若い読者のためのアメリカ史
ジェームズ・ウエスト・デイビッドソン(著)
,上杉隼人(著)
,下田明子(著)
/すばる舎
作品情報
航海者コロンブスの視点からはじまる手に汗握る激動の500年!どのようにして今のアメリカ合衆国が形作られてきたのか。利害がぶつかるなかで、人々は何を求め、いかに行動してきたのか。本書では、衝突を繰り返し、大陸に広がり、多種多様な人々を抱え、自由と平等のもとに結合しようと悪戦苦闘してきたアメリカの変遷をたどる。大陸発見から現代までをその時代の人の目線で描き出し、ひとつの物語のように繰り広げる躍動感にあふれた歴史書である。
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商品情報
- シリーズ
- 若い読者のためのアメリカ史
- 著者
- ジェームズ・ウエスト・デイビッドソン, 上杉隼人, 下田明子
- 出版社
- すばる舎
- 書籍発売日
- 2018.12.25
- Reader Store発売日
- 2019.03.01
- ファイルサイズ
- 9.8MB
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この作品のレビュー
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-
3168
476P
タバコ、コーヒー、トウモロコシ畑、ビーバー、
半分ぐらいの位置で出てくるけど、映画風と共に去りぬの時代のアメリカ史も上がった。南北戦争リンカーン大統領の時代。
ハワイの先住…民がポリネシア人でポリネシア人は現在の中国南東部か台灣のあたりから南に移動した人達が、フィリピンの島々を南下して、ソロモン群島を経て太平洋の島々にたどり着いた人々らしい。
という意味でハワイの原住民と日本人のルーツは同じという説があるらしい。それを証拠に、文化的には、祭りや芸能、食文化などの共通点が見られることが指摘されてるらしい。 例えば、日本の盆踊りや祇園祭はポリネシアのダンスや祭りに似ており、日本の餅や醤油はポリネシアのタロイモやソースに似ているらしい。虫の鳴き声を「声」と認識するのは日本人とポリネシア人だけだって。検索すると言語も似てるって出てくる。
だから日本人はハワイが好きなんだね!!!!
ジェームズ・ウエスト・デイビッドソン(James West Davidson)
歴史学者、作家。イェール大学で、アメリカ史研究により博士号取得。アメリカ史を詳細に調査・分析したうえで魅力的な物語として読ませる手法に定評がある。著書に、Virginia Teacher's Edition, America History of Our Nation(2011), They Say: Ida B. Wells and the Reconstruction of Race(2006), Nation of Nations (1981), Great Heart: The History of a Labrador Adventure(1988), After the Fact: The Art of Historical Detection(Volume 1[1981], Volume 2[1986])など。著作は全米の中学、高校の教科書として、多くの教師、学生に読まれている。
コロンブス(Christophorus Columbus)・・・[1451~1506]イタリア生まれの航海者。 1492年、スペイン女王イサベルの援助を得てアジアをめざし大西洋を横断、サンサルバドル島に至る。 以後3回の探検によって中央アメリカ沿岸を明らかにしたが、そこをインドの一部と信じ、新大陸の全貌を知らずに死亡。
イェール大学出版局・・・1908年にコネチカット州ニューヘイブンで創立されたイェール大学出版局は、1961年に、US本部より発刊される書籍のマーケティング拠点をロンドンに設立しました。のち、1973年にはイギリスでも出版を始めます。イェール大学出版局は現在、子会社、Yale Representation Ltd(マーケティング会社)や、Pevsner Architectural Guides programmeなども含め、ヨーロッパで40人以上のスタッフを所有する本格的な出版社として、アメリカ大学出版会において、独自のポジションを獲得しています。
本書ではアメリカの歴史を大体500年ほど扱う。ひとりの人間にすれば、これは大変な期間だ。歴史家たちが一世代について語るとすれば、それは誰かが生まれ、その人物が子供を世に産み落とすまでのことだ。その一世代の存続期間が20年とすれば、25世代分の家族の物語がここでは語られることになる。
この大陸に最初の人間がたどり着いたのはおよそ1万4000年前だ。当時、現在のカナダの大半は氷で覆われていた。多くの場所で氷の厚さは3キロメートルほどに達していた(図に「氷冠の限界線」とあるが、これはどこまでが氷に覆われたかを示している)。膨大な水が凍結したことで海面が下がり、現在のベーリング海峡のある北西の地が広く浮かび上がった。こうしてできた土地の橋を渡り、最初の人間たちがまったく未知のアメリカ大陸に入り込んできた。
1492年、北米には約800万人のインディアンが住んでいた。ひとつの大陸を考えれば、その数はそれほど膨大なものではない。今日のニューヨーク市には800万人以上の人が住んでいる。それでも、当時のインディアンの数は多いと言える。たとえばイギリスと比べてみれば、あの島国の人口は1492年当時、200万から300万人ほどであった。フランスは当時のヨーロッパでいちばん多くの人口を抱えていて、約1500万人が生活していた。そしてアジアでは中国だけで1億人いた。では、北米大陸に広がる800万人のインディアンのことを考えながら、空高く舞い上がる鷹の群れに混じってみよう。眼下に大陸が広がるが、思ったより原野は少ない。どこに飛んでいこうとも、ほぼいたるところで煙が柱になって上がっている。
どんな集団の文化背景にも歴史が存在する。言ってみれば、どんな習慣もどうやってはじまったかという物語がある。たとえば現代のアメリカでは、多くの人がリベットで留められたブルー・ジーンズを穿いている。これは習慣であり、そこには歴史がある。事実、ふたりのアメリカ人リーヴァイ・ストラウス(1829~1902)とヤコブ・デイヴィス(1831~1908)が、1873年にこのズボンを考案した。同じようにして、誰かが、あるいはおそらくインディアンのどこかの部族が、もっといい肌着やもっと鋭利な槍を作る方法を見出し、「栄誉ある人々」が重要視される政治体制を築くことを考えたに違いない。だが、早期の北米に文字を発明した人は残念ながらいなかった。だから個人一人ひとりが人々の生活にどのように貢献したか、あるいは彼らがどんな村を作り、どんな戦争で戦ったかは、歴史に記録されていない。
