崩紫サロメさんのレビュー
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イノサン 1
坂本眞一 / 週刊ヤングジャンプ
もう一つのフランス革命
15
主人公のシャルルーアンリ・サンソンは有名な歴史上の人物であろう。
その名を知らなくとも、フランス革命期の死刑執行人で、ルイ16世や王妃マリー・アントワネット、ロベスピエールらを処刑した人物、といえば、…何らかのイメージを抱くのではないか。
では、具体的に死刑執行人とはどんな仕事をするのだろうか?
何故彼は死刑執行人になったのか?
どのようなことを感じて罪人を処刑していたのだろう?
実は、サンソン家はムッシュ・ド・パリと呼ばれる死刑執行を行う役人の地位を世襲している。
故に、主人公のシャルルは、選んだのではなく、家業として15歳で初めての処刑に臨む。
これが、この物語の始まりだ。
この物語は安達正勝 『死刑執行人サンソン ―国王ルイ十六世の首を刎ねた男』 (集英社新書)をベースにしている。
そして、安達氏が元にしているのは、シャルルの孫が書いたサンソン家の回想録などである。
死刑執行人というのはどこの国や時代にもいるが、サンソン家のように、当事者としての立場から記録を残している例は稀有で、多くの場合は、歴史の闇の部分として消えていったのだろう。
私も、上記新書でシャルルーアンリ・サンソンという人物を初めて知り、強く惹かれた。
職業への激しく理不尽な差別に苦しむ。
死刑制度廃止を願うが、それが叶わぬならせめて死刑囚の苦しみを減らそうと医学の研究にいそしむ。
敬愛する主君ルイ16世に出会うも、役人として王を処刑せねばならない運命。
安達氏の本でサンソン家の運命に強い関心を持ったにも関わらず、安達氏の描き方にどこか物足りない気がした。
安達氏は上記新書に限らず、物語的な描写をする。
しかし、サンソン家の負っているものが、文章に収まりきっていない感じがしたからだ。
だから、この漫画を読んだとき、「これだ」と思った。
1巻後半から2巻前半にかけて、15歳のシャルルの最初の処刑の仕事の場面だ。
彼の心理をどんな絵で表すのか、どんな言葉で表すのか、と思いながら読んでいったのだが、それは、絵でも言葉でもなく、漫画という媒体だからこそ可能な表現だった。
漫画にはコマがある。そのコマ割りが、こんな役割を果たすのか。
自分が死刑執行を見ているような、また、見られているような奇妙なリアリティ。
目眩と吐き気がしてきた。
死刑執行の場面を描いてすっきり爽やかなら、漫画家の力量か読者の感受性が、どちらかが欠如しているのだろう。
この耐えがたい感じは、表現として成功している。
血に塗れ、群衆から悪魔と罵られながらも、
「僕は無垢だ」
と涙を流すシャルルの表情は、本当にイノサン(無垢、純真)だ。
そりゃ、国家の正義を実行する役人なんだから、悪いことはしていない。
だが、目の前の惨状は…。
何故この子はこんな状況にあるのだろう?
何故、こんな状況にあってもこんなにも美しく悲しい涙を流すのだろう?
この、最初の処刑の場面を見ると、シャルルが死刑廃止を強く望んだこと、
しかし、自分の職務に対して誇りと責任感を持って生きたという、後半生のイメージとしっかりつながる。
作者はシャルルを美しく描く。
史実で美形設定は特になかったと思うが(笑)
それは、所謂耽美的なものと似ているが少し違う。
シャルルを美しくしているのは、職務に対する崇高とまで言える責任感であり、決して人の死や苦しみを自己の喜びとしない。
人の悲しみに涙を流すシャルルの姿が美しい。
もしかしたら、美しい人というのは、人のために涙を流すことのできる人なのでは、と思った。
そうした「美」の描き方に、好感を持てる。
現在7巻まで出ており、ぼちぼちルイ16世やマリー・アントワネットなども登場する。
彼らは、日本でも様々な歴史エンターテイメントの世界に登場するが、本作品での描写はまた新鮮なものがある。
シャルルの長い人生を思うと、この作品も長いものになるのではないかと思うが、
激動の時代の中で、シャルルがどのように「イノサン」であり続けることができるのか、続刊が楽しみである。
続きを読む投稿日:2015.02.28
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文語訳 新約聖書 詩篇付
鈴木範久 / 岩波文庫
日本語のゆたかさを感じる、初の電子版文語訳!
