この作品のレビュー
平均 4.0 (16件のレビュー)
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あなたは、絶対的な主人公が亡くなった後の世を描いた物語を読んだことはあるでしょうか?
この世には数多の物語があります。そして、その物語のタイトルに主人公の名前が登場するものもあります。古くは「金太…郎」、「桃太郎」、そして「浦島太郎」という三大”太郎”の昔話が思い浮かびます。いずれも三大”太郎”が何かしらの経験、活躍をし、その行く末を感じる中に終わりを告げます。そうです。物語の中で主人公は生きたままに物語は終わりを告げるのです。三大”太郎”に光を当てることが物語の主旨である以上、そんな主人公がいなくなった後の世界を物語は想定していないとも言えますし、そもそも主人公がいなくなった後に、そんな主人公の名前を冠した物語が続くとしたら全くもって意味不明とも言えます。
これは、例えばNHKの大河ドラマでも同じことでしょう。緒方直人さん主演「信長 King of Zipangu」(1992年)、竹中直人さん主演「秀吉」(1996年)、そして現在放送中の松本潤さん主演「どうする家康」(2023年)と、これらの作品が戦国時代の三大”英傑”の生涯に光を当てるものである以上、その主人公の死をもって作品は終わりを告げます。これは、それを観る視聴者にとっても説得力のある終わり方であり、そうあるべきものなのだと思います。そうではなく複数の主人公に光を当てるのが目的なら、同じ大河ドラマの中でも「葵 徳川三代」(2000年)のようにそのタイトルをもって宣言していただかないと観る方も落ち着きません。作品名は、それを観る者、読む者の暗黙の約束の上に成り立っているとも言えます。
しかし、そんな約束は当然に絶対ではありません。タイトルに主人公の名前が堂々と記されているにも関わらず、それに該当する主人公が途中で亡くなってしまう、それなのに亡くなった後にも物語が展開していく、そんな物語も存在するのです。そんな物語の代表格が、世界の20か国以上の言語に翻訳され、世界最古の長編小説とも言われる紫式部さん「源氏物語」です。
“源氏の君の輝くようなうつくしさはたとえようもなく、いかにも愛らしい”
“その姿をひと目見ただけで、また御息所の心は千々に乱れる”
“まばゆいほどの光君の姿、晴れの舞台でいよいよ輝くようなその顔立ち”
まるでアイドルを思わせるように表現される主人公・光源氏が栄華を極める様を描くその作品。そんな作品の〈中巻〉の結末に、彼がこの世を後にしたことを思わせる〈雲隠〉帖の存在。しかし、物語はそこでようやく全体の三分の二が終わったに過ぎません。「源氏物語」なのに、書名に名前が登場している主人公・光源氏が亡くなったにもかかわらず、それでも続いていく物語。では、そこには、何が描かれているのでしょうか?
さてここに、そんな読者の興味を掻き立てる作品があります。「源氏物語〈下巻〉」という100万字もの大作の結末が描かれるこの作品。光源氏が登場することのない物語の中に、やはり描かれるのは男と女の物語であることを実感するこの作品。そしてそれは、光源氏から主役を引き継いだ薫と匂宮が、煌びやかな平安の世を生きる物語です。
では、まずは、いつもの さてさて流 で〈下巻〉の冒頭を飾る第四十二帖〈匂宮(におうみや)〉をご紹介しましょう。
『源氏の光君が亡くなったのちは、あの輝く光を継ぐような人は、大勢の子孫の中にもいない』という状況ながらも、『今の帝と明石の中宮のあいだの三の宮(匂宮)と、彼と同じく六条院で生まれ育った、女三の宮の産んだ若君(薫)、この二人がそれぞれ気高くうつくしいという評判』になっていました。『光君の血筋ということで』、『若かりし日の光君の評判や威勢よりもややまさっている』という二人。そんな中、『三の宮(匂宮)』は『元服した後は兵部卿』と名乗り、一方の『女三の宮の産んだ若君(薫)は、光君が頼んでいた通りに、冷泉院がとりわけたいせつにお世話をし』『十四歳で、二月に侍従とな』り、『秋に右近中将とな』るなど昇進していきます。そんな中、中将は『自分の出生の秘密について幼心にうっすらと耳にしたことが折に触れて気に掛かり、ずっと事情を知りたいと思って』いました。