だが、コロンブスはアメリカ大陸に到達した。浜に上がると、目の前の小島が天国に思えた。古代の作家たちは歴史以前の黄金時代の物語を語っているが、そこには「人々は簡素に、無邪気に暮らしていた」とつづられている。法律もなければ、争いもなかった。この島の人々はまるでそうした古代の暮らしをそのままつづけているように思えた。「彼らは母親から産み落とされたときから裸でいる」。非常におとなしく、友好的で、「持っているものはすべてキリスト教信者に与えようとした」とコロンブスは書き残している。彼はこの新しい人たちをインディアンと呼んだ。なぜなら、自分たちはアジアの周辺にたどり着いたと思ったからだ。当時ヨーロッパ人は極東を「インディーズ」と呼んだ。コロンブスは「大いなる友情の証として」、赤い帽子とガラス玉を数個ずつ差し出し、彼らインディアンに「力ではなく、愛によって、われわれの聖なる宗教」に改宗してほしいと念じた。さらに、そこで出会った人たちは「支配されることにも、労働に従事させることにも適している」から、衣服を身につけさせて、自分たちの文化に適合することを教えるべきであると記している。
バルボアは耳をそば立てた。向こう側の海だと? 宝だと? 部下を連れてジャングルに深く踏み込み、パナマの細い地峡を突き進み、ついに1513年、太平洋に到達した。ここに至ってヨーロッパ人は、アメリカは南北の大きなふたつの大陸からなり、小さな島の橋によってつながれていると認識することになった。数年後、フェルディナンド・マゼラン(1480~1521)が太平洋を横断することになる。マゼランの船団はインドとアフリカを経由して1522年9月6日スペインに帰国し、はじめて世界一周を成し遂げるが、彼自身はフィリピンでの戦争に巻き込まれ、1521年に命を落としている。
1492年以前、ふたつに分かれた世界はそれぞれ独自の道をほぼ歩んでいた。アメリカに見られる樹々は「われわれの国にあるものと昼と夜くらいの違いがあった」という言葉をコロンブスは残している。ヨーロッパ中探しても、南米にいるような電流を発して身を守るウナギはいなかった。尾に環紋があって、目の周りが黒い、北米のアライグマのような動物も徘徊していなかった。一方、アメリカのインディアンはヨーロッパ人が連れてきた奇妙な馬や犬に驚かされた。
大西洋渡航で馬は船倉にまとめて押し込まれ、とりわけ苦しい時間を過ごすことになった。天候が荒れるとスペイン人は馬の腹にベルトを巻いて吊り上げ、彼らが驚いて暴れ出さないようにした。熱帯では穏やかな海がさらに危険になる。焼けつくような暑さにより、動物たちは気の毒にも暗く蒸し暑い船倉で息絶えることになった。それが理由で、こうした危険な海域は「馬の緯度線」と呼ばれた。ヨーロッパの豚も、コンキスタドールが餓死することのないように非常食として運ばれた。バルボアのリオンシーコのように、犬もペットとして、また戦闘動物として連れられてきた。 アメリカの植物と動物は重要なものとして、世界のもうひとつ半分の地域に運ばれていった。現代のイタリア料理はトマトがなければ成り立たないが、これはアメリカ産の野菜だ。スペイン人はインディアンがアンデス山脈の高地で栽培したジャガイモを自国に持ち帰った。1800年代にはアイルランドはこの穀物を大いに頼りにすることになり、植物病によってこれが取れなくなると、何千人もの農民が餓死するほどであった。アメリカのトウモロコシはヨーロッパだけでなく、アジアにも広がった。今日ではゆでたり焼いたりしてそのまま食べるか、トウモロコシパンやポップコーンにするほか、コーンシロップを使って数多くの食べ物や飲み物が作られ、コーンミールは農場の動物や養魚の餌にもなる。インディアンは5000年前に初めて野菜を栽培してそれをブタモロコシ(メキシコや中央アメリカで採れるトウモロコシの起源と言われるイネ科の雑草)と呼んだが、当時その穂は人間の指くらいの大きさであった。世紀を重ね、インディアンの農民は徐々にこの作物を大きく成長させていった。
スペイン人とインディアンが共同で農場を開き、ともに平和に暮らすのだ。当時はありえない夢だった。まるで異なる人たちが一緒になり、ある者たちが支配者で、ある者がそれに服従するということはない。多数からひとつを作り出すというそれまでにない夢だった。
ある日、旅をつづける彼らは馬に乗ったスペイン人の集団を目にした。兵士たちが仰天したことに、自分たちと同じスペイン人のようだが、見たこともない、ほとんど裸同然の4人が、数百人のインディアンを連れて行進しているではないか。カベサ・デ・バカの髭は胸まで、髪は腰まで伸びていた。この者たちはナルバエスの遠征隊の隊員か? 10年前に行方がわからなくなったあの者たちか? ありえない! だが、どうやらそのようだ。
デ・ソトとラ・サールのふたりの探検家はそれぞれの冒険において、まったく異なる経験をした。ミシシッピ川をデ・ソトの遠征隊はインディアンの部族と次々に戦いを繰り広げながら移動した。インディアンの戦士たちを詰め込んだ巨大な丸太船が川に何艘も浮かんでいた。ところがラ・サールの時代になると、ほぼ同じ川の水域にもかかわらず、小さな村落がほぼわずかに確認できるだけであった。なぜこんな変化が起こったのか? 歴史家たちが今認識するところでは、ヨーロッパの疫病が北米を避けて通り抜けていくことはやはりなかった。デ・ソトは遠征に数百頭の豚を連れてきたが、そのうちの何頭かは森に逃げ込んだ。インディアンも遠征隊から何頭かくすね、こうしてヨーロッパの豚が大陸の南東に向けておそろしい感染伝染病を広げることになった。食用豚に罪があるかどうかは措くとして、結果としてヨーロッパの伝染病で多くの北米のインディアンの命が奪われることになった。
この140年間の沈黙には、もうひとつ最後にひねりがある。第3章で見たとおり、1600年代にアメリカに来た入植者たちは野生動物が豊富にいたと書いている。バイソンが東のバージニアでも徘徊する姿が見られ、魚はどの小川にもたくさんいたし、鳥は群れを成して飛んでいた。1492年以前のアメリカもそのようであったとおそらく考えられている。だが、こうしたすべての野生動物は、そうではなく、ヨーロッパからもたらされた疫病の惨劇を示すものであるかもしれない。何千人ものインディアンが1542年から1682年のあいだに息絶えたとすれば、獣や魚や鳥を捕らえる者たちも当然少なくなったと考えられる。それによって逆に動物の数が増えたのではないか? 1542年にデ・ソトはミシシッピ川流域でインディアンをたくさん見たが、バイソンは一頭も目にしなかったと言う。一方、1682年にラ・サールはインディアンにはほとんど出会うことはなかったが、バイソンは何頭も見たと伝えている。
ラサール・・・[1651~1719]フランスの司祭・教育者。1681年、世界最初の教員養成機関であるキリスト教学校修士会(ラサール会)を創立。近代学校教育の先駆者とされる。
