マンデリンさんのレビュー
参考にされた数
90
このユーザーのレビュー
-
遠野物語・山の人生
柳田国男 / 岩波文庫
人間の根源に関わる事
1
遠野地方に住む人がその地方に語り継がれている話として語ったものを、柳田国男が記したものです。素朴で簡潔な文体で、脚色などなく、なるべく語られたままを伝えようとしてあります。山男や山女の話、マヨイガと言…って山中に現れる富の館の話など、様々なものがあり、一つ一つの話を丹念に見ていくと、物語としても面白いものが並んでいます。
柳田国男によれば、伝説や俗信には必ずや深い人間的意味があるはずで、柳田国男はそれらを根気良く収集し、掘り起こして行ったのです。これらの話を単なる田舎者に伝わる他愛もない話と片付けるのではなく、話が長い年月に渡って伝わっているからには何らかの意味がそこに隠されている、それは何だろうかと著者は問うています。
現代の科学的な基準で、切り捨てられてしまった世界が、当時の遠野にはまだ残っていました。科学的な視点で見たときに、合理性がないと切り捨てられた世界の中に、何か心の中の世界に、実は人間の根源に関わる事柄が潜んでいるのではないのでしょうか。科学的合理性からいうと、幽霊などは全く見向きもされない存在となっていますが、しかし、深夜の山奥に一人取り置かれたとしたら何か得体の知れない恐怖を感じるでしょう、それは幽霊という説明とは違うかも知れませんが、我々が実体験する何かの現象を現していると思います。そのような科学的には分析できないけれども、確かに人間が経験している世界が存在しているのではないでしょうか。そういうことを、遠野物語のような本を読むときに改めて考えさせられます。
続きを読む投稿日:2013.12.28
-
茶の本
岡倉覚三, 村岡博 / 岩波文庫
「不完全」を崇拝する
0
岡倉覚三(岡倉天心)は、日本美術院を創設した、明治日本における美術の開拓者です。本書は、岡倉天心が英語で書いた"The book of tea"を村岡博が訳したものであり、茶会のことに触れながら人の道…を語り、芸術鑑賞にまで広く及んでいきます。
茶には不思議な魅力があって、人はこの味を愛さずにはいられないのですが、真に茶を愛でるには、深い精神性が必要なのです。
古代中国において茶は飲む薬とされていましたが、茶が粗野な状態から洗練された域へと達するには、唐の時代精神を必要としたのだそうです。8世紀に出た陸羽という人が茶道を開き、著書「茶経」に於いて茶道を体系立てました。
宋代には抹茶が流行し、新しい茶の流派が生まれましたが、茶道として確立するには、道教や禅宗の教えを必要としました。茶道の中心には、本当に大切なことは完成に至る過程であって、完成したものではないという思想があります。宋代の流派は、モンゴル帝国による侵略で中国では失われてしまいましたが、日本に受け継がれていきます。
茶は、南宋へ禅を学びに行った栄西禅師によって1191年日本へと伝えられました。禅とともに茶の儀式も日本中へと広がっていきます。中国ではモンゴル襲来で、茶道を追究する文化は中断しますが、日本において継続発展されます。茶は単なる飲む形式の理想化という枠を超え、生きる術に関する精神性を追究する道となっていきます。
岡倉は茶道の奥義を「不完全なもの」を崇拝することだと言い切っています。
「茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。」
「不完全なもの」とは何でしょうか。それは、茶会に於いて、参加者たちによって何か完全に近いものを成就しようと試みられることを指しているようです。道教に於いては、「完全そのもの」ではなく、完全を求める過程に重きをおいています。
ここで「不完全なもの」という時には、完全を目指していることが暗に含まれています。もし、「完全そのもの」を目指していなければ、それはただの混沌でしかありません。岡倉は「不完全」について次のようにも言っています。
「真の美はただ、『不完全』を心の中に完成する人によってのみ見出される。」
茶室に入った人は、その精神世界において、茶室の造り、掛け軸、花などと一体となり理想世界を瞑想します。「不完全」を成就するために日本人によって追及された精神性の現れです。完全を追い求めて、「不完全なもの」を一期一会に成就すること、そういうことを語っているように感じました。
続きを読む投稿日:2013.12.23
-
これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル, 鬼澤忍 / 早川書房
幸福、自由、美徳から考え直す正義
5
正義とは何でしょうか。書斎の中で思弁的に正義を語ることはできるかもしれませんが、実際に社会に起きている複雑で泥臭い毎日の事件に即して、正義とは何かを考えるのは難しいと思います。本書では、幸福、自由、美…徳という正義の基盤となる考え方を道標(みちしるべ)としながら、読者は正義とは何かを探る旅へと導かれます。
世の中では、社会の最大幸福を追求すべきだとか、自由を尊重すべきだとか、言われるような気がします。しかし、自分を振り返ってみると、ある問題では皆が幸福であるべきだと考えているのに、別の問題では自由を尊重する立場に回ったりして、一貫性に欠けた幸福や自由を尊重していることに気がつきます。改めて、正義とは何かを考えさせられます。
幸福の最大化はわかりやすい考え方ではありますが、この考えを追求すると、人は大多数のために少数者の権利さえ犠牲にするという考えに陥りがちです。果たして、人権をそういう形で侵してもいいのだろうかということが問われます。
そこで人権を尊重する自由という考え方が出てきます。ところが、自由が拠って立つ基盤となるのは自己を所有しているという考え方ですが、この考えを突き詰めると、自分が同意さえすれば自分の命を絶つことが許されるという議論に陥ってしまいます。果たしてそういうことは許されるのでしょうか。