『なんの因果で、こんなにも不安な思いのつきまとう身の上に生まれついたのか』と思う中将。そんな中将には、『この世の匂いとも思えない』、『不思議なほど、人のあやしむ香り』が染みついていました。『若君が手折ると、心そそられる追い風に、元の香りは薄れ、いちだんとかぐわしさが増す』というその香り。そんな中将に『ほかの何よりも対抗心を燃やす』兵部卿は、『あらゆるすぐれた香を薫きしめ、朝夕の仕事として調合に専念してい』ました。『お互いに張り合って』、『いかにもよい競争相手として、若者同士互いに認め合っている』という二人のことを『世間では、匂う兵部卿、薫る中将と、耳障りなくらいやかましく噂をしてい』ます。そんな二人の存在を意識して、『その頃うつくしい娘のいる身分の高い家々では、胸をときめかせて婿君にと申し入れたりもする』状況にありました。『あちこちおもしろそうだと思えるあたりには言い寄って、相手の人柄や容貌などをさぐ』る兵部卿。一方、『この世の中がじつにつまらないものだと悟』り、『結婚などははなからあきらめている』中将、と二人は対照的な姿勢を見せます。そんなある年の一月、『右左に分かれた』『射術を競う賭弓(のりゆみ)の行事が』開かれました。『勝った側が射手たちをもてなす還饗(かえりあるじ)を』『六条院でとくべつに入念に準備し、親王たちも招こうと心づもりを』する右大臣。しかし、『いつものように左方が一方的に勝』ち、『右大臣は退出し』ました。『負けたほうだった』ため『ひっそりと退出しようとした』中将を右大臣が引き留め酒宴に誘います。そして、六条院の『南の町の寝殿、南の廂』で始まった酒宴。『一座の興趣も高まってきた頃、東遊の「求子」を舞』います。そんな中、『庭前近くの梅の、じつにみごとに咲き誇った花の匂いがさっとあたりに広がると、いつものように中将の香りがいちだんと引き立って、なんともいえない優美さが感じられ』ます。『この香りは本当に何とも比べられません』と褒めるのは、『そっとのぞき見をしている女房たち』。そんな中に『負けた右方の中将もいっしょにうたおうではないか』と右大臣が声をかけます。それに、『無愛想にならない程度に「神のます」などとうたう』中将…と描かれる冒頭の短編〈匂宮〉。中巻まで物語の主役を独り占めしてきた光源氏が亡くなった後の物語を牽引していく中将と兵部卿の存在を高らかに示していく好編でした。
“源氏亡きあと、宇治を舞台に源氏の息子・薫と孫・匂宮、姫君たちとの恋と性愛を描く。すれ違う男と女の思惑”と内容紹介にうたわれるこの作品。54の短編が三巻に分かれて連作短編を構成する大長編の最後を飾る圧巻の一作となっています。〈上巻〉、〈中巻〉と比較すると若干ページ数は少ないとは言え、圧倒的なボリューム感は読者を若干なりとも怯ませます。しかし、この最後の一山を乗り越えれば、あの「源氏物語」を読破することになるというゴールの存在が、読むぞ!という意欲を焚き付けてもくれます。
では、そんな〈下巻〉のレビューに入る前にここまでのおさらいをしておきましょう。〈上巻〉、〈中巻〉は泣く子も黙る(笑)光源氏が主人公を務め、平安の世を謳歌していく様が描かれていました。その概略は以下のようになります。
・〈上巻〉: 第一帖〈桐壺〉から第二十一帖〈少女〉までの二十一帖から構成
①『光をまとっ』た皇子の誕生、桐壺帝の庇護下でやりたい放題の光源氏
②桐壺帝の崩御と、敵勢力ゆかりの朱雀帝の登場で、反対勢力により追い落とされる光源氏
③朱雀帝から攘夷を受けた冷泉帝の元で復権し、上りつめていく光源氏
・〈中巻〉: 第二十二帖〈玉鬘〉から第四十一帖〈雲隠〉までの二十帖から構成
④ 攘夷した天皇とほとんど同じ地位である准太上天皇へと上り詰め、栄華を極める光源氏
⑤ 『ほんの少しでもこの人に死に後れるのはたまらないと思』っていた紫の上に先立たれ傷心し、出家を決意する光源氏
そして、〈中巻〉で出家をした光源氏は第四十帖〈幻〉の最後にこんな歌を詠みます。
『もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
→ もの思いに耽って月日が過ぎるのも気がつかぬうちに、この一年も、私の人生も、今日でいよいよ終わってしまうのか』
