[増補版]神道はなぜ教えがないのか
島田裕巳(著者)
/扶桑社BOOKS
作品情報
神道とは何かを明らかにすることは、日本人の世界観や人生観を考えることにつながる!
開祖も宗祖もおらず、教義も救済もない神道だが、その信仰は日本人の生活に深く浸透している。宗教の枠におさまりきれない神道について、その成り立ち、イスラム教との違い、仏教との関係など、「ない」宗教の本質に迫り、その展開を追う。
*
第1章 「ない宗教」としての神道
第2章 もともとは神殿などなかった
第3章 岩と火-原初の信仰対象と閉じられた空間
第4章 日本の神道は創造神のない宗教である
第5章 神社の社殿はいつからあるのか
第6章 「ない宗教」と「ある宗教」との共存
第7章 人を神として祀る神道
第8章 神道は意外にイスラム教と似ている
第9章 神主は、要らない
第10章 神道には生き神という存在がある
第11章 伊勢神宮の式年遷宮はいつから行われているのか
第12章 救いのない宗教
第13章 ないがゆえの自由と伝統
第14章 浄土としての神社空間
第15章 仏教からの脱却をめざした神道理論
第16章 神道は宗教にあらず
第17章 「ある宗教」への胎動
第18章 「ない宗教」の現在と未来
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商品情報
- シリーズ
- [増補版]神道はなぜ教えがないのか
- 著者
- 島田裕巳
- 出版社
- 扶桑社
- 掲載誌・レーベル
- 扶桑社BOOKS
- 書籍発売日
- 2023.09.01
- Reader Store発売日
- 2023.09.01
- ファイルサイズ
- 28.5MB
- ページ数
- 224ページ
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[増補版]神道はなぜ教えがないのか
神道をいかにとらえていくか。この本で考えてみたいのはそのことである。神道の本質を見定め、その展開の過程を追うことで、日本人が神道とどのようにかかわってきたのか…を明らかにすることは、おそらく、私たち日本人の基本的な世界観を考えることにつながっていくことだろう。
神道は日本人を知るための鏡であるかもしれないのである。
第1章「ない宗教」としての神道
世界の宗教を分類する上で、民族宗教と「世界宗教」を区別することが一般的だ。民族宗教は一つの民族に固有の宗教で、神道の他には、ユダヤ教やヒンドゥー教があげられる。民族宗教には特定の創唱者というものが存在しないが、世界宗教にはそれがいて、その教えが民族の枠を超えて広がっていく。仏教やキリスト教、そしてイスラム教が世界宗教の代表ということになる。
ヨーロッパでは、キリスト教が浸透する以前のゲルマンやケルトといった民族宗教が形を変えて受け継がれている而がないとは言えない。ゲルマンやケルトの民族宗教は、クリスマスがそうであるように、ほとんどがキリスト教の信仰のなかに取り込まれ、大きく変容してしまった。
神道という宗教が難解だからではない。逆に、神道が宗教としては希に見るほどシンプルなものであるがゆえに、どうやってそれを説明していいのか、糸口を見つけることが難しいのだ。
明治以降、敗戦までの近代日本社会においては、「神道は宗教にあらず」とされ、宗教の枠の外側におかれていた。
そこには、神道を宗教の枠から外すことで、それを国民道徳や慣習として強制させようとする権力者の側の意図が働いていた。
開祖も、宗祖も、教義も、救済もない宗教が神道なのである。
神社の中心には、実質的に何もない。依代はあくまで神が宿るものであり、それ自体が神聖な存在であるわけではない。 仏教の影響で神像が作られた時代もあったが、それは一時期のことに終わってしまい、ずっと神像が作られてきたわけでもない。
仏教の歴史のなかでは、 大乘仏教が生まれ、「鑿倒系の経典が生まれた段階て空や無といったことが強調されるようになる。後に成立する禅がめざすのも、「無の境地」である。
あるいは、 禅を西欧に紹介した海松益は、 禅の説く無心が、 浄土真宗において重視される他力本願の信仰における無心に通じると説いていた。