14
本書は、キリスト教について知りたい人よりも、日本語の美しさや奥深さを感じたい人に薦めたい。
何故なら、キリスト教や聖書の内容について理解したいなら、
格調高くはないが、わかりやすく原典に忠実な新共同…訳がメジャーであるし、
そのスタディー版ならイラストや用語解説も豊富で初心者にやさしいし、
引照付きは研究者にも使いやすい。
他にもいろいろな訳が出ており、わかりやすさ・正確さにおいては文語訳よりも優れたものが多い。
だが、文語訳の良さはそこではないだろう。
これは、明治から大正にかけて、日本で初めて訳された聖書である。
西洋の文明をいかに取り入れるか。
日本にはない概念をどのように日本語にしていくか。
解説にあるとおり、翻訳の際、様々な問題にぶつかった。
欧米人の宣教師たちは、訳に「わかりやすさ」を求めた。
しかし、日本人の翻訳者たちは聖典に相応しい荘厳さ、つまり漢文的な格調を求めた。
どうすればそれを両立することができるか?
その一つが「漢字+ふりがな」の秀逸な使い方だ。
「審判」に「さばき」、「汚穢」に「けがれ」、「復活」に「よみがえり」、
「患難」に「なやみ」など、耳で聞けばわかりやすく、目で見れば適度な格調がある。
戦後、日本では漢字のルビの使い方に随分制限をかけてしまったが、
この頃の柔軟さと語彙の豊かさには、改めて感心する。
他の言語では表現不可能な重層性が、この訳にはある。
日本語の面白さ、漢字の面白さを感じる。
ただ、日本聖書協会から、文庫サイズで同じ訳・内容(新訳+詩篇)のものが出ている。
ステンドグラス風のおしゃれな装丁でハードカバーだが、辞書のような薄く上質な紙なので厚さが半分くらいで、岩波版とそんなに値段は変わらない。
文語訳に限らず、日本聖書協会は四季折々(?)いろいろなデザインのオシャレ聖書を出しているので、見た目・軽さ重視ならば、そちらがいいかもしれない。
だが、岩波版は電子版があり、日本聖書協会版は電子版がない。
そして今のところ、電子版文語訳は岩波版のみだ。
当たり前だが、電子版は世界最薄・最軽量の日本聖書協会の聖書よりもさらに軽い。
そして、自分の好みに合わせて文字を拡大することもできる。
SonyReaderT3(赤)の落ち着いた雰囲気が、文語訳聖書とマッチする気がする。
よって、電子版文語訳ならソニーで岩波版一択ということになる(←!?)