それに続く第四十一帖〈雲隠〉は本文が存在しません。もともと巻名だけで本文は書かれなかったという説と、本文は存在したものの失われてしまったという二つの説が存在するという〈雲隠〉。いずれが正しいのかは今後の研究を待つしかないのだと思いますが、一方ではっきりしているのは、この〈雲隠〉の後にも物語は続く一方で、そこに光源氏はもう二度と登場することはないということです。しかし、そもそも「源氏物語」という書名からして光源氏の存在は絶対です。本人は登場せずとも、そんな彼が亡くなった後の世の中の様子が描写されていくのはなんとも不思議な気がします。しかし、そんな”アフター・光源氏”の世においても今は亡き光源氏の威光が人々の心の中に残っていることがわかります。そんな光源氏の存在の大きさを感じる描写を抜き出してみましょう。
『この世に生きる者で、亡き光君を恋しく思わない者はなく、何かにつけ、この世はただ火の消えたようなさみしさで、なんにせよ輝きを失ってしまったと嘆かない折はないのである』。
『火の消えたようなさみしさ』、『輝きを失ってしまった』とその存在が人々の中でいかに大きかったかを忍ばせます。それは、彼の近くにいた女君にとっても同じことです。
『院内に暮らす女君たち、宮たちは、あらためて言うまでもなく、どこまでも尽きない光君不在の嘆きは元より、またあの紫の上の面影を心に刻み、万事につけて思い出さない時がないほどである』。
彼と身近に接してきた人々のショックの大きさを強く感じさせる表現です。そして、そんな存在の大きさを季節に例えてこんな風に絶妙に表現します。
『春の花の盛りは、なるほど長くはないからこそ、かえって愛着が深まるもの…』。
『春の花の盛り』とはよく言ったものだと思います。この時代にも桜は春の花として人々に愛でられていました。〈下巻〉にも桜の描写は多々登場しますが、この表現は1000年の時を超えて十分な納得感を私たちに与えてくれます。
ということで、〈上巻〉、〈中巻〉であれだけ存在感を示した光源氏がいないところから物語をスタートさせなければならない〈下巻〉はなかなかに大変だと思います。絶対的な主人公・光源氏の存在を埋めるのはそう簡単なことでなないからです。
そして、そんな〈下巻〉に登場するのが、『今の帝と明石の中宮のあいだの三の宮(匂宮)と、彼と同じく六条院で生まれ育った、女三の宮の産んだ若君(薫)』という二人です。そう、光源氏の存在を二人の『気高くうつくしい』男子二人で埋めるとはよく考えられた物語だとつくづく思います。そんな物語は、第四十二帖〈匂宮〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十三帖で構成されています。ただし、そんな物語はさらに二つに分割されます。それこそが、『宇治十帖』と呼ばれる十の短編の存在です。上記の通り、〈下巻〉は”アフター・光源氏”の世界が描かれますが、その中でも第四十五帖〈橋姫〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十帖は、舞台が『宇治』である共通点をもって『宇治十帖』と呼ばれているようです。「源氏物語」の世界は往時、平安の世を席巻した藤原道長の栄華を描いているとはよく言われることです。そんな道長が造ったとされるのが宇治平等院の鳳凰堂であり、その近くには宇治川が流れてもいます。そう、「源氏物語」の舞台そのままとも言える光景がそこにあることから『宇治』は「源氏物語」との親和性がとても高い土地であるとも言えます。そして、さまざまな研究により、この『宇治十帖』は、紫式部以外の作者によって書かれたという説が唱えられたり、舞台となっている『宇治』の十の帖それぞれにゆかりのある古跡が現地に整備されるなど独特な盛り上がりを見せている状況もあります。
では、〈上巻〉、〈中巻〉同様に、〈下巻〉に描かれる物語の整理をしておきたいと思います。
・〈下巻〉: 第四十二帖〈匂宮〉から第五十四帖〈夢浮橋〉までの十三帖から構成
⑥ 光源氏亡き後、光源氏に繋がる匂宮と薫の存在感が増していく
⑦ 宇治を舞台にして、匂宮と薫が大宮、中の宮、そして浮舟という三人の女性たちと深く関わりを持つ中に恋と悲哀の物語が描かれていく
これが、〈下巻〉の物語になります。では、そんな〈下巻〉の物語の中で特に気になった表現を見ておきましょう。三つ挙げます。まずは、さりげない会話の中に登場する一つの言葉です。