神道が仏教と深く結びついていくのも、 この「ない」という本質が密接に関連している。「ない宗教」として神道を考えることが、重要なポイントになってくるのである。
第2章 もともとは神殿などなかった
伊勢神宮内宮の創建が本当はいったいいつだったのか、それははっきりしない。現在では二〇年に一度行われている式年遷宮がはじまったのは持統天皇の時代のことてそれは七世紀後半のこととされる。
実際に、弥生時代の登呂に、伊勢神社の正殿と同じような祭殿が建っていた可能性はあるのだろうか。それは、日本の神道の性格を考えると、実はかなり怪しいのである。
神道のなかでもっとも古い祭祀が営まれていたと考えられる沖ノ島や三輪山では、どちらも当社の祭祀は屋外の岩のところで行われていた。したがって、社殿は存在しなかった。少なくとも、拝殿の内部で祭祀が営まれていたわけではないのである
考古学と歴史学は、研究を進める上で基本的な素材となる資料の性格が異なっており、そこで役割分担をしている。もちろん、文字資料が登場する時代についても、遺構などの考古学的な研究は行われているものの、文字資料以前の時代についてはもっぱら考占学の領域になっている。
そのために、古代における神道の祭祀のあり方について、考古学と歴史学とでは異なるとらえ方がされ、それが放置されてしまっているのだ。
第3章 岩と火 原初の信卬対象と閉じられた空間
モアイ像は、チリ領のイースタ—島にある人面の巨石で、人工的に作られたものであることは明らかである。だが、その製作の目的は分かっていない。時代とともに巨大化していったという点では、日本の弥生時代の銅鐸と共通する。銅鐸はもともとは楽器だったが、巨大化することでその役割は果たさなくなった。もっぱら祭祀を営む人問の権威の象徴としての役割を果たしたと考えられる。
中国では、インドから仏教が取り入れられる前に、土着の儒教や道教が存在し、仏教はそうした宗教と競合する関係におかれた。それが廃仏がくり返される原因となった。それでも、敦煌がそうであるように、不便な山中にある石仏は残され、当時の中国の仏像がどういった形態をとっていたかを教えてくれている。
日本には、火を用いた火祭りというものが実に多い。世界にも火祭りがないわけではないが、火そのものが神聖視されるような祭はほとんどない。そこに、日本の祭りの特徴を見出すことができるし、さらには、日本人の宗教観の特徴を見出すことができる。重要なことは、火のような自然物がそのまま信仰の対象となっていることだ。
姿形をもたない神を祭祀の対象として祀り上げるためには、閉じられた空間という裝置が不可欠なのである。
だからこそ、日本人は神に祈るというときに、キリスト教の信者とは異なり犬を仰いだりはしないのかもしれない。日本人は、ホームランを打ったアメリカの大リーグの選手や、ゴール
を決めたヨーロッパのサッカー選手のように、天を仰ぐしぐさを見せることがない。
イスラム教は、たった一つだけの閉じられた空間をもつ宗教であり、神道には無数の閉じられた空間がある。一神教と多神教をそうした形で区別することもできるが、キリスト教には、イスラム教のような閉じた空間はない。
第4章 日本の神道は創造神のない宗教である
土偶は、わざと壊れやすく作られていて、実際完全な形で出土したものは少ない。その点で、何らかの身代わりとして制作された可能性が高い。
だが、土偶が作られ、壊された本当の意味が何なのか、それはまだつきとめられていない。縄文時代には、文献資料が存在しないわけで、その背後にある信仰の実態がつかめないからだ。
土偶のなかには、あるいは宇宙人と思われるようなユニークな形をしたものがあるが、人類学を研究する竹倉史人氏は、それが根茎類の形をもとにしているとしている。実際、人類学の父と称されるジェームズ・フレーザーは、植物霊に対する信仰が人類に普遍的なものであることを証明しようと試みた。たしかに、土偶の多様性は、植物がとる多様な形に対応したものかもしれない。
日本でも神話と儀礼が密接に結びついていた可能性があるわけだが、日本の神話全体を考えたとき重要な事柄は、最初に天地を創造した主体が不在だという点である。天地はいきなり出現している。神々が次々と生み出されていく舞台となつた高天原という空間も、いつの間にか出現している。