ただ、キリスト教徒が礼拝で使うには、この電子版は少し不便かもしれない。
何故なら、礼拝などでは聖書の指定箇所をすぐに開かねばならないので、
そういう場合は紙でめくるか、iOS/Androidの聖書アプリを使った方が絶対早い。
この電子書籍は「マタイ伝福音書」などの「書」単位のジャンプはできるが、それよりも細かい単位である「章」や「節」で指定できない、いわゆる普通の電子書籍であるからだ。
各書冒頭にジャンプして、そこからタップしてめくっていたら
その間に聖書拝読の時間は終わってしまうだろう。よって教会では使えない(苦笑)
SonyReaderT3が礼拝に持ち込んでも違和感のないデザインであるだけに、ちょっと残念。
まあ、うちの教会は新共同訳使用なんで関係ないが(笑)
だが、そうではなく、文学的に読んでいくには
電子版文語訳というのは問題ない。
むしろやたらジャンプせず、腰を据えて読むに値する訳だ。
冒頭の系図はさっと流して(笑)、「イエス・キリストの誕生は左のごとし。」
以降の、格調高くもわかりやすい日本語を楽しんでほしい。
他の訳が気になるのであれば、Google Play(App Store)で「聖書」で検索するといろいろなアプリがあるので、それと見比べながら読むのもありだと思う。
YouVersionというところのアプリは多言語対応、口語訳収録で使いやすい。
他の訳と比べることで、文語訳の深さを感じる人も多いだろう。
一つ残念なのは、岩波版は紙版も電子版も「新字旧かな」で表記していること。
できれば、漢字も当時のまま(旧字)だとよかったと思う。
(日本聖書協会の方は旧字旧かな)
比べると残念ではあるのだが、電子書籍として読んでいて、違和感はないし、読みやすい。
これだけ文学的に優れたものが電子書籍のラインナップに加わったことを、
素直に喜び、☆5とする。
続きを読む投稿日:2015.02.24
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NHK 新版-危機に立つ公共放送
松田浩 / 岩波新書
公共放送の役割とは
6
言論・表現の自由と言っても、雑誌や新聞などのメディアと、放送メディアは少し違った位置づけである。
それは、電波の周波数が有限かつ希少であるため、
一定の手続きによって公正な利用が求められ、”交通整理”…が必要とされてきたからである。
NHKがモデルとしたイギリスBBCは電波の公正な利用とは「権力監視」であると考えている。
BBC元会長、グレッグ・ダイクはこのように語る。
「公共放送にとって重要なのは政治家を監視することだ。
党派に関係なく公正、公平に全ての政治家を監視すべきだが、
特に権力の大きい政府の監視はより大切だ。
そのために公共放送は政府から独立していなければならない」
三権分立に加え、権力監視装置としてのメディアが存在することで、
国家に健全な自浄作用を与えるというのは、BBCに限らず、
ジャーナリズムの根本である。
何故権力を監視しなければいけないのかは、それこそ啓蒙思想くらいにさかのぼって説明しなければならないので割愛するが、
少なくとも近代民主主義というのは、権力を分散し、監視することで成り立っている。
では、NHKはどうなのか、ということである。
著者を改訂版執筆に駆り立てた直接の動機は安倍政権のNHKへの過剰な介入である。
安倍首相の考えに賛同する人々で固めた人事は、「権力監視」とはほど遠いものである。
しかし、本書を読んでいくと、そうなりうる可能性は、NHK創立の1925年から、また、
戦後のNHK再編の頃から、体質として、構造として存在していたことがわかる。
「放送は、公共性の立場から政府の政策を徹底させることに協力するものであるが、
編集権は協会に属するものとする」(1959年「日本放送協会国内番組基準」)
というものがあった。
その後、「政府の政策を徹底させる」の部分は削除されたが、
依然として「権力監視」のために独立した機関となることはなかった。
世界には「政府の政策を徹底させる」ために貴重な周波数を使う国も存在する。
北朝鮮の朝鮮国営通信などがそうであろう。
しかし、そのようなメディアが国民に何か利益をもたらしているだろうか。
健全な国家運営に寄与しているだろうか。
この新版はほぼ全面的に書き換えたらしいが、第三章「NHKの体質はどのように培われたか」の部分は初版(2005年)の加筆である。
新書とはすぐに「古くなる」ものであるが、結局のところ、
ここで指摘している「NHKの体質」が現在の事態を生み出しているのであり、
全く「古くなっていない」ように感じる。
ただ、一つ引っかかったのは、BBCをあまりに理想化していないか、という点である。
BBCも理念通りに動いているわけではなく、
「権力監視」よりも「政策の徹底」に傾斜していることもある。
特に中東関係の問題ではそうだろう。
BBCが大々的に「NHKの危機」を報道した(2014年3月)ことこそ、
BBCを始め、多くの公共放送がNHKと同じ危機に直面していると感じている証左ではないかと思う。
本書で語られているNHK職員たちの、ジャーナリズムの使命と国家権力の狭間で葛藤する姿は、
おそらく、米国CNN,英国BBC,韓国KBSなど、「NHKとは違って国家権力から独立している」
(=独立放送規制機構を持っている)はずの放送局の職員の姿なのではないか、と思う。
よって、著者の結論であるBBCとNHKの決定的な違い、という部分には賛同しかねる。
本文を読んで著者とは違う結論に行きついてしまったが、