『おまえは今夜は宿直のようだね。このままここに泊まるといい』。
按察大納言(あぜちのだいなごん)が若君に語りかける言葉ですが、私が気になったのは『宿直』という二文字です。これは、”しゅくちょく”と今の時代の感覚で読むものではなく、”とのい”と読むのが正しいようで、宮中・官司あるいは貴人の夜間警備のために、お付きの人々が宿泊をしていたことを示しています。読みは変われど、泊まりの仕事を務めていた往時の人たち。物語には、『髪を結わない宿直姿であらわれる』、『宿直に仕える人たちが十人ほどお供して宮中に向かう』、そして『若君がこの前の夜に宿直をして、朝に帰っていった時』と『宿直』という言葉がさまざまに顔を出す中に、当時の『宿直』のイメージがどことなく浮かび上がります。みなさまお仕事お疲れ様です、思わず声をかけてあげたくもなるこの言葉。そんな中でも特に印象的だと思ったのは次の一文に登場する『宿直』です。
『結婚後に急に帰ってこない日が続いたら中の君はいったいどう思うだろうと心苦しく、この頃は宿直と言っては参内し、今のうちから自分の留守に馴れてもらおうとしている』。
なんだか平安の世の人が考えることがやけにリアルに感じてもきます。なかなか複雑に愛憎渦巻く平安の世が描かれていく物語。やはり、とてもよくできた物語だと思います。
次に二つ目は当時の『遊び』について触れられた部分です。
・『だんだん成長する二人に、琴を習わせ、碁打ち、偏つき(漢字をあてる遊び)など、ちょっとした遊びごとをしている』
・『碁や双六、弾棊(石を弾いて競う遊び)の盤などを取り出して、それぞれ好きなように遊んで一日を過ごす』
前者は女たちの『遊び』、後者は男たちの『遊び』として挙げられているものです。今の時代にも伝わっているものと、角田さんの( )付きで説明される当時ならではの『遊び』の存在が描かれます。平安の世に確かに生きた人々、そんな人々が一人の人間としてどんな暮らしをしていたのか、こんな『遊び』からもそれを垣間見ることができるのも1000年前に書かれた「源氏物語」だからこそだと改めて思いました。
そして、三つ目は『祈禱』の場面です。『今では回復の見込みもないように思われ』るという重い病状の人が目の前にいたなら、今の時代であれば救急車を呼び病院の救命救急センターへ、もしくはICUに搬送される、そんな展開が思い起こされます。しかし、そんなものがない平安の世に登場するのが『祈禱』です。『効験あらたかと言われている僧たち』が呼び寄せられて始まる『祈禱』。そんな『祈禱』の光景がこんな風に描写されます。
『初夜の勤行からはじめて、法華経を休みなく読ませる。声の尊い僧ばかり十二人で、じつにありがたく聞こえる』。
病気で具合が悪い中に、十二人もの僧が『休みなく』法華経を読むというこのシーン。何が原因のどういった病気かにもよるでしょうが、今の世で期待するような治療行為が一切行われない中に、安静さえ妨げる『祈禱』は病人に対する虐待にさえ感じます。まあ、平安の世では、必死にその人のことを思ってしていた行為だとは思いますが、このあたり、1000年前の時代の一つの日常をとてもリアルに感じさせるものだと思いました。
そして、そんな〈下巻〉ですが、〈上巻〉、〈中巻〉と主人公を務めた光源氏と血の繋がりを持つ人物が主人公を務めることもあって、〈下巻〉でも、やはり男と女の物語、というかもうやりたい放題の男の物語が描かれていきます。特に光源氏の血を色濃く感じさせるのが若宮(薫)です。「源氏物語」というと、読まれたことのない方の中には、”高尚なお話”といった理解をされている方もいらっしゃるようですが、実際にはそこに描かれるのは現代小説と同じ、男と女のドロドロとした愛憎劇です。それは、”高尚”でもなんでもなく、おいおい!と突っ込みたくもなる女好きの主人公を描く物語です。では、『宇治十帖』の中の第四十五帖〈橋姫〉から第五十帖〈宿木〉へと展開する男と女の物語の概要を現代小説っぽく抜き出してみましょう。
① 光源氏の異母弟である八の宮が『男手ひとつで育て』た大君(おおいぎみ)と中の君(なかのきみ)という姉妹が『宇治』の『山荘』に暮らしていました。