ルター・・・[1483~1546]ドイツの宗教改革者。1517年、教皇庁による免罪符発行を批判する「九五か条の意見書」によって教皇から破門されたが、これが宗教改革運動の発端となった。ザクセン選帝侯の保護下に完成したドイツ語訳聖書は、ドイツ語史上重要とされる。聖書に基づく信仰のみを説く福音主義に立ち、すべての信仰者は等しく祭司であるとする万人祭司思想を主張した。著「キリスト者の自由」など。ルッター。ルーテル。
アメリカの歴史の本において、遠く離れたヨーロッパの事情をこんなに長く語るのはおかしいとあるいは思われるかもしれない。まさに同じ頃にコルテスがアステカ王国に攻め入った(1519年)というのに、なぜマルティン・ルターとその主張に関する話を聞かされるのか? ミシシッピ川を下るエルナンド・デ・ソトではなくて、なぜジュネーブのカルヴァンに着目する必要があるのか? だが、どんな考えもどこかタンポポに似たところがある。開拓者のブーツについた小さな種のように、ひとつの考えが誰かの頭のなかに広がる大西洋を越えていく。タンポポは2、300年もすると大きく育って各地に広がり、アメリカの景観を変えてしまう。ひとつの考えが同じように2、300年かけて広がれば、ヨーロッパからはるか離れたこの大陸はまったく様相を変えてしまうかもしれない。ルターとカルヴァンの考えは、アメリカを一変させてしまうかもしれない。
だが植物が長年かけて様相を変えるのと同様、考え方も変わる。ここで聖書が唯一の救済への手引きとするルターの信念について考えてみよう。何がそれを革命的なものにしたか? 中世において、教皇と教会会議は聖書の意味を最終判断する役目を負った。一般人がそれを担うことはなかった。これに対してルターは、すべての人に聖書を読んでほしいと考えた。それによって「キリスト教徒は自分自身を裁かねばならない」と主張した。聖書は教養人のみが理解できるラテン語だけではなく、普通の人も読める言葉で記されたものも用意すべきだ。こう考えてルターは聖書をドイツ語に翻訳した。それが数千部印刷された。数千人がこれを手に取って読み、自分自身を裁くようになった。そしてそこにカルヴァンの共同体の思想が混じりあった。こうして多くのプロテスタントがアメリカに渡り、人々が「共有の富」を求めて支えあう共同体を作りたいと思うようになった。カルヴァンが共同体の思想によって目指したのは、金銭的な富だけでなく、精神的な富――忠実な信者たちが共同生活でたがいに支えあうことによって得られるもの――の両方であった。
ヨーロッパでは改革派の新しい考えに対し、即座に異議が唱えられた。カトリック教会の役人たちはルターにその信仰を撤回するように求めたが、この改革者がしたがうことはなかった。「ここにわたしは立ちはだかる。神の後ろ盾もある。アーメン」。ルターは「この血と死をもって真実を守る」と譲らなかった。カトリックもきびしい感情を示した。「たかがひとりの僧が千年にもおよぶキリスト教に反論するなど、断じて許されぬ」。神聖ローマ皇帝の若いカール5世(1500~1558)は声を荒らげた。「わが土地、わが友人たち、わが身、わが血と魂を賭けて」と皇帝はルターの話を聞いて宣言した。「あの者を公然たる異端者として処罰する」。ヨーロッパでは、間違った宗教思想を唱えるなどして異端者であると宣告を受けた者は火あぶりの刑に処された。懲罰は激烈で、想像を絶する痛みを伴い、まるで黒曜石のナイフで心臓を抉り出されるようなおそろしいものであった。ルターには幸運なことに、カール5世は自身のこの誓いをついに遂行できなかった。だが、多くの国でほかの数千の反逆者たちが火刑に処されたし、中にはジュネーブのカルヴァンの共同体から非難を受けた学者もいた。宗教改革に端を発する抗争はヨーロッパに150年間くすぶり、そのあいだプロテスタントとカトリックは激しい闘争を繰り広げた。
ひとつの国家の半分がプロテスタントに転じ、半分がカトリックとして残るとして、君主は両者にどちらでも好きなものを信仰してよいとはたして認められるだろうか? ルターの時代にそれができる支配者はほとんどいなかった。多くの君主はひとつの教会の建立のみ認めた。その信仰と一致する教会を一堂である。賛同できない者は口をつぐんで認可された教会に通うか、密かに自分の宗教の信仰をつづけ、身柄を拘束されたり、投獄されたり、火刑に処される危険を冒すことになった。スペイン、ポルトガル、イタリアなどは敬虔なカトリック国家でありつづけた。イングランド、スコットランド、オランダといった国はプロテスタントに転じた。そしてこの宗教戦争はまもなくアメリカに広がった。
スペイン人は北米大陸も沿岸に沿って北上したが、恒久的な植民地を設置することはなかった。1枚の古い地図に書き込まれた手書きの文字によって、その理由をうかがい知ることができる。「ここには黄金はない」。一方で、中央アメリカや南米から出航する宝船は磁石のように敵を引き寄せた。スペインの船はフランスの海賊船に何度も襲われ、この国はあわせてほぼ半分もの銀を失うことになる。数百のフランスのプロテスタントがフロリダに植民地を築くと、スペインはお返しとばかりにそれを粉砕し、その地にセントオーガスティンの町を創設した。
だが、そこで12年暮らし、遠く離れたイギリスが恋しくなると同時に、将来への不安を覚えた。だからイギリス国王のジェームズ1世に「平和に」行動することを条件に北米バージニアのイギリスの植民地に移り住むことが認められると、1620年にメイフラワー号でその地に向けて旅立った。だが不幸なことにメイフラワー号は強風に見舞われ、目的地への針路を外れてしまった。そしてジェームズ1世がピルグリムファーザーズに許可した事項を記した公式文書には、彼らがバージニア以外の地に植民してよいとは一切書かれていなかった。
ピューリタン・・・清教徒。 エリザベス1世の宗教改革を不徹底とし、聖書に従ってさらに徹底した改革を進めようとしたイギリス・プロテスタント。 その思想的背景はカルビニズムで、その改革運動は16世紀から17世紀に及ぶ。
ひとつの国家の景気がよくなるには、いくつか必要なものがある。まず、誰もがほしがるが、滅多に手に入らないものがなくてはならない。それが見つかれば、人々がどっとやって来て、管理販売し、相当な利益を得ようとする。コンキスタドールが自国に黄金や銀を持ち帰ったことを考えてほしい。第6章で触れたポトシは銀山があったことで、1620年まで南北アメリカ最大の開拓地として存在した。傑出した好景気国家であった。だが、銀や黄金のほかにも人々が求めるものがあった。
シルクロードを通じて伝えられたアジアの香辛料を思い出してほしいし、あるいはエティオピア南西部のケファの人たちが栽培した赤いベリーを考えてみてほしい。この赤い豆を炒ってみたところ、たちまちヨーロッパ人の好む飲料になった。トルコ人はこれをカフウェ(kahve)と、彼らからそれを学んだオランダ人はコフィ(koffi)と呼んだ。イギリス人はこの飲み物を味わう特別な場所、コーヒーハウスを作った。ピューリタンはこの飲み物を好んだ。アルコール飲料とは違って、これを飲むと頭が冴えるからだ。あるピューリタンの詩人は書いている。「コーヒーが供される。深みのある、健康にいい飲料/腹の具合を整え、天才たちの頭の回転をよくする飲料」