「公共」とは何か、という問題について考えさせられ、有意義であった。
続きを読む投稿日:2015.02.19
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安倍官邸と新聞 「二極化する報道」の危機
徳山喜雄 / 集英社新書
成熟した言論のためのケーススタディ
8
同じできごとについて報道しているはずなのに、
新聞によって、受ける印象は全く違うことが多い。それは、著者によると
新聞の論調とは、ファクト(事実)にそれぞれの立ち位置(社論)による解釈が加えられ、独…自のコンテクスト(文脈)が形成されてつくられるものだ。
とのことだ。
著者は朝日新聞社記事審査室幹事である。
朝日新聞の論調ができあがるのに、著者の働きも大きいのだろう。
だが、本書は「朝日新聞として」安倍首相の報道政策を論じるのではなく、
安倍首相(と彼の在任時期に起こったできごと)についての報道を「素材」として
ジャーナリズムのあり方について考えるという趣旨のものである。
分析していく中で、著者は、報道の「二極化」に気付く。
安全保障や原子力などの重要課題について
「朝日、毎日、東京新聞」の報道は似た論調であり、
また、「読売、産経、日経新聞」が似通った論調であることが多いという。
それは今に始まったものではないだろう。
そして、著者の言いたいことは、どちらかが(朝日側が)正しいということではない。
著者は複数の新聞を継続的に読み続けることをすすめる。
その理由として、本文がある。
同じできごとでも、新聞によってこんなにも違うのだから。
序分に見られる次の文に深く考えさせられる。
憲法改正や原発の存廃など国論を二分するテーマで、両者の主張が鋭く対立、
議論が二項対立化し、双方ともにいいっぱなしで終わっているケースが多く見られた。
つまり、深い議論や、第三の可能性を探るといった成熟した言論が成立しにくい状況になっている。
という部分である。
「双方とも言いっ放し」「第三の可能性を探る議論が成立しにくい」
確かに、その通りである。
朝日新聞は吉田調書や慰安婦問題など、
「報道のあり方」以前の問題を厳しく問われる事態となった。
その慰安婦問題などは、問題の朝日の記事にしても批判した産経などにしても、
「双方とも言いっ放し」の最たるものではないだろうか。
本来深い議論がなされ、成熟した言論が待たれるところであるはずなのに、
イデオロギー的であったり、扇動的であったり、攻撃的であったり、まるで噛み合っていない。
これは、メディアに責任があるのは間違いないが、
やはり、二項対立的思考に陥らず、「第三の可能性」を模索すべく
読者一人一人が深く成熟した思考をしていく必要があるだろう。
続きを読む投稿日:2015.02.17
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一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教
内田樹, 中田考 / 集英社新書
一神教の「原理」を考える異色の入門書
10
ハサン中田考が一般に有名になったのはやはり、「イスラム国(IS)」を巡る様々な事件で、
「カリフ制再興」を掲げるイスラーム学者である中田氏が関与したとされたり、
(アメリカ国防情報局には要注意人物と認…定されている)
後藤健二さんらが人質になったとき、IS幹部と面識があるため、
パイプ役を買って出ようと記者会見を開いたあたりからだろうか。
中田氏は同志社大学の元教授で現在も客員教授であるが、一般に発信するのは
「皆んなのカワユイ(^◇^)カリフ道」という文字の入った謎のTwitterが中心(現在は自粛中)で、
おそらく「怪しい人」として、知る人ぞ知る存在であろう。
(現在『俺の妹がカリフなわけがない!』というライトノベルを執筆中とのこと(*゜Д゜))
そんな中田氏が、かの有名な内田樹氏との対談というのは、いろんな意味で興味深い。
中田氏はムスリムとしても特殊である。
カリフ制というのは、イスラーム成立期の制度である。
それを21世紀において実現することを、そのために国民国家の撤廃を主張しているのだから
いろいろな意味で「普通」ではない。
本書を見ても、そうだ。
中田氏は、イスラーム原理主義団体であるムスリム同胞団を厳しく批判する。
神の定めたイスラーム法と「革命のジハード論」に照らせば、
イスラーム法をないがしろにし、人間が定めた法律に基づく
民主主義の選挙制度によって成立した背教的な政権が
イスラーム政権であるはずがありません。
この理論はイスラーム法学者としては、ある意味正しいのだろう。
同胞団は「原理主義」などではなく、イスラームの「原理」を無視した背教的な団体である、と。確かに。
だが、同胞団に限らず、多くのイスラーム国家は背教的な政権であり、
中田氏の説くような「神の定めたイスラーム法」に忠実に生きている人間はごくわずかである。
また、宗教的に「食べてもよいもの」を許可する「ハラール」に対する批判も
「神の大権の簒奪に等しい大罪」と断言する。
確かにイスラーム法学者として的確であろう。
これは、一神教であるキリスト教の「人を裁くな」の理由とも同じで、
それは「神の領域」だからである。
その通りだ。
しかし、やはり多くの人間は、「神の領域」を人間に求めてしまう。
そういう意味で「背教者」でないムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒が、
世界に一体何人いるだろう?