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② 『宇治』に赴いた薫は、琵琶と琴を奏でる姉妹に出会います。そして、匂宮に美人姉妹の存在を意味ありげに教えます。
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③ 八の宮から姉妹のことを託された薫。そして、八の宮が亡くなり姉妹の後見人となった薫は、二人に近づいていきます。一方で、匂宮も姉妹に手紙を送るようになります。そして、これら二人の男の存在に姉妹は困惑していきます。
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④ 薫が姉の大君にアタックをかけますが失敗。しかし、薫との関係を持つことは総合的には良いことであるという判断から『代わりに妹を差し出すことにしよう』と思い、『中の君を私と同じに考えていただきたい』と薫に告げる大君。
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⑤ しかし、大君を忘れられない薫は匂宮と中の君をくっつけてしまう作戦を練り、ついには二人を結婚させてしまいます。
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⑥ 結婚した匂宮と中の君の仲は良かったものの、匂宮が『宇治』まで通うことはなかなかに困難な日々が続きます。
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⑦ 匂宮が通ってこない状況を見て、『妹が不憫』と嘆く大君は、心労から来る衰弱の中に亡くなってしまいます。
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⑧ 一人になった『中の君を京に迎えることを決意した』匂宮は、中の君を二乗院へと招き、やがて中の宮は懐妊します。
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⑨ 幸せになった中の君を見る薫は、その姿に今は亡き大君を重ね合わせ、やがて中の君に対し恋心が芽生えていきます。
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⑩ 薫が中の君に思いを抱いていることを知って焦る匂宮。さて…。
いかがでしょうか?何を持って”高尚”という言葉を使うかということはあるとはいえ、こんな風に書き出してみるとそこに浮かび上がるのは現代社会でもありそうな男と女の恋の物語です。 まあ、”⑦”で姉が妹の恋の展開を見て心労で亡くなってしまうという展開は、流石に今の世では不自然さを感じさせます。時代が違えば、つまり平安の世にあっては、心労から人が死んでいくというのは当たり前のことだったのでしょうか?なんだかとても興味がわきました。
そんなこの〈下巻〉は上記した薫と匂宮という男性二人と、大君、中の宮、そして浮舟という女性三人の恋の物語と言えます。『年齢を重ねるにつれて人柄も世間の声望もますます立派になって』いった薫に比べて、『お仕えしている女房の中にも、かりそめにも言い寄って手をつけてみようと思い立った者がいれば、信じられないことにその人の実家にまでも訪ねていくような、とんでもないご性分』という『たいへんな浮気性である』匂宮という二人の男性に振り回されるかのように三人の女性の人生は揺らいでいきます。特に心労で亡くなった大君、そして浮舟に至ってはこんな歌を残す心境に追い込まれてもいきます。
『いづくにか身をば捨てむと白雲のかからぬ山もなくなくぞゆく
→ いったいどこにこの身を捨てたらいいのだろう、白雲のかからない山もない道を、泣く泣く私は帰っていく』
いつの世も浅はかな男の行動に振り回される女の存在というものはあるように思います。1000年も前の世であればそれはなおさらのことであり、この作品に描かれる女性たちの人生の儚さにはなんとも切ない思いが残りました。
そして、この100万字(400字詰め原稿用紙にして実に2400枚!)という気が遠くなるような長大な分量の物語は、第五十四帖〈夢浮橋〉をもって終わりを告げます。そんな作品の最後の一文は原文ではこのように書かれています。
“いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、「なかなかなり」と、思すことさまざまにて、「人の隠し据ゑたるにやあらむ」と、わが御心の思ひ寄らぬ隈なく、落とし置きたまへりしならひに、とぞ本にはべめる”。
そして、これを角田さんはこんな風に訳されています。
『小君の帰りを今か今かと待っていたのに、こんなふうにあやふやなまま小君が帰ってきたので、大将はすっかり気持ちが萎えてしまって、なまじ使いなど出さないほうがよかったと、あれこれと思い巡らし、「だれかほかの男がひそかにかくまっているのではないか」と、自分がかつてそんなふうに女君を放置していたことにも照らし合わせて、あらゆる場合を想像し……、 と、もとの本には書かれているそうですよ』。
角田さん訳の特徴がこの一文でもよくわかります。
・原文にはない主語を補ってわかりやすくしている。
・現代小説のような読み味になるような言葉選びをしている。
しかし、そんな現代小説のような読み味を纏えば纏うほどに、えっ、これで終わりなの?という思いが読者の中に残ります。浮舟の様子を探らせにつかわした小君がようやく戻ってきたのに、かえって疑念が募って悶々…、『と、もとの本には書かれているそうですよ』というその終わり方。この最後の記述、原文では”とぞ本にはべめる”という記述。これ自体は、コピー機がない当時の書物で必須であった”写本”を書き写していく際に、お決まりで入れた一文のようですが、それは別として物語としての終わり方自体があまりに中途半端に感じます。もちろん、現代小説であっても、続きは読者に丸投げ!的な結末にしている作品が多々あることを考えると「源氏物語」だけに結末らしい結末を求めるのは違うのかもしれません。また、この作品はそもそもは光源氏の誕生から死、そしてその後の世の中を描いている大河小説でもあります。一人の人間の一生を描くだけならその人間の死をもって物語を終わりにすることができますが、この作品はそうではありません。人の世が連綿と続くものである以上、終わりの線引きなどできるはずがないとも言えます。その一方で、ブクログの他の方のレビューを見せていただくと、光源氏の死後を描いた部分自体、続編やスピンオフとして書かれたものではないかという見解を書かれている方もいらっしゃって、なるほどなと感じます。そして、そのように中途半端に感じられる本編を補うことを意図して、明確に続編という位置づけの作品も存在するようです。
・「山路の露」: 薫と浮舟の”その後”を美しく語る続編的位置づけ / 鎌倉時代の作品
・「雲隠六帖」: 光源氏の出家と死を辿るもので、〈幻〉に続く〈雲隠〉の本文に相当する位置付け / 室町時代の作品
これらは100万字の大作を読み終えた後にもどかしい思いが残る人が今も昔も同じようにいることの証左のような作品だと思います。一方で、これらの存在は、それだけ「源氏物語」自体が長い歴史の中で数多くの人たちに愛されてきたことの証でもあると思います。
ということで、2019年12月に読書を始めた私 さてさてが、2022年2月にふと思い立って手を出した「源氏物語」の読書は本日念願だったゴール、〈下巻〉へと行き着くことができました。小学校の歴史の授業に登場する、平安時代に書かれたという世界最古の小説、紫式部さん「源氏物語」。長らく作者と書名だけを歴史の授業の暗記項目として覚えていただけだったものが、ついにその作品の実体を理解することができました。世界の20か国以上の言語への翻訳までもが存在する世界に冠たる日本文学の傑作、そんな素晴らしい世界に触れることができ、また、こうしてレビューを書き終えることに深い喜びを感じます。
1000年以上も前の時代にも、今と同じように悩み、苦しみ、その一方で喜びと楽しみの中に人々が生きていたことに思いを馳せるこの作品。そんな人々の心持ちは現代の私たちと何も変わりはないことに驚きもするこの作品。
100万字もの圧倒的な文章量の中に、紫式部さんがのこした平安の世の人々の生き様を見る傑作中の傑作だと思いました。
P.S. 角田光代さん、難解な原文を、まるで現代小説を読むようにわかりやすく解きほぐして私たち読者に伝えてくださったことに心からお礼を申し上げます。こんなにも素晴らしい現代語訳をどうもありがとうございました!