大変な労力を要する仕事であったが、こうして収穫された煙草はイギリスの農場で仕事するよりも5倍から10倍もの利益をもたらした。そしてそれがひとりの労働者でできてしまったのだ。もし10人もしくは20人の労働者を連れてきたらどうなる? さらに10倍から20倍の利益が期待できるわけだ。こうして労働者が何千とバージニアになだれ込むことになった。煙草景気の到来だ。たいていの好景気に見られるように、これも実現には元手がかかり、リスクも高かった。バージニアの人々は、新しく連れられてきた者たちがこの地で1年目に直面する状態に名前を付けた。「研修中」だ。最初の12か月を生き延びられれば、「経験豊かな者たち」に昇格する。この新天地で遭遇するさまざまな危険と天候に順応可能となり、生き延びる可能性が広がったということだ。この地に新たに入った者たちのなかで、蚊が運んでくるマラリア菌におかされて命を落とした者たちは、相当な数にのぼる。同じく水中の細菌がもたらす腸チフスや赤痢で息絶えた者もいる。煙草を植えるためにイギリス人に土地を奪われたことを不服に思うインディアンに殺害された者もいた。1630年代、1640年代、1650年代において、膨大な数の入植者が命を落とした。
バージニアの州名の由来・・・英語で「初めての」という意味の単語「virgin」。 16世紀にイギリスが最初に入植した地として、「バージン・クイーン」の異名を持つイングランドの女王・エリザベス1世にちなんで名づけられました。 この州名にふさわしく、バージニア州はアメリカにとっての数々の始まりに関わってきました。
ほぼすべてのアメリカ人が……に言葉を入れられるだろう。だが、トマス・ジェファーソンが独立宣言を起草する百年前は、「人は皆平等に創られている」などとは誰も信じなかった。第8章で紹介したバージニアの貴族的総督ウィリアム・バークリーであれば、ありがたいことに無意味な考えを流布する「無料学校」もなければ、「印刷物」もない、と間違いなく言ったであろう。 平等であるという考えは、作り出されなければならないものであった。何年も経験を積んで徐々に作り上げられるべきものであった。そして奇妙な言い方になるが、平等であることを理解するには、不平等の歴史も理解しなければならない。北米に住むイギリスの入植者たちは、ただまわりを見まわして、自分たちの世界は不平等であると確信すればよかった。1700年、ニューイングランドのしがない農民や商人や職人たちは、ジョン・ウィンスロップが70年前に言ったことを受け入れたことだろう。神は世界を創り給うた。そこにおいて、ある者は「裕福であり、ある者は貧困で、ある者は高い身分にあり……ある者はみすぼらしく、人に服従する」。煙草を植える者たちも、力のない農民たちも、バージニアやメリーランドに入った年季奉公者たちも、身のまわりにはびこる不平等を見ていた。家柄のいい紳士だけが州の代表になれる。教会ではすべての「身分の低い」者たちが入るまで、プランテーション所有主たちは外で話をしていた。そのあと彼ら「身分のよい者たち」が悠々と中に入っていった。1730年までに、こうした南部初期の植民地にカロライナ(ノースカロライナとサウスカロライナ)が、さらに数年後にジョージアが加わった。サウスカロライナのチャールズタウン(のちのチャールストン)周辺の沼地は、人が生活するにはまったく好ましい場所ではなかったが、コメを育てるのにはいい場所であるとわかったのだ。
ニューネザーランドにはイギリス人もいた。自由思想のためにマサチューセッツから追放された女性宗教指導者アン・ハチンソン(1591~1643)や、酒場の喧嘩で耳を切り落とされたサイモン・ルートという乱暴者もいた。イギリス人は本質的にプライドが非常に高く、すべて自分のものと考えるような者たちだとひとりのニューネザーランドの住民が不満を漏らしたように、オランダ人は基本的に彼らを信用していなかった。そして実際イギリスは、1664年にニューネザーランドに攻撃を仕掛けた。オランダ人はその力に圧倒されて降伏したが、イギリス人は彼らにマスケット銃の弾丸を口に入れるように命じることはしなかった。チャールズ2世は新たに得たこの領土を弟のジェームズ2世(ヨーク公)に与え、この地はヨーク公の名を取って「ニューヨーク」と名づけられた。そしてニューネザーランドの中心地であるニューアムステルダムの町も同じくニューヨークと呼ばれるようになった。
国王とは違い、ペンはすべては自分のものと考えるイギリス人ではなかった。インディアンの土地をたいていのヨーロッパ人より公平な値段で買い上げることもした。ヨーロッパ人がほしいものをただむしり取ることを繰り返していた時代に、である。ピューリタン同様、ペンも自分の植民地は「聖なる試み」と考えた。だが、ひとつにはクエーカー教徒ということがあり、人とは違う行動をとった。多くのイギリス人は、この宗派の人々は最高にまっとうでもっとも危険度も低いと考えていた。
ウィリアム=ペン・・・1644〜1718。イギリスのクエーカー教徒で,ペンシルヴァニア植民地の建設者。チャールズ2世から特許を得て,信仰の自由実現のためクエーカー教徒を率いて1682年に植民を行い,同名の父にちなんでペンシルヴァニア(ペンの森)と名づけた。翌年フィラデルフィアを建設。
クエーカー(Quaker)・・・キリストへの信仰により神の力が人のうちに働くとし、霊的体験を重んじ、教会の制度化・儀式化に反対。 絶対的平和主義を主張し、両世界大戦時に多数の良心的戦争反対者を生んだ。 基督 キリスト 友会。
どんなふうに? 人々がどんな服を着るかは、その地位によって決まった。マサチューセッツ湾周辺では、高級なレースや銀のボタン、シルクのスカーフ、大きな革のブーツといったものを身につけたり、履いたりするのは、法に反した。それが許されるのは、巨大な地所の所有者のみであった。一般人が自分より身分の高い人たちの服装をまねることは禁じられた。手元の金をかき集めてそうした高級品を手に入れたとしても許されなかった。食事の際にどこに座るかも社会的な地位によって決まった。塩を盛った皿は長い食卓の中央に置かれた。高い地位の者はそれに近い「上座」(above the salt)に座った。そのほかの者は「下座」(below the salt)に着いた。日曜日の教会では、身分の高い家族にはよい席が用意された。大学生は外で指導者に会えば、帽子を取った。学長には少なくとも15メートル以上、教授には12メートル以上、指導教官には7メートル以上離れて、帽子を取り、頭を下げなければならなかった。大学において不平等は距離によって推し量られた。