ビッグバン説は、創造主を想定せず、無の状態から宇宙が生み出されてきたとする点で、ユダヤ, キリスト教の創造神話を否定している。そのために、アメリカのプロテスタント福音派などは、ビッグバン説を否定し、公立の学校でそれを教えることに反対している。ただ、日本版の創造神話では、宇宙を創造した主体が想定されていないので、ビッグバン説とは抵触しない
創造神話の東西比較から浮かび上がってくることは、日本の神道は、「創造神のない宗教」だという点である。
ユダヤ人としてのアイデンティティーを確保するには、唯一絶対の神を信仰の対象とするユダヤ教の存在が不可欠だったのである。
これに比較すれば、神道を信仰する日本人は、国を失うといった苦難に直面することがなかった。中世には蒙古襲来のような出来事も起こるが、それを除けば異国の侵略を受けることもなかった。
創造神が作り上げたわけではない世界は、どうやってその連続性を確保してきたのだろうか。
宣長は、「なる」とともに「つぐ」ということに注目した。
宣長は、 王初の交代がなく、皇統が国を生んだ神に遡るがゆえに、日本は他の国より優れていると主張した。死後の弟子となった平田篤胤に受け継がれ、さらに、明治政府に参画した国学者や復古神道家にも共有された。
第5章 神社の社殿はいっからあるのか
鹿島神宮の社伝によれば、その創建は神武天皇元年のことだったとされている。神武天皇は神話上の人物だが、これは西暦で言えば紀元前六六〇年頃に相当するとされている。
現存する神社建築として、もっとも古いものはどれなのだろうか。その建物は、国宝にも指定されているが、あまりその存在は知られていないかもしれない。それが宇治の平等院の近くにある宇治上神社の本殿である。
この建物は平安時代中期の11世紀紀後半の建立とされている。拝殿も古く、鎌倉時代前期の13世紀のもので、やはり国宝に指定されている。拝殿としてはもっとも古いものの一つとされている。
現存する最古の仏教建築は法隆寺金堂である。七〇八年からはじまる和銅年間に再建されたという説が有力である。法隆寺金堂は木造建築としては世界最古のもので、よくぞ現在まで残っていると言える。
このように、仏教建築の場合には、古いものが今に伝えられ、創建についてもかなりはっきりした年代が明らかになっている。その点で神社建築とは状況がまったく違う。
仏教では、釈迦の時代には、各地を説法してまわっていたため、住む建物を必耍としなかったが、釈迦の死後は、仏教の修行者は仏塔の周囲で生活するようになり、そこに伽監が生まれた。そうなると、修行者が生活し、教えを学び、儀式を営むために各種の建物が必要になった。その点で、仏教の信仰を広め、それを定着させる上で、建築物は是非とも必要なものだったのである。
絵巻に神社の社殿が描かれているなら、当時の状況を明らかにすることができるはずである。しかし、神社の社殿が描かれることはほとんどない。
私たちがイメージする本格的な神社の社殿が建てられるようになるのは、鎌倉時代に入ってからのことではないかとも考えられる。
絵卷物は『過去現在因果経絵卷』を除くと、平安時代末期になるまで作られていない。したがって、その時代の神社の社殿については確かめようがないのだが、おそらく、大規模な社殿はその時代にはまだ存在しなかったのではないだろうか。
第6 章「ない宗教」と「ある宗教」との共存
仏教を公式に伝えられたときの天皇は、各種の史料では、欽明天皇(552年)であったとされている。欽明天皇は古墳時代の天皇である。欽明天皇は、豪族たちに対して、仏という新しい異国の神を受け入れるべきかどうかを問うた。
蘇我氏を率いる蘇我稲目は、 朝鮮半島で仏教が信仰されている状況を踏まえ、日本でも信仰すべきだと進言した。
一方、 蘇我氏とは対立関係にあった物部氏の物部尾興は、異国の神を礼拝するようになれば、日本の神が怒るであろうと、仏教を受け入れることに反対した。
二つの豪族は仏教の受容の可否をめぐって対立し、それが武力衝突にまで発展したと言われている。それが事実なら、これは日本で最初の「宗教戦争」ということになる。
