環境が芸術になるとき
高橋憲人(著)
/春秋社
作品情報
環境や人間の知覚、そして芸術創造に通底する「肌理/テクスチャ」へのアプローチをとおして、知覚と創造とがつねに往還をつづけるエコロジカルなプロセスを考察する。
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この作品のレビュー
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以下引用
私たちは少なくとも、自分たちが無限の、身に迫るような、錯綜した、大きな何者かのなかに浸っていることをしっていた。それがどういう名前なのかは分からなかったが、しかしそれはぎざぎざになった雲緑…や、雄鶏の夜の叫び、草のなかで風がうなる声とかかわりのあるものであった。この蠢き、めぐる環境に支配され、その偶然のうちに投げ出されていることを知っていたのだ
ランドスケープが求めるのは、環境の動きのなかで、それを読み、それに対してなすべき身振りを導き出す居住者のイマジネーションである。
モノはランドスケープの部分ではなく、ランドスケープはモノとの組み合わせからはできていない
世界が生成変化のプロセスであるならば、その動きの只中でヒトが何かをつくることもまたプロセスであり、つくられるモノも、常につくられつつあるモノとして、プロセスであり続ける。つまり、ケージの音楽は
常に生成変化のプロセス、彼のいう、「開かれた状態」であり続けるため、最終的な生産物としてかたちを閉じることがない。ケージは、人々を「開かれた状態」へと連れ戻すために音楽をつくり続けるのである。
世界は在るのではなく、成るんです。動き、変化するのです。
音をあるがままの状態として提示すること、そのためにケージは作況に偶然性を導入した。地面に打ち付ける雨音も、風になびく草の動きも何も意図していないし、なにも表現していない。そこに不用意に意図や意味を探るとき、人は出来事を固定し、その感触を矮小化してしまう。ケージの音楽が人々に求めているのは、あるがままの音の感触を、感触のままとして聞き続けること
芸術はプロセス
クレーが芸術の根幹と捉えるふぉるミングとは、かたちづくることの運動、行為、生命、つまりかたちがかたちづくられつつあるプロセスである。ゆえに、最終的な生産物としてかたちを結び、前進するエネルギーを失ったフォルムは、芸術の敵であり,死物同然
作り手が、内的なイメージに即して外的な対象物を加工するという、西洋に根付くよく蔓延る『つくること』のモデル。ここでは、既定の形に沿ってつくられた最終的な生産物こそが重要であり、かたちづくることのプロセスは、目的から結果へと向かう経過の途中にすぎないとされる。
作り邸は、放浪し歩き回るのであり、そのわざは運動状態にある世界のざらつきを見つけ出し、その展開をなぞるとともに、発展しつつある目的に適うようにその流れを導いていく
従うことは、受動的ではなく、むしろ能動的。獲物の痕跡を辿る猟師においては、野道をたどる猟師は、常に全感覚器官を働かせ、環境の変化に眼を光らせ、進路を調整しなければならない。
身体を飛び済ませ、流動する漆の状態を探りながら、次に繰り出す身振りに向かい進み続けなければならない
インゴルドは、最終的な生産物、つまり結果から作者の意図を推理するような芸術研究の風潮を批判し、創造性を順方向に捉えることの受容性をいう。それは即興に焦点を合わせることを伴う。
事前に心のうちに抱いたアイデアを施工するということではなくて、当の作品のかたちをあらしめている素材の力と流動に合体し、それに従うこと。
作品はそれを見るものを芸術家の旅の道連れとするように招く。見る者は、作品が世界に現れるさまを、作品と共に見るのであり、作品という最終形をもたらすことになった元来の意図をその背後に読み解くのではない。
→作品が世界に現れるさまを見るというのは、その生成過程に引き込まれるということだろうか。その過程に流れている運動によって、鑑賞者は「外」へと連れ出される。
★★芸術作品には後から様々な意味付けが付与されることもあるだろう。そのような、意味付けの誘惑に囚われて、人々は創造性を逆方向へ読み取ろうとする。、、、しかし「開かれた状態」にある芸術は、その意味付けの鎖を断ち切り、再び世界のなかへと展開していく強度を持っている。
→