たとえば、フリーランスの人が「会社員として働くことはダサいし、今どきあり得ない」と言ったとします。その後状況が変わり、社会保障などの観点から就職して働くほうが良さそうだと思ったとき、自分に降りかかってくるのは誰の言葉でもなく、自分自身が誰かに投げた鋭利な言葉です。そして、そういった言葉が自分自身の選択を妨げてしまうことは少なくありません。 ここで重要なのは、自分の意見が変わるのは悪くないということです。過去の自分の発言に自分自身が傷つけられたり邪魔されたりする瞬間もあると思いますが、 世のなかの状況は刻一刻と変わっているので、価値観も変化して 然るべき です。 それと共に、過去の選択のぬるさに自分で嫌気がさすこともあるでしょう。でもその選択も、きっとそのときの自分にはベストだったのだと思います。過去は変えられませんし、現在とでは状況がまったく違います。過去の発言やアクションに自ら足を引っ張られることは減らしていきたいですね。
ベンジャミン・フランクリン (1706~1790)・・・アメリカの政治家、アメリカ合衆国建国の父。ボストン生まれ、12歳で印刷出版業に勤務し、フィラデルフィアへ
移ったのち米国初のタブロイド誌発行や公共図書館を設立。その後フィラデルフィア・アカデミー(現在のペンシルべニア大学)を創設した。1775年~1783年のアメリカ独立戦争中は欧州諸国との外交交渉に奔走し、フランスの協力・参戦と他の諸国の中立を成功させた。
印刷業もつづけながら、1731年、25歳のときに、本を買えない人たちが読書を楽しめるようにと、フィラデルフィアに「公共図書館」を設立する。さらに、貧しい人たちのために無料病院を開き、ボランティアの消防団も組織した。そして1748年、42歳の時に印刷業から手を引き、公職に専念する。ペンシルヴェニア郵便総局長を務め、ニューイングランド=ジョージア間の郵便ルートを整備した。特に政治学に興味を深めた。自然の法則が発見できるのであれば、政治の自然法則も目の当たりにできるのではないか?
スペインは大昔にフランスをフロリダから追い出したが、そのフランスが今度は北の裏口を通ってアメリカに戻ってきた。セントローレンスは深くカナダの森林部から曲がりくねって流れ落ちてくる川であるが、フランスの探検家たちはこの流れに沿って上流に向かい、流域にニューフランスの植民地ケベックとモントリオールを設立した。さらに西では、商人たちが五大湖周辺を転々と移動しつつ、斧やナイフや銅を、インディアンが所有するビーバーの毛皮と交換した。フランスではビーバーの毛皮がファッショナブルな帽子に変わったりしたので、これは重要な取引に発展した。フランスの貿易商は「森のなかを走る者たち」を意味するcoureurs de bois(罠猟師、毛皮交易商人)の名で知られたが、彼らは効果的に移動できるようにインディアンの服を身につけた。温暖な天候時にはアメリカシラカンバで造ったカヌーに乗り、冬になると生皮をひもで締めたかんじき(テニスラケットのような形状をしたもので、 靴の下にくくりつけて用いる)を履き、雪上を移動した。彼らはフランシスコ会士によく似た宣教師集団イエズス会士とも交流した。
ビーズのネックレスのようにつながるフランスの植民地の中央には、アパラチア山脈から流れ出し、ミシシッピ川に注ぐオハイオ川があった。オハイオ領土は美しい森もあれば、猟に出ればたくさんの獲物が手に入ったし、よい農場になる牧草地も広がっていた。残酷なビーバー戦争によってこの地域は無人の土地になったが、インディアンもフランス人もイギリス人もその地を手に入れようとした。そしてふたつの川がそのオハイオで交わる場所に、イギリス人の商人たちは砦を築いた。
クリーブランド・キャバリアーズ(Cleveland Cavaliers)・・・アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド市に本拠を置く全米プロバスケットボール協会(NBA)のチーム。
ふたたび代表も持たずに課税されることに対する抗議が起こった。ふたたび自由の息子たちと、さらに今度は自由の娘たちが組織するボイコット運動がそれぞれ起こった。彼女たちはイギリス製の毛織りの衣類は買わず、自分たちの紡ぎ車で手織りの服を編んだ。3年間もめたのち、タウンゼンド諸法はほぼ撤廃された。だが、本国議会はひとつだけ税を残し、権威を示そうとした。茶税だ。アメリカ入植者たちはそれを払いたくなかったが、イギリスの茶は好きであった。それから数年間、植民地と本国の関係は比較的穏やかであった。 だが結果として、紅茶も問題を引き起こした。東インド会社はイギリス最大の茶の貿易会社であったが、当時窮状にあえいでおり、本国議会は1773年、その援助に乗り出した。この年に制定された新しい茶法により、東インド会社はアメリカ植民地への茶の独占販売権および直販が認められた。この新制度によって、植民地側には税が引きつづき課せられたものの、紅茶の値段は実質大幅に下落することになった。
しばらくは合衆国銀行がなくてもうまくいった。だが、時に横暴なやり方をしてはいたものの、合衆国銀行は重要な役割をはたしていたのだ。その手引きを失い、経済はついに破綻した。この1837年恐慌に比べたら、先の1819年恐慌など穏やかなものだったと感じるほどに。その頃ジャクソンはもはや大統領ではなく、マーティン・ヴァン・ビューレンがその後を引き継いでいたが、この「小さな手品師」は悲しいことに、民衆に新しいあだ名をつけられた。マーティン・ヴァン・ルイン(破産)……。
何世紀にも渡って、人類はこの植物の白い繊維を紡いで糸にし、それを織って布にしてきた。だが、そのべたべたする種子を摘むのは実に退屈な重労働だ。1770年代頃には、1日に18キロほど綿を脱穀できる簡単な機械が発明されていた。この数字は、コネチカット州出身のイーライ・ホイットニー(1765~1825)ほかの発明家たちによって綿繰り機(「ジン」は「エンジン」を縮めた呼び名)が発明されたことで、1793年以降、1日に900キロ以上と、飛躍的に増大することになる。突然、労働者がふたりいれば、それまでの50倍もの綿を脱穀できるようになったのだ。
言うまでもないが、北部はあまりに寒く綿は育たない。だから奴隷制度を放棄した。北部人は声高に平等を唱えた。自分たちは南部とは違う――この考えは北部人にとってなんと心地よいことであったか! そしてどれだけ誤った考えであったか。というのは、合衆国には綿の王国がひとつではなく、ふたつできつつあったからだ。南部の王国は黒土地帯に沿って何キロも伸びていた。北部の王国は屋内にあり、こちらで目に入る黒い帯と言えば、紡績機にスイッチを入れると、ブーンと音を立ててまわりながら、白い糸を紡ぐはずみ車だった。どちらの王国も相手がいなければ存続できなかった。南で綿を収穫し、北でそれを紡いで織ったのだ。北部人はこの自分たちの王国の発展のためにあくせく働かねばならなかった。彼ら北部人は岩の突き出す土地や冬の寒さと戦い、常に生活のために苦闘した。使い道のない氷をかき集め、材木置き場から持ってきた無用のおがくずに詰め、急いで南部に送るなど、ヤンキー以外の誰がするというのか?