少なくとも、それ以降、近代になり、「神仏分離」に伴って起こった「廃仏毀釈」まで、神道と仏教とが対立関係に陥ることはなかった。つまり、その伝来以来、ほぼ一四〇〇年の長きにわたって、両者は平和的に共存してきた。しかも、「神仏習合」ということばがあるように、両者は融合し、お互いを支えあう関係を築いていった。
キリスト教やイスラム教といった世界宗教に土着の民族宗教が取り込まれることで、そこには「シンクレティズム(諸教混淆) 」という事態が生まれた。日本の神仏習合も、このシンクレティズムの一つの形態として考えることはできる。だが、神道と仏教の埸合には、とちらカがもう片方を圧倒するという状態にはならなかった。それは、キリスト教やイスラム教といった世界宗教が民族宗教を飲み込んでしまったという事態とは根本的に異なっている。
神道が「ない宗教」であるのに対して、仏教が「ある宗教」だからである。両者の性格に根本的な差異があるからこそ、衝突することなく共存が可能だったのだ。 「ない宗教」と「ある宗教」とは相性が抜群によかったのである。
神道は、何でも揃っている仏教からさまざまな要素を取り入れ、その体系化を進めていくことができた。しかも、全面的に取り入れていく必要もなかった。ないものは必ず仏教にあり、それに依存すればよかったからである。
逆に仏教は、神道の世界にどんどんと浸透していくことができた。神道には、仏教にあるものがことごとく欠けていたため、どこまで深く浸透しても対立するということがなかったから
である。
神道には、『古事記』や『日本書紀』といった神話があり、神々や人間が創造される過程を明らかにし、それが世代を超えて受け継がれていくことに強い関心を向けてきた。また、作物の裁培を守護する役割を果たすようになり、人々の日常の生活やその人生の過程に深く関与してきた。
それに対して仏教は、悟りを開いて仏になるということと亡くなって浄土に生まれ変わるということに共通性を見出し、両者をともに「成仏」としてとらえたことで、人間の死の領域に深く踏み込んでいった。
神道では、死後の世界として黄泉の国の存在が想定されているが、それは生者の世界と地続きで、生の世界と死の世界とのあいだに決定的な断絶はない。ところが、仏教の浄上は、 現実
と断絶した場であり、理想化されている。
これによって、神道と仏教は、片方が生の領域に深くかかわり、もう片方が死の領域に深くかかわることで役割分担を行うことが可能になった。通過儀礼においても、 出生や子どもの成長、結婚などにかかわるものは神道が担い、葬式から死後の供控などは仏教が担う体制が作られていった。
第7 章 人を神として祀る神道
現在、日本で最も数が多い神社が幡神社である。八幡神社の祭神は八幡神であり、別名は誉田別尊である。誉田別尊は、応神天皇の別名、和風諡号であり、八幡神と応神天皇は習合している。
源氏の祖になる清和源氏が、八幡神を氏神としたことで、八幡神は武家の神、武門の神として広範な信仰を集めるようになる。鎌倉時代から室町を経て江戸時代まで武家による幕府が続いたことで、八幡神への信仰はさらに広がっていく。
神が出現するプロセスとして類例が少なくないのが、人が神に祀られるというケースである。
日本の民俗学の創始者である柳田國男には、「人を神に祀る風習」という論文がある。柳田は、八幡神だけではなく、天神や天満宮として祀った例についてもふれているが、そもそも天満宮は、人を神として祀ったところに生まれた神社にほかならない。
天満宮の祭神は菅原道真である。道真は平安時代の貴族であり、学者、あるいは漢詩人としても知られた。祟り神としての側面は後退し、道真が学者であったことから、学問の神として信仰を集めるようになる。
他の宗教においても、人を神に祀る風晋に近いものがある。それが、キリスト教やイスラム教に見られる聖人崇敬である。それは、殉教をしたり、生前に宗教者としてめざましい活躍をした人物が、 死後に俗人とは区別される聖人として祀られるものである。一神教の世界では、聖人が神としてとらえられるわけではないが、そのあり方は日本の神々に限りなく近い。
