失われた世界、そして追憶
曽野綾子(著)
/PHP文庫
作品情報
この地球上には「失われた世界」というものが確かに存在する。いにしえの栄華の面影だけが残るその地を、私たち家族は、三十年の歳月を経て、誰も死なずに生きて再び訪れた。私たちに対する運命の甘やかし方に、私は空恐ろしいほどの思いであった――。家族と共に思い出の地メキシコ・グァテマラを旅した著者。アステカの神々、マヤの戦士たちとひそやかに語り合いながら過ごした一夏を綴る。
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商品情報
- シリーズ
- 失われた世界、そして追憶
- 著者
- 曽野綾子
- 出版社
- PHP研究所
- 掲載誌・レーベル
- PHP文庫
- 書籍発売日
- 1994.05.02
- Reader Store発売日
- 2019.09.20
- ファイルサイズ
- 7MB
- ページ数
- 232ページ
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この作品のレビュー
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曽野綾子
東京生れ。1954(昭和29)年聖心女子大学英文科卒業。同年発表の「遠来の客たち」が芥川賞候補となる。『木枯しの庭』『天上の青』『哀歌』『アバノの再会』『二月三十日』などの小説の他…、確固たる人間観察に基づく、シリーズ「夜明けの新聞の匂い」などのエッセイも定評を得ている。他に新書『アラブの格言』などがある。1979年ローマ法王よりヴァチカン有功十字勲章を受ける。1993(平成5)年日本藝術院賞・恩賜賞受賞。1995年12月から2005年6月まで日本財団会長。
一九八八年の夏、夫(三浦朱門) と私は、息子・太郎の一家と、メキシコとグァテマラを旅行した。太郎は名古屋の南山大学で文化人類学を学び、今は尼崎にあるカトリック系の英知大学の助教授である。一家は神戸の岡本に住んでいるので、夏休みと正月には東京にやって来るが、普段は別居だから、いつも会っているわけではない。
私たち夫婦は、私がまだ二十代の終わりで、若く、無謀で、恐れを知らない年であった。私たちは合衆国北西部のワシントン州のシアトルで、当時やっとアメリカ進出を果たしたところだったニッサンから、小さな赤い、恐ろしく速度ののろい、しかしオーバー・ヒートするようなこともなかった丈夫なダットサンを一台借り、それでメキシコ、グァテマラ、ホンデュラス、エル・サルバドールといった中米の国々を通り、三十三日かけてコスタ・リカの首都、サン・ホセまで 辿り着いた。ろくろくスペイン語もできずに一国ごとに車の通関までしたのだからいい度胸であった。
ピラミッドというと、私たち素人は普通エジプトのことしか考えない。私が最初にピラミッドを見、触ったのもエジプトであった。ピラミッドはメキシコやグァテマラにもあると言うと「へえ」と驚く人もまだかなりいるのである。
教会だらけの町というと、私はイタリアやポーランドやスペインの町々を思い浮かべる。しかしそれに 優るとも劣らない町が、メキシコにもあるのである。 それがチョルラである。紀元九八七年、テスカトリポカ(曇った鏡) 神との勢力争いに負けたケツァルコアトル神王がヴェラクルスに落ち延びる途中、留まったのがこのチョルラと言われている。
もっともメキシコの植物で一番印象的なのは、やはり 竜舌蘭(アゲイヴィ) であろう。アゲイヴィ・アメリカーナはアメリカン・アロエとも呼ばれるものだが、メキシコには、他に二種類のアゲイヴィが栽培されているという。 マゲイとテキーラである。これらは、プルケやテキーラなどと呼ばれる竜舌蘭酒の原料になるし、その 尖った葉の先端部に葉の部分の繊維をそのままつければ、昔はそれが自然が作ってくれた針と糸であった。
私たちは今までにもドライヴの途中の到る所で竜舌蘭の畑を通って来たが、その中にぽつりぽつりとまるで秋田の 竿 燈 のような花を高く咲かせているマゲイを見ると、胸の迫る思いがした。竜舌蘭は、成長の遅い植物で、十年から三十年経ってやっと十メートルにも及ぶ花を高々と咲かせる。しかしこの花が咲くということは、竜舌蘭がその生を終わる時を告げていた。マゲイ畑に点々とかかげられるその花は、まさに彼らが死の直前に、この世に最後の訣別を送っている無言の眼差しのように思えたのである。