預言者のなかには、理想郷的な共同体――俗世から離れて新しい生活様式に身を置こうとする信者たちの共同施設――を建設する者もいた(ギリシャ語の「理想郷」は「どこにもない場所」を意味し、そうであればこうした共同体は少なくとも通常の世界には存在しえないことになる)。エマーソンは試みなかったが、ほかの超絶主義者は「ブルック・ファーム」や「フルーツランド」といった共同体の運営をはじめ、食物やともに働いた成果を分けあった。
また、アルコールの危険を警告する運動家もいた。植民地時代もアメリカ人はアルコールを普段からよく飲んでいた。だが、産業革命の頃、特に男性の酒量が急増した。1790から1820年のあいだ、アメリカ人は後にも先にもないほど大量のアルコールを摂取した。ラム酒が一般的だった植民地時代と違って、あらゆるところにウィスキーが広まったように思えた。極貧の農家でも製造でき、ラム酒のようにカリブ諸島の糖蜜を使わずにすむからだ。ところが、この新しい飲酒の習慣はおびただしい数の悲劇を招いた。犯罪の勃発、殴られ、捨てられる妻、虐待される子供たち。ロチェスターでの信仰復興会合の際、聖職者たちが口を極めてアルコールの害を語ったため、商人たちはウィスキーの樽を道にころがしてかち割り、中身を出した。数年のうちに、アメリカ人のアルコール摂取量はそれまでになく減少した。
妥協は崩れた。奴隷制度を取り囲もうと引かれた境界線は何度も何度も交差した。1860年、共和党は明晰な目で問題を捉えていたひとりの男を大統領候補に指名した。彼の名はエイブラハム・リンカーン(1809~1865)。奴隷州であるケンタッキーで生まれ、自由州であるインディアナとイリノイの粗末な小屋で育ったひょろりと背の高いこの少年は、正式な学校教育はほとんど受けていない。だが、ひとりで本をたくさん読んだ。弁護士、のちに政治家となったあともケンタッキー訛りは消えることがなく(言ってみれば「そこ」を「ぞこ」、「聞いた」を「けいた」、「できる」を「でける」と発音するようなものだ)、かん高い声で話すので洗練されていない印象を与えることもあったが、ユーモアのセンスで聴衆を惹きつけた。そして言葉は論理的だった。リンカーンは、奴隷制度をあるべき場所にとどめておき、壁を作って囲み、意見が食い違うことに同意するのがどれほどむずかしいか認識していた。「分断された家」という有名な演説のなかで、聖書から格言を引いてこう言っている。
次に何が起きるか、はっきりわかっている人は誰もいなかった。深南部の州の分離の知らせを初めて聞いたとき、リンカーンはこれをはったり――北部をさらに妥協に至らしめるための――だと考えた。そして歩み寄りのために、逃亡奴隷法を施行すること、さらにはすでに奴隷制度が存在する州ではこれを廃止しないと保証した憲法修正案の後押しも約束した。リンカーンはほとんどの南部人が連邦からの脱退を望んでいないと信じていたし、実際そのとおりだった。危機的状況に陥ったのは、あるジョージア人がぼやいたように、「お偉いさんたち」のせいだった。この男性が指していたのは裕福な奴隷所有者のことである。1861年3月にリンカーンが就任の宣誓を行なったとき、北寄りの南部8州は脱退すべきか否かまだ決めかねていた。
エイブラハム・リンカーン・・・アメリカ合衆国第16代大統領で、2期にわたり大統領を務めた人物です。 「奴隷解放宣言」を行い、圧倒的支持を集め、再選しました。 また、南北戦争では北部を勝利に導き、アメリカ統一を成し遂げました。 アメリカ国内では「史上最高の大統領」とも呼ばれています。
【初代 ジョージ・ワシントン】
ジョージ・ワシントンと言えば、初代アメリカ大統領です。テストなんかでは、「初代アメリカ大統領は?」という問題の出題のされ方をします。実績というか、最初の大統領というのがポイントになります。
【16代 エイブラハム・リンカーン】
リンカーンと言えば、「人民の人民による人民のための政治」の演説で有名で、南北戦争では、北軍を勝利に導きました。
【26代 セオドア・ルーズベルト】
ルーズベルトと言えば、26代のセオドア・ルーズベルトと32代のフランクリン・ルーズベルトの2人がいますが、このセオドアの方は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の仲介をしています。
【28代 ウッドロー・ウイルソン】
ウイルソン大統領は、第1次世界大戦後、戦争の悲惨さに目を向け、世界平和を実現するため国際連盟を提唱したことで知られています。
【32代 フランクリン・ルーズベルト】
2人目のルーズベルトのフランクリンの方は、世界恐慌後のアメリカで、ニューディール政策を行いました。
【33代 ハリー・トルーマン】
1945年、日本は、ポツダム宣言を受け入れて戦争は終わりましたが、この時のアメリカの大統領です。
【35代 ジョン・F・ケネディ】
多くの方が、ケネディ大統領と言うと、テレビで暗殺された場面が放送されたのを見たことがあるでしょう。キューバ危機の時の大統領です。
37代 リチャード・ニクソン
ニクソンは、ベトナム戦争から完全撤退を実現し、ソ連や中国との緊張緩和に努めました。
【41代 ジョージ・ブッシュ(父)】
41代ジョージ・ブッシュと43代ジョージ・ブッシュは、同じ人ではありません。親子です。親子で同じ名前というのも面白いですが、親子ともアメリカ大統領というのもすごいですね。この父の方のジョージ・ブッシュの時に、冷戦が終結しましたが、湾岸戦争が始まりました。
【43代 ジョージ・ブッシュ】
41代ジョージ・ブッシュの子で、同時多発テロが起こり、アフガニスタン攻撃、イラク戦争へと突入しました。
【44代 バラク・オバマ】
黒人初のアメリカ大統領です。ノーベル平和賞を受賞しました。
【45代 ドナルド・トランプ】
現在の大統領です。
「それは、戦死者の死を決してむだにしないために、この国に神のもとでの自由の新しい誕生を実現させるために、そして、人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために、われわれがここで固く決意することであります」
リンカーンは人の扱いが上手だった。進んで人と話し、多くの問題に歩み寄りの姿勢を見せたが、引くべきでないときは決して譲らなかった。彼は逝ってしまった。そして後任の大統領はまったく異なる人物であった。
学校について言えば、戦前の奴隷は本を読んでいるのを見つかっただけで、鞭打たれることもあった。再建がはじまり、北部の教師や宣教師が南部にやってきて、大学も含む各学校が開校した。黒人たちは「学びたがっている」などという程度の話ではない、とバージニア州の学校職員は報告している。「どうしようもないほど学ぶことに飢えている」。実際、彼らのなかから教師になる者もたくさんいた。