その点で、聖人崇敬が無闇に拡大されて、正統的な信仰を損なうことを畏れるのか、キリスト教のカトリックでは、教会の側が誰を聖人として祀るか、その主導権を握っている。型人を
認める手続きが定められ、聖人として認めるための儀式として「独驱」が用意されている。その点は、日本において神を祀る場合とは異なっている。日本では、制限はいっさいないのであ
る。
第8章 神道は意外にイスラム教と似ている
イスラム教は、宗教の分類としては「創唱宗教」、「世界宗教」に入り、ムハンマドという開祖がいる。ムハンマドに下された啓示は、その死後「コーラン」という聖典にまとめられる。一方、ムハンマドの言行、これは「スンナ」と呼ばれるが、「ハディース」にまとめられ、コ—ランと並ぶ聖典に位時づけられている。開祖がいて教義があり、それが聖典となっているわけである。
イスラム教には、神道と共通する「ない宗教」としての側而が多々見られる。
まず、イスラム教では、偶像崇拝を徹底して禁じており、神の像が造られることはない。ムハンマドについても、イスラム教の初期の時代にはその姿が描かれていた。ところが、次第に、ムハンマドの顔は描かれなくなり、顔の部分はのっぺらぼうのような描かれ方をするようになる。
イスラム教の礼拝施設であるモスクの場合、その内部には、「キブラ」と呼ばれるメッカの方角を示す目途として「ミフラーブ」と呼ばれる窪みがある。これは、あくまで方角を示すた
めの目印にしかすぎない。これを含め、モスクの内部には神聖なものはいっさい存在していない。キリスト教会にある十字架は神聖なものとしてとらえられているが、モスクにはそうしたものはないのである。
もっとも重要なのは、どちらの宗教でも聖なる世界と俗なる世界の区別が存在しないということである。キリスト教では、神によって支配される聖なる世界とそれ以外の俗なる世界とが厳格に区別されているが、イスラム教にはその区別がないのである。
それは神道も同じで、仏教におけるあの世とこの世、浄上と現世のように、世俗の世界と異なる神聖な世界の存在が想定されているわけではない。死者が赴く黄泉の国も、現実の世界と地続きになっているし、決して理想化されてはいない。
聖なる世界と俗なる世界とのあいだに区別がない以上、イスラム教でも神道でも、厳密な意味での聖職者は存在しない。ここで言う聖職者とはキリスト教の神父や修道士、仏教の僧侶のように世俗の世界を捨てた人間のことである。
これは一般にはあまり認識されていないことだが、世界の宗教のなかで、出家が制度化されているのはキリスト教と仏教だけである。それもこの二つの宗教では、現実の俗なる世界とは根本的に異なる聖なる世界の存在が前提となっているからである。
イスラム教では、神の力はあらゆるところに及んでおり、その点で、聖なる世界と俗なる世界とが区別されることはない。すべてが俗なる世界であるとも言えるし、すべてが聖なる世界であるとも言える。
それは、神道についても共通して言えることで、 仏教のように、俗なる人間が修行をすることで成仏し、それで「聖化」されるという構造にはなっていない。そうした回路が存在しないからこそ、イスラム教でも神道でも、指導者は俗人のままで、世俗の世界を離れた生活を送ることにはならないのである。
第9章 神主は、要らない
僧侶はプロフェッショナルだが、 神主はあくまでアマチュアである。僧侶はつねに僧侶だが、神主は祭祀のときだけ神主になる。僧侶がその姿のまま街中を歩いていることはよくある。だが、神主は神社から出るときに、普通の服に着替えるので、街中で出会うことはほとんどない。それほど両者の性格は異なっている。
第10章 神道には生き神という
存在がある
折口は、出雲国造が火を受け継ぐ儀式と大群祭が共通する性格を持っていることを指摘している。重要なのは、天皇霊や国造の魂が宿る火の方であり、肉体はその容れ物に過ぎないというのである。
霊や魂を宿す肉体の方には寿命があり、交替を重ねていく。だが、そこに宿る霊や魂は永遠のもので、変化することはない。同じものが、古代から受け継がれてきたのだ。
日本の社会には、生き神の伝統がある。
神が生きているのであれば、信者はそれに直接接することで救いを得ることができる。まさに出雲国造は、そのように扱われていた。