そして、紫式部さん、世界の歴史に刻まれるこの大作を私たち後世の人間にのこしてくださったこと、本当にありがとうございました。続きを読む投稿日:2023.09.16
角田光代訳『源氏物語』を読み終わりました。下巻は、光源氏の息子として育てられながらも、女三おんなさんの宮みやと柏木かしわぎの子でもある、薫かおる。今上きんじょう帝と明石あかしの中宮ちゅうぐうの子である…、匂宮におうみや。このふたりを軸として進んでいきます。全体を通して不器用な登場人物が多く、上巻、中巻に比べると「心の通じなさ」「ちぐはぐな感情」「愚かさ」という面が強調されているように思いました。同時に、薫と匂宮ふたりの力関係が対等であるが故に生まれるドラマは、前巻までにはない展開を生み出しており、その”上手くいかない部分”にこそ下巻の面白さや独自性はあったように思います。
薫が想いを寄せた大君おおいぎみは、彼のアプローチの仕方が変(というか下手くそ)なため、気を病んでばかりだし、中なかの君きみと想いを遂げられた匂宮は、釣った魚に餌はやらないとばかりにすぐ他の女性に目移りしてしまうし。主役として添えられているふたりは容姿端麗で生まれも役職も立派な割に、どうにもこうにも"下手くそ"な点が多く、「なんじゃこいつら」と思う場面が多くありました。
おそらくそれは、光源氏という存在が読者の中にいるというのもあって、どうしても彼と比べずにはいられない、というのもあるでしょう。下巻の中心となる「宇治十帖」を読んでいると、「光君ならもっと上手いことやっただろうなー」なんて思うことがよくあり、あんなにすちゃらかでダメな部分もあった男なのに、それがどうにも懐かしく思えてしまうのでした。
最後に登場する姫君、浮舟うきふねは、薫に「人形ひとがた」と呼ばれ、流されるように薫と匂宮のあいだをゆらゆらたゆたう存在です。そのため、これまで登場してきた姫君に比べ、確固たる個性というものが希薄であり、その分負わされる苦悩も非常に大きいものでした。そんな彼女を物語の最後に置いたのは何故なのか。浮舟は、最後に言い寄ってくる男たちすべてと縁を切り、ひとりで生きていくことを選択します。物語の幕切れは唐突で、まだ続きがあってもおかしくないような、浮舟や薫があの後どういった選択をして生きるのか考えずにはいられない、そんな終わり方をします。山崎ナオコーラ『ミライの源氏物語』では、浮舟と桐壺を同じ「受け身のヒロイン」として見ることで、最後に浮舟が「拒絶」をすることに意味があると書かれていた。角田光代のあとがきには、男に頼らず生きていく個、自分自身を手に入れた女性である浮舟は、これまで登場した女性たちのひとつの到達点かもしれない、と書かれている。作者である紫式部はどんなことを考えてこの帖をラストに持ってきたのだろう。上記した捉え方はとても正しいように感じるけれど、それはいまの時代の文学観、倫理観に合わせて考えたものであって、必ずしも正解とは限らない。いま私がぼんやりと思うのは、過去の、光君がまだいた頃の帖をまた読みたいなということで、あの光輝いていた時代の物語をもう一度味わいたいなということだ。各帖に登場するそれぞれの登場人物に再会することで、今度は親しみを覚えながらまた新たな魅力を見つけられそうな気がする。『源氏物語』が長く愛される要因のひとつは、きっとそういうところにあるんじゃないだろうか。
『源氏物語』の作品の魅力を一言で言い表すのは難しい。感動的な物語、というよりも、人間の業を見つめた部分のあるお話で、かと言って、むやみやたらに小難しいわけでもない。そもそも帖によって大きく色合いが変わるし、時代も主人公も、登場人物の心も移り変わっていくことから、一概に「ここがすばらしい」ということを説明するのは難しく、読む人によってどこに面白さを見出すかは変わるだろう。それはつまり、物語の豊かさ、文学の懐の深さ、人の心の複雑さが凝縮されていることも意味していて、変わりゆくものと変わらないものの、美しさを、そして儚さを知った気がします。
角田光代さんの訳文は平易で読みやすく、現代の小説と同じ「軽さ」がありながらも、作品の本質的な良さは失われていません。はじめて手に取った『源氏物語』が角田光代さんの訳でよかったなあと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました。『源氏物語』を愛読する方にとっては見当はずれな感想や、読みの浅さを感じる部分もあったかとは思いますが、そんな拙い感想をあたたかく迎え入れてくれたおかげで最後まで感想を書くことができました。
いずれ他の訳文も読んでみたいなーとは思いますが、いまは1000年間愛読される本の読者の一員になれた喜びにひたりたいと思います。続きを読む投稿日:2024.03.10
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