男と女は二列になって踊るが、この地方の特徴は踊る時も笑わないことである。世界中の踊りの非常に多くは、踊りながら微笑む。しかし日本の踊りも笑わないし、フラメンコなども笑う代わりに相手を 睨みつける。笑わない踊りを見ると、私は過去の生活がよほど辛かったか、それとも笑いを見せることに精神的な制約があったかしたのだろうなあ、と親近感を覚えるのである。
何日旅行しているか、と聞かれたので、四十日と答えると、マリーナのママは眼を丸くした。パリで聞いている日本人の評判は、よく働いて休みを取らない人たちだということになっている。しかし夏に四十日も休む日本人がいるのか。私たちフランス人でさえ、四週間なのに、というのが、彼女の驚きである。私たちが家族揃ってこれほど長い外国旅行をしたのは初めてである。しかしこれからマリーナ一家は、日本人が働くだけで遊ばない、という原則論を聞く 度 に「でも私が会った日本人一家はそうではなかった。山奥の暑い遺跡を歩き廻っていた」と思うだろう。
そういう「情報の混乱」というものは、観念の固定化を防ぐためにいいことだと思う。私が外国に行く場合は、固定化した情報さえ不勉強で持っていないことが多いが、もし持っていたら固定化された情報をぶち壊される楽しみを味わいに行く、というのが、本音である。
或る案内書によれば、スペイン人たちは、これらマヤの遺跡を新大陸に住んでいた人たちの築いたものだ、とはなかなか納得せず、失われた大陸と言われるアトランティスの生き残りによって作られたものだとか、旧約のイスラエルの十二部族の末裔によって建設されたものだと信じていた。しかしスティーヴンズはこれをマヤ人たちの作ったものだと見抜いていたのである。
尼僧院もいいけれど、ここで、もう一つ人目を 惹くのは、「鳩の家」と呼ばれる奇妙な遺構である。暑くて現場まで行く元気がなくなったので、私は遠くからこの細長い建物を眺めるだけにした。長い 梁 の上に一列に並んだ穴だらけの三角形の飾りの部分が華やかに見えている。その穴の一つ一つが鳩小屋に見える。メキシコでは知らないが、中近東では、今も昔も鳩は食用である。だから庶民も修道院も鳩を飼っている。
イシュラパックから七キロほど離れたところにサイールの遺跡がある。その手前にマンゴーの林があった。私はマンゴーを食べるのは大好きだが、マンゴーの木は陰気で 嫌 だ。なぜかマンゴーの木とハゲタカは対になっているように、私は思い込んでいる。アマゾンの河口の町、ベレーンがそうだった。ここにもハゲタカかどうかは知らないが、それに似た 猛禽 の姿が見える。そして私自身もマンゴーの林を見るといつも発狂しそうな暗い気持ちになる。
後ろの席ではイタリア人の団体の観光客のお喋りが 喧しい。オムレツパンを食べてしばらくすると、グァテマラ市に着いてしまう。ここはもうメキシコの隣りの国なのだが、私が持っている日本語のガイドブックには、これから行こうとしているグァテマラ領内のティカルの遺跡もメキシコ篇に収録されている。グァテマラ人がこのことを知ったら、さぞかし怒るだろう。ティカルはウシュマル、チチェン・イツァ、それからホンデュラスのコパンと共に、マヤの大切な遺跡なのである。
グァテマラ市は、花の多い、静かな町である。大邸宅にはヴィーリヤ・シルヴィアとか、サンタ・マリアなどという名前がついており、どこも花がいっぱいである。ブーゲンビリア、インパチェンス、白いジャスミン、釣鐘かつらカプレオータ、ヘメロカリスなどが咲きこぼれている。
もちろん原生林そのままではない。しかし遺跡そのものよりも、密林はそこに住む人々に多くの必要な物資を供給していたことに、太一と私は感動した。ガイドはなかなかの植物の通だし、私たちのグループの中には太ったアメリカ婦人がいて、彼女はマイアミ在住の植物学の先生らしい。だから時々学名まで教えてくれたりするのだが、それに感動していると、また植物の印象を素人は捕らえられなくなる。
翌日はちょっとした休日を楽しんだ。私たちの旅はこれからマイアミへ抜け、それからブルー・マウンテンのコーヒーを飲みに(これは嘘) ジャマイカに行く。それからアメリカを知らない暁子のためにニューヨークとワシントンを廻って帰国する。旅の最も大切な所は終わったので、一日だらりとすることにしたのである。続きを読む投稿日:2024.02.19
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