第11章 伊勢神宮の式年遷宮はいつから行われているのか
伊勢神宮が今日の姿をとるようになった背景には、江戸時代に生まれる「復古神道」の考え方が影響している可能性がある。
中世からは、しだいに神道の理論が形成されるようになっていく。ただ、その段階では、仏教の影響が強く、また理論形成に僧侶が関与したことで、神仏習合を背景とした折衷的な理論が多くを占めていた。
江戸時代に入ると、賀茂真淵や本居宣長といった国学者が、日本の古典を研究するなかで、そこに日本人独自の帮神性を見出すようになり、古代へ回帰する復古神道の流れが形成されていく。
その流れを大きく発展させたのが、やはり国学者で神道家の平田篤胤であった。篤胤は、禁教になっていたキリスト教さえ研究の対象とし、さまざまな宗教に通じていたが、従来の神道と仏教が習合したあり方を強く批判し、独自の神道神学を打ち立てていった。
明治維新が訪れるが、その際には、復古神道の考え方を受け継いだ国学者や神道家が明治新政府にも参画し、神道と仏教とを分離させる神仏分離の政策を推し進める。近代以降の神道は、復古神道の流れをくみ、古代への回帰をめざすものとなった。そこには、 歴史や変化をないものにしようとする力が働いている。
第12章 救いのない宗教
一般に、宗教への入信動機としてあげられるのが、「貧病争」である。人々は、 貧しさからの脱却、病の治癒、家庭内の争いごとからの解放を求めて、宗教にすがるというわけである。
日本人は、神道に対して、現状がそのまま無事に続いてくれることや、少し状態が改善されることを望みはするものの、今抱えている悩みや苦しみから根本的に救ってもらうことを望んだりはしない。
神道の神は、神社に赴いて願いを捧げる人々の思いを受け止めてはくれる。だが、神のすることはただそれだけで、積極的に救ってくれるわけではない。神は具体的に救いの手をさしの
ベてはくれないのだ。
神道という宗敎は、 救いというものを与えてくれないことで、 私たちに何かを教えてくれているとも言える。私たちが悩みや苦しみを抱き、 救いを求めようとするのは、 過度の欲望を抱く結果かもしれない。神道は無言のうちにそれを私たちに示してくれている。
「ない」ということが無や空に通じる可能性があることに言及した。たしかに、私たちが神社の社殿の前にたたずみ、一心に祈るとき、こころには何も浮かんでこないのではないか。そもそも、神道では一般の信者が唱える祈りのことばはない。私たちは祈るとき「無心」の状態になる。あえて救いを求めることは、無心の対極のことかもしれないのである。
第13章 ないがゆえの自由と伝統
キリスト教では三位一体の教義が生まれ、父なる神とイエス・キリスト、そして聖霊とがー体であるとされた。この三位一体の教義は、神学的には難解なものだが、三つの神格を認める点で、多神教への道を開くものでもある, しカも、それにともなって、 キリスト像が教会に飾られるようになり、さらには聖母マリアに対する信仰も高まっていった。
キリスト教の世界では、 キリスト教美術が花開く。教会や礼拝堂は、優れた画家たちの描く宗教画によって飾られていった。そのモチーフは、 聖書などに題材がとられているものの、表現の仕方は自由で、多様な作品が生み出された。イスラム教徒からすれば、キリスト教は多神教で、偶像崇拝の宗教だと見えてしまう。
偶像として表現されることがさほど多くないのは、日本の神というものが、形をもたない存在としてとらえられているからだ。姿形のない神は、目で見ることもかなわない。そうであるがゆえに、依代に宿ったりするが、依代はあくまで器であり、神そのものでもなければ、 その姿を象徴したものでもない。
私たちは、どの神社を訪れたとしても、姿形をもたない神に祈っている。偶像崇拝が禁じられたユダヤ教のように、 姿形をイメージしてはならないと命じられたからそうしているわけで
はない。私たちは、 自ずと神を姿形を持つものとしてはとらえようとしない。逆に、神が姿形を持ったり、人格が明確になると、神々しさを失うのではないかという感覚を持っている。
神道には、はっきりとした規制がない。規制するものがないにもかかわらず、その形が保たれている。逆に言えば、規制がないからこそ、違反や逸脱ということが起こらないために、 保たれてきたのかもしれない。