これらの考え方に対して、カントは自己所有とは異なるものに基盤をおいて彼の理論を作り上げたそうです。それは、人間は誰でも理性を持っていて、理性によって自ら行動することができますが、理性こそが人間の尊厳の基盤でもあるということです。さらに、人間は尊厳ある存在であるのだから命を絶つことは許されないというのが、カントの考え方です。
しかし、サンデルは、この確固としたカントの考えにも満足しません。カントの考えは余りにも理想的過ぎて実際の人生で立ち向かう現実との乖離がありすぎるということでしょうか。理想的な考えで正義が論じられるときには、人々が属している文化の美徳のようなものは無視されますが、果たしてそれでいいのでしょうか。自らのアイデンティティを形成してくれた社会から切り離された正義、ある意味非常に抽象化された正義に従うことが正しいのでしょうか。サンデルは、自らの人格形成に大きな影響を与えたコミュニティの道徳的な重荷と重要性を担いつつ、自由と向き合うことができる道を探しているのです。深い洞察と思索によって裏付けられた確固とした考えで、強い感銘を受けました。
続きを読む投稿日:2013.11.24
-
論語入門
井波律子 / 岩波新書
孔子の魅力
1
論語は、主に孔子とその弟子達との対話が書かれていて、孔子自身の著作ではないですが、孔子の思想がよく現れています。入門者でも読みやすいですが、奥は深いものです。思想は定義してしまうと、言葉に固定されてし…まい、形骸化し勝ちですが、対話の形で語られる思想は形が完成していないからこそ、いつまでも生きた力を有しているのだと思います。読む者の器に応じて書物が話しかけてくれる、そのような書が論語なのかもしれません。
本書は、著者による視点、「孔子の人となり」、「考えかたの原点」、「弟子たちとの交わり」、「孔子の素顔」によって、収録した構成となっていて、孔子の人物像が浮き彫りにされます。
孔子が生きた春秋時代後半は群雄割拠する戦乱の世でしたが、孔子は仁愛と礼法を中心とした節度ある社会の到来を目指していました。孔子は弟子を引き従えて諸国を巡る遊説の旅に出ましたが、孔子の唱える理想主義を受け入れる君主はいませんでした。それでも、著者が言うように、孔子は「理想社会の到来を期して弟子たちを励まし、不屈の精神力を以て長い旅を継続した。恐るべき強靭さというほかない」人物でした。
孔子の魅力は、「身も心も健やかにして明朗闊達、躍動的な精神の持ち主であった」ことや、「いかなる不遇のどん底にあってもユーモア感覚たっぷり、学問や音楽を心から愛し、日常生活においても美意識を発揮するなど、生きることを楽しむ人だった」ことでした。
本書で紹介されているのですが、弟子の1人曾子が論語に残している言葉があります。
士以不可不弘毅。 任重而道遠。 仁以為己任。 不亦重乎。 死而後已。 不亦遠乎。
君子たるものは大らかで強い意志をもたねばならない。その任は重く、道のりは遠い。仁愛の実践を自らの任とするのだから、なんと重いではないか。生涯をかけて完了させるのだから、なんとはるばる遠いではないか。
高邁な志の力強い言葉ではないでしょうか。孔子が、弟子の言葉を通して、真正面を向いて人生の道を堂々と歩く者を励ましてくれているような気がします。 続きを読む投稿日:2013.11.10
-
日本語練習帳
大野晋 / 岩波新書
日常の言葉を深く理解する
1
日本語をもっと理解して使いこなしたい、そう考える人たちの為に書かれた日本語勉強の本です。理論の説明ではなく、練習問題を解く形式で勉強をしていきます。問題を考えてみて、答えを書いてみて、日本語の基本的な…考え方が身についてくる本です。
難しい言葉や漢字は出てきません、代わりに、日頃使っている言葉や文章が問題になっています。簡単なようで、よく考えると答えられず、自分の理解が曖昧なままであったことに気付かされます。(十分に理解していなくても、それなりに使えるのが母国語なのかもしれません。)
基本的な単語や、意味が似ているものを比較すると、それぞれの単語が根幹に持っている意味を理解することが、単語の意味を掴むのに重要なことだと改めて教えられます。
多くの言葉や文章を知っている人は、文章の良し悪しを的確に判断できるそうです。それは美術品の目利きにも似ています。良いと感じる文章を熟読すること、良い文章と評判のものを多く読んでみることがいいそうです。
続きを読む投稿日:2013.10.19
-
本居宣長(下)
小林秀雄 / 新潮社
古事記のこと
2
本居宣長の大きな業績のひとつである古事記研究についても書かれています。
古事記は神代について書かれたものであり「源氏物語」のような物語とは違いますが、この点が古事記を読む者を混乱させます。理性で理解…できない神代の伝説(つたえごと)をどう扱うべきか、あるいはどう折り合いをつけるべきか、宣長と同時代の学者にとっても大きな問題でした。
宣長は、源氏物語研究を通して得られた道(方法)を真直ぐに歩いて、行ける所まで行ってみたのだそうです。次のように書かれています。
「忍耐強い古言の分析は、すべてこの『あはれ』の眺めの内部で行われ、その結果、『あはれ』という言葉の漠とした語感は、この語の源泉に立ち還るという風に純化され、鋭い形をとり、言わばあやしい光をあげ、古代人の生活を領していた『神(あや)しき』経験を描き出すに到ったのである。」
それは、古事記を頭で解釈することなしに、ありのままに読んでみて、自分の精神世界に映ずる情景を描き出したのではないかと思います。同じように、小林秀雄が本居宣長の精神世界に奥深く分け入って、我々に偉大な精神を描き出してくれています。
続きを読む投稿日:2013.10.19