてまわりつづける地球の上でめぐりゆく出会いと、ちいさな光に照らされた人生のよろこびにあたたかく包まれる全6編からなる短篇集”と内容紹介にうたわれるこの作品。「北國新聞」、「メルカリ”モノガタリ”」、そして「新潮」に2018年から2021年にかけて掲載された短編をまとめた短編集となっています。収録された6つの物語は内容的にも関連は全くなく、また掲載先の事情もあるのか長短もバラバラです。そう、一見単に短編が溜まったのでまとめて一冊にしてみました!という印象も受けるこの作品ですが、その割には雰囲気感が共通してもいます。それこそが、6つの短編は全て主人公が国内外のさまざまな地を旅する情景が描かれていくという点です。まずは、そんな旅先と短編タイトルをご紹介しましょう。
・〈夢の中〉: 金沢
・〈SINSIN AND THE MOUSE〉: 台北
・〈ミトンとふびん〉: ヘルシンキ
・〈カロンテ〉: ローマ
・〈珊瑚のリング〉: 香港
・〈情け嶋〉: 八丈島
いかがでしょうか?旅先は見事なくらいにバラバラです。そんなバラバラな土地ではありますが、それぞれの街はそれぞれの短編で主人公となる女性たちにとっては何かしら意味ある土地であり、物語ではそんな土地を思い出す、再訪する中に展開していきます。では、6つの短編から私が特に気に入った3つの短編をご紹介したいと思います。
・〈SINSIN AND THE MOUSE〉: 『亡くなった母の遺産が入って来』たものの『ひとりっ子の私には他にだれも分ける人がいなかった』という主人公の光岡ちぢみは、そのことを『悲しみを分かち合う人もいない』と理解します。『長患い』の先に『急に失くなったことでぽっかりと穴があいたようにな』った ちぢみ。そんな時『友人のマサミチというシンガーソングライターが「台北のライブハウスにツアーで行くけど気晴らしに来ない?』と誘ってくれました。過去に台北を旅した時に『時間もないのにお母さんにおみやげを…』と焦ったことを思い出し、『家族がいるという幸せの、本質』を感じる ちぢみは、母親のことを思い出しつつ台北を再訪します。
・〈ミトンとふびん〉: 『今僕は、この人とおつきあいしていて、結婚したいと思っています』とベッドに横になる外山の母親に紹介されたのは主人公の林原ゆき世。そんな記憶を振り返る ゆき世は『私、手袋忘れてきた、最低気温マイナス十六度だっていうのに!』と『ヘルシンキの空港』から出たとたん言葉にします。『生きているだけで手が痛い?』と『破壊的に寒』い空気に驚く ゆき世に『この寒さで手袋なしは無理がある… とりあえず買いに行こう。もし売ってなかったら僕のを貸してやる』と言ってくれる外山。『十代で大きな病気をして、子宮を取った。死の覚悟をうっすら抱いたまま、歳を取った』という ゆき世は『私に子どもはできない』という今を生きています。
・〈カロンテ〉: 『君の名前ってどういう意味?』とジャンルーカに訊かれ『しじみは、貝。すごく小さい貝。味噌スープに入ってる』と説明するのは主人公の しじみ。『イタリア人ってほんとうにあちこちに毛が生えてる』と『裸になって抱き合』う中に、『今回の旅ですべきこととこのセックスは関係なかった、やっちゃったな、うっかり間違えちゃった』と思います。『死んだ友だち真理子の婚約者マッテオと』、『昨夜ローマについてすぐ』会った しじみは『真理子の不在』を感じる中に『涙が止まらなくなり』ました。そして、『真理子の愛した老舗トラットリア、モルガーナ』で『晩ごはんを食べ』ます。そして、真理子のことを思いながらローマを旅する しじみ。
“短い旅をたくさんした三十年間の経験を込めて、時間をかけてやっとできたこの本”と〈あとがき〉に書く吉本ばななさん。三つの短編をご紹介しましたが、それぞれの作品の主人公は台北、ヘルシンキ、そしてローマへと旅に出ます。 人は旅に出る時、そこには行き先の選択含め何かしらの理由が存在すると思います。この三つの短編においても、母親や友人の死など何かしらの思いを抱える中に主人公たちは目的地を目指します。そこに描かれるのは吉本さんが実際に旅をされた経験に基づく極めてリアルな描写です。特に〈カロンテ〉に描かれるローマは行ってみたい感を掻き立てます。『「ローマ中央市場」と名づけられたフードコートの高級版みたいなものに行った』という しじみの旅、食の風景を見てみましょう。
『大テーブルに席を取って、たっぷりと黒トリュフがかかった、ペコリーノチーズと胡椒のパスタをのんびりと食べて、大きなボトルのガス入りの水を分け合って飲んだ』。
仕事を休んでくれたというマッテオとの食事風景ですが、そのマッテオは『切り売りのピッツァを食べ』ています。そんな中、 しじみは、『いろんなお店が屋台のように並んでい』るのを見回します。
『ローマ名物の三角のピッツァ生地に具を詰めたものの専門店も。バーもあれば、デザートだけの一角もある。名前通りほんものの市場のような、すごいにぎわいだった』。
そして、しじみの心に変化も生まれます。
『あまりにもたくさんの人がいるから、気持ちごと風景に溶けこめそうな気分だった』。
そんな中に大切な友人だった真理子のことを思う しじみ。『もう会えないのはわかっている』という中に、どこか真理子のことを探してもしまう しじみのローマの旅。そんな短編含め、6つの短編に描かれていく旅の中には何か大きなことが起こるわけではありません。それは私たちがそれぞれが旅に赴くのと同じことです。”登場人物それぞれにそれなりの傷はある。しかし彼らはただ人生を眺めているだけ”。そんなふうに吉本さんがおっしゃる通り、6つの短編に登場する主人公たちにも劇的な展開が用意されているわけではありません。普通の人たちが、普通の旅に赴いて、ある意味淡々と旅程をこなしていく、その様が静かに描かれていくのがこの作品。だからこそ、そこには人の人生の深みが感じられるのだと思いました。
『失うものがないということがなぜか安心につながっていた。もう死は私に追いついてこない。皮肉なことに、母の死によって、夢の中でも逃げられない、ひとりぼっちになる恐怖から私はやっと解放された』。
長短織り交ぜた6つの短編が収録されたこの作品。そこには、それぞれの短編で主人公となる6人の女性の物語が描かれていました。バラテエィに富んだ旅先にどこかは興味ある場所が見つかるであろうこの作品。そんな旅先に旅情を掻き立てられるこの作品。
“たいせつなひとの死、癒えることのない喪失を抱えて、生きていくー”という内容紹介の世界観が描かれていく物語の中に予想以上の深みを感じた、そんな作品でした。続きを読む投稿日:2024.02.19
文庫版あとがき、がすきだった。
自分は、まだ近しい人を失ったことがないから、どんなもんなんだろうと思うし、そのあたりの共感はやっぱり100%はできなかったけど、もしそういうことがあったら、また読みた…いなと思うし、そうじゃなくても、年に1回、読みたいなぁと思える。続きを読む投稿日:2024.03.28
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