その点で神道は、 かなり不思議な宗教である。何ものもないがゆえに、揺るがない。その点に思い至ったとき、私たちは神道の奥の深さを改めて実感することになるのではないだろうか。
第14章 浄土としての神社空間
神社が「神のための場所」であるのに対して、寺院は「人のための場所」である。したがって、どうしても寺院からは人の生活の匂いがしてきてしまう。寺院空間は、必ずしも神聖さを保ってはいないし、まして浄土としてとらえるわけにはいかない。
神社の場合には、人のための埸所としての役剖を負ってはいなかった。神社で祭祀を行う人間は、その前に精進潔斎をする必要がある。それは、 神社の境内が清浄な空間として神聖さを保っているからだ。世俗性がなかったことが、神松の聖性を保持することにつながったのである。
世俗性がないということも、神道の大きな特徴なのである。
第15章 仏教からの脱却をめざした神道理論
中世においては、仏教の影響を強く受けた神道理論が唱えられていたのに対して、近世に人ると、このように儒教の影響を受けた神道の理論が唱えられるようになる。それは、神道から仏教色を取り除くことに貢献したものの、今度は、やはり外来の思想である儒教が神道の世界に深く浸透していくこととなった。
国学を確立した人間は、「国学四大人」と呼ばれるが、それに含まれるのが、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の四人である。ただ、実質的に国学は賀茂真淵からはじまったと
される。
日本人の信仰世界には、仏教や儒教など、外来の宗教の影響が強かった。神道にしても、仏教や儒教の影響を完全に排除するのではなく、むしろ、それを積極的に取り入れ、その時代に即した信仰世界を築き上げてきた。
ところが、国学者はその価値を否定し、外来の影響を徹底して排除しようとした。その点で、国学はナショナリズムにもとづくイデオロギー的なものとなったわけだが、一方で、実証的な文献研究を志す点で、近代に通じるものをもっていた
篤胤の集中力は並外れたもので、本を読み出したり、著述をはじめたりすると、二〇日も三〇日もぶっつ続けでその作業にあたり、その間は、ほとんど寝なかった。数日なら食事もとらなかったとされる。
篤胤には、生前にも五〇〇人を超える弟子がいて、死後の弟子となると1300人を超えていた。そのため、弟子を通して後世に大きな影響を与えていく。弟子たちは「平田派」を形成したが、幕末の国学者は、皆この平田派に属していた。
日本人固有の精神性を明らかにしようとした国学者たちは、あくまで学間を志す人間たちであり、社会を変えようとする活動家ではなかった。そこが、尊王攘夷の志士たちとも異なる。
ただ、仏教や儒教といった外来の宗教の影響を排除しようとする姿勢は、後世に大きな影響を与えていく。その代表が民俗学の創始者、柳田國男であった。彼は、自らの試みを「新国学」と呼ぶほどに、国学に傾倒した。そこには、仏教嫌いだった父親の影牌もある。柳田は、日本人の信仰を仏教の影響によらないものとして説明しようと試みるが、それはまさに国学者全体に共通する姿勢であった。
第16章 神道は宗教にあらず
明治以降に神道を国民に强制する上で、一つ解決しなければならない問題があった。
神道の祭祀を強制することは、この信教の自由に抵触することになってしまう。ほとんどの国民は仏教の信仰をもっているし、なかにはキリスト教に改宗した人間もいた。
その際に使われた論理が、「神道は宗教にあらず」というものだった。神道は国家全体の宗祀であり、特定の宗教の実践ではないとされたのである。
今日の感覚からすれば、神道はあくまで一つの宗教であり、この倫理は詭弁にしかすぎないように思える。戦後、 神道が国家祭祀として強制された体制は「国家神道」と呼ばれ、批判の対象になっていく。
日本人は、自分たちは「無宗教」であると考え、特定の宗救の信仰をもっていないと考える。一方で、 神道や仏教とは日常的なかかわりをもっている。にもかかわらず、自分たちを無宗教と考えるのは、神道と仏教とが異なる宗教として分けられてしまったことが大きい。日本人は、近代に入るまで、神仏習合の世界に生きていたのであり、神道にかかわるとともに仏教にもかかわっていた。