●この意味では、作品をつくったり、それを他者の前に提示することは、作り手自身が「開かれた状態」で居続けるための技法なのだということも言えるんだろうな。自分のしていることは何なのだろうかとか、自分のやっていることの意味は何なのだろうかということを、ただ自分内で自問していても仕方がなくて、それはそのままで、さっと他者の前に提示してしまうことで、その意味も見出されるのだろうし、それこそそれによって「開かれた」ままで、世界に居続けることが出来るのだと思う。翻って今の自分は、「ここには何の意味があるんだろう、、」ということをただただ思案しているだけだ。「これを形にしたい」という欲求さえあれば、もうそこに意味は問わなくてもよいのではないか。自分が形にするところにエネルギーに向けることを疎外している要因として、自分で全部を知っておきたいというある種の自閉性が作用してしまっているように思う。「ここにどんな意味があるのか」を自分で整理しようとするのではなく、それを関りの中で「事後的に教えてもらう」ような、そういう形で作品を捉えることも必要なのではないか。
●先日の聞き書きで言えば、やはり話者の方は「わたしの人生なんか、、、」とほとんどが言われる。けれども、それを聞いた側は、大きなものを受け取る。そのコミュニケーションに、そもそも意図も何もあったわけではない。ただその人の人生をそのまま聞いただけなのに、そこにひとは何かを読む
●とりわけ自分にとってあの聞き書きにおいて印象的だったのはまったく以て「無意味な場面」の話だ。おそらくあの方も、それを話したことすら覚えていないだろうし、その話をすることで、何かが起きるだろうとも思っていない。けれどもそこに自分は心を揺さぶられ、「開かれ」ていったわけである。あそこで重要だったのは、それをは語ろうとしたエネルギーであったのだと思う。それが何の意味を持つのかをしらないままに、それでもそれを他者の前に出すことでしか、生まれないものがあったのだと思う。
●あの語りの場において重要だったのは、そこにどんな意味があるのかもわからないままに、それでもその話にじっと耳を澄ませる学生や先生がいたことだったのだと思う。その存在により、語りもより促進されたのではないかという気がする。あの場の紐帯というのはそれこそ、一方向的ではなく、その語りや彼の人生の意味を、一緒になって「作りだす」というものになっていたのだと思う。彼の語りやそこで描かれた人生の軌跡はそれ自体で語られていたわけではなく、それを媒介にして、一緒にその意味や価値を、創造する場が、あの時間だったのではないかということを思う。そのために必要だったのは、まずは語ること。意味もなしに語ること。そして、それを聴く者がいること。そして返す者がいること。ここに、あの語りを媒介にした無意味なコミュニケーション(意図のない)における、「意味」や「価値」が、共創される。
●と、同時に自分は、「返す(フィードバック)」ということをあまりしていないのかなということを思った。それをしないということは、間に生成された意味とか、それこそ「あの語り」「彼の人生」が「なんであるのか」を、伝えずにいてしまうということ。それによって「その一つの人生」の「意味」や「価値」が何であったかが損なわれてしまうともいえる。また、自分は自分の作品を、自分のものとしておきたいと思っている部分があって、フィードバックによって自分が何であるのかを教えてもらうコミュニケーションをとっていないのかもしれない。それを自分にもしているし、人にもしている可能性はある。
★クレーが芸術の根幹と捉えるフォルミングとは、かたちづくることの運動、行為、生命、つまりかたちがかたちづくられつつあるプロセスである。
→これは語りも同じだなと思う。「いまの自分」をまずは差し出すことに全エネルギーを注げばそれで良いのかもしれない。そしてそれをすることで、また異なる『流れ』が他者との相互作用において立ち上がるし、自分が何をつくろうとしているのかの、フィードバックももらえる。
芸術はプロセス
常に生成変化のプロセス、つまり「開かれた状態」であり続けるために、最終的な生産物としてかたちを閉じることがない
→これで良いのだと思う。自分は何をつくろうとしているのかを、いったん「現在」をかたちにすることで、教えてもらいつつ、そこにコミュニケーションが展開するという形。それを自分は望んでいるのだと思う
★★伝達というのは、伝え合わなければならない何かが、対象物があるということを前提にしている。私が考えている会話は、対象物に基づくものではないんです。伝達するということは、常に何かを押し付けること。ところで、会話の中では押し付けられるものはなにもない。
→いつのまにか、自分も作品を「伝達」の手段としてしまっていたかもしれない。あの聞き書きの時に僕は「生命」から見られた気がする。そして自分の生命の滞りが外へと流された。それは単に、「生命の場」の話を聴いたからにすぎない。その「生命の場」のイメージによって、自分の生命が想起されたということだと思う。