アンドリュー・カーネギー・・・カーネギー鉄鋼会社を創業し、成功を収めて「鉄鋼王」と称された。立志伝中の人物であり、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪とされる。事業で成功を収めた後、教育や文化の分野へ多くの寄付を行ったことから、慈善活動家(フィランスロピー)としてよく知られ、1889年に著した『富の福音』はフィランスロピーを志す人々への啓蒙書となっている。1870年代にピッツバーグでカーネギー鉄鋼会社を創業、1890年代には同社が世界最大で最も高収益な会社となり、事業で得た富でカーネギー・ホールなどを建てている。積極的に慈善活動を行い、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー教育振興財団、カーネギー博物館などの創設に資金を提供した。
アンドリュー・カーネギーは、叔父の勧めもあってオハイオ電信会社のピッツバーグ電信局で電報配達の仕事に就く(週給2.50ドル)[6]。この仕事は劇場にタダで入れるなどの役得があり、そのおかげでカーネギーはシェイクスピア劇のファンになった。彼は非常に働き者で、ピッツバーグの企業の位置と重要な人物の顔をすべて記憶した。そうやって多くの関係を築いていった。また、自分の仕事に細心の注意を払い、当時の電信局では受信したモールス信号を紙テープに刻み、テープからアルファベットに解読して電報を作成していたが、カーネギーはモールス信号を耳で聞き分ける特技を身につけ、1年以内に電信技士に昇格した。ジェームズ・アンダーソン大佐は、働く少年たちのために毎週土曜の夜に約400冊の個人的蔵書を開放しており、カーネギーはそこで勉強し読書好きになった。彼は経済面でも知的・文化的面でも借りられるものは何でも借り、独力で成功を導いた。その能力、重労働を厭わぬ自発性、忍耐力、用心深さは、間もなく好機をもたらした。
カーネギーは実業家として優れていただけでなく、人間的な魅力と文学的素養も備えていた。多くの社会的行事に招待されるようになり、それをうまく利用した[10]。
カーネギーはその後も実業家として活動し続けたが、文学的関心も満たすようになった。イギリスの詩人マシュー・アーノルドやイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーを支援し、歴代のアメリカ合衆国大統領[15]や政治家や著名な作家とも親交した[16]。
1879年、故郷ダンファームリンに水泳プールを建設。翌年には、ダンファームリンに無料図書館を建設するために4万ドルを寄付した。1884年、ニューヨーク大学医科大学院の前身であるベルビュー病院医科大学に5万ドルを寄付し、組織学の研究所を創設した(現在カーネギー研究所と呼ばれている)。
1881年、70歳の母を含めた一家でイギリスへ旅行した。馬車でスコットランドを巡り、各地で歓迎された。故郷ダンファームリンへの凱旋がクライマックスであり、そこでカーネギーの寄付で建設されるカーネギー図書館の礎石を母が据えた。カーネギーはイギリス社会に批判的だったが、イギリスを嫌っていたわけではない。むしろ、英語圏の人々の関係強化のために触媒として働こうと考えていた。そのため、1880年代初めに彼はイングランドの複数の新聞を購読している。それも全て君主制を廃止して「イギリス共和国」を創設しようと主張している新聞だった。首相ウィリアム・グラッドストンを含め多くのイギリス人の友人がいた。
1886年、Triumphant Democracy(民主主義の勝利)と題した当時としては過激な本を書いた。統計などを駆使し、イギリスの君主制よりもアメリカの共和制のほうが優れていると主張した本である。アメリカの発展を好意的かつ理想的に捉え、イギリス王室を批判している。表紙にはひっくり返った王冠と壊れた王笏が描かれていた。この本はイギリスで大きな議論を呼んだ。アメリカでは好意的に受け入れられ、4万部を売り上げた。
1889年、North American Review 6月号に "Wealth" と題した記事を掲載[17]。これを読んだウィリアム・グラッドストンはイングランドでの出版を持ちかけ、Pall Mall Gazette に "The Gospel of Wealth"(富の福音)として掲載された。この記事も大いに議論を呼んだ。カーネギーは裕福な実業家の人生は2つの部分から成るべきだと主張している。1つめは蓄財の期間、2つめはその富を大衆に分配する期間である。カーネギーは人生を価値あるものとする鍵はフィランソロピーだとした。
1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している[40]。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」と書いている。しかし、彼が最初に慈善活動を行ったのは1881年のことで、故郷ダンファームリンでの図書館建設だった[41]。死の際にやむなく行う遺贈ではなく、生存中に活用先への責任を持ちながら行った、スタンフォード大学の創設者スタンフォードのような例を模範として実践した。
彼は著書『富の福音』のなかで、「裕福な人はその富を浪費するよりも、社会がより豊かになるために使うべきだ。」と述べている。
1908年、カーネギーは当時ジャーナリストだったナポレオン・ヒルに500人以上の裕福な成功者にインタビューして成功の共通点を見つけることを無償で依頼した。結局ヒルはカーネギーの協力者となった。彼らの成果はカーネギーの死後に The Law of Success (1928) と Think and Grow Rich (1937) というヒルの著作として出版された。特に後者は初版以降絶版になったことがなく、全世界で総計3000万部を売り上げている。1960年、ヒルはカーネギー式の蓄財法についても記した簡易版を出版している。長らくそれが入手可能な唯一の版だった。2004年、ロス・コーンウェルが Think and Grow Rich!: The Original Version, Restored and Revised を出版。これは本来の版を若干改訂したものに詳細な巻末注と索引と付録を追加したものである。
彼はまた英米関係の友好促進を唱えながら、イギリスの階級社会を批判する本を出版して議論を呼んでいる[69]。
アメリカが外国を併合しようとする件では、カーネギーは常に反対の立場だった。ハワイ、グアム、プエルトリコの併合には反対しなかったが、フィリピン併合には反対の立場を貫いた。フィリピン人が独立を求めて戦ったので、カーネギーはその島を征服することは民主主義の根本原則に反すると信じ、米軍を撤退させフィリピンを独立させることをウィリアム・マッキンリーに進言した[70]。この行動は反帝国主義的な他のアメリカ人に感銘を与え、アメリカ反帝国主義連盟の副会長に彼が選ばれることになった。