イスラームについて知るなら山内昌之氏、小杉泰氏、酒井啓子氏、内藤正典氏など、
様々な立場から優れた著作があるし、一神教ならば、キリスト教まで広げると
数え切れないほどの名著がある。
しかし、やはり、ここまで徹底した原理主義的な主張を日本人による対談という形で気軽に読める(内田氏の聞き出し方がまた上手い)というのは他にはないだろう。
いや、原理「主義」ではなくて、「原理」を語っているのだ。
「一神教と国家」の本質をするどく突いているが故に、
異色で奇怪な印象を受ける。
ということは、実際のところ、世界に「一神教」の人間など殆どいないのではないか、
などと思ってしまった。
続きを読む投稿日:2015.02.16
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在日外国人 第三版-法の壁,心の溝
田中宏 / 岩波新書
客観性という壁を越えて、痛みに寄り添う
9
本書の著者は、若い頃にベトナム人の留学生と出会ったのだが、
彼は非常に不本意な形で日本を去ることになった。
それに対して著者は何もできなかった。
著者にはどうにもできない「法の壁」があり、多くの日本人…と外国人の間に「心の溝」があったからだ。
そこから、著者は様々な事情で日本に暮らす外国人と関わるようになった。
在日外国人を取り巻く「法の壁」と「心の溝」について論じた本書が、ロングセラーとして読み継がれ、第三版まで版を重ねているのは何故か。
ある人は、著者の姿勢を感情的というかもしれない。
またある人は、偽善的というかもしれない。
だが、日本人として、日本人ではない人(=外国人)と向き合う以上、
断絶が生まれるし、そこには、もしかしたら当事者には「偽善」と感じるものもあるのかもしれない。
また、著者が乗り越えようとしているのは「心の溝」でもある。
当然、心が入らなければ、溝は埋めることができない。
だから、感情的にも感じる。
これは、あらゆる人権問題について言えることかもしれない。
客観的であること、公正であること、それは大事なことだ。
しかし、それだけでは「心の溝」は埋まらない。
著者は出会ってきた外国人に寄り添う形で、言葉を選び、伝えている。
自分も含めてなのだが、最近は「客観性」を求める雰囲気が強いように思う。
また別の言い方をすれば「偏りがない」ことを求める。
誰かの痛みに寄り添うことが、当事者からは「上から目線」に見えたり
ある種の人からは「政治的偏向」(←何?)に見えたりしてしまう。
そう思われるのも言われるのも嫌なので、私なら、こういう本は書けないだろう。
日本人でありながら、日本に暮らす外国人に誠心誠意寄り添い、
何か力になりたいと思い、様々な法律や制度を調べ上げたのが初版。
その姿勢を続けたのが新版、第三版。
おそらく、データ的な意味でもっと「正しい」本はあるのだろう。
だが、客観性を求めるあまり、見失ってしまった何かについて、
考えさせられる本であった。
客観性を求めすぎるあまり、どこかさめた自分の生き方に、
ふと疑問を感じたりもした。
続きを読む投稿日:2015.02.12