★コミュニケーションは、他者に対して、対象物についての真理や感情を押し付けるが、ケージのいう会話は、規定の対象物に帰着することを回避し、「開かれた状態」つまりプロセスとして展開し続ける
→これはダイアローグもそうだし、人間の語りも同じだろうな。そして作品を他者の前に提出するというのもまったくもって同じことなのだと思う。「プロセス」を推し進めるための「装置」で良いし、「コミュニケーション」を誘発し、「次なる流れ」や「他者との回路」をひらくための「いま」の現前であれさえすればよい
ひとつひとつのラインは、筆を持つ微妙な動作、すなわち周囲の世界のさまざまな運動を書家が綿密に観察することから生まれる身ぶりの軌跡である
書家は周囲の世界を観察することで、そのなかにさまざまな運動を発見する。世界の運動は、書家の身体と共振し、そこから新たな身振りが生まれる。その身振りは、筆が紙の上を辿った痕跡として、再び世界の側に刻まれる
★彼らが表現しようと努めたものは、事物の形や輪郭ではなかった。彼らの目的は、世界のリズムや運動を、身振りのうちに再生すること。戦う蛇の攻撃や反撃から霊感を得た書のラインが、実際に蛇に似ていると思うものはいないだろう。重要なのは、ラインが蛇のように動くことである
★書家たちが観察し、筆の動きのうちに再生するのは、世界のリズム、運動であり、物体のアウトラインや外形ではない。書家たちにとっての観察とは、まなざす目によって世界を対象化することではない。それは、世界のなかを動き回るモノゴトを、その動きとともに捉える菅申。そしてその動的な観察により捉えられ、再生されたラインも、世界のなかのモノゴトと同じように運動している。身振りの痕跡としての書のラインが、世界の動きを顕現しているともいえる。ゆえに、文字を記す、身振りのプロセスそのものから、世界の動きを観察することもできる
文字を彫るという行為において、世界を観察することと、世界に痕跡を残すことが同じこと
占い師は、骨を通して世界と照応している。音楽では、世界の音を聞くことと、世界に声を放つことを
★バルトにおける芸術の3つめのレベルは身振り。必ずしもそれは何かを生み出そうとしない。つまり情報や理解作用の範疇から零れ落ちる残骸を生み出す。メッセージや記号はなにかを伝達する、読み手になにかを理解させるという具体的な目的をもっており、合目的的な行為。それに対して、身振りは、それそのものとして以外に振る舞うことはなく、それを知覚する人を意味作用の外側へと連れ出す
★★トゥオンブのドローイングは、多くの絵画とは異なり、それを生産物として眺め、その背後に作者の意図を推論すること、つまり創造性を読み解くことを全く要求しない。それは、「開かれた状態」で見るものを待ち構えている。それは大気の動きがもたらすラインのように、細かな雨のように降り、風のなかの草のようになびく。そして紙の表面に進展途中のままでとどまるラインを辿ることで、観る者の身体は、彼の身体と照応することもできる。開かれたラインは、未だ描かれていないラインを誘発していくのだ
→これで良いのかもしれないな。
獣や他の人が踏み残した足跡をたどり、徒歩旅行者が自らの新しい歩行のラインを地面に縫い付けるように、バルトは、そのドローイングの手の足跡をたどっていく。開かれたラインを辿ることで、それを辿るバルトの身体はいつの間にか、そのラインを追い越し、世界の中に新たなラインを走らせる。彼のドローイングの、身体との照応により、前へ前へと前進していく辿ることそのものを模倣する。これが創造性を順方向に捉えること
ただ景色を見ることだけじゃなく、そこに描くっていう行為を介在させること。世界との摩擦が生まれる。世界に触れる。これにより世界が自分のなかに入ってくる、あるいは自分のなかにあるものが、世界に痕跡として刻まれる。世界に自分をチューニングする。それによる世界を把握する。それと同時に、自己を把握する
ドローイング、つまり世界との摩擦においてスズキと世界は浸透し合い、鈴木の身体は自己と環境とをつなげるチューブとなる。
かたちが恒久的に残っている痕跡というよりは、短いあいだで消える痕跡
描写じゃなくて、双方上的に影響しあうのがドローイング続きを読む投稿日:2022.09.10
https://www.shunjusha.co.jp/book/9784393333884.html
投稿日:2022.02.09
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