それが、神道と仏教が、ともに宗教として分けられてしまうと、どちらか一つを選ぶというわけにはいかない。自分は神道の信者であると同時に仏教の信者でもある。ならば、どうしたらいいのか。そこで出てくる答えが無宗教というものである。
無宗教は、神の存在を全面的に否定する「無神論」とは根本的に異なる。無神論荐であれば、宗教施設に出かけていって礼拝を行ったりはしない。
だが、無宗教を標榜する日本人は、神社や寺院を訪れ、そこで礼拝をする。観光で訪れたときも、拝殿や本殿を拝む。それは、神や仏の存在を認めた上での宗教行為にほかならないのである。
第18章 「ない宗教」の現在と未来の胎動
神道は危機を迎えているとも言える。一般の宗教であれば、教団を改革することで、危機を乗り越えることもできなくはない。だが、「ない宗教」としての神道は、一般の宗教にあるものがことごとく欠けており、教義や儀礼、救済の方法などを変えようがない。その点では、「ない宗教」の弱点が露呈しているとも言える。
それでも、神社という空間は、とくにそこに杜が広がっていれば、それだけで、そこに足を踏み入れた人々のこころを癒すことができる。都会では、神社はまさにオアシスである。
国際化の勢いは止まらず、それは、私たちを守ってくれる国家や共同体を解体し、個々の人間を孤立化させている。私たちは、自分たちを支えてくれるものを次第に失ってきている。そうした状況のなかで、もし私たちが何らかの形で神と出会うことができるとしたら、私たちはそこに新たな支えを見出すことができるかもしれない。その役割を、「ない宗教」としての神道は果たすことができるのだろうか。今それが間われている。
日本の神話では、その後、神々の物語が展開されていき、途中から、それに連なる代々の天皇の物語へと発展していく。神々の物語は「神代」と呼ばれる。
これに対して、ユダヤ教の神話では、神による創造が行われた後には、創造された側の人間の物語へと発展していく。
ユダヤ教の神話は神々の物語にはならなかった。人間の側が神とどうかかわるのか、神は人間をどう扱うのか、そうした物語が展開されることになったのである。
ユダヤ教の神話では、人間が主役であるために、人間が神をどのように信仰するかが間われる。そうなれば、そこで教えが生み出されていく。十戒などは、根本的な成律を示したものであり、教えに他ならない
ユダヤ教の神も、ノアの洪水の話に見られるように、 堕落した人間を一掃してしまう暴力性を示すが、そこでは、人間が正しい信仰を持っているかどうかが問われている。そうした場而
が、日本の神話には欠けており、神話のなかから教えを導き出すことができないのだ。
仏教や儒教の教えがある以上、あえて神道には教えを求めない。そうした姦識が働いたことで、神道は教えを積極的に説く方向にむかわなかったのかもしれない。
世界は、「ある」もので満ち溢れている。「ある」ということは意味があるということで、常に存在意義を問われる。なぜこれがここに「ある」のか。絶えずそれを問われることは、こころの平安には結びつかない。それに対して、「ない」ものは、「ない」のだから、意味を問われない。なぜないのか。それが問われるのは、「ある」ものが失われたときである。もともと「ない」のであれば、それを問われることはない。「ない宗教」は、存在意義を問われ「ない宗教」でもある。
神道が「ない宗教」としてあり続けてきたこの意味を、ここでもう一度考え直してみてもいいだろう。考えるのではなく、感じるべきなのかもしれない。自己を「ない宗教」の世界に浸す。そのとき、私たちは何かに出会うことができるかもしれないのだ。続きを読む投稿日:2023.10.10
おもしろいんだけど比較対象がほとんどキリスト教、仏教、イスラム教のみで、他のアニミズムなどが引き合いに出されず物足りなさを感じた。それでいて神道はすごい、みたいな結論になることもあり辟易した。
投稿日:2023.11.27
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