彼の様々な慈善活動の中でも突出しているのは、アメリカ合衆国、イギリス、他の英語圏の国々での公共図書館設置である。それらはカーネギー図書館と呼ばれ、数多くの場所に建てられた。最初の図書館は1883年、故郷ダンファームリンで開館した。彼の手法は、地元の自治体が土地と運営予算を用意できた場合だけ、建物と初期の蔵書を提供するというものだった。地元に対しては、1885年にピッツバーグに公共図書館用に50万ドルを寄付し、1886年にはアラゲイニーに音楽ホールと図書館用に25万ドルを寄付し、エディンバラにも図書館用に25万ドルを寄付した。全部で3,000弱の図書館の設立資金を提供しており、アメリカ47州、カナダ、イギリス、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランド、西インド諸島、フィジーに建設された。また、1899年にはバーミンガム大学創設資金として5万ポンドを寄付している[23]。
19世紀末のアメリカでは、無料図書館を市民に開放すべきだという考え方が一般にみられた[24]。しかし、理想的な無料図書館のデザインについては白熱した議論が戦わされていた。図書館の専門家は管理運営を効率化できるデザインを要求していたが、一方で篤志家らは温情主義的で市民の誇りとなるような建物を好んだ。1886年から1917年にかけて、カーネギーはその両者の考えを折衷し、図書館の慈善的な面と効率的デザインを追求した。
ニューヨーク州のブルーム郡公共図書館は1904年10月に開館した。当初はビンガムトン公共図書館と呼ばれ、カーネギーの7万5千ドルの寄付で建てられたものである。この建物は公共図書館と公民館として使えるよう設計された。
工場の仕事がすべて過酷だったわけではない。煙草を巻く仕事はみすぼらしいアパートでするのには過酷な労働だったかもしれない。夜は親子3人が寝る小さなアパートで、昼は週3000本の煙草を生産する作業をしていたのだから。だが、プエルトリコ人やキューバ人が多く働く大規模な煙草工場では、朗読者、つまり本を読む人を雇うことが許されていた。こうした朗読者はテーブルの端に座り、労働者が楽しく就業時間を過ごせるようにと新聞や小説を読み上げたのだ。ニューヨーク州トロイの襟工場の女たちは、歌を歌うことも許された。
3つの大きな恐慌、または不景気がアメリカを襲ったのは、まさにこうした時代、すなわち1873年から1879年、1882年から1885年、1893年から1897年であった。
時にはアメリカでも意外な場所が地上でもっとも急速な発展を遂げた。意外だという理由は、ジョージ・ワシントンが大統領に就任した頃、そこにはふたりしか住んでいなかったからだ。ジャン・バティスト・ポワン・ド・サーブル(1745~1818)という名のフランス系黒人の毛皮職人と、ポタワトミ族のインディアンの妻キチハワ(1788~1818)がいただけだった。彼らの5部屋ある小屋はミシガン湖へ流れ込むシカゴ川の近くに建てられていた。東部からアメリカ人が大挙してこの開拓地にやってきたが、それはアンドリュー・ジャクソンが1830年にインディアン移住方針を打ち出し、ポタワトミ族をミシシッピ川の向こうに追いやったあとのことだ。都市の成長は1871年の大火で中断した。強い風によって炎と火花が屋根から屋根に飛び移り、10万人が家を失ったが、シカゴは見事な復興再生を遂げた。1890年には100万人を超える住民を抱える都市に成長したのだ。アメリカを作り直す新しい都市の完璧な象徴となった。
「内と外へ」。都市が大きくなり、町の端から端まで徒歩で移動することは容易でなくなった。人々がもっと迅速に移動できるように、初めは鉄路に沿って馬が引く路面電車が登場した。だが、シカゴほどの規模になると、6000頭もの馬が要り、その餌も世話も必要となる(悲しいことに、1871年の大火で多くの馬が死んでしまった)。代わりに「ダミーズ」と呼ばれる小型の蒸気機関車が試験的に導入されたが、これは煙や火花を出した。最終的にエンジンから煙が出ない電動トロリー車が登場し、これが広く用いられることになった。ニューヨークやほかの大都市と同じように、シカゴにも街のなかにも外にも人を運ぶために、通りの上に高架鉄道が建設されることになった。この「エル」が開通したことで、大通りの混雑は緩和された。その後、同じく電気エンジンは地下トンネルの空気を汚さないということで、地下鉄も設置された。
鉄道は新しい都市の内と外へ、ますます多くの人々を運んだ。いちばん簡単な言葉で言えば、都市は仲介役として機能することで成長する。何かの原材料を探しに行くとしよう。たとえば樹木。小麦や牛でもいい。こうしたものを街に持ち込み、もっと金銭的価値のあるもの、たとえば小麦粉や木材などに変える。そしてこうしたものを必要とする人たちに届ける。内と外へ。シカゴの位置はまさしく仲介役に理想的であった。五大湖のほとりにあり、船は港を出て、活気あふれる東部に向かった。鉄道路線は車輪の軸のように広がり、国の両側半分をつなぎあわせた。列車が何百万頭もの牛を運んだ。何頭もの牛が屠られ、切り分けられ、グスタフ・スウィフト(1839~1903)が発明した冷凍車両にその肉は乗せられて東に出荷された。小麦やオーツ麦や大麦がシカゴに流れ込んできて、揚穀機を使って種別や品質ごとに選り分けられた(実際、この市では人と同じように穀物を移動させるのにもエレベーターが必要だった)。シカゴの北、ミシガン州とウィスコンシン州では、堂々たるストローブマツが切り倒され、ソリに載せられて森の凍った道を通り、川に浮かべられてミシガン湖まで運ばれた。湖畔の工場でこれが丸太に切り出され、シカゴに出荷された。シカゴは昼夜を問わず活気にあふれていた。続きを読む投稿日:2024.04.05
【若い読者のためのアメリカ史】
歴史の面白いところの一つとして、今では"普通"の考え方や技術なんかが生まれてきた潮流やその衝撃を感じ取れることがある。近代世界の首領であるアメリカの歴史であればなおさら…、熱量を感じ取りやすいところも多い。(だからアメリカのこと書いた本が好き。多分。)
アメリカ史関連では、【アメリカ経済 成長の終焉】を読んだときはテクノロジーと経済成長、さらに前の【アメリカは食べる。】では各国文化が混ざり合う中での食文化の発展、【1493】では"新大陸"発見以後の物流の発展を読んだ。この本では、アメリカが発展するダイナミズムを概観する中での、個人の物語を読めた。いろんな背景を持つ人々が、どんな自由、どんな平等を求めて動いてたのか、なんというかライブ感あった。
#読書 #歴史 #アメリカ続きを読む投稿日:2